2018/07/15

高齢者の運転の危うさ

先日、近くの田舎道をクルマで走っていると、目の前にやたらノロノロ、ヨロヨロと走るトヨタ車がいる。時速 30km そこそこで、しかもかなりの蛇行運転だ。居眠りならクラクションを鳴らして起こしてあげようかと思ったが、赤信号のかなり手前で停車したので、眠ってるわけじゃないらしい。

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あまり近付きたくないので、かなり間隔をおいて止まると、後ろのトランクの上に、「高齢者運転標識」 (いわゆる 「もみじマーク」) が貼ってあるのに気付いた。ただ、真後ろに貼ってくれればすぐにわかるのだが、トランクの上に (つまり空に向かって 「上向き) に) 貼ってあるので、よほど近寄らないと気付かない。一応スマホで写真を撮っておいたのだが、小さな写真じゃほとんどわからないよね。

高齢者になると運転における咄嗟の判断が危なっかしくなるので、後続車に意識させるために 「もみじマーク」 を貼るということになっているのは、今さら言うまでもない。しかし、そもそもそれを 「どこに貼るのか」 という判断からして危なっかしくなっている老人もいるのだと知った。貼った自分からはよく見えたのだろうが、後続車両からは甚だ見えにくいのである。

このクルマの場合は、「恐れ入ります。私は 『もみじマーク』 を貼る場所すらまともに判断できなくなった高齢者ですので、後続車は十分お気を付けください」 ってな意味になってしまうわけだ。しかしそのことに気付くためには、赤信号で停車してよくよく注意してみなければならないのだから、困ったものである。

近頃、高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えて、歩行者の列や店舗に突っ込んでしまうという事故が少なくない。確かに、年を取ると、いろいろな点で判断がおかしくなってしまうもののようだ。

私も既に 「前期高齢者」 になってしまっているので、いつまでも 「自分は大丈夫」 なんて 「正常化の偏見」 で安心していないで、きちんと意識して気をつけようと思ったわけなのである。

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2018/07/14

健康に良い食べ物と、悪い食べ物

カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) 助教授、津川祐介さんという人の 『世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事』 という本が話題だ。先日、たまたま本人がテレビに出てコメントしているのをちらっとみたが、なかなかイケメンのお兄さんである。

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この本は、買って読むまでには至っていない。なにしろ 「東洋経済」 のサイトに著者本人が "医学的に「健康に良い食べ物」 は 5つしかない、ほとんどの健康情報はエビデンスが足りない" と、ダイジェストのような記事を寄稿しておいでだから、それを読めば十分のような気がしている。

この記事で紹介されている 5つしかない 「健康に良い食品」 というのは、「① 魚、② 野菜と果物、③ 茶色い炭水化物、④ オリーブオイル、⑤ ナッツ類」 の 5つである。これは 「健康に良いということが複数の信頼できる研究で報告されている」 ものだ。「茶色い炭水化物」 というのは、玄米や全粒粉、蕎麦などの、精白されていない炭水化物のことを言うらしい。

「ひょっとしたら健康に良いかもしれない食品」 というのもあり、これは 「少数の研究で健康に良い可能性が示唆されている」 というもので、「ダークチョコレート、コーヒー、納豆、ヨーグルト、酢、豆乳、お茶」 が挙げられている。

これ、「言われる前から知ってたし」 というものがほとんどで、とくに目新しい情報じゃない。私はかなり前から、ごく自然にこの指針に沿った食生活をしてる。

ただ一つ、迂闊なことに 「ダークチョコレート」 というのは初耳だ (妻は好きで、よく知ってたけど)。調べてみると、カカオマスが 40%以上のチョコレートで、血圧低下、HDL (善玉) コレステロール値上昇などの効果に加え、BDNF (脳由来神経栄養因子) の上昇や、炎症指標と酸化ストレス指標の低下などの 「チョコレート効果」 というのがあるという (参照)。個人的には好んで食おうという気はないけど。

さらに 「健康へのメリットもデメリットも報告されていない食品」、「ひょっとしたら健康に悪いかもしれない食品 (少数の研究で健康に悪い可能性が示唆されている食品)」、「健康に悪い食品 (健康に悪いということが複数の信頼できる研究で報告されている食品)」 というのがある。

