2016/05/04

「気持ち」 という便利な単語

やや 「今さら」 感のあるテーマだが、ベッキーというタレントの例の不倫云々ということについて、ちょっと書きたいと思う。

ただ、是非とも書いておきたいというようなテーマでもなく、ネタ枯れの時期の埋め草なので、読んでくれる人も 「そうそう、そうだよね!」 ってな感じで膝を打ってくれるような内容にはならない。なにしろ私はベッキーというタレントの顔は知っているが、相手の何とか乙女のかんとかいう男については何も知らないのだから、深いことなんか書けるわけがない。

基本的に私は、タレントが不倫云々で休業するということに、あまり興味がない。そんなようなことでいちいち休業しなければならないのだとしたら、もっとずっと多くのタレントが休業していなければならないだろう。要するに、世間にバレちゃったのがいけないのだ。

どうやら CM 関連のスポンサーが視聴者の反発を恐れるというのが大きなファクターらしいが、私個人としては、そんなことでいちいち反発するほどヒマじゃないよと言うほかない。色恋沙汰なんて当事者同士でテキトーにやってくれればいい話で、こっちは別にカンケーない。

しかしこの分野では、そんなことでいちいち反発するようなヒマな人が、大きな影響力を発揮するようなのだね。テレビ局やスポンサーに抗議の電話をかけたりするんだから、そんな電話の応対をしなければならない側としては、そりゃあうっとうしくてしょうがないだろう。

とにかく、どーでもいいことでやたらといろんなことを言わなければならない世界のようなのだ。しかし所詮 「どーでもいいこと」 なので、それに対しての言い草も 「どーでもいい」 言い方になる。ただ、その 「どーでもよさ」 が、曰く言いがたい趣きがあって、それはそれでちょっと面白い。

何が 「面白い」 のかというと、ベッキーというタレントが週刊文春に寄せたという手紙の内容である。曰く言いがたい 「どーでもよさ」 をもっともらしく書き連ねると、こんな感じになるのだなあと、私は半分は感心してしまった。私にこういう文章を書けといっても、まず無理だ。ある意味、たいしたものである。

Intergate というサイトにその手紙の全文が載っている (参照) ので、そこから一部を引用する。

出会って好きになった後に奥様がいることを知りました。そこで気持ちをとめるべきでした。

川谷さんへの気持ちはもうありません。

文春さんで奥様が話された記事を読み、そこで初めて奥様のお気持ちを知り、自分の気持ちの整理がつきました。

私がとった軽率な行動は謝って済まされることではありませんが、せめて奥様の前で頭を下げてお詫びをさせていただければと思っております。

記者会見についてですが、私は気持ちの整理もつかないまま会見の場に立ちました。

短い 5つのセンテンスのうちに、「気持ち」 という単語が 5回も使われていて、しかもそれぞれ意味合いはビミョーに異なっている。「それぞれの 『気持ち』 という言葉は、以下の何をさしているか」 なんて、現代国語の試験問題が作れそうだ。

まあ、コトの内容をぼかすには、ちょうどいい便利な単語なんだろうね。とくに 「気持ちはもうありません」 という言い方は、ちょっと 「気持ち悪い」 けど。一方で 「ぼかし」 だけにとどまらない凄みすら感じてしまう。こうしたレトリックを学ばなかったことが、私の世渡り下手を象徴しているんじゃないかとさえ思った次第である。

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2016/05/03

北秋田への出張から戻った

秋田県北部への一泊二日の出張から帰った。秋田県北部というところは、はっきり言って陸の孤島である。東京から鉄道で行くとすると、まず秋田新幹線 「こまち」 の終着、秋田駅まで行く。この秋田新幹線というのは東北新幹線の車両と連結されていて、盛岡で切り離されてようやく秋田新幹線に入る。

