2015/09/02

結果とプロセスの (意図的) 混同が、エンブレム騒動の根本原因

東京オリンピックのエンブレムの一連の騒動で、多分誰もが薄々と感じてはいるが、明確に言い切っていないことがある。それは、今回の騒動を必要以上にややこしくした最大の原因は、当事者たちの 「結果とプロセスの (意図的) 混同」 にあるということだ。

今回の当事者たちは、「見かけは似ていても、発想や成り立ちが違うのだから、『盗用』 ではない」 と主張した。OK。それは確かに理解できる。客観的証明は難しいが、「パクリじゃない」 という主張は可能である。ところが異なるプロセスをたどっても、結果として明らかに似てしまうことは十分あり得ることで、結果とプロセスは別問題なのだ。

その意味で、佐野氏自身の会見での 「要素は同じものはあるが、デザインに対する考え方がまったく違うので正直まったく似ていないと思った」 という発言は、常識的にいえば明らかな 「無理筋」 である。これほど似ているものを 「まったく似ていない」 とは、「目が節穴」 と言われてもしょうがない。

「似ている/似ていない」 というのは、結果をみての判断であって、結果にたどり着くまでのプロセスなんてどうでもいいことだ。ところがこの結果とプロセスを、多分意図的に混同して、結果として明らかに似ているものを、プロセスが違うんだから 「まったく似ていない」 と言い切ってしまう傲慢さが、デザイン業界の一部では通用するようなのである。

もしこれが、世の中を甘くみたことによる意図的混同でなく、「自然の振る舞い」 なのだとしたら、今回の騒動の関係者たちは頭が悪すぎる。明らかに基本的な大問題であり、根本から考え直してもらわなければならない。

こうしたことは、例えば商標や商号の登録ではあり得ないことだ。製作プロセスがどう違おうとも、結果として類似性が認められ、紛らわしければ、「アウトはアウト」 というのが常識というものである。

ところがデザイン業界では、「(佐野氏のデザインを) プロのデザイナーとしては納得できるが、一般の人には理解できないかもしれない」 なんて、したり顔で発言している人もいる。そんな発言自体が、この業界の一部に特殊な価値観があるらしいことを物語っている。

このあたりで、他の視点から語ろう。音楽でいえば狭義の 「ブルース」 というのは、12小節でコード進行までほぼ決まり切っており、同じ曲に聞こえる別の歌がゴマンとある。それが 「本来のブルース」 である。

つまりブルースというのは、ある意味、俳句や短歌のような 「定型芸術」 であり、初めからその定型に沿って作られるので、いくら似ていても、「パクリ」 という概念の外にある。似ていて当たり前というジャンルなのだ。

根本的なことを言えば、私としては 「どう工夫してもある程度似通ってしまうのはしかたがない」 みたいな分野では、「ブルースのコード進行」 のようなフリーの 「入会地的ソース」 を認めておいて、利権主義的な 「知的所有権」 のコンセプトから、ある程度解放してあげなければ、そのうちにっちもさっちもいかなくなると思っている。

音楽で言えば、そうした例はいくらでもある。例えば、"Careless Love" と "Release Me" は、下の YouTube ビデオで聞けばわかるように、ほとんど同じ曲と言ってもいいほどよく似ている。それは同じ古い民謡を原曲としているので当然だ。同じ原曲をアレンジによっていろいろなイメージに膨らませ、別個の楽曲にしている。

デザイン業界でもこんなような手法がきちんとオーソライズされれば、問題なくなるのにね。どうせ似たようなことがフツーにやられてるようなんだから。

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2015/09/01

国立競技場とエンブレムと自転車置き場

東京オリンピック・パラリンピックの大会組織委員会が、例のエンブレムの使用を取り下げる旨を発表した。これでまあ、一連の馬鹿馬鹿しい騒動の火は収まったわけだが、国立競技場問題と相まって、「ぐったり疲れた感」 と、「やり直すのもうっとうしいなあ感」 が残った。

それにしても、2016年に向けての立候補にはあれだけシラけ、消極的だった国民の多くが、2020年の開催決定には大喜びしたというのが、私には今でもよく理解できていない。個人的には、2020年に関しては 「そんなにやりたきゃ、やれば?」 ぐらいに考えていたのだが、振り返ってみれば、本当にそんなに心の底からやりたかったのかなあ?

