« 2005年1月 | トップページ | 2005年3月 »

2005年2月に作成された投稿

2005/02/28

平成の大合併のゴタゴタ

当コラムでも何度か取り上げた 「南セントレア市」 問題だが、住民投票の結果、気恥ずかしい新市名の撤回どころか、合併そのものが否定されてしまったようだ。

首脳たちのちょっとした勘違いが、寝た子を起こしてしまったようだ。世の中、何がどう転ぶか、本当にわからない。

今回の 「平成の大合併」 は、財政措置優遇などの甘い餌に群がった結果なので、あちこちでお笑いじみたお話が起き上がっているようだ。

そもそも、住民の意向も合併に向いていて、自然な形で合併できるようなところは、既に大した障害もなく合併を済ませている。今回の例のように、「駆け込み合併」 みたいな形で大急ぎで間に合わせようとしたようなところは、住民の意向調査もそこそこに、行政主導であたふたと進めたという側面が大きいので、ちょっとつまずくと、根本的な問題までむし返されてしまう。

実は、私の住む町でも、1市 1町 1村による合併話が進んでいて、新市名まで決定していた。ところが、合併後の新市役所をどこに置くかでもめてしまい、地理的に真ん中にある村に置こうという案が多数を占めかかったところ、「そんなのやだ」 とばかり、規模的に一番大きい市がさっさと抜けてしまった。

これは、合併なんかしなくても元々 「市」 である故の、余裕のわがままである。抜けられて困るなら、言うことを聞けということだったのだろうが、それは通らなかったので、「いち抜けた」 になってしまった。

ところが、そのために話がいっぺんにスケールダウンして、残る 1町 1村による合併構想ということになってしまい、新市名もまったく新しいものになってしまったようなのだ。

しかし、新しく 「市」 になると言っても、どちらの町も村も、「市」 と呼ぶにふさわしい景観がない。要するに、のんびりした郊外の田園地帯が、ちょっと手を結んで人口だけはそこそこになるので、じゃあ、行きがかり上、「市」 になっちゃいましょうかというようなもので、住民としては、なんとなく 「すわり」 が悪い。

こんなことだと、改めてアンケートをとったら、多分合併そのものに懐疑的な票が多くなってしまうだろう。首脳たちもさるもので、そんなことになったら大変だから、あえて寝た子を起こすようなまねはしない。南セントレアは、そのあたりの読みを間違えて、完全に起こしてしまったようだが。

えらい人たちが場の空気を読めないと、馬鹿馬鹿しいことになるという教訓だ。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/27

HDD ビデオが売れれば、郊外電車が空く

私は基本的にはラジオ人間で、多分 1日 5~6時間は聞いているが、テレビは平均したら、1日 30分ぐらいのものだろう。

たまにテレビを見ると、とてもイライラする。とくに 「トリビア」 なんかでは、いいところで必ず CM になり、それが終わると、また繰り返しを見せられてうんざりする。

こうした番組で、CM と繰り返し部分を除外したら、1時間番組を 40分ぐらいで見られるはずだ。HDD ビデオなんかでは、録画中に再生できるから、20分遅れで見始めても、見終えるのは多分大体同じ頃になるだろう。

とにかく、テレビ番組というのはダラダラしている。もっとテンポ良く運んでくれないと、自分で自分の首を絞めることになる。誰もまともにリアルタイムで見なくなるからだ。そうなると、CM なんか、必ずぶっとばす。ビデオで再生しながら CM も丹念に見るなんていうのは、広告業界か、スポンサー企業の役員クラスだけだ。

それはそれで結構だが、民放というビジネスモデルが壊れてしまうだろう。完全に崩壊しなくても、スポンサーが今のように莫大な放映料を支払う気になるのは、ここ 2~3年が限度だろうという気がする。

スポンサーからの収入が減るとなると、テレビ局は番組作りにこれまでのような大金をかけられなくなる。売れっ子タレントをふんだんに起用したドラマなんかは、もってのほかになる。番組の質は落ちてつまらなくなる。タレントの収入も減る。食っていくのがやっとになる。セレブがセレブでなくなる。

シャネルやヴィトンの、ラグジャリー・ブランドの売上げが頭打ちになる。こうしたブランドの進出していた銀座の一等地から、撤退せざるを得ないところも出てくる。すると、せっかく上向き欠けていた地価も、また低迷しだす。

そうなると、今でも目立っている都心回帰現象にますます拍車がかかる。私のように、地価の高い都心を避けて茨城まで都落ちして家を買ってしまった者は、取り残されたような気になるだろう。

それをどう取るかである。私なんかは、のんびりした郊外生活を楽しめると思う。仕事のかなりの部分はインターネットでこなせるし、都心への行き帰りの電車も、それほど殺人的に混むこともなくなるだろう。

風が吹けば桶屋が儲かる式の戯言。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/26

ナマクラな愛国心

今月は 「建国記念の日」 という祝日があったこともあり、某所で雑談するうちに 「愛国心」 の話になった。そこにいた全ての人が、「愛国心を持っているよ」 と言う。

「だって、日本はそこそこいい国じゃん。他の国に生まれるより、ずっとよかったよ」 というのが、最大公約数的意見である。

「独裁とかじゃなくて、一応はちゃんとした民主主義だし、経済的にもそこそこ豊かで、治安も悪くないし、それなりの暮らしはできるし、自然にも恵まれてて、四季折々の美しさってものもあるし、なんだかんだ言っても、日本はいい国だよ。北朝鮮なんかに生まれたりしたら、大変だよ」

確かに言える。学校に乱入して教師や生徒を刺し殺したり、わけもなく国道で集団暴走をしたり、電話で人を騙して口座に金を振り込ませたりする連中がいて、毎日ニュースになっているとはいえ、全般的にみれば、日本は穏やかないい国である。

しかし、私は 「そこそこいい国だし、他の国に生まれるよりずっといいから、愛国心あるよ」 という言い方には、ちょっと疑問を感じるのである。「愛国心をもつこと」 がちょっと気恥ずかしいことで、その言い訳として、「そこそこいい国」 というのを持ち出しているような気がするのである。

だったら、民主主義が確立していなくて、経済的な豊かさが享受できなくて、治安が悪くて、自然条件の厳しい国に生まれてしまったら、愛国心がもてないのか。そんなことはなかろう。

日本よりずっと悪い条件でありながら、「国を愛する心」 を歌い上げている国は、世界中にいくらでもある。それどころか、そうした国の国民は、日本人よりずっと強い愛国心をもっているようにさえ見受けられる。

ちょっと言い方を変えると、日本人の愛国心は、「見かけが良くて、優しくて、稼ぎがよくて、そこそこの社会的地位があるから、親を愛している」 と言っているようなものだ。愛するのに条件闘争をしている。

「愛する」 というのは、本来は無条件のものだ。「見かけがパッとしなくて、分からず屋で、甲斐性なしで、地位もない」 という親でも、親は親である。それと同じように、祖国は祖国である。選べないからこそ、通い合うものがある。

それだけに、享受できるものの多さとの 「取り引き」 のようなものを 「愛国心」 と言われると、抵抗があるのである。劣悪な条件の国に生まれても、「よりよい国」 を作るための 「創造的な愛国心」 というものが湧くのだから。

そう言う意味では、我々の 「愛国心」 って、ちょっとナマクラである。ナマクラな愛国心で済む国に生まれた幸せをもっと真剣に考えれば、このナマクラも少しはまともになるかもしれない。

ナマクラで済まなくなってからあせるのでは、もう遅い。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/25

石原都知事の 「ババア発言」 訴訟判決

石原都知事のいわゆる 「ばばあ発言」 訴訟の判決が下った。(参照

判決は 「(都知事発言は) 個人の尊重を定めた憲法の理念と相いれない」 ものの、「原告個々人の名誉が傷つけられたとは言えない」 として、請求を退けた。典型的な 「上手な判決」 かもしれない。

訴訟を起こした 「首都圏の女性 131人」 は、都知事を相手に慰謝料計約 1400万円の支払いなどを求めたわけだが、この訴えをそのまま認めたら、「憲法で定められた個人の尊厳」 つまり、日本中の女性の個人としての尊厳を冒した罪による慰謝料が、たった 131人で山分けということになるから、確かに都合の悪いことになるだろうし。

いやいや、1400万円は日本中の女性が卑しめられたことに対するものだということになるかもしれないが、1億 2000万人の国民の半分、6000万人で割ると、1人当たり 1円にもならなくなってしまう。だったら、もっとふっかけるべきだったかもしれない。

そもそも、この裁判には  "『東京女性財団』 問題" という政治的な裏があって、それに関しては、平成 14年 12月 21日の当コラム (ココログ移行以前の古い話) で触れている。

