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2004年8月に作成された投稿

2004/08/31

「国のため」 と 「自分のため」

アテネ・オリンピックが終わった。始まるまではほとんど興味を持っていなかったし、夜中にテレビに熱中するということもなかったが、終わってみれば、そこそこ 「いい大会」 だったような気がする。

派手さばかりを狙った過剰な演出もなく、つつましい運営のようにみえたし。

ところで、オリンピックなどの国際スポーツ大会があるたびに、「選手は国のためではなく、自分のために楽しんで競技すべきだ」 みたいなことを言う論調がみえるが、「ふ~ん、そんなもんかねぇ」 と思ってしまう。

それを言う人は 「国のため」 というのを 「きれい事」 とか 「押しつけがましさ」 のように感じているのだろうが、私は逆に、「自分のため」 を強調する方がずっと 「きれい事」 のように思える。

選手本人にしてみれば、競技している間はただ 「勝利」 のみを考えて集中しているのだろうから、必要以上に 「国のため」 を押しつけて金縛りにするつもりは毛頭ない。しかし見る方は、かなりの部分、やっぱり 「国」 という視点で見ているのである。それは否定できない。

普段の生活ではまったく見ず知らずのくせに、日本人選手というだけで、結構な思い入れで応援してしまうのは、やはり 「日本」 という共通項を強く意識しているからだ。そうでなければ、表彰式で国旗を掲げ、国家を演奏する意味もない。

見ている方にそうした意識がある以上、選手の方にだって、心の片隅でいいから、「国のために」 という意識が少しぐらいあってもいいだろうと期待しても、罰は当たらないだろう。そうした心理をまるでナンセンスのように言うのは、「裏返しの偽善」 のような気がするのである。

ぶっちゃけた言い方をすれば、スポーツの練習をするにも、「国の力」 というのは強い影を落とす。食うにやっとのような環境では、スポーツ振興もままならないのである。自分一人の力だけでオリンピック選手になんかなれるものではない。周囲の環境、強化支援策など、総合的なものの結果なのだ。

それを無視して、ことさらに 「自分のため」 のみを強調するのは、よく言って 「無邪気」、悪く言えば 「恩知らず」 というものである。優勝選手が 「周囲のみんなのおかげ」 なんてコメントするのを 「偽善ぽい」 と言う人があるが、実はそれは偽善でもなんでもない。事実なのである。それは、コメントした選手が一番よく実感しているはずだ。

スポーツ選手はまったく独立した 「個」 ではあり得ず、ある種の 「ネットワーク」 としての何物か (オリンピックの場合は 「国」 ) の 「代表」 という位置づけから免れ得ないのだ。

それに、「まったく自分のためだけ」 に競技するよりも、多少なりとも 「国を背負って」 がんばる方が、いい結果が出たときの喜びだって、増幅するだろう。「自分のため」 を押しつける人は、そうした 「より大きな喜び」 を奪おうとしていることに気付いていない。

最後に、誤解を避けるために付け加えるが、ここで強調した 「国」 は "nation"(国家) と言うよりは "country" に近い意味合いで言っている。ナショナリズムとは一線を画したい。日本語では、この二つが同じ単語なので、ちょっと 「国」 というだけで、右翼的ナショナリスト扱いされてしまう。


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2004/08/30

選挙とバナー広告

ウェブサイトにおけるバナー広告は、役に立たないと言われて久しい。バナー広告の料金も、下がる一方だと言われる。

私自身も、ポータルサイトの "My Yahoo" の最上段にしつこく出てくる 「借りたいその日にキャッシュワン」 というバナーをクリックしたことなんて、一度もないし。

空しいまでに効果のあがらないものがもう一つある。それは、選挙の投票率アップのキャンペーンである。最近は、選挙前に何をどう言おうと、投票率は本当に悲しくなるほど低い。

これほどまでに 「役に立たないキャンペーン」 というのは、何か共通点があるに違いないと、ふと思ったのである。

これまで、選挙もバナー広告も、政治家の都合、広告主あるいはサイトの都合だけで運営されてきた。そこにはマーケティング的視点が欠落している。ちょっと乱暴だが、有権者とインターネット・ユーザーを、「顧客」 とい言葉でくくってみると、要するに 「顧客志向」 が欠けていたということがわかる。

これまで、選挙管理委員会は 「投票しろ」 と言ってきた。広告主は 「クリックしろ」 と言ってきた。その行為に十分に報いるほどの準備もせずに。

何となく、選挙もバナー広告も、他とは違った特別な物であるかのように振る舞ってきた。それがそもそもの間違いなのだ。一般の有権者、インターネット・ユーザーにしてみれば、どちらも 「なくなったらちょっと困るけど、感覚的には邪魔くさいもの」 でしかないのである。

「Wired News」 に、「消費者データをフル活用して浮動票を獲得 ― 米大統領選」 という記事がある。米国の政治団体は、「マーケティング会社から消費者データを提供してもらい、まさに "マクドナルドがハンバーガーの売上を伸ばそうとするのと同じ手法" で、有権者の嗜好を理解しようとしている」 という。

こんな言い方をすると、ちょっと安っぽく聞こえて抵抗があるかもしれないが、少なくとも、政治もサービス業であるという認識において、あってもおかしくない手法である。

バナー広告は、「ニーズに沿ったサイトに、ニーズに沿った商品の広告を」 という当然のことが、ようやく理解されてきた。しかし政治の世界では、まだ 「ニーズに沿った政策や商品 (候補者)」 が提示されていない。「自民がああ言えば、民主はこう言う」 といったレベルの、「ユーザー無視」 の 「手前勝手」 だけだから、「売れない」 のは当たり前である。


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2004/08/29

Blog に関する調査結果

gooリサーチ と japan.internet.com の共同企画による 「第 5回: Blog に関する調査」 の結果が発表されている。

これは今年 4月から定期的に行われているもので、Blog そのものが比較的新しいジャンルといえるため、調査のたびに結果が大きく変動するのがおもしろい。

調査対象は、全国の 10代から 50代以上のインターネットユーザー 1,089人で、調査結果によると、「Blog についてよくわからない」 という人は、前月より 5.3%減って 26.8%になったという。

短期間のうちに、ずいぶん認知度が高まったものである。かくいう私も、現在、ココログに 3つの ID をもって Blog を運営している。この 「一撃」 はそのうちの 1つである。

Blog ユーザーの利用しているサービスは、"Livedoor Blog" が22.8%で最も多く、次いで "Excite Blog"、"goo blog"、"Jugem2" の 3つが同率で 10.9%、 5位が 「はてな」 で、8.7%だった。Livedoor の野球におけるプロパガンダはだいぶ功を奏したようだ。

今年 4月の 第 1回調査では、Cocolog がトップの 26.8% だったのだが、今回の調査では 「マイプロフィール」 にも抜かれ、「シーサー Blog」 と並ぶ 6.5% で 7位にランクされている。もっと以前は 「はてな」 が断然トップだったはずだが、後発の Blog サービスのユーザーが急増しているので、自然にシェアが下がっているのだろう。

Blog というと、ちょっと前までの私の認識は、頻繁に更新するサイトで、あちらこちらにリンクをはりまくり、自分なりのコメントを入れるというものだったが、今では、ちょっと前の 「日記サイト」 に ping やトラックバック機能などがついたものと思えばいいようだ。ずいぶん気楽になったものだある。

私の場合は、毎日更新するコラムなどの記事を、自前のサイトの中で運営していくのはちょっと骨が折れるので、既存の Blog を利用すれば楽に更新できるだろうと踏んでのことである。これは確かに便利である。

