2015/01/29

パスワード管理は面倒くさいものだが

AllAbout の newsdig に、「あなたは大丈夫? 漏洩した330万件から分析した最悪のパスワード」 というニュースがある。それによると、2014年で最悪と評価されたパスワードは、昨年に引き続き "123456" で、2位はとても古典的な "password"。3位と 4位は首位と大差ない "12345" と "12345678" だった。

以下、5位から 7位は "qwerty"、"1234567890"、"1234" と、似たようなもので、8位から 10位に 初登場の "dragon"、"baseball"、"football" がランクインし。以下、15位までは "1234567"、"monkey"、"letmein"、"abc123"、"111111" と続く。14位の "letmein" (let me in = 入れて頂戴) も昔からあるが、2014年は 1ランク下がっている。こんなもんでも面倒に感じられるんだろうか。

周囲を見渡しても、"123456" ほどじゃないが、自分の誕生日そのままだったり、電話番号だったり、子どもの名前だったり、ID さえわかっていれば、あとは他人にも容易に想像が付いて不正ログインされそうなパスワードがやたらと多い。危なくてしょうがない。

なんで他人のパスワードのつけ方を知っているかと言えば、初心者に頼まれて PC や SNS の設定をしてあげる時、パスワードの設定まで頼まれることが多いからである。たいていは 「誕生日にしといてください」 なんてことになる。他のパスワードなら、入力したらすぐに忘れてあげることにしているが、誕生日がパスワードでは、忘れてもすぐに調べが付いてしまう。

それでも、当人が忘れてしまって、「私のパスワード、何でしたっけ?」 なんて電話で聞いてくる人がいる。「そんなの、覚えてませんよ。礼儀として忘れちゃうことにしてます。でも、もしかしたら、誕生日かなんかじゃないですか?」 と答えると、たいていの場合 「あ、入れました。ありがとうございます!」で済んでしまう。

中には会社名義の銀行預金のキャッシュカードの暗証番号を "1234" にしている人がいて、さすがにそれは必死に諫めたことがある。

ほぼ安全そうなパスワードを設定していても、「ややこしくて、すぐに忘れるから」 なんて言って、ポストイットに書いて液晶モニターに貼り付けている人も、知っているだけで 10人は下らない。そんなんでは、パスワードを設定するだけ面倒くさい。

「じゃあ、お前は理想的なパスワード管理をしているのか」 と言われたら、「ごめんなさい」 と言うしかないが、それでも誰にも想像が付かない文字の組み合わせにしてある。不正ログインするのは、かなり困難だと思う。

あとは、時々パスワードを変更すれば満点なんだろうが、それがなかなか面倒なんだよね。これからいくつか変更しとこうかな。

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2015/01/28

高速道路の逆走が、いよいよ増えているらしい

時事ドットコムが 「高速の逆走防止対策会議=首都高、センサーで通報検討-警視庁」 と伝えている。私が日頃利用する常磐自動車道でも、インター手前の一般道電光掲示板に、「逆走車を見かけたら #9910に通報」 なんて表示されている。近頃の高速道路は、よほど逆走が多くなっているのだろう。

私は今月初めの 「高速道路の逆走事故を巡る冒険」 という記事でこの問題に触れたが、どうやら高齢ドライバーの増加と無関係ではないようなのである。都会では高齢者が無理に車を運転する必要性は薄いだろうが、田舎では車が下駄代わりなのだ。ちょっとボケたじいさんでも、ごくフツーにハンドルを握る。

だから、私は最近山形県庄内の田舎に帰ると、道路の流れがものすごくゆったりしてしまっているのに気付く。昔はそんなことはなかったのだが、今の田舎は年寄りばかりだから、スピードを出さない (出せない?) のである。流れが法定速度以下なんていう、茨城県では考えられない状況がフツーになっている。いや、そのうち茨城県でもそうなるかもしれない。