そこで述べたことを繰り返すと、

今回の訴訟問題は、「石原都知事は、女性蔑視のひどい男なのよ。 彼は女の味方の 『東京女性財団』 を潰した張本人なのよ。だから、あんな男に都政は任せられないのよ」 というプロパガンダの一環であると、認識しておかなければならない。

そうしたポリティカルな視点を別にすれば、彼の 「ババァ発言」は、煎じ詰めれば、単に遺伝子の継承のためにのみ生きている動物と、それだけで満足せず、確実に地球の破滅につながる物質文明、文化を営々と築いてきた人間とでは、どちらに意義があるのだろうかという、極めてプリミティブな幸福論に立脚した文学的表現に過ぎないのである。

要するに、「ババァ」 という存在が生殖機能を失ったにも関わらず大きな顔をしていられるのは、物質文明や文化の発展が、単なる種の保存以上に意義があるという哲学に支えられているからなのだ。石原氏の言うのは、その哲学を根本から覆して、地球を滅ぼす要因のシンボルとして捉えることだってできるというストーリーである。

彼は政治的な波紋を確実に巻き起こすだろうとわかっていながら、こうした文学的表現を平気でするところがある。ある意味で、それも一つの政治的手法と言えるのだが。

なお、都知事の 「文学的表現」 に関して、趣味がいいか悪いかは、この際別問題としておく。

また、この問題に関しては、石原知事に批判的な立場でまとめられたレポートもあるので、参照頂きたい。(こちら

率直な意見を述べるとすれば、 『東京女性財団』 という団体に関しては、東京都からの財政援助がなければ運営がほとんど成り立たないような事業ならば、廃止になったのも仕方がなかったのではないかと思う。

年間予算の 98%が助成金頼りで、その助成金が途絶えた途端に団体も解散というのでは、関係者にとって 「旨み」 がなくなったからと受け取られても仕方がない。どうしても必要な事業ならば、手弁当で石にかじりついても続ければいいのだ。

助成金が切れたからといって、あっさりと解散し、その上で被害者づらをして他を批判するというのは、ちょっと根性がなさすぎるというものだ。

なお、私は決して女性の地位向上運動に反対するものではない。私が冷ややかな目で見たくなるのは、助成金をもらって 「おんぶにだっこ」 のくせに、大いばりで必要以上に金のかかる 「事業」 とやらを展開したがる団体一般に対してである。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/24

「すべからく」 という単語のリスク

私の仕事のうちには、金をもらって原稿を書くということも含まれるので、一応は 「文章のプロ」 の端くれである。自分のサイトだけは、いくら書いても金にならないが。

その 「文章のプロ」 でも、リスキーすぎて使いたくない単語がある。最もアブナイのが 「すべからく」 という単語だ。

「すべからく」 は、その世界では危険単語リストの筆頭に挙げられてもいいほどに知れ渡っている。それでも、誤用が後を絶たない。

どのように誤用されるのかというと、「全て」 とか、「総じて」 とか 「概して」 とかいう言葉の、ちょっと洒落た高級な言い回しという誤解のもとに使用されてしまうというケースが、圧倒的に多い。

某政治家が、「約束したことはすべからく果たした」 と大見得を切ったことがあったらしい。これなどは 「約束したことは全て果たした」 と、素直に言えばいいのに、つい、ちょっと気取ってみたいという誘惑に負けてしまった結果である。

私なんぞはまだなんてことはないのだが、一応名の通った著述家がこうした誤用をしでかすと、評論家の呉智英さんに嘲笑われることになる。

それでは、「すべからく」 の正しい意味は何なのかというと、その説明はちょっと手間がかかる。面倒なので、詳しくは、こちらのページをご覧いただきたい。

手短に言えば、「すべからく」 は、「(当然にも) するべきであるように」 といった意味の、漢文読み下し的な常套句なのだ。そのため、「すべからく」 で始まった文は、「~すべし」 の係り受けの形で終わらなければならない。

上で紹介したページにも文例として挙げられているが、「政治家はすべからく襟を正すべし」 などというのが、正しい使い方なのである。念のため断っておくが、これは 「政治家は全員襟を正すべし」 という意味ではなく、「政治家は当然すべきこととして襟を正すべし」 という意味である。

これ一つで十分におわかりいただけたと思うが、「すべからく」 を正しく使おうとすると、あまり当たり前すぎて、面白くも何ともない文になってしまう場合が多いのだ。

これは、まあ、「すべからく」 という言葉の成り立ち故の宿命みたいなものだから、しょうがない。元々、面白くもなんともない言葉なのだ。そこに私の好きな 「一ひねり」 なんか加えてしまうと、「すべからく」 の要件を満たさなくなってしまうリスクたっぷりなのである。

そんなところから考えると、「すべからく」 を 「全て」 とか 「総じて」 とか 「概して」 とかいう意味で使うのも、あながち、まったくの見当外れというわけではない。元々、そうしたニュアンスはたっぷり含んだ言葉なのである。長い間には、それらが誤用というわけではないということに、変化しないとも限らない。

しかし、私としては生涯に一度でいいから、「すべからく」 を正統的な用法で、しかも魅力的な一ひねりを加えて使ってみたいものだと思うのである。なかなかその機会に恵まれないのだが。

【平成22年 9月 14日 追記】

この記事を書いて 5年半以上経ってから、上記の念願の半分ぐらいを叶えたような気がする (参照)。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/02/23

「金さえあれば」 というわけじゃない

ニッポン放送株買い占めで、気の毒に、ホリエモンは 「金さえあれば何でもできるという風潮はいかがなものか」 と、感情的なまでの批判の集中砲火を浴びている。

それは、彼の武器が 「金」 だけで、「公的地位」 と 「コワモテ」 に欠けるからだ。そこが、かつての堤義明氏との違いである。

「金さえあれば何でもできるという風潮はいかがなものか」 といわれている割には、この国は、それほど何でもできるというわけではない。中近東辺りの国とはわけが違う。その証拠に、金だけを武器にすると、こんなにもよってたかって周囲から叩かれる。

実際には、「金」 だけでは足りないのだ。しかし、そこに何らかの 「公的地位」 と 「コワモテ」 が加われば、もう鬼に金棒、正真正銘、何でもやりたい放題になる。

かつての堤義明氏が、陰では悪い噂に満ち満ちていながら、警察からも税務署からもお呼びがかからず、「聖域」 扱いだったのは、「金と公的地位とコワモテ」 の三拍子揃っていたからである。

そして、今頃になってから晩節の汚しまくりになったのは、この三要素を武器にしすぎたためだ。頼りにしていた三要素に影が差すと、王様は途端に裸になる。もうちょっと他に、人間的魅力があればよかったのにね。

同じく 「晩節汚しまくり」 の、NHK の海老サマは、「地位とコワモテ」 はまだ決して色あせていなかったが、取り巻きとその周辺が悪ノリしすぎたために、受信料が激減して、「金」 の切れ目が縁の切れ目となった。

いくら裸の王様でも、王様であるうちは、誰も正面切っては 「王様は裸だ」 という一声を上げない。すり寄っていい目をみたいという輩が、いくらでもいるからである。悲しいかな、世の中なんて、その程度のものだ。

だから、もしホリエモンが一世一代の博打に大勝利して、この先、何らかの公的地位とコワモテまで身に付けてしまったとしたら、手のひらを返したようにすり寄りたがる恥知らずが、後から後から出てくるに決まっている。

しかし、多分そういうことにはならないだろう。新球団に名乗りを上げた時と同じことで、さんざん話題を集めておいて、最終的にはウヤムヤになってしまう公算が強い。彼は一生、公的地位とコワモテには縁がない役回りなのだろう。

でも、その分 「晩節汚しまくり」 という境涯になる可能性は低くなるから、よかったね、ホリエモン。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/02/22

「ランドリーリング」 はお薦め

「ランドリーリング」 をご存じだろうか。ドーナツ型のプラスチック製リングなのだが、これを洗濯機に放り込んでおくと、洗剤を使わなくても汚れが落ちるのである。(参照

案外エコ派の我が家としては、数年前から使っていたのだが、ついに壊れてしまい、2つ目をネット販売で注文した。

1個目を購入したときは半信半疑だったのだが、普通の汚れならまったく問題なく落ちる。そのメカニズムは、リングの回転により、洗濯機の中の水の分子が細かくなってどうのこうのと説明されているが、はっきり言ってよくわからない。よくわからないが、実際に汚れが落ちるのだから、結果オーライでいいのである。