日記やコラムなどで更新頻度の高いサイトの管理者は、Blog の導入を検討してはいかがだろうか。

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2004/08/28

「御用達」 の読み方

お前らのためのHTML講座のようなもの」 という、サイトの日記に "私は最近まで 「ごようたつ」 と読んでいた。間違いではないらしいが、ちと恥ずかしい" という記述があった。

おいおい、待てよ、「御用達」 は 「ごようたつ」 でいいんではないか。

そもそも 「宮内庁御用達」 は、明治 24年から昭和 29年までの制度だそうで、今では消滅している。往時の御用達業者が今でも看板にそう掲げているのを、宮内庁は黙認しているというだけということらしい。

しかも、これは 「御皇室御用達」 ではなく、「宮内庁御用達」 なのであって、要するに、天皇陛下がお召しになっているというわけでは必ずしもなく、宮内庁の食堂などで食されていたものというのが、本当のところらしい。

さて、読み方に戻る。そもそも 「御用達」 の正式の読み方は 「ごようたつ」 である。それを 「ごようたし」 などと読むようになったのは、庶民の間の地口的言い習わしである。

「百人一首」 を 「ひゃくにんしゅ」 、「お師匠さん」 を 「おしょさん」 などと言うのが、さも 「粋」 であるということで、通ぶって言うようになったようなものと、私はにらんでいる。

昔の上品な家庭では 「便所に用足しに行くんじゃあるまいし、『ごようたし』 なんて、言うもんじゃない」 という風潮があったのである。また、「ごようだつ」 と、濁っていうこともあった。

例えば、「屋形船」 を、現在は 「やかたぶね」 と発音するが、歌舞伎の助六では、「鼻の穴に屋形船、蹴込むぞ」 という台詞を、明瞭に 「やかたぶねけこむぞ」 とは言わない。「やがたぶねけこむぞ」 (「が」 は鼻濁音) に近く聞こえる。江戸っ子の本来は、「やかたぶね」 と 「やがたぶね」 の中間ぐらいがいいらしい。

「御用達」 に戻るが、これもどうも、「ごようたつ」 と 「ごようだつ」 の中間ぐらいがもっとも望ましいところであるらしい。「ひゃくにんしゅ」 や 「おしょさん」 は趣があっていいが、「ごようたし」 は、個人的にはあまり好きではない。

甚だしくは 「ごようたち」 なんて読む向きもあるが、これは明らかに間違いである。

 

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2004/08/27

清水の舞台

「清水の舞台」 の床板張り替え工事がこのほど終了して、一般に公開されたそうだ。(参照

「清水の舞台」 は、正真正銘、舞楽などの芸能を演じる舞台である。「舞台造り」 という建築様式の名称は、実際に芸能を演じる舞台だからついたのである。

じゃあ、その舞台の観客席はどこにあるかといえば、目に見えるところにはしつらえてないのである。それは、舞台で演じる舞楽は観音様に奉納するものであって、人間に見せるものではないからだ。

元々、芸能というのはそういうものであって、祭礼の際に神仏に奉納して見せるのが本来の意義である。人間はその 「ご相伴」 に預かって、横から盗み見するように見ていたのである。

観客が神であるなら、演じる俳優 (わざおぎ) もまた精進潔斎して、神の資格で演じるのである。だから、芸能は本来、神が演じて神が鑑賞する 「神遊び」 なのである。中世以後、俳優は神の立場から零落し、一方で観客というものも変容した。金さえ払えば人間が神に成り代わって芸能を楽しめるようになったのである。

「お客様は神様です」 というが、本来は 「神様がお客様」 なのである。

ところで、「清水の舞台から飛び降りるつもりで」 などというが、昔は、これは単なる心構えをいう譬えではなく、本当に飛び降りる者が少なからずいたらしい。

清水寺の古文書 (「成就院日記」) 調査によると、江戸時代には飛び降り事件が 234件にのぼっていたという。「命をかけて飛び降りれば願がかなうし、死んでも成仏できる」 という庶民の観音信仰が背景にあったようだ。実際、飛び降りても生存率は 8割以上に達していたらしい。

私はあんな所から、決して飛び降りたくはないが。

 

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2004/08/26

長嶋さんのコメント

昨日は野球に思い入れがあまりないと書いたが、野球周辺のよもやま話には、興味がないではない。。

今回のアテネオリンピックの銅メダル獲得に際して送られたという長島監督のコメントは、久し振りに 「私の好きな長嶋さん」 の面目躍如たるものがあった。


まず、徹底したプラス思考である。

いわく 「きのうの負けを引きずらず、きょう有終の美を飾れたことは、諸君たちの精神力の高さの証明です。この精神は、日本のファンの方たちが見ていました」

いわく 「今大会、私の中には金メダル以上のものが幾つかあります。キューバに勝ち、日本プロ野球のレベルの高さを世界に示せたこと。日本のファンの方たちが野球というスポーツを通じて一喜一憂したこと。チーム間の壁を超えて本当に一つにまとまってくれたこと。そして一番は、諸君たちが得たものです」

悪いことを言わない人である。間近にお付き合いしたらどうだかしらないが、遠くから見ている分には、本当に見習いたいほどいい人である。

そして、その真骨頂は 「諸君たち」 という物言いである。本来なら 「諸君」 あるいは 「君たち」 であるべきで、「諸君たち」 は明らかに誤用である。

しかし、長嶋さんのコメントとしてみると、そこに何か 「溢れ出る思い」 というか、あるいは 「ほとばしるもの」 が感じられて、許せてしまう。同じことを野村さんが言ったら、「オッサンも野球ばっかり詳しいけど、言葉知らんなぁ」 と思われてしまうかもしれないが、長嶋さんにそんなことを言っても意味がないのである。

やはり、この人は特別な星のもとに生まれた人なのである。


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2004/08/25

野球って、かなり退屈

オリンピックの野球で、日本代表チームが準決勝でオーストラリアに負けたらしい。残念なことである。

とは言いながら、私は元々、野球にあまり思い入れがない。そりゃあ人並みに「三角ベース」 で遊んだりしたので、ルールぐらいはきちんと知っているという程度だ。

とにかく、野球というのはよっぽど暇でないと見られない。とくに日本のプロ野球のように、1試合平均 3時間半もかかるようでは、付き合いきれない。

大体において、オン・プレイの時間より、明らかにオフ・プレイの時間が長い。試合が実際に動いている時間は、試合時間の半分もないのではなかろうか。

半分以上は、チェンジによる攻守交代、ピッチャー交代による投球練習、バッターが1球ごとに打席を外して、神経質そうにバットでスパイクをコンコン叩いてみたり、やたらペッペと唾を吐き散らしたりしている時間に取られる。甚だしくは、ピッチャーが 1球も投げないうちに、バッターがじれて 「タイム」 をかけたりする。

こんなに 「タイム」 を際限なく自由にかけられる競技は、他にないだろう。それだけで、ちょっとふざけてると思うのである。そんなつまらない時の流れを延々と見せられる客の身にもなってみろというのである。

ピンチになると、野球放送の解説者が、「ここはキャッチャーが間を取ってあげた方がいいですね」 などという。そんな時、「とんでもない、間なんか取らないで、さっさと投げろ」 と言いたくなる。ちょこまか勝つことだけを気にして、顧客 (観客) 志向をしていない。

客だって、あまり遅くならないうちに電車に乗って帰りたいのだ。そうしないと、郊外の住人は最終バスに乗り遅れて、タクシーに乗らなければならなくなる。それには、6時に始まったら、遅くとも 9時には終わってもらわないと困る。わざわざ球場に足を運んでも最後まで見られないから、観客動員が伸びないのである。

それに、野球というのは、優勝チームでも勝率は大体 5割台の後半から 6割台前半ということが多い。つまり、優勝チームが強いと言っても、3度に 2度勝っていないのである。いかにちょこまかとした勝負が多いかということだ。