多くの食品はメリットもデメリットもないというカテゴリーに分類されているようだが、「ひょっとしたら健康に悪いかもしれない」 というのは、「マヨネーズ、マーガリン、フルーツジュース」 で、「健康に悪い」 のは、「① 赤い肉 (牛肉、豚肉で、鶏肉は含まず) と加工肉 (ハムやソーセージなど)、② 白い炭水化物 (ジャガイモを含む)、③ バターなどの飽和脂肪酸」 となっている。

私はだいぶ前から 「赤い肉」 は食べないことにしていて、これは健康面からも正解らしい。最近は鶏肉も避けているが、「体に良い、悪い」 という観点からは関係ないようだ。ただ、食い物は体に良い悪いだけの要素で決めているわけじゃないからね。

面白いのは、サプリメントなどの、「体に良いと言われている要素だけを抽出したもの」 というのは、そんなに効果があるわけじゃなく、場合によっては逆効果になる場合もあるらしいということだ。人間の体は複雑系だから、純粋すぎる要素だけ摂れば効果があるというのは、「古い考え方」 で、つまり 「もっと古い考え方」 に立ち返る方がいい場合もあるってわけね。

なにしろ、「野菜と果物」 は健康に良いというお墨付きなのに、フルーツジュースは 「ひょっとしたら健康に悪いかも知れない」 というのだから、なかなかビミョーである。ちょっと前の栄養学の常識だったら、「こんな矛盾した話を信じてはいけません」 なんてことになりそうだ。しかし 「まるごと」 で食うのと、一見して都合のいい要素だけ抽出して口に入れるのとでは、結果が違って当然である。

ただ、今月 10日の記事でも書いたように、「人間とはとてつもなく不条理なもの」 (参照)だから、体に悪いとわかっているものでも無性に食べたがることが多い。世の中の肉好きは、「健康のためには、お肉もたっぷり食べなきゃ」 なんていう 「正常化の偏見 (normalcy bias)」 に満ち満ちちゃってるしね。

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2018/07/13

思えば 6月下旬から天気が明らかにおかしかった

思えば 6月下旬から天気が明らかにおかしかった。6月末から 7月初めにかけては、異様に風が強かったのである。6月 29日の 「和歌ログ」 では、「今日は一日中強風が吹き荒れたが、日が暮れてから少しは弱まってきた」 とあるが、翌 29日には 「今日も風の強い一日だった。風に向かって自転車を漕ぐと、まるで坂道を登っているようだ」 とある。

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とにかくずっと強風だった。関東では 「史上最も早い梅雨明け」 ということで、突然のように猛暑が訪れたが、何しろ風が強すぎるので、あんなにカンカン照りなのに水蒸気が吹き飛ばされて入道雲ができず、一見すると澄み渡った秋の空である。暑さと視覚の間の違和感が尋常ではなく、6月 30日には 「夏空に積乱雲の沸き立たぬ強風の午後自転車を漕ぐ」 なんて歌を詠んだりしている。

関東で 「早すぎる梅雨明け」 なんて言われていた時から、太平洋には台風 7号がゆっくり進んできていて、その周りから吹き込む 「暖かく湿った風」 のせいで、九州は大雨になっていたのだった。そんな情報を知りつつも、関東ではただひたすら、「無茶苦茶な暑さなのに、風だけはやったら強いなあ」 と思っていただけだったのである。

7月3〜4日に紀州に出張し、南紀白浜空港との往復では、飛行機がガタガタに揺れて気持ち悪くなるほどだった。この時の関西の天気予報は 「一日中大雨」 ということで、晴れ男の私は大した雨には遭わずに帰って来れたものの、大阪方面は既に予報通りの大雨になっていたようなのである。この頃から、「なんだか、天気がちょっとヤバいかも」 と気になり始めていた。

気象庁が 「平成 30年 7月豪雨」 と命名した今回の豪雨の本番がやってきたのは、その直後である。とにかく前線が同じ所に居座り続け、最近はお馴染みの言葉になってしまった 「線状降水帯」 が大規模に発達して、西日本の同じ場所にずっと大雨を降らせ続けた。詳しくは今さら言うまでもない。

この豪雨にようやく一段落付いたと思ったら、さにあらず、天気の不安定さにはさらに拍車がかかり、一昨日の夜はつくば周辺で猛烈な雷雨に見舞われた。遠くの方でゴロゴロ鳴っているなと思っているうちに、いきなり地響きするような雷鳴がとどろき、途切れない稲妻で真昼のような明るさが続く。あちこちに落雷し、広範囲で停電してしまったようなのだ。

