2016/07/28

ようやく梅雨が明けたのだが

関東甲信越は今日梅雨明けしたようだ。平年より 1週間遅く、昨年と比べると 20日も遅い。まあ、8月にずれ込まなかっただけ幸いである。

昔は 「梅雨明け十日」 などと言って、梅雨明けしたら安定した晴天が 10日間は続くとされていた。実際に、梅雨明けした途端に急に夏になったような気がしたものである。ところがラジオの気象予報士によると、「今年は、『梅雨明け 3〜4日』 ということになりそうです」 という。

安定した晴天はそれほど続かず、来週あたりからまた天気がぐずつきそうだというのだ。それほど暑くならずに済むのかと期待して聞いていたら、さにあらず。日照時間が少ない割に気温は高めで推移するという。要するに蒸し暑くなるというわけだ。最悪じゃないか。

ちなみに 「今年は、『梅雨明け 3〜4日』 ということになりそうです」 なんて、いかにも特殊な夏のように言っているわけだが、最近では毎年そんな感じという印象が強い。梅雨入りが宣言されるとすぐに天気が回復して晴天が続き、梅雨明けになっても天気はそれほどもたない。昔の常識が通じない天気になっている。

地球全体の気象が、ちょっと変わって来てしまっているのだろう。「地球温暖化」 なんていうより、「気象変化」 という方がしっくりくる。「2〜30年に 1度」 というほどの異常気象が毎年出現しているのだから、気象のメカニズムはよほどおかしくなっているのだろう。何があっても驚かない覚悟を決めておくほうがいい。

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2016/07/27

いいネタを思いついたのだが

実はこのブログを書くにあたって、少しストレスが溜まっている。いや、書くのが嫌になったというようなことじゃない。3日前の日曜日、高速道路を運転しながらちょっといいネタを思いついた。それも 1つじゃない。1度に 2つも思いついたのだ。

しかし高速道路を運転しながらのことなので、ちょっとクルマを停めてメモするというわけにもいかない。「ああ、メモしたい、早く高速道路を降りてメモしたい」 と思いつつ、ようやくインターチェンジを降りた。あとはコンビニに寄って買い物をする前に、駐車場でちょっと iPhone の 「メモ」 アプリを立ち上げ、ちょいちょいっと書き留めるだけだ。

ところが何たる不覚か、コンビニで買い物を済ませてクルマを発進させて間もなく、「しまった!」 と思った。時間に迫られていてさっさと買い物をしようとするあまり、せっかくの思いつきのメモを忘れてしまっていたのである。

「しかたがない。着いたらさっそくメモしよう」 と思いながら、急いで目的地に着くと、いきなり待ち構えていたスタッフに相談事を持ちかけられ、それを終えるともうミーティングの開始時間になっていた。

というわけで、ミーティングが終わった時には、せっかくの思いつきを綺麗さっぱり忘れてしまっていたのである。だから、思いついたことはすぐにメモしなければならないと、常日頃から心がけているのだ。ところが、そのメモすることすら忘れてしまうようでは、さすがに還暦過ぎである。物忘れがひどくなったのかもしれない。いや、こうしたうっかりは若い頃からでもあるのだが。

こんなことがあると、何を書いてもつまらないネタのように感じられる。「あの時に思いついたネタは、ヒット間違いなしだったのに!」 と、悔やんでも悔やみ切れない。もう本当にストレスである。

これからは、いいネタを思いついたらなんとかして早めにメモすることにしよう。そうしないと、ストレスを長く引きずることになってしまう。今回はネタを忘れたことをネタにしてちょっとだけ元を取ったがわけだが、この手はそう何度も許されることじゃない。

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2016/07/26

私の誕生日は梅雨明け直後が多いのだが

誕生日である。この年になると誕生日だからといって家族で会食するでもなく、朝から淡々とたまった仕事をこなしているうちに、いつの間にか日が暮れている。まあ、64歳にもなれば、誕生日なんてこんなような呆気ないものなのだろう。

