2016/04/30

GDP に反映されない富

近頃 「GDP に反映されない富」 というものについて考えることがある。この季節、田舎に行くと山菜採りが盛んだ。田舎の人のほとんどが山に入って山菜採りをするわけではないが、好きな人はしょっちゅう山に入って山菜を採り、この季節ならではの味わいを楽しんでいる。

で、この山菜というのは人間の体の摂理にとても合っているようで、冬の間に体の中に溜まってしまった老廃物などを排出させる働きをしてくれる。体が求めているからおいしくも感じられるのだろう。ゼンマイやワラビ、コゴミ、タラの芽など、しみじみとしたおいしさは、金をかけた豪華な食事とは別の種類の贅沢である。

ただしかし、こんな素晴らしい贅沢は、GDP には全然反映されない。インスタントラーメンなんてものを大量に消費すれば GDP は上がるのに、山菜を食して心豊かな楽しみを得ても、国家的な豊かさの指標となる GDP とは無関係なのである。

その昔、PC が生活にも仕事にも浸透し始めた頃、業務上の年賀状を PC で印刷するのが当たり前になりつつあった。年末に差し掛かった頃、年賀状を自前で印刷していると、出入りの印刷業者の営業さんが顔を出して、「あ、年賀状を自分で作ってる! だからウチらは儲からなくなったんだ」 なんて言っていた。印刷業者には申し訳ないが、年賀状なんてものは、自分で手作り的にやる方が安いし、楽しい。

年賀状ばかりではない。自分で手作りを楽しめるものはいくらでもある。高度成長期からこっち、自分で作れるモノでも大量生産されたものを金を出して買ってくるのが 「豊かさ」 だと思われてきた。しかしその馬鹿馬鹿しさに、人々は気付き始めている。

一頃、電車に乗ればルイ・ヴィトンのバッグで溢れていた。そのへんのフツーのおばさん、おねえちゃんが、誰も彼もルイ・ヴィトンのバッグをぶら下げていたものである。しかし最近、そんなこともなくなってきた。相変わらずフツーの身なりをしてバッグだけはどえらいプレステージの象徴という、妙な姿のお人はいるが、どうやらそれはアウト・オブ・トレンドになってきたようだ。

妙に不釣り合いなバッグが大量消費されると GDP は上がるが、ごく当たり前のものに乗り換えれば GDP は下がる。それで、何の不都合があるのだろう。

若者がクルマを買わなくなったといわれて久しい。田舎に住めばクルマは必需品だが、人口の都会への集中が顕著な今の世の中では、クルマはなくても済む。不必要なモノを買って、余計な駐車場の賃貸料を払い、無駄にガソリンを消費するのは馬鹿馬鹿しい。必要なければ買わなければいいのである。時々必要というなら、レンタカーを利用するとかカーシェアリングという方法もある。

しかし余計なクルマを持たなくなると、自動車メーカーの売り上げは伸びない。税収入も減る。GDP 的にはマイナスである。

GDP という指標が減ると、マクロの視点ではあまりいいことはないと言われる。しかしその裏側まで子細にみれば、悪いことばかりでもない。これまでの世の中が GDP に象徴される 「見せかけの豊かさ」 に最適化されすぎてきただけなのではないかとわかる。その最適化が崩れて、別のプロセスが現れ、それがある程度の規模になれば、今の GDP という指標は 「全然実態にそぐわないもの」 となるだろう。

私自身は、もう還暦を過ぎたことでもあり、「GDP に反映されない富」 を楽しみたいと思うようになってきた。団塊の世代が高齢者となった今、それぞれのやり方で 「手作り的生活」 を楽しむようになれば、「GDP なんて、別にどーでもいいもんね」 という人が増えるだろう。

そう言える人が少ないうちは、「GDP はやなり重要なのだ」 というマクロな視点が力をもつが、増えてしまえば 「別の指標がないと、本当の豊かさってわからないよね」 ってなことになる。経済の構造は変わる。歴史をみれば変わらない構造なんてなかった。ミクロも積もれば山となる。

その積もり方は、これまでの歴史のスピードより速いはずだ。なんと、3D プリンターなんてものも出てきたしね。

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2016/04/29

田舎の道は、歩行者なんていない

昨日、本当に久しぶりに東京下町をクルマで走った。そこで如実に感じたのだが、茨城県の道路と東京下町の道路の最大の違いは、「人が歩いているか/歩いていないか」 ということである。東京の下町 (まあ、下町に限らないのだろうが) の道路は本当に多くの人が歩いているが、茨城県内のフツーの道路は、歩いている人なんか滅多にいない。

