2015/07/03

"I love you." と "This is a pen."

私には長年にわたる不思議があった。それは 「どうして日本人の多くは、"I love you." を発音する時に、"I” と “you” にアクセントを置いて、"love” をあっさりと言うんだろう?」 というものだ。

実際、多くの日本人はカタカナとしての 「アイラブユー」 は、味も素っ気もなく平板アクセントで発音するが、英語としての "I love you.”というフレーズを声に出して読ませてみると、大抵「アイラブユー」 と発音する。(フォントの大きさの違いによって表現してみたが、スマホ表示だとその変化がわからないかもしれない)

これ、ネイティブ・スピーカーの実際の場面ではまずこんなことはない。相手を見つめて言うのだから、「私は」 と 「あなたを」 の部分は言わずもがなであり、強調する必要なんかない。言いたいのは 「愛してる」 ということに尽きるのだから、当然のごとく真ん中の "love" を強く言う。多くの日本人式の言い方なんかしたら、「僕はぁ、君をぉ、ごにょごにょ」 に聞こえてしまい、確実にフラれてしまう。

「なんでまた、こんなに変な言い方になってしまうんだろう」 と、私にはずっと疑問だったのだが、今日、突然の天啓のごとくにその疑問が氷解した。気付いてみれば、「なんだ、そんなことだったのか!」 と言いたくなるほど、簡単なことだ。

日本人が 「愛」 を軽視しているからとか、照れくさがっているからとか、そんな大げさな理由では決してない。それほどまでにシリアスな意味合いを、英語のこのフレーズに投影しているとは到底思われない。

それは単に、多くの日本人が "I love you." を "This is a pen." と同じリズムとイントネーションで発音してしまうからである。思えば日本人にとっての英語は、すべて "This is a pen." に集約されてしまうのだ。

思えば、日本人が発音すると "I am a Japanese." も "I go to school." も "I like football." も、単純なフレーズはみんな同じ調子になる。これもすべて "This is a pen." のバリエーションに過ぎないのだ。

そうだ、きっとそうに違いない。ああ、すっきりした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/07/02

今、米国で注目の "Marketeer" (マーケティア) とは?

emi さんが "Marketeer" という記事を書いておられる。まだ日本ではまったくお馴染みじゃないが、英語には "marketeer" なる言葉があるらしい。"Marketer" (マーケター) ではなく、"pioneer" (パイオニア) や "volunteer" (ボランティア) と同様に、「マーケティア」 と発音すべき単語である。

この単語は単に 「マーケティングをする人」 という意味の "marketer" とは異なり、上述の "pioneer"、"volunteer" などの単語から喚起される意味合いを含み、極めて先進的なマーケティングを、企業活動に従属するのではなく、生活者視点から自発的に独立して行う人を指す。今、米国ではこのような自由なマーケティングが時代を切り開くものとして注目されている。

…… というのは、真っ赤な嘘である。手持ちの Wisdom 英和辞典では、「市場商人、(特定の)市場制度の支持者」 とされているが、はっきり言って、こんな説明ではよく分からない。「市場商人」 なんて言っても、市場に立脚しない商人なんて見たことないし。しかし Oxford Dictionaries では、そう言うほかないようなことになっているようだ (参照)。

とはいえ、実際には  "marketer" とほとんど違わない、あるいは、多くの人は違いをあまり意識しない言葉として使われているらしい。emi さんはとりあえず 「マーケティング担当者」 という訳語を当てようとしているようだ。"Marketer" というよりちょっと今風な感じであるらしい。

とまあ、ちょっと小洒落た単語ということなので、日本で流行ってしまうかもしれず、そうなると、emi さんは次のような心配をしておられる。

この語の存在が知られたら一気に流行りそうだな。
ただ、そういう感覚派の人たちのやることなので、
「マーケターと何が違うんですか?」ってなったとき
いいかげんな説明をつけて広めちゃうんだろうな。
そうやってまたガラパゴスなカタカナ語が生まれるのかな。