ところが盛岡から先は新幹線とは名ばかりで、在来線、しかも単線である。だからところどころの駅で、すれ違う電車の待ち合わせをするという、「なんちゃって新幹線」 だ。ちなみに山形新幹線も同様に、福島で切り離されてからは 「なんちゃって」 である。要するに、乗り換えの手間がいらないというだけのことだ。

で、昨日は午後一番に自宅を出発して、日の暮れた頃に秋田駅に着いた。とりあえず、秋田駅近くのホテルに前泊である。秋田新幹線の車内のエアコンは 「送風」 になっていたようだが、午後 5時近くになってからは結構肌寒くなり、それまでバッグにしまっておいた上着を羽織った。そして秋田駅に着いてみると、道行く人の多くはコートやパーカを羽織っている。まだ春になったばかりという風情で、関東とは季節が違う。

で、今日は朝一番でホテルをチェックアウトして、奥羽本線弘前行きの電車で秋田県北部、その名も北秋田市の鷹ノ巣という駅に向かった。これがまた、1時間半以上かかる。今日は天気がよくて途中の景色は抜群だったが、なにしろ陸の孤島である。そこからまたタクシーに 40分近く乗ったところが目的地だ。

その辺りは電車の運行が 1時間に 1本程度しかない。だから仕事は早々に済ませ、昼過ぎにはまた 40分近くタクシーに乗り、1時間半以上電車に揺られて秋田駅まで戻り、そこからまた秋田新幹線に乗り換えて、自宅に戻ったのは夜の 10時半である。できれば二泊三日でゆっくり行きたかったところだが、他の予定もあったので、一泊二日の強行軍となった。

今度行くチャンスがあったら、できれば三泊四日にして、秋田から弘前、青森まで足を伸ばし、青森県を横断して、東北新幹線で八戸周りで帰って来たいと思った。まあ、それほど見所は多い地域である。見所と行っても、賑やかな観光地ではなく、白神山地などを含む自然の真っ只中という意味だが。

秋田県北部は、陸の孤島という意味では、私の出身地である山形県庄内地方と似ている。庄内地方も、山形新幹線だけではたどり着けず、どちらかといえば、上越新幹線で新潟まで行き、そこから特急に乗り換えて、海岸線をえっちらおっちら行く方が、まだ早く行ける。ただ、東京からの距離という点で、北秋田はずっと陸の孤島度が高い。そしてその分、自然の見所が一杯である。

北秋田は桜が満開だった。ところが関東に帰ってみると、既に初夏である。蒸し暑い。日本も結構広いものである。

ちなみに鷹巣駅前商店街は、見事なまでのシャッター通りで、連休のど真ん中というのに、人っ子一人歩いていなかった。東北に行くと、街より自然の真っ只中の方がずっと豊かというのが、如実に実感される。もちろんここでいう豊かさとは、GDP に反映されない豊かさである。

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2016/05/02

鯉のぼりの虫干しイベント

昨日の和歌ログで、「楽しさともの悲しさの入り交じる風吹く中の鯉のぼりたち」 という歌を載せた (参照)。ここつくばの里では、「鯉のぼり Project in 岡堰 2016」 という催しが開かれていて、小貝川の岡堰という堰のある辺りが、満艦飾の鯉のぼりで溢れているのだ。

ところがこの催しが、「楽しさともの悲しさの入り交じる」 という風情なのである。何ゆえ 「もの悲しさ」 が入り込んでくるかというと、それは少子化と大いに関係があるからだ。私はこの催しを、「各家庭に子供がいなくなって、上げられることのなくなった鯉のぼりを押し入れの奥から引っ張り出してきて、年に一度の虫干しをするイベント」 だと思っている。

ここ茨城県というところは鯉のぼりの盛んな土地柄で、私がここに移転してきた 35年前頃は多くの家に満艦飾の鯉のぼりが上げられていた。ところが当時少年だった男の子の多くは今、40歳を過ぎたが、まだ独身というケースがものすごく多いようなのだ。農家の跡継ぎには嫁のきてがないのである。