1964年の東京オリンピックの頃と今とでは、社会の構造がかなり変わってしまったことを感じる。当時は、大きな流れの前には小さな情報は取り上げられることすらなく、日本全体がイケイケ・モードでオリンピックに突入した。そして当時はそれでよかったのだと、今でもそれを経験した多くの国民が納得している。

ところが約半世紀以上経った今の情報化社会では、小さな情報でも結構拾い上げられる。国立競技場建設計画は 「金かかりすぎじゃね?」 という疑問の拡大によって、多くの国民の支持を得られなくなり、ついに取り下げの憂き目にあった。エンブレム問題も、私は当初、「なんだかんだと言っても、結局これで行っちゃうのかなあ」 と思っていたが、同様に 「炎上」 してしまった。

これは多くの人が言うように、インターネットを初めとする 「草の根情報」 システムが、既に大きな力を得ていることを示す。マスコミの力だけでは、ここまでの炎上エネルギーは生み出せなかっただろう。

ただ、それはそれとして、私は何だか割り切れないものを感じてしまうのだよね。政府は国立競技場とエンブレム問題でガス抜きして、もっと大きな 「安保法制」 しっかりと通してしまう姿勢なのだ。草の根情報もかなり頑張ってはいるのだが、安保法制まで覆してしまうまでには至らない。

というのは、安保法制に関してはインターネットの世界も真っ二つなのである。お互いに火の手は上げつつ、一方でお互いに水をかけ合っているから、大きな流れを変えるまでの炎上には至っていない。国立競技場とエンブレムで、右も左も盛大に火の手を上げて騒いでいたのとは大違いである。

とくにエンブレム問題では、"東京オリンピックのエンブレムに関する 「余計な説明」 が、火に油を注いでいる" という記事で書いたように、選考委員会の代表までが余計なことを言って炎上を加速させたのだから、まさにしっちゃかめっちゃかである。

私はそこに、「自転車置き場の議論」 的要素を垣間見てしまうのだよね。これは 「パーキンソンの凡俗法則」 というのから来ていて、Wikipedia によると、次のようなことである。

原子炉の建設計画は、あまりにも巨大な費用が必要で、あまりにも複雑であるため一般人には理解できない。このため一般人は、話し合っている人々は理解しているのだろうと思いこみ口を挟まない。(中略) このため審議は 「着々と」 進むことになる。

この一方で、自転車置き場について話し合うときは、屋根の素材をアルミ製にするかアスベスト製にするかトタン製にするかなどの些細な話題の議論が中心となり、(中略) 次に委員会の議題がコーヒーの購入といったより身近なものになった場合は、その議論はさらに白熱し、時間を最も無駄に消費する。

とまあ、オリンピックに関連した国立競技場建設やエンブレムを 「些細な問題」 とは言わないまでも、国民がそれらに関して盛大にやいのやいのと言っているうちに、安保法制は影で (というほど影ではないが) 着々と進行している。

最後に余計な話かもしれないが、これで佐野さんというデザイナーは、商売にならなくなってしまうんだろうなあ。気の毒に。

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2015/08/31

軽自動車に対する偏見が、すっかりなくなった

実は最近、軽自動車に乗り換えた。前はエスティマ・ルシーダなんていう 1 box 型の大きなクルマに乗っていたこともあったが、子供たちが次々に独立して、今や夫婦 2人だけの生活になってしまったので、どんどん小さなクルマに乗り換えつつあった。そしてついに軽自動車である。

この夏までは、スズキのスウィフトという、排気量 1200cc のクルマに乗っていた。これはなかなかいいクルマで、きびきびとよく走ってくれた。そしてついに乗りつぶす寸前で車検になったので、私としては同じクラスのクルマにしようと思っていたのである。

もとより私はクルマにはほとんどこだわりを持っていない。ちゃんと動いて曲がって止まればいいと思っている。その上で燃費がよければいうことはない。ただ正直言って、軽自動車には偏見があった。

パワーがなくて、80㎞/h のスピードに達するにも時間がかかるし、エンジン音もうるさい。乗り心地も悪く、運転していて疲れてしまう。そう思っていたのだが、娘が 「お父さん、今の軽自動車は優秀だよ。上のクラスに見劣りしないよ」 と、熱心に薦めるのである。それで試乗してみたら、確かに合格点の出せる乗り心地なのだ。

