2009/11/07

『唯一郎句集』 レビュー #75

一昨日の晩からのじんましんは、薬が効いてきたのか、痒みの範囲が段々狭くなり、少しは楽になってきた。髪の毛の中の頭皮までかきむしらずに済むようになった。

夕べは少しはまともに眠れた。暖かさが戻ったが、体が温まると痒いので、布団を薄いものに掛け替えたりしたのもよかったようだ。

さて、週末恒例の 『唯一郎句集』 レビューである。本日レビューするのは 2句。「久生三男を悼む二句」 とある。唯一郎の子どもの中で私の母をのぞく男の子 3人 (つまり私の伯父) は全員知っているが、一番下の伯父の上にもう一人男の子がいたようだ。

それについては、私はついぞ聞いたことがないが、その子は生まれて間もないうちに亡くなったものらしい。その子を悼む 2句である。

ところが、死を悼む句とはいいながら、クールでさりげない。自分の子の死を悼むものとはわからないぐらいだ。しかし、よく考えれば名前を付けたばかりの頃に亡くなってしまった子に対して、過度にセンチメンタルな思いを抱く方が偽善的といえるかもしれない。

唯一郎は、三男の死をどう捉えたらいいのかわからず、ただ呆然としているのだろう。

  久生三男を悼む二句

ポンポンダリア投げ入れる露のまま

ポンポンダリアの小さな花が集まってまん丸くなっている形が、もしかしたら、幼子の頭のように見えたのかもしれない。それを露のまま、つまり生きているままのようにして花瓶に活ける父。

悲しみの形をどう捉えるべきかわからず、露に濡れて生き生きと輝くダリアを眺めながら心の奥をのぞく父としての唯一郎。

白い茸のけさひらくを見て戻る

白い茸のひらいていたのは、墓地の周辺だろうか。白い茸がいたいけな赤子の化身のようにみえ、自らに語りかけているような気がしたのだろうか。

本日はこれにて。

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2009/11/06

「大人のじんましん」 とやら

うぅ、かゆい! 頭の先から足の甲あたりまで痒い! ジンジンするほど痒くてまともに眠れなかったので、今日は頭がボケボケである。ただでさえ寝不足で疲れ気味なのに。

痒いといっても、発疹が出ているわけじゃない。ほんの少しだけ皮膚に赤みがさしている程度である。一体これは何なんだ !?

ベッドの中で体が温まると、それはそれはもう気も狂わんばかりに痒かったが、起きてからも痒い。髪の毛の中まで痒い。これじゃ、まともな仕事にならん。あまりにもつらいので、仕事先の近くの皮膚科で診療を受けた。

その皮膚科は美容皮膚科とやらも併設しているこじゃれたクリニックで、けっこう繁盛しているようだ。ただ待合室が暖かすぎる。暖かいと痒みがますます増幅する。「うぅ、なんとかしてくれ!」 と心の中でつぶやきながら耐えていると、ようやく自分の番になった。

診察室に入ると、なんと思いがけない若い女医さんで、かなりのべっぴんさんである。やばい、こんなべっぴんさんの前でシャツなんか脱ぎたくないなあと思っていると、ちょっとした問診をしてから手の甲や顔を見ただけで、即座に診断が下った。なんと、「じんましん」 なんだそうだ。

「じんましん? 昨日はいつもと変わらないものしか食べてないんですけど」
「食べ物が原因というわけじゃなくて、大人の方のじんましんというのは、体が疲れていたり風邪を引いたりして、抵抗力が弱まったときに、体の内側から出てきやすいんです」
「へぇえ、そうなんですか」

そういえば、このところずっと仕事が続いて、まともに休みを取っていない。昨日も 「ちょっと疲れ気味だなあ、早めに帰って寝なきゃ」 と思っていた矢先なのである。早めに帰って寝るはずが、痒くて眠れなかったのだから、泣き面に蜂なのである。

それに、この女医さんの 「大人の方のじんましん」 という言い方が、ほんの少し心に刺さってしまった。オブラートに包んだ言い方だが、要するに、「中年過ぎのオッサンのじんましん」 ということなんだろうなあ。

うぅ、若い頃はどんなに疲れても平気だったのに、中年過ぎると、ちょっと疲れただけで気も狂わんばかりのかゆみに襲われてしまうのか。悲しいことである。

で、結論的には、処方された 2種類の痒み止めの薬を 1週間飲み続けろという。痒みが少し収まっても波があるから、中断せずにきちんと 1週間飲めというのである。あぁ、私は基本的にずぼらだから、ちょっと収まったら飲むの忘れてしまいそうだなあ。というか、早く忘れたいなあ。