夜中になってからあんなにものすごい雷雨になったというのは、少なくとも個人的には初めての経験である。我が家の裏の川が整備される前の 10年前だったら、確実に道路が膝上まで冠水していただろう。ところが夜が明けてみると、周囲の道路は嘘のように乾いていた。治水が進んだこともあるが、地面の熱がよほど高くて乾燥しやすくなっていたんだろう。

私は 2011年の震災による原発事故が発生して以来、2年間は自宅のエアコンのコンセントを抜いていた。しかしそれ以後はどうも暑さのレベルが違ってきて、大袈裟じゃなく 「命の危険」 すら感じることがあるため、控えめにエアコンを使うことにしている。我が家の屋根には太陽光発電パネルが載っているので、昼は自前の電力でエアコンを動かせるのだ。「文句あるか!」 である。(参照

それにしても、夏の本番はこれからなのだ。9月まで猛暑が続き、10月になっても台風が訪れ、一度や二度ならず大雨も降るだろう。とにかく最近は天気が極端から極端に振れ、過去の常識が通じないことは、今回の水害でわかった通りである。覚悟しておくにこしたことはない。

今日も正午の段階で既に家の中の気温が体温を上回っているようで、我が家の階段の手すりが、日陰にあるのに妙に生暖かく、トイレのドアノブは 「熱い」 と言いたくなるほどだ。いつもの年だったら、まだ梅雨明けてないのに。

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2018/07/12

「龍ケ崎」 と 「竜ヶ崎」 と 「佐貫」 のややこしさ

ローカルな話題だが、JR 東日本が、常磐線の 「佐貫駅」 を、2020年に 「龍ケ崎市駅」 に改称すると発表した (参照)。現佐貫駅は龍ケ崎市内にあるが、JR 東日本には 「龍ケ崎」 という名称の駅はない。

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その代わり、この佐貫駅を始点とする私鉄の 「関東鉄道竜ヶ崎線」 というのがあって、その終点に「竜ヶ崎」 という名の駅がある。市の名称は 「龍ケ崎」 だが、その中心地にある駅の名前は 「竜ヶ崎」 なので、ちょっとややこしい。

私が茨城県南部に引っ越して来た頃から、常磐線に 「さぬき」 と読む駅があることには戸惑っていた。「四国じゃあるまいし」 と思っていたが、表記が 「讃岐」 じゃなく 「佐貫」 と知って、一応の納得はしていたのである。しかし人口減少傾向にある龍ケ崎市の再活性化のためにも、JR 常磐線で市の玄関口にあたる佐貫駅を改称し、すっきりさせるというわけだ。

この地域に初めて鉄道が通った明治期は、龍ケ崎町と佐貫町とが隣り合っていたらしい。で、明治 33年に鉄道が通るという段になって、本来は規模の大きい龍ケ崎町を通る案が先行していたのだが、「鉄道が通ったら、鶏が卵を産まなくなる」 なんて、当時ありがちだった反対運動が起こり、佐貫の方に押しつけたいきさつがあると、まことしやかに伝えられている。

平成になる前頃から 「合併して龍ケ崎市になったんだから、駅名も 『龍ケ崎』 に変えるべきでは」 という議論になったが、旧佐貫町側の住民が 「その昔に鉄道路線を押しつけたくせに、今になって勝手なことを言うな」 と反発したなんてことも伝えられた。判官贔屓の心の琴線に触れる理窟である。

ただ、今の関東鉄道竜ヶ崎線も、明治 33年に同時に開通したという事実があるし、竜ヶ崎の中心部を通したら常磐線がやたら大きく迂回することにもなるので、押しつけられたという言い伝えは、実は疑問符だらけだ。これに限らず、この地域の歴史にはなかなか面倒な事情があったようで、この問題に関しては今回ようやく一応のまとまりがつくようなのである。

ただ、関東鉄道サイドとしては現佐貫駅の名称はそのまま残す方針という。なるほどね。もし JR 側の改称に連動してしまったら、始点が 「龍ケ崎市」 で、終点が 「竜ケ崎」 という、さらにややこしいことになってしまう。