汚れがひどい時だけは、さすがに落としきることはできないが、固形石鹸を汚れたところに刷り込んでおけば、綺麗になる。

かなり重宝していたのだが、最近、リングの表面にピンホールが空いたらしく、中身が流出し、効果がなくなってしまった。その辺のスーパーで買えるものではないので、仕方なく久しぶりに洗剤 (エコ派としてはもちろん合成洗剤ではなく、洗濯石鹸) を使い始めたのだが、妻はどうしようもなく不便を感じたようである。

それは例えば、携帯電話のようなものである。携帯電話をもたなかった頃は、そんなものなくても、ちっとも不便を感じなかったのだが、ひとたび持ち始めると、たまに持って出るのを忘れたりすると、ものすごく不便である。今回はそんな感じだったようである。

何が不便かというと、まず、洗濯をするたびに洗濯機に洗剤を入れるのがこんなにも面倒なものだったのかと、実感されたという。さらに、洗剤を使うとすすぎを 2回しなければならないので、洗濯の時間がものすごく長引くようになった。ランドリーリングの場合は、何しろ泡が出ないので、すすぎなんて軽く 1回で済む。

ランドリーリングを使っていた頃は、洗濯なんてサッサッサっとできてしまっていたのが、洗剤を使うと、なかなか終わらない。これはかなりのストレスになるようだ。普通の家庭では洗剤を使うのが当然と思っているので、とくにストレスとは感じないのだろうが、ランドリーリングを一度経験してしまうと、まるで、携帯電話を忘れて外出したような不便さなのである。

そんなわけで、ネット販売で購入した 2つ目のランドリーリングが、明日届く予定なのである。これで、我が家の洗濯は再び楽になる。値段は送料も入れて 8千円ちょっとなのだが、このくらいは、洗剤と水道料が大幅に減るので、半年で元が取れる。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/21

「こんにちは」 を巡る冒険

当サイトの "Link Ocean" というリンクページに、「今月のお薦め」 として、"『こんにちわ』 撲滅委員会"  と "「こんにちわ撲滅委員会」 撲滅委員会 " という二つのサイトを紹介しているのにお気づきだろうか。

この二つを対照して眺めていると、なかなか興味深いのである。

"『こんにちわ』 撲滅委員会" は、以下のように主張する。(以下引用)

「こんにちは」 は 「今日は、よいお天気ですね」 の後半部が省略された形だとされ、「今日は」 は 「今日(名詞)」+「は(助詞)」 であるため 「は」 表記が正しいと言える。そもそも助詞には 「わ」 はないからである。

というわけで、「こんにちわ」 という表記は、発音に忠実ではあっても、日本語として恥ずかしいから使わない方がよろしいという主張をされているのである。これは至極もっともなことである。

そもそも、世の中では 「こんにちは」 を 「こんにちわ」 と誤表記するケースが非常に多いのである。試しに Google で 「こんにちわ」 で検索すると、なんと 136万件がひっかかる。このうちには、「"こんにちわ" は間違い」 などという用例もあるだろうから、そのままには受け取れないが、それにしてもすごい数である。

検索結果の上位にランクされるサイトで、【百ヶ国語でこんにちわ】 というのがあって、いろいろな言語での挨拶のしかたを紹介している。大変な労作で、多分 (日本語以外の) 内容に間違いはないのだろうけれど・・・、まあ、これ以上は言うまい。

一方、"「こんにちわ撲滅委員会」 撲滅委員会" の主張は、端的には次のようなことである。(以下引用)

(前略) それらの虚飾をはいだあとに残るものはいったい何かというと、これまで 「こんにちは」 が習慣的に使われてきた、という事実のみである。しかし、この事実をもとに金輪際 「こんにちわ」 を使うなと主張することは、「言語よ変わるな」 と唱えることと同じである。

誤解のないように申し添えれば、このサイト (ブログ形式) の管理人氏自身は 「こんにちは」 派であるようだ。しかし、ご自身が 「こんにちは」 と表記することと、「こんにちわ」 という表記をことさらに排斥しようとすることとは、別の問題としたいというスタンスのようなのだ。

「こんにちは」 という挨拶が、元の意味を離れて 「こんにち + は ~」 という意味合いを失って久しくなっている以上、「こんにちわ」 であっても、なんら不都合はないではないか、「こんにちわ」 と表記する人を差別的に扱うことは、危険なのではないかと、主張されているわけである。

私自身のスタンスは、当然ながら 「こんにちは」 派だが、 "「いらしゃいませこんにちはぁ」 の怪" というページで述べているように、使い方の配慮のかけ始めていることを、かなり危惧するものである。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005/02/20

「トリックスター」 としてのホリエモン

「成功すれば無限大、失敗してもゼロになるだけ」 というライブドア堀江社長の発言が、テレビで繰り返し流されている。

確かに堀江氏ご当人にしてみれば、そうに違いないのだろうが、そうした 「個人商店的発想」 が、彼の強みであると同時に、アキレス腱でもあるような気がするのだ。

彼のこの発言は部分的なもので、もう少しきちんと紹介すると、次のような文脈で語られたらしい。

「失敗しても命までは取られない。食っていくだけのものは残してもいいように制度も作られている。だから失敗してもゼロになるだけで、決してマイナスにはならない。一方で、成功すればその成果は無限大。チャレンジしなければ損というもの」

確かに、株式会社の原則は有限責任だし、自己破産という制度もあるから、「ゼロになるだけでマイナスにはならない」 というのは、妄言というわけではない。

しかし、こうした発想で 「イケイケドンドン」 が効くのは、背負うものの少ない身軽なうちだけで、その内にそういうわけにも行かなくなる。現に、今の状態でも (フツーの) 株主にとっては、株価暴落などという事態になれば、差引勘定でいえば確実にマイナスということになる。彼は既にそこまで背負っているのだということに、案外無自覚な気がする。

彼が本気でメジャーなメディアを支配することを希望するならば、今の 「トリックスター」 的な役回りから脱しなければならない。

まあ、外野席から見ている限りは、堀江氏の目論見が成功するしないに関わりなく、思う存分 「トリックスター」 を演じてくれる方が面白いことは面白いのだが。しかし、そうした視点でみると、彼の場合、レトリックが下手くそすぎるのが難点で、一流のトリックスターにはなれそうにない (彼自身も、なるつもりはないだろうが)。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/02/19

子どものミニ列車に 「仏道の極意」 を学ぶ

『般若心経』 では、「色即是空、空即是色」 という。形あるものはすべて 「空」 に帰すが、「空」 であればこそ、如何様なる形にも現れるということだ。

ただ、この説明ではあまり単純化しすぎなので、深い哲理の入り口程度で、当たらずとも遠からずというところではあるが。

それでは、もっと深い理解とはどういうレベルなのだろうかと考えてみる。ところが、こうしたことは、ちょと考えてみれば、「考えるだけ無駄」ということがわかる。考えすぎると、志向が硬直してしまうからだ。「硬直」 というのは、仏から最も遠いところにあるコンセプトである。

ある日、某ショッピングセンターの広場で、子どもをたくさん乗せた 「ミニ列車」 の走るのを見た。そして、ちょっとした発見をした。

5~6両連結のその列車が、広場の端に近づき、先頭の機関車が U ターンをしたのである。つまり、機関車の向きは、それまでの逆になった。

ところが、それに続く客車は、機関車が方向転換をした地点まではそのままの向きで走り、機関車とまったく同じ軌跡を辿りながら、方向転換をしたのである。

つまり、何秒かの間は、先頭を行く機関車と、最後の方の列車とは、まったく逆方向を向いて走っていたのだ。レールも何もない広場を、ただ機関車に引かれて走っていただけなのに。

その間、後方の客車は機関車とは逆方向を向いて走りながら、決して機関車に逆らっていたわけではなく、しかるべき地点で見事にカーブを切ったのである。

こんなのは、物理学の法則では当然の話なのだが、目の前で見せられると、とても不思議な気がしたのである。

もし、これが連結された列車という構造でなければ − 例えば、ソリッドな構造のトラックか何かであったなら、内輪差が大きすぎて、こんなスムーズなカーブは切れない。無理に曲がろうとしたら、周囲にゴツゴツと衝突したあげく、終いには横転してしまうことになる。

それが、フレクシブルな連結器で、「ひょいとつかまっているだけ」 という構造のおかげで、見るも見事に、先頭から最後まで、同じ軌跡を辿ってカーブを切ることができるのである。

「仏道の極意は、これかも知れん」 と思ったわけである。いくら高尚な真理が説かれていようとも、それにしがみつきすぎて、あまりにも硬直化してしまったら、自由な軌跡は辿れない。「ひょいとつかまっているだけ」 で、しかし 「根本的なものだけは絶対に離さない」 という態度だと、こんなにも滑らかなのである。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/18