交差点で左折とか右折とかする時に、横断歩道の歩行者のために止まって待たなければならないのは、東京の街である。茨城県では、横断歩道を渡る歩行者なんて、主要駅前でもない限り滅多にいない。ちょっと小さな駅だと、大抵家族の誰かがクルマで迎えに来ているから、駅前といえども歩行者なんていない。

田舎の人は歩かないのである。ちょっと近くのコンビニに行くのでもクルマに乗る。歩いて行こうなんていう発想はハナからない。一方、都会の人間はよく歩く。自宅から最寄りの駅まで、10分以上の道を歩くのは珍しくないし、駅にたどり着いたら階段の上り下りが待っている。最近はエスカレーターが増えたが、それでも階段の上り下りが皆無になったわけじゃない。

だから 1日の平均歩数は、都会人の方がずっと多い。田舎で暮らしていたら、1日 2000歩も歩かないかもしれない。それで田舎の人間は、案外体力がない。

というわけで、私は最近よく自転車に乗るのだが、田舎では自転車は歩道を走る方がいいと思っている。だって、田舎の歩道には人間なんていないのだから、放っておくのはもったいない。それに田舎の県道なんて大抵道幅が狭く、バスがすれ違うにも大変だ。そんなところを、ママチャリがのらりくらり走ったら、確かに危ない。

私自身は田舎道でも自転車で車道を走るが、あまりにも道幅の狭いところを大型トラックがビュンビュン通り過ぎるような区間では、歩道に避難することもある。そうでもしないと、本当に命の危険を感じてしまうのだ。どうせ歩道を通る歩行者なんていないのだから、「歩道は自転車専用道」 と割り切るのが現実的だ。

本当に都会と田舎では、道路の存在意義がかなり違っている。

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2016/04/28

「おもてなし」 の 「語源」 について、再び

私は自分でも 「アスペルガー一歩手前」 というほどだから、言葉をずいぶん文字通りに解釈する傾向が強い。例えば 「ラジオの音を低くして」 と言われたりすると、「このラジオ、トーン・コントロールがないから、低くはできないんだけどなあ」 なんて思ってから、「ああ、そうか、ボリュームを小さくするってことね」 と、ようやく気付いたりする。音の 「大小」 と 「高低」 を、言葉の上でしっかり区別しちゃうのだ。

フツーの人はそこまでビョーキじゃないだろうが、「語源」 という言葉をものすごくテキトーに使っている人が多いようだということに、4日前の "「おもてなし」 の語源が 「裏表がない」 とは、乱暴すぎる" という記事を書いていて気がついた。ネットを検索すると、"「おもてなし」 という言葉の 「語源」 が 「裏表がない」 ということ" としているページが、やたらと多いのである。本当に数え切れないほどだ (参照)。

例えば検索結果の筆頭に来ている、もっともらしい名称の某協会のページには、次のように書かれている。

「おもてなし」 とは、「もてなし」 に丁寧語 「お」 を付けた言葉である。「もてなし」 の語源は 「モノを持って成し遂げる」 という意味です。お客様に応対する扱い、待遇とも言われます。「おもてなし」 のもう一つの語源は 「表裏なし」 です。つまり表裏のない 「心」 でお客様をお迎えするという意味になります。

「モノを持って成し遂げる」 という説に関しては後述することにして、ここではまず、"「おもてなし」 とは、「もてなし」 に丁寧語 「お」 を付けた言葉である" と、きちんと説明しておきながら、そのすぐ痕に "「おもてなし」 のもう一つの語源は 「表裏なし」 です" なんて言うことについて触れよう。このテキストを作成した人は、こんなことを書いて矛盾も気持ち悪さも感じなかったんだろうか?