ちなみに 「龍ケ崎」 の表記に関してはこれだけに留まらず、Wikipedia には次のようにある。(参照

本自治体の正式表記は「龍ケ崎市」 (旧漢字の 「龍」、大きいカタカナの 「ケ」) である。これは1954年に自治体ができたときに官報に載った表記であり、1996年から市の公文章 (ママ) は 「龍」 で統一されている。一方茨城県は、公文書には常用漢字を使うという文書管理規定があるため、県の施設名を 「竜」 で統一している。関東鉄道は、開業免許状などの古い文献で 「龍」、65年に合併したあたりから 「竜」 である。また、筑波銀行は 「龍ケ崎」、常陽銀行は 「竜崎」 である。

ああ、本当にややこしくて、付き合いきれない。

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2018/07/11

スタバのプラスチック・ストロー問題

スタバがプラスチック製ストローを全廃するというニュースが、結構注目されている (下の写真の左側)。なにしろプラスチック・ストローというのは、全世界でものすごい量が使われていて、捨てられてゴミになる量も大変なものらしい。これを全廃してしまえば、環境面での貢献はかなりのものだろう。

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で、そのちょっと後のニュースで、ストローを使わずに飲める新しいカップが開発されたともいう (上の写真の右側)。蓋の一部が盛り上がっていて、そこに直接口を付けて飲むらしい。それを使い捨てにしたらストロー以上の無駄遣いだが、リサイクルすると書かれてる。「だったら、初めからストローをリサイクルしろよ!」 と言いたくなるが、ストローは小さすぎてリサイクルには技術的問題があるなんて情報もあり、詳しいところはよくわからない。

このニュース、個人的にはあまり身に迫ってこないのだよ。私は半世紀近く、コーヒーショップで 「ホット・コーヒー」 以外の注文をしたことがないから、ストローなんて使う機会がない。ちなみに店ではつい、「コーヒー」 とだけ注文して、「ホットですか、アイスですか?」 なんて聞かれることが多い。

私としては 「フツー、『コーヒー』 と言ったら、ホット・コーヒー以外ないじゃん」 と思ってしまうのだが、世間一般にはそういうわけでもないらしい。とにかくコーヒー・ショップで辺りを見回すと、アイス・コーヒーを飲んでいる客がやたら多い。夏はとくにそうだが、冬でも珍しくない。

私がしょっちゅう海外出張していた 1990年代頃までは、外国では 「コーヒー」 といえば 「ホット」 以外にないといってもいいぐらいのもので、日本人が "Ice coffee, please" なんて注文してもわかってもらえないことが多かった。「海外では ”Iced coffee" って言うんだよ」 なんて言う中途半端な訳知りもいたが、そんな風に言っても、ないものはないのだから通じない。

ただ、最近は外国でも "iced coffee" が出現して、一般的になっているらしい。私にはどうしても 「奇妙で面倒な飲み物」 に感じられるのだが、まあ、世の中はそっちの方に進んでいるみたいなのだ。米国でストローが問題になっているのは、フツーの冷たい飲み物以外に、"iced coffee" が増えていることも背景にあるのかしらん。

ただ、個人的には、コーヒー・ショップに入ったら、フツーのコーヒー (つまり、ホット・コーヒーね) を飲めばいいじゃないかと、今でも思うのである。紙コップなんかも使わずに、陶器のコーヒーカップでブラック・コーヒーを粛々と飲むのが一番だし、第一余計なゴミも出ない。

ただ、世の中、そうはいかないみたいなのだね。甘ったるいものを飲みたがる客も多いようなのだ。面倒なものである。

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2018/07/10

そもそも、水害が差し迫っても 「人は逃げないもの」 らしい

今回の西日本豪雨の死者は、どうやら 120人を超えたようだ。昨日私は、災害時に避難指示が出ても、実際に非難する人は非常に少ないという現実問題について、「最悪、命に関わる問題なのに、なぜ逃げないのか、私には理解できない」 と書いた。しかしよく調べてみると、そもそも 「人は災害時でも逃げないもの」 であるらしい。

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自然災害が発生すると、テレビのニュースなどで上の画像のような、学校の体育館みたいなところで寄り集まるように避難している人たちの様子が紹介されたりする。しかし実際には、いち早くこうして避難するのは住民のごく一部で、大多数は最後まで逃げずに家に留まり、結果として孤立してしまったり、最悪死んでしまったりすることもある。

人間とは不条理なものである。危険を知らされながら、一向に逃げないのである。私のような者からすると、「どうして逃げられるうちにさっさとズラカらないのか」 と、不思議でしょうがないのだが、防災の専門家からすると、「そもそも人間というのは逃げないもの」 だというのである。さっさと逃げる私の方が 「変わり者」 であるらしい。

