2015/08/02

最近はエアコンを使っている

我が家では 2011年の東日本大震災以来、極力エアコンを使わないことにしてきた。実際、震災後 2年間はまったくエアコンを使わなかった。真夏の猛暑日は窓の外に直射日光よけの遮光スクリーンをかけて、開け放した窓から風を取り入れ、真冬の夜中はダウンパーカを着て仕事をしていた。

「原発を稼働させなければ電力が足りない」 という主張に対抗して、「電力使わなきゃいいんだろ、使わなきゃ!」 と、暑さ寒さに耐えていたのである。実際、耐えれば耐えられるものだった。

しかし 2013年からは、ごく控えめにエアコンを使用するようになった。この年の夏が記録的な猛暑だったことと、こちらも還暦を過ぎて、あまり暑さを我慢しすぎると体調を崩してしまいそうだったためである。昨年は 2013年ほどの猛暑ではなかったこともあり、まったく使わなかったわけではないが、極力控えめに使用していた。

そして今年である。7月下旬から、エルニーニョなんて本当か? というぐらいの猛烈な暑さが続いている。さすがに還暦を 3年も過ぎた身としては、省エネ運転ではあるが、あまり我慢せずにエアコンを使うことにした。何しろ、この春から我が家の屋根には太陽光発電パネルが載っているので、「俺んちで作った電気を、俺んちで使うんだ。文句あるか!」 ってなもんである。

日が沈んでからは自前の発電はゼロになるが、電力ピークを過ぎているので、「原発を稼働させないと、電力消費をまかなえない」 なんてことを言い出されずに済む。それで、夜になっても極々控えめにエアコンを作動させて仕事している。日が暮れると気温が下がっただけ相対的に湿度が上がるので、下手すると日中より暑く感じてしまうためだ。

とまあ、この夏はこれまでと比べるとエアコンの使用頻度が高くなっているが、それでもトータルにみれば、我が家の電力消費は自前の発電量を下回っている。ということは、売電価格は東京電力から買う場合の価格を上回っているので、金額的にも結構な黒字である。光熱費に相当する支出は、ローンの返済を含めても以前より少ない。だから条件さえ許せば、太陽光発電はエコであり、さらに経済的でもあると、オススメしている。

ただ、私としては売電価格が買う場合の価格と同じでも文句は言わないつもりである。経済的な問題よりも、電力ピークと言われる時間帯でも、原発なんか稼働させなくても十分まかなえるという体制にもっていくために、少しでも貢献しているのが嬉しいと思っているのである。

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2015/08/01

"ROCK IN JAPAN FESTIVAL" という名称を巡る冒険

今年も私の在住する茨城県のひたちなか市で、ROCK IN JAPAN FESTIVAL が始まった。我が家の娘も毎年行っていて、今年も行っているようだ。既に夏の大きなイベントとして定着していて、ラジオの交通情報は、朝から常磐高速道の下り線が混んでいると伝えていた。

ところでこのイベントの正式名称は上述の通り "ROCK IN JAPAN FESTIVAL" (全部大文字が正式らしい) となっているが、フツーは "ROCK IN JAPAN" と呼び慣わしているように思う。冒頭でリンクさせたこのイベントの公式サイトでも、"ROCK IN JAPAN FES. 2015" と、 "FESTIVAL" の部分は軽く扱われて、省略表記になっている。

我が家の娘も 「ロック・イン・ジャパンに行く」 とは言うが、「ロック・イン・ジャパン・フェスティバルに行く」 とはまず言わない。きちんと正式名称で言ったら、かんじゃいそうだし。

どうでもいいことかもしれないが、私は前から最後の "FESTIVAL" ってのは余計じゃないかなあと言ってきた。"ROCK IN JAPAN FESTIVAL" と言ってしまったら、直訳すると「日本祭の中のロック」 ということになってしまうよねと、ちょっとケチを付けているのである (参照)。主催者には申し訳ないけど。

