2016/07/30

「生前退位、憲法に抵触」 とは、「お前が言うな!」 と政府に言いたい

NHK が "憲法抵触を懸念=生前退位 「お気持ち」表明で-政府" というニュースを伝えている。要するに政府は、陛下の 「お気持ちの表明」 が 「天皇の政治的行為を禁じた憲法 4条に抵触する事態を招かないか」 と懸念しているというのだ。

「おいおい、そりゃ虫が良すぎるだろう!」 と私は思う。安保法制とやらで 「集団自衛権」 などという、明らかに憲法に抵触する事案を妙な解釈で 「合憲」 と言い張りながら、天皇陛下の率直なお気持ち表明を 「憲法に抵触」 とは、「お前が言うな!」 と一喝したいぐらいのものだ。

私は立憲君主制を支持し、さらに何度も表明している通り改憲論者でもある。しかし安倍政権は 「改憲」 を謳い文句にしながら、「集団的自衛権」 という重要な案件を、現憲法の無理矢理な解釈変更で押し通してしまった。一内閣の一方的な解釈で憲法の骨組みがぐしゃぐしゃになるなら、ことさらに 「改憲」 なんて言わなくていい。そのせいで憲法の総合的な筋はどんどん通らなくなるが。

安倍政権とその取り巻きは 「美しい国」 などと言い、天皇制をかけがえのないもののように主張しているが、実は天皇を政治利用したいだけなのではないか。彼らの政治スケジュールを遂行するにあたり、天皇の 「生前退位」 という重要な問題の審議は 「邪魔」 でしかないのかもしれない。

政府の対応をみていると、「天皇は我々にとって利用しやすい存在であってくれさえすればいい。あとはおとなしく決まったことだけやっといてくれ」 とでも言いたいのではないかと疑うほどだ。そうでなかったら、「生前退位」 ぐらいはお得意の 「解釈改憲」 で何とでもなるではないか。

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2016/07/29

子どもに物事を説明するのは、実は難しい

NHK ラジオ第一放送で 「子ども科学電話相談」 というのをやっている。夏休み特別企画として、毎年やっているようだ。

子どもの電話相談といえば、TBS の 「全国こども電話相談室」 というのが元祖的存在で、独特の語り口の無着成恭先生や永六輔さんらが、素晴らしい名解答を連発してくれていた。ところが今はリニューアルして、「全国こども電話相談室・リアル」 という番組になり、悩める子どもの人生相談番組となっている。

考えてみればそれも当然で、今どきはちょっと気の利いた子どもだったら、単純な疑問ならインターネットで調べる方がずっと手っ取り早いと知っている。TBS が 「元祖・こども電話」 をインターネットでは解決の難しい悩みごとの相談に特化させたのは当たりだったと思う。

とはいえ、今となっては伝統的スタイルともいえそうな、「ちょっとした疑問」 の答えを、電話でその道の専門家に聞いてみるというのも、悪いものじゃない。大人が聞いていても、とても素朴な疑問の解答が思っていたよりずっと深いものだったりして、「へえ、そうだったのか!」 と驚くことがある。なかなか馬鹿にできない。

今日の朝に聞いていたところ、「どうして宇宙船の中では人間が浮くんですか?」 という質問があった。もろ文系の私なんか、「無重力状態だからね」 と軽く済ませてしまうところだが、実はそんな単純なものではなかったのである。

番組回答者、国司眞先生の模範解答によると、宇宙空間では地球の引力がとても小さくなるが、ゼロになったわけじゃなく、まだ少しだけ地球に引っ張られている。しかしそれに対して地球を廻る宇宙船には遠心力という地球と逆方向に引っ張る力も働いていて、この地球の引力と遠心力が釣り合っているので、宇宙船の中では人間が浮いていられるというのだった。なるほど、そうだったのか。

ところが残念なことに、国士先生のこの説明は相談した子ども (5歳ぐらいだったかなあ) にはちょっと難しかったらしく、進行係のおねえさんが 「わかった?」 と聞くと、悲しげに 「わかんない」 と言うのである。で、国士先生は縁日のヨーヨー釣りの例まで持ち出して、なんとかわかったような、わからないようなという線までもっていって、けりをつけていた。