「水害時 何故逃げない」 というキーワードでググると、なんと約 200万件ものページがヒットして、その数はさらに刻々と増え続けている (参照:  追記 = 7月 13日正午の時点では、370万件以上に増えている)。そしてその中でトップに表示されるのは、2007年 7月 14日に開催された 「日本災害情報学会 減災シンポジウム 〈抄録〉」 の、“ひとはなぜ逃げないのか? 逃げられないのか?” という象徴的なタイトルのページである。

このシンポジウムで、災害時の避難行動をずっと研究してこられた群馬大学教授の片田敏孝さんという方は、とくに水害のケースでは 「人間は逃げられないのだという基本的な考えを持っている」 と、しょっぱなから単刀直入に述べ、次のように説明されている。

「逃げない」 「逃げない」 と議論するのは、行政、学者、マスコミから住民の行動を観察する論理。住民は逃げないと決めたわけではなく、逃げるという意思決定ができずにいる。結果として逃げなかったという事実が残る。

昨日の記事で書いたように、32年前の水害時、私はごくあっさりと家族と犬 1匹、猫 1匹を連れて避難したが、近所の人たちは誰も逃げなかった。私はそれが理解できなかったのだが、まさに 「逃げるという意思決定ができずにいた結果、逃げなかったという事実が残った」 というだけのことだったようなのである。

フツーの人たちは、「逃げる」 という行為を取るにはよほど大きな決断が必要で、なかなか容易には踏み切れないもののようなのだ。まともに考えれば 「さっさと逃げた者の勝ち」 に違いないのだが、それでも人は容易には 「逃げない」 のである。

実際に逃げてみればわかるが、それは実に簡単で、濡れては困るものを 2階に上げたら、あとは鍵をかけてひょいと逃げ出しさえすればいい。初期の段階なら自治体が用意してくれるボートで浸水地域から脱出させてもらい、後はバスに乗せてもらって実にスムーズに避難所に運ばれる。このように避難は早ければ早いほど楽で、遅くなれば混乱するばかりなのに、率先して脱出しようとする者は極めて少ない。

ここまでくるともう理窟じゃないが、それだけに研究に値するテーマではあるようで、『人はなぜ逃げおくれるのか―災害の心理学』 (集英社新書) という本まである。そしてここでも強調されているのは、昨日述べた 「正常化の偏見 = normalcy bias」 (自分だけは大丈夫という思い込み) だ。

私の経験した 32年前のケースでは、不幸中の幸いというべきか、被害は床下浸水で済んだ。しかし、仮により大きな災害になってしまっていたら、近所の人たちは、死にはしないまでも、浸水地域に取り残されたまま救助を待つという、悲惨な事態になっていたわけで、絶対にそうはならないという保証はない。

一方、さっさと逃げておけば面倒がないし、たとえ被害が軽く済んだにしても、安全な場所で心置きなく寝られるだけありがたい。これは経験上、確かに言えることである。家に留まっていたら、まんじりともせずに過ごしていたはずだ。そして結果的に、逃げても誰にも迷惑はかからないのだから、逃げない理由はほとんどない。

というわけで、私は昔から 「人間とは不条理な存在」 と思ってはいたものの、この年になって、「その不条理レベルはこれまでの自分の想定を遙かに上回る」 と知らされたのである。私の人間理解は、甚だ中途半端だったようなのだ。

ここで 「人間とはとてつもなく不条理なもの」 と知ったからにはすっぱりと諦めがついて、今後はいろいろな場面であまりイライラせずに済むかもしれない。災害時に限らず、日常生活でも、どんなにぐずぐずされても仕方ないよね。そもそも不条理な存在なんだから。

ただその上で重ねて言うが、やっぱり災害時には、早めに避難する方がいい。前述の片田敏孝先生も、こんなふうに呼びかけておいでだ。

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2018/07/09

災害時の避難勧告や指示には、早めに従う方がいい

西日本の豪雨は大変な被害になった。今回豪雨の最大の被害地である広島や岡山、高知、愛媛、京都、岐阜などの地域には、友人や知り合いがかなり住んでいるので、私としても平静ではいられない。ただ、無闇に安否確認のメールや電話をしても、向こうが停電していたりすると、ケータイのバッテリーの消耗に気を使っているだろうから遠慮している。