なんとなく教え諭す風に書いてあるところから察すると、この人は 「語源」 という言葉の意味を知らずに書いているので、矛盾も気持ち悪さも感じていないとしか思えない。「語源」 という単語を、「言葉を (無理矢理に) 解釈したところの深イイ意味」 ぐらいのつもりで語っているようなのである。

今さら言うのも馬鹿馬鹿しいが、「語源」 を Goo 国語辞書で引くと、このようにある。(参照

個々の単語の本来の形や意味。また、個々の単語の成立の由来や起源。

「おもてなし」 という単語の 「本来の形」 は 「もてなし」 なのだから、その 「語源」 に 「表/裏」 という概念が介在する余地はない。つまりこの単語の 「成立の由来や起源」 に 「表/裏」 なんて、まったく関係がない。ということは、しつこく繰り返すが、「裏表なし」 は 「おもてなし」 の 「語源」 であるはずがない。後からこじつけた解釈を 「語源」 なんて言っちゃいけない。。

誤解されないように言っておくが、私は 「裏表のない心でもてなす」 ことに意義を唱えているわけではない。そのように解釈してそのように実行するのは、なかなかいいことである。ただし、"「おもてなし」 の 「語源」 は 「裏表なし」" などという寝言を言うのだけはやめてもらいたい。「語源」 とさえ言わなければ問題ないが、それを言った時点で、おのれの無知をさらけ出したことになり、せっかくの 「深イイ」 が台無しになる。

例えば 「『働く』 とは、傍 (はた) を楽にすることですよ。周囲のために働くという気持ちが大切ですよ」 とか言うのは素敵だ。しかし、"「働く」 の 「語源」 は 「傍を楽にする」" なんて言ってしまったら、その瞬間、アウトだ。まあ、この誤解もネット上に溢れていて、かなり気持ち悪いのだが。

さて、再び例の 「某協会」 のページにもどると、次のようにある。

「おもてなし」 には、目に見える 「モノ」 と、目に見えない 「コト」 があると言われます。

(中略)

おもてなしとは 「思い遣り」 を出来る限りの 「モノ」 と 「コト」 で、表裏の無い心で誠実に伝えることです。

おいおい、"出来る限りの 「モノ」 と 「コト」 で云々" と言う前に、あなたは "「もてなし」 の語源は 「モノを持って成し遂げる」 という意味です" と言っていたではないか。急に 「コト」 が加わってしまったことに何の説明もないのは、いくらなんでも唐突すぎる。このテキストを書いた人が、ここでもう一つ気持ち悪くならなかったというのも、やっぱりおかしい。

私が 3日前の記事で書いたように、「おもてなし」 は 「モノを以て」 ということとは関係がない。だから、「裏表なし」 「モノを以て成し遂げる」 という妙ちくりんな語源説は、はっきり言ってデタラメである。

このデタラメがこんなにも広まってしまったのは、ネット上のコピペや引用あるいは勝手に取り込むことで広がったという要素が大きいと思われる。一見もっともらしく、「深イイ」 みたいな気がしてしまうので、あちこちで (敢えて言わせてもらうが) 無知な人たちが、いい気持ちになって安易に広めてしまったようなのだ。

おかげで 「語源」 という言葉の意味をちゃんと踏まえてる人間には、気持ち悪くてしょうがない状態になってしまっているのである。上記の 「働く = 傍を楽にする」 と合わせて、「二大気持ち悪い語源説」 と言っていいかもしれない。

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2016/04/27

蛙と環境 2

田植えのシーズンになり、田んぼに水が張られたので、今年もついに蛙が鳴き始めた。蛙は雨が降りそうに鳴ると喜んで鳴き始めるといわれるが、ここ、つくばの地はさすがにガマガエルの本拠地みたいなところで、ガマガエルに限らずアマガエルまで天気に関わらずひっきりなしにゲコゲコ鳴いている。

ただ、この地に引っ越してきた 35年前の蛙の鳴き声は、こんなもんじゃなかった。蛙の鳴き声をテーマにした 「筑波山麓合唱団」 という歌があるが、あの頃は 「大合唱団」 といった様相で、毎日毎日大変な大音響だったのである。

この蛙の大音響を 「うるさい」 と感じるようだと、この辺りの人間は生きていられない。どうやら人間には、蛙の鳴き声を 「聞こえても聞こえない音」 とする DNA が組み込まれているようで、どんなに大音響でもちっとも苦にせずに、夜もしっかり寝られる。このことに関しては、10年以上前に 「蛙と環境」 というタイトルで書いている。

