2016/02/09

ANA を選ぶ理由

海外はまた別の話として、国内の出張などで飛行機を使う時には、なるべく JAL は避けて ANA を選ぶようにしている。出雲空港に行く場合などはしかたなく JAL にする (羽田〜出雲間は、JAL しか飛んでないので) が、選べるなら ANA にすることが圧倒的に多い。

それは別に ANA の株を持ってるとか、JAL だと落ちそうな気がするとかいうわけじゃない。単に JAL と ANA を比べると、どちらかといえば ANA の方が居心地いいというだけの、ごく単純な理由からである。

さらにより明快に言ってしまうと、JAL の CA のお姉さん (あるいはおばさん) の、あの己の顔面に自信たっぷりにべったりと貼り付けたような、ことさら度満点の作り笑顔と、「お客様」 を鳥肌が立つような猫なで声で  「うけくせめ」 と発音する言い方が気持ち悪過ぎるからだ。あれこそ望ましいと思っているか、または気にならないという人も確実にいるのだろうが、少なくとも私は居心地悪くてしょうがない。

日本の百貨店とか旅客機とかの業界では、客に対して慇懃無礼なまでに接しなければならないと思い込んでいるフシがあり、サービス係のお姉さんの猫なで声が半ば伝統となっている。その昔、百貨店で 「エレベーターガール」 と称するお姉さん (あるいはおばさん) がいた頃は、「上へ参ります」 を 「うえぇめりめぇっ」 (最後の 「めぇっ」 で裏声にひっくり返る) と発音していたものだ。「うけくせめ」 は、その流れを脈々と引き継ぐ発音である。

この気持ち悪さは圧倒的に JAL の方に色濃く残っていて、ANA の方はかなりマシだ。それで私は飛行機に乗るぐらいのことで背筋がぞくぞくっとしたくないので、できるだけ ANA の方を選ぶようにしているというわけなのである。

だが最近、ANA を選ぶ理由がもう一つあると気がついた。自分でもずっと無意識のままできて、最近ようやく意識化されたことだが。ANA の機内音楽がとても気に入っているのである。離陸前と着陸後に流れる音楽が、とてもいい気持ちにさせてくれるのだ。

この曲のタイトルが "Another Sky" で、葉加瀬太郎さんの作曲だと知ったのはつい最近のことである。道理でいい感じなわけだ。もしかしたら ANA をずっと選び続けてきたのは、この曲で機内から目的地に送り出してもらいたいという理由からだったかもしれない。

この曲を聴くと 「うん、いい旅が始まっているぞ」 という気がするのだよね。音楽の力って、なかなかのものだ。ANA には私が生きている間だけでもいいから、他の曲に変えないでもらいたい。

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2016/02/08

レディー・ガガ、すげぇ!!!

今朝、何気なしにテレビのスイッチを入れて NHK BS1 を見ると、米国のスーパーボウルのオープニング・セレモニーをしているところで、レディ・ガガの米国国歌独唱が始まるところだった。この日の彼女は奇抜な化粧やコスチュームではなく、赤のスーツでシックに決めている。

歌が始まってすぐに、「レディー・ガガ、すげぇ !!! 」 と思った。自分の国の国歌でもないのに、聞いていてこんなに震えるほど感動したのは初めてである。彼女、やっぱり天才だ。聞いている選手も観客も、完全に魅了されている。

今日はもう、これ以上の言葉はいらないだろう。YouTube の動画を見てもらうだけでいい。下のリンクをクリックしてご覧頂きたい。ただ、NFL としては自由にブログに埋め込まれないような措置を講じているようなので、まず画像の 「▷」 をクリックしてから、さらに 「YouTube で見る」 をクリックし、直接飛んでいただくことになる、

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2016/02/07

懐かしのシネサロン

なぜか急に、故郷酒田の 「グリーンハウス」 という映画館のことを思い出した。小さな田舎町の映画館ではあるが、知っている人にとってはとても大きな意味をもつ。その素晴らしさは、あの淀川長治さんが絶賛したというほどのものだった。詳しくは Wikipedia の記事をご覧いただければわかる。

Wikipedia の記事にもあるが、グリーンハウスは昭和 51年 10月 29日の酒田大火の火元となって焼失した。映画館 1軒が消滅しただけではなく、吹き始めていた強烈な冬の季節風に煽られて火は上ではなく横へ横へと広がり、風下の 1767棟が焼け落ちた。繁華街の中心だったこともあり、私の高校時代までの思い出の街並みが、たった一晩で消え去った。