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ここでどうしても書いておきたいことがある。それは、自治体から 「避難勧告」 や 「避難指示」 が出るような豪雨の際には、迷うことなく速やかに安全な施設に避難した方がいいということだ。

ニュースをみると、死者が出るのは大抵 「避難勧告」 や 「避難指示」 の出た地域である。それは当然だ。そうした指示がでるような危険な地域だからこそ、死者も出るのだ。そして、被害者は避難指示が出たにも関わらず自宅に留まっている。死なないまでも、道路が寸断されて孤立してしまたり、2階や屋根の上に逃げたまま救助を求めるというケースも少なくない。

こうしたニュースに接すると甚だ気の毒ではあるが、一方で恐縮ながら 「早めに避難していれば、死んだり孤立したりする事態は避けられたのに」 と思ってしまう。「体の不自由な老人や病人は、なかなか避難しにくい」 と言う人もいるが、その言い訳はおかしい。そうした弱者ほど早めに避難しなければならない。周囲は率先して彼らの避難に手を貸すべきである。

ところが人間、えてして 「自分だけは死なない、大丈夫」 と思いがち (これを 「正常化の偏見 = normalcy bias」 という) で、ぎりぎりまで自宅に留まることが多い。過去の災害時の記録をみると、いち早く避難指示に従う人は 10%にも満たないというのが、ごく普通らしい。危険が差し迫っているのに逃げないで自宅に留まり、土砂崩れで生き埋めになったり、孤立してしまったりする人が多いのである。

私の住む地域は、今は河川の整備が進んだおかげでかなり安全になったが、実はちょっと前までは水害頻発地域だった。もう 32年前になる昭和 61年に、小貝川の堤防が決壊した時には、床下浸水の被害に遭った。この時は自治体の 「避難勧告」 に従い、幼い 2人の娘と、3人目を妊娠中の妻、そして犬 1匹、猫 1匹を連れて、早めに高台の中学校に避難するという経験をした。

この時驚いたのは、近所では我が家以外に誰も避難しなかったという事実である。我が家は小さな子どもと妊娠中の妻がいるという事情もあり、さっさと避難したのだが、 あの様子だと、たとえ 「避難勧告」 が 「避難指示」 に切り替わったとしても、住民のほとんどは自宅に留まっていただろうと思う。

つまり、現実に水害が出始めても 「誰も逃げようとしない」 のだ。最悪、命に関わる問題なのに、なぜ逃げないのか、私には理解できない。

私は自分の経験からも、避難は早めにすることをおすすめする。初期の 「避難勧告」 の段階なら比較的スムーズに移動できるが、のっぴきならない段階まで来てしまったら、混乱が生じて動きにくくなる。周囲が浸水してしまっていたら、ボートで脱出しなければならないのだから、人数が増えたら順番待ちになる。

ましてや、明るいうちならまだいいが、日が暮れてしまってたら、もうほとんどアウトだ。本当に、逃げられるうちに逃げておくに限るのである。腰は軽い方がいい。タイミングを逸したら逃げ遅れて孤立してしまうか、下手すると命を落とす。

私の場合は、一晩避難して翌日に戻ってみると被害は床下浸水程度で済んでいて、汚水は床上までは達していなかったのでやや安心したのだが、それでも 「避難してよかった」 と思った。避難する前に和室の畳などは全て 2階に上げ、しっかりと対策をしていたので、心置きなく家を離れられたし。

それに、一番雨と増水の激しい不安な時間帯に、高台のしっかりとした避難場所で、自治体の用意してくれた水と食料を支給してもらい、ある意味 「お客様扱い」 されながら、不安なく眠れたことも大きい。あのまま家に留まっていたら、まんじりともしなかったろう。

本当に本当に、避難の要請には早めに従う方が身のためである。これは命の問題なのだから。

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2018/07/08

「数十年に一度の気象災害」 が毎年ある時代

西日本の豪雨被害は、大変な規模になっているようだ。下の画像は 7月 7日時点の 72時間降水量を示しているが、その後に岐阜県などでも雨量が増し、さらに北日本にまで被害は広がりそうだ。

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ニュースによると、8日の朝の時点で死者の数が 50人を越していて、さらに増えそうだ。気象情報が発達していなかった前世紀には、このくらいの規模の被害がざらにあったが、今世紀に入ってからは記憶にない。