ただ、この 10年前の記事でも書いているが、近頃蛙の鳴き声がめっきりおとなしくなってきた。つまり蛙が減ってきているのだろう。今、我が家の周囲で聞こえる蛙の鳴き声も、何匹いるのか、しっかり聞き分けられる。ちなみに今は、5匹の蛙が鳴いているとわかる。30年前は無数の蛙の声が一塊となって、個別の鳴き声を聞き分けるなんてとてもできなかった。

蛙の減少はここだけでなく世界的な傾向のようで、これには除草剤と化学肥料の使用が関係していると、南フロリダ大学 (University of South Florida) の研究チームが発表している (参照)。ただ私としてはそれだけでなく、紫外線の増加が、体表面に毛がなく丸裸の両生類にとって、かなり悪影響を与えているのではないかとみている。

オゾン層の破壊が止まり、農薬や化学肥料の使用が控えられれば、生物多様性の維持という視点からはかなりいい影響があると思う。蛙の鳴き声が個別に聞き分けられる昨今、環境破壊はまだまだ進んでいると如実に感じてしまうのである。

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2016/04/26

東京オリンピックのデザインをダイナミックにするには

東京オリンピックとパラリンピックのエンブレムが決定した。「組市松紋 (くみいちまつもん)」 というんだどうだ。「市松模様」 といえば、日本の伝統柄として十分にお馴染みで、その意味ではなかなか乙なデザインなんだろう。少なくとも前に決定しかけてたのよりはずっとマシだ。

前に決定しかけてた 「アレ」 は、作者が 「見かけは似ていても、発想や成り立ちが違うのだから、『盗用』 ではない」 と言い張っていたが、プロセスは違っても結果があんなにも似ちゃってたんだからしょうがない (参照)。プロセスさえ違えば結果が似てても盗作じゃないなんて論理が通ったら、世の中似たデザインの洪水になってしまう。

もっともこのデザインの原型となった 「市松模様」 は、決して日本独特ってわけじゃない。西洋でも 「チェッカー柄」 として定番となっているものと、基本的には同じだ。日本でも昔から 「石畳模様」 と言われて定番だったらしい。それが江戸時代中期の佐野川市松という女形が衣装に取り入れて大ヒットしたことから、後に 「市松模様」 と呼ばれることとなった。

とまあ、そんなわけで、藍色を使うことで日本らしさを強調しているが、元々は必ずしも日本独特の発想ってわけじゃない。しかしそのことがかえって、オリンピックという国際大会のエンブレムとしてほどよく馴染むということになるのだろう。いわく言いがたいほどほどのところがいいってわけだ。

ただ、このデザインに関しては 「地味すぎる」 とか 「躍動感がない」 とかいう批判もあったらしい。まあ、そう言われてみれば確かにそんな気もする。少なくともダイナミックという感じはしない。

20160426_204238しかし私は毎日新聞の紙面の写真で、「あれ、角度によっては結構ダイナミックじゃん!」 と思ってしまった。エンブレム発表式で、作者の野老朝雄氏と作品を斜め下から煽って撮った写真の印象である。パラリンピックのデザインが、斜め下から見たためにデフォルメされて映っており、それがかなりダイナミックに見えちゃったのだ。(写真は毎日新聞より)

「これ、市松模様を変形したんだから、いっそのこともう一歩の変形を加えて、斜めにしちゃったらよかったのに!」 と思ってしまったのである。まあ、デザインというのは好きずきだから、「斜めじゃダメじゃん!」 という人もいるだろうが。

試しに妻に、「少なくともパラリンピックのエンブレムは、斜めにしちゃった方が雰囲気いいと思わない?」 と聞いてみると、「う〜ん、そうかもね」 と言っていた。

デザインの世界って、なかなか面白いものと思った次第である。

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2016/04/25

地震予知というもの

台湾の 「地震予測研究所」 というところがブログに、2016年 4月 22日までに、マグニチュード 8 クラスの大地震が起こると書いたらしく、その噂が広がっていたが、結果的には当然にもそんな予測は当たらず、それに伴う騒動は収束に向かった。

「22日」 という予測の日に先立ち、NHK の公式ツイッター 「NHK 防災・生活」 は 20日の時点で、「現代の科学では時間や場所を具体的に特定する地震予知は確立されていません。日本はどの地域でも地震への備えが必要ですが、あやふやな情報にはくれぐれもご注意下さい」 と警告を発していた。これに関して、"「地震予知は科学ではない」 と NHK が注意喚起" という記事が流れたが、NHK は 「科学ではない」 と直接言ったわけではない。