昨日はすっきりとした晴天だったが、今日は朝から降るような降らないような、はっきりしない天気が続いた。西日本と北陸は梅雨が明けているが、関東甲信と東北の梅雨明けは平年より遅れている。自分の誕生日はいつも梅雨が明けて強烈な太陽が照っているという印象なのだが、もしかしたらそれは単なる思い込みかもしれないと、気象庁のサイトで調べてみた。

一応、1971年春までは故郷の庄内で暮らしていたので、1952年から 1970年までは東北南部、1971年以後は関東甲信のデータを見ると、私の誕生日以後に梅雨が明けた年は、以下の 9回 (括弧内は梅雨の明けた日付)。単純計算で 7年に 1度以下である。自分の誕生日は太陽ギラギラという印象は、まんざら間違いじゃないようだ。

東北南部: 1957年(7月29日ごろ)

関東甲信: 1971年(7月 29日ごろ)、1982年(8月 4日ごろ)、1986年(7月 27日ごろ)、1988年(7月 31日ごろ)、1998年、2003年(いずれも 8月 2日ごろ)、2006年(7月 30日ごろ)、2007年(8月 1日ごろ)

1993年は梅雨明けのデータなし。つまり梅雨明けしないうちに真夏が過ぎ、秋になったということらしい。

興味深いことに、生まれてから 1970年までの 18年間で私の誕生日までに梅雨が明けなかったのは、たった 1度だけだが、それ以後は 46年間で 8度と、少し増えている。とくに 2003年以後は、今年も含めると 13年間で 4回と、3年に 1回のペースに近付くまで頻度が上がっている。やはり近年になるほど天候は不順になっているようだ。

ちなみに今年の梅雨明けはいつになるのだろう。天気予報をみると、明日からは晴れマークの日が続く (「曇り時々晴れ」 を含む) から、近いうちに 「梅雨が明けたとみられる」 というニュースが報じられるかも知れない。

今年は 8月初めと中盤に、関西方面に出張する予定になっている。さぞかし暑いだろうなあ。

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2016/07/25

オリンピックと私

私の誕生日は 7月 26日で、ミック・ジャガーと同じ日に生まれたというのが密かな自慢ということはちょっと置いとくとしても、実は明日が誕生日なのである。そして 12年も前に書いたように (参照)、日本人は民法によって、誕生日の前日に年をとるということになっていて、ということは、私は既に 64歳になってしまったのである。

で、さらに言うと、私の生まれた年はヘルシンキ (フィンランドの首都ということを、案外知らない人が多い) でオリンピックが開かれていて、その会期は 7月 19日から 8月 3日までだった。ということは、私はヘルシンキ・オリンピックの真っ最中に生まれたのである。

当時の東北では、産婆さんを呼んで自宅で出産するというのが当たり前のことで、私も当然自宅で生まれた。母の陣痛が始まって産婆さんが駆けつけた時、ラジオではオリンピック水泳競技の男子 1500メートル自由形決勝が実況されていた。この競技で日本の橋爪功選手が銀メダルを獲得したのだが、母は自分の初めての出産という一大事をすっかり忘れて、ひたすら橋爪選手を応援しながら気張っていたという。

自然に気張っていたせいか、ゴール直前のクライマックスで母が一番エキサイトしていた時に、私が元気な産声を上げ、要するにチョー安産という結果になった。というわけで、母は私をオリンピック水泳の申し子と、しばらくは思っていたようなのである。後年に至って 「お前はもうちょっと水泳が上手になると思っていたのに」 なんて言っていたが、世の中そんなに都合良くはいかない。

余談だが、母は自分の初めての出産を忘れてまで応援した水泳選手の名をケロリと忘れて、ずっと 「古橋選手」 だなんて思っていたようなのである。橋爪功さん、ごめんなさい。

そんなこんなで、私が 4 で割り切れる年齢になると、オリンピックが開かれるのである。実にわかりやすい。今年はリオ・デ・ジャネイロで開かれるということで、「施設の工事が間に合うのか」 と、かなりやきもきされていたが、どうやらもう開幕直前というところまで来てしまった。

聞くところによると、オーストラリア選手団が選手村入りしたところ、トイレの水が流れず、壁から水がしみ出てくるというお粗末さなので、とっとと選手村から出て、他に宿舎を決めたそうだ。で、ブラジルの当局は 「まだ完全ではないが、すぐに改善する」 と、呑気なことを言っているらしい。さすがブラジルである。プレッシャーがない。