というわけで、emi さんが危惧しておられる事態が生じるとしたら、多分こんなようなことになるんじゃなかろうかと、先回りして書いてみたわけなのである。前もってこんな風な 「釣り」 と 「バラし」 をしておけば、あまり妙なことにはならなくて済むんじゃなかろうかと思ったわけなのだが、なにしろ 「感覚派」 の人たちのことだからそんなのお構いなしに、いろんなことを言い出すかもしれない。

まあ "enginieering" (エンジニアリング) みたいな感じで、 "marketeering" (マーケティアリング) という言い方が、 "marketing" (マーケティング) よりちょっとお洒落っぽい、「最近の高度なマーケティング」 というような雰囲気を指す言い方として、一部の 「感覚派」 が使い出すことはあるかもしれないね。

そういえばその昔、"image engineering" なんてことを標榜する 「感覚派英国人」 のマーケティング・コンサルタントがいたなあ。ちっとも役に立たなかったけれど。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015/07/01

「環境的回心」 ということ

ちょっと旧聞になってしまったかもしれないが、Christian Today の "ローマ教皇、回勅「ラウダート・シ」発表 環境問題で回心呼び掛け 正教会・WCC・聖公会・ローザンヌも歓迎" という記事について触れよう。フランチェスコ 1世 (最近は「フランシスコ」 という表記が目立つが、私としてはずっと 「フランチェスコ」 を採用しているので、これで通させていただく) が、「回心」 を呼びかけているというのは、最大限に大きなニュースだ。

「回心」 というのは、「えしん」 と読めば仏教用語で、「邪心を改めて仏道に帰依する」 という意味だが、キリスト教では 「かいしん」 と読み、英語で言えば "conversion" である。「改宗」 あるいは 「これまでの生き方を悔い改めて、信仰に目覚めること」 といった意味だ。動詞は "convert" で、野球の守備位置を変えることも同じ単語を使う。

つまり、これまでとはがらりと変わった立ち位置に立つことである。フランチェスコ 1世は、このほどの回勅で、「環境的回心」 (ecological conversion) が必要であると訴えている。つまり、これまでの 「人間中心主義」 を改め、「統合的エコロジー」 によって自然との共存を目指す生き方をすべきとしている。

つまり、これまでは 「自然は障害であり、人間によって作り替えられ、乗り越えられるべきもの」 という 「人間中心主義」 を改め、「自然は保護し、共存すべきもの」 としている点で、従来の西欧的哲学をひっくり返すほどの意味をもつのである。

これはむしろ、東洋的な思想に近付いているともいえるが、同時に最新の科学的知見をしっかりと取り入れている点で、科学と宗教の和解を促進するものともいえる。つまり今回の回勅は、十分な科学的裏付けをもつ現代的なものなのだ。そうした点で、私はフランチェスコ 1世は歴史に残る偉大な教皇であると思う。

私は過去にも "「フランチェスコ 1世」 という名のローマ教皇" (2013/03/15)、"ローマ教皇が、自然破壊は 「モダンな罪」 と指摘" (2014/07/13) という記事で、「今のローマ教皇はエコロジカルな視点をかなり重視している」 と指摘しているが、今回の回勅はその本領を発揮されているようなのだ。

重要な点は、この回勅をカソリックのみならず、他のキリスト教諸派も歓迎しているという点である。もっとも保守的な勢力とみられていたカソリックが、これほどまでにラジカルなエコロジーを推進するというのは、西欧の宗教哲学が大きな転換を図っているということであり、世界の精神世界に大きな影響を与える。

世界は今、大きく方向変換を始めているのである。これはフツーの日本人が思っているよりずっと大きな意味をもつ。これを理解できないと、世界の潮流に取り残されると言ってもいい。原発再開なんて言ってる場合じゃないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/06/30

ならば私は「¥記号をつけた数字で表示:¥1,200」 の店を選ぶ

脳科学マーケティング100の心理技術』 という本が話題になっている。脳科学的アプローチによって、売り上げを増大するマーケティングの紹介である。ネットの世界では、次のようなクイズが散見されて、この本を売るための巧妙な宣伝になっている。

レストランのメニューからクイズです! 次の3つの料金表示うち、一番多く注文が取れたのはどれでしょう?