宗教行為をめぐる冒険

行為そのものや、行為のもたらした影響などよりも、問題にされるべきは行為の 「意図」 であり、やましい意図でさえなければ、ちょっと変な行為でも罪にはならないようなのである。

ほかでもない、神主が女子中学生の胸を触ったのが、「伝統的宗教行為」 であるとして、無罪になった件である。(参照

判決では、被告が女子中学生の胸などに触れた事実は認定したが、宗教行為について 「(被告所属の宗派に) 直接肌に手を触れる形態がないとは言えず、宗教行為に当たらないことにはならない」 ということになっている。

すごい論理だなあ。二重否定の繰り返し、合計四重否定という離れ業で、無罪を認定している。この分だと、「直接肌に手を触れる形態を持たないわけではなく、それを宗教行為としないわけではない」 という宗派には、神主になりたいという希望が殺到しそうだ。

「宗教行為」 というテーマで最近話題になったのは、先月のブッシュの 2期目の大統領就任式である。牧師による祈祷などの 「キリスト教的宗教行為」 を排除することを求めた訴訟が就任式前に起こされたが、首都ワシントンDCの連邦地裁は 「就任式における聖職者の祈祷は必ずしも憲法違反にならない」 ことなどを理由に、訴えを棄却した。

就任式で聖書の上に手を置くのは、厳密に言えば宗教行為に他ならないが、長年の慣習として広く認められてきたため、「政教分離」 を求められる場でそれを行っても、とくに問題とされるに当たらないという判断である。

日本の公共事業の地鎮祭などにおける 「玉串料」 も、多くの場合同様の判断がされている。

要は、「宗教行為」 が信者同士の枠から離れた日常的な場面でも問題とされないためには、それが慣習として広く認められた行為であるかどうかだということなのだろう。

禅宗で、一日入門の素人だろうがなんだろうが、禅師が警策 (きょうさく) という棒でビシビシ叩くなどという荒っぽい習慣があるが、あれが 「暴行罪」 にならないのも、世間に広く認知されていればこそ、「お互い納得済み」 だからである。

ところが、今どきの小学校あたりで、教師が棒で生徒をビシビシ叩いたら、いくらその教師が禅宗の坊主で、意図が正しいものだったとしても、大問題になってしまう。世間とはそういうものである。

今回の場合は、「お互い納得済み」 だったかどうか、30分も触らせておいて、後で訴えたというあたりが、微妙なところだ。それにしても、鹿児島というところは面白いところである。宗教行為として中学生の胸を触るというのが、広く認知されているようで、後で訴えるのはお門違いということらしい。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/17

地震の縦揺れと横揺れの謎

昨日夜明け前の地震には、さすがに驚いてしまった。すぐにラジオを付けたところ、「最大震度 4 の地震」 なんて言っていたが、「そんなもんじゃないだろう」 と思った。

もう一眠りして、テレビを付けると、朝のニュースではいつの間にか 「震度 5弱」 に格上げになっていた。ちっとも嬉しくないが。

寝ぼけた頭で 「ニュースで控えめな震度を報道してくれる方が、実家の親に余計な心配をかけずに済むから、ありがたいかもしれん」 などと思っていたのだが、なまじ 「正確な報道」 をしてくれたおかげで、朝の 9時過ぎに、私と妻の実家から相次いで地震見舞いの電話が入った。それはそれで、またありがたいことであるが。

大きな地震があると、テレビ・ニュースは、地元住民の生の声を伝えるのがお好きなようである。今回も某局で、つくば市のコンビニの店員に電話取材した声が流された。

取材に応じたコンビニ店員は、「始めグラグラっと来て、すぐに縦揺れになった」 みたいなことを言っていたが、私がいつも疑問に思うのは、この 「縦揺れ」 という言葉である。大きな地震があると、なぜか多くの人が 「縦揺れが凄かった」 と言うような気がするのだ。

学校で習った常識では、地震が起きると、まず伝わり方の速い 「P波」 が先に地表に到達し、その後に 「S波」 が到達するということになっている。そして 「P波」 というのは 「縦揺れ」 で 「S波」 は 「横揺れ」 なのだそうだ。

「縦揺れ」 というのは、具体的に言うと、地震の伝わる方向と同じ方向の震動なのだそうである。とすると、地震というのは地中深くで発生して地表に伝わるから、震源地が近いほど、縦、すなわち垂直方向に近い揺れになるのだろう。

一方、 「S波」 というのは進行方向と垂直方向の揺れだそうだから、地表では横方向の揺れに感じられるようである。

だとすると、「始めグラグラっと来て、すぐに縦揺れになった」 という証言は、「本当かなぁ」 とう気がしてしまう。気のせいじゃないか?

私自身の感覚では、今回の地震は、最初 「ずーん」 と下から突き上げるような衝撃があって、あとは 「ゆっさゆっさ」 と横方向の揺れになったように思う。

縦方向の感覚というのは、前述のように、「揺れ」 というよりは、むしろ 「突き上げるような衝撃」 だった。もちろん、直下型なので、最高の揺れを感じている間も、単純な横揺れだけではなく、縦方向の震動も衰えることなくミックスされていたはずだ。しかし、ものが倒れたり棚から商品が落ちたりというのは、ほとんど横方向の揺れのためである。

「激しい縦揺れで、立っていられなかった」 という証言を聞くことがあるが、それは多分、感覚の混乱か、何かの思い違いだろうと思うのだ。そんなに激しい縦揺れがあるほどの地震なら、横揺れの加速度はその何倍もすごいはずだ。

「あれって、自分の体の向きの、左右に揺れたら 『横揺れ』、前後に揺れたら 『縦揺れ』 って言ってるだけじゃないか」 なんて言う人もいる。確かに、体の前にあるものにつかまったら、「縦方向の揺れ」 と錯覚することもあるかもしれないが、ちょっとなぁ。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005/02/16

ホリエモンという人

ライブドア VS フジテレビの話題で持ちきりである。プロ野球界参入の時と違い、今回はホリエモンに対する風当たりが強い。

とはいえ、世間には熱心な堀江信者も相当に存在するようで、巨大メディア・グループに新時代の風穴を開けてみせてくれとの、期待を込めた論調も負けていない。

私自身の感覚で言わせてもらえば、堀江貴文という人はあまり好きじゃない。昨年 10月 16日にもプロ野球問題に絡めて、一応ライブドアを弁護しつつも、最後にはこう書いている。

ライブドアの企業体質が好きかと聞かれたら、「好きじゃない」 と答える。堀江さんも、一緒に酒を飲んで楽しそうな人には見えないし。(参照

堀江信者の中には、彼のビジネス手法をいかにも新時代の幕を開くもののように讃嘆するものが多いが、私にはとてもそのようには思えない。むしろ古典的な資本主義者ではないか。昔からよくいる上昇志向のやたら強い経済人である。

旧来のステロタイプに何か魅力的な要素を付け加えたと言うより、むしろそこから 「根回し発想」 を削除しただけの人物のように見える。

今回のニッポン放送株の買い占めに関しても、彼は 「シナジー効果」 を呪文の如く繰り返すが、あまり期待できそうには思えない。彼には金の使い方のアイデアはあっても、魅力的なコンテンツをプロデュースできるようなセンスが見当たらない。

インターネット上で彼がやっていることは、他でもやっていることの二番煎じばかりである。二番煎じでも先行者を上回る何物かを感じさせればいいのだが、そんなことは全然ない。二番煎じの二流である。彼の Blog、「社長日記」 だって、こう言っちゃなんだが、あまり面白くないし。

彼が一緒に酒を飲んで面白そうな人物だったら、私だって応援するのだがなぁ。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/15

愛称のすべり具合

「南セントレア市」 問題というのは、あまりにもいじり甲斐があるので、12日に続いて、もう少し、うだうだと書いてみよう。

そもそも 「セントレア」 は隣町の空港の愛称だが、この愛称自体、定着が非常に危ぶまれているらしい。それに 「南」 を付けて、こっ恥ずかしさに輪をかけたわけだ。

一部には 「"セントレア" ってセレブっぽくて素敵」 なんていう反応もあるらしいが、大方は 「誰もそんな名前で呼ばないだろう」 という見方のようだ。どうやら 「E電」 の道をまっしぐらという風情なのである。

「せっかく付けたのに、誰も使わない愛称」 というのがあって、その東の横綱は、やっぱり 「E電」 だろう。こればかりは、私自身も一度も口にしたことがない。これほどまでに生理的なこっ恥ずかしさを伴う名詞というのも、他に類を見ないだろう。どうやら、理屈以前の問題である。