ところで私は、12歳の時の東京オリンピックは心を躍らせてテレビを見ていたが、それでお腹がいっぱいになってしまって、それから先のオリンピックというのがほとんど印象にない。今回のリオ大会も無関心のままで終わるだろうし、下手すると、次の東京オリンピックだって無関心のままかもしれない。あまり無関心のままだと、「水くさい」 なんて言われそうなのが心配なほどだ。

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2016/07/24

「ポケモン Go」 の奥に潜むもの

まことに恐縮だが、3日続きの 「ポケモン Go」 ネタである。このゲーム (ゲームと言っていいんだよね) は、自分じゃやる気が全然ないくせに、世間がこれほどまでに夢中になっているという現象の方は、かなり気になっているのだ。

そんなに気になるなら、自分の iPhone にインストールして、実際にやってみればいいじゃないかと言われるかもしれない。確かにそう言われて当然である。自分で体験してもいないくせに、ああだこうだと言いたがるのは、ある意味無責任な話である。

しかし、「じゃあ、責任ある論評をしたいから、『ポケモン Go』 をインストールして、やってみます」 などと宣言して、それを実行する気には全然なれないのである。ただそれは、『ポケモン Go』 に反発しているからというわけでは決してない。私は反発なんかしていないのである。

「歩きながらスマホ・ゲームなんかしたら危ない」 とか 「外にいながら仮想世界に閉じこもっているのはおかしい」 とか、もっともらしいことを言って非難する向きもあるが、そんなステロタイプの非難の方にこそ、私は反発を覚える。やりたきゃ、やればいいではないか。事故に遭わないようにという、当然の注意を払ってくれさえすればという条件付きだが。

要するに私は、「ポケモン Go」 への反発は微塵もないが、ただ興味がないだけなのだ。試しにインストールしてみたところで、興味がないからやる気になんかなれないだろうし、無理にやってみても苦痛でしかないだろう。それがわかっているから、インストールするだけ無駄だと思っている。

そりゃ私にしたって、例えば飛行機に乗って何もすることがなく、SNS をチェックしようにもインターネット接続がないからそれもできないという時などは、iPhone でゲームをして時間を潰すことがある。しかしそれは、トランプゲームやオセロなど、リアルの道具を使ったゲームを画面上で行うという類いのものだけだ。

以前、子供たちにせがまれて仕方なく TV ゲーム (シューティング・ゲームとか格闘ゲームとか、自動車レースみたいなものだった) に何度か付き合ったことがあるが、疲れるだけで本当に苦痛だった。マジで楽しむなんて、想像もできないことだった。この方面に関しては、私はまったくのオッサンである。

反発したり嫌うよりも冷淡で始末が悪いのは、興味を持たないことだという。ただ私の場合はちょっと複雑で、自分でやることには興味がないが、現象そのものには 「大いに関心あり」 という、妙に複雑な関わり方になっている。

ほんの少しだけ共通するものを感じるとすれば、ウォークマンである。1979年の発売当初のウォークマンは、今の 「ポケモン Go」 以上の爆発的な話題となった。そして 「歩きながらヘッドフォンで音楽なんか聴いたら危ない」 とか 「ひたすら自分の中に引きこもっているのは不健康」 とか、今の 「ポケモン Go」 と同じような非難を浴びていた。

そして私は、1979年の発売と同時に初代ウォークマンを購入した者である。そして今でも iPhone で音楽を聴きまくっているから、この方面に関してはオッサンどころか、27歳の頃と同じ感性を維持している。私が 「ポケモン Go」 をやる気になれないのは、たまたま 「ポケモン世代」 でも 「TV ゲーム世代」 でもないからとしか言いようがない。

私が 「ポケモン Go」 現象に関心をもっているのは、一つには果たしてこのゲームがウォークマン同様にずっと当たり前の行為として生き残るのか、はたまた、一時的なブームとして徒花の如くに廃れてしまうのかとうことだ。もしかしたら、2〜3年後には 「あの頃は、みんなスマホをのぞき込みながら街を歩いてたよね。懐かしいね。今じゃ、あんなこと恥ずかしくてできないね」 なんて言う日がくるかもしれない。