野球ファンには怒られるかもしれないが、私はやはり野球という競技は退屈してしまうのである。


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2004/08/24

エレベーターの 「閉じる」 ボタンを押す習慣

某展示会場に 3日間詰めることになり、そのビルの 1階から 13階まで昇ったり降りたりするうち、前から薄々気になっていたことが今度こそ明確に意識された。

エレベーターに乗ると、後ろを確かめもせずに、ほとんど条件反射的に 「閉じる」 ボタンを押す人が、とても多いのだ。

これはとても危ない。先に乗った人が当然のような顔をしてすぐにドアを閉じるため、続いて乗り込もうとしている人が、ドアにはさまれてしまうことがある。

乏しい海外経験に照らし合わせてのことだが、欧米ではこうしたことはあまり起こらない。それは、欧米のエレベーターのドアの開いている時間が概して短いことと関係があると思う。

つまり、放っておくとドアがすぐに閉まるため、先に乗り込んだ人は、後から乗ってくる人のために 「開ける」 ボタンを押し続けてあげるのが習慣になっている。それをしないと、とても 「気の利かない人」 ということになって、顰蹙 (ひんしゅく) を買ってしまう。

これは日本とはまったく逆である。日本ではエレベーターボタンの近くにいる人がぼんやりして、いつまでも 「閉じる」 ボタンを押さないでいると、顰蹙を買う。それほど、日本のエレベーターのドアは、いつまで経っても閉まらない。

最近は日本でも、空いている時間が短くて、わざわざ 「閉じる」 ボタンを押さなくてもドアが自動的に閉まるエレベーターが増えてきたが、ちょっと古いタイプは、概して 「閉じる」 ボタンを押さないと、いつまでも閉まらずにイライラする。

だから日本人には、エレベーターに乗るとすぐに 「閉じる」 ボタンを押してしまう人が多いのだ。それがあまりにも無意識的な習慣になっているので、後から乗り込んでくる人のことも考えずに押してしまうケースが多くなる。

日本のエレベーターのドアが開いている時間が長いのは、多分、すぐに閉まったら危ないからという配慮によるものではないかと思う。しかしそのために、乗るとすぐに 「閉じる」 ボタンを押すという習慣を形成してしまって、結果的には、かえって危ないことになっているのだ。

さらに、日本では 「閉じる」 ボタンを押さない限り、かなり長時間ドアが開いているので、「開ける」 ボタンを押してあげるという習慣が希薄になっている。だから、延々と乗客が乗り込んでくるのに、ボタンの近くにいる人が 「開ける」 ボタンを押すことを怠るために、最後の方の人がドアにはさまれるというケースも多い。

つまり、ドアの開いている時間が長すぎるというのは、二重の意味で、かえって危ないのだ。

欧米のエレベーターのドアが開いている時間が短いのは、ちょっと考えると危なそうだが、逆に、先に乗った人が 「開ける」 ボタンを押し続けるという習慣を形成し、かえって 「思いやり」 というものが助長され、結果として安全ということになっている。

余計な配慮がかえって逆効果ということが、この世にはいくらでもある。


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2004/08/23

高校野球と地球温暖化

オリンピックの陰で目立たなかったが、高校野球は駒大苫小牧が優勝した。

大会史上、春夏を通じて北海道、東北勢の優勝はなかったが、優勝旗は初めて 「白河の関」 を飛び越し、津軽海峡を渡ったのだそうだ。これって、地球温暖化と関係あるだろうか。

以前は、東北、北海道は野球不毛の地だった。私が高校までは、甲子園野球でもあまり活躍したという印象がない。せいぜい、仙台あたりのあまり雪の降らない地域の高校が準々決勝ぐらいに行く程度だった。

そう、問題は 「雪」 と言われていたのである。東北や北海道は、冬の間はグランドが雪に覆われ、まともな練習ができなかった。一年中グランドが使える関東以南の高校に比べたら、これは大変なハンディキャップだったのである。

しかし、最近は様相が違う。たまに冬に帰郷しても、雪の積もっていることが珍しいのだ。根雪というものがなくなってしまった。これなら、そこそこ練習ができる。最近になって、東北勢がにわかにベスト 8 に入り初めたのは、私はこの気象の変化のせいだとにらんでいる。

その代わり、今回は九州勢がまったく振るわなかった。南国の高校は、多分、夏が暑すぎて練習にならないという、逆ハンディキャップの時代になってしまったのではなかろうか。


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2004/08/22

本当の七夕

実は、今日が本当の七夕である。旧暦の 7月 7日が、今日なのだ。

俳句では七夕は秋の季語ということになっているが、本当の七夕というのは、ようやく秋の気配の漂う頃の行事であることを理解しないと、まるで実感が伴わない。梅雨明け前の七夕飾りは、陳腐である。

東北では、仙台の七夕祭りを始め、「月遅れ」 の七夕を祝うところが多い。しかし、この 「月遅れ」 でも早すぎる場合が多いのである。旧暦というのは、新暦よりも 1ヶ月以上遅れる場合が多いからだ。

ようやく朝晩はしのぎやすくなってきた。七夕らしい季節感である。

それにしても、俳句の世界というのは、新暦と旧暦が渾然一体になって、ちょっと交通整理がつきかねるのではなかろうか。例えば、東京近辺の新暦の七夕を題材として俳句を作っても、歳時記では七夕は秋の季語ということになっているから、ちょっとした矛盾が生じる。新暦の七夕は、梅雨明け前の蒸し暑い時期だからだ。

ちっとも秋らしくない光景を、「秋の季語」 として扱わなければならないというのは、「本音と建前」 論にも共通するところのあるうっとうしい問題である。軍隊を持っていながら、「戦争と軍備を放棄している」 と言い続けるくらいにうっとうしい。

 

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2004/08/21

「モノ好き」 感覚

IT ユーザビリティ関連の "U-site" というサイトに、「検索エンジンが回答エンジンになるとき」 という興味深い記事がある。

インターネットのユーザーの多くは、ウェブサイトを 「訪問」 するのではなく、調べものの 「答え」 を見つけるために、ほんのちょっと覗いてみるだけだというのだ。

この記事は、ユーザーは 「よいサイトを探すために検索エンジンを使わなくなってきている」 と主張している。「探求して利用するようなサイトを探すのではなく」、その時々で 「特定の答えを探すだけ」 なのだという。

検索エンジンは、「そのページがどのサイトのものであるかを気にせず」 に、特定の疑問に対する回答を探すためだけに使われるという傾向が強まり、その結果、「回答エンジン」 になっているというのである。

そういえば、たしかに実感がある。例えば私のサイトでいえば、"「おざなり」 と 「なおざり」" というページは、多い日には 1日に 100件以上のアクセスを稼ぎ出す。個人サイトのコンテンツとしては、ちょっとしたドル箱ページである。

これは、Google で検索すると、キーワードが 「あざなり」 でも 「なおざり」 でも、 「おざなり なおざり」 の 2語でも、あるいはその順序を逆にした場合でも、かなり以前から本日に至るまで、私のページがトップにランクされるというのが大きな要因になっていると思う。

「"おざなり" と "なおざり" って、どう違うんだ?」 という疑問の生じたユーザーが Google で検索すると、必ずと言っていいほど私のページに来るわけだ。

さて、問題はここからである。当サイトのアクセス分析の結果をみると、1日に少なくとも 30人以上はアクセスする "「おざなり」 と 「なおざり」" のページから、トップページに飛んでくるのは、1日に 1~2人に過ぎないのである。私のサイトでは、どのページからもクリック一発でトップページに飛べるのだが、そのボタンをクリックしてくれる人はとても少ない。