しかし最近になって、「なるほど、この名称にはやむを得ない事情があったのかもしれないね」 と、理解を示すようになった。私もずいぶん心が広くなったものである。

その 「事情」 というのは、多分商標登録に関するものだ。単なる "ROCK IN JAPAN" では、「日本のロック」 という意味合いの一般名称に過ぎず、商標として登録できなかったんじゃないかと推測するのである。それで仕方なく固有のイベントという意味を明確にするために、最後の "FESTIVAL" を加えたんじゃないかと思うのだ。

そう考えると、フツーにはみんな 「ロック・イン・ジャパン」 と呼び慣わして、「ロックイン・ジャパン・フェスティバル」 とはあまり言わないという現象も理解できる。イベントの企画運営というのも、なかなか大変なのだね。この辺の理解というのも、私のいうところの 「裏方感覚」 と無関係じゃないと思っている。

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2015/07/31

東京オリンピックのエンブレムの "L" って一体何なの? (その 2)

昨日の続きである。

私は昨日の記事で、東京オリンピックのエンブレム・デザインが "Theatre de Liege" のロゴマークに「似てる/似てない」 という議論以前に、「どう見ても、無駄で無意味な "L" がある」 という点で、このデザインはアウトだということを主張した。これは当然の視点だと思っている。

ところが、日本国内の報道やブロゴスフィアを眺めても、そうした指摘は驚くほど少ない。大方は 「似てる/似てない」 の印象論的堂々巡り議論に終始しているのが、私にとっては不思議で仕方がないのである。

このあたりのことを、欧米ではどう捉えられているのかと検索してみたところ、「日本に対する海外の反応を報道するニュースサイト」 という触れ込みの NewSphere というサイトで "東京五輪エンブレム盗作疑惑 「偶然」「Lに見える」「桜版より良い」米サイトで話題" という記事に、関連する記述が見つかった。

米国のインターネット界隈には、"Kotaku" という日本のサブカルチャーファンが集まるサイトがあるというのだが、ここに多くの読者コメントが寄せられていて、デザイン業界に近い人ほど 「偶然」 と見る傾向が強いという。

ただし 「盗作」との見方も当然ながらあって、東京五輪に関係のない、「元ネタ」 の "Liege" の "L" が残っているのが証拠だとする意見が目立っているとある。そうした指摘は、次の 2点に集約されるようだ。

  • アーティストの説明がどうであろうと、英語圏の者から見れば L にしか見えない。
  • なぜ L を入れたの? 誰かが劇場のロゴを見て気に入り、意味も分からずにコピーしたのだと思う。

これは私の指摘と同じ視点である。やはり英語圏では、いや、英語圏に限らずアルファベットを使用する言語圏では "L" の字を 「不自然」 と見るのが 「自然」 のようなのだ。そりゃ、当然のことだよね。昔ちょっと英語でメシを食っていたことがあるというだけの日本人の私が、最初に見たときから 「この "L" って、何なの?」 と引っかかっていたぐらいだから。

で、オリンピックのエンブレムというのは、当然ながら国際的に使用されるものなのだから、アルファベットを使用する言語圏の人間が 「この "L" って、何なの?」 とフツーに思ってしまうようなデザインは、採用すべきじゃないと、重ねて思ってしまうのであるよ。

これはもう、盗作か否かとか、似てるか似てないか以前の、とてもベーシックな問題である。盗作か否かなんていうのは、どうせ最後までわからないのだから、「一見シンプルに見えるデザインの中で、無駄で無意味な要素が目立ちすぎている」 という明らかに客観的な事実に即して、このデザインはアウトとすべきだと思うのだ。

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2015/07/30

東京オリンピックのエンブレムの "L" って一体何なの?