小林亜星氏がもし文化勲章をもらえなかったとしたら、それは 「E電」 の名付け親というただ一つの汚点によるものだと、私は思う。

暑中見舞いの 「かもめーる」 は、昨年の夏で早々と呼称廃止になった。これなんかは、それほど拒否反応が強かったわけでもないのだが、このまま使い続けたら、「あけおめメール」 みたいに、インターネットやケータイのメール市場拡大を促進して自分の首を絞めかねないと判断したのだと、私は見ている。

そのほかに思いつくのは、後楽園ドームの 「ビッグエッグ」、羽田空港の 「ビッグバード」 だ。この二つは、多分英語圏内だったら定着したかもしれないと思うが、日本語で 「びっぐえっぐに行こう」 なんて言い方をするのは、どうも馴染まない。

高田馬場駅前の 「ビッグボックス」 もマイナーだし、どうも、カタカナ愛称での 「ビッグ○○」 はリスクが大きいようだ。日本で当たったのは、有明の国際展示場 「ビッグサイト」 と漫画週刊誌の 「ビッグコミック」 ぐらいのものだ。

箱崎の 「東京シティエアターミナル T-CAT」 というのも、なかなか馴染まない。普通、「"ハコザキ" でチェックイン」 で十分通じてしまう。「T-CAT」 なんて言う人に会ったことがない。

それから最近では、 道路公団が ETC のことを 「Eテック」 なんて呼ばせたかったようだが、これも見事にすべった。記憶にすら止まらない可能性が高い。都営地下鉄大江戸線の 「ゆめもぐら」 なんてのも 「Eテック」 と同レベルのすべり具合である。

新橋 - 有明間の 「ゆりかもめ」 はすっかり定着しても、「ゆめもぐら」 がこけたというのは、なかなか難しいものである。まあ、「ゆめもぐら」 なんて、「猫バス」 より想像しにくいことは確かだが。

今まさに、かなり危うい綱渡り状態なのが、「東京メトロ」 である。「E電」 ほどではないが、やっぱり生理的 「こっ恥ずかしさ」 度が高い気がする。あれだけ地下鉄への降り口に 「東京メトロ」 の文字が多用されてしまった以上、消え去ることもないだろうが、「死語ではないが、誰も使わない」 という微妙さで、 「西の横綱」 になりかねない。

個人的には、東京の地下鉄は、「地下鉄」 と 「都営地下鉄」 の呼び名で区別すれば十分だと思う。

もう一つ、「オレオレ詐欺」 が 「振り込め詐欺」 になったようだが、これも今イチのような気がする。「オレオレ詐欺」 のインパクトに比べると、どうにもパワーダウンした感が否めないし、何だか口語体の中に突然文語体が混入したような錯覚にとらわれてしまう。

どうやら、愛称というのは自然発生的なものの方がずっとインパクトがあるようだ。

※ 上記の "暑中見舞いの 「かもめーる」 は、昨年の夏で早々と呼称廃止になった" というのは、私の勘違いだったようです。申し訳ありません。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2005/02/14

「建前論」 の復権を

「本音」 と 「建前」 ということで、「建前」 は表面上で 「そうあるべき」 とされているだけで、結局は 「本音」 の方が強いのだと思われているが、実際はそうとは限らない。

「本音」 では誰もまともに信じない 「六曜」 という 「建前」 が、セレモニーの場で俄然強くなることは、昨日の当欄で述べた。

「戦争反対」 は、何も建前論というわけではない。誰しもの 「本音」 である。誰も 「本音」 では戦争なんてしたくないのだ。にも関わらず、有史以来、世の中から戦争がなくなった例しがない。それは、「本音」 よりも強いものがあるからだ。

「本音」 より強いものとは、人間の 「業 (ごう)」 である。心から避けて通りたいと思うことのど真ん中に躍り込んでしまうのは、「業」 のなせるわざである。それほど人間の業とは、強いものである。

古来、「業」 というものがいかに扱いづらいかを、人間は知っていたから、「本音」 で打ち負かそうとはせずに、「建前」 で 「ささやかな抵抗」 をしようとしてきたのである。

「自衛のための軍隊」 という 「建前」 もその一つである。人間の世の中は、「平和」 というきれい事だけで済ませるのは困難極まりないことで、下手するとすぐに 「戦争」 に突入してしまうから、「自衛」 という建前上の歯止めをかけておかざるを得ないのである。

「平和」 という本音を口先だけで唱えるより、建前に立脚した 「自衛論」 の方が、戦争拡大を防止する実効性ははるかに高い。

ありとあらゆる 「建前論」 は、「本音」 という視点では馬鹿馬鹿しいことだが、「業」 という視点から見ると、なかなか味のある 「人間の知恵」 であることが多い。そうそう馬鹿にしたものではないのである。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/13

非科学的なものは人権侵害につながるか

大津市の手帳の話で、ため息をついた。「六曜」 が記載された職員手帳を、人権団体の 「不適切だ」 との指摘によって、すべて焼却処分するというニュースである。

重箱の隅をほじくりまわす人権団体と、 「建前論」 に終始した市役所の対応に、やりきれない思いがしてしまった。

はっきり言って、「六曜」 の記載がなにゆえに人権侵害に当たるのか、まともに理解できる人は少ないだろう。「非科学的」 なものをすべて排斥していたら、この世の中は何もまともに運ばなくなるではないか。

六曜の記載についていえば、そりゃあ、記載されている方が便利である。私自身はそんなものはまったく気にしないが、だからといって、セレモニーに関することで無頓着に事を進めると、気にする人から必ず横やりが入るに決まっている。それならば、余計な摩擦を避けるためには、知っておくにこしたことはない。(これは単なる処世の術というだけの話だが)

それから、知人や親戚が亡くなった場合などでも、「友引」 に葬式は入らないだろうから、知っておけば直前のスケジュールの調整がしやすいということもある。

「本音と建前」 とで言ったら、今どき、ほとんどの人は、日常的な意識では 「六曜」 なんてものにこだわらないに決まっている。それが 「本音」 だ。だったら、そんなもの無視すればいいのだが、そう簡単には進まない。

「六曜」 が登場するのは、セレモニアル (儀式的) なことに限られるのだ。「儀式」 というのは、「本音」 が嫌いで、「建前」 が大好きなのである。

そういうわけで、誰もが普段は気にしない 「六曜」 だが、結婚式だの、葬式だの、起工式だのと言ったケースでは、俄然、クローズアップされてしまう。セレモニーというのは、元々それ自体が非科学的な心性に立脚しているのだから、仕方ないのである。

結婚式の指輪の交換やお色直しなんて、非科学的なことおびただしい。葬式のお経だって、怪しいと言えば怪しいし、「浄めの塩」 と来た日には、何しろ 「穢れを浄める」 のなんのというわけだから、人権的な視点からみたら、かなりアブナイものを秘めている。それから、起工式の祝詞 (のりと) だって、つつけば相当出てきそうだ。

滋賀県の住民向けの人権研修に使っている冊子では、六曜などの迷信にこだわることは差別意識につながりかねず、「こだわらないことが大切」 としているらしい。

ふむふむ、なるほど、「こだわらないことが大切」 ということに、人権団体は異常にこだわってしまっているわけだな。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/12

商品としての 「南セントレア市」

愛知県美浜町と南知多町が合併して、「南セントレア市」 になりかけたという騒動は、両町民には気の毒な限りであった。

正直に言えば、部外者の無責任さで、ちょっとだけ楽しませてももらったが、改めて、「こっ恥ずかしくない」 新市名が制定されることを、陰ながら祈るばかりである。

両町民にしてみたら、妙な酔狂で新市名を決められるのは、大迷惑だろう。譬えて言えば、フツーの主婦が突然ダンナに呼び出され、「キクエ、52年間、慣れ親しんだ名前を捨てて、来年から 『エリザベス』 になってくれんか?」 と言われたようなものである。こんなもん、「ハイ、お受けします」 なんて言うか?