「ほほう、tak-shonai とは、面白いことを書くヤツだな。どれ、ちょっとトップページに行って、どんなヤツかみてみようか」 なんて思ってくれる 「モノ好き」 は、極端な少数派なのだ。

現在、100人近くに及ぶと推定される当サイトの常連諸氏のほとんどは、その極端な少数派の中の、さらに少数派のありがたくも貴重な 「モノ好き」 なのである。

私は世界を作るのは 「モノ好き」 な精神だと思っている。人間から 「モノ好き」 感覚が消えて、欲得ずくでしかものを考えないようになったら、世界はどんなに味気ないものになるだろう。

「知の海」 は 「モノ好き」 感覚だけで成り立っているようなサイトである。この感覚をいつまでも大切にしたいと思うのである。


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2004/08/20

乱気流

18,19日は、北九州、博多に出張だった。もしかして台風 15号に直撃されるかも知れないと思ったが、ホテルで寝ている夜のうちに玄界灘を通過したようで、今回もまともな雨には降られずにすんだ。

20年ぐらい、旅先で傘をさした記憶がない。大した 「晴れ男」 である。

とはいえ、19日の帰りは少々緊張した。博多のホテルで朝の 7時前に目を覚まし、テレビをつけると、レインスーツを着た女性アナウンサーが、博多の海辺で、 「干潮が終わり、水位は徐々に高くなり、激しい波が打ち寄せています」 などと、緊張の面持ちでレポートしている。交通機関もかなりの遅れが出ているという。

前夜は適当に酔っぱらって寝たので、台風のことなどさっぱり忘れていた。聞けば、私が目覚めた頃、台風が最も接近していたらしい。試しに部屋の窓を少し開けると、びゅうびゅうと風の音が聞こえる。値段の割に、なかなか防音のいい部屋だったようだ。

朝に博多駅を通りかかると、改札の前に足止めを食った旅行客がズラリとならんでいる。電光掲示板をみると、軒並み 「2時間以上の遅れ」 と表示されている。おいおい、帰りの飛行機は大丈夫だろうな。

用事を早め済ませ、空港に向かう地下鉄に乗ると、遅れが出てダイヤ通りの運行にはなっていない。福岡空港に着いて電光掲示板をみると、幸い、フライトには目立った遅れはでていないようだ。しかし、雨こそ降ってはいないが、空は雲の動きがかなり速い。かなり嫌な気持ちである。

定時に飛び立った ANA は、乱気流でローラーコースターに乗っているような揺れ方だった。あの感覚が好きな人は楽しかったかもしれないが、普通の感覚ではあまり気分がよくない。機内アナウンスで 「熱い飲み物をお持ちのお客様は、お手元に十分ご注意ください」 などと言っている。乱気流で太ももに火傷なんてことにはなりたくないものだ。

羽田に降り立つと、空は晴れているがかなり強い吹き返しの風が吹いていた。とはいえ、まあまあ、今回も台風接近の割には天候に恵まれ、不都合なく仕事ができた。ありがたいことである。

 

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2004/08/19

打ち水大作戦、本番

当サイトの一番下にもバナーをはってあるが、「打ち水大作戦 2004」 の本番が始まった。100万人の参加で、気温を 2度下げるのが目標である。(詳細

本番は 18日から 25日までの 1週間だが、個人的にはずっと打ち水をし続けて、確かに涼感が増すことを確認していた。

私はエアコンの室外機から出る水をバケツに溜め、庭に打ち水をしている。妻は何と健気なことに、米のとぎ汁をバケツに溜めて打っている。米のとぎ汁を浄化するには風呂桶一杯の水が必要だというから、それを地面にまくのは、水の浄化にもつながる。

私は 18日朝から出張で博多に来ているので、打ち水はしていないが、妻が米のとぎ汁をまいている事だろう。あるいは、雨が降ってその必要がなくなっているかもしれないが。

この夏は晴天続きで夕立も少なかったため、そのままにしておいたら地面の冷える暇がなかったが、打ち水で少しでも熱を下げることができたら、人の心にも潤いが出るのではなかろうかと思う。

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2004/08/18

「栄養費」 の裏事情

「なんだ、そうだったのか」 である。巨人軍ナベツネ氏辞任の発端は、右翼団体による不祥事指摘であるらしい。(こちら

それを受けて、袖の下の解決でなあなあに済ませようとはせずに、自分から公表して収拾を図ったのは、さすがに一応大新聞社の見識とは言えるだろう。

しかし、だからといってトカゲの尻尾切りではなく、ナベツネ氏までが辞めてしまうというのは、やはり、これをきっかけに大きな方向転換を読売自体が図った証左とみていいのではなかろうか。私が三日前の当コラムで指摘したように、これまでの 「馬鹿馬鹿しいやり過ぎ」 を是正するのにちょうどいい機会とみる判断が働いたとしても、まったく不思議ではない。

「禍転じて福となす」 という諺があるが、今回のケースはむしろ 「瓢箪から駒」 と言った方がいいかもしれない。これも、奇しくも 3日前に書いたことである。この世は思いがけぬ成り行きが絡まり合って、こけつまろびつ展開していくものである。

いずれにしても、これをきっかけとして、有力選手スカウトに法外な大金が動いていたこれまでの 「裏の慣習」 は、自ずと是正の方向に向かわざるを得ないだろう。

去年までの逆指名選手は幸運だった。たった 1年遅れただけで、大金を手にすることができなくなった今年の大卒有力選手は、とんだとばっちりである。

しかし、世の中、何が幸いするかわからない。これで、プロ野球という業界の悪しき慣習が消えるとなれば、金持ち球団にだけ有力選手が集まるというアンバランス状態が少しは解消し、業界の健全化につながるのではなかろうか。

その改革の過程として、暗黙の了解であった裏金の授受について、プロ野球側が大学野球側に謝ってみせ、大学野球側が一応の不快感を表明してみせるなどの 「田舎芝居」 もして見せなければならないわけだ。こうした手続きも、なかなか大変なことではある。

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2004/08/17

チョー気持ちいー

世の中はオリンピック騒ぎだが、私はなぜか、それほど夢中になれないでいる。アトランタ、シドニーの時も、サッカーの W杯ほどには熱狂しなかったが、今回はもっと冷めてしまっているのである。

一昨日など、格闘技 PRIDE の "ハッスル"小川の結果の方が気になった。

小川の方は、ヒョードルに秒殺されてしまったが、やはり以前から思っていたように、いくら寝技の重心コントロールがうまくても、鋭い関節技を持っていないので、フィニッシュに持って行くまでにモタモタしてしまう。その間に、ちょっと隙を見せるとすぐに相手に関節を取られる。関節をまともに取られたら、重心コントロールも何もなくなってしまう。

ところで、アテネの方だが、いくら冷めてみていても、水泳の北島選手の 「気持ちいー! チョー気持ちいー!」 は印象的だった。

「おいおい、金メダリストなんだから、もっとマシな言い方はないのかよ」 とツッコミを入れたくもなるが、一方で、その率直なもの言いは、「気持ちは、チョーわかるぜ」 という気もした。今年の流行語大賞候補が、また一つ増えたな。

目標としていたことを達成したときの快感というのは、まさに 「気持ちいー」 のである。ドーパミン出まくり状態みたいな気持ちよさである。そのような 「達成による快感」 というものを、人間はもっと知っておいた方がいいんじゃないかと思う。