私は中学後半から高校時代に至るまで、グリーンハウスに入り浸った。とくに足繁く通ったのは、客席 14席というミニシアター、「シネサロン」 。正確な金額は忘れたが、当時 200円以下の低額で、田舎の一般の劇場では絶対にかからない、もっといえば都会の名画座でもあまり見られないような、ハイブロウな洋画が見られたのである。

スクリーンの大きさは、畳 1乗より一回り大きい程度のものだったかなあ。私はあのこじんまりとした空間の小さなスクリーンで、昔の名画や、興行的な大成功を収めたわけではないが玄人筋には好評をもって迎えられたアバンギャルドな映画を、毎週のように見ていたのである。思えばませたガキだった。おかげで今でもハリウッド大作とかアクション大作みたいな映画は全然性分に合わない (参照)。

私はこのシネサロンをたまらない懐かしさで思い出す。できることなら、もう一度でいいからあの小さな空間で映画を見たい。そしてその 「もう一度でいいから」 見たい映画は、『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』 にとどめを刺す。

これはペーター・ヴァイスの前衛的な戯曲の映画化で、フランス革命時にジャコバン派に属して過激な共和制を主張していたジャン=ポール・マラーが、シャルロット・コルデーというジロンド派を支持する若い女性に浴槽で滅多刺しに遭って暗殺された事件を描いている。ただしその描き方が劇中劇になっていて、事件当時シャラントン精神病に実際に入院していたマルキ・ド・サドが、この病院の患者たちを俳優として使い上演しているという設定になっている。

とまあ、設定からしてかなりややこしいうえに、劇中劇 (いや、この場合は映画中劇という方がいいかな) の演出がまたとびきり前衛的なので、わからない人にはさっぱりわからなくて、死ぬほど退屈ということにもなるだろうが、演劇好きにはたまらない映画だった。高校生の私は 「こういう演劇に浸りたい!」 と思いながら、わくわくして見ていた。

ああ今どき、あんなに心躍るような前衛的フィルムを、劇場映画として見られることは稀になってしまった。そうした稀なタイプの映画を、もう一度小さなハイブロウなシネマ空間で見たい。私の小さな、しかし途方もない願いである。

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2016/02/06

清原って、一人でメシの食えない男なんだろうな

世間は元プロ野球の清原なんとかが覚醒剤をやっていたという話題でもちきりである。私は元々プロ野球にあまり興味がないし、清原という男も、もしかして一緒に酒飲むことがあっても絶対に話が合わなそうだし、「付き合ったらややこしいことになりそう」 感覚を思い切り発散させているので、完全に別の世界の人間と思っていた。

だからこの件に関しては、ほとんどコメントすることがないようなものなのだが、ひとつだけ言ってしまうと、「清原って、一人でメシの食えない男なんだろうな」 と思ってしまうのである。子分を引き連れて賑やかに飲み食いするのでないと、淋しくてたまらなくなるタイプなんじゃあるまいか。対象的に、桑田の方は一人メシが好きそうだ。

私は人を判断するのに 「一人でメシを食えるか食えないか」 を基準としているところがあって、先月 25日の当欄でも書いている (参照) ように、「一人でメシの食えないやつは、ろくなもんじゃない」 と思っている。その意味で清原は、チヤホヤされているうちはいいが、一緒にメシを食ってくれる子分がいなくなったら、アイデンティティまで喪失してしまったんだろう。

世間では 「スポーツマンは爽やかな男」 と思われているが、当然ながらすべてのスポーツマンがさわやかなわけじゃない。気が小さくて嫉妬深くて、理屈が通じなくて、チヤホヤされてさえいれば機嫌がいいというタイプのスポーツマンは腐るほどいる。

だから体育会系って、人間関係が案外うっとうしいのだよね。私も体育会系に足を突っ込んで生きていた時代があったから、その辺の面倒くささは、うんざりするほどよくわかる。「付き合ったらややこしいことになりそう」 という雰囲気には結構敏感なのだよ。

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2016/02/05

茨城県では選挙カーのウグイス嬢の口跡が悪すぎる

明後日の市議会議員選挙を控え、街中を選挙カーが走り回って、朝からうるさくてしょうがない。さっきはウチの町内を 「くろがね しゅうほう」 という変わった名前の候補の選挙カーがやたらゆっくり走りながら、イライラを通り越して滑稽なほどしつこい連呼を繰り返していた。

