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2005年3月に作成された投稿

2005/03/31

「アビエーター」 とは俺がことかと・・・

また悪い癖で、細かいところを掘じくりたがっているわけだが、映画の 「アビエーター」 は 「エイビエーター」 と標記すべきだろうと、ずっと気になっている。

念のために複数の辞書で調べてみたが、 "aviator" の発音は "ei-" で始まるものしか見つからなかった。
  参照

おなじ不満を抱いている人も少なからずいるようで、「アビエーター エイビエーター」 の2語でググると、15件がヒットした。

最近は洋画にことさらな邦題をつけず、原題をそのままカタカナにして表記するのが流行りらしいが、それならば、"The Sixth Sense" も、「シックス・センス」 なんてでたらめを言わずに、「ザ・シックスス・センス」 と表記してもらいたかった。それが舌を噛みそうだというのなら − 本来はそれでいいのだが、それに違和感があるとすれば − 「第六感」 ぐらいの邦題にしておけばよかったのに。

"Aviator" は 「エイビエーター」 だろうが、"navigator"  は 「ナビゲーター」 である。そのくせ、"navy" は 「ネイビー」 だ。このあたり、英語も節操がなくてややこしい。

そもそも、英語ほど綴りと実際の発音がかけ離れた言語というのも珍しいのではなかろうか。"Neighborhood" が、どうして 「ネイバフッド」 なのだ。どうして "knight"も "night" も 「ナイト」 なのだ? おかげで、ソフトバンク・インベストメントが、フジテレビの 「白夜」 として登場したと思っている向きもあるというではないか。

日本語表記が戦後、歴史的仮名遣いを捨てて、味も素っ気もない現代仮名遣いになったのは、一説によると進駐軍の圧力という噂もある。こんな古来の綴りを残したまま、今風の発音をしているくせに、他人のことを言えた義理か。

それなら、英語が率先して 「光」 を "lite"、「駅」 を "stashon" とでも表記してみろなどと、無茶を言ってみたくなる。

ちなみに、アメラグの 「ペイトリオッツ」 は 「パトリオッツ」 ではないかと思っていたのだが、"patriot" の読みは 「パトリオット」 と 「ペイトリオット」 の両方あると知った。最近まで不覚にも知らなかった。

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2005/03/30

視覚効果で遊ぶ

「知のヴァーリトゥード」 トップページに配置したボタンの改良が、ほぼ完成した。ちょっと重くなったかもしれないが、管理人の道楽と思って許していただきたい。

「今日の一撃」 のリードの左右に配した 5つのボタンなのだが、これまで、我ながらあまり気に入っていなかったのである。

しかしながら、ゆっくりと改良する時間がなかなか取れなかったので、長い間、放りっぱなしにしてあった。一昨日あたりからちょっと面白いことを思いついて、トライしてみたのである。

これまでは、単に木の肌の感覚の板を、マウスポインターで押してみるという感じに過ぎなかった。それに表示の字も、あまり工夫していなかったので、思いっきり素人っぽく、味も素っ気もなかった。

今回の改良で、字をやや立体的にして素人臭さを薄め、マウスポインターを合わせるとその字が光るという効果を付けた。そして、クリックしてボタンを押すと、その光がさらに増して、ちょっとした視覚効果で次の画面にスムーズに移行するという感覚を持たせてみた。

オリジナルではないかもしれないが、あちこちで見られるというほどでもないと思う。

役にも立たない視覚効果のみの遊びで、ファイルサイズを重くすることには賛否両論ある。とくに、ウチのような一応テキスト・サイトのような振りをしていながら、ちょっとだけ画像にも凝ってしまうというのは、ナンセンスという見方もあるだろう。

とはいいながら、アパレル業界などでメシを食ってしまっているせいか、どうしても多少はデザインにも力を入れてみたくなってしまうのだ。例えば、本宅サイトのトップページで、「一撃エリア」 「ウンチク・エリア」 「結びの力」 と並んだモスグリーンの背景色を、左に行くほど微妙に濃くしてバランスを取ったりという、細かい配慮までしてもいるのである。

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2005/03/29

欲しい服が見つからない

気に入っていた服がヨレヨレになるか擦り切れるかして、着られなくなってしまった時、それとまったく同じものが欲しいと思ったことがないだろうか。

あるいは、まったく同じものではないにしても、よく似た色とデザインの服を探して、足を棒にしたことはないだろうか。

実際には、かなりベーシックなデザインのものでも、まったく同じ洋服というのはなかなか探しにくい。それは、毎シーズン新しいデザインの服を作って売るという商売がある以上、同じものというのは出てこないのである。バーバリーのトレンチコートといった 「変わらないこと」 に価値があるような商品でも、ディテールは結構変化している。