小さなことでもいいから、「やったぜ!」 と叫ぶような経験を、持っているかいないかでは、人間の器が違ってくるような気がする。

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2004/08/16

「好意」 というものの難しさ

先日の義母の法事で、久しぶりに親類縁者が多く集まったので、私がたまたま持っていたデジカメで、記念写真を撮ろうということになった。

寺に付随した会館の仲居さんが、シャッターを押してくれるという。せっかくの好意なので、ありがたくお願いした。

全員並んで、「はい、チーズ」 などとお約束を言っていたのだが、その仲居さん、こう言ってはなんだが、シャッターを押すのが下手くそで、どうも手ブレを起こしているようなのである。というより、彼女はシャッターを押すときにカメラが上下すると手ブレという現象が起きるという事実に、まったく無頓着のようなのである。

好意でシャッターを押してくれているので、法事の席で皆が和やかに集まっているという場所柄もあり、文句も言いにくく、「目をつむってしまった」 ということにして撮り直してもらったのだが、その度にカメラを持つ両手が明らかに上下している。

こうなると大変だ。なんだかんだ適当なことを言い、照明を全部点けてそれでもフラッシュがたかれるようにセットしてシャッタースピードを上げ、5~6回以上撮り直してもらったのだが、後で確認したら、最後の 1枚だけがどうにかこうにか見られる出来だった。

あの仲居さんは、いかにも自然に 「シャッター押しましょうか」 と申し出てくれた。ということは、我々に対してだけでなく、他の客にも、しょっちゅうそうしたサービスをしているのだろう。

私の場合は手ブレに気付いて、しつこく何度も撮り直してもらって、なんとかなったが、そうでない場合は、1~2回の撮影だけで終わり、後でできあがった写真をみてがっかりしているケースも多いだろうと想像された。

好意を提供する場合は、少なくとも後でがっかりさせない程度の技量を身につけておく必要がある。そうでないと、自分ではサービスをしたつもりでも、結果として相手を失望させることになる。

そして、好意を受ける側もぼんやりしないで、後で失望することになるのを注意深く避けつつ、なおかつ相手の好意を無にしないような気の使い方までしなければならない。こうなると好意というのは、実は提供する方も受ける方も、大変なことである。処世の術というのは、なかなか難しいものだ。

今回のケースに限って言えば、日頃からシャッターを押してあげることをサービスの一環と心得ているならば、少なくとも手ブレを起こさない程度の練習はしておいていただきたいものである。そうでなければ、きつい言い方かもしれないが、余計なことはしないことだ。

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2004/08/15

「栄養費」 の考察

大学野球の選手に裏金を渡していたことの責任をとって、かのナベツネ氏が巨人軍オーナーを辞任したという。

こんなことでいちいち辞任していたら、今まで何度辞めなければならなかったかわからない。ということは、この表向きの理由は、本当の理由ではないということだ。

そもそも、今回の裏金問題が明るみに出たのは、他から指摘されたわけではなく、巨人が自ら白状したのである。黙っていれば、これまで通り、暗黙の了解みたいなことで済んでいたのに、わざわざ自分からゲロったというのは、その方が得策だと判断したからだろう。少なくとも、従来路線を見限ったということだ。

黙ってトボケていたら、どんな不都合があったのか? 

まず最初に思い浮かぶのは、読売新聞の販売部数に悪影響が出るということだ。今回の騒動に限らず、ナベツネ氏のイメージは落ちるところまで落ちていたから、これ以上のダーティ・イメージで動き回られたら、本業に差し障りが出る。

ここは速やかにお引き取り願うために、とってつけたような裏金騒動をゲロしてみせた。最後ぐらいは正義ぶって辞めていただこうということか。

それにしても、大学野球界のエースまで巻き添えにしてしまうというのだから、このあたりの思い切りも凄いものである。自分で金を押しつけておいて、妙なタイミングで白状して、将来ある若者にダーティ・イメージを着せてしまう。裏金を受け取っていたのは、一場だけではなかろうに、気の毒と言えば気の毒である。

ここまで思い切ったというのは、読売としても、野球に金ばかりかけても、決してダントツで優勝できるわけでも、人気がさらに上がるわけでも何でもないという事実に、ようやく気付いたのかも知れない。今シーズンの様相をみても、対費用効果が悪すぎる。一般のビジネス社会では通らないコスト効率の悪さだ。

以前にも指摘したが、自分の相対的優位性を保つために、大金を使って自チームに有力選手を集中させるという戦略は、野球という業界全体をつまらなくしている。他チームにいれば4番打者でいられる存在を、ベンチの奥にしまっておくというのは、業界全体における人的資源の活用という視点から見ても、愚策中の愚策である。

お山の大将の地位にしがみついて業界全体をつまらなくするより、デッドヒートを演じて全体を活性化させる方が、得策なのである。コスト効率だって、その方がずっといい。

そんなこんなで、いくら何でも、これまでは馬鹿なことをし過ぎてきたという反省機運が生じても不思議ではない。体質を多少は改めるために、トップ人事のガラガラポンをする必要があったのだろう。

まったく、この世は 「瓢箪から駒」 的な要素が絡まり合って、こけつまろびつ展開していくものである。

それにしても、読売巨人軍の出金伝票には 「栄養費」 なんて項目が本当にあるのだろうか? お役所などでは 「食糧費」 というのがあるが、「栄養費」 なんてものがあるとしたら、他にはどんな用途で使われてるんだろう? オロナミンC を大量に買い付けて、ベンチ裏に置いたりしてるのだろうか?

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2004/08/14

ホーバークラフトという乗り物

昨日は大分からの帰路、市内から大分空港まで行くのに、話の種にと思い、日本で唯一航行している 「ホーバークラフト」 というのに乗ってみた。

真下に向かって空気を吹き付けて浮上し、陸地だろうが水上だろうが、一気呵成に滑走する乗り物である。

結論。確かに、こうしてコラムに書いているのだから、「話の種」 にならなかったというわけではないが、乗って面白い乗り物だったかというと、決してそういうわけでもない。

「別府湾を一気に渡る」 というので、フェリーのように船着き場で乗船するのかと思っていたら、そうではない。海に面した陸地をコンクリートで固めた発着所で乗り込むのである。客はぞろぞろと乗り込み、船内 (「船内」 と言っていいのだろうか?) の座席に着く。発時刻になると、おもむろに地面に空気を吹き付けて浮き上がる。

船体 (「船体」 と言っていいのだろうか?) の下部には巨大なるスカート状のものがあり、圧縮した空気をその内部に吹き付けるので、効率よく浮上する。そのままスロープを滑り降りて海面に移動し、後はプロペラで一気呵成に海を滑っていく。

水面から浮き上がっているので、水の抵抗を受けることがほとんどなく、確かに速い。ビュンビュン行くという感じである。

ただし、海を行く間は水しぶきが凄いので、デッキに出ることもできない。そもそも、デッキなんてない。船内 (しつこいが、「船内」 と言っていいのか?) に閉じこめられ、ひたすら 25分間、向こう岸に着くのを待つ。着くと、またスロープを滑り上がって、大分空港に隣接した発着所に降り、あとは空港ロビーに向かうだけである。

両端の陸地部分は滑るように移動するが、海面を行く間は結構揺れる。飛行機で言えば、常に乱気流状態である。「たった 25分間なので、トイレは付いていません」 ということだったが、あれでは、たとえトイレがあったとしても、用を足すのはしんどそうだ。

要するに、バスで延々 1時間以上かかって行くよりも、ずっと短時間で行けるというメリットだけの、かなり即物的な乗り物なのであった。外側から見れば、水面を浮き上がって濛々たる水煙をあげて滑走するというのが、確かにスペクタクルではあるが、乗っている者にとっては、単に 25分間閉じこめられているに過ぎない。

乗る前には、海上を行く 「オモムキ」 のようなものを期待していたのだが、実際には、そんなものはほとんどない。多分、外側から見る方がずっといい。これが、今回の 「話の種」 である。