老人の認知症というのは、徐々に進行する。家族が異変に気付かなくても、高速道路上で突然ぼうっとしてしまったら、大変なことになる。「ありゃ、乗り過ごしちまった!」 と気付き、次のインターで降りようとして、「いや、余計な金を払うのも癪じゃわい」 なんてことをつい思ってしまい、その場で U ターンなんてことが、フツーにあるみたいなのである。

高齢者がどんどん増えているのだから、ちょっと前までなら考えられないようなケースが増えるのも当然だ。これからは高速道路の運転も、余計なことに気をつけなければならない。

高速道路だけじゃない。私は一般道、しかも狭い田舎道で、自転車で右側を逆走してくる老人の多いことに、かなりヒヤヒヤしている。彼らは 「自転車も車両だから左側通行しなければならない」 なんてことを、まったく知らない。

いや、知らないというだけなら、確率論からいえば左側を走る可能性が半分はあるはずだが、彼らはほぼ 100%右側を逆走する。若い頃から 「歩行者としての右側通行」 が体に馴染んでいるからか、その延長で、自転車でも当然のごとく右側を走る。だから、危険性がきっちりと 2倍になる。

一般に老人は情報弱者となりがちだが、知らなければ命に関わることすら、知らずに生きている。同様に老人に多いのが、「もちによる窒息事故」 と 「振り込め詐欺」 の被害だ。私は今年の正月 4日に次のように書いている。(参照

振り込め詐欺にひっかかっても金を失うだけで済むが、闇夜に無灯火の自転車で右側車線を逆走するのは、命に関わる問題である。しかしいくら命に関わる情報でも、届かないところには絶対に届かない。

だから、「高齢者はもちを詰まらせやすいので、小さく切って、あわてずにゆっくりと食べましょう」 なんていう情報をいくら流しても、平気でわしわし食って、「うっ!」 てなことになる人が後を絶たない。年寄りでも食べやすいもちやその代用食なんてものを売り出しても、肝心な高齢者やその周囲の人までその情報が届きにくい。

こればかりは仕方がない。情報をもつものが気をつけてあげるしかないのである。

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2015/01/27

駅ナカの立ち食い蕎麦屋、大激減

最近、首都圏の主要駅の構内から、立ち食い蕎麦の店がどんどん姿を消しているような気がする。立ち食い蕎麦は、その回転率からいって、もうかる商売の代表みたいな言われ方をしていた時期があって、その頃はどのホームにも、たいてい真ん中辺りに立ち食い蕎麦屋があった。

ところが最近では、立ち食い蕎麦屋のあるホームはとても少なくなり、それどころか、駅の構内を見渡しても、なかなか見つからなくなった。世の中の移り変わりを、私は駅ナカの立ち食い蕎麦屋大激減という現象に、端的に見る重いがしているのである。

ちなみに、駅を一歩出れば今でも立ち食い蕎麦屋は健在だ。「富士そば」 はちょっとした駅前なら必ず見つかるといっていいほどだし、「小諸蕎麦」 も繁盛しているようである。ところが一歩駅構内に入ると、どんどん姿を消している。

そもそも、駅ナカの立ち食い蕎麦の存在意義は、「お洒落な店」 とか 「グルメ」 とかとは対極的なところにあった。ゆっくり食っている時間はないが、とりあえず手っ取り早く小腹を満たしてくれる店として、重宝されていたのである。

一時、牛丼の吉野家が 「うまい、安い、早い」 をキャッチフレーズにしていたが、それは、吉野家が駅ナカの商売じゃなかったからである。駅ナカの立ち食い蕎麦屋には、誰も 「うまさ」 なんて求めない。外食をする客がみな、「うまさ」 を求めているなんてことはないのである。そんなのは幻想に過ぎない。

駅ナカの立ち食い蕎麦屋が、下手に 「うまさ」 を追求するあまり 「安さ、早さ」 を犠牲にしてしまったら、それは幻想にとらわれ、現実の客のニーズを無視したことになるのである。要するに、食えるレベルでありさえすればいいのだ。

