2014/11/27

こんなにバター不足にしてまで、牛肉って食いたいかね

妻が最近のバター不足に音を上げている。 「バターがなかったら、マーガリンにすればいいじゃん」 というわけにはいかない、彼女なりのこだわりがあるようなのである。まあ確かに私も、ホテルの朝食なんかについてくるマーガリンの、あのちゃっちい食感には悲しいものを感じてしまうからね。気持ちはわかる。

私自身はバターを塗ったトーストを食べたいという欲求はまったくなくて、どちらかといえばブルーベリー・ジャムなんかの方が好きなので、最近になるまで市場でバター不足が深刻だなんて、全然知らなかった。妻に 「もしスーパーに寄ることがあって、バターがあったら買っといてね」 と言われて、初めて知ったぐらいである。

バター不足の原因は、昨夏の猛暑だそうだ。今夏ではなく、昨夏である。昨夏の猛暑で、乳牛の体力が衰えたことが原因だという。へえ、そんなに後効きしてくるものなんだ。

今年の夏はたまたま、それほど厳しい暑さではなかったが、温暖化が収まったわけじゃないので、猛暑はこれからも当たり前のことになるだろう。ということは、乳牛の体力はますます衰えて、バターの生産はますますタイトになる。これは覚悟しなければならない。

バターは超品薄でも、牛乳の供給は全然問題になっていない。乳業関係の出荷は、まず日持ちのしない牛乳を優先的に市場に出し、残った分をバターなどに加工する。だから、その 「残った分」 というのが少ないので、バターが品薄になっているんだそうだ。

さらに、最近は離農が多くて、酪農家自体が減っているらしい。うむ、確かに私の知人の関係者も、相次いで酪農を辞めている。それに最近は、高級牛肉を生産する方が儲けが大きいようで、乳牛の比率が減少しているらしいのだ。

私の個人的な価値観から言えば、牛肉なんて食う気にならないし、一度屠殺してしまったらそれっきりの肉牛よりも、継続して生産できる乳牛の方がいいように思われるのだが、市場のメカニズムはそんな風には動かないらしい。日本人、そんなにまで牛肉食いたいかね。

政府は国内酪農家を保護するために、バターの輸入は結構厳しく制限しているらしい。フードマイレージを減らすためには地消地産の方がいいから、それについて文句を言う気にはならない。もしかして中国製のバターなんて入ってきても、急場しのぎ以外では売れないだろう。

それにしても、牛肉はさんざん輸入して、さらに国内の肉牛の比率を高め、市場のバランスを崩してまで牛肉を食いたがるこの国の人間のメンタリティに、ちょっと疑問を感じてしまっている。

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2014/11/26

イスラム国と、近代的国家観

Gigazine の "「ISIS 愛してる」 とFacebook に投稿した女性が逮捕される" という記事の見出しだけを読んだ時には、「そりゃ、いくらなんでもひどいなあ」 と思った。

Isis (イシス、アイシス) は、女性の名前である。元々は古代エジプトの豊穣の女神の名前だったが、女の子の名前として案外フツーにつけられる。だから、Isis という女性を愛しているレズビアンの女性が、IS (イスラム国) あるいは ISIS (イラクとシリアのイスラム国) の支持者と誤解されて逮捕されたか、あるいは同性愛を禁じる国だったために理不尽に逮捕されたか、そのどちらかだと思ったのである。

ところがこの女性、イスラム国支持の (ごく素朴な) 確信犯だったらしい。Gigazine は次のように伝えている。

逮捕されたのはアメリカ・バージニア州在住のヘザー・コフマン容疑者。コフマン容疑者は Facebook 上に複数のアカウントを持っており、その中では 「アラーは偉大な功績よりもムジャーヒディーンを好む」 という文章が添えられたイスラム国兵士の写真がアップロードされていたり、「アラーのためのジハード」 という文章がシェアされたりしていました。当局は該当する Facebook アカウントの情報を得たのちに、テロリズムに関するおとり捜査を行いコフマン容疑者を逮捕したとのこと。

イスラム国というのは、想像以上に影響力を拡大しているようなのである。世の中に不満をもつか矛盾を感じているか、あるいはその両方の人間にとって、自らの存在意義を見出し、孤立感を解消し、社会に対して過激なまでの働きかけ (あるいは復讐) をするための受け皿となっているようだ。

かつての過激な学生運動、暴走族、オウム真理教などと同様の機能を果たしているのだと思われるが、決定的に違うのは、彼らがものすごく潤沢な資金源をもっているらしいということだ。そのために、国際的に影響力の大きな活動を展開することが可能になっている。