「この 『くろがね しゅうほう』 というヤツには、死んでも投票しないぞ」 と思いつつ、ふと窓の外を見ると、その選挙カーが我が家の前を通り過ぎるところだった。まさに喧噪のピークである。ところがその看板をみると、なんと 「ふる○て 智恵子」 という名の候補だった。

その字面を見た上で、改めてよく聞けばそんなように聞こえないこともないが、何気なく聞いている分には 「くろがね しゅうほう」 と耳に残る。安物のスピーカーのボリュームを必要以上に上げているから、音が割れかかって明瞭に聞こえないしね。

致命的なのは、「智恵子」 という名前の語尾を 「こぅ」 と無意味に伸ばしてしまうクセだ。「ちえ」 の部分の発音のあいまいさとも重なって、「しゅうほう」 にしか聞こえない。名字の方も妙に平板に近いアクセントなので 「くろがね」 に聞こえる。このウグイス嬢、口跡悪いにもほどがある。

いくら連呼を繰り返しても、有権者に候補者の名前が正しく届かないのでは意味がない。いや、実は私のように 「こいつには死んでも投票しない」 と思うような人間の方が多いだろうから、逆に届かない方が身のためなのかもしれないが、いずれにしても選挙カーを繰り出すだけ無駄というものだ。

もう一つ気になるのが、「○山×夫でございます」 と連呼する時のアクセントである。ここ茨城県は北関東から福島、宮城にまでつながる 「無アクセント地帯」 と呼ばれるところの真っ只中で、アクセントがメチャクチャなのだ。

「ございます」 というのを 2音目の 「ざ」 にアクセントを置いて、「コバンザメ」 とか 「アノニマス」 とか 「5連勝」 とかと同じ抑揚で言うウグイス嬢が多いので、やたらと野暮ったく聞こえる。そのため、ごく普通に平板に言うウグイス嬢の連呼が妙に都会的に聞こえちゃったりするのも、この地域特有の現象である。

いずれにしても、選挙というものがこれだけ 「なんだかなあ」 と言いたくなるような馬鹿馬鹿しさを感じさせてしまうと、投票率が上がらないのも、もっともという気がしてしまうのだよね。

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2016/02/04

スマホのスクリーンロックは、3割しか設定していない

ジャストシステムの「モバイル&ソーシャルメディア月次定点調査(2016年 1月度)」によると、「スマホのスクリーンロックを設定しているのは 3割、“肌身離さない”は男性で 2割」 ということなんだそうだ。びっくりである。

なにがびっくりかというと、「スマホのスクリーンロックを設定しているのは 3割」ということについてだ。「“肌身離さない”は男性で 2割」 の方は、私も家にいる時はテーブルに置きっぱなしだったりするから全然驚かないが、スクリーンロック (パスワードによる画面ロック) を 3割しかしていないというのは、やはり驚きだ。

私の iPhone の「連絡先」 には、数えたことはないが、多分 1000人以上 (もしかしたら 2000人近く?) の個人情報が入っている。もし私がどこかに iPhone を置き忘れてしまって、スクリーンロックを設定していなかったとしたら、下手するとこれらの個人情報がダダ漏れになってしまう。

そうならないためにも、スクリーンロックぐらいはしておくのが礼儀みたいなものだと思うがなあ。礼儀という言い方がおかしければ、「保険」 と言い換えてもいい。保険料のいらない保険なんだから、設定しておくに越したことはない。少なくとも私は、私の個人情報の入ったスマホにスクリーンロックがかけられていないと知ったら、あまりいい気分ではない。

だがよく考えてみると、スマホを起動する度にパスワード (パスコード) を入力しているように見受けられる人って、そういえば周囲を見回しても少数派のような気がする。「いちいち入力するのが面倒」 なんていう人もいるが、そんなことを面倒がっていたらスマホ操作自体が面倒でしょうがないだろうに。

この記事には "「お風呂に入っているときでもスマートフォンを持って行くことがある」 が 10.2%、「専用のアプリを使用して写真や動画にロックをかけたり、隠したりしている」 が 7.7%" というのもあって、さすがに笑ってしまった。よっぽどヤバい写真や動画を保存してるんだろうね。

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2016/02/03

MS オフィスのツールバーのアイコン

Word2 ふと気付いたのだが、MS Office のツールバーの 「保存」 を表すアイコンが、どうみてもフロッピー・ディスクの絵のようなのだ。そういえばその隣の 「印刷」 のアイコンも、大昔のインクジェット・プリンターそのものである。