そこへ行くと、昆虫関係の回答者、丸山宗利先生の、「昆虫はどうして足が 6本なんですか?」 という質問への解答は見事だった。この質問に対しては、素人の私でも 「それは論理が逆で、昆虫はなぜ足が 6本か? なのではなく、足が 6本の虫を昆虫と分類してるんだよ」 という答えを用意できる。

丸山先生はさすが昆虫学者で、解答がそれより行き届いていて、「体が 3つに分かれていて、足が 6本の動物を昆虫って言ってるんだよ」 と答えられた。模範解答である。しかしそれだけでは済まない。さらに 「もうちょっと深く言っていい?」 と聞くのである。その 「もうちょっと深い話」 というのは、こういうことだった。

昆虫の体は、頭、胸、お腹の 3つの部分に分かれていて、頭は司令塔、胸は運動の役目、お腹は消化、卵を産むなどの役目をもつ。そして胸部分は、「前胸、中胸、後ろ胸」 の 3つのパーツでできていて、それぞれから左右に 2本ずつ足が生えているんだそうだ。これは私も知らなかった。そして、足が 6本というのは、運動するのにとても安定して都合がいいので、この方向で進化したというのである。

この解答には質問した子もとても納得していた。

「頭の良さ」 ということのかなりの部分は、「自分で理解していることを、いかにわかりやすく説明できるか」 ということだと思っている。つまり 「言語能力」 が重要なのだ。「わかったつもり」 になっていることでも、 「平易な言葉での言い換え」 ができなかったら、それは本当に理解しているとは言いにくい。

物事を堅苦しい術語でしか語ることができないとしたら、それは実は理解しているのではなく、「そのプロセスに慣れてしまっているだけ」 なのだ。小さな子どもに物事を説明する羽目に陥ってしまった時こそ、本当に深く理解しているかどうかが試されてしまう。

そしてやさしい言葉で言い換えるという困難な技を駆使しつつ、何とか順序立てて説明することで、自分自身の理解も深まったりする。本当に役立つ知見とは、そういうものだ。

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2016/07/28

ようやく梅雨が明けたのだが

関東甲信は今日梅雨明けしたようだ。平年より 1週間遅く、昨年と比べると 20日も遅い。まあ、8月にずれ込まなかっただけ幸いである。

昔は 「梅雨明け十日」 などと言って、梅雨明けしたら安定した晴天が 10日間は続くとされていた。実際に、梅雨明けした途端に急に夏になったような気がしたものである。ところがラジオの気象予報士によると、「今年は、『梅雨明け 3〜4日』 ということになりそうです」 という。

安定した晴天はそれほど続かず、来週あたりからまた天気がぐずつきそうだというのだ。それほど暑くならずに済むのかと期待して聞いていたら、さにあらず。日照時間が少ない割に気温は高めで推移するという。要するに蒸し暑くなるというわけだ。最悪じゃないか。

ちなみに 「今年は、『梅雨明け 3〜4日』 ということになりそうです」 なんて、いかにも特殊な夏のように言っているわけだが、最近では毎年そんな感じという印象が強い。梅雨入りが宣言されるとすぐに天気が回復して晴天が続き、梅雨明けになっても天気はそれほどもたない。昔の常識が通じない天気になっている。

地球全体の気象が、ちょっと変わって来てしまっているのだろう。「地球温暖化」 なんていうより、「気象変化」 という方がしっくりくる。「2〜30年に 1度」 というほどの異常気象が毎年出現しているのだから、気象のメカニズムはよほどおかしくなっているのだろう。何があっても驚かない覚悟を決めておくほうがいい。

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2016/07/27

いいネタを思いついたのだが

実はこのブログを書くにあたって、少しストレスが溜まっている。いや、書くのが嫌になったというようなことじゃない。3日前の日曜日、高速道路を運転しながらちょっといいネタを思いついた。それも 1つじゃない。1度に 2つも思いついたのだ。

しかし高速道路を運転しながらのことなので、ちょっとクルマを停めてメモするというわけにもいかない。「ああ、メモしたい、早く高速道路を降りてメモしたい」 と思いつつ、ようやくインターチェンジを降りた。あとはコンビニに寄って買い物をする前に、駐車場でちょっと iPhone の 「メモ」 アプリを立ち上げ、ちょいちょいっと書き留めるだけだ。