今回のニュースとなったヘザー・コフマンという女性も、実際にはイスラム国との具体的なパイプをもっているという証拠は何もなく、どうやら夢想的な支持者だったらしい。とはいいながらこれは、何もつながりがなくても心情的に 「ごく素朴な支持者」 となってしまう土壌が、世界中にあることを示す。

私はもちろん、イスラム国に関しては否定的だが、理解すべき点がたった一つだけあると思う。それは近代的な国家観に対するアンチテーゼを、彼らが発しているということだ。これだけは彼らの無茶苦茶な行動とは切り離して、冷静に受け止めなければならない。

世界地図には国境があるが、実際の地球には国境線など引かれていない。国境は人間が勝手に引いたものである。もちろん、民族的なまとまりという心情の外縁というものが自然発生的に想定されたというのは、十分に理解できる。ここでいう 「民族的なまとまり」 というコンセプトに関しては、今年 9月に書いた "「ナショナリズム」 を巡る冒険” という記事を参照していただきたい。

しかし現在の中近東やアフリカに引かれた国境線は、それとはほとんど関係がない。西欧列強の都合で機械的に引かれたものである。単純な直線が多いということからも、それは見て取れる。イスラム国はこうした勝手な国境線を無視し、新たな、あるいは復古的な国家を、受け入れがたい超原理主義に基づくとはいえ、想定している。

ただ彼らのこうした 「国家」 作りは、独自通貨や省庁、治安権力の確立と、妙に近代主義を模した形態を志向しているようだ。せっかくアルタナティブなコンセプトの国家を志向するなら、それなりに別の価値観と手法に沿ってもらいたかったのだが、そうはなっていないようだ。私はこの点においてだけでも、彼らの試みは挫折すると見ている。

結局、新たな 「国」 の確立はメタフィジカルなレベルで追求するべきものなのかもしれない。それはイエスが 「わが国はこの世のものならず」 (ヨハネ伝 18章 36節) と言ったことと通じる。

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2014/11/25

香港の自由を守る運動に心の底から共感

香港の民主派が占拠しているモンコックの道路で、警察によるバリケードやテントの撤去が行われた (参照)。腹立たしいが、天安門のような惨事にならなくてよかったということもあり、とても複雑な気持ちである。

私は前世紀の 80年代から 90年代にかけて、仕事で何度も香港に行き、香港ファッション業界の、若手デザイナーたちと交流をもった。彼らは 「どうして香港を逃げ出してヨーロッパや米国に移住しないんだ? と、多くの人たちに言われるが、僕らは香港に誇りを持っているから、ここでクリエーションを続けるんだ」 と話していた。彼らは今、怒りに燃えているだろう。

彼らは、中国人の血を持ち、狭苦しいが共産中国ではない闊達な都市で、西洋と東洋の交差点でしかなしえない、独自のファッション作りに燃えていた。彼らのクリエーションを支えているのは、「自由」 だった。自由こそが、彼らの誇りだった。それを踏みにじられたら、彼らの存在意義が否定されてしまう。

私は香港民主派の運動に、心の底から共感し、エールを送る。自由を守るために戦う彼らの姿を誇りに思う。我々の役目は、香港の地に天安門のような惨劇が繰り返されないように、しっかりとウォッチし続けることだ。

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2014/11/24

仕方のない選挙

このブログでも何度か書いているのだが、選挙に行かない若者の気持ちが、私はよくわかる。心から投票したくなるような候補者なんてほとんどいないし、支持したくなるような政党だってない。それに、投票なんてしたところで、この国が変わりそうな気もしない。

それでも選挙の度に欠かさず投票に行っているのは、「投票しても何も変わらないが、しなければますます変わらない」 という信念からだ。心から投票したい候補も政党もないが、いつも消去法と妥協の結果で、最後に残った候補者と政党に、仕方なく投票している。

そしてその 「仕方なく感」 が今回ほど強い選挙はない。なんだか馬鹿馬鹿しくてしょうがない。そりゃあ、投票には行くよ。行くには行くけど、「なんで今頃選挙なの?」 という気持ちが拭いきれない。

そもそも、絶対多数の自民党が気紛れ的に解散してくれたのは、野党としては議席を回復するチャンスなのだから、「解散、上等!」 となっていいはずなのに、口を揃えて非難している。やる気ないじゃん。このあたりからして、まったくもって馬鹿馬鹿しい。