「地震予知は科学ではない」 というのは、ビミョーに言い過ぎだろう。噂の台湾の研究所というのは、本当に 「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」 レベルのものらしいが、世の中には真面目に地震予知を行おうとしている人もいる。ただし、それがまだ科学としての確立に至っていないという話であり、少なくとも地質学などの知見を総合することには、意味はあるだろうと思われる。

ただ本当に地震予知というのは難しい話で、身近な 「土砂崩れ」 の予測すらできないことからも、その困難さが推測できるというものだ。「土砂崩れの危険性の高い区域」 というのは、既に特定できている。しかしそれが具体的にいつ発生するかというのは、特定できない。それが特定できていたら、土砂崩れによる人的被害なんてなくなるだろうが、それすらできていないのである。

同様に、「大地震の可能性の高い地域」 というのも、既に特定されている。最近とみに話題になっている 「南海トラフ地震」 なんていうのは、太古の昔から周期的に発生しているのだから、「可能性が高い」 どころか、「必ず」 と言っていいほど確実に発生する。それは前提なのだが、具体的にいつ発生するかというのは、特定できていない。

それもまた当然の話で、何十年、何百年という時間は人間にとってはかなり長い時間だが、地球的なレベルで考えれば 「一瞬」 みたいなものである。地球の方が 「一瞬」 と思っていることを、人間のせっかちすぎる物差しで時間的な特定をしようとしても、それは無理というものだ。

しかし、地震発生の日時までは特定できないまでも、「その時はかなり近付いてきている」 というところまでは、言うことができるようになるだろう。現在のレベルでは、まだまだ漠然としたことしか言えないだろうが、データを集積することにより、その時間の幅を徐々に狭めていくことならできるだろう。もっとも、それもまた先の長い話だろうが。

何しろ大地震というのは頻発するとはいいながらも、数年に一度の出来事である。ケースが少ないのだ (もっとも、それより多くては危なくてこの国には住めないだろうが)。それに地下深くの地質構造にしても、詳細なデータがそんなにあるわけじゃない。研究の進み方が遅々としたものになるのも当然だ。

とはいいながら、「どうせ地震予知なんてできないんだから、そんなインチキ研究は止めてしまえ」 というのも、私には暴論に思える。科学か科学でないかの判断は、きちんとした科学的手法で行っているかどうかによる。その歩みは遅々としているし、きちんと科学的であろうとすればするほど急な進展は期待できないだろう。しかしまったく意味のないこととは思わないのである。

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2016/04/24

「おもてなし」 の語源が 「裏表がない」 とは、乱暴すぎる

写真は先日 JR 電車内で見かけた某コーヒー業者のポスターの一部である。"おもてなしの語源とは/「裏表がない」/「モノを以て成し遂げる」” というコピーに、ちょっといらっときた。「おもてなし」 の語源が 「裏表がない」 とは、いくらなんでも乱暴すぎる。そんなものが 「語源」 であるはずがない。

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わざわざ言うのも馬鹿馬鹿しいが、「おもてなし」 は 「もてなす」 の名詞形に 接頭辞 「お」 を付けたものだから、「表/裏」 とは関係がない。あとからこじつけで 「裏表のない心で、おもてなしします」 とかいうなら、まあ、ちょっと気の利いた洒落にはなるかもしれない。「深いい」 なんて思う人も、中にはいるだろう。しかしそれを 「語源」 なんて言った時点でそれも台無しで、単なる無知に成り下がる。

「モノを以て成し遂げる」 という方はまだマシに思えるかもしれないが、これもまたかなりこじつけだ。「モノを以て」 というのは、関係がない。「モノ」 が必ずしも介在しなくても、「もてなし」 は成立する。また 「成し遂げる」 とは、ちょっとヘビーすぎる。

「おもてなし」 の接頭辞をとれば 「もてなし」 で、その元々の形は 「もてなす」 という動詞である。そしてその頭の部分の 「もて」 というのもまた接頭辞で、「もてあそぶ」 とか 「もてはやす」 とかいうのと同様に、「以て」 から来ているのは間違いないが、それほどの意味はなく、動詞に付いて意味を強めたり語調を整えたりする働きをする。