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2004/08/13

「温泉」 の話題

昨日から仕事で大分に来ていて、宿泊は某健康ランド付属のホテルにした。部屋にはバスが付いていないが、健康ランドの施設を利用し放題というものである。

予約の際は温泉だと思っていたのだが、実はそうではなく、湧き水利用ということだった。こちらの早とちりである。

さっき、この施設のホームページで確認したのだが、確かに 「温泉」 とは一言も書いてない。温泉地に近いからと言って、「当施設は温泉ではありません」 と謳う必要はまったくないし、いかにも温泉を装っているわけでもない。別府で有名な大分だから、当然温泉だろうと、こちらが勝手に思い込んでいただけのことだった。

ところが、「早とちり」 では片付けられないのが、伊香保や有馬のケースである。温泉でもないのに、いかにも温泉らしく装っていたり、入湯税を取ったりしていたらしい。やるもんである。

温泉に限らず、日本古来のものというのは、案外怪しいのも多い。どう見ても小麦のつなぎたっぷりの機械打ちなのに、「生そば」 「手打ちそば」 の幟をバカスカ立てて営業している観光地の蕎麦屋もある。小野小町の生まれ故郷なんていうのも、日本中にある。やるもんである。

小野小町伝説なんて、罪もないことで笑って許せるが、温泉も、その類といえば言えないこともない。当サイトの常連の alex さんも指摘していたが、湯治に行くわけでもないのに、あまりガタガタ言っても仕方がない。確かに 「ウソ」 はいけないが、単なる観光気分で行くのなら、成分よりも気分の問題である。

そばを食っても、手打ちと機械打ちの区別も付かない人が多いのだから、どっちもどっちである。

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2004/08/12

悟りの回数

一昨日 「座禅和讃」 について書いたので思い出したのだが、白隠禅師は 「大悟十八回、小悟数知れず」 と言ったという。

これに関して、「白隠禅師って、威張りたがりだったんだね」 と言う人がいて、驚いたことがある。回数の多さを自慢していると受け取ったらしい。誤解も甚だしい。

悟りの回数なんてものは、いくら多くても自慢にはならない。一度でどんぴしゃりの悟りを得るのが、一番すごいことだからだ。回数が多いのは、悟ったと思っても、浅い悟りだったのだ。白隠禅師でさえそうだったわけだ。

「頓得の悟り」 というものがある。突然訪れる悟りである。「頓得のにわか悟り」 なんていう言い方もあるように、それで全てを悟ったと慢心しては、かえって修行の障りになる。

しかし、それを軽視してはいけないのであって、そのような 「小悟」 を積み重ねていくことにより、ある時、不意に大きな悟り 「大悟」 が訪れる。しかし、その 「大悟」 ですら、白隠禅師には 18回も訪れたわけだ。

段階的な修行を積み重ねていくことによる悟りは 「漸得の悟り」 という。一度きりの 「頓得の悟り」 で満足してしまってはならないのだ。

つまり、人間というものは、「俺も相当に悟ったな」 なんてなことを思ったとしても、それはまだまだ初歩の段階に過ぎないということだ。「まだまだ修行が足りないな」 ぐらいに思っていてちょうどいいのかもしれない。

その 「修行」 というのは、「この身即ち仏なり」 という 「即身成仏」 を現すためのものなのだろう。ないものを求めるのではなく、本来の姿を現し出すということか。

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2004/08/11

「知の海」 50,000ヒット突破

知の海」 のトップページも、ついに昨夜 50,000ヒットを記録した。

恒例の 「和歌のキリプレ」 の案内をしておいたのだが、まだキリ番ゲットの連絡がない。アクセスログから推定するに、常連の方ではないようだ。常連でないと、キリ番に気付かずに通りすぎるということもある。

このところ、30,000、40,000 と、キリ番を踏んだという連絡がなく、記念の和歌は 「捧げ先知らず」 になっている。今回は是非、常連に踏んで頂きたいと期待したのだが、どうも空振りに終わりそうだ。

「知の海」 もずいぶん広範囲からアクセスしてもらえるようになって、今や一握りの常連の集まるサイトではなくなってきているようだ。私としては、検索サイトから来た一見さんがパッと見て通り過ぎたまま、二度とやってこないというようなサイトにはしたくないという思いがある。

そりゃあ、一度来た人の全てが常連になってしまったら、サーバが混雑してしまうだろうが、センスの似通った人同士の交流の場になれば、幸いだと思っている。

これまでアクセスしてくださった方々には、心から感謝を捧げたい。更新はまだまだ続くので、よろしく。

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2004/08/10

起きて半畳、寝て一畳

家族 5人で 9日の夜明け前に出発して、高速道路をひた走り、仙台で義理の母 (妻の母) の十三回忌に参列した。

午後は本州北部を横断し、酒田に来ている。実家に泊まろうと思っていたが、さすがに寝たきりの母の負担になりそうなので、急遽、温泉スパに宿を取った。

急なことなので、実家の近くで他に泊まれるところがなく、8畳の和室しか空いていない。 5人で寝るのはちょっと窮屈かと思っていたが、布団を敷いてみると、それほど狭苦しくはない。

「起きて半畳、寝て一畳」 という言葉を思い出した。昔の人は体格も小さかったから、これで十分だったのだろう。してみれば、現代人の我々でも、8畳に 5人なら、なんのことなく OK だ。

こんなことを考えたのは、義母の法事で、白隠禅師の 「座禅和讃」 というのを聞いたからだ。これは臨済宗の寺院では毎日唱えられる大切なものであるらしい。

衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
例えば水の中に居て 渇を叫ぶがごときなり
長者の家の子となりて 貧理に迷うに異ならず

六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏みそえて いつか生死を離なるべき
それ摩訶えんの禅定は 賞嘆するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其の品多き諸善行 皆このうちに帰するなり
一座の功を成す人も 積みし無量の罪ほろぶ
悪趣何処に有りぬべき 浄土即ち遠からず
辱くもこの法を 一たび耳に触るるとき
讃嘆随喜する人は 福を得ること限りなし
況や自ら回向して 直に自性証すれば
自性即ち無性にて 己に戯論を離れたり

因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 往くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 歌うも舞うも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前する故に
当処即ち蓮華国 この身即ち仏なり

この身即ち仏ならば、半畳や一畳なんて、問題じゃない。半畳が無限の宇宙であっても不思議ではなかろう。

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2004/08/09

ツクツクホウシの修練

そろそろツクツクホウシが鳴きだした。夏も佳境である。

あれは 「ツクツクホウシ」 と鳴くものと思われているが、明治の頃には違っていたようだ。「おしいつくつく」 あるいは 「つくつくおしい」 と表記されている。どっちが正しいのかは、誰にもわからない。

『吾輩は猫である』 の 「猫」 は、「これもついでだから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究上少なからざる関係があると思う」 と、疑問を投げかけている。

とはいえ、現代人である私の耳には、 「オウシツクツク」 と聞こえる。よりリアルに表記すると、「オウシ、ツクツクツク・・・オウシ、ツクツクツク・・・」 と繰り返しているように聞こえる。

子どもの頃から感じていたのだが、ツクツクホウシは、ウグイスのようには、自らの鳴き方に習熟しないようなのだ。「オウシ、ツクツクツク・・・オウシ、ツクツクツク・・・」 と、何度か繰り返すと、根気が続かなくなり、「ツクツク・・・ピーギョーピーギョー」 と、ウヤムヤに帰してしまうのである。

我が家の次女が、「あんな時、ツクツクホウシも 『しまった、カンでしまった!』 って悔しがるのかなぁ」 と言っていた。例え悔しがって、鳴き方の修練を重ねたくとも、たった 1週間の命では、それも叶わないのだろう。