一方、駅前の立ち食い蕎麦屋は、事情が少し異なる。駅から一歩出てしまった客は、急いで乗り換えることもないから、それほど時間に追い立てられてはいない。だから小諸蕎麦みたいな、ちょっと手間をかけて蕎麦を、椅子に座ってゆっくり食べられるような、それなりの付加価値を訴求した店が繁盛する。

しかし、「駅ナカ」 と 「駅前」 とは、事情が決定的に違うのである。駅ナカで駅前の商売をしようとすれば、それは儲からないに決まっている。それをわきまえずに、駅ナカで 「ちょっとお洒落な立ち食い蕎麦屋」 なんてものをやろうとしても、成功するはずがない。

近頃リニューアルして 「お洒落」 な雰囲気になった都心の主要駅には、昔ながらの立ち食い蕎麦屋はそぐわない。ところがお洒落な雰囲気に合わせ、若い女の子でも入れるような、ちょっと付加価値を付けた立ち食い蕎麦屋なんてものをやろうとしても、誰も具体的なイメージが浮かばない。そんな中途半端な店は誰も求めていないのだから。当然と言えば当然だ。

そんなわけで、駅ナカの立ち食い蕎麦屋は、廃れてしまった。手っ取り早く小腹を満たしたいオジサンは、結局空きっ腹を抱えたまま電車を乗り換えるしかなくなったのである。

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2015/01/26

馬鹿なことばかりしていたから、戦争に負けたのだ

慰安婦報道巡り、慰謝料求め朝日新聞社を提訴」 と、当の朝日新聞が報じている。朝日の慰安婦問題の報道で 「国民の名誉が傷つけられた」 として、8749人が、1人あたり 1万円の慰謝料と謝罪広告の掲載を求めている。原告の中心みたいな感じで名前が挙げられているのは、渡部昇一氏で、他にも研究者、評論家、衆院議員らが名を連ねている。

ちょっと前までは朝日的論調が日本の主流にあって、従軍慰安婦に関する当然の疑問を述べただけで 「右翼」 呼ばわりされた。ところが今はその力関係が変わってしまって、朝日的な 「行き過ぎたリベラル」 が、槍玉に挙げられてしまっている。

「従軍慰安婦」 に関しては、いろいろな資料を検討してみても 「強制的に徴用された」 というのは明らかに虚偽の言いがかりであり、どうしても日本を悪者に仕立て上げたい勢力が作り上げてしまったでたらめだという指摘に、私も賛成する。その意味で、朝日の犯した罪は重いと思う。

しかしかといって、戦時中の日本には恥ずべき点などなく、悪いイメージはすべて東京裁判において戦勝国側が押しつけたものであるといわんばかりの論調は、「そりゃ、悪のりし過ぎだろうよ」 と思う。いちびりにもほどがある。

戦後になってアジア諸国の独立が勝ち取られたのは、太平洋戦争初期において日本が欧州の植民地となっていた東南アジアに侵攻したおかげだとして、「あれは聖戦だったのだ」 という主張まであるが、私としてはそれはあくまで 「結果論」 だと思っている。まあ、このくらいのことがなければ、あまりにも救いがたいので、ありがたい結果論ではあるが。

太平洋戦争が崇高なものだったとしたら、多くの日本人が一時的な挫折感を超えた後はむしろ進んで敗戦を受け入れ、それまでの価値観をあっさりと捨て去り、開放感さえ覚えていたという事実を説明できない。やはり戦時中の状況は、当の日本人にさえも 「とんでもない無茶」 を強いるものであったのだ。

私の父は志願して予科練に入り、特攻隊に選出された。ところがその頃にはもう 「神風攻撃」 をしかける飛行機は残っておらず、上陸してきた敵に爆弾を背負って自爆攻撃をかける訓練ばかりしていたという。そのうちに終戦になって、父は死なずに済み、巡り巡って私がこの世に生を受けた。