多分投票率はものすごく低くなるだろう。投票に行くのは、仕方なくとはいえ、外せない義務と思っている私でさえ、いつもの何倍も馬鹿馬鹿しく思われて仕方がないのだから、投票したりしなかったりというような人だったら、今回は投票所に行く気がしないだろう。

投票率が低くなるのが確実だから、組織票の多い公明党と共産党が議席を伸ばすだろう。さらに今回は選挙そのものに関する反感が強いから、その批判票が共産党に流れる可能性もあり、「えっ?」 というほど伸びるかもしれない。ただ、自民党が議席を減らすのは確実とはいえ、浮動票が少なくなるのだから、それほど劇的に減ることもなかろう。

というわけで、「まあ、どうでもいいわ」 という意識が最初から勝っている。なんでこんな選挙に付き合わなければいけないのか、本当にうっとうしい。大方がそう思っているようで、へそ曲がりの私としては、敢えて 「俺はそうは思わないよ」 と言ってみたいところだが、残念なことにそう言えるだけの材料だってない。

本当に食えない選挙である。

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2014/11/23

欧州産ビールの 「非関税障壁」

多くの欧州産ビールが日本で 「発泡酒」 に分類されているのは、ブランドイメージを損なう非関税障壁だとして、EU が日本側に 「ビール」とみなすよう求めるというニュース (参照) に、初めはちょっと首をかしげた。

「発泡酒」 なら税率が低いので、非関税障壁というよりはむしろ 「優遇策」 になっているんじゃないかと思ったのである。2ちゃんねるなどでも、そんな反応が多い。イメージを重視しても税率が高くなるのでは、元も子もないじゃないかという理屈だ。しかしそれは、中途半端な理解だとわかった。

欧州産のビールは原料にコリアンダーなどの香料を使っている場合が多く、その他のスペックがすべて日本の 「ビール」 という基準をクリアしても、「規定以外の原料を使っている」 という理由だけで、「ビール」 というカテゴリーから排除される。

それだけならまだいいが、日本では麦芽の使用率が 50%以上の場合は発泡酒でもビールと同じ税率になるという規定があり、欧州産ビールの多くがこれに該当して、「イメージの低い発泡酒として分類されながら、ビールと同じ税率をかけられる」 というのが問題のようなのだ (参照)。なるほど、これは確かに 「非関税障壁」 である。

欧州でもドイツでは 「ビール純粋令」 というのがあって、「ビールは、麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」 ということになっている。これは、1516年にバイエルン公ヴィルヘルム 4世が制定した、食品関連では現在でも生きている世界最古の法律ということらしい。

ビールの本家本元と、日本人が勝手に崇拝しているドイツがこういうことになっているので、日本では余計なハーブなんかを加えたのは 「ビールまがい」 と考えられている。「ビール好き」 を自認する人ほど、ホップの効いた苦みのあるラガータイプしか認めない傾向があって、それが税制にまで影響しているとしか思われない。

そもそも、「ビール」 とか 「発泡酒」 とかいう分類は、ビールの高い税率を避けるために抜け道を探して開発した飲み物を、お国が追いかけて 「発泡酒」 なんていう妙なカテゴリーに分類して、税率をビールの次ぐらいに高くするといういたちごっこみたいな様相から生まれたもので、かなりガラパゴスっぽいものである。

実は世界にはいろいろなビールがあって、多様な楽しみ方をされているのに、「これはビールじゃない、1ランク低いんですよ」 といわんばかりに、勝手なカテゴライズをされて、そのくせ税率はビールと同じというのでは、欧州のビールメーカーはたまらないだろう。その辺の事情は理解できる。

ただ、仮にそこをクリアできたとしても、「苦みのあるラガータイプ」 が好まれる日本では、「チャラい香り付け」 なんかがされたビールは、欧州メーカーが期待するほどには受け入れられないだろうと思う。ビールという飲み物のとらえ方が、日本はかなり画一的なのだ。

発泡酒でもアルコールフリーのビールもどきでも、「うむ、これはビールに近い!」 なんていうのが評価の基準である。「独自のテイスト」 なんてものはちっとも重視されていないどころか、そんなものを追求したら、それだけで市場価値を失うだろう。

日本でもジョッキでがぶがぶ飲むというのではなく、ある種のカクテルみたいな感覚で、ちびちび飲むという飲み方が普及しない限り、欧州の個性派ビールはなかなか受け入れられないだろうという気がするのだよね。

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2014/11/22

いきなりの地震にびっくり

ブログの更新をしなけりゃいかんなあと思っていた今夜 10時過ぎ、iPhone に入れている地震情報アプリ 「ゆれくる」 が 「ピロピロピロ〜ン」 と、あの嫌な警報音を鳴らした。「やばいなあ」 と身構えていると、ほんの少しだけ体感できるほどの弱い揺れを感じた。