「もてあそぶ」 が 「モノを以て遊ぶ」 というわけじゃないし、「もてはやす」 が 「モノを以てはやす」 という意味でもない。だから 「もてなし」 だって 「モノを以て」 というのが条件になるわけでもない。ことさらに 「モノ」 なんて持ち出さなくても、さりげない心遣いだけで 「もてなす」 ことだってできる。

「裏表」 の話に戻って文字通りにこだわれば、「おもてなし」 は 「裏表がない」 じゃなくて 「裏しかない」 ってことになるなんて、シュールな揚げ足取りをされかねない。先だっての東京オリンピック招致以来、「おもてなし」 が一人歩きしすぎているような気がする。

もしかしたら、「語源」 の意味を知らない人が多いのかなあ。

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2016/04/23

炎上の構造

近頃またぞろ 「炎上」 というのが話題になっている。日清のカップヌードルの CM で、矢口なんとかが 「二兎を追う者は一兎をも得ず」 と言っただけで、視聴者から 「不愉快」 との声が 「殺到」 したんだそうだ。私としては、ずいぶん暇な人が多いのだなあと思うばかりである。

そうかと思うと、みのもんたが Twitter アカウントを開設し、2番目の tweet で速くも炎上したという。その原因は 「自衛隊きちんとして欲しいね」 と書いただけだそうだから、彼には決して好感を抱いていない私としても、ちょっと気の毒に思えてしまう。

さらにまた、毎日放送のアナウンサーが地震関連の取材で熊本入りし、Twitter に弁当の写真入りで 「やっと今日の一食目。食料なかなか手に入りにくいです」 と書いて炎上した。まあ、これなんかは、私だったら写真入りの tweet なんかしないだろうなと思うほど、揚げ物たっぷりのコテコテ弁当で、「ちょっと悪趣味かもね」 と思ってしまうのだが、「被災者の分を横取り」 という批判は、的外れだろう。報道関係者だって、メシは食わなければならない。

こうしてみると、炎上というのは 「炎上しやすい下世話なシチュエーション」 で発生するとわかる。先日も 「原爆ドームと、カップラーメンの CM」 という我ながら奇妙なタイトルの記事で書いたが、米国のケリー国務長官が広島の平和記念公園で献花したということで、「花を一度捧げるぐらいでごまかすつもりか!」 という声が噴出してもちっとも不思議じゃないと思う。しかしそれで 「炎上」 するなんてことはまったくなかった。

あれは 「下世話なシチュエーション」 というにはハイブロウすぎたので、炎上するわけがなかったのだと、私は解釈している。炎上を引き起こすタイプの人というのは、矢口なんとかや、みのもんた、毎日放送のアナウンサーといった、「かみつきやすい下世話感覚たっぷりの相手」 にはここぞとばかりにかみつくが、ケリー国務長官みたいなヘビーすぎる相手はスルーしちゃうのである。

こんなことを言うと、こっちが炎上しかねないが、まあ、言っちゃうことにしよう。要するに炎上という現象に関しては、批判する方もされる方も、その下世話感覚においてかなり似たもの同士なのである。

前述の私の記事には、ハマッコーさんが 「私はあの永〇園の思いっきり下品な食べ方 (ズルズルと汚い音を立てる) を見せる CM が嫌いなので、永〇園の商品は買わないことにしています」 とコメントしてくれた。私もそれに関しては同感である。あの CM は暑苦しすぎるので、私はテレビのスイッチを切る。

ハマッコーさんは永○園の品物は買わないと言い、私はテレビのスイッチを切ると言う。しかし永○園に電話して苦情を言うなんてことまではしないから、あの CM が不愉快と思う我々は、「サイレント・マイノリティ」 なのだろう。しかしマイノリティとはいえ、日清にカップヌードル CM に関する下世話な苦情を入れた連中よりも少数であるとは、私は決して思わない。

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2016/04/22

テキストを書くスピード

読みやすいきれいな文字で手書きすることができない体になってしまった。私が文字を書くのは、キーボードを使った 「デジタル・データ」 としてのテキスト入力と、自分の憶えのための 「手書きメモ」 の 2種類がほとんどである。仕事柄か、そのどちらもフツーの人たちよりずっと速い。

「手書きメモ」 は自分が読めさえすればいいので、いわゆる 「つづけ字」 や 「くずし字」 に慣れない若い人には読めないような文字に、自然になってしまう。とにかく 「速く書く」 ことが優先なので、見た目や体裁にはまったくこだわらない。世の中のノートというのは大抵罫線入りだが、私の場合はその罫線にまったくとらわれず、大抵は罫線 3行分に 5行ぐらいの大きさになる文字で書き殴る。横書きと縦書きが混在するのも日常茶飯事だ。