予科練時代の集まりに行った父が、ある年 「海軍精神注入棒」 という記念品を持ち帰った。昔の海軍には、新兵の人間としての尊厳を打ち砕いてしまうために尻をぶん殴る固い樫の棒があり、それを 「海軍精神注入棒」 と称したらしい。その棒を卓上に飾るための小さなレプリカとして、記念に配られたのだそうだ。

予科練時代の思い出を時に懐かしく語る父だったが、その記念品はちっとも喜ばず、押し入れの奥に無造作に押し込めていた。実家の荷物の整理でそれを見つけた私が、「これは一体、何だ?」 と聞くと、父は 「そんな馬鹿なことばかりしていたから、戦争に負けたのだ」 と、苦々しく吐き捨てた。

太平洋戦争中の日本の軍隊は、決して誇れたものではなかったと、私は考えている。事実として、行く先々で様々な蛮行をしたのだ。それは、後から誇張に誇張を重ねて語り継がれた 「南京大虐殺」 というほどのものではなかったにしろ、立派な行為ばかりしてきたとは、とても言えない。それは生還した元兵士たち自身の口から生々しく語られている。

これまでの揺り戻しで、日本軍のしてきたことが美化されてしまいかねないのを、私は危惧している。私は自分を愛国者だと思ってはいるが、「そんな馬鹿なことばかりしていたから、戦争に負けたのだ」 という父の一言は、重く受け止めている。

ありもしなかったことを 「あった」 というのと同様に、あったことに目をつむるのも、やはり罪である。

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2015/01/25

還暦を 2年過ぎて、どうやらここまでは悟った

私は昔から、物事を達成するための努力はするが、無駄な 「あがき」 はしないというタイプの人である。別の言い方をすると、自分で何とかしようと努力して、その努力が報いられる可能性が少しでもあれば、真剣に努力するが、自分の力ではどうしようもないことであれば、あっさりと諦めて素直に受け入れるべきだと考えている。

「自分の力ではどうしようもないこと」 というのは、例えばこの世に生まれてきてしまった以上は、自分の両親と親類縁者の面子は変えようがないというようなことだ。端的に言えば、親兄弟を恨んでも仕方がないということである。親兄弟を恨むのは、典型的な 「無駄な努力」 だ。努力なしには、恨み続けることだってできない。だったら素直にありがたく売れ入れる方が手っ取り早い。

同様に、これまでの生い立ちや、自分の文化背景としてのナショナリティなども変えられない。周囲の自然環境も、これ以上悪化させないための努力はできるが、根本的なあり方までは変えられない。何しろ明日のお天気だって、お天道様次第なのである。

政治状況なども、自分の発言や活動の影響力なんて微々たるものだ。だから選挙の度に投票はするが、それによって社会が劇的に変わるなんて期待はしていない。期待していないどころか、ほとんど諦めているという方が近い。投票を棄権しないのは、客観的にみれば単なる 「悪あがき」 みたいなものである。

私は、人生なんて水たまりに散った木の葉のようなものだと思っている。木の葉が水たまりから脱出しようとしても、自分の力ではどうにもできない。悪あがきすればするほど疲れるだけである (もっとも木の葉は、悪あがきしたくてもできないのだけれどね)。

逆にただだまって諦めて、水たまりの中に浮いてさえいれば、いや、たとえ沈んでしまったとしても、さらに大雨が降ってくれれば水たまりが溢れて、外に流れ出ることもある。ただ、流れ出て行き着く先はわからない。行った先々でそれなりに対応して漂い続けるだけである。

あるいは、大雨なんて降らずに日照りが続き、水たまりが干上がってそのまま朽ち果ててしまうかもしれない。それならそれで、朽ち果ててダニに食われ、排泄物となって微生物によってさらに分解され、周囲の植物たちの養分になれれば幸いというものである。そのままミイラのごとく変化しないよりはずっといい。

要するに、努力は精一杯するが、自分の力なんてたかが知れていると思っているのであある。何かそれなりの成果の上がることを成し遂げるとすれば、それはほとんど自分の力によるものというわけじゃなく、周囲の力の方がずっと大きい。自分は周囲の流れにうまく乗っかることができたというだけのことである。