というわけで、軽自動車の中でも燃費の良さでは定評があるという、ダイハツのミライースというクルマにした。乗り始めてみると、乗り心地が悪くないだけでなく、車体が小さいので取り回しが楽で、なかなか快適である。その上、燃費がものすごくいい。

今日は水戸の近くまで行ったのだが、夜遅くなったので、信号が少なく、車の通りも少ない一般道を走って帰ってきた。そしてメーターのボタンをちょんちょんと押して 「平均燃費」 を表示させてみると、なんと、29.3㎞/ℓ を叩き出しているではないか。

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これはすごい。ミライースというクルマは 「エコアイドル」 という機能が付いていて、信号などで停止している間は自動的にエンジンがストップし、発進する時に自動的に再始動する。これでかなり燃費を向上させているのだが、それでもせいぜい 25㎞/ℓ ぐらいのものだろうと思っていた。もう少し頑張れば 30㎞/ℓ も狙えそうなほどの超エコ車とまでは思っていなかった。

最近まで乗っていた スウィフトは、平均燃費が 14.5㎞/ℓ ぐらいだったので、同じ量のガソリンでほぼ倍の距離を走れるということになる。ということは、同じ距離を走って排出する CO2 は、半分に減少させているということだ。これはありがたい。ベストセラー・ハイブリッド車のプリウスの実燃費はせいぜい 25㎞/ℓ に届くか届かないかという程度らしいから、こっちの方がずっといい。

というわけで、私の軽自動車に対する偏見は、すっかりなくなってしまったのであった。

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2015/08/30

遺伝子組み換え作物に反対することは 「非科学的」 なのか?

当初は 「遺伝子組み換え作物」 (以下、"GMO" = genetically modified organism と標記する) に否定的な立場をとっていた毎日新聞記者の小島正美氏が、ある時期から開始した 「バイアスの強すぎる報道や情報を是正する活動」 の集大成として。『誤解だらけの遺伝子組み換え作物』 という本を 世に送り出すという。(参照

これは、アメリカ人が中心になって書いた"The Lowdown on GMOs" という電子ブックを翻訳したもので、結論的には 「農家の方の選択肢として (GMO は) あってもよいのではないか」 とする内容になっているらしい。まあ、早く言えば GMO 擁護の立場で書かれたものと言っていいのだろう。

小島氏は、2002年に米国の農業を視察し、実際に GMO の生産に関して取材したことをきっかけに、考えを変えたという。彼は「(GMO の)生産者は口をそろえて 『収量は増えます』 『農薬も確実に減ります』 『殺虫剤をまかなくて済むので、環境にもいいです』 と言うのです」 と証言している。

つまり小島氏は、GMO は 「いいことずくめ」 と言っているのである。「農薬を使わなくて済むので環境にいいし、しかも収量が増えるのだから、何が悪いのか?」 というわけだ。どんどん拡大してしかるべきではないかということになる。

しかし、小島氏の主張は一見すると 「いいことずくめ」 のようでいて、実は落とし穴だらけとみることもできる。「農薬を使わなくて済む」 といえば聞こえはいいが、その中身は、「害虫」 と呼ばれる虫やバクテリアを寄せ付けないか、それらの生殖を阻害するような仕組みを、作物が遺伝子的に持つということである。

ということは、「農薬を使わないから環境にいい」 という幻想のもとで、より深刻な環境改変につながることが確実だ。つまり種の多様性を人為的に破壊してしまうのである。さらにそれは 「害虫」 を抑えるだけでなく、こうした GMO 作物の栽培を推進することで、作物自体の種の多様性も損なわれる。

「それがどうした?」 と言われるかもしれないが、このような 「人間の都合による強引な自然操作」 が、過去にうまくいったことなどないことを忘れてはならない。現在の状況に 「最適化」 する形で種の多様性が損なわれれば、一度環境変化が起きれば、それに対応できる可能性が著しく低下してしまうのである。

ずっとうまくいっていると思われてきた 「化石燃料活用による経済発展」 が、今や地球温暖化という大問題を引き起こす元凶になっていることをみれば、人間の一方的な都合による自然界の改変が、巡り巡って非常に都合の悪い結果につながる可能性は、非常に高いとみていい。

つまり一つの視点による 「都合のいいこと」 は、たいていの場合、総合的にみると 「自然界のバランスを崩す」 という都合の悪い結果につながる。それは当然といえば当然だ。自然というのは微妙なバランスによって成立しているものなのだから、それを局所的に変えてしまったら、全体のバランスが崩れて当然である。