世の中には、メモや日記などのまったく個人的なテキストを手書きするのでも、ノートの罫線にきっちり沿った几帳面な文字を書く人もいる。ところがそうしたタイプの人が文字を書いているのを見るともなく見ていると、とにかく遅い! 私のスピード感覚からすると、かなりイライラする。彼らが 10文字書く間に、私なら 40〜50文字は書く。

「その気になれば、いくらなんでももっと速く書けるだろうに」 と、何十年も思い続けてきたが、その考えはどうやら間違っているようだと、最近気付いた。というのは、人は考えるスピード以上の速さで文字を書くことはできないのである。ゆっくり考える人は、速く書けないのだ。

「そんなことを言っても、講演の内容の筆記など、人の話を書くことなら、速く書くことはできるはずじゃないか」 という疑問もあるだろう。しかし話す内容を一言一句そのまま機械的に書き取る口述筆記的な特殊技術を除けば、人の話をメモする場合でも、頭の中でずいぶん考えながら書いているのだ。

話の内容を手短に要領よくまとめて書けるか、そのまま書き取ろうとして付いていけなくなるかは、瞬間的な 「編集能力」 に左右される。瞬間瞬間で編集しながら書いていけば、その人の話をほぼ網羅したメモを残せるが、それができない場合は、書き落としがかなり多くなるだろう。

「考えるスピード」 に左右されるというのは、手書きだろうがキーボードでの打ち込みだろうが同じである。そして普通は、書くよりも考えるスピードの方が速いと思われるだろうが、それは逆だ。慣れさえすれば、考えるスピードよりも速く書ける。だから物を書く時には、筆を休めたり、キーボードの上で指が止まっている時間というのが、案外長い。

しかし時に、何のストレスもなくひたすらキーボードを叩き続けられることがある。書く内容が次から次に噴出してくるのだ。スポーツでは 「ゾーンに入る」 という言い方をするが、物を書く場合でも時としてそんなことがある。私はそれは 「物書きの神が降りてきている」 状態だと思っている。

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2016/04/21

「笑顔で接客します」 というステッカー

どこの店とかは言わないが (物販ではなく、サービス業ってことだけは言っておこうかな)、店内あるいは車内 (あ、これを言っちゃ、タクシー会社が含まれるとバレるか) に、「私たちは笑顔で接客します」 とか 「明るい笑顔で応対します」 とか書かれたステッカーがわざとらしく 貼られていることがある。しかし実際にはそんな店 (あるいはクルマ) で 「笑顔での接客」 なんて、受けた覚えがない。

店員たち (あるいはドライバーたち) は決して無愛想過ぎるというわけでもなく、ただ淡々と仕事をこなしているだけなのに、ステッカーの文言との落差のせいで、必要以上に愛想なしに見えてしまうのが痛恨である。こんなことなら余計なステッカーなんて貼らなきゃいいのに、貼っただけでサービスになると勘違いしているマネジメントが案外多い。

そういえば、店員が自然な笑顔で愛想よく対応してくれる店で、「私たちは笑顔で接客します」 なんていうステッカーを見たことがない。そんなステッカーなんてない店の方が、気持ちよくサービスを受けられるというのは、経験が雄弁に物語る。

人間はえてして 「ないものねだり」 をするものである。店の経営者やマネジメントもその習性から逃れられないどころか、実はもっともその傾向が強かったりする。

技術を売り物にするサービス業で、職人気質の店員が多かったりする店には、客としても必要以上のお愛想なんて求めない。威勢のいい寿司屋で職人が妙な作り笑顔で 「いらっしゃいませ〜♪」 なんて言うようだと、かえって気持ちが悪い。JAL の CA が自らの顔面に貼り付ける恐ろしいまでの作り笑顔に、私はぞっとしてしまうのと同様の感慨である。

だったら余計なステッカーなんて貼らなきゃいいのに、マネジメントは 「ないものねだり」 で、従業員に無理な 「作り笑顔」 を要求するのである。そして 「ないもの」 を 「ある」 ように言ってしまうので、その 「ないこと」 がかえって浮き彫りにされ、滑稽な様相を呈してしまうのだよね。

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