一方、次男、三男は都会に出て、まあ、結婚していることが多いらしい。しかし都会暮らしでは鯉のぼりをあげるスペースなんてないから、子供が生まれても実家から鯉のぼりをもってきて上げるわけにもいかない。つまり、この辺りの農家で昔、あんなにまで満艦飾に上げられていた鯉のぼりは、今では上げられることがなくなってしまったのである。この事情については、3年前にも詳しく書いている。(参照

で、そんな行き場を失った鯉のぼりの、年に一度の虫干しをするのが、このイベントなのだろう。各家庭で盛んに上げているようだと、こんなところに集めて上げるイベントなんて成立しないのだが、こうでもしないと、親戚中からもらってどっさり眠っている鯉のぼりの出番がないのだ。

そんなわけで、「楽しさともの悲しさの入り交じる」 イベントとなってしまっているわけだ。全国の田舎で似たようなイベントが開かれているようだが。どこも事情は同じようなものだろうと思っている。

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2016/05/01

「コンピューターの電源を切る準備ができました」 という表示

Gigazine に "Windows の電源オフ時に 「コンピューターの電源を切る準備ができました」 と表示される理由とは?" という記事がある。この表示は Windows 95 の時代からのものだそうだが、私は Windows から離れて Mac ユーザーになって久しいので、「え? Windows って、まだこんな表示がされてるの?」 と驚いてしまった。

私は MS-DOS 時代から PC を使っているが、95 より前はどんな表示だったか、ほとんど憶えていない。Windows 3.1 では何かのメニューで 「Windows の終了」 か何かを選択してクリックすると、MS-D0S 画面に変わり、その時点で手動でスイッチオフしていたような気がするが、定かではない。

ちなみに上述の記事にある画像によれば、「コンピューターの電源を切る準備ができました」 の元々の英語表示は、"It's now safe to turn off your computer." のようだ。実はこれは初めて知った。Windows の日本語メニューって、まるでこなれない言い回しが多いが、これもその一つのようだ。早く言えば 「はい、もうコンピュータの電源を切っても大丈夫よ」 ってことなのに、ずいぶん回りくどい言い方をするものである。

自分が Windows ユーザーだった時のことを思い出すと、そもそも Windows 2000 以後はシャットダウン (電源オフ) なんて、滅多にしなくなっていた。だって、いちいちシャットダウンしていたら、翌朝起動する時に、またやたらと時間がかかってしまう。私は ノート PC を閉じた時 (つまり 「ふた」 【って言うのかな?】 をパタンと閉じた時) に、休止状態になるという設定にしていた。

その日の仕事が終わったら、パタンとふたしてしまえば、自動で休止状態になる。そして翌朝ふたを開きさえすれば、前日に閉じた時と同じ状態にすぐに復帰する。Windows 98 まではこんなことをしているとすぐにメモリーにゴミがたまって頭が一杯になってしまうようで、やたらとフリーズしまくっていたが、2000 以後は、週に 1度ぐらいシャットダウンしてやりさえすれば大丈夫になったと記憶している。

ところが、世の中には仕事を終えると PC をいちいちシャットダウンする人が結構多いようなのである。よくまあ、そんな時間のかかる面倒なことをしているなあと、驚いてしまうのだが、電源オフしないで帰宅するなんて考えられないという人も多いようなのだ。

私は基本的に面倒くさいことが嫌いで、面倒を避けて手っ取り早く仕事を済ませるために PC を使うのだと思っている。ところが世の多くの人は、PC は基本的に面倒くさいもので、何をするにも時間がかかって当然だと思っているようなのだ。手書きする方が早いのに、それではビジネス文書扱いしてもらえないから、しかたなく PC に入力していると思っている人がまだまだいることに、驚いてしまうのである。

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2016/04/30

GDP に反映されない富

近頃 「GDP に反映されない富」 というものについて考えることがある。この季節、田舎に行くと山菜採りが盛んだ。田舎の人のほとんどが山に入って山菜採りをするわけではないが、好きな人はしょっちゅう山に入って山菜を採り、この季節ならではの味わいを楽しんでいる。