季節は深まり、過ぎゆく。

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2004/08/08

キリプレとしての和歌

「知の海」 の 50,000 ヒット目が秒読みに入ってきた。40,000 ヒットが 4月 22日だったから、4ヶ月弱で、1万というペースだ。

恒例の和歌のキリプレを、今回も実施させていただくことになっている。夏休みでお出かけの方が多くなるので、50,000 到達には、まだ 2~3日かかると思う。

「知の海」 の最初の頃は、アクセスしてくれる方のほとんどが常連かそれに近い方々だったので、キリ番を踏むと、すぐに連絡があった。しかし、最近はアクセスが広がって、「一見さん」 もかなり多くなったため、キリ番を意識しないで通り過ぎるケースが増えてきた。

それだけ、このサイトも広がりを見せているということなんだろうが、ここ 2回ほど 「捧げ先知らず」 の記念の和歌を詠んでしまった。正直なところ、ちょっと拍子抜けしてしまう。

なお、キリプレとして詠んだ和歌は、著作権の一部を放棄させていただくので、ゲットした方に限り、お好きな時にお好きなところで使ってくださって構わない。

*Cocolog の Blog としてだけご覧の方へ:

当Blog は、私のメインサイト、「庄内拓明の知の海に跳び込め」 のコンテンツの一部として機能しています。ちょっとクリックすると、キリ番に当たるかも知れませんよ。

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2004/08/07

政治的フーリガン

今日、サッカー、アジアカップの決勝となる。中国の日本に対するブーイングは、聞きしに勝るもののようだ。

「欧州のフーリガンは、もっと凄い」 という指摘もあるが、フーリガンは政治問題なんかピッチに持ち出さない。中国の場合は、明らかに政治的に煽動されたものだ。

試合中の熱狂についてどうこう言うつもりはないが、国歌斉唱の際のブーイングは、単なる 「非礼」 の域を超えたものだろう。スポーツにことさらに政治を持ち込むというのは、センスがよろしくない。

日本のマスコミも過敏な取り上げ方をしすぎと言われる。開催地の重慶は、中国でもスポーツに熱狂的な土地柄なのだから、あのくらいは当然と言う、自称 「中国通」 もいる。そんなことも知らずに過敏に反応するのは、中国を知らなすぎると、したり顔だ。

しかし、国際的常識に反するマナーを指摘するのに、どうして中国ローカルの常識に沿う必要があるというのだ。これは単なるスポーツの問題というよりは、政治問題に足を踏み込んでいる。相手方が過激に政治問題を持ち込みすぎるのだから、日本側の反応はまだおとなしいぐらいのものだ。

中国には、今後 4年間で、オリンピック開催国としての資質をきちんと身につけて欲しいと思う。

欧州の場合は一部のフーリガンが騒いでも、当然ながら、マスコミはそれを批判的に取り上げる。ところが、中国の場合は、ジーコ監督の記者会見で、「準々決勝、準決勝の日本の勝利は 『幸運』 によるものではないか」 などという質問が飛ぶ。プレスまで一緒になってはしゃいでいる。

これでは、まともに相手にするだけ馬鹿らしくもなろうというものである。「いわゆる運という言葉はコイントスのようなときに使われるもの。幸運を呼び寄せるためにはそれだけの練習を積まなくてはいけない」 と応えたジーコ監督は、さすがである。

ただ、今夜の決勝戦で、もしかして秩序正しい観戦などということになったら、それはそれで気持ち悪いだろうが。

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2004/08/06

早飯は美学か

食事はよく噛んでゆっくり摂った方がいいに決まっている。その点、私は酒が入ると、ものすごくゆっくり食べる人になる。そのくせ、最後の茶漬けだけは、あっという間に平らげてしまう。

私の普段の食事は、この 「最後の茶漬け」 である。無茶苦茶な早飯なのだ。

例えば、仕事で外出していて、昼飯を手っ取り早く済まさなければならないことになる。そんな場合は、迷わずカウンター式の牛丼屋か何かだ。

店に入ると、カウンターは 6~7分の入りで、そこそこ混んでいる。隣同士で肘がぶつかるのも嫌だから、なるべく空いたところに座ろうとする。見渡すと、半分近く食べ進んだ人が 2人いて、その間の席が空いている。「よし、あそこだ!」

そこに座れば、両隣は早めに食べ終えていなくなるだろう。そうすれば、こちらはゆったりと食べることができる。

しかし、そうは行かないのである。半分ぐらい食べ進んだ人の間の席に座り、私は出された丼をワシワシと食い進む。そしてあろうことか、結局、自分の方が両隣より早く食べ終わるのである。ハンディキャップマッチに、あっさり勝利してしまうのだ。

冒頭にも触れたが、食事はよく噛んでゆっくり摂った方がいいに決まっているのである。それは重々承知している。しかし、食い始めるとどうしても、あっという間に食い終わらないと気が済まないのだ。

食事に時間をかけるということが、とてつもなく馬鹿馬鹿しいことのように思われる。戦時中でもあるまいに、「早飯、早糞、早支度」 ということを、美学と感じてしまうのである。

そのくせ、いったん酒が入ると、うだうだといつまでも飲んだり食ったりの人になってしまうのである。そのくせ、その飲み食いを楽しんでいるというわけではなく、談論風発を楽しみながら、食うのを忘れているだけなのである。わたしは多分、過去生において、一度もラテン民族として生まれたことがないのだろう。

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2004/08/05

人の話を真面目に聞くか

昨日、ちょっとした待ち合わせに、スタバでモバイル PC を取り出して仕事をしていたら、となりのオバサン二人連れの会話が聞こえてきた。

別に盗み聞きしようとしたわけではないのだが、何しろ声が大きいから、聞きたくなくても聞こえてしまうのである。

どうも、飲食店にパート勤めしてるらしい二人のオバサンは、新入りのバイトの男の子の 「ぼんやり加減」 にうんざりしているらしく、さんざん話のオカズにしている。なにしろ、大学生のくせに物覚えがわるくて、何度教えても仕事がまともにできないのだそうだ。

とくに、片方のオバサンが腹に据えかねているらしく、「あの子、頭悪いんじゃないの? 人間として、おかしいんじゃないの?」 とまくし立てている。

それに対して、もう片方のオバサンは多少はクールで、「決して頭が悪い訳じゃないと思うよ。要するに、聞きたい話だけ聞いて、聞きたくない話は耳に入れないようにしているんじゃないかな」 と言う。うん、ある意味、鋭い指摘である。

相手のオバサンは 「じゃあ、私たちの話は、聞きたくないってわけ ?」 と、まだ憤っている。

「きっとそうなのよ。この仕事、ずっとするわけじゃないというのがあるから、きっと、悪気でもないんだろうけど、初めから、あんまり聞く耳持ってないんでしょうね。最近の若い子には、多いよ。あんまり感心したことじゃないけどね」

「信じられなーい! 私なら、そんなことないよ。人の言うことははどんなことでも、ちゃんと真面目に聞くよ。そして、ちゃんと受け入れるよ」

ここまで聞いて、「おいおい、それはいくら何でも、いい子ぶりっ子が過ぎるだろうよ」 と思った。

人間、誰しも程度の差こそあれ、「聞きたい話だけ聞いて、聞きたくない話は耳に入れないようにしている」 のである。

現に、そのオバサンだって、「どんな話でも誠実に聞くのがまともな人間のすること」 と固く信じてるから、「そうでない者がいる」 という指摘を認めたがらないではないか。ちょっとした自己矛盾である。

これが過ぎると、「自分だけが善良で、誠実で、いい子で、他人はそうじゃないから許せない」 という人間になってしまう。このオバサンがまさにそうである。とても 「真面目ないい人」 なのだろうが、他人をぼろくそに言い過ぎる。