私は、ウィンドウズの新バージョンが出る度に 「要りもしない余計なお世話機能」 が増えてしまうのにうんざりするのと同じ程度には、毎シーズン洋服のデザインが変わってしまうのに、内心うんざりしている。

よく 「欲しいデザインの服がない」 とか 「気に入る服が見つからない」 とかいうのを耳にする。悲しいことである。世の中にこれほどの服があふれかえり、「多品種小ロット」 の時代などと言われながら、実は、皆同じようなトレンドを追いかけているだけなので、大同小異のものしかないのである。

昨年の夏には店頭にあったあの色が、今年の夏の店頭からは姿を消すのである。「あの色」 が欲しいのであって、今年の店頭にあふれかえっている色など、どれも欲しくはないということが、とても多いのである。

私の服の好みなんていうのは、25歳の頃からちっとも変わっていない。要するに 「身に付けて気恥ずかしくない服」 が着たいというだけなのだが、それがなかなか見つからない。流行のサイクルに沿って、7~8年に一度ぐらいしか市場に登場しないのである。

デザイナーは流行を追う。ところが、消費者の多くは、流行なんて追わないのである。追ってもいない流行を押しつけられるだけである。それを着ないと、人間の価値が下がるかのように思いこまされているだけなのである。本当に身に付けたいものが見つからないから、しかたなく店頭にあるもので妥協するのである。

私はアパレル業界の端っこでメシを食っている身なので、トレンドの変化でビジネスを維持していく業界の構造は、とてもよく理解している。それでもなお、毎年毎年同じものだけを提供し続けるメーカーがあってもいいと思っているのである。

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ココログが重すぎるのはコメントスパムのせい?

一昨日あたりから、夜 9時過ぎになると、ココログにログインしてからの動きが重すぎて、画面が変わる前に寝ちゃいそう。

これ、どうもコメントスパムの襲撃にさらされているためのようだ。内容はアメリカのキャッシングやローンの宣伝のようなのだが、日本向けにそんな宣伝をしてもなぁ。宣伝というより、悪意の方を強く感じる

ココログのお知らせを見ても、この件に関しては何も触れられていないのが、ちょっとむかつく。何らかの情報提供をしてくれないことには、ユーザーのストレスは増すばかりだ。

ところで、今年初め頃のトラックバックスパムの時には、一度に 120件以上のトラックバックが届いたのに、今回は、幸か不幸か、私のブログには被害がないようだ。

いや、和歌ログの方に怪しいのが一件だけあった。(こちら) これもそうなのかなあ。

参照 1
参照 2

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2005/03/28

町内自治会ですら、まとまらないのに・・・

昨日、町内自治会の総会があった。何年かに一度廻ってくる順番で、4月から私も役員を勤めることになる。

以前は総会なんて、シャンシャンシャンですぐに終わったものだが、近頃は世帯数も増え、どうでも良さそうだがややこしい問題で、時間がかかるようになった。

町内会の問題なんて、どこでも似たようなものだろうが、ゴミの出し方とか、路上駐車の問題とか、一斉草刈りの仕方とか、懇親会をどうするかとか、そんなところである。単純な話だが、なかなかそれがうまく運ばない。

総会の場で、誰がみても確かに正論なのだが、それを声高に主張して 「さあ、この場で白黒決着を付けよう」 といった論調で迫られると、どうしたって時間ばかりかかって、皆イライラすることになる。例えばゴミの出し方など、ほんのたまにある規則違反が大紛糾の元になる。

規則違反のゴミを出したら、清掃車が持っていかないので、出した人がちゃんと引き取るべきだと主張する者が出る。しかし、元々が規則違反の出し方をするような人だから、実際には後で引き取ることなど期待できない。

すると、そのゴミを自治会の役員が回収して、次の回収日まで保管すればいいではないかという意見が出る。それで会はゴチョゴチャだ。

「何で役員が他人の出したゴミの保管までしなければならんのだ」 という反論が出る。
「それが役員の役目だろう」 と突っ込む者がいる。
「そんなことまで役員の役目にされたら、役員のなり手がなくなるだろう」 という話になる。