で、この山菜というのは人間の体の摂理にとても合っているようで、冬の間に体の中に溜まってしまった老廃物などを排出させる働きをしてくれる。体が求めているからおいしくも感じられるのだろう。ゼンマイやワラビ、コゴミ、タラの芽など、しみじみとしたおいしさは、金をかけた豪華な食事とは別の種類の贅沢である。

ただしかし、こんな素晴らしい贅沢は、GDP には全然反映されない。インスタントラーメンなんてものを大量に消費すれば GDP は上がるのに、山菜を食して心豊かな楽しみを得ても、国家的な豊かさの指標となる GDP とは無関係なのである。

その昔、PC が生活にも仕事にも浸透し始めた頃、業務上の年賀状を PC で印刷するのが当たり前になりつつあった。年末に差し掛かった頃、年賀状を自前で印刷していると、出入りの印刷業者の営業さんが顔を出して、「あ、年賀状を自分で作ってる! だからウチらは儲からなくなったんだ」 なんて言っていた。印刷業者には申し訳ないが、年賀状なんてものは、自分で手作り的にやる方が安いし、楽しい。

年賀状ばかりではない。自分で手作りを楽しめるものはいくらでもある。高度成長期からこっち、自分で作れるモノでも大量生産されたものを金を出して買ってくるのが 「豊かさ」 だと思われてきた。しかしその馬鹿馬鹿しさに、人々は気付き始めている。

一頃、電車に乗ればルイ・ヴィトンのバッグで溢れていた。そのへんのフツーのおばさん、おねえちゃんが、誰も彼もルイ・ヴィトンのバッグをぶら下げていたものである。しかし最近、そんなこともなくなってきた。相変わらずフツーの身なりをしてバッグだけはどえらいプレステージの象徴という、妙な姿のお人はいるが、どうやらそれはアウト・オブ・トレンドになってきたようだ。

妙に不釣り合いなバッグが大量消費されると GDP は上がるが、ごく当たり前のものに乗り換えれば GDP は下がる。それで、何の不都合があるのだろう。

若者がクルマを買わなくなったといわれて久しい。田舎に住めばクルマは必需品だが、人口の都会への集中が顕著な今の世の中では、クルマはなくても済む。不必要なモノを買って、余計な駐車場の賃貸料を払い、無駄にガソリンを消費するのは馬鹿馬鹿しい。必要なければ買わなければいいのである。時々必要というなら、レンタカーを利用するとかカーシェアリングという方法もある。

しかし余計なクルマを持たなくなると、自動車メーカーの売り上げは伸びない。税収入も減る。GDP 的にはマイナスである。

GDP という指標が減ると、マクロの視点ではあまりいいことはないと言われる。しかしその裏側まで子細にみれば、悪いことばかりでもない。これまでの世の中が GDP に象徴される 「見せかけの豊かさ」 に最適化されすぎてきただけなのではないかとわかる。その最適化が崩れて、別のプロセスが現れ、それがある程度の規模になれば、今の GDP という指標は 「全然実態にそぐわないもの」 となるだろう。

私自身は、もう還暦を過ぎたことでもあり、「GDP に反映されない富」 を楽しみたいと思うようになってきた。団塊の世代が高齢者となった今、それぞれのやり方で 「手作り的生活」 を楽しむようになれば、「GDP なんて、別にどーでもいいもんね」 という人が増えるだろう。

そう言える人が少ないうちは、「GDP はやなり重要なのだ」 というマクロな視点が力をもつが、増えてしまえば 「別の指標がないと、本当の豊かさってわからないよね」 ってなことになる。経済の構造は変わる。歴史をみれば変わらない構造なんてなかった。ミクロも積もれば山となる。