周囲の流れにうまく乗っかるには、周囲とかなりの部分で同化しなければならない。反発していては乗ることなんてできない。それなりに意味のあることを成し遂げようと思うなら、意味のある人たちや物事と、親和しなければならないのである。ということは、「意味のあること」 を見つけることさえできれば、幸せな人生のとっかかりはつかめたのである。あとはそのことに馴染んでしまえばいいだけだ。

馴染めなかったら、選択を間違えたか、自分がわがまますぎるかのどちらかである。要するに、周囲が悪いのではなく、自分がまずかったのだと思えば、腹も立たずにやり直せる。周囲が悪いと思っているうちは、何をどうやり直しても、ことはうまく運ばない。いつも自分で選んで悪い環境の中に飛び込んでしまうだけである。

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2015/01/24

「荷役」 の読みは 「にやく」 が正しいらしいんだが

漢字の読みをめぐる冒険」 という記事を書いたのは、もう 7年も前になる。この中で、「捏造」 は 「でつぞう」、「洗滌」 は 「せんでき」 と読むのが正しいなどという「意外な正しい読み方」 を紹介した。「依存」 が 「いそん」 で、「間髪を入れず」 が 「かんはつを〜」 だったりするのは、まだ序の口である。

私は収入のかなりの部分が 「原稿料」 という名目で入ってくるので、言葉に関しては一応プロである。その私としたことが、最近初めて知った 「漢字の正しい読み方」 というのがある。それは 「荷役」 という言葉で、正しい読みは 「にやく」 なんだそうだ。これまでずっと 「荷役作業」 を 「にえきさぎょう」 と読んでいたけど、間違いだったわけだ。

これに関して調べてみると、大修館書店の 「漢字Q&A」 というページに、次のような説明があった。ちょっと長めだが、引用する。

「やく」は呉音、「えき」は漢音というのが両者の違いで、中国語としての漢字にまでさかのぼった場合、意味的な違いではありません。しかし日本では、古くからこの2つの音読みを、意味によって使い分けてきました。

「えき」と読むのは、「働かせる」「戦争」などの意味の場合です。「使役」「戦役」などが、この例にあたります。これに対して「やく」と読むのは、「割り当て」「仕事」などの意味の場合で、「役割」「配役」「役人」などがこの例です。この使い分けは、日本独自のもので、漢字が本来持っていたものではありませんが、私たち日本人としては、これに従っておいた方がよいと思われます。

さて、そうしますと、「荷役」の「役」はどういう意味かを考えれば、その読み方が決められるということになります。この熟語は、主に船舶などで、荷物の上げ下ろしをする仕事のことを意味しています。この場合の「役」は、「働かされる」という意味だとも考えられますが、「仕事」という意味で捉えておく方が、素直ではないかと思います。「荷役」はやはり、「にやく」と読む方がよいようです。

ふぅむ、言われてみればもっともという気もするが、なんだかまだ腑に落ちない。例えば 「雑役」 は 『大辞林』 によれば 「種々雑多の仕事。雑用」 とある。上述の原則によれば、「仕事」 というのだから、「ざつやく」 と読むべきなのだろうが、「ざつえき」 と読まれている。「雑役夫」 も 「ざつえきふ」 であって、「ざつやくふ」 ではない。

また 「苦役」 も 「苦しい肉体労働」 のことだから、「仕事」 に他ならない。それなのに、「くやく」 ではなく 「くえき」 である。また、一般的な用語ではないが 「力役」 (りきえき) という言葉もあり、『大辞林』 では 「体力を使って仕事すること。力仕事」 とある。これも上述の原則に従えば 「りきやく」 と読むべきなのだろうが、そうなってはいない。

こうした感覚は、現代的な理解では 「やく」 と読むのは 「役割」 的な意味合いであり、英語で言えば "role" というニュアンスの強い場合が多いことによるのだと思う。「取締役」 「配役」 「上役」 「悪役」 などが、このニュアンスにぴったりだ。