協議会メンバー諸氏も、場の空気が読めないにもホドがある。聞けば、公募段階では 「セントレア」 の 「セ」 の字もなかったのに、会議でいきなり 「セントレア市」 「南セントレア市」 「遷都麗空(セントレア)市」 の 3つが候補として登場したらしい。3つ目なんか、すごい。「夜露死苦」 のノリである。そうでなければ、書き取り試験だ。

協議会では 「全会一致」 で 「南セントレア市」 に決まったのだそうだ。この辺からして怪しい。はっきり言うが、裏工作のない全会一致なんて、この世に存在しないのである。

どう考えても、素人の発想ではない。「ギョーカイ」 関係者が裏で一枚噛んでいたとしか思われない。そりゃあ、日本で唯一景気のいい愛知県のことだもの。いろんな広告会社、マーケティング会社、コンサルタントなんかが群がったと想像するに難くない。

「南知多市ィ? あぁ、ぜぇんぜんダメ、ベタすぎ!」
「将来的な観光事業のためにも、もっと、こう、インパクトを感じるやつで、どーんと行きましょう!」
「名前だけで、全国的に有名になっちゃえますよ!」
「時代ですよ、時代!」

多分、こんな感じだったのではなかろうかと思うのである。

今回の騒動で思い出したことがある。10数年前、国鉄が JR になったことに伴い、「国電」 の新名称をどうするかで、そうそうたるメンバーが真面目に検討した結果が 「E電」 だったというお粗末である。

新幹線で東京駅に着いて、場内アナウンスで 「E電へのお乗り換えは・・・」 と言うのを聞く度に、背中にむず痒い思いがしていたのは、ついこないだまでの話である。「E電」 であんなにむず痒かったのだから、「南セントレア」 ではもだえてしまうだろう。

こういう問題では、玄人筋が 「おっ、それいいじゃん! それで行きましょうよ!」 というようなアイデアは、スベる場合が多いのである。彼らは、バラエティ番組や雑誌のタイトルと、日常の名称を、つい同じノリで捉えてしまう。

なるほど、確かに、新市名を 「商品名」 として考えれば、インパクトのあるものがいいのかもしれない。しかし、地名は 100%商品名としては考えられない。その中で、血の通ったフツーの人間が暮らすのだ。

上滑り気味の名前のおかげで、市民に妙な自虐癖がついて、若い男が総 「ヒロシ」 化してしまったら、どうするのだ。

それに、「日本中に名を売る」 という目的は、既に十分に果たしてしまったし。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2005/02/11

サッカー日朝戦の副産物

一日遅れのネタで恐縮だが、W杯最終予選の対北朝鮮戦の話である。と言っても、試合そのものについてではない。

それよりも、この試合が平均で 47.2%、最高で 57.7%という視聴率 (関東地区) をとったという事実の方に、私の興味は向いてしまう。この数字は、尋常じゃない。

確かにかなり前から、日本列島は盛り上がっていた。「2月 9日は絶対残業はしないからな」 とか、「9日の夜は、テレビのない飲み屋は閑古鳥が鳴くだろう」 などという話を、あちこちで耳にしていたので、かなり過熱しているなと思っていた。

日本中でこれほどの熱気を呼んだ最大の要因は、やはり 「相手が相手」 だからということだろう。もしかしたら、「ドイツに行こう」 という意識よりも、そっちの方が大きかったかもしれない。イラン戦では、多分そんな視聴率は稼げないと思う。アウェイということで、時差もあるし。

後からいろいろ調べてみると、テレ朝はずっと以前から徹底して番宣をして盛り上げを図っていたようだし、他局もいろいろな取り上げ方をしていたようだ。 「北朝鮮チームは全員軍人」 とか、「日本戦に勝利したら、高級住宅と高級車が与えられるらしい」 とかいう、もっともらしいがちょっと怪しい話が、あちこちで伝えられていた。

知らぬうちに、実際の試合以上の意味づけとか幻想とかいったものが発生していたように思う。ちょっと 「都市伝説」 じみてさえいる。「恐い物みたさ」 と言ったら言い過ぎか。あるいは、「悪役」 がコテンパンにやっつけられるのを見たかったのか (実際のところ、これは案外大きいと思う) 。

ところが、いざ試合が始まってみると、北朝鮮チームの選手たちは他の国と変わらぬ、普通のスポーツマンだった。ちょっと違うのは、ボールに対する執念が無茶苦茶強いということぐらいで、決して 「エキセントリック」 には映らなかった。それに、「コテンパン」 というわけにもいかなかった。

私自身は、内心で 「彼らの体格を支える食糧を他にも回したら、メンバー数 × 3人分ぐらいの飢えがしのげるだろうに」 なんてことを思っていたが。

我が家の娘たちは、試合が終わってから 「いい人たちじゃん。もう帰らなくていいから、日本で働きなよ~」 なんて言っていた。そう思った人は案外多いだろう。

そして、「結局、変なのは、やっぱり "あの人"」 というフォーカスが、これまで以上に明確になったかもしれない。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/02/10

体調と心と頭のアンテナ

体の具合が本調子でないと、心とか頭脳の方のアンテナも感度が鈍る。昨夜から今朝にかけて、それを実感した。

風邪が治りきらず、昨夜はパソコンに向かっても、当コラムのネタが思い浮かばない。「ついにネタ切れか」 という気がして、仕方なく早々に寝てしまったのだった。

そんなわけで、いつもは日付の変わる頃に更新する当コラムだが、先週の土曜日と同様、昼の更新になってしまっている。週末と違い、ウィークデイなので、朝イチでチェックしてくれた方には、甚だ恐縮である。

さて、昨夜は 「ついにネタ切れか」 という気がしたのだが、一晩寝て体力が回復すると、そう思ったこと自体が貴重なネタであることに気付いた。まさに、体の具合がおかしいと、そのことに気付く余裕がなくなるのである。

体の方が異常に過熱してしまって、アドレナリンが出まくり状態になってしまうと、それはそれで心の感受性も空白状態に近くなってしまうものだが、通常の範囲内 (どこまでが範囲内かは置くとして) ならば、やはり体が元気な方が、当コラムもまともなものが書けることが多い。

まれに、病弱でほとんど病室に籠もりきりみたいな人が、とてつもなく繊細な感受性を感じさせる文章を書いたりすることがあるが、それはそれで、私の守備範囲とは別物である。

とはいえ考えてみると、アドレナリン出まくりの、ガオガオ吼えまくるような文章も、病的なまでの繊細さを感じさせる文章も、やはり、体のコンディションが文章に反映されるという意味では同じことの裏表かも知れない。

要するに、私の守備範囲はある程度健康な体で受け止められる分野なのだろう。昨夜は体調の方がその範囲からちょっと外れていたので、折角のネタに気付かなかったのだ。

これは、自分自身が普段はいたって無意識なまでに健康であるということで、ありがたいことではある。ただ、あまり単純に健康的すぎてもつまらないので、文章のところどころで、ちょっとひねってみたりしているわけだ。

あと 20年もしたら、完全にジジイになって、ジジイなりの体調でいろいろひねりまくることになるだろうから、どんなことを書き出すやら、我ながら今から楽しみである。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/09

「おでん」 の語源

ちょっと前から書こうと思っていて忘れていたのが、「おでんの語源」 である。

先月あたり、お昼の 「笑っていいとも」 で、「"おでん" はどうして "おでん" と言うか」 という問題に、タモリが簡単に 「田楽だろ」 と答えて、それっきりになっていたが、これだけでは、正解の半分にしかならない。

それでは、なぜ 「おでん」 が 「田楽」 なのかが、問題とされなければならないのである。

「おでん」 のもともとの形は、豆腐に串をさし、味噌をつけて焼いた 「田楽豆腐」 が始まりであったらしい。何ゆえにそんなものを 「田楽」 と呼んだのか。それは、その形が 「田楽法師」 に似ていたからである。

田楽日本には 「能」 という伝統芸能があり、今でこそ、あの観世流などの格式高いのが 「お能」 ということになっているが、元々は、その系譜は 「猿楽能」 と 「田楽能」 に分かれていた。

「猿楽能」 は、「物まね」 つまり写実的な演劇を志向したもので、今の 「能」 の源流になった。一方、「田楽能」 は野外でのページェント (種々雑多な出し物) が主体だった。そのページェントの中でも人気の呼び物が 「一本高足」 である。

一本高足とは、左図の如く、十字に組んだ棒に乗って、ぴょんぴょん跳びはねるものである。昔はこんなものでも十分面白かったのだろう。今でも各地田楽行事では人気の出し物として残っている場合が多い。

この図をよく見てもらいたい。田楽豆腐は、三角帽子をかぶり、一本高足に乗って跳びはねる田楽法師にそっくりだったのである。多分、その頃から、上の方に差すのは、豆腐を斜めに切って三角にしたものだったのだろう。おでん

こんにゃくに味噌を付けたものが出てきたのはその後のことのようで、当世のコンビニで売っているような 「煮込みおでん」 が登場したのは、さらにずっと時代が下って、江戸時代後期の江戸のことらしい。その証拠に、上方では当世風のおでんのことは 「関東煮(かんとうだき)」 と称して、伝統的なおでんとは区別するようだ。

ちなみに右図のように、真ん中にゆで卵かなんかをさしたら、ますます田楽法師みたいになる。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/08