その積もり方は、これまでの歴史のスピードより速いはずだ。なんと、3D プリンターなんてものも出てきたしね。

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2016/04/29

田舎の道は、歩行者なんていない

昨日、本当に久しぶりに東京下町をクルマで走った。そこで如実に感じたのだが、茨城県の道路と東京下町の道路の最大の違いは、「人が歩いているか/歩いていないか」 ということである。東京の下町 (まあ、下町に限らないのだろうが) の道路は本当に多くの人が歩いているが、茨城県内のフツーの道路は、歩いている人なんか滅多にいない。

交差点で左折とか右折とかする時に、横断歩道の歩行者のために止まって待たなければならないのは、東京の街である。茨城県では、横断歩道を渡る歩行者なんて、主要駅前でもない限り滅多にいない。ちょっと小さな駅だと、大抵家族の誰かがクルマで迎えに来ているから、駅前といえども歩行者なんていない。

田舎の人は歩かないのである。ちょっと近くのコンビニに行くのでもクルマに乗る。歩いて行こうなんていう発想はハナからない。一方、都会の人間はよく歩く。自宅から最寄りの駅まで、10分以上の道を歩くのは珍しくないし、駅にたどり着いたら階段の上り下りが待っている。最近はエスカレーターが増えたが、それでも階段の上り下りが皆無になったわけじゃない。

だから 1日の平均歩数は、都会人の方がずっと多い。田舎で暮らしていたら、1日 2000歩も歩かないかもしれない。それで田舎の人間は、案外体力がない。

というわけで、私は最近よく自転車に乗るのだが、田舎では自転車は歩道を走る方がいいと思っている。だって、田舎の歩道には人間なんていないのだから、放っておくのはもったいない。それに田舎の県道なんて大抵道幅が狭く、バスがすれ違うにも大変だ。そんなところを、ママチャリがのらりくらり走ったら、確かに危ない。

私自身は田舎道でも自転車で車道を走るが、あまりにも道幅の狭いところを大型トラックがビュンビュン通り過ぎるような区間では、歩道に避難することもある。そうでもしないと、本当に命の危険を感じてしまうのだ。どうせ歩道を通る歩行者なんていないのだから、「歩道は自転車専用道」 と割り切るのが現実的だ。

本当に都会と田舎では、道路の存在意義がかなり違っている。

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2016/04/28

「おもてなし」 の 「語源」 について、再び

私は自分でも 「アスペルガー一歩手前」 というほどだから、言葉をずいぶん文字通りに解釈する傾向が強い。例えば 「ラジオの音を低くして」 と言われたりすると、「このラジオ、トーン・コントロールがないから、低くはできないんだけどなあ」 なんて思ってから、「ああ、そうか、ボリュームを小さくするってことね」 と、ようやく気付いたりする。音の 「大小」 と 「高低」 を、言葉の上でしっかり区別しちゃうのだ。

フツーの人はそこまでビョーキじゃないだろうが、「語源」 という言葉をものすごくテキトーに使っている人が多いようだということに、4日前の "「おもてなし」 の語源が 「裏表がない」 とは、乱暴すぎる" という記事を書いていて気がついた。ネットを検索すると、"「おもてなし」 という言葉の 「語源」 が 「裏表がない」 ということ" としているページが、やたらと多いのである。本当に数え切れないほどだ (参照)。

例えば検索結果の筆頭に来ている、もっともらしい名称の某協会のページには、次のように書かれている。

「おもてなし」 とは、「もてなし」 に丁寧語 「お」 を付けた言葉である。「もてなし」 の語源は 「モノを持って成し遂げる」 という意味です。お客様に応対する扱い、待遇とも言われます。「おもてなし」 のもう一つの語源は 「表裏なし」 です。つまり表裏のない 「心」 でお客様をお迎えするという意味になります。

「モノを持って成し遂げる」 という説に関しては後述することにして、ここではまず、"「おもてなし」 とは、「もてなし」 に丁寧語 「お」 を付けた言葉である" と、きちんと説明しておきながら、そのすぐ痕に "「おもてなし」 のもう一つの語源は 「表裏なし」 です" なんて言うことについて触れよう。このテキストを作成した人は、こんなことを書いて矛盾も気持ち悪さも感じなかったんだろうか?