実は、こんな時ほど心配になる。というのは、地震の巣窟、茨城県南西部でお馴染みの、強くても震度 4程度の直下型地震とは、明らかに様相が違うからだ。直下型地震だと、特有の突き上げるような縦揺れが、いきなりズーンと来るのだが、今回はまったく違う。

この土地に住んでもう 37年になるので、直下型の揺れには慣れっこになっていて、「ああ、これが最大の揺れで、これ以上にはならない」 と、逆に安心するが、今夜の地震のように弱い揺れだったりすると、逆にうろたえてしまう。それは、どこか遠くで大地震があったことを意味するからだ。

とくに初期微動といわれる弱い揺れが長く続いたりすると、それはとりもなおさず、すぐに本番の強い揺れが襲ってくるということだから、本気で身構えなければならない。そうでなかったとしても、遠くに住む親類縁者が心配になる。

今夜の地震は、つくばの地までは本番の強い揺れは届かなかったが、慌てて階下に降りてテレビをつけると、長野県北部が震源で、最大震度は 6弱という。6弱といえば、3年半前の東日本大震災での、この辺りの震度と同じだから、結構な被害が出ているはずだ。

ニュースを見ても、白馬村で住宅倒壊という以外に大きな被害は報道されないが、何しろ真っ暗だから、どこでどんな被害が出ているか、発見しにくいし、伝えにくいのだろう。 夜が明ければ、いろいろなことがわかってくるはずだ。

長野県北部には、知り合いが結構多い。安否が心配になったが、こんな時に電話をかけるのは回線混乱の元だから、遠慮している。何人かは Twitter や Facebook で無事が確認され、ほっとしている。こんな時には、SNS が本当にありがたい。

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2014/11/21

「個性的」 であることと 「追従的」 であること

Gigazine に 「なぜ流行に敏感な人たちは誰もが同じような格好をしているのか、を数学者が解明」 という記事がある。しかし、この記事の日本語タイトルはかなり問題で、紹介している記事の内容と基本的に矛盾する。そしてその矛盾は図らずも、現代の 「流行」 という現象の重層性を表していると思う。

紹介されている内容の元記事のタイトルは、"The mathematician who proved why hipsters all look alike" というものだ。直訳すれば、「ヒップスターたちはどうして同じように見えるのかを証明した数学者」 ということになる。原文の 「ヒップスター」 を、日本語記事のタイトルでは 「流行に敏感な人たち」 と訳しているわけだ。

ところが元記事をみると、ヒップスターは 「流行に敏感な人たち」 とは捉えられていない。むしろ逆だ。元記事ではヒップスター (hipster)  と対照的な人たちのことを コンフォーミスト (conformist)と呼んでいて、むしろこちらの方が、流行を追うとされている。

ここではっきりさせておこう。"hipster" とは、「ヒップな人」 のことである。じゃあ、「ヒップ」 って何だ? ということになろうが、日本語で適当な言葉が見当たらない。 「ヒッピー」 という言葉の元になったということからも、見当をつけていただきたい。

ただ、"hipster" を英和辞書で引くと、私の手持ちの Wisdom 英和辞書では、「流行の先端を行く人」 という説明が出ている。ここが問題だ。流行には二通りあることを理解しないと、わけがわからなくなる。

早く言えば流行には、「当たり障りのない流行」 と、「ぶっ飛んだ流行」 とがあるのだ。「当たり障りのない流行」 とは、百貨店の店員などが、「今シーズンの流行は、オーソドックスなトレンチコートでございます」 なんて言って薦める場合のものだ。

ごくフツーのおばさんやおねえさんが、新しい服を買うときに流行遅れにならないように取り入れる、ごくフツーの 「はやり」 ってな意味である。そして、こうしたごくフツーの流行に従うのは、「ヒップスター」 ではなく、「コンフォーミスト」 たちなのである。ここをしっかりと踏まえる必要がある。

Conformist とは、直訳すれば 「体制順応的な」 という意味である。つまり、商業的なファッション雑誌などで 「今シーズンの流行はオーソドックスなトレンチコート」 なんていう記事を読むと、素直に受け入れて、オーソドックスなトレンチコートを買ってしまうのが、「コンフォーミスト」 だ。つまり、彼らは彼らなりに 「流行に敏感」 なのだが、別の言葉で言えば 「追従的」 なのである。