というわけで、最初の 1錠を飲んだら、しばらくしてからほんの少しだけ効き目が現れてきたようで、「じんじんくる痒さ」 から 「いらいらする痒さ」 程度にトーンダウンしてきているような気がする。だが、夕方にもう 1錠飲んで、寝る前に別の種類をもう 1錠飲まないと、本当の効き目というのは現れないのかなあ。

いずれにしても、二日続けて寝不足になってしまっては、ますます抵抗力が弱まって、じんましんの症状がますます出やすくなってしまいそうだ。何としても、今夜はちゃんとぐっすり眠ろう。

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2009/11/05

レヴィ=ストロースは 1冊も読んでないけど

今さらながらのようなことを書くが、クロード・レヴィ=ストロースが先月の 30日に 100歳で亡くなったのだそうだ。ずいぶん長生きしてるとは知っていたが、100歳とは知らなかった。

レヴィ=ストロースは、なんだかお馴染みのような気がしていたのだが、考えてみれば彼の著作は 1冊も読んでいないのだった。

1冊も読んでいないのに、なんでそんなに身近に感じていたのかというと、これはもう、構造主義哲学の入門書とか構造主義的人類学を論じた本とかを読むと、必ず彼の業績がしっかりと紹介されていて、それはもう、「構造主義の前提」 みたいな位置づけになっているようなので、いつの間にか少しは読んだような錯覚にさえとらわれていたのだった。

で、レヴィ=ストロースの業績に触れるにつけても、彼以後の思想というのは、「哲学」 という感じではなく、それはもう、「思想」 というほかないみたいな、何というか、時代の転換点を作っちゃった人みたいな気がするのである。

「哲学」 だと思って彼の業績に触れると、「ちっとも哲学っぽくないじゃん!」 という印象を、誰もが持つと思う。サルトルの思想 (「実存主義」 っていう、よくわからないやつね) が 「すっご~く、哲学っぽい」 とすると、レヴィ=ストロースって、いわゆる 「哲学」 とは印象が全然違うんだよね。

Wikipedia でも 「フランスの社会人類学者、思想家」 と紹介されている (参照)。ところが、西洋で言うところの 「哲学」 (pholosohy) って、ものすごく裾野が広いらしくて、例えば、英国の大学でマーケティングを勉強したやつが、Master of Philosophy (哲学修士) なんていう称号をもらって帰ってきたりする。よくわからんところがあるのだ。

だから、人類学者のレヴィ=ストロースが実存主義哲学者のサルトルを批判して、「君たち、ずいぶんエラソーな論を展開しているけど、人間とか世の中の成り立ちって、そんなもんじゃないだろうよ」 と、とても実証的な見地からものを言って、当然の如く勝っちゃったというのも、まあ、そういうことなんだろうなあと思う。

「そういうこと」 ってどういうことなんだと言われても、うまく説明できないけどね。何しろ、まともには彼の著作を  1冊も読んでないから。

ただ、私は構造主義というものを知る前からフォークロアに関してはずいぶん入り込んでいたので、レヴィ=ストロースの人類学的アプローチというのが全然違和感なく、「そりゃそうじゃん、当たり前じゃん」 みたいな感じで受け入れられたという気がする。つまり、私はレヴィ=ストロースが好きなのである。 1冊も読んでないくせに。

今から少しは読めと言われても、なかなか時間が取れないから、ちょっと大変だろうなあ。

ちなみに、クロード・レヴィ=ストロースと、あのジーンズのリーヴァイ・ストラウスとは、どちらも "Levi Strauss" で同じスペルである。スペルが同じだけではなく、遠縁に当たるという説がまことしやかに語られているが、それは実は明確には証明されていないらしい。

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2009/11/04

ユニクロの 「過剰品質」

文藝春秋 9月号に載った 「ユニクロ栄えて国滅ぶ」 というエコノミストの浜矩子氏による論文が、まだあちこちで話題になっている。

私はその論文を読んでいないし、読もうという気にもならないが、アパレル業界ではユニクロを目の敵にする人が少なくない。それで、その論文のタイトルだけが一人歩きしている。

私自身は、アパレル業界でメシを食ってはいるのだけれど、ユニクロをことさらに否定しようとは思わない。「ユニクロ大好き」 というわけでもなく、かといって、「大嫌い」 というほどの理由もないという立場だ。そして気付いてみれば、私自身、ユニクロで買った品物が結構な数になっている。