なんとなく教え諭す風に書いてあるところから察すると、この人は 「語源」 という言葉の意味を知らずに書いているので、矛盾も気持ち悪さも感じていないとしか思えない。「語源」 という単語を、「言葉を (無理矢理に) 解釈したところの深イイ意味」 ぐらいのつもりで語っているようなのである。

今さら言うのも馬鹿馬鹿しいが、「語源」 を Goo 国語辞書で引くと、このようにある。(参照

個々の単語の本来の形や意味。また、個々の単語の成立の由来や起源。

「おもてなし」 という単語の 「本来の形」 は 「もてなし」 なのだから、その 「語源」 に 「表/裏」 という概念が介在する余地はない。つまりこの単語の 「成立の由来や起源」 に 「表/裏」 なんて、まったく関係がない。ということは、しつこく繰り返すが、「裏表なし」 は 「おもてなし」 の 「語源」 であるはずがない。後からこじつけた解釈を 「語源」 なんて言っちゃいけない。。

誤解されないように言っておくが、私は 「裏表のない心でもてなす」 ことに意義を唱えているわけではない。そのように解釈してそのように実行するのは、なかなかいいことである。ただし、"「おもてなし」 の 「語源」 は 「裏表なし」" などという寝言を言うのだけはやめてもらいたい。「語源」 とさえ言わなければ問題ないが、それを言った時点で、おのれの無知をさらけ出したことになり、せっかくの 「深イイ」 が台無しになる。

例えば 「『働く』 とは、傍 (はた) を楽にすることですよ。周囲のために働くという気持ちが大切ですよ」 とか言うのは素敵だ。しかし、"「働く」 の 「語源」 は 「傍を楽にする」" なんて言ってしまったら、その瞬間、アウトだ。まあ、この誤解もネット上に溢れていて、かなり気持ち悪いのだが。

さて、再び例の 「某協会」 のページにもどると、次のようにある。

「おもてなし」 には、目に見える 「モノ」 と、目に見えない 「コト」 があると言われます。

(中略)

おもてなしとは 「思い遣り」 を出来る限りの 「モノ」 と 「コト」 で、表裏の無い心で誠実に伝えることです。

おいおい、"出来る限りの 「モノ」 と 「コト」 で云々" と言う前に、あなたは "「もてなし」 の語源は 「モノを持って成し遂げる」 という意味です" と言っていたではないか。急に 「コト」 が加わってしまったことに何の説明もないのは、いくらなんでも唐突すぎる。このテキストを書いた人が、ここでもう一つ気持ち悪くならなかったというのも、やっぱりおかしい。

私が 3日前の記事で書いたように、「おもてなし」 は 「モノを以て」 ということとは関係がない。だから、「裏表なし」 「モノを以て成し遂げる」 という妙ちくりんな語源説は、はっきり言ってデタラメである。

このデタラメがこんなにも広まってしまったのは、ネット上のコピペや引用あるいは勝手に取り込むことで広がったという要素が大きいと思われる。一見もっともらしく、「深イイ」 みたいな気がしてしまうので、あちこちで (敢えて言わせてもらうが) 無知な人たちが、いい気持ちになって安易に広めてしまったようなのだ。

おかげで 「語源」 という言葉の意味をちゃんと踏まえてる人間には、気持ち悪くてしょうがない状態になってしまっているのである。上記の 「働く = 傍を楽にする」 と合わせて、「二大気持ち悪い語源説」 と言っていいかもしれない。

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2016/04/27

蛙と環境 2

田植えのシーズンになり、田んぼに水が張られたので、今年もついに蛙が鳴き始めた。蛙は雨が降りそうに鳴ると喜んで鳴き始めるといわれるが、ここ、つくばの地はさすがにガマガエルの本拠地みたいなところで、ガマガエルに限らずアマガエルまで天気に関わらずひっきりなしにゲコゲコ鳴いている。