① ¥記号をつけた数字で表示:¥1,200

② ¥記号をつけない数字表示:1200

③ 文字で説明:千二百円

このクイズの正解は ② なんだそうだ。他の 2つは 「お金を出す」 ことを強くイメージづけるため、脳に 「痛み」 を感じさせ、人を実際の購買行動から遠ざけてしまうというのである。

ちなみにこの本によれば、「回転寿しやタクシーの料金など、1回1回の消費で料金が上がっていくのをお客さんが目にする販売方法は最悪です!」 ということになるらしい。なるほど、寿司を一皿食うごとに、タクシーで約 300メートル行くごとに支払金額が上がっていくシステムは、脳にある種のストレスを与える。

しかし、この 「ある種のストレス」 のおかげで、客は別の安心感を得る。自分の支払う金額がきちんと把握されるので、「一体いくら取られるんだ?」 という不安感から逃れられる。つまり小さなストレスのおかげで、より大きな安心感を得られる。

この 「安心感」 というのは、要するに 「余計な金を支払わなくて済む」 ということだ。具体的には、消費者が設定した 「ここまで!」 というリミットに達する前に 「自らストップをかけることができる」 という意味である。

つまり裏側からみると、『脳科学マーケティング100の心理技術』 という本は、「消費者が自らストップをかけることができなくなる巧妙なマーケティング・メソッドを指南する本」 ということになる。つまり、客に余計な金まで使わせるための本だ。

ということは、これは品物やサービスを提供する側のために書かれた本で、消費者のために書かれた本ではないということに気付かなければならない。つまり、この本に書かれたメソッドを実行している店は、「賢い」 かもしれないが、それは甚だ 「中途半端な賢さ」 であり、決して 「顧客志向」 ではないということだ。

だから消費者の立場に立てば、メニューの価格表示に、「¥」 マークの付いている店の方がありがたい。そうした店を選べば、余計なものまで注文した挙げ句、レジで 「しまった、飲み食いしすぎた!」 と後悔しなくて済むかもしれないということだ。

逆に 「¥」 マークのないメニューを出す店は、手前の利益ばかり考えて、客に余計な金を出させようとするあこぎな店かもしれないから、警戒しなければならないというわけだね。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2015/06/29

労働時間と生産性に関する身近な実感

「ニュースの教科書」 サイトに 「米国人は仕事中毒? 休暇中もノートパソコンを叩く人が増加中」 という記事があった。仕事中毒なのは日本人だけと思っている人には意外だろうが、米国人は本当に朝から、というか、夜明けから晩まで仕事をしている。

日本のオフィス街で、夜明け前からビルの窓に明かりが灯っているなんてことはほとんどないが、ニューヨーク、マンハッタンのホテルに泊まって、どうせ時差ボケだから夜明け間に起き出してゴソゴソやっていると、隣のオフィス/ビルの窓のいくつかには既に皓々と明かりが点いて、誰かが当然のようにデスクに向かっているのが見えたりする。

もっとも、そんな人はプロフェッショナルなキャリアの人に限られていて、フツーの労働者は決まった勤務時間だけである。例えばオフィスのおねえちゃんなんかは、夕方にコピーを頼まれると、作業している間に退社時刻になりそうな場合は、それがたった 10分ぐらいの作業でも翌朝に延ばすのが当たり前だったりする。

しかし米国の会社役員とか、プロフェッショナルな人たちは、フツーの労働者とは仕事の意欲が違う。そもそもかなり強烈な競争社会を勝ち抜こうとしているし、成果を上げれば挙げるだけ報酬としての見返りがあるということもある。そうこうしているうちに、確かに 「仕事中毒」 みたいなことになる。

一方、日本の労働者の労働時間の長さは、ちょっと異質な気がする。一般的に労働時間のみが長くて、生産性は少なくとも米国、英国、ドイツなどに比べてかなり劣る。要するに、だらだらと長時間労働をしているということになる。

メンタリティとしては、一つには、いくら成果を上げても報酬としての見返りは大した違いはないから、だったらせめて、残業手当で稼ごうかという妙な心得違いをする傾向がある。これって、結果的には成果は大して違わないのに残業手当だけがかさむということだから、企業としてもムダだと思うがなあ。