しかし、街を歩きながらスマホの中にポケモンを発見してゲットするという行為の奥に、何か普遍的な要素が隠されているとしたら、もう半年か 1年経ったら、その要素が姿を変えて、ゲームなのかあるいはもっと別の形になるのかは知らないが、密かに登場するかもしれない。そしてそれがどんどんバリエーションを増して、いつか生活に定着しないとも限らない。

私が興味をもっているのは、この 「ポケモン Go」 の奥に潜む 「普遍的な要素」 が何かということなのである。そしてそれを、外から眺めることによって発見する側にいたいと思うのだ。

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2016/07/23

多くの人がポケモン Go に夢中になるわけ

昨日は 「Pokemon Go について」 という記事を書いたが、日本にも上陸してしまったので、既に 「ポケモン Go」 という表記が定着しているようだ。というわけで、私も今後は 「ポケモン Go」 と書くことにするのでよろしく。とはいうものの、いちいちきちんとキーボードを叩くのは面倒で癪なので、「pg」 で単語登録した。

この 「ポケモン Go」 にどうしてこんなにまで世界が夢中になり、私はこんなにまで興味を持てずに冷淡でいられるのか、昨日までは自分でもわからなかったが、どうやら解答が見つかったような気がする。ヒントになったのは、Wired の "世界はなぜ 「Pokémon Go」 に夢中なのか、その心理学的な理由" という記事だ。

どうでもいいようだが、本論に触れる前に、どうやら英語媒体では "Pokémon" と表記するのが一般的のようだ。そうだろうね。私は米国で先行配信された時点で "Pokemon Go" と表記されたニュースを読んだので、"Pokeman" と空目して 「ポークマン」 かと思ってしまったのだよ。

まあ、空目しなくても、「ポークモン」 と読んじゃいそうだったが、"e" の上に何とかいうシルシが付いてるので、どうにかそれらしく読まれるのだろう。ただ、日本酒の "sake" が 「サキー」 と発音されるように、「ポゥキィモン」 ぐらいに言われてるのかな。

で、ようやく本論なのだが、上述の記事には、こんなように説明されている。

ポケモンには 20年の歴史があり、熱心なファンベースがもともと存在していたという理由もある。Pokémon Goは、すでに成功していたゲーム世界に、現実世界での双方向性というレイヤーを追加したのだ。

なるほど。既に成功していた世界のリバイズ版だったから、受け入れられるハードルがものすごく低かったのだ。そして私が冷淡でしかいられないのは、ポケモンが大流行した頃には既にオッサンで、しかもウチの子供たちもとっくに 20歳を過ぎていたので、我が家にはポケモンが入って来る余地がなかったのである。要するに、全然馴染みがないのだ。

似たようなことは 「ウルトラマン」 にも言える。ウルトラマンの全盛時代に、私はテレビのない貧乏学生だったので、ほとんど見ていないのだよね。だから、今の 40〜50歳 (ぐらいかな?) の連中がもつウルトラマンへの思い入れが、私には全然ない。時々ビデオで見ると、その変てこな動きに思わず笑ってしまうぐらいのものだ。

今の若い層は、子どもの頃にポケモンに思いっきり馴染んでいるらしい。昨日の私の記事にコメントをくださった乙痴庵さんの子どもさんは、「ポケモン Go」 の意義を端的に語ったという。それは 「自分でポケモンをゲットすることは、子どもの頃から憧れていたことだもん!」 ということだった。

なるほど、そういうことだったのか。既に 20年前から多くの人が 「ポケモン Go」 に夢中になるためのドアは用意されていたようなのである。

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2016/07/22

Pokemon Go について

今をときめく "Pokemon GO" が、日本でも配信開始されたのだそうだ。私はしばらくは 「ポークマン ゴー」  ("Pokeman" というスペルに見間違えていたのだよね) かと思っていたぐらい、こっち方面にはとんと疎いので、多分自分の iPhone にインストールすることはないだろう。ただ、世界を巻き込んだ 「Pokemon Go 現象」 には、ちょっとだけ興味を覚える。