列車の旅は疲れる

いつも不思議に思うのだが、列車で旅をすると、ただ単に座っているだけなのに妙に疲れるのである。

昨日は日帰りで岐阜に出張したのだが、風邪が治りきっていないということもあり、夜遅くに帰宅した時は、かなりぐったりしていた。新幹線の中では爆睡していたのに。

新幹線に 2時間揺られるのは、自分で車を 2時間運転するより楽そうに思えるのだが、少なくとも私の場合は、車を運転する方が楽だ。新幹線でただ座っているだけの方が圧倒的に疲れる。

さらに、車を 6時間運転するぐらいは全然平気だが、列車の狭い座席に 6時間押し込められるのは本当に勘弁してもらいたいと思う。

「空間を移動するだけで、体には歪みがかかるのかもしれないね」 という人もいる。確かにそれもあるだろう。しかし、時差もない国内旅行で、せいぜい時速 250km 程度で移動するのに、そんなに体に負担がかかるものだろうか。それを言ったら、飛行機で香港あたりに行ったら相当な負担のはずだが、新幹線で広島に行くより楽だ。

結局、鉄道の旅で疲れるのは、あの日本の鉄道の座席の狭さによるのだろうと思われるのである。私は 6尺の身長と 20貫の体重があって、日本人としてはかなり大柄の部類なので、新幹線の狭い座席に座り続けるのは、本当に苦痛だ。

自分で車を運転するのなら、好きなときに休めるし、運転中は案外適度に体を動かしているので、筋肉が凝り固まりすぎることもない。

ところが、新幹線の座席は、隣に座った人と肘が触れ合わないように、常に肩をすぼめていなければならない。弁当を食うにも、ひいては居眠りするにも、無意識に必死に体を縮めている。小柄の人にはわからない苦労だろう。

問題は、新幹線の 2列/3列のシート構成だと思う。あれは、昭和 30年代の、日本人が小さかった頃の発想である。日本人もこれほどまでに体格がよくなってしまったのだから、そろそろ、欧米並みに両側 2列の構成にしてもらいたいものだ。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/07

キリ番の裏側

当サイト (本宅 「知のヴァーリトゥード」) も、めでたく 2月 4日の午後 9時から 12時頃の間に、7万ヒットを突破した。

時刻を特定できないのは、自分で踏むのを避けるために、呑気に Norton Internet Security のアップグレードをしていて、日付が変わってから確認したためである。

アクセスカウンターがちょうど 7万を指したであろう頃は、パソコンに久しぶりのウィルススキャンをさせながら、私はのんびり風呂につかっていたのであった。そうでもしないと、うっかり自分で踏んでしまったら、親愛なる定連ご一同様に申し開きができない。

ところが、キリ番ゲットを知らせてくれた方には和歌をプレゼントするお約束なのだが、今回も申し出がない。またしても、一見さんが知らぬ間に踏んでしまった可能性が高い。これで、3万から 7万まで、連続 5回、キリ番ゲットが誰だかわからず仕舞いである。

5,000、7,000、10,000、20,000 までの 4回は、そのうちの 3回までキリ番ゲットの方に和歌を贈らせて頂いた。このあたりまでは、当本宅サイトへのアクセスは、ほとんど少数の常連に限られていたので、アクセス解析のログを見れば、誰が踏んでくれたかすぐにわかったし、そこまでしなくてもすぐに先方から申し出があった。

しかし、最近は当時とは比較にならないほど広範囲からアクセスしてもらっているので、ログだけでは、なかなか特定できない。それに、アクセス自体も増えたので、どのアクセスが 7万ヒット目にあたるのかは、アクセスカウンターとログ解析の誤差もあって、なかなか決めつけられない。

2月 4日のログをみると、夕方過ぎ頃から、既に当サイトへのアクセスが何百回とか千何百回という常連さんが数名、熾烈な駆け引き (?) を演じておられたのが、見て取れた。私としても、今度こそ、このうちのどなたかに和歌を贈らせていただけるものと、期待していたのである。

ところが、そうした中で、10時頃 (だったと思うが、ログデータを保存していないので、不正確) 、まさに唐突にこのサイトへのアクセスが初めてという人のログが出現した。どうも、この人が 7万を踏んでしまわれたのではないかと、私はみているのである。

数名の定連さんが、何分かおきにちょくちょくのぞきに来られていたのに、突然闖入した (言い方が悪くて恐縮) 新人さんがキリ番をかっさらってしまい、しかも、当人がそのことに気付いていないらしいというのは、私としても痛恨の極みである。世の中、何が起きるか本当にわからない。

というわけで、今回も和歌は 「詠み人知らず」 ならぬ 「捧げ先知らず」 になりそうである。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/06

細木数子というオバサン

細木数子というオバサンがいる。この名前は、30年以上前に聞いたことがあった。

当時、硬派の芸能評論家だった竹中労氏 (故人) が、経済的に窮地に陥った島倉千代子が、細木数子という質の悪い女に騙されているとして、警鐘を鳴らす記事を書いていたものだ。

竹中労は何度も 「あの女とは関係をもつな」 と忠告したらしいが、当時島倉千代子は、細木数子の手練手管にすっかり心酔していたようで、まったく聞き入れられなかったらしく、しまいには匙を投げて、「頭の悪い女はしょうがない」 みたいなことまで書いているのを読んだ記憶がある。

その後のことはまったく関心がなかったが、島倉千代子も途中で細木には愛想が尽きたらしく、縁を切ったおかげで何とかなったようだ。その間の事情は、このページで改めて知った。

その細木数子がテレビで視聴率を稼いでいるらしい。知ったことかと無関係を決め込んでいたが、先日、某所で彼女の出ている番組を見る機会に遭遇した。

その番組では、黒沢年男が、「天台宗の猊下に 『馬鹿におなりなさい』 と言われて、そのおかげで、自分の殻を破ることができた」 みたいなことを言っていた。

細木数子、それを受けて曰く

「あぁ、天台宗ね、あれはいい宗教ですよ」

(そんなの、今さらあんたに言われなくても・・・)

さらに曰く

「馬鹿になるというのも、時にはいいかもしれませんよ。馬鹿と思わせて、相手を油断させるということもあるしね」

これを聞いて呆れた。

「相手を油断させるために」 馬鹿を装うなんてのは、日本語では、単なる 「小利口」 というのだ。「小利口」 の殻を破るために 「馬鹿」 になれと言ったのである。それとも、大石内蔵助になれってか?

要するに、この程度のオバサンなのね。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/05

まんざら馬鹿でもないらしい

どうやら風邪を引いてしまったようだ。咳が出て、体中がかったるい。このコラムは、いつもは日付の変わる前後に更新するのだが、昨夜は早々に寝てしまい、ようやく昼前に起き出した。

風邪を引くにもタイミングというものがある。今日が土曜日で助かった。

夕べはマジで体中の節々は痛いし、かったるいしで、やばい状態だった。こんな具合でコラムを更新しようとして、またトラックバック・スパムの真っ直中に突入したら、(前日の記事参照) とんでもないことになると思い、さっさと諦めて寝てしまったというわけだ。

起きてみると、夕べに比べればかなり楽になっている。月曜日は岐阜に出張の予定だから、それまでには十分に回復しておきたい。

考えてみると、風邪らしい風邪を引いたのは久しぶりだ。試しに自分のサイトで検索してみたら、一昨年の 5月、米国出張の前頃に風邪を引いて咳が出るという記述がある(参照)。折しも SARS 流行中のことだったので、米国であらぬ誤解を受けないように、早めに治したいというようなことを書いている。

確かに、当時米国で東洋人の顔をして咳き込んでいたら、誰も近づいてこなかったかもしれない。だが、この前後のコラムを読むと、この翌々日に高校時代の同級会に出席して飲み明かし、それでいてけろりと治っているのだから、大した風邪ではなく、ちょっとしたネタだったようだ。

重い風邪を引かなくなったのは、いい具合に馬鹿になってきたおかげだと思っていたが、どうやら、そんなに馬鹿ではないらしい。まだまだ馬鹿修行が足りないようだ。

ところで、本宅のアクセスカウンターが、いよいよ 7万目前である。多分、今日中に達成するだろう。キリ番ゲットの方には、お約束の和歌プレゼントをさせていただくので、よろしければメールか BBS でお知らせいただきたい。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/04

どえらい迷惑な、トラックバック・スパム

@nifty のブログ、ココログがトラックバック・スパムの集中攻撃にあっているようだ。

2月 1日の夜 9時半過ぎから日付が変わる頃まで、ログインしにくかったが、2月 3日の夜も、一時的に同様の状態になった。こんなこともあろうかと (?)、リザーブとして 「はてな?」 を作っておいてよかった。

2月 1日のログインのしにくさは、アクセス集中で重くなっているのだろうぐらいに思っていたが、翌日に自分のブログにトラックバックがついたという大量の通知メールが届いて驚いた。

ココログ内の他のブログを検索してみると、あちこちで大量のトラックバックがついて、えらく迷惑しているという記事が出ている。しかし、他のブログでは、やれ、5件だの、30件だの、40件だのの迷惑トラックバックがついて、削除するのに手間がかかったと嘆いているが、私のところは、正確には数えていないが、どう見ても 120件以上ある。

こんなところで威張ってもしょうがないが、100件以上も妙なトラックバックがつくと、30件だの 40件だのとは、迷惑加減のレベルが違う。

ココログのシステムでは、トラックバックの一括削除はできないことになっていて、1件ずつ手動で削除するしかない。30や 40なら手動で消せても、100以上はお手上げだ。しかし、放っておいたら、3日夜の 8時過ぎにはココログの方で一括削除してくれたらしく、全部消えていた。

やれやれ、一件落着と思っていたら、同日の夜 9時半過ぎになると、またログインしにくくなった。これは、10時過ぎにはだんだん解消したが、また同じようなトラックバック攻撃が発生したのだろうか?