一方、ヒップスターは 「フツーのファッション情報」 には従わない。もっとぶっ飛んだ格好をしたがる。つまり 「敏感」 ではあるが、決して 「追従的」 じゃない。フツーの流行に追従するよりは、個性的でありたいという願望をもっている。ところが、「個性的でありたい」 と念願すると、結果としてみな同じような格好になってしまうのはどうしてかというのが、問題の研究の骨子なのである。

つまり、日本語の紹介記事のタイトルが間違っているのだ。文字通りに単純に考えれば、「流行に敏感な人」 が 「同じような格好になる」 のは、一定の流行に沿えばそうなるのが当たり前なのだから、「なぜ」 と問う意味がない。数学的に掘り下げる意味のない、ナンセンスな問いを、こうした記事のタイトルにしちゃいけない。

「なぜ流行に敏感な人たちは誰もが同じような格好をしているのか」 ではなく、「流行に追従しない人たちがみな同じに見えるのはどうしてか」 とすべきだったのである。こう表現すればこそ、「流行に追従しないくせに同じになってしまう」 というパラドクスが浮き彫りにされるのだ。

ここに 「流行の重層性」 というものが垣間見える。多数派が従うに抵抗を感じない程度の 「包括的ではあるが、ディテールのアレンジで多少は違いを演出できる」 というような流行と、「個性的であろう」 とする少数派がつい陥ってしまいがちな、「ぶっ飛んではいるが、結果として同じに見えてしまう流行」 とがある。

で、その 「ぶっ飛んではいるが、結果として同じに見えてしまう流行」 というのがどうして生じるかを数学的に解明したのが、元記事で紹介されている Jonathan Touboul という数学者で、彼は人間の脳のニューロンによる認識のタイムラグが、そのような現象を生じさせるとしている。

しかし私の考えでは、多分そればかりではなく、「個性的でありたい」 と願う一群ですらも、その 「個性的でありたい」 と願う志向性によって、「似たもの同士」 が集まって同じになりたがるという心理的傾向をもつのだと思う。「個性的でありたい」 ということも、一つの表面的なアイコンに陥りがちなのだ。

ラジカルな意味できちんと 「個性的」 であり続けるというのは、多分、ものすごく複雑で疲れる作業なのだろう。

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2014/11/20

日本のオフィス照明って無駄に明るすぎ

最近、「JIS 照度基準」 なるものがあると、初めて知った。工場、学校、商業施設なと、用途ごとに実にきめ細かく、必要な明るさが定められている。例えば、工場の設計室、製図室は 750ルクスなどと定められている。どうやら、事務系のオフィスは 500〜750ルクスぐらいと定められているようだ。

それで 「オフィスの明るさは 600ルクス必要」 などというのが一般的認識になっているが、省エネが叫ばれるようになってようやく 「それは神話にすぎない」 と言われるようになった。環境意識の高いオフィスでは、室内の照明は 350ルクスぐらいに設定されれていて、実感としてそれで十分である。

近頃は事務系の仕事では PC を使うのが当たり前で、ディスプレイは光っているので周りをそんなに明るくする必要はない。紙の書類を読むのでも、部屋全体をそんなに明るくする必要はなく、手元だけをタスク・ランプなどで照らせばいい。最近は LED の省エネ型のものがいくらでもある。

近頃は窓ガラスなどの開口部を広くとって、晴れた日中はさんさんと日の差し込む設計のオフィスが多いが、それでも天井の照明を全部点けている。試しにその照明のスイッチを切っても、体感的な明るさはほとんど変わらないのだが、従業員は出社するとほぼ自動的に照明のスイッチを全部オンにする。

たまに環境意識の高い従業員がいて、スイッチを入れないでおいても、後から来たオッサンが何も考えずに、バシバシ全開にする。トイレから出る時にスイッチを切ると、「なんでいちいち暗くするんだ」 と怒り出したりする。

オフィスの照明というのは、かなりの電力を使う。これをすべて LED に変えて、エアコンをちょっと節約モードで使うと、電気代はものすごく安くなる。トイレの照明を、センサー付きにして使わない時には自動的にオフになるようにすると、さらに節約になる。

「暗いのは嫌だ」 なんて言っている人でも、オフィスの照明をこっそりと半分しか点灯しないように細工しておいても、全然気付かなかったりする。日本のオフィスの照明の使いすぎを是正するには、単に気分的な 「明るい方がいい」 という思い込みを、リセットする必要があると思っている。

家の明かりでも、コンビニの店内みたいに馬鹿馬鹿しいほどあかるくする必要はない。試しにちょっと照明を暗めにしてごらん。とても落ち着くから。

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