このゲームというのは、自分のスマホの中に映し出された風景の中に、ポケモンのキャラクターが出没するらしい。ということは、自分の目の前に広がる世界を一度スマホの中に取り込み、その画面に映し出される世界を相手にするわけだ。

そんな仕掛けが、引きこもりだった人間が久しぶりで外界に出るきっかけとなったりしているらしい。ただ、外界に出たところで、彼は外界を直接見るのではなく、スマホの画面を通じて見るのだから、世界に対する接し方が劇的に変わったというわけじゃなかろう。それまでは家の中で閉じこもっていたのが、家の外で閉じこもるようになったというだけである。

まあ、ずっと閉ざされた空間にいるよりはずっとましだろうが、逆に、これまで直接的に外界を見ていた人間まで、間接的に世界を見るクセがついちゃうかもしれない。私としては、現実の街を間接的な画面で見ながら歩く人間の感覚が、どんな具合に変わっちゃうのかが興味深い。

茨城県の田舎に住む私としては、外出する時は自転車かクルマということが多いから、たとえ興味があったとしても物理的に "Pokemon Go" で遊ぶ機会が少ない。ということは、このゲーム、かなり都会的なものなんだと思う。

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2016/07/21

都知事選は気分悪すぎ

私は東京都民じゃないので関係ないが、それでも今回の都知事選の成り行きを見ていると、ものすごく気分が悪い。自民党の分裂騒ぎは既得権益を巡るものだろうし、鳥越氏の 「淫行」 報道にしても、政治的な策略の臭いがぷんぷんする。

近頃の文春の趣味の悪さは大変なもので、他人の色恋沙汰に首を突っ込んで部数を稼ぐスキャンダル雑誌になり果ててしまっている。今回の報道にしても、「淫行」 なんていうから相手は問題のあった時期に 18歳以下だったのかと思ったら、20歳だったという。14年前の 20歳である。そんな話には付き合いきれない。

とはいえ、鳥越氏はこれで限りなくアウトに近付いてしまっただろう。そもそも彼が立候補を表明した時から、私は体力的に大丈夫なのかと疑っていた。彼は小池氏の 「病み上がり発言」 に激高したというのだが、私に言わせれば当然の懸念である。その上に、降って湧いたような 「淫行」 報道である。これが本当かガセかは知らないが、このタイミングで出てきたというのは、完全に狙い撃ちだ。

この気分悪すぎの選挙で投票しなければならない東京都民が、本当に気の毒である。

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2016/07/20

夏休みと 「海の日」、「山の日」

関東ではほとんどの都県の小学校が、今日から夏休みに入ったのだそうだ。道理で近所の子供たちが呑気に道路で遊んでいる。

私は関東の小学校のほとんどすべてで、今日から 8月 31日までの 42日間が夏休みなのだと思っていたのだが、それは間違いだとわかった。当茨城県では、夏休みは 8月 29日までの 39日間だけなのだそうだ。へえ、気の毒に。

そして千葉県では夏休みは他の関東都県より 3日多い 45日間なのだそうだが、ちょっとしたカラクリがあって、7月 16日から 8月 29日までとなっている。一見すると夏休みが早く始まって、小学生はハッピーのようだが、実は今月 16日から 18日までの 3日間は、土日と祝日 (海の日) が連続して、別に夏休みなんて言わなくても元々お休みなのである。

だから、ほかより 3日間多く見えて、実は変わらないのだ。それどころか、他より 3日早く夏休みが終わるという印象の方が強くなる。8月末なんてまだまだ暑さの真っ盛りだから、辛いところだ。千葉県の小学生の多くは、「そんな姑息なだまし討ちで 『45日間の夏休み』 なんて言われるより、『7月 19日から 8月 31日までの 44日間』 の方が、ずっといいわ!」 と思っているに違いない。

ところで今日ちょっと遠出したところ、何軒かの家で門口に日の丸を立てていた。「別に祝日って訳じゃないのに、何か特別なことでもあるのかな?」 と思いながらクルマを運転していたが、帰宅してからそのわけがわかった。