これ、私が Windows で Office を使い始めた 22年ほど前からずっと変わっていないと思う。確かにその頃は CD-ROM すら普及途上で、ソフトウェアの多くはフロッピー・ディスク10枚近くに小分けされて提供されていた。今となってはそんな時代を知らない人の方が多いかもしれない。

Microsoft ってつくづく変な会社だと思う。OS の画面や Office のリボンとやらなどをいろいろ変えて、古くからのユーザーをやたら戸惑わせるのに、アイコンのデザインだけは妙に保守的だ。

どうせ変えるならこの辺の絵を変える方がずっと簡単だし、ユーザーも戸惑わずに済む。逆に言えば、最近の若いユーザーはフロッピー・ディスクや二時代も前のインクジェット・プリンターの絵を見ても、直感的にはその意味が理解しにくいかもしれない。

あるいは MS としては、オフィス・ソフトのツールバーなんて、「もう終わった機能」 と思っているのだろうか。大抵の操作はメニューバーとリボンですることを前提として、ただツールバーに慣れた古くからのユーザーのためだけに、古式ゆかしいデザインを保存しているのかもしれない。

いつも思うのだが、MS のプログラムは一つの操作をするための入り口が多すぎる。同じ操作をするのに、メニューバーやツールバーから、あるいはリボンからと、いろいろな道を辿れるのは、プログラムを知り尽くしたヘビーユーザーにはいいのだが、初心者にはややこしい。それにいくら入り口があっても、実際には 「右クリック」 で絞り込んだメニューを出す方が楽だし。

やっぱり MS の体質というのは、基本的に 「パソコンオタク」 の会社なんだろうという気がするのだよね。

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2016/02/02

選挙カーの連呼と、投票依頼の電話

私の住む街では 2月 7日が市会議員選挙の投票日なので、選挙カーが候補者の名前を連呼し続けている。はっきり言ってうるさくてしょうがない。

この 「連呼」 というのは誰が考えても馬鹿馬鹿しいことだが、日本の公職選挙法では、動いている選挙カーでは候補者名の連呼をすること以外は許されていない。これは私の本宅サイトの 「選挙カーの 「連呼」 は 「迷信」 から生じているらしい」 というページから日本中に知れ渡った驚愕の事実である。

その根拠を示そう。公職選挙法の条文だ。

(車上の選挙運動の禁止) 第141条の3 何人も、第141条 (自動車、船舶及び拡声機の使用) の規定により選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない。ただし、停止した自動車の上において選挙運動のための演説をすること及び第140条の2第1項 (連呼行為の禁止) ただし書の規定により自動車の上において選挙運動のための連呼行為をすることは、この限りでない。

もう何度も書いたことだが、「選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」 というのは、日本一シュールな法律条文である。つまり公選法 第141条の3 では、「選挙運動のために使う選挙カーでは選挙運動をしちゃいけないんだけど、連呼行為だけは許してあげる」 と、実に馬鹿なことを言っているのである。

こんな馬鹿な法律のせいで、選挙期間中は選挙カーの連呼で実にかまびすしいことになる。とくに市議会議員選挙みたいな身近な選挙だと、街中が選挙カーであふれかえるので、たまったものではない。

連呼しかしちゃいけないというので、「地元の ○○××です。よろしくお願いいたします」 なんていう、ちょっとすれすれの言い方が多くなる。市議会議員選挙だもの、地元で当たり前じゃないかと思うのだが、どうも 「地元」 という言葉は人の心をくすぐるらしい。

投票日の 2〜3日前になると、いろいろなところから投票依頼の電話がかかってきて、これはもう、選挙カーの連呼よりもうっとうしい。私は投票依頼電話が来たらたった一言、「もう期日前投票を済ませました」 と言うことにしている。すると向こうも 「頼んでも無駄なヤツ」 ということで、あっという間に電話を切ってくれる。それはもう、薄情なほどの素っ気なさに切り替わるので、びっくりするほどである。

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2016/02/01

ヒラリーの悪いクセ

昨年 7月に 「生き返ったヒラリー・クリントン」 という記事を書いて、前回の大統領予備選の頃は賞味期限切れになっていたヒラリー・クリントンが 「周回遅れで走っているうちに、いつの間にか生き返ってしまった」 と書いた。しかし完全に生き返ったとも言えないみたいな様相を呈してきたようなのである。

本日 (時差の関係でまだ結果はわからないが) 開催のアイオワ州党員集会を控え、地元紙デモイン・レジスターが先月 30日に発表した世論調査によると、ヒラリー・クリントンの支持率は45%だったのに対し、バーニー・サンダースが 42%と猛追している。バーニーはインターネット世代からの支持が圧倒的らしい。(参照