もう一つ、顧客のわがままを聞きすぎて、納期寸前のスペック変更などをしなければならなくなり、大慌てでサービス残業をしてでも帳尻あわせをするなんてこともある。「お客様は神様」 と思いすぎている結果である。

ビジネス契約というのは本来、発注者も受注者も平等の立場で約束しているのだから、発注者が後になってイレギュラーな注文を加えたら、その分納期をずらすか、エクストラ料金を支払うかしなければならないはずなのに、日本では受注者に 「泣いてもらう」 ことが平気でまかり通っている。これが事前の計画がいい加減なままで走り出して、生産性を落とす原因となる。

要するに 「なあなあの契約」 が多いから、労働時間だけ延びて、成果はあまり上がらないということになるわけね。まあ、その分 「顧客満足度」 は高かったりするが、本来発注者側の責任とされる分も、受注者が 「発注者の身になって」 考えて引き受けてくれてるんだから、そりゃ発注者側の満足度が高いのは当然だ。高い満足度は、受注者に 「泣いてもらう」 ことで実現されている。フェアじゃないよね。

ビジネスというのは、同じ企業がある場合は発注者でも、別の場合は受注者になるのだから、結局それは 「負の連鎖」 になって、日本全体の生産性を落とす結果になる。だから日本人は、勤勉に長時間仕事をするのに、実は好きでやってるわけじゃない。酒飲みながら仕事の愚痴ばかり言っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/06/28

東北がやっと梅雨入り

気象庁は一昨日の 26日に東北南部が、昨日の 27日に東北北部が梅雨入りしたとみられると発表した。平年より半月近く遅く、記録的な遅い梅雨入りだったらしい。

一昨日まで 2日間、仕事で秋田に滞在したが、土地の人は 「梅雨入りしないうちから真夏になってしまったようで、水不足で田んぼや畑が心配」 と話していた。そんなところに一部では有名な晴れ男の私が顔を出したものだから、「これでまた梅雨入りが遅れる」 なんて言われてしまった。

「大丈夫、帰ったらすぐに雨が降って梅雨入りしますから」 と冗談を言っていたのだが、それが本当になり、私の晴れ男伝説にまた新たなエピソードが加わってしまったのだった。「ここまで来ると、空恐ろしい」 なんてジョークも出ている。

ただ、天気図をみると梅雨前線は相変わらず九州南部に停滞しっぱなしで、東北が梅雨入りしたからといって、鹿児島の大雨の心配がなくなるというわけでもないようなのである。一体どうなっているのか、これもまた、エルニーニョのせいなのか。そろそろ日本の真ん中辺りで梅雨前線を引き受けないと、今度は梅雨明けの遅れる心配をしなければならないだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/06/27

広告を出さなければマスコミの 「懲らしめ」 になるか?

"「経団連に働きかけ、マスコミ懲らしめを」 自民党勉強会" という馬鹿馬鹿しい話が、ヒステリックなまでに話題になっている。こんなヨタ話にマスコミはマジになったり、ムキになったりし、それに煽られて日本中が騒いでいる。

そもそもいくら経団連に働きかけたところで、企業が広告を出さなくなるわけがない。まず第一義的には、企業は自社のために広告を出しているのであって、マスコミのために出しているわけではない。それを 「出すな」 というのは、マスコミの言論統制以前に、自由な企業活動の妨害である。

もっと言えば、企業が広告を出すのが 「自社のため」 というのも、いろいろな意味合いがあり、真っ正直に商品を売るための広告もあるが、それだけではない。第二義的には、広告を出す企業とマスコミは、「相身互い」 なのだ。マスコミは広告費をもらって収入とし、その広告を出した企業にとっては、不利益な報道をされないための保険をかけているという側面がある。

だから景気が悪くなると企業は広告費を削るのだが、まったくゼロにはできない。いきなり広告をしなくなってしまったら、何を書かれるか知れたものではない。清廉潔白な企業なんてないのだから、どこをどう突かれてしまうか不安になる。企業がマスコミに広告を出すのは、「運命共同体だから、仲良くしようね」 というアピールでもあるのだ。