はっきり言って、ユニクロ、商売がうまい。ちょっと前までは、「やっぱり田舎から出てきたカジュアル屋のおやじの発想だなあ」 というところがあったが、最近はそうした欠点が見えにくくなった。品番を絞ってスケールメリットで迫る企画と、もう少し多品種にまで広げてファッション性をぎりぎり確保する企画のメリハリがついてきている。

それに、ユニクロの製品を 「安かろう悪かろう」 の代表のように言う人がいるが、はっきり言ってそれは間違いだ。ユニクロの製品は、値段の割には 「慇懃無礼なほど」 品質がいい。「そこまでするか」 というほどである。

例えば、値段がやたらと安いのに、チノパンに使っている素材が 「エクストラファインコットン」 だったり、ニットに使っているのが 「ファインメリノ」 だったり 「カシミア混」 だったりする。チノパンなんて、定番のゴワゴワ・コットンで十分だし、安物のセーターなんて中番手ウールで十分なのに、ユニクロはことさらに高級素材を使いたがる。

ただ、ユニクロの 「過剰品質」 は、それなりの戦略に裏打ちされているのではないかという気もする。

まず、あれだけの 「過剰品質」 を訴求すれば、「安かろう悪かろう」 では決してないというイメージを定着させることができる。今、ユニクロを 「安かろう悪かろう」 と言っているのは、ユニクロを着たことのない人だけである。

それから、素材に細番手の高級素材を使いたがるのは、ちょっとパラドキシカルな効果がある。細番手素材というのは、見た目が滑らかで、感触がソフトで、なかなかいいものなのだが、物理的にはそれほど強度がない。そりゃ、細い糸で薄くできているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

だから、細番手素材の服やパンツをカジュアルに、もっと言えばラフに着倒したら、型くずれしやすいし、それに何より、裾や縫い目がすり切れやすい。だから、ユニクロのチノパンは回転が早まる。回転が速いから、安くても数が売れる。それに 「品質はいい」 という既成観念ができているから、買う人の多くはリピーターになる。

というわけで、ユニクロの 「過剰品質」 は、回転を速めることを狙った戦略なのではなかろうかと、私はちょっとひねくれた見方をしているのである。回転さえ速まれば、ちょっと高めの素材を使っても、あれだけの規模なのだから利益的にはおつりが来るだろう。

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2009/11/03

狭山茶にみる美しい関係

先日、車を運転しながらカーラジオを聞いていたら、聴取者参加で、「知られざる郷土自慢」 という企画があった。

聞いていると、なるほど、極々マイナーな知られざる郷土自慢が、各地にあるものである。自慢してもしょうがないような郷土自慢というのも、なかなかほほえましいものだ。

で、その番組にどんな郷土自慢が寄せられていたのかというと、申し訳ないがほとんど忘れてしまった。その程度の、どうでもいい郷土自慢だったのである。それでも、その土地の人にとっては、ちょっとしたプライドのようなのである。まあ、それはそれで大切にしてもらいたいという気はしたのだった。

そうしたマイナーな郷土自慢の中で、たった一つ、今でも覚えているのが、入間市在住の聴取者からの、「狭山茶の生産量は、実は狭山市ではなく、入間市の方が断然多い」 というものだった。これは統計上、本当のことなのだそうだ。

そして、彼はこう続けるのだった。

「入間市で生産されているのに、名称が 『狭山茶』 になっていることは、別にいいんです。名前は狭山に譲ってあげているんです。そんな小さなことに、入間市民はこだわらないんです」

これを紹介したラジオのパーソナリティは、「入間市民はなかなか太っ腹ですね。まあ、東京ディズニーランドみたいなものですかね」 とコメントしていた。

しかし、この見解は甚だ疑問である。というのは、入間で生産された 「狭山茶」 は、狭山市民からみたら、細かいことを言ってしまえば 「ブランドただ乗り」 と言われても仕方ないのではなかろうかという気もするのである。

しかし、そこはお互いに太っ腹であるおかげで助かっている。狭山茶を狭山市内だけで生産されるものに限定していたら、ブランドとしての規模を保持するためには、ちょっと流通が少なすぎるということになるだろう。入間のお茶も加えて、初めて 「狭山茶」 のブランド価値を維持できる。

これこそきっと "win - win" の関係というものなのだろうと思う。お互いに内心では 「ブランドただ乗りしやがって」 とか 「生産量が少ないくせに看板だけは譲らない」 とか、少しの不満を抱いているのかもしれないが、表立って我を張らないおかげで、両方ともハッピーな関係を維持できている。

ちょっとずつ我慢して譲り合うというのが、実は最も美しい関係なのかもしれない。

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