ところが何たる不覚か、コンビニで買い物を済ませてクルマを発進させて間もなく、「しまった!」 と思った。時間に迫られていてさっさと買い物をしようとするあまり、せっかくの思いつきのメモを忘れてしまっていたのである。

「しかたがない。着いたらさっそくメモしよう」 と思いながら、急いで目的地に着くと、いきなり待ち構えていたスタッフに相談事を持ちかけられ、それを終えるともうミーティングの開始時間になっていた。

というわけで、ミーティングが終わった時には、せっかくの思いつきを綺麗さっぱり忘れてしまっていたのである。だから、思いついたことはすぐにメモしなければならないと、常日頃から心がけているのだ。ところが、そのメモすることすら忘れてしまうようでは、さすがに還暦過ぎである。物忘れがひどくなったのかもしれない。いや、こうしたうっかりは若い頃からでもあるのだが。

こんなことがあると、何を書いてもつまらないネタのように感じられる。「あの時に思いついたネタは、ヒット間違いなしだったのに!」 と、悔やんでも悔やみ切れない。もう本当にストレスである。

これからは、いいネタを思いついたらなんとかして早めにメモすることにしよう。そうしないと、ストレスを長く引きずることになってしまう。今回はネタを忘れたことをネタにしてちょっとだけ元を取ったがわけだが、この手はそう何度も許されることじゃない。

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2016/07/26

私の誕生日は梅雨明け直後が多いのだが

誕生日である。この年になると誕生日だからといって家族で会食するでもなく、朝から淡々とたまった仕事をこなしているうちに、いつの間にか日が暮れている。まあ、64歳にもなれば、誕生日なんてこんなような呆気ないものなのだろう。

昨日はすっきりとした晴天だったが、今日は朝から降るような降らないような、はっきりしない天気が続いた。西日本と北陸は梅雨が明けているが、関東甲信と東北の梅雨明けは平年より遅れている。自分の誕生日はいつも梅雨が明けて強烈な太陽が照っているという印象なのだが、もしかしたらそれは単なる思い込みかもしれないと、気象庁のサイトで調べてみた。

一応、1971年春までは故郷の庄内で暮らしていたので、1952年から 1970年までは東北南部、1971年以後は関東甲信のデータを見ると、私の誕生日以後に梅雨が明けた年は、以下の 9回 (括弧内は梅雨の明けた日付)。単純計算で 7年に 1度以下である。自分の誕生日は太陽ギラギラという印象は、まんざら間違いじゃないようだ。

東北南部: 1957年(7月29日ごろ)

関東甲信: 1971年(7月 29日ごろ)、1982年(8月 4日ごろ)、1986年(7月 27日ごろ)、1988年(7月 31日ごろ)、1998年、2003年(いずれも 8月 2日ごろ)、2006年(7月 30日ごろ)、2007年(8月 1日ごろ)

1993年は梅雨明けのデータなし。つまり梅雨明けしないうちに真夏が過ぎ、秋になったということらしい。

興味深いことに、生まれてから 1970年までの 18年間で私の誕生日までに梅雨が明けなかったのは、たった 1度だけだが、それ以後は 46年間で 8度と、少し増えている。とくに 2003年以後は、今年も含めると 13年間で 4回と、3年に 1回のペースに近付くまで頻度が上がっている。やはり近年になるほど天候は不順になっているようだ。

ちなみに今年の梅雨明けはいつになるのだろう。天気予報をみると、明日からは晴れマークの日が続く (「曇り時々晴れ」 を含む) から、近いうちに 「梅雨が明けたとみられる」 というニュースが報じられるかも知れない。

今年は 8月初めと中盤に、関西方面に出張する予定になっている。さぞかし暑いだろうなあ。

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2016/07/25

オリンピックと私

私の誕生日は 7月 26日で、ミック・ジャガーと同じ日に生まれたというのが密かな自慢ということはちょっと置いとくとしても、実は明日が誕生日なのである。そして 12年も前に書いたように (参照)、日本人は民法によって、誕生日の前日に年をとるということになっていて、ということは、私は既に 64歳になってしまったのである。