思えば、最近は 「記録的大雨」 とか 「過去に経験したことのない大雨」 とかいう言葉で表される気象災害が頻発している。ニュースを聞きながら、「おいおい、『数十年に一度の気象災害』 って言葉は、去年も一昨年も聞いたよな」 と、思わず呟いてしまった。そんなのが毎年起こってたまるものか。

近頃は気象の傾向が変わってしまったんじゃないかと思う。「何でもかんでも温暖化のせいにするな」 という人もいるが、これなんか温暖化と無関係とは思われない。

最近は極地の氷が溶けてしまっているという。だったら、地球上の水が氷として固定される割合が減って、「雨となる水の在庫」 が増えているのだから、ただでさえ暖かくなった地球上で蒸発して雨雲になり、地上に降り注ぐという、水の循環の総量が増えているのだろう。

CO2 削減に真剣に取り組まなければならない。野放図にクルマのエンジンをかけっぱなしにしたまま長時間駐車したり、エアコンをかけっぱなしにしたりといった行為は、確実に自分の首を絞めているのだ。

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2018/07/07

「コンパラゲ」 「ウドンゲ」 という名の花の正体

久しぶりの 『無門関』 ネタ。 今回は 「拈華微笑」 (「ねんげみしょう」 と読む) という公案を斜め方向から考察する。

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原典を書き下すと、次のようになる。

世尊、向井、霊山會上に在って、花を拈じて衆に示す。この時衆皆黙然たり。唯迦葉尊者のみ破顔微笑す。世尊曰く、吾に正法眼藏、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、不立文字、教化別傳、摩訶迦葉に付嘱す。

これだと 「意味分からん」 ということになってしまうので今の言葉で説明すると、大方こんな具合になる。

ある日お釈迦様が説法に現れたが、この日は何も言わずに、ただ手に持った花を捻って、微笑されるだけだった。集まった人たちはそれを見ても釈迦の真意を理解できず、ただ呆然とするだけだったが、独り迦葉 (かしょう) 尊者のみがにっこりと笑った。お釈迦様はそれを見て、「言葉として現せない深い真理を、今、迦葉に伝えたぞ」 と宣言された。

というわけで、迦葉は釈迦の後継 (第二祖) と伝えられている。仏法の深い真理は、究極的には 「不立文字」 (「ふりゅうもんじ」 と読む。文字として表現するのは不可能ということ) とされているのだ。

で、お釈迦様が 「言葉にできない仏法のシンボル」 として用いたのが、たまたま 「手に持っていた花」 というわけで、原典には何の花かは記されていない。ただ 「花」 とあるのみだが、古来から 「金波羅華」 (「コンパラゲ」 と読む) の花だったと伝えられている。

ところがこの 「コンパラゲ」 というのは、植物図鑑にも出てこないし、手持ちの 『大辞林』 にもその項目すらない。ググってみても今イチよくわからないだけでなく、そもそも ATOK では 「こんぱらげ」 と入力しても変換されないので、単語登録が必要なほどだ。「謎の花」 である。古来から 「金波羅華とは蓮の花」 という人が多いが、決定的なものではない。

「優曇華」 (ウドンゲ) の花だったとの説もある。そしてさらに面倒なことには、この 「優曇華」 というのも、Wikipedia によると 「実在の植物を示す場合、伝説上の植物を指す場合、昆虫の卵を指す場合とがある」 (参照) ということになっている。

実在の植物としては、「日本国内では熊本県山鹿市と長崎県佐世保市のみに自生するアイラトビカズラ、南アジア原産のクワ科イチジク属の落葉高木、フサナリイチジクをウドンゲにあてる場合がある」 とされ、伝説上の植物としては 「仏教経典では、3000年に一度花が咲くといい、その時に金輪王が現世に出現するという」 とある。

ついでだから紹介しておくが、「他の物に産み付けられた昆虫クサカゲロウの卵塊をいう」 とも書いてある。さらにバショウの花をウドンゲと呼ぶことがあるというのだから、改めてその正体探りをしてもあまり意味はないだろう。

とにかく 「仏法を象徴するに相応しい、美しい花」 と思うほかないようで、「金波羅華」 や 「優曇華」 とは何かという命題そのものが、不立文字のようなのである。

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2018/07/06

オウム真理教事件での死刑執行に絡めて言ってしまう

朝っぱらからオウム真理教事件の麻原彰晃の死刑執行が報じられ、その後に残る 6人の死刑執行も発表された。これ、大方が指摘するように、このタイミングでの死刑執行にはかなり政治的な判断があったものと考えられる。