つまり、結論なんて、出ようがないのである。

白黒決着付けたがる人がいくら大声で叫んでも、会場を借りた時間内に総会を終わらせようとしたら、灰色決着にするしかない。それをまた、無責任だとなじる者もいる。

たかだか 100世帯に足りない共同体で、この有様である。市町村や都道府県、国家、果ては国際問題にまで目を移したら、何事も全てうまくいくなどということが、あるはずがない。

それで他を難じたりするのは、得てして 「白黒決着」 に過剰にこだわるからである。そのために、ちょっとした問題がとてつもない大問題になったりする。

「なかなか大変ですなぁ」 と苦笑混じりの世間話程度で済ませることができれば、それほどの大問題にはならずに済む場合が多い。要は、心の余裕の問題である。

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2005/03/27

毛皮とレザーと人間の業

動物愛護団体の PETA (People for the Ethical Treatment of Animals) が、J. Lo ことジェニファー・ロペスの毛皮好きをやり玉にあげるサイトを立ち上げた。その名も、"JLoDown.com"。

高級毛皮に身を包んだ J.Lo の写真と、むごたらしく毛皮を剥がれる動物の写真を並べて掲載している。

アライグマとおぼしき動物を地面に叩きつけて気絶させ、まだ息のあるうちに皮を剥いでいくという生々しいビデオまでみせて、毛皮を着ることがいかに動物の虐待で成立する行為であるかをアピールしている。

毛皮に関しては、私もあまり好きではないので、自分ではあまり着ようという気になれないが、他人にまでそれを着るなと強要する気もない。しかし、満員電車に揺られて通勤するような身分で、毛足の長い高級毛皮を着るのは遠慮した方がいいと思う。

いや、別に 「貧乏人は毛皮を着るな」 と言うわけではない。単に、高級毛皮を着て満員電車に乗り込まれると、襟足の毛が隣に立つ乗客のほほをなでて、くすぐったくてたまらないと言いたいのである。毛皮を着るような人は、ぜひ、運転手付きの車を使っていただきたいものだ。

欧米でも毛皮に反対する人はかなり多く、一時は、高級毛皮にスプレーでペンキを吹き付けるのが流行ったことがある。そんなことをしたら、使い物にならなくなった毛皮の代替品が買われるので、毛皮の需要がますます増えることになると思うのだが。

一方、レザーに関しては、毛皮ほどの反対運動は起きていない。レザー製品で有名なスペインの業界団体首脳に聞いたところ、「毛皮はわざわざ野生動物を殺すのでよくないかもしれないが、レザーは、食肉用に飼育された動物のものなので、動物虐待というわけではない」 と釈明していた。

食いもしない動物をわざわざ殺すのは虐待だが、肉として食うために人間が育てて殺した動物の副産物としての皮を使うのは、虐待ではないという論理である。

もっと端的に言えば、食うために育てた動物なら、殺しても虐待ではないということだ。昔から肉食を常としてきた民族は、このくらい割り切らなければ、アイデンティティがおかしくなってしまうのかもしれない。

ところがこの論理では、クジラは食うために育てたわけではないので、殺して食うのは残酷だということになる。だったら、クジラを養殖してしまえば (もし可能ならば) いいのか。

このあたりは、どう屁理屈をこねたところで、他の生物の命を奪うということに変わりはない。人間の業である。牛を食いながらクジラを食うなというのは、業に無自覚な者の戯言である。

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2005/03/26

日本人のスタンダードは?

あなたはズボンをはく時、まずボタンから締めるだろうか、それとも、チャックを先に上げてしまうだろうか?

こんな興味深いアンケートが、TBSラジオの 「ストリーム」 という番組で行われ、結果は、68%対 32%で、「ボタンを閉じる」 派が多数と判明した。

このアンケートを実施したのは、同番組の 「リスナーズジョイス − えびしゃけ」 というコーナーで、「日本人は海老を食べるときに尻尾まで食うか、しゃけを食べる時に、皮まで食うか」 という疑問を解決 し、「日本人のスタンダード」 を決めるという企画である。

ズボンのはき方の場合で言えば、「ボタンを先に閉じる」 のが 「日本人のスタンダード」 と決定づけられたわけだ。

他にも、「お刺身を食べるとき、わさびは醤油にとかす? とかさない?」  (結果: とかす・・・62%、とかさない・・・38%)、「耳そうじ!あなたは耳かき派? それとも綿棒派?」 (結果:耳かき派・・・65%、綿棒派・・・35%)、「アメは最後まで舐める? それとも途中で噛んじゃう?」 (結果: 舐める・・・36%、噛む・・・64%) など、興味深い事実が判明している。

意外だったのは、「ミカンはヘタからむく? それとも裏側からむく?」 という設問で、ヘタからむく・・・32%、裏側からむく・・・68% と、「裏側からむく」 派が 3分の 2以上を占めたことである。私は生まれてから半世紀以上、みかんはヘタから剥くものと信じていたのだが。

家族に聞いても、私以外は全員 「だって、裏側からの方が剥きやすいじゃん」 と、「ヘタから」 派は相手にされなかった。私のこれまでの人生は、一体何だったのだ?