で、さらに言うと、私の生まれた年はヘルシンキ (フィンランドの首都ということを、案外知らない人が多い) でオリンピックが開かれていて、その会期は 7月 19日から 8月 3日までだった。ということは、私はヘルシンキ・オリンピックの真っ最中に生まれたのである。

当時の東北では、産婆さんを呼んで自宅で出産するというのが当たり前のことで、私も当然自宅で生まれた。母の陣痛が始まって産婆さんが駆けつけた時、ラジオではオリンピック水泳競技の男子 1500メートル自由形決勝が実況されていた。この競技で日本の橋爪功選手が銀メダルを獲得したのだが、母は自分の初めての出産という一大事をすっかり忘れて、ひたすら橋爪選手を応援しながら気張っていたという。

自然に気張っていたせいか、ゴール直前のクライマックスで母が一番エキサイトしていた時に、私が元気な産声を上げ、要するにチョー安産という結果になった。というわけで、母は私をオリンピック水泳の申し子と、しばらくは思っていたようなのである。後年に至って 「お前はもうちょっと水泳が上手になると思っていたのに」 なんて言っていたが、世の中そんなに都合良くはいかない。

余談だが、母は自分の初めての出産を忘れてまで応援した水泳選手の名をケロリと忘れて、ずっと 「古橋選手」 だなんて思っていたようなのである。橋爪功さん、ごめんなさい。

そんなこんなで、私が 4 で割り切れる年齢になると、オリンピックが開かれるのである。実にわかりやすい。今年はリオ・デ・ジャネイロで開かれるということで、「施設の工事が間に合うのか」 と、かなりやきもきされていたが、どうやらもう開幕直前というところまで来てしまった。

聞くところによると、オーストラリア選手団が選手村入りしたところ、トイレの水が流れず、壁から水がしみ出てくるというお粗末さなので、とっとと選手村から出て、他に宿舎を決めたそうだ。で、ブラジルの当局は 「まだ完全ではないが、すぐに改善する」 と、呑気なことを言っているらしい。さすがブラジルである。プレッシャーがない。

ところで私は、12歳の時の東京オリンピックは心を躍らせてテレビを見ていたが、それでお腹がいっぱいになってしまって、それから先のオリンピックというのがほとんど印象にない。今回のリオ大会も無関心のままで終わるだろうし、下手すると、次の東京オリンピックだって無関心のままかもしれない。あまり無関心のままだと、「水くさい」 なんて言われそうなのが心配なほどだ。

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2016/07/24

「ポケモン Go」 の奥に潜むもの

まことに恐縮だが、3日続きの 「ポケモン Go」 ネタである。このゲーム (ゲームと言っていいんだよね) は、自分じゃやる気が全然ないくせに、世間がこれほどまでに夢中になっているという現象の方は、かなり気になっているのだ。

そんなに気になるなら、自分の iPhone にインストールして、実際にやってみればいいじゃないかと言われるかもしれない。確かにそう言われて当然である。自分で体験してもいないくせに、ああだこうだと言いたがるのは、ある意味無責任な話である。

しかし、「じゃあ、責任ある論評をしたいから、『ポケモン Go』 をインストールして、やってみます」 などと宣言して、それを実行する気には全然なれないのである。ただそれは、『ポケモン Go』 に反発しているからというわけでは決してない。私は反発なんかしていないのである。

「歩きながらスマホ・ゲームなんかしたら危ない」 とか 「外にいながら仮想世界に閉じこもっているのはおかしい」 とか、もっともらしいことを言って非難する向きもあるが、そんなステロタイプの非難の方にこそ、私は反発を覚える。やりたきゃ、やればいいではないか。事故に遭わないようにという、当然の注意を払ってくれさえすればという条件付きだが。

要するに私は、「ポケモン Go」 への反発は微塵もないが、ただ興味がないだけなのだ。試しにインストールしてみたところで、興味がないからやる気になんかなれないだろうし、無理にやってみても苦痛でしかないだろう。それがわかっているから、インストールするだけ無駄だと思っている。

そりゃ私にしたって、例えば飛行機に乗って何もすることがなく、SNS をチェックしようにもインターネット接続がないからそれもできないという時などは、iPhone でゲームをして時間を潰すことがある。しかしそれは、トランプゲームやオセロなど、リアルの道具を使ったゲームを画面上で行うという類いのものだけだ。