最新の科学や哲学の世界では、すべての物事は非常に複雑に関係し合って成り立っているという 「複雑系」 の知見が優勢となっているのに、こと農業に関しては 「人間の一方的な都合」 に立脚して、大規模な種の多様性破壊に確実につながる意思が働いているというのは、かなりな驚きである。

「人間にとって一方的に都合のいいこと」 は、結果的にいろいろな弊害を生み出す。GMO だけは例外という根拠はない。しかも従来のやり方で致命的なデメリットがあるわけではないのに、無理に GMO 適用を拡大するというのは、あまりにも強引なやり方といわざるを得ない。

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2015/08/29

「思考停止礼賛」 に驚いた

Img_3398_2 8月 25日付の毎日新聞、「勝間和代のクロストーク」 という欄に掲載されている瀧波ユカリさんという方の 4コマ漫画がちょっと気になった (勝間和代氏の文章は、読んでない)。左にコピーしておいた画像をクリックすると、拡大表示される。

この漫画、近頃安保法制に関する議論で批判的に使われているらしい 「思考停止」 ということを擁護するという立場で描かれている。「思考進めりゃいいってもんじゃない」 というのが結論だ。

「そもそも思考って、どこまでも進むのが正しいあり方なのでしょうか?」 と疑問を投げかけ、「『ここから先はゆずれない』 ってとこで止めるものだろうし、その止めどころの指標になるのが法律だったり倫理感だったりすると思う」 と、瀧波ユカリさんは主張する。

さらに彼女は、「だから 『人の命に関わるから反対』 『違憲だから反対』を思考停止と揶揄するのは、憲法や倫理を蹴ってまでする思考に価値があると言うようなものでは?」 と、疑問を投げかけているのである。

「ここから先は譲れない」 というところで、人は思考を止めて当然で、その止める理由が法律や倫理感であるというのは、一見するとちょっともっともらしい。しかし、もっともらしいからこそ、「ちょっと待てよ、それって、やっぱり変でしょ」 と言わなければならない。

そもそも 「ここから先は譲れない」 というポイントを確定するのは、そこから先まで考えなければできないことのはずではないか。先まで考えてみて、「やっぱりこれはダメだな」 と判断するからこそ、その前のポイントに立ち返り、「ここから先は譲れない」 と主張する根拠となる。

法律や倫理感に沿って 「ここから先は譲れない」 というなら、トンデモな法律や倫理に縛られた国に生まれてしまった人が気の毒である。

「『人の命に関わるから反対』 『違憲だから反対』を思考停止と揶揄するのは、憲法や倫理を蹴ってまでする思考に価値があると言うようなものでは?」 と彼女は疑問を呈しているが、この際はっきり言ってしまおう。まさに、「憲法や倫理を蹴ってまでする思考」 に、価値はあるのである。

憲法や倫理に縛られて停まってしまう思考の方に価値があるなんていう主張の方が、むしろ私には信じられない。それらを蹴り飛ばした思考をしてみた上で、やっぱり 「蹴っちゃったらまずいな」 と思えば蹴り飛ばす以前に立ち返ればいい。思考の中で仮定的に蹴ってみなければ、そこから先のことは判断できないではないか。

私自身は安倍内閣の進める 「安保法案」 には反対の立場なのだが、あまり大きな声でそれを言い出すと、こんな風な 「思考停止して当然」 という妙な考えの人と一緒にされかねないから、ちょっと不愉快なのである。それは今年 7月 6日の記事でも書いた通りだ。

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2015/08/28

人生に三角関数は必要か?

鹿児島県の伊藤祐一郎知事の 「サイン、コサイン、タンジェントを女の子に教えて何になる?」という発言が問題になっている。まあ、いつものようにこの発言だけを切り取って、ああだこうだというのは問題があるだろうから、朝日新聞の記事から拾ってみると、このことに関して伊藤知事は、次のようにも発言している。

「それよりもう少し社会の事象とか植物の花や草の名前を教えた方がいいのかなあ」
「口が滑った。女性を蔑視しようということではない」
「サイン、コサイン、タンジェントの公式をみなさん覚えていますか。私もサイン、コサインを人生で1回使いました」