それから、「『あちっ!』 その時!耳たぶを触る? 触らない?」 では、「触らない」 派が 76%と、圧倒的多数を占めたのにも驚いた。私は耳たぶに手をやるのは、日本人の遺伝子のなせる技と信じていたのだが、そうでもなかったようなのだ。

でも、本当に耳たぶを触ると、ひんやりして熱さが和らぐのである。一度試してみれば、次に 「あちっ!」 となったときには、自然に耳たぶに手が行くはずだ。

ズボンのはき方というテーマに立ち戻ると、日本人の約 3分の 2は、ウェストが太くて、先にボタンを締めないとファスナーが上がりにくいということのように思われる。

ちなみに、私の妻は 「先にボタンを閉じたら、ファスナーを上げ忘れる危険性があるでしょ」 と言って、ファスナー派である。そりゃ、あんたはウェストが細いからいいかもしれないけどね。

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2005/03/25

今年の杉花粉

私は以前、杉花粉症に悩んでいたのだが、どうしたはずみか、一昨年あたりからぴたりと治っていたのだった。

周囲にも 「花粉症、治っちゃったよ。心がけの問題かもね」 などと吹聴していたのだが、今年はさすがに花粉の量が桁外れのようで、少々復活気味である。

何しろ、今年は郊外を車で走っていても杉林の色が違う。杉特有の深緑ではなく。妙に赤っぽいのである。私のもう一つのブログ 「和歌ログ」 でその光景を画像入りで詠んでいるので、ご覧頂きたい。(参照) あの赤っぽいのが杉の花で、そこで大量の花粉が製造され、風に乗って飛散するわけだ。

この日の 「和歌ログ」 では、「今年の大量飛散でも (花粉症が再発せずに) 大丈夫なら、自信を持ってもいいかもしれない」 などと書いているが、どうやら、まだ自信をもてるほどには心がけがいいわけでもなかったようだ。

花粉の量は、試験紙の 1平方センチあたりに、50個以上の花粉が付着すれば 「非常に多い」 ということのようだが、一説によると、今年は多摩地区で 1平方センチあたり 1,000個以上という日があったらしい。これでは、花粉症でない人でも、皮膚が痒くなったりするだろう。

とはいえ、今年の私の症状はそれほど重いわけではない。鼻水と少々のくしゃみだけで、目の痒さというのは、気にするほどではない。以前はまぶたの裏側が 「ミミズ千匹」 状態で、常にはらはらと落涙していたのだから、それに比べればずっとマシだ。

ただ、私の鼻の内部は左側の鼻孔内部が少々曲がりくねっているらしく、耳鼻科によると、「空気の通り道が元々狭いので、ちょっと粘膜が腫れるだけで詰まってしまう」 ということらしい。

これだけがちょっとやっかいだ。北島三郎がうらやましい。

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2005/03/24

サイドバーの表示回復

このコラムの全文表示をしているココログで、このところ、その表示が崩れていたのにお気づきだったろうか?

本宅の 「続きを読む」 クリックで、小窓を開いて読む場合は気付かなかったかもしれないが、直接ココログにアクセスされている方には、見苦しい状態だった。

このブログは、右側にサイドバーでプロフィルやバックナンバーへのリンクを表示しているのだが、そのサイドバーがなぜか右側でなくて、本文の下の方に表示されてしまうようになったのだ。何度設定をやり直しても直らない。

それで、仕方なくニフティに問い合わせのメールを出したところ、記事のタグ表示に誤りがあるとの返事が来た。ところが、このブログの記事の書き込みの画面では、通常すべてのタグが表示されているわけではない。例えば、パラグラフや改行を示すタグなどは、影に隠れている。

今回は、その影に隠れているタグと、自分で入力したタグの順番が違ってしまったために、ページ全体の表示が崩れてしまっていたのだった。

具体的にいうと、引用 (