以前、子供たちにせがまれて仕方なく TV ゲーム (シューティング・ゲームとか格闘ゲームとか、自動車レースみたいなものだった) に何度か付き合ったことがあるが、疲れるだけで本当に苦痛だった。マジで楽しむなんて、想像もできないことだった。この方面に関しては、私はまったくのオッサンである。

反発したり嫌うよりも冷淡で始末が悪いのは、興味を持たないことだという。ただ私の場合はちょっと複雑で、自分でやることには興味がないが、現象そのものには 「大いに関心あり」 という、妙に複雑な関わり方になっている。

ほんの少しだけ共通するものを感じるとすれば、ウォークマンである。1979年の発売当初のウォークマンは、今の 「ポケモン Go」 以上の爆発的な話題となった。そして 「歩きながらヘッドフォンで音楽なんか聴いたら危ない」 とか 「ひたすら自分の中に引きこもっているのは不健康」 とか、今の 「ポケモン Go」 と同じような非難を浴びていた。

そして私は、1979年の発売と同時に初代ウォークマンを購入した者である。そして今でも iPhone で音楽を聴きまくっているから、この方面に関してはオッサンどころか、27歳の頃と同じ感性を維持している。私が 「ポケモン Go」 をやる気になれないのは、たまたま 「ポケモン世代」 でも 「TV ゲーム世代」 でもないからとしか言いようがない。

私が 「ポケモン Go」 現象に関心をもっているのは、一つには果たしてこのゲームがウォークマン同様にずっと当たり前の行為として生き残るのか、はたまた、一時的なブームとして徒花の如くに廃れてしまうのかとうことだ。もしかしたら、2〜3年後には 「あの頃は、みんなスマホをのぞき込みながら街を歩いてたよね。懐かしいね。今じゃ、あんなこと恥ずかしくてできないね」 なんて言う日がくるかもしれない。

しかし、街を歩きながらスマホの中にポケモンを発見してゲットするという行為の奥に、何か普遍的な要素が隠されているとしたら、もう半年か 1年経ったら、その要素が姿を変えて、ゲームなのかあるいはもっと別の形になるのかは知らないが、密かに登場するかもしれない。そしてそれがどんどんバリエーションを増して、いつか生活に定着しないとも限らない。

私が興味をもっているのは、この 「ポケモン Go」 の奥に潜む 「普遍的な要素」 が何かということなのである。そしてそれを、外から眺めることによって発見する側にいたいと思うのだ。

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2016/07/23

多くの人がポケモン Go に夢中になるわけ

昨日は 「Pokemon Go について」 という記事を書いたが、日本にも上陸してしまったので、既に 「ポケモン Go」 という表記が定着しているようだ。というわけで、私も今後は 「ポケモン Go」 と書くことにするのでよろしく。とはいうものの、いちいちきちんとキーボードを叩くのは面倒で癪なので、「pg」 で単語登録した。

この 「ポケモン Go」 にどうしてこんなにまで世界が夢中になり、私はこんなにまで興味を持てずに冷淡でいられるのか、昨日までは自分でもわからなかったが、どうやら解答が見つかったような気がする。ヒントになったのは、Wired の "世界はなぜ 「Pokémon Go」 に夢中なのか、その心理学的な理由" という記事だ。

どうでもいいようだが、本論に触れる前に、どうやら英語媒体では "Pokémon" と表記するのが一般的のようだ。そうだろうね。私は米国で先行配信された時点で "Pokemon Go" と表記されたニュースを読んだので、"Pokeman" と空目して 「ポークマン」 かと思ってしまったのだよ。

まあ、空目しなくても、「ポークモン」 と読んじゃいそうだったが、"e" の上に何とかいうシルシが付いてるので、どうにかそれらしく読まれるのだろう。ただ、日本酒の "sake" が 「サキー」 と発音されるように、「ポゥキィモン」 ぐらいに言われてるのかな。

で、ようやく本論なのだが、上述の記事には、こんなように説明されている。

ポケモンには 20年の歴史があり、熱心なファンベースがもともと存在していたという理由もある。Pokémon Goは、すでに成功していたゲーム世界に、現実世界での双方向性というレイヤーを追加したのだ。