まあ、何となく言わんとしたことはわかるような気もする。彼は人生でそんなに使うこともない知識を必死に詰め込んでどうなるのだと言いたかったのだろう。自分だって使ったことは人生で 1度しかないというのだから、三角関数なんて大して必要のない知識だというわけだ。

こうしてみると、伊藤知事としては 「女の子に教えてどうする?」 ということより、「男だろうが女だろうが、どうせあまり役に立たないんじゃないか」 と言いたかったのではないかという印象だ。自身も 「人生で 1回」 しか使ったことがないと告白しているのだから、

ただ、そんなことを言ったら私なんて人生で三角関数が役に立ったことなんて、ただの一度もない。伊藤知事よりずっとひどい。というわけで件の発言は、一見 「女性蔑視」 のように受け取られやすいが、「女の子に」 云々は、確かに口が滑ったのだろう。

もちろん、伊藤知事に女性蔑視的な考えが皆無とは言わない。少しは、というより、かなりその傾向はあるのだろう。「男だってあまり必要ないんだから、まして女には必要なかろう」 といったニュアンスが濃厚なのは、ちょっと問題だ。しかしそれより大きな問題は、彼が 「物事を学習することの意義」 を基本的にわかっていないということの方だと思う。

今回の件に関して言えば、三角関数の知識は他の知識と同様に、総合的にみて必要ないというわけではない。それに関する個別的な知識そのものは、やがて忘れてしまうかもしれないが、論理的思考力を高めるための道具としては、かなり有効なのだと思う。

三角関数の知識そのものは、大して役に立たないし、詳細はすぐに忘れてしまうかもしれないが、それを学ぶことによって得られた論理的思考力は、後々までずいぶん役に立っている。イメージでいえば、脳みその論理的思考力の容量をぐりぐりと押し広げてくれるのだと思う。

個別の知識は忘れてしまったとしても、そのおかげで押し広げられた脳みその容量は、論理的思考のキャパを確保するベースになっているはずだ。一方、伊藤知事オススメの 「花や草の名前」 の方が、一般的には三角関数の理屈なんかよりすっと忘れてしまいやすいという気がするのである。

またちょっと別の視点からすると、理系の連中の中には仕事でも日常的に使っている者が多いであろう三角関数について、文系の自分が習ったこともなく、どういうものだかさっぱり知らないでいるなんてことがあったら、ちょっと夢見が悪い。どうせ使わない知識であろうと、習ってもすぐに忘れてしまうものであろうと、概要だけは知っておきたいのが人情というものである。

身も蓋もない言い方をすれば、人生において直接的に役に立つ知識なんて、「読み書きそろばん (計算力)」 と、あとは社会的な処世術ぐらいのものである。ただし、そこにその他のいろいろな知識や経験が加わることによって、人間の脳の総合力が高まるのだ。

そうした意味においては、大学院の 「文学科芸術学専攻」 なんてところに身を置いていた私なんか、人生において直接的な役には立ちそうもないことばかり勉強してきた代表選手みたいなものである。ところが私自身の感慨としては、そのおかげでコクのある人生を送ることができているという実感があるのだよね。

そして、男だろうが女だろうが、三角関数や微分積分をみっちりと勉強してきた人は、そのおかげでずいぶんおもしろい視点を得ることができて、味のある人生を生きておられるのではないかとも思うのである。

というわけで、人生で直接的な役に立とうが立つまいが、物事の真理を知る喜びというものがあるってことを、伊藤知事はわかっていないのではないかと思うのだ。実はそれこそが 「知の醍醐味」 なのに。

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2015/08/27

東京オリンピックのエンブレムに関する 「余計な説明」 が、火に油を注いでいる

東京オリンピックのエンブレムに関するゴタゴタに、またしても余計なゴタゴタ要素が加わった。このエンブレムの審査委員代表を務めた永井一正氏という 86歳のじいさんが、選考から決定に至るまでの妙なプロセスを明かした (参照) ため、逆に別方面の疑惑が深まるという結果になっている。

永井氏によると、佐野研二郎氏の元々のデザインは 「東京」 の頭文字の "T" を図案化したもので、右側の "L" を想起させる部分はなかったが、商標登録のための調査過程で他に類似する商標があるとわかったため、デザインを練り直すうちに、最終的に "L" に似たデザインが盛り込まれたのだという。だから、ベルギーの劇場のロゴを真似たものではないというのである。

