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2004年6月に作成された投稿

2004/06/30

ムクドリの大群

私は常磐線取手駅を利用しているのだが、近頃、夕方過ぎに取手駅西口に降り立つと、駅前ロータリーの木にねぐらを作っているムクドリの大群に驚かされる。夜の 10時を過ぎても、何千羽というムクドリの 「キュルキュル」 という鳴き声が響き渡り、かまびすしい限りである。

野鳥の鳴き声というのは、決してうるさくなく、耳に心地よいものだと思いこんでいたが、このムクドリの大群の声はすさまじい。いくらなんでも、近所は大迷惑しているに違いない。うるさいだけでなく、多分、糞害もすごいだろう。

一体どうしてこんな大群が、取手駅周辺に襲来するものか。この駅は20年来利用しているが、これまでで一番の大群になっているような気がする。木の枝だけでなく、ステーションビルや周辺のビルの屋上にも、びっしりと止まっている。ヒッチコックの映画を思い出すほどだ。

インターネットで調べてみると、案外あちこちでムクドリの大群には悩まされているらしい。初めのうちは、天敵であるカラスの鳴き声をスピーカーから流すといなくなるらしいが、ムクドリは結構学習能力が高いようで、実際に危害が加えられないとわかると、すぐに戻って来るという。

取手駅ロータリーのムクドリは、今後一体どうなるものか、しばらくウォッチしてみたい。こういうのも、「バードウォッチング」 というのだろうか。

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2004/06/29

オジサンの手の洗い方

実は、ずっと以前から気に掛かっていたことがある。公衆トイレを利用した時の、オジサンたちの手の洗い方である。「洗い方」 というより、まったく洗わずに行ってしまうオジサンだって少なくない。そして、たとえ洗ったとしても、あまりにもおざなりなやり方が多いのである。

オジサンたちが公衆トイレで用を足した時の、典型的な手の洗い方を、ここに描写してみよう。(女性はこの光景を目の当たりにする機会がないだろうから、読んでみて、ゲゲっとなるかもしれない)

まず前提として、オジサンたちは片手にカバンを提げていることを確認しておこう。そのカバンは、アタッシュケースだったり、ブリーフケースだったりするが、とにかく、片手はふさがっているのである。

彼らは公衆トイレに入ると、まず用を足す前に、用意周到にもズボンのポケットからハンカチを取り出し、口にくわえるのである。そして、そのままの姿で小用の便器に向かい、片手だけを使って器用に用を足す。

用を足し終えると、手洗いの水道の栓をちょいとひねり、たった今使ったばかりの片手の指先に、ほんの少しだけ申し訳程度に水をたらし、すぐに栓を閉める。それはそれは、素晴らしい早業である。

繰り返すが、水をたらす (そう、「かける」 というより 「たらす」 のである) のは、片手の指先だけだ。しかも、それは見たところ、親指と人差し指、中指だけのようなのである。3本の指先を蛇口の下でこすり合わせるのは、ほんのコンマ数秒間に過ぎない。

最後にその指先で、前もって口にくわえていたハンカチを取り、ポケットに収めてすべては完了する。そのポケットに収めるという動作の中に、ハンカチで指先をぬぐうという行為は、さりげなく含まれているようだ。

実験で確認したわけではないが、ほぼ確実に言えることは、手の清潔を保つためには、あの程度の洗い方ではまったく不十分であろうということである。もっと言えば、不十分どころではない。乾いた手にわざわざ少量の水分を与えて不十分に拭き取り、体温で暖めるのだから、雑菌の繁殖を助長しているようなものである。

つまり、逆効果なのである。あんな気休めをするぐらいなら、いっそ洗わない方がずっとマシなのではなかろうか。

私は、オジサンたちの公衆トイレでの手の洗い方を見るたびに、この国の 「気休め文化」 を嘆くのである。やるならちゃんとやればいいし、おざなりなことをするぐらいなら、いっそやらない方がずっとマシなのである。それなのになぜか、逆効果しか生まない気休めを、深くも考えず、ただひたすら律儀に繰り返すのである。

お役所の仕事とオジサンの手の洗い方は、十年一日のごとき手順と、弊害すら多いという意味において、とても共通するところがある。大切なのは、単に 「やった」 という形式的な 「実績」 であり、その内容と実際の効果は、元々問題外なのである。

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