オリンピック東京オリンピックのエンブレムに盗作疑惑が持ち上がっている。ベルギー、リエージュの Studio Debie が自らの Facebook Page で 「よく似ている」 と問題提起しているのだ(参照)。下の画像は、その Facebook Page への直リンクで表示しているのだが、確かによく似ている。

で、ネット上では 「似ている」 「盗作だ」 「インスピレーションを得ただけじゃないか」 「まったく別のデザインだ」 などなど、いろいろな見解が飛び交っているが、私としては、「似ている/似ていない」 という話の前に、佐野研二郎氏のデザインによる東京オリンピックのエンブレムにある "T" と "L" の  「"L" は一体何なんだ?」 ということを問題にしなければならないと考える。

Studio Debie による Theatre De Liege (「リエージュ劇場」 といえばいいのかな) のロゴは、イニシャルの  "T" と "L" の組み合わせだから、デザイン意図が鮮明だ。しかし、東京オリンピックのエンブレムの方の "L" は、何を意味しているのかさっぱりわからない。

7月 24日の選考結果を伝える NHK ニュースでは、次のように伝えられている (参照)。

「TOKYO(東京)」「TEAM(チーム)」、それに「あした」を意味する「TOMORROW(トゥモロー)」の3つのことばの頭文字の「T」をイメージしたデザインとなりました。

はい、OK、"T" の方に関してはわかった。かなりこじつけっぽいけど、この類いのものって、大抵そんなもんだ。その上で再び問う。「で、"L" の方の意味は?」

「いや、あれは "L" じゃなくて、あくまでも "T" のデザイン変化なんです」 と言うのかもしれないが、それは常識的にみて無理がある。あれはフツーにみれば、 "T" と "L" の組み合わせ以外の何物でもない。もっと言えば、どうみても "T" よりもむしろ "L" の方が鮮明に読み取れる。

私が問題にしたいのは、デザインの選考をする時に、審査員が 「この "L" は一体何なの?」 と疑問を呈することがなかったのだろうかということなのである。なかったのだとしたら、審査員は全員 「感覚派」 すぎる。文字のもつ意味に無頓着にもほどがある。

要するに、「似てる/似てない」 の議論は結論なんて出ないだろうが、「どう見ても、無駄で無意味な "L" がある」 という点で、このデザインはアウトだということなんだよね。「シンプルなデザインは似たものになりやすい」 と弁護する向きもあるが、これは一見シンプルに見えて、"L" の文字という無駄な余計ものを抱えている点で、シンプルでもなんでもない。

というわけで、この唐突で必然性のない "L" の文字の存在そのものが、雄弁に 「盗作」 の可能性が高いことを語っていると、私は思ってしまう。証拠残り過ぎじゃん。

大会組織委員会は 「長い時間をかけて世界各国の商標を確認し、今回のデザインを発表したので問題はないと理解している」 なんてコメントしているが、「長い時間」 をかけりゃ許されるってもんじゃない。

問題は酷似したデザインがあるという事実を見逃していたということと、そして何よりも、このデザインから無意味な "L" の文字を読み取ることができなかったというお粗末さである。

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2015/07/29

生き返ったヒラリー・クリントン

私はヒラリー・クリントンには何の恨みもないのだが、昔から辛辣なことを言い続けてきている。9年前の中間選挙の時には 「ヒラリーは、ただスマートなだけかも」 と評した。何をやらせてもそつなくこなす常識と 「勘の良さ」 はちょっとしたものだが、質問への応答の仕方が想像通り過ぎて (つまりマニュアル通りってこと)、人間的な魅力が感じられないのだ。

つまり、彼女はどう振る舞えば魅力的に見えるかを知っていて、その通りに演じているだけだったのだよね。9年前のジョージ・ブッシュ (息子の方) との大統領選を私は 「何を言えばスマートに見えるかを熟知しているヒラリー・クリントンと、どのように振る舞い、何を言えば馬鹿に見えるかを知らないジョージ・ブッシュ」 の戦いと言っている。