ところで、今回のトラックバック・スパムは、Texas Holdem と Online Poker というところから届いている。そして、トラックバック元に飛ぼうとしてクリックしても、妙な英語表示のページに飛ぶだけで、さっぱり要領を得ない。

そのページの内容はよく覚えていないが、要するに 「イレギュラーなリンクなので、この先は表示できない」 みたいな感じで、ブロックをかけているようなのだ。

調べてみると、Texas Holdem というのは米国のギャンブル・サイトで、Online Poker というのは、そのサイトの呼び物の、オンライン・ポーカーゲームであるらしい。初めは、このギャンブルサイトが客寄せのためにむやみにトラックバックを張って、自分のサイトへの誘導を図ったのかと思ったが、どうも違うようでもある。

というのは、Texas Holdem としても、トラックバック元を辿るクリックが多すぎてサーバに負担がかかって迷惑しているらしく、そのためにブロックをかけていると思われるからである。もし迷惑しているというそぶりを示しているだけで、ほとぼりが冷めてからのアクセスを期待しているというなら、ちょっとした知能犯だ。

トラックバックの IPA は、44.7.152.12、242.68.11.41、163.73.203.3、135.52.247.0、147.10.173.39・・・・と一定しておらず、バラバラで、辿りにくい。こちら側でブロックをかけるにも、こうバラバラでは、やりにくい。

まったく迷惑な話である。勘弁してもらいたいものだ。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2005/02/03

「頭痛の日」 という訳のわからない記念日

昨日、2月 2日は 「頭痛の日」 だったそうだ。 慢性頭痛に悩む人たちで結成した 「頭痛撲滅委員会」 が、「ず (2) つう (2)」 のベタな語呂合せで、平成 13年に制定した。

慢性頭痛に悩む 「頭痛持ち」 の存在をアピールし、社会に理解の輪を広げるのが目的だったらしい。

ところが、この 「頭痛撲滅委員会」 という組織は、今では活動を休止しているのではないかと思われる。「今日日日記」 というサイトによると、結成された年の平成 13年には 「頭痛川柳」 の募集をしていたが、翌年には早くもサイトが消滅してしまっていたようである。

つまり 「頭痛の日」 は、その推進団体がたった 1年で活動を休止してしまったにも関わらず、名前だけが一人歩きして、4年経った今でも語り継がれているというわけだ。実体が不明確になっても名前だけは残るというあたり、先日取り上げた 「カレーの日」 に似ている。(参照

作るのはたやすいが、廃止するのは難しいというのは、どうでもいい法律や規則、制度、果てはお役所の要りもしない部署、外郭団体などと通じるところがある。コワイものである。うかつにモノは作れない。

部署や制度を作るときは、その規定の最後の方に細則として、以下のような条項を付け加えたいものだ。

1.この部署 (あるいは制度) は、○年後に廃止する。ただし、廃止による影響が甚大である場合に限り、延長が認められ、1年後に改めて見直しを行う。

2.上記の見直しを行う主体が消滅してしまった場合は、当該制度も同時に消滅したものとする。

こうでもしないと、わけのわからない制度や団体が乱立して、収拾がつかなくなってしまう。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/02

アクセスを稼ごうと思うなら

先週の金曜日、ちょっと色気のあるタイトルで "Today's Crack" をアップロードした。

前日の 「『壷坂霊験記』 で思うこと」 などという渋すぎるタイトルが当たらないことを確認したので、「アクセスを稼げるタイトル」 というえげつないタイトルにしてみたら、案の定、前日比 160% というヒットになった。

Cocolog の "Today's Crack" のサイドバーにはアクセスカウンターが付いていて、そこにカーソルを合わせると、過去 1週間の日別のアクセスが表示される (IE のみ。Mozilla 系では見えないようだ) 。

この表示では、『壷坂霊験記』 の日が 97で、翌日が 163に急上昇したことになっている。ちなみに Cocolog 純正のカウンター (ブログ運営者にしか見えない) では、104 から 201 と、実に 2倍近いアップになっている。だが、Cocolog のカウンターは連続アクセスを甘めにとってしまうので、私自身は、サイドバーに自分で設置したシビアなカウンターの方を信頼しているわけだ。

いずれにしても、アクセスを稼ごうと思ったら、かなりえげつないタイトルをつければいいということが証明されたように思う。それも、IT関連、時事関連のトピックスを、そのものずばりのタイトルにすればいいようだ。それで、今日もちょっと二番煎じだが、試しにそんなようなタイトルにしてみた。

ところで、私の本宅サイトのアクセスが、7万に達しようとしている。多分、今週末ぐらいにはクリアできるだろう。恒例のキリプレとして、和歌をプレゼントさせていただくことにしている。

ぜひ 7万番をゲットして、今どき珍しい和歌を贈られるなんていうオツな経験を、されてみてはいかがかと思うのである (歌の出来はあまり問わないで頂けるとありがたい)。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/02/01

ミスタードーナッツ絶縁宣言

昨夜 11時、常磐線取手駅西口のミスタードーナッツに入った。この店の表示によると、2階の 40席が喫煙席となっている。

1階の 14席は、一応禁煙席となっているが、客の出入りが多く、落ち着かない。煙草が嫌いなものとしては、ちょっと何とかしてもらいたい気がする。

それに、1階の禁煙席はほぼ満席に近いのに、試しにちょっとのぞいてみたら、2階の喫煙席は 3分の 1も埋まっていない。こんな状態では、客のわがままばかりでなく、店としても禁煙席を増やした方が利益につながるだろう。

というわけで、客として店側にささやかな希望を伝えてみたい気持ちになり、レジの女の子に、まず一言聞いてみた。

「喫煙席は 40席もあるのに、禁煙席はこれしかないの?」

すると、彼女はこう言った。

「2階はすべて煙草を吸う人というわけでなく、吸わない方も座っていいんです」

これには少々呆れた。

「煙草の煙が嫌いな者にとっては、それは耐え切れないから、できれば、禁煙席を増やしてもらうとありがたいな」

彼女はまた、にこりともせずに言った。

「それはお店の自由ですから」

まあ、それはそうだ。確かに店の自由である。それを最大限認めるにやぶさかではない。厳密に言えば、法律で公共のスペースでの喫煙が禁じられている国や州もあるから、世界中で店の自由が主張できるわけではないが、ここ日本においては、たしかにその通りである。

しかし、店の自由ということと、客の希望に耳を傾けるということは、別問題である。それに、客に向かって自分の働いている店を 「お店」 というのは、常識的におかしい。

この時点で、私は次のように思ったわけである。

ミスタードーナッツという店は、客の希望に耳を傾けることのない企業なのではなかろうか。いやいや、もしかしたら、それは極端な判断かもしれない。

しかし、少なくとも、従業員に客の希望に耳を傾けるような教育をしていない企業であることは、事実が証明しているような気がする。そして何よりも確実なのは、口のきき方の教育は決定的に不足している。

以上のように思うのは、私の自由である。

そして、そんな店を二度と利用しないというのも、明らかにこちらの自由であるから、ここでそう宣言させていただくわけである。ミスタードーナッツのドーナッツなんて食わなくても、全然困らないし。

念のため、これは私の個人的な宣言なので、ミスタードーナッツのドーナッツと店の方針が好きな人にまで強制しようなんて大それた気は、毛頭ないことを書き添えておく。

tak-shonai の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2005年1月 | トップページ | 2005年3月 »