しかしこれって、フツーに考えると首をひねりたくなる説明である。佐野氏の元々のデザインの商標登録をする過程で、明らかな問題になると認識されるほどに類似した商標が既に存在しているとわかったならば、その時点で佐野氏のデザインを 「アウト」 にし、次点となったデザインを採用すべきではなかったのか。

最終的に発表された佐野氏のデザインに、明らかに不要で意味不明の要素である 「"L" に見える部分」 を加えるという「妙にご親切すぎる練り直し」 を行ったということ、そしてその事実がしばらくは伏せられていたということ自体が、「かなり不自然なプロセスだよね」 ということになる。

さらに言えば、佐野氏自身の釈明会見で、右側の 「 "L"  に見える要素」 は、"T" と円の組み合わせによってたまたま生じただけで、「デザインのそもそもの成り立ちが違う」 と説明されたことも、それは決して 「そもそもの成り立ち」 なんかじゃなくて、「後から付け加えられた結果」 であることがバレてしまった。つまり、あの釈明は 「ウソ」 だったわけだ。

私としては、こうした諸々のおかしな要素は、「どうしても佐野氏のデザインを採用したい」 という意思が働いていたことによるのではないかと疑うに十分なものだと思う。というのは、既に一部ではかなり知られたことだが、このエンブレムの審査委員には、佐野氏の関係者が多すぎるのだ。その 「相関図?」 みたいなものもネット上に公開されており、それをみるとかなり濃密な 「コネ」 である。

この相関図が話題になった当初は、私としては 「せまい業界なんだから、このくらいのコネは珍しくないのかもね」 なんて軽く考えていたが、今回の永井氏の 「余計な説明」 に接してみると、かえって妙にリアリティをもって迫ってきてしまったのだよね。

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2015/08/26

Windows 10 の展開が始まっているようだが

私は Windows 8 などという 「気持ち悪い OS」 を使うのが嫌さに、昨年初めに Mac に鞍替えした。とはいえ、Mac ユーザーになった根本的な理由は 「Windows 8 が嫌だから」 というネガティブなものではなく、元々 「自分は Mac ユーザーであるべきだ」 と思っていたのに、20年前につい大勢に流されて Windows マシンを買ってしまったという思いがあるので、「あるべき姿に戻った」 という意識の方が強い。

そんなわけで、Windows 10 という OS の展開が始まって、それは Windows 8 のおかしなところをかなり修正してくれているという情報が耳に入ってきても、もうほとんど興味がない。市場の反応も、あまり大きくない。

とはいえ私としては、Windows ユーザーのままでいる人たちには「Windows 10 は無料らしいから、早くアップデートした方がいいよ」 と進めている。自分自身が Windows ユーザーに戻ろうなんてことは全然考えていないが、Windows 8 でストレスまみれになっている人には、早いうちに少しは楽になってもらいたいのである。

客観的な見方をすると、Microsoft は Windows 8 という 「チョー出来損ない」 の OS で大迷走をする必要があったのだろう。あれで大失敗したおかげで、自らの立場が既に 「市場の盟主」 なんかではないと、嫌でも認識せざるを得なくなったのだと思う。それで、今回の Windows 10 を 「最後の Windows」 などと称して、「サポート期限」 なしという展開を取るに至ったとみるのが自然だ。

ただ、「サポート期限なし」 とはいえ、無償でマイナーチェンジを繰り返していくということなのだろうから、基本的には今の iOS や Mac OS と同じようなものである。別段画期的な手法というわけではない。

本来ならば、Windows XP ぐらいでそういうことにしておけば、ここまで深手を負うこともなかったのではないかと思う。自分で自分の身を傷つけておいて、ようやく延命策にたどり着いたようなものだ。

この間、Windows XP で調子よく動いていたデータベースがおかしくなったり、アプリケーションソフトが使えなくなったりという弊害が起きて、Microsoft に対する信頼性は確実に傷ついた。

結果的には、Windows XP で市場全体を支配していた頃の状態と比較すれば、ちょっと影響力を低下させ、基本的な収益体勢を再構築しなければならない状態に、自分を追い込んでしまったという形になった。要するに、「余計なこと」 をしてしまったおかげで、しばらくの迷走を余儀なくされてしまったわけである。

というわけで、私としては Windows 路線からさっさと退却して、Mac ユーザーになっておいて正解だったと、改めて思っている。

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