その上で、米国南部を中心とする保守層は 「スマートな人間が嫌い」 なので、どう転ぶかわからないとしていて、その懸念通り、馬鹿に見えまくりだったジョージ・ブッシュが勝ってしまったのだった。本当に世の中はマニュアル通りにはいかないものなのだ。

さらに前回のバラック・オバマとの指名争いの時には、「賞味期限切れのヒラリー」 とまで書いちゃっていて、米国初の女性大統領が生まれるとしたら、ヒラリー以外の誰かだろうなんて言っている。しかし、ここに来て私はこの前言を撤回しなければならないようだ。

ヒラリーは一度賞味期限切れしていたが、周回遅れで走っているうちに、いつの間にか生き返ってしまったようなのである。リモデルしてラベルを貼り替えたような勢いになっている。

彼女はこのほど、米国の再生可能エネルギー生産を大幅に拡大する方針を示し、大統領就任から 4年以内に (つまり最初の任期以内に) 太陽光パネル 5億枚以上を設置し、10年以内 (任期は切れてるけどね) に国内すべての世帯に十分なクリーンエネルギーを供給するという目標を示した。

さらに 「公平な経済」 という理念を掲げ、「富める者がより富めば、低中所得者層にも富がしたたり落ちる」 という新保守的な考えが誤りだったことを指摘した。低中所得者層の家族の生活を引き上げることで、国の経済成長につなげる必要性を説き始めている。

私のような者からすると、「ようやくそこに気付いたか」 ってなぐらいのことだが、まあ、これまでのヒラリーからはあまりイメージできなかったことを、大まじめに言い始めていることは評価していいと思う。望むらくは、今言っていることを本当にしっかりやってもらいたい。

とくに共和党候補のトップが、あの怖いもの見たさ人気のドナルド・トランプというのだから、現時点では最も可能性の高い候補ということになる。長い選挙戦だから、これからどんなどんでん返しがあるかわからず、序盤でトップを走っていた人間が最後に笑うことにはならないのが、米国の大統領選だが、今回ばかりはヒラリーも過去 2回でかなり学んでいるはずだから、期待していいかもしれない。

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2015/07/28

クルマの運転があぶないのは、高齢者ばかりではない

最近クルマを運転していて思うのは、高齢者の運転はやっぱりあぶないということだ。ものすごくトロい運転が増えているのは、世の中の高齢化と無関係じゃないだろう。相手の反応がワンテンポかツーテンポ遅れることが多いから、こちらとしてもかなり慎重に対処しなければならない。

交差点の対向車線に右折しようとしているクルマがいて、その後ろが数珠つなぎになっている。こちらの車線もクルマの切れ目がないから、私はスピードを落として、そのクルマを右折させてあげようとする。ところが右折するに十分すぎるほどの間隔を空けてあげたのに、そのクルマはまるで動こうとしない。

こちらとしては、「せっかく右折させてあげようとしたのに、動かないんじゃしょうがないな」 と思う。通してやりたいのはやまやまだが、こちらが余計な一時停止までしたら追突されるおそれがあるので、そのままのスピードで直進しようとする。すると突然、相手の車が右折しようと動きだす。反応が遅すぎるのだ。こちらは驚いて急ブレーキをかける。私の後ろのクルマの驚いて止まる。その後ろのクルマも同様だ。

こちらが急ブレーキをかけた時には、向こうも驚いて止まっている。そして恐れをなしてしまい、そこから全然動こうとしない。こちらは慎重に再スタートして通り過ぎる。

こんなこともある。信号のない交差点で、こちらから見て左側の小路からクルマがそろそろと現れる。こちらは念のためスピードを落とす。相手の運転者は定石通り右を見て左を見て、もう一度右 (つまりこちらの方) を確認するのが見える。そこまですれば、当然こちらが通り過ぎるのを待つと思うのだが、さにあらず、突然左折しようと動き出す。