ただ、この地に引っ越してきた 35年前の蛙の鳴き声は、こんなもんじゃなかった。蛙の鳴き声をテーマにした 「筑波山麓合唱団」 という歌があるが、あの頃は 「大合唱団」 といった様相で、毎日毎日大変な大音響だったのである。

この蛙の大音響を 「うるさい」 と感じるようだと、この辺りの人間は生きていられない。どうやら人間には、蛙の鳴き声を 「聞こえても聞こえない音」 とする DNA が組み込まれているようで、どんなに大音響でもちっとも苦にせずに、夜もしっかり寝られる。このことに関しては、10年以上前に 「蛙と環境」 というタイトルで書いている。

ただ、この 10年前の記事でも書いているが、近頃蛙の鳴き声がめっきりおとなしくなってきた。つまり蛙が減ってきているのだろう。今、我が家の周囲で聞こえる蛙の鳴き声も、何匹いるのか、しっかり聞き分けられる。ちなみに今は、5匹の蛙が鳴いているとわかる。30年前は無数の蛙の声が一塊となって、個別の鳴き声を聞き分けるなんてとてもできなかった。

蛙の減少はここだけでなく世界的な傾向のようで、これには除草剤と化学肥料の使用が関係していると、南フロリダ大学 (University of South Florida) の研究チームが発表している (参照)。ただ私としてはそれだけでなく、紫外線の増加が、体表面に毛がなく丸裸の両生類にとって、かなり悪影響を与えているのではないかとみている。

オゾン層の破壊が止まり、農薬や化学肥料の使用が控えられれば、生物多様性の維持という視点からはかなりいい影響があると思う。蛙の鳴き声が個別に聞き分けられる昨今、環境破壊はまだまだ進んでいると如実に感じてしまうのである。

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2016/04/26

東京オリンピックのデザインをダイナミックにするには

東京オリンピックとパラリンピックのエンブレムが決定した。「組市松紋 (くみいちまつもん)」 というんだどうだ。「市松模様」 といえば、日本の伝統柄として十分にお馴染みで、その意味ではなかなか乙なデザインなんだろう。少なくとも前に決定しかけてたのよりはずっとマシだ。

前に決定しかけてた 「アレ」 は、作者が 「見かけは似ていても、発想や成り立ちが違うのだから、『盗用』 ではない」 と言い張っていたが、プロセスは違っても結果があんなにも似ちゃってたんだからしょうがない (参照)。プロセスさえ違えば結果が似てても盗作じゃないなんて論理が通ったら、世の中似たデザインの洪水になってしまう。

もっともこのデザインの原型となった 「市松模様」 は、決して日本独特ってわけじゃない。西洋でも 「チェッカー柄」 として定番となっているものと、基本的には同じだ。日本でも昔から 「石畳模様」 と言われて定番だったらしい。それが江戸時代中期の佐野川市松という女形が衣装に取り入れて大ヒットしたことから、後に 「市松模様」 と呼ばれることとなった。

とまあ、そんなわけで、藍色を使うことで日本らしさを強調しているが、元々は必ずしも日本独特の発想ってわけじゃない。しかしそのことがかえって、オリンピックという国際大会のエンブレムとしてほどよく馴染むということになるのだろう。いわく言いがたいほどほどのところがいいってわけだ。

ただ、このデザインに関しては 「地味すぎる」 とか 「躍動感がない」 とかいう批判もあったらしい。まあ、そう言われてみれば確かにそんな気もする。少なくともダイナミックという感じはしない。

20160426_204238しかし私は毎日新聞の紙面の写真で、「あれ、角度によっては結構ダイナミックじゃん!」 と思ってしまった。エンブレム発表式で、作者の野老朝雄氏と作品を斜め下から煽って撮った写真の印象である。パラリンピックのデザインが、斜め下から見たためにデフォルメされて映っており、それがかなりダイナミックに見えちゃったのだ。(写真は毎日新聞より)