一方、「えき」 と読むのは 「戦役」 という意味合いを別とすれば、今ではむしろこちらの方が 「仕事」 というニュアンスが強い。英語でいえば "task" である。上述の 「雑役」 も 「苦役」 も 「力役」 も、「仕事 = task」 である。

だから 「荷役」 も 「にえき」 と読む方がしっくりくるわけだ。しつこく例を挙げ続ければ、「現役」 という言葉も、「現に働かせる」 というよりは 「現時点でその仕事に就いている」 というニュアンスだから、「げんえき」 でしっくりくる。

大修館書店の説明にあるとおり、「日本独自のもので、漢字が本来持っていたものではありません」 というのだから、例外的というか、通り一遍では説明が付かない用例がうじゃうじゃあるのも当然である。

さらに漢和辞書を引いても、少なくとも私の手持ちの三省堂版 『携帯新漢和中辞典』 には 「荷役」 という言葉は見当たらない。ということは、元々の漢語ではなく、和製熟語である可能性が高い。そんなわけで、「荷役」 が 「にやく」 というのも、後付けの理屈で無理矢理に当てた読みということのようで、それもしっくり来ない要因ではあるのだろうね。

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2015/01/23

違和感だらけの記者会見

イスラム国で日本人 2人が拘束され、殺害予告が出ているとのニュースに関しては、申し訳ないがあまり関心を持っていなかった。ところが今朝たまたま、人質の 1人、後藤健二氏の母親という石堂順子さんの記者会見の模様をラジオで聞き、あまりの違和感に、かえって少し興味が湧いてしまったのである。

そもそも、彼女の冒頭の発言、「日本国民、政府の方々、ここにお集まりの方々に、感謝とご迷惑をかけたことをお詫び申しあげます」 という、メチャクチャな日本語のコメントに、ちょっと驚いた。だが、「まあ、相当混乱してるんだろうから仕方ないか」 と眼をつむった。

ところがそこから急に、息子の安否を心配する母親ではなく、反原発運動家としてのコメントがあふれ出してきたことに、今度はちょっとどころでなく驚いた。新聞やテレビではきれいに編集されて、「健二はイスラム国の敵ではない、健二の命を救ってください」 と訴えたと報道されているが、実際の会見では反核の主張の方がメインという印象だった。

とくに  「私は今、こみ上げてくる涙を隠しておりますが、そのまま語っておりますが、それは先ほど申しました、原子力の問題です」 とのコメントには、正直言って最大限に困惑した。

ネット界隈では、この石堂さんへの率直な違和感の表明、違和感以上の嘲笑、そして 「息子の命が危険な状態で、普通の精神状態じゃないのだから、そこを思いやれ」 という、大きく分ければ 3つの立場のコメントが飛び交っている。

私も 「普通の精神状態じゃないのだから思いやれ」 とのコメントに関しては理解する。ただ、理解はするものの、「このオバサンの記者会見は、完全に逆効果だったな」 と、客観的に判断せざるを得ないのである。同情と客観的判断は別物だ。

まず、この記者会見をテレビやラジオで聞いていた人たちは、それまで 「できるだけの交渉努力をして救出してあげなければ」 と考えていたとしても、その気持ちはかなり萎えてしまっただろう。政府部内で実際の救出活動に関わっている人たちに関して言えば、一般の人たち以上に冷めてしまったに違いない。

そもそも、後藤健二氏とともに人質にされている湯川遙菜氏という人に関しては、当初からあまり同情されていなかった。民間軍事会社の代表を名乗っているらしいが、その会社の活動実績はほとんどなく、自身の軍事経験も訓練を受けた実績も皆無。英語もアラビア語も話せないという。何のためにふらふらと中東まで行ったのか、わけがわからない。