なにも、「どんなことでも真面目に聞いて、ちゃんと受け入れ」 なくていいから、「ふぅん、世の中にはそんなこともあるんだ」 ぐらいに認める度量は欲しいものである。

そして視点を変えると、他人に忠告する時は、聞いてもらいやすいようなレトリックで話すことも大切なのだろうな。

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2004/08/04

お盆休み前の2つのモード

世間はお盆休みに向けて、2つのモードが進行中である。

1つは、なんとかまともに休みをとりたいと、その前に溜まった仕事を必死に片づける 「アクセル最大ふかし」 モード。2つ目は、「すでに心は夏休み」 モードである。両者の間には深くて暗い川がある。

世間一般はお盆休みというのは 「マスト」 なので、その前にいろいろなことを終えておかないと、そのまま 1週間後にずれ込むことになる。大変なのである。しかし、時間に追われないとか、「もうするべきことは片づいちゃったもんね」 という人は、既に心は夏のバカンスに飛んでいる。まるで天国と地獄の差である。

私はどちらなのかというと、どちらでもなく、「変則お盆休み取れない」 型である。

お盆休みを前に、来週の 8、9日 (月、火) の 2日間、法事で仙台に行かなければならない。仙台は妻の実家で、妻の母の 13回忌である。法事に出たその足で、日本列島を横断し、日本海側の酒田に行って、私の実家の墓参りをしようという強行軍である。

休みはこの 2日間だけで、あとはずっと仕事である。偉いことである。

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2004/08/03

"Windows" と "Lindows"

先頃、「リンドウズ」 が 「リンスパイア」 に改称したというニュースが流れた。例の リナックスをベースに、ウィンドウズ・ライクなインターフェイスを提供したものである。

マイクロソフトの提訴が通ったためで、初めは 「MS もずいぶん細かいところで 『ケチ』 だなあ」 と思っていた。

パッケージの字面だって "L" と "W" ではずいぶん違うし、見間違える心配はあまりない。マイクロソフトほどの大企業が、小さな企業のちょっとした 「しゃれ」 を潰すなんて、度量が狭すぎるのではないかと感じられた。

そもそも、ウィンドウズなんて、購入したパソコンに最初から入っているのが普通である。ウィンドウズ・マシンを自作しようとして、間違って 「リンドウズ」 のパッケージを買ってしまうなんて人は、そもそも最初から自作なんかすべきではないだろうし。

今回の提訴では、マイクロソフトがわざわざ 「リンドウズ」 を有名にしてあげただけのようなものじゃないかと、いささか疑問に感じていた。

しかし、試しに 「英語で」 発音してみるとわかる。日本語流の発音で、「ういんどーず」 というと、やや微妙ではあるが、ほぼ 5音節となって、明らかな 4音節の 「りんどーず」 との区別はつきやすいが、英語では "Windows" も "Lindows" も、どちらも 2音節である。わずか 2音節の単語の、最初の子音のみが違うのである。

その最初の子音が、"L" でなくて、F、T、P などの音だったら、まだ違いがわかりやすい。しかし、"W" と "L" では、耳で聞いた場合に、確かに取り違えやすいのである。もし "R" だったら、もっと紛らわしかっただろう。

これでは、"Windows" と言うたびに、その裏側で "Lindows" を想起させることになりかねない。なるほど、マイクロソフトが過敏なまでに反応したわけがわかったような気がする。

日本語では 「しゃれ」 で済まされても、英語ではそれでは済まされなかったのだ。マイクロソフト・ジャパンが、この問題では案外のほほんとしていた訳もわかったような気がするのである。

ちなみに、これからは 「リンスパイア」 になる 「リンドウズ」 の日本語版は、あのライブドアが発売しているようだ。

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2004/08/02

ネッシーの出産

夕刊紙の雄、「東京スポーツ」 で、時々思い出したように取り上げられるものに、「ツチノコ」 「人面魚」 などのネタがある。

しかし、英国ではさすがにケタが違っていて、"The Sun" などの夕刊紙には 「ネッシー」 ネタがよく登場する。これが奇想天外でなかなか面白い。

私がこれまで見た 「ネッシー」 ネタの中で、感動的なまでに面白かったのが、「ネッシーの出産」 という記事である。

記事によると、長い間、ネス湖のほとりでネッシーの研究をしていた何とか博士が、ついにネッシーの生け捕りに成功した。しかし、そのネッシーはメスで、しかも妊娠中で臨月に近かった。博士が生け捕りにしたネッシーを研究室に運ぶ算段をしているうちに、そのネッシーは網に囲まれた水中で、子どもを出産してしまったのである。

その光景を目の当たりにした博士は、生命の神秘に深い感動を覚え、ついにネッシー親子をネス湖の沖に帰してやることを決心した。網から解き放たれた母ネッシーは、子ネッシーを慈しむように片時も離さず従えて、ネス湖の沖合に消えていった。しかも、泳ぎ去る時には、博士に感謝するように、何度も何度も振り返ったという。

なかなか感動的な話で、そこには、子ネッシーを愛おしく包み込むように水中を泳ぐ母ネッシーらしき写真まで掲載されている。

しかし、思い起こして頂きたい。恐竜というのは、は虫類だから、子どもを直接出産することはあり得ないのである。それを一瞬ながら忘れさせるような記事の筆力には、脱帽した次第である。

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2004/08/01

アメリカの 「国語教育?」

一昨日は文化庁の 「国語世論調査」 にツッコミを入れ、その3日前には 「和」「邦」「日」「国」 の使い分けについて書いたので、この二つのテーマが、頭の中でリンクしてしまった。

どうして、「日本語世論調査」 でなく、「国語世論調査」なのかということである。

日本の 「国語」 は、いうまでもなく 「日本語」 である。あまりにも当然のことなので、教育の場では 「国語」 と言い、「日本語」 とはあまり言わない。「日本語」 という授業もあるが、それは多くの場合、日本人向けではなく、外国人向けのようだ。

つまり、「日本語」 というと、外からの視点によるものであり、内側の視点では 「国語」 というもののようだ。言い方を変えると、「国語」 は相対化されていない。時間軸はあるが、空間軸は欠如とまでは言わないが、希薄である。

さっき、インターネットで検索して驚いた。「アメリカの国語教育」というキーワードで、84件も引っかかったのだ。これでいろいろなことが頭に去来した。

まず第一に、これは 「アメリカの英語教育」 というべきではなかろうかと思ったのである。米国の 「国語」 の教科書の表紙には、"National Language" や "State Language" ではなく、"English" と書いてあるのだから。

日本では、誰もそう決めなくても 「国語=日本語」 だから、何の問題もないのだが、米国は移民の国だから、まさに 「英語教育」 というべき側面が強いのである。今でも、米国人の 30%は英語を話せないという説があるほどだ。

フィリピンでは日常ではタガログ語などを話しながら、英語も 「公用語 (official language)」 に認定して教育に力を入れている。そして実は、英語の国と思われているアメリカだって、それと五十歩百歩なのである。

だから、「アメリカの英語教育」 を日本語で紹介するときに、「アメリカの国語教育」 と 「翻訳」 するのは、半分自然で、半分不自然だ。

「国語」 という 「途方もない言葉」 をほとんどストレスなく使えるのは、日本の大きなアドバンテージなのだが、同時に、自己の言語と文化を国際的な視点から相対化するのが難しいという点で、大きな問題でもある。

若い世代に限らず、言葉の誤用がこれほどまでに広まってしまった現状では、「国語の乱れ」 を嘆くよりは、今こそ 「日本語教育」 をすべきなのではなかろうか。

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