「そうか、今日 7月 20日は海の日と思っている人たちが、まだいるんだ!」

ちょっと調べてみたところ、この祝日は平成 8年から実施されているが、当初は 7月 20日だった。しかしいわゆる 「ハッピーマンデー」 の制度によって、平成 15年から 「7月の第 3日曜日」 ということに変更された。ところが世の中では、10年以上経っても 「7月 20日は海の日」 という刷り込みから抜け出せない人がいるわけである。

物事の周知徹底というのは、ことほど左様に難しい。5年前にテレビのアナログ放送が終了した時も、あれだけ事前の告知をしていたのに、当日になって 「ウチのテレビが突然映らなくなった」 という問い合わせが殺到した (参照) というのだから、世の中というのはなかなか大変なものである。

ちなみに来月 11日は 「山の日」 という祝日だが、これは旧盆の休暇を 1日でも長目に取りやすくする効果があるのだろう。「海の日と山の日って、何のための祝日なの?」 という質問には、「会社や学校を休むための祝日だよ」 と答えることにしている。そうでもしないと、日本人は休まないのだからしょうがない。

Wikipedia によると、「海の日」 に関しては 「2014年に 『海の恩恵に感謝する日だったはずが、単なるお祭りになってしまった』 として、超党派の国会議員からなる海事振興連盟により 7月 20日に固定化する議案が出され、2016年から当初の7月20日に戻そうとする流れにある」 とされている。

しかし 「海の日」 の意義なんて元々理解されていなかったんだから、そんなのは国民の支持を得られないだろうけどね。現実に、2016年今年になってもそんなことにはなってないし。

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2016/07/19

「眼精疲労」 の 「眼精」 って、一体何だ?

このブログのポータルサイトである 「知のヴァーリトゥード」 のサブサイト、「知の関節技」 の中に "「小股ってどこか」 よりも大切なこと  「よくわからない」 まま置いておく美意識" というヒット・ページがある。このページでは 「小股の切れ上がったいい女」 とかいう決まり文句の 「小股」 ってどこかということにフォーカスしている。

で、私としては結局のところ、人体には 「小股」 という特定の部位があるわけではなく、「小腹が空いた」 とか 「小耳に挟む」 とかいうのと同様の、「体言挟みの係り」 説を支持している。「小股の切れ上がった」 というのは、「股がちょっと切れ上がった」 という程度の意味ということだ。

ところで、私が 「小股」 以上に疑問に思っていたのが、「眼精」 ってどこなんだ? ということである。よく目薬の効能なんかに、「眼精疲労に効く」 なんてのがあるのだが、この 「眼精」 って一体何なのか、疑問に感じながらずっと放っておいてきてしまったのだ。

私としては、眼球の中のピントを合わせるための筋肉や神経関係の総称ぐらいに思っていた。だから PC の前に座りっぱなしで根を詰めた作業をすると、そこらへんの部位の総称である 「眼精」 というのが疲労してしまい、視界がボヤボヤになってしまうのだろうと、ずっと考えていたのである。

ところがふと思い立って 「大辞林」 で 「眼精」 という言葉を引いてみて驚いた。それは人体の、とくに眼球の中の特定の部位を指す言葉なんかじゃなかったのである。「モノ」 じゃなくて 「コト」 を示す単語だったのだ。以下に引用する。

眼精: 目の力、視力。また、見分ける力。

用例として 「一目見たりし頼政が眼精を見ばや」 という 『源平盛衰記』 の中の文が挙げられている。源頼政って、一目で何かを見抜く眼力があったってことのようだ。

何と、要するに 「視力」 とか 「見分ける力」 とかいうのが、「眼精」 の正体だったのだ。意外や意外である。で、世の中の目薬の多くが、この 「視力」 や 「見分ける力」 の疲労回復に効果があると謳っているのだ。

ここで注目すべきなのは、「視力が良くなる」 というのではなく、「視力の疲労」 の回復に効果があるとされている点だろう。もっとわかりやすく言えば、「目の疲れ」 の回復に効果があるというのである。

なんだ、「眼精疲労に効く」 なんていうとずいぶんもっともらしく聞こえるが、要するに 「疲れ目」 を癒やすというだけのことのようなのである。

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