ネット世代はいろいろな情報に不断に接しているので、リベラルで多様な価値観をもち、それを理解するバーニー・サンダースを支持しているというのである。サンダースの方が 74歳と、ヒラリーより年上なのに、若い層に支持されているというわけだ。

それに対してヒラリーは、「誰が大統領になる準備ができているだろうか?」 と、自分のキャリアを強調する戦略に出ていると報道されているというのだが、私はこの記事を読んで 「ああ、またこの女の悪いクセが出始めているな」 と思った。何かツッコまれると典型的にステロタイプな反応をして、それで解決したつもりになっている。しかし実はそれでは 「なんか違うな」 と思われてしまうという結果を生むのだ。

ツッコミに対するヒラリーのお約束的すぎる反応は、実は逆効果の方が大きくなってしまうのである。今回と同じような図式が、前回のバラック・オバマとの対決で如実に表れ、ヒラリーが急速にフェイドアウトしてしまったのを、教訓にしきれていない。

共和党のドナルド・トランプの 「お約束から外れすぎた言動」 が妙な共感を呼んでしまうという世の中で、ヒラリーの 「いかにもスマートだがお約束的すぎる」 言動は、実は米国人の気質に合わないところがある。それでいつも、肝心なところで支持を失うのだ。彼女はまだそれをわかっていないのかもしれない。

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2016/01/31

「女性の時代」 と直感力

昨年 5月に 「論理と感覚の狭間と、直観への飛躍」 という記事の中で、過度に論理的な人は話していて疲れるというようなことを書いた。ちょっと自分の記事の中から引用してみよう。

仕事でいろいろな人間と接していると、過度に論理的な人というのは、付き合うのがかなり面倒なことがある。彼が自分の考えを説明し始めると、半分ぐらい聞いてしまえばその全貌は大体つかめてしまう。だって極めて論理的なのだから、途中まで聞けば結論は簡単にわかってしまう。シンプルな三段論法は、二段目まで聞けば十分なのだ。

それで、「ああ、そういうことね。それだと、ああなって、こうなって、要するにこうしちゃえばいいよね」 と引き取ってしまうと、彼は 「人の話を最後まで聞け!」 と怒り出したりする。仕方がないから最後まで付き合ってあげても、やっぱり思った通りの当たり前の結論でしかない。

当たり前すぎる論理を、きちんとプロセスを追ってあまりにも懇切丁寧に説明されると、聞いている方としては、いらいらしてしまう。聞く方は特急列車に乗ったごとく、既に終点まで行ってしまっているのに、話す方が各駅停車でゆっくり追いついてくるのだから、じれない方がおかしい。

私は自分でも時々言うように、普段はきちんと論理的な思考プロセスを辿るのだが、いざとなれば思い切り直観思考によって、一足飛びに結論的なものに飛躍してしまうタイプである。ただそれは決して非論理的というわけじゃない。多くの科学的発見が、天才的科学者の直観をきっかけにしたものであるとはよく指摘されることで、直観を非論理的と決めつけてはいけない。

わかりきった論理プロセスを一挙にすっ飛ばしてしまうのは、論理派の人でも時にやることだが、直観派は 「決してわかりきった論理プロセスというわけではないが、もしかしたらそういうことかもしれないという入り口から、瞬間的に結論的出口にすっ飛んでしまう」 ということをよくやる。

問題は、こうした思考プロセスは直観派同士だとものすごくよく共感し合えたりするのだが、論理派には 「ぶっ飛びすぎ」 と感じられがちということだ。論理派は、煉瓦を一つ一つ積み上げるような丹念なプロセスを辿らないと納得できないようなのである。

時間の限られたプレゼンなどでは、論理派を相手にすると当たり前の結論までしか提案できなかったりして、こっちの方がじれてしまうことがある。それに論理派は 「自分は頭がいい」 と思い込んでいたりするので、なかなか頑固なところがあり、始末に負えなかったりする。

経験から言うと、こうした直感的プロセスは女性の方がずっと通じる。直感力に優れた女性が、決して感情に流されず、論理思考もこなせたりすると、かなり 「できる存在」 になる。論理思考のみでぐずぐず言うオッサンなんかより、ずっとダイナミックな仕事ができるのだ。

「女性の時代」 というのは、女性が堅苦しいオッサンの論理の中で肩肘張って生きるのではなく、もっと自由な直感力で羽ばたくことができる時代であるべきだと思う。

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«マグロは食わないことに決めると、気が楽になる