一方、そのわけのわからない人の 「救出」 のためにイスラム国入りしたという後藤健二氏の方は、「正義感あふれるジャーナリスト」 というイメージで、同情されてはいた。しかし今日マスコミに登場した母親がいらぬことを口走ったために、そのイメージはかなり崩れてしまった。

後藤氏が生後 2週間の子どもと妻を置いて行ってしまったことに関して、実の母親がつい最近までその事実を知らなかったと告白し、さらに 「怒りを感じた」 だの 「解せない」 だのというコメントを発してしまっている。これでは、はっきり言ってぶちこわしではないか。

彼女は、記者会見の前に近しい知人たちから会見を止めるように忠告されたというが、知人たちがそう忠告するのは、至極もっともだと思わざるを得ない。このオバサンが口を開いたらろくなことにならないということを、周囲の人たちは知っていたのだろう。

この記者会見に参加した外国人記者たちは、どんな記事を書けばいいのか、本当に困ってしまっただろう。「人質の母親が記者会見で地球環境保護を訴える」 と、そのまま書いてしまったら、単なるガキの使いになってしまうし。

最後に、エコ派で反原発の私ですら、「このオバサンと一緒に見られたくはないな」 と感じてしまったことを告白する。その意味でも明らかに逆効果だった。

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2015/01/22

しばらく Safari と Chrome を使い分けてみよう

Internet Watch に "「Google Chrome 40」安定版公開、62件の脆弱性を修正" という記事が載った。バージョンは 「40.0.2214.89」 で、「Windows 版、Mac 版、Linux 版が提供され、既存ユーザーは自動的にアップデートされる」 とある。

「どれどれ」 と自分の Mac で Chrome を立ち上げ、バージョンナンバーを確認したら、「40.0.2214.91」 と表示された。おやおや、上述の記事は今日の、しかも日が暮れてから(2015/1/22 18:33) のものなのに、それから 4時間ほどの間に、既に 2回修正されているようだ。すごいものだね。

ところで、私は昨年 4月に Mac と Chrome は相性が悪いようだ」 という記事を書いている。私の MacBook Pro で長時間 Chrome を起動して作業していると、きまって OS がクラッシュしてレインボーカーセルが表示されっぱなしになり、強制終了に追い込まれる事態が頻発していたのだが、ブラウザを Safari にした途端に解決した。これでは Chrome との相性が悪いと判断するしかなかったのである。

ネットで検索してみると、MacBook Air 2012年版との相性が最悪とのレポートが散見されたが、実際は MacBook Pro との相性もかなり悪いみたいだったのである。ただ、長時間起動させなければクラッシュすることはないため、私は必要に応じてちょこちょこ Chrome を立ち上げて、用が済んだらすぐに終了させるということで、今日までやってきた。

本日公開された Google Chrome 40 は、わざわざ 「安定版」 とされているのだから、もしかしたら MacBook との相性が改善されているかもしれない。Interenet Watch の記事には 「Mac OS との相性問題解決」 というのはちっとも謳われていないが、これが放置されているということもなかろう。うん、きっと解決されているはずだと信じよう。

こう信じたいというのには、理由がないわけじゃない。Safari はなかなかいいブラウザで、使っていてもほとんどストレスがなく、しかも iPhone、iPad との同期もさくさく取ってくれるのでありがたいのだが、たった 2つ不満がある。それは、Safari には 「フレーム内再読込」 の機能がないことと、このココログの記事作成/編集画面の表示が、いまいちしっくりせず、ちょっとした不具合が頻発することだ。

それで今日のこの記事は、試しに Chrome を使って書いている。やはり、ココログの記事作成/編集画面に限っては、Chrome の方がずっとしっくりくる。これは、Safari の機能が悪いのか、それともココログの対応がまずいのか、判断できないが、要するにココログに関しては、 Chrome の方がずっと相性がいいようなのである。

このまま Chrome を起動しっぱなしにして何の問題も生じなければ、少なくともブログ更新作業の時は Chrome を使うことにしようと思う。それ以外では Safari の心地よさというのも確実にあるので、しばらくは 「使い分け」 でやってみたい。

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