なるほど。既に成功していた世界のリバイズ版だったから、受け入れられるハードルがものすごく低かったのだ。そして私が冷淡でしかいられないのは、ポケモンが大流行した頃には既にオッサンで、しかもウチの子供たちもとっくに 20歳を過ぎていたので、我が家にはポケモンが入って来る余地がなかったのである。要するに、全然馴染みがないのだ。

似たようなことは 「ウルトラマン」 にも言える。ウルトラマンの全盛時代に、私はテレビのない貧乏学生だったので、ほとんど見ていないのだよね。だから、今の 40〜50歳 (ぐらいかな?) の連中がもつウルトラマンへの思い入れが、私には全然ない。時々ビデオで見ると、その変てこな動きに思わず笑ってしまうぐらいのものだ。

今の若い層は、子どもの頃にポケモンに思いっきり馴染んでいるらしい。昨日の私の記事にコメントをくださった乙痴庵さんの子どもさんは、「ポケモン Go」 の意義を端的に語ったという。それは 「自分でポケモンをゲットすることは、子どもの頃から憧れていたことだもん!」 ということだった。

なるほど、そういうことだったのか。既に 20年前から多くの人が 「ポケモン Go」 に夢中になるためのドアは用意されていたようなのである。

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2016/07/22

Pokemon Go について

今をときめく "Pokemon GO" が、日本でも配信開始されたのだそうだ。私はしばらくは 「ポークマン ゴー」  ("Pokeman" というスペルに見間違えていたのだよね) かと思っていたぐらい、こっち方面にはとんと疎いので、多分自分の iPhone にインストールすることはないだろう。ただ、世界を巻き込んだ 「Pokemon Go 現象」 には、ちょっとだけ興味を覚える。

このゲームというのは、自分のスマホの中に映し出された風景の中に、ポケモンのキャラクターが出没するらしい。ということは、自分の目の前に広がる世界を一度スマホの中に取り込み、その画面に映し出される世界を相手にするわけだ。

そんな仕掛けが、引きこもりだった人間が久しぶりで外界に出るきっかけとなったりしているらしい。ただ、外界に出たところで、彼は外界を直接見るのではなく、スマホの画面を通じて見るのだから、世界に対する接し方が劇的に変わったというわけじゃなかろう。それまでは家の中で閉じこもっていたのが、家の外で閉じこもるようになったというだけである。

まあ、ずっと閉ざされた空間にいるよりはずっとましだろうが、逆に、これまで直接的に外界を見ていた人間まで、間接的に世界を見るクセがついちゃうかもしれない。私としては、現実の街を間接的な画面で見ながら歩く人間の感覚が、どんな具合に変わっちゃうのかが興味深い。

茨城県の田舎に住む私としては、外出する時は自転車かクルマということが多いから、たとえ興味があったとしても物理的に "Pokemon Go" で遊ぶ機会が少ない。ということは、このゲーム、かなり都会的なものなんだと思う。

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2016/07/21

都知事選は気分悪すぎ

私は東京都民じゃないので関係ないが、それでも今回の都知事選の成り行きを見ていると、ものすごく気分が悪い。自民党の分裂騒ぎは既得権益を巡るものだろうし、鳥越氏の 「淫行」 報道にしても、政治的な策略の臭いがぷんぷんする。

近頃の文春の趣味の悪さは大変なもので、他人の色恋沙汰に首を突っ込んで部数を稼ぐスキャンダル雑誌になり果ててしまっている。今回の報道にしても、「淫行」 なんていうから相手は問題のあった時期に 18歳以下だったのかと思ったら、20歳だったという。14年前の 20歳である。そんな話には付き合いきれない。

とはいえ、鳥越氏はこれで限りなくアウトに近付いてしまっただろう。そもそも彼が立候補を表明した時から、私は体力的に大丈夫なのかと疑っていた。彼は小池氏の 「病み上がり発言」 に激高したというのだが、私に言わせれば当然の懸念である。その上に、降って湧いたような 「淫行」 報道である。これが本当かガセかは知らないが、このタイミングで出てきたというのは、完全に狙い撃ちだ。

この気分悪すぎの選挙で投票しなければならない東京都民が、本当に気の毒である。

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«夏休みと 「海の日」、「山の日」