きちんと左右確認の動作をしているのに、こちらが見えていないのだ。年をとると視界が狭くなり、反応も遅くなるといわれるが、本当にその通りだと思う。こんなことが時々あるから、クルマの運転は一頃よりずっと慎重にするようになった。そうでないと、あぶなくてしょうがないのである。

こんなような 「トロくてあぶない運転」 をするのは、圧倒的に高齢者が多いが、実はそればかりではない。一部の中年のオバサンもかなりトロくてあぶない。彼女らはトロくてあぶない上に、ものすごく自分勝手でもある。これは経験則で学んだことである。横断歩道で歩行者が渡ろうとしていても、オバサンはまず停まろうとしないし。

あの類いのオバサンたちが年をとったら、一体どんな運転になってしまうのだろうと、心の底から心配になる。

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2015/07/27

エルニーニョではあるらしいが

1か月ちょっと前に 「どうやら本当にエルニーニョらしい」 というタイトルの記事の最後の行で、「ここまできたら、どうやら 『冷夏』 は覚悟した方がよさそうだ。情熱的な夏物語は、来年以後に待とう」 と書いている。この時点では常識通りに、梅雨明けは遅く、冷夏の傾向になると思っていたのである。

ところが実際には、梅雨明けは日本各地でばらつきがあって、沖縄・奄美地方ではものすごく早かったが、その他は関東甲信越や東海でほんのちょっと早く、その他はちょっと遅めとなっている。全体としてみれば、とりたてて遅いってわけじゃない。

それになにしろ、暑い。この暑さは確実に昨夏以上だ。少なくとも 「冷夏」 なんかじゃない。ただ、やたらと雨が多い。もっと言えば、雨の多いところではいつも以上に多い。続けざまに来ている台風が軒並み 「雨台風」 で、かなりの大雨をもたらしている。

つまり、「冷夏」 では全然ないが、大雨傾向は確実にある。エルニーニョの特徴の半分は満たしている。このまま暑い日が続いたら、エルニーニョらしさの帳尻を合わせるために、雨の方が頑張ってしまうんじゃないかと心配だ。

で、ニュースによると今回のエルニーニョ現象は、冬に向かって強まりそうな気配なんだそうだ。冬までエルニーニョだと、暖冬になりやすいと言われている。夏が暑くて冬が暖冬なんてことになると、日本の平均気温はかなり上がってしまう。

はてさて、今後の天気は一体どうなるんだろう。

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2015/07/26

「二六時中」 が 「四六時中」 に変わったのは?

サザンオールスターズの 『真夏の果実』 という曲に 「四六時中も好きと言って」 という歌詞がある。初めてこの曲を聴いた時は、今どきの若い連中は 「四六時中」 なんて言われても意味がわからないんじゃないかと心配したものだ。いや、多分 10人中 5人はわかっていないかもしれない。

いうまでもなく、これは九九の 「四六 二十四」 から来た言葉で、24時間、つまり 1日中ずっとという意味だ。しかしこの言い方になったのは、比較的最近のことだと思っている。明治の頃までは、「二六時中」 というのが普通だったようだ。夏目漱石の小説では、「二六時中」 という言い方がよく出てくる。

江戸時代 (というか、多分明治初期まで) は 「一時 (いっとき)」 は 2時間で、1日は 「子の刻」 から 「亥の刻」 まで、12の 「時 (とき)」 に分けられていた。だから 「二六時中」 である。1日は 24時間だなんて思っていなかったのだから、当然のことだ。それが西洋式に 1日が 24時間になった明治の世の中でも、言い方としては 「二六時中」 がずっと残っていたのだと思われる。

この 「二六時中」 が、1日 24時間になったのと帳尻を合わせるために、いつの頃からか 「四六時中」 に変わってしまったのだろうが、いつから 「四六時中」 がメインになってしまったのかは、なかなか調べがつかない。どなたか明確なデータをもっていないだろうか。

ところで、今日は私の 63回目の誕生日だった。このくらいになると、誕生日を忘れ、自分が何歳なのかも忘れがちになる。

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