「これ、市松模様を変形したんだから、いっそのこともう一歩の変形を加えて、斜めにしちゃったらよかったのに!」 と思ってしまったのである。まあ、デザインというのは好きずきだから、「斜めじゃダメじゃん!」 という人もいるだろうが。

試しに妻に、「少なくともパラリンピックのエンブレムは、斜めにしちゃった方が雰囲気いいと思わない?」 と聞いてみると、「う〜ん、そうかもね」 と言っていた。

デザインの世界って、なかなか面白いものと思った次第である。

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2016/04/25

地震予知というもの

台湾の 「地震予測研究所」 というところがブログに、2016年 4月 22日までに、マグニチュード 8 クラスの大地震が起こると書いたらしく、その噂が広がっていたが、結果的には当然にもそんな予測は当たらず、それに伴う騒動は収束に向かった。

「22日」 という予測の日に先立ち、NHK の公式ツイッター 「NHK 防災・生活」 は 20日の時点で、「現代の科学では時間や場所を具体的に特定する地震予知は確立されていません。日本はどの地域でも地震への備えが必要ですが、あやふやな情報にはくれぐれもご注意下さい」 と警告を発していた。これに関して、"「地震予知は科学ではない」 と NHK が注意喚起" という記事が流れたが、NHK は 「科学ではない」 と直接言ったわけではない。

「地震予知は科学ではない」 というのは、ビミョーに言い過ぎだろう。噂の台湾の研究所というのは、本当に 「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」 レベルのものらしいが、世の中には真面目に地震予知を行おうとしている人もいる。ただし、それがまだ科学としての確立に至っていないという話であり、少なくとも地質学などの知見を総合することには、意味はあるだろうと思われる。

ただ本当に地震予知というのは難しい話で、身近な 「土砂崩れ」 の予測すらできないことからも、その困難さが推測できるというものだ。「土砂崩れの危険性の高い区域」 というのは、既に特定できている。しかしそれが具体的にいつ発生するかというのは、特定できない。それが特定できていたら、土砂崩れによる人的被害なんてなくなるだろうが、それすらできていないのである。

同様に、「大地震の可能性の高い地域」 というのも、既に特定されている。最近とみに話題になっている 「南海トラフ地震」 なんていうのは、太古の昔から周期的に発生しているのだから、「可能性が高い」 どころか、「必ず」 と言っていいほど確実に発生する。それは前提なのだが、具体的にいつ発生するかというのは、特定できていない。

それもまた当然の話で、何十年、何百年という時間は人間にとってはかなり長い時間だが、地球的なレベルで考えれば 「一瞬」 みたいなものである。地球の方が 「一瞬」 と思っていることを、人間のせっかちすぎる物差しで時間的な特定をしようとしても、それは無理というものだ。

しかし、地震発生の日時までは特定できないまでも、「その時はかなり近付いてきている」 というところまでは、言うことができるようになるだろう。現在のレベルでは、まだまだ漠然としたことしか言えないだろうが、データを集積することにより、その時間の幅を徐々に狭めていくことならできるだろう。もっとも、それもまた先の長い話だろうが。

何しろ大地震というのは頻発するとはいいながらも、数年に一度の出来事である。ケースが少ないのだ (もっとも、それより多くては危なくてこの国には住めないだろうが)。それに地下深くの地質構造にしても、詳細なデータがそんなにあるわけじゃない。研究の進み方が遅々としたものになるのも当然だ。

とはいいながら、「どうせ地震予知なんてできないんだから、そんなインチキ研究は止めてしまえ」 というのも、私には暴論に思える。科学か科学でないかの判断は、きちんとした科学的手法で行っているかどうかによる。その歩みは遅々としているし、きちんと科学的であろうとすればするほど急な進展は期待できないだろう。しかしまったく意味のないこととは思わないのである。

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«「おもてなし」 の語源が 「裏表がない」 とは、乱暴すぎる