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さて、ここで私が思い出したように論じたいのは、オウム真理教事件そのものについてではない。「死刑制度」 についてである。私はこのところずっと、「自分は死刑制度廃止論者」 と思っていたのだが、このブログでは、そのことについて表明しそびれていたことに気付いた。

2008年 8月 1日の "死刑制度では旗幟鮮明じゃない私" という記事では、態度を鮮明にしておらず、2009年 12月 23日の "死刑制度に懐疑的になりつつある私" という記事でも、「死刑廃止」 とまでは言い切っていない。吾ながらズルい態度を保っている。

私が最後に死刑制度について触れたのは一昨年の 11月 28日で、その記事のタイトルは "死刑制度と被害者感情をセットで語らない" というものだった。殺人事件被害者の遺族の多くは、犯人をぶっ殺してしまいたいほど憎んでいるだろうが、だからといって、国がその代理で犯人を殺してしまうというのは、単純な 「復讐の肯定」 になってしまうと述べている。この記事は、死刑制度に関する私の考えがかなりきっちりまとめて書かれているので、よかったら読んでいただきたい。

その年の 6月 11日には、"「自殺できないので死刑にしてもらおう」 という虫のよすぎる了見"、2009年 12月 23日の "死刑制度に懐疑的になりつつある私 »" という記事で次のように書いている。

私は池田小殺人事件の宅間某のケースについて触れている。宅間という男は、「おぉ、俺は死にたいんじゃ、さっさと死刑にしてくれ」 とうそぶき、その望み通り、異例の早さでさっさと死刑を執行してもらえたようなのだ。なんというアフターケアのよさだろうか。

人生に絶望して死にたいのだけれど、自殺する踏ん切りもつかず、だったら思い切り無差別大量殺人をし、今まで自分をないがしろにしてきた世間を見返し、思う存分に騒がせて自分に注目を集め、その上でさっさと望み通りに国家の手によって殺してもらうという虫のいい犯罪が、最近いくつかみられるのである。

これでは、死刑制度が無差別大量殺人事件を起こすインセンティブになりかねない。実際に、そうとしか思われない事件が最近散見されるのである。というわけで、これらの記事を書いた時点の私は、「死刑制度の凶悪犯罪抑止力はかなり弱まっていて、逆の力になる場合も生じている」 とはっきり認識しており、最近になってやっと踏ん切りがついて、「死刑制度廃止論者」 になったのである。

遡れば私は 2006年 4月 12日の "なぜ殺してはいけないか" という記事の中で、人を殺してはいけないのは、"「殺す自由」 は 「生きる自由」 を上回らないから" と、単刀直入に書いたことがあり、この考えは今でもまったく変わらない。人を殺してしまっては、被害者の 「生きる自由」 を完全に奪ってしまい、修復不可能だから、殺してはならないのである。言い切れば単純な話だが、詳しくはリンク先をご覧戴きたい。

この記事の中で私は、次の場合だけは態度を保留すると書いている。

「崇高な覚悟の自殺 - 切腹」 などの 「介錯」
「安楽死」
「正当防衛」 (相手がこちらの 「生きる自由」を奪おうとしたので)
「戦争」 (一応は、納得済みでの殺し合いなので)

そして、"「死刑執行」 を挙げなかったのは、それは 「殺す自由」 というよりは、制度で強制的に定められた 「果たすべき業務」 とみる方がいいからだ" と付け加えているが、最近は、「死刑」 という制度を廃止すべきという考えまでまで辿り着いたということだ。

そして今回のオウム真理教関連 7人の死刑執行に関しては、そのタイミングからして言ってみれば 「死刑制度の政治利用」 とも見ることができるので、ますます嫌な感じがしてしまうのである。

【7月 10日 追記】

「死刑制度廃止」 という考えに辿り着いている私ではあるが、実際には簡単に廃止できるなんて思っていない。とても難しい問題だから、そんなに簡単に結論は出ないだろう。

というわけで、内心としては 「死刑判決が出ても、とりあえず実際には死刑執行しない」 ということで、しばらく運用すべきだと考えている。要するに 「実質終身刑」 ということで行けばいいんじゃなかろうか。今回みたいに 「一度に 7人も死刑執行」 なんていうのは、ちょっと人騒がせすぎる。

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