という事情からか、今回の馬鹿話に関しては、マスコミはここぞとばかりにヒステリックに騒ぐが、経団連はただ静観するのみである。こんなアホらしいことに反応して何かを言い出すほどには、企業は焼きが回っていない。

もし仮に企業が広告を出さないなんてことにしてしまったら、小規模でアナーキーなジャーナリズムばかりになってしまい、もろにセンセーショナルな記事だけで売ろうとするようになる。これではまるでネットの世界みたいであり、コントロールが効かなくなる。逆効果だ。広告費は 「ジャーナリズムの飼い慣らし費」 でもあるのだ。

もし何だったら、自民党ももっと広告費を使ってマスコミを飼い慣らすがいい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/06/26

太陽光パネルのゴミの同時的大量発生はあり得ない

Sankei Biz が 「40年度の太陽光パネルごみ 77万トン」 と報じている。「耐用年数を過ぎて、ごみとして排出される太陽光パネルが 2040年度に 77万トンに達する」 と、環境省が推計を公表したというのである。しかしこの発表はかなり無茶苦茶なので、「そらみろ、太陽光発電なんて役に立たん」 という言い方をするのは当たらないと言っておこう。

この推計の根拠は、太陽光パネルの耐用年数が約 25年で、大体 25年ぐらい経つといきなり使い物にならなくなって、即廃棄処分になるという前提に立脚している。それが本当なら、確かにゴミの大量発生になるだろう。しかし実際は、その前提自体が誤りだ。

太陽電池モジュールは駆動部分がないので、故障しにくいと言われている。壊れるのは大抵動く部分であって、動かないのは故障しようがない。問題は 「故障」 ではなく 「経年劣化」 だが、これに関しても、パネルの素材であるシリコン結晶は非常に安定的なので、劣化も遅い。

太陽光パネルは普及後間もないので、耐用年数に関しては未知数と言われているが、一般には 25〜30年とされている。しかしこれも 「推測的な一般論」 であり、事実の語るところをみれば、1966年に長崎県の灯台に設置されたシャープ製の太陽電池モジュールは半世紀近く発電を続けているし、 京セラの住宅用太陽光発電は 1984年から 30年以上稼働し続けている。

京セラの発表によれば、経年劣化に関しては 「25年で 9.62%発電量が下がった」 とされている。つまり、25年経っても 90%の能力をキープしているのだ。当然ながら個体差はあるだろうが、いきなり壊れて使い物にならなくなるわけではない。経年劣化で能力が 80%程度に落ちたとしても、即廃棄処分してしまうユーザーはごく少数だろう。しかも最新のパネルはさらに経年劣化が抑えられている可能性がある。

早めに設備更新される可能性があるとしたら、現在の技術水準を大幅に上回る製品が、大幅に安い価格で提供された時だ。それが実現すれば、従来の古い製品を撤去してでも、高機能で安い新製品に更新するユーザーが出てくるだろう。しかしその場合でも一斉にそうなるわけではなく、漸進的な動きとなるだろう。

さらに撤去された古いパネルが即廃棄処分となる可能性は極めて低く、途上国に非常な低価格で (タダでもいいぐらいだ) 輸出してリサイクル使用 ( reuse : 再使用) してもらうことになるはずだ。まだ 90%ぐらいの、悪くても 70%以上の能力を残して稼働可能なものが非常に安価で入手できるなら、使わない方が損だ。

「エコ」 を標榜して展開されているのだから、リサイクルしなかったら、世論の袋だたきに遭う。つまり、25年後に太陽光パネルのスクラップが同時大量発生するというのは、あまりにも乱暴な推論というほかない。ゴミは一度にどっとではなく、徐々に少しずつ発生するのだ。最終的にはどのパネルも廃棄処分されなければならないが、それは誰が考えても核廃棄物に比べればずっと始末がいい。

よりによって環境省がどうしてこんな馬鹿なことを言い出したのか、理解に苦しむ。ゴミの山になるから問題だという理屈を称えるなら、まず最初に警告を発しなければならないのは、より有害な廃棄物を発生し続けている原子力発電に対してだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«歴史認識の落とし穴