2014/11/23

欧州産ビールの 「非関税障壁」

多くの欧州産ビールが日本で 「発泡酒」 に分類されているのは、ブランドイメージを損なう非関税障壁だとして、EU が日本側に 「ビール」とみなすよう求めるというニュース (参照) に、初めはちょっと首をかしげた。

「発泡酒」 なら税率が低いので、非関税障壁というよりはむしろ 「優遇策」 になっているんじゃないかと思ったのである。2ちゃんねるなどでも、そんな反応が多い。イメージを重視しても税率が高くなるのでは、元も子もないじゃないかという理屈だ。しかしそれは、中途半端な理解だとわかった。

欧州産のビールは原料にコリアンダーなどの香料を使っている場合が多く、その他のスペックがすべて日本の 「ビール」 という基準をクリアしても、「規定以外の原料を使っている」 という理由だけで、「ビール」 というカテゴリーから排除される。

それだけならまだいいが、日本では麦芽の使用率が 50%以上の場合は発泡酒でもビールと同じ税率になるという規定があり、欧州産ビールの多くがこれに該当して、「イメージの低い発泡酒として分類されながら、ビールと同じ税率をかけられる」 というのが問題のようなのだ (参照)。なるほど、これは確かに 「非関税障壁」 である。

欧州でもドイツでは 「ビール純粋令」 というのがあって、「ビールは、麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」 ということになっている。これは、1516年にバイエルン公ヴィルヘルム 4世が制定した、食品関連では現在でも生きている世界最古の法律ということらしい。

ビールの本家本元と、日本人が勝手に崇拝しているドイツがこういうことになっているので、日本では余計なハーブなんかを加えたのは 「ビールまがい」 と考えられている。「ビール好き」 を自認する人ほど、ホップの効いた苦みのあるラガータイプしか認めない傾向があって、それが税制にまで影響しているとしか思われない。

そもそも、「ビール」 とか 「発泡酒」 とかいう分類は、ビールの高い税率を避けるために抜け道を探して開発した飲み物を、お国が追いかけて 「発泡酒」 なんていう妙なカテゴリーに分類して、税率をビールの次ぐらいに高くするといういたちごっこみたいな様相から生まれたもので、かなりガラパゴスっぽいものである。

実は世界にはいろいろなビールがあって、多様な楽しみ方をされているのに、「これはビールじゃない、1ランク低いんですよ」 といわんばかりに、勝手なカテゴライズをされて、そのくせ税率はビールと同じというのでは、欧州のビールメーカーはたまらないだろう。その辺の事情は理解できる。

ただ、仮にそこをクリアできたとしても、「苦みのあるラガータイプ」 が好まれる日本では、「チャラい香り付け」 なんかがされたビールは、欧州メーカーが期待するほどには受け入れられないだろうと思う。ビールという飲み物のとらえ方が、日本はかなり画一的なのだ。

発泡酒でもアルコールフリーのビールもどきでも、「うむ、これはビールに近い!」 なんていうのが評価の基準である。「独自のテイスト」 なんてものはちっとも重視されていないどころか、そんなものを追求したら、それだけで市場価値を失うだろう。

日本でもジョッキでがぶがぶ飲むというのではなく、ある種のカクテルみたいな感覚で、ちびちび飲むという飲み方が普及しない限り、欧州の個性派ビールはなかなか受け入れられないだろうという気がするのだよね。

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2014/11/22

いきなりの地震にびっくり

ブログの更新をしなけりゃいかんなあと思っていた今夜 10時過ぎ、iPhone に入れている地震情報アプリ 「ゆれくる」 が 「ピロピロピロ〜ン」 と、あの嫌な警報音を鳴らした。「やばいなあ」 と身構えていると、ほんの少しだけ体感できるほどの弱い揺れを感じた。

実は、こんな時ほど心配になる。というのは、地震の巣窟、茨城県南西部でお馴染みの、強くても震度 4程度の直下型地震とは、明らかに様相が違うからだ。直下型地震だと、特有の突き上げるような縦揺れが、いきなりズーンと来るのだが、今回はまったく違う。

この土地に住んでもう 37年になるので、直下型の揺れには慣れっこになっていて、「ああ、これが最大の揺れで、これ以上にはならない」 と、逆に安心するが、今夜の地震のように弱い揺れだったりすると、逆にうろたえてしまう。それは、どこか遠くで大地震があったことを意味するからだ。

とくに初期微動といわれる弱い揺れが長く続いたりすると、それはとりもなおさず、すぐに本番の強い揺れが襲ってくるということだから、本気で身構えなければならない。そうでなかったとしても、遠くに住む親類縁者が心配になる。

今夜の地震は、つくばの地までは本番の強い揺れは届かなかったが、慌てて階下に降りてテレビをつけると、長野県北部が震源で、最大震度は 6弱という。6弱といえば、3年半前の東日本大震災での、この辺りの震度と同じだから、結構な被害が出ているはずだ。

ニュースを見ても、白馬村で住宅倒壊という以外に大きな被害は報道されないが、何しろ真っ暗だから、どこでどんな被害が出ているか、発見しにくいし、伝えにくいのだろう。 夜が明ければ、いろいろなことがわかってくるはずだ。

長野県北部には、知り合いが結構多い。安否が心配になったが、こんな時に電話をかけるのは回線混乱の元だから、遠慮している。何人かは Twitter や Facebook で無事が確認され、ほっとしている。こんな時には、SNS が本当にありがたい。

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2014/11/21

「個性的」 であることと 「追従的」 であること

Gigazine に 「なぜ流行に敏感な人たちは誰もが同じような格好をしているのか、を数学者が解明」 という記事がある。しかし、この記事の日本語タイトルはかなり問題で、紹介している記事の内容と基本的に矛盾する。そしてその矛盾は図らずも、現代の 「流行」 という現象の重層性を表していると思う。

紹介されている内容の元記事のタイトルは、"The mathematician who proved why hipsters all look alike" というものだ。直訳すれば、「ヒップスターたちはどうして同じように見えるのかを証明した数学者」 ということになる。原文の 「ヒップスター」 を、日本語記事のタイトルでは 「流行に敏感な人たち」 と訳しているわけだ。

ところが元記事をみると、ヒップスターは 「流行に敏感な人たち」 とは捉えられていない。むしろ逆だ。元記事ではヒップスター (hipster)  と対照的な人たちのことを コンフォーミスト (conformist)と呼んでいて、むしろこちらの方が、流行を追うとされている。

ここではっきりさせておこう。"hipster" とは、「ヒップな人」 のことである。じゃあ、「ヒップ」 って何だ? ということになろうが、日本語で適当な言葉が見当たらない。 「ヒッピー」 という言葉の元になったということからも、見当をつけていただきたい。

ただ、"hipster" を英和辞書で引くと、私の手持ちの Wisdom 英和辞書では、「流行の先端を行く人」 という説明が出ている。ここが問題だ。流行には二通りあることを理解しないと、わけがわからなくなる。

早く言えば流行には、「当たり障りのない流行」 と、「ぶっ飛んだ流行」 とがあるのだ。「当たり障りのない流行」 とは、百貨店の店員などが、「今シーズンの流行は、オーソドックスなトレンチコートでございます」 なんて言って薦める場合のものだ。

ごくフツーのおばさんやおねえさんが、新しい服を買うときに流行遅れにならないように取り入れる、ごくフツーの 「はやり」 ってな意味である。そして、こうしたごくフツーの流行に従うのは、「ヒップスター」 ではなく、「コンフォーミスト」 たちなのである。ここをしっかりと踏まえる必要がある。

Conformist とは、直訳すれば 「体制順応的な」 という意味である。つまり、商業的なファッション雑誌などで 「今シーズンの流行はオーソドックスなトレンチコート」 なんていう記事を読むと、素直に受け入れて、オーソドックスなトレンチコートを買ってしまうのが、「コンフォーミスト」 だ。つまり、彼らは彼らなりに 「流行に敏感」 なのだが、別の言葉で言えば 「追従的」 なのである。

一方、ヒップスターは 「フツーのファッション情報」 には従わない。もっとぶっ飛んだ格好をしたがる。つまり 「敏感」 ではあるが、決して 「追従的」 じゃない。フツーの流行に追従するよりは、個性的でありたいという願望をもっている。ところが、「個性的でありたい」 と念願すると、結果としてみな同じような格好になってしまうのはどうしてかというのが、問題の研究の骨子なのである。

つまり、日本語の紹介記事のタイトルが間違っているのだ。文字通りに単純に考えれば、「流行に敏感な人」 が 「同じような格好になる」 のは、一定の流行に沿えばそうなるのが当たり前なのだから、「なぜ」 と問う意味がない。数学的に掘り下げる意味のない、ナンセンスな問いを、こうした記事のタイトルにしちゃいけない。

「なぜ流行に敏感な人たちは誰もが同じような格好をしているのか」 ではなく、「流行に追従しない人たちがみな同じに見えるのはどうしてか」 とすべきだったのである。こう表現すればこそ、「流行に追従しないくせに同じになってしまう」 というパラドクスが浮き彫りにされるのだ。

ここに 「流行の重層性」 というものが垣間見える。多数派が従うに抵抗を感じない程度の 「包括的ではあるが、ディテールのアレンジで多少は違いを演出できる」 というような流行と、「個性的であろう」 とする少数派がつい陥ってしまいがちな、「ぶっ飛んではいるが、結果として同じに見えてしまう流行」 とがある。

で、その 「ぶっ飛んではいるが、結果として同じに見えてしまう流行」 というのがどうして生じるかを数学的に解明したのが、元記事で紹介されている Jonathan Touboul という数学者で、彼は人間の脳のニューロンによる認識のタイムラグが、そのような現象を生じさせるとしている。

しかし私の考えでは、多分そればかりではなく、「個性的でありたい」 と願う一群ですらも、その 「個性的でありたい」 と願う志向性によって、「似たもの同士」 が集まって同じになりたがるという心理的傾向をもつのだと思う。「個性的でありたい」 ということも、一つの表面的なアイコンに陥りがちなのだ。

ラジカルな意味できちんと 「個性的」 であり続けるというのは、多分、ものすごく複雑で疲れる作業なのだろう。

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2014/11/20

日本のオフィス照明って無駄に明るすぎ

最近、「JIS 照度基準」 なるものがあると、初めて知った。工場、学校、商業施設なと、用途ごとに実にきめ細かく、必要な明るさが定められている。例えば、工場の設計室、製図室は 750ルクスなどと定められている。どうやら、事務系のオフィスは 500〜750ルクスぐらいと定められているようだ。

それで 「オフィスの明るさは 600ルクス必要」 などというのが一般的認識になっているが、省エネが叫ばれるようになってようやく 「それは神話にすぎない」 と言われるようになった。環境意識の高いオフィスでは、室内の照明は 350ルクスぐらいに設定されれていて、実感としてそれで十分である。

近頃は事務系の仕事では PC を使うのが当たり前で、ディスプレイは光っているので周りをそんなに明るくする必要はない。紙の書類を読むのでも、部屋全体をそんなに明るくする必要はなく、手元だけをタスク・ランプなどで照らせばいい。最近は LED の省エネ型のものがいくらでもある。

近頃は窓ガラスなどの開口部を広くとって、晴れた日中はさんさんと日の差し込む設計のオフィスが多いが、それでも天井の照明を全部点けている。試しにその照明のスイッチを切っても、体感的な明るさはほとんど変わらないのだが、従業員は出社するとほぼ自動的に照明のスイッチを全部オンにする。

たまに環境意識の高い従業員がいて、スイッチを入れないでおいても、後から来たオッサンが何も考えずに、バシバシ全開にする。トイレから出る時にスイッチを切ると、「なんでいちいち暗くするんだ」 と怒り出したりする。

オフィスの照明というのは、かなりの電力を使う。これをすべて LED に変えて、エアコンをちょっと節約モードで使うと、電気代はものすごく安くなる。トイレの照明を、センサー付きにして使わない時には自動的にオフになるようにすると、さらに節約になる。

「暗いのは嫌だ」 なんて言っている人でも、オフィスの照明をこっそりと半分しか点灯しないように細工しておいても、全然気付かなかったりする。日本のオフィスの照明の使いすぎを是正するには、単に気分的な 「明るい方がいい」 という思い込みを、リセットする必要があると思っている。

家の明かりでも、コンビニの店内みたいに馬鹿馬鹿しいほどあかるくする必要はない。試しにちょっと照明を暗めにしてごらん。とても落ち着くから。

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2014/11/19

ブログの時代の終わりはいつ来るのか

近頃、このブログのアクセス数が減っている。ちょっと前までは 1日に 2000 ぐらいだったのだが、最近はほぼ半分の 1000 ぐらいで推移している。減っている理由は、はっきり言って、内容がつまらなくなっているからだろう。

つまらなくなっているというのは二重の意味がある。一つは、最近ネタ不足で、自分としても快心のヒットが飛ばせたと思えるような記事が減ったように思えること。そしてもう一つは、エンタテインメントとして気軽に読みやすい記事を、あまり書かなくなったことだ。

ちょっと前までは、私もアクセス数が欲しいと思っていたので、かなりエンタテインメントを意識していたことがある。しかし最近は、「あれ、俺って、こんなに真面目なやつだったっけ?」 と、自分でも驚いてしまうほどシリアスなことを書いている。これじゃ、よっぽど物好きでもない限り、読んでもつまらないやね。

しかしもうここまできたら、アクセス数を稼ぐような記事よりも、本当に書いておきたいことを書くべきだと思うようになったのである。好きなように書いても、1日 1000 アクセスはあるのだから、もう贅沢を言わせてもらってもいいだろう。

そしてもう一つ思い当たるのは、そもそもブログの時代は終わりつつあるんじゃないかということだ。

初期の 「ウェブ・ページ」 と比較すると、作り込みもイメージも軽くて済むというのが、ブログのアドバンテージだったと思う。この軽さが受けたのだ。しかし今や、もっと軽い SNS が浸透している。書くのも読むのも、SNS の方がずっと取っつきやすい。Twitter なら 「毎日更新」なんて、当たり前だろうし。

Twitter では書ききれないようなことでも、Facebook なら書ける。だったら、わざわざブログみたいなヘビーなものに近付くことはない。なるほど、世の中は栄枯盛衰だから、ブログはいつかその使命を果たし終えて消え去る時が来るのかもしれない。

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2014/11/18

非合理には非合理で対応するのが合理的

つくばの里の田園地帯に開発された住宅地に引っ越してきて、37年を過ぎた。故郷に住んでいたのは 18の春までで、それから 30歳の夏にここに来るまでは、東京都内の 5カ所に住んだ。

12年間で 5カ所に住んだのだから、平均すると 1カ所に 2年ちょっとということになる。まあ、最初の 2カ所はそれぞれ 1年半ぐらいしか住まなかったから、残りは 9年間で 3カ所。一カ所に大体 3年ぐらいは住んだわけだ。それぞれの場所にはそれなりの思い出もあるが、37年という年月に比べれば、ほんの僅かな期間でしかない。

好むと好まざるとにかかわらず、それだけこの地域には根を張ってしまったことになり、町内自治会の役員も、順番で何度かやった。不思議なことに、私が役員をやる順番の年は大した問題が起きないが、他の年はなんだかんだと面倒が起きて、たまたまその年の役員をやった方はかなり気疲れしてしまうようである。

問題というのは、大抵は自治会の内部で、どこかのおっさんがへそを曲げてぐちゃぐちゃ文句を言い続けることだ。大抵の人は、自治会の内部でもめ事なんか起こしたくないから、なんでもかんでも執行部からの提案通りシャンシャンシャンで済まそうとするが、中には文句をいわないと気が済まない人がいる。

で、その文句の中身というのは、ほとんどは 「先日、○○について執行部に問い合わせたのだが、返事がない」 とか、「××について、俺の所には何の挨拶もない」 とかいうような、どうでもいい些細なことである。ただ、些細なことでもこじれると大騒ぎになる。

大抵の人はそんな面倒には関わりたくないから、「また始まった、あの人にも困ったものだ」 と思いつつも、自然にガス抜きされて落ち着くのを待つ。ところが中には、ごちゃごちゃ状態が好きな人もいて、尻馬に乗って余計なことを言い、延々と蒸し返しになったりする。周りはうんざりだ。

で、私が役員をしている年にはそんな問題が起きないというのは、それにはそれなりのコツみたいなものがあって、テキトーにそれを活用しているからだと思う。

文句を言いたい人というのは、ただひたすら文句を言うためだけに文句を言うのである。別に客観的な解決を望んでいるというわけではなく、自分の気が済んでしまいさえすればいいという、甚だ勝手な都合なのだ。それだったら、客観的な解決なんて求めずにガス抜きだけしてやればいい。

それには、「いや、そうじゃないんですよ」 という反応をしないことである。問題のオッサンの話をただひたすら聞き、「そうですか、そうですか。そりゃ、大変でしたね。なるほど、そりゃそうだ」 と、相づちを打ち続ける。ただ、決して 「それは申し訳ありませんでした」 と謝ることはしない。ひたすら 「そうですか、そうですか」 と聞くだけだ。

そうすると、向こうの方から 「俺だって、好んでことを荒立てたいってわけじゃないんだ。ただ、筋さえ通してもらえば、納得するんだ」 なんて言い出して、別に筋なんて通してやったわけじゃないのに、いつの間にか勝手に矛を収め、収束する。

それで、ひたすら話を聞き続けた私は 「あいつはいいやつだ」 なんて言われることになってしまう。「いいやつ」 かどうかは甚だ怪しいもので、私は聞いたことなんて片っ端から忘れ、口先で 「そうですか、そうですか」 と言っているだけなのだが。

つくづく、人間は合理的な存在なんかじゃないと思う。ただ気分で怒ったり納得したりするだけだ。単に気分で怒っているだけのオッサンに理屈で説得しようとするから、相手は自分が馬鹿にされたような気がして、ますますいきり立つのである。

相手はどうせ合理的じゃないんだから、非合理には非合理で対応して済ませてしまう方が、ずっと合理的というものなのだ。

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2014/11/17

水鳥の脚は冷たくないのか

いよいよ寒さが増してきて、近頃まれなほどにたっぷりと満喫した秋が終わり、冬にさしかかった。我が家の裏手を流れる川も、水量が減ってきて冬の様相になってきている。そしてその水量の減った川に、白鷺が頻繁に舞い降りて水の中の魚を狙っている。

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私が冬の鷺を見て感心するのは、「よく脚が冷たくないもんだなあ」 ということだ。冬の川とて水深が浅くなってはいるものの、場所によっては、あるいは雨の翌日などは、結構な深さになる。時には脚のかなりの部分が水中に没したまま、鷺はじっと立っている。

右の写真は 5年前にかなり水かさが増えた冬の朝の写真だが、かなり寒い朝で、かじかむ手でシャッターを押したと思う。よくまあ、こんな冷たい流れの中に立っていられるものだ。

ちょっと気が向いて調べてみたら、鳥類の脚は羽毛に蔽われずに剥き出しなので、寒さや水の冷たさに対応するために、特別の構造になっているということがわかった。寄崎まりをさんという鳥類専門の獣医師さんのブログによると、鳥の脚には 「脛足根血管網」 という効率的な温度調節機能があるらしい (参照)。以下に引用する。

これは体から足先へ向かう動脈と足先から体へ返る静脈が網目状に変化し隣り合わせになっています。体を流れてきた暖かい動脈血は足先からくる冷たい静脈血と脛足根血管網で隣り合わせになることにより冷やされて足先にいきます。一方、足先にからくる冷たい静脈血は暖かい動脈血と交わることで温められて体に戻ります。

つまり、足先に向かう動脈血は途中で冷やされて、外気温との差が小さくなり、そのために寒さや冷たさを感じなくて済む。そして静脈血となって再び心臓に戻る時、今度は暖められて、体幹を冷やさずに済むというのだ。要するに、血液が脚に行き来する途中で、熱交換をしているのだ。

ただ、こんなような効果的なシステムを体内に内蔵するとはいえ、それでもやはり、我慢強いものだと感心してしまうのである。野生であるということは、ちょっとしたことである。

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2014/11/16

偏差値 39の受験生が、2か月で一流大学に合格した話

Nifty News に、"受験生に朗報 「受験は3か月あれば間に合う」" という記事へのリンクがあった。私は 「うん、確かに 3か月あれば十分だよね」 と思った、それどころか、私は今年 2月に 「入試シーズンになると思い出すこと」 という記事で書いたように、大学入試のための受験勉強は、直前の 12月、1月の、2か月しかやらなかった。

冒頭のリンク先に飛んでみると、この記事を書いたのは、『偏差値 40の受験生が 3か月で一流大学に合格する本』 を書いた先生だとわかった。私はまたまた、「うん、そりゃそうだよね。偏差値 40ありゃ、十分すぎるよね」 と思った。何しろ私は上述の記事ではそこまで書かなかったが、高校 3年時の偏差値は 39しかなかった。

さらに受験ということにまったく興味がなかったから、自分の偏差値が 39ということすら全然知らなかった。後輩に 「ウチの高校の受験資料によると、前年度にワセダに現役合格したのは 1人だけで、しかもその人の偏差値は 39ってことになってるんですけど、それって、先輩のことですよね」 と言われ、それで初めて知ったのである。

ただ、「偏差値」 という言葉のちゃんとした意味や、どんなシステムでそんな数字を弾き出すのかということについては、今でも何も知らない。興味がないから、調べてみようという気にもならない。

ウチの高校はその頃、進学校とはいえまともな進学指導なんてしていなかったようで、私以外の受験生は偏差値 50〜60以上あっても、軒並み不合格だった。そしてそのはるか下の 39というところに、1つだけぽつんと○印がついていて、それが私だったのである。まったくもう、他の連中は 3年間もかけて何をさせられていたんだろう。

それをみても、冒頭のリンク先の記事を書かれた予備校の先生がいうのもわかる。フツーの高校の受験指導なんて、確かに間違いだらけなのだ。私は母校の教師に 「お前みたいなケースがあると、『受験勉強なんてぎりぎりまでしなくていい』 ということになって、指導上困ってしまうんだよ」 と言われた。

というわけで、私は 「偏差値 39の受験生が、2か月で一流大学に合格する本」 というのを書けたかもしれない。ああ、実際に書いとけばよかった。だって、本当に受験勉強なんて、ぎりぎりまでしなくていいのだもの。

ただ、上述の受験生への 「朗報」 という記事を読んでみると、なんだかいかにもつまらないのである。この先生はいわゆる 「勉強」 という行為を、一流大学の入試に合格するために 「最適化」 するのが、最も正しい方法だと言っている。

私の考えでは、「勉強」 を大学受験なんていうつまらないものに最適化させてしまったら、それ自体がとてもつまらないものになってしまう。そんなつまらないことに、若い時代の 3か月間を振り当てるなんて考えられない。かけがえのない時間の損失になる。2か月で十分だ。

もっとも、私の高校 3年時の偏差値が 39しかなかったと言っても、中学時代は常にトップだったし、とくに勉強なんかしなくても、試験で苦労したことは一度もない。家庭学習しろなんて言われても、「授業でたいていわかっちゃうんだもの、これ以上、一体何を勉強すればいいんだ?」 と思って、遊び呆けていた。

経験からいうのだが、大学入試に出てくる問題のレベルなんていうのは、中学校までの学習の土台さえしっかりできていたら、あとは簡単に身につく。だから、高校時代はさらに徹底的に遊び呆け、授業をサボりまくって、偏差値が 39まで落ちていた私も、2か月あればあっさり取り戻せた。

高校時代は遊び呆けていたといっても、いろいろな本は読んでいたから、受験勉強には全然最適化されていなかったけれど、脳内はとても活性化されていたと思う。だから私は、予備校の一流講師の助けも借りず、「最も最適化された受験勉強」 のメソッドを自力で自然に発見して、というか、ずっとわかってはいたけどあえて実行する気になれなかったことを、最後の 2か月間で、ちゃちゃっとやっちゃったわけだ。

あんなくだらないメソッドの受験勉強を 2か月より長く続けていたら、私は私でなくなっていた。きっとスポイルされてしまっていたと思う。幸運なことに 3か月も関わらずに済んだから、今の私がある。

ただ逆に言えば。高校生活のほとんどを、好きなことしかせずに遊び呆けていたからこそ、受験というものを外から客観的にみて、「要するに、こことここさえ答えりゃいいんでしょ」 というキモを自然に理解できたのだと思う。そして、2か月が限度というほどの、ちょっとした集中力を発揮したのは、確かかもしれない。

そしてそれから先は、いわゆる受験勉強的なものでないことばかり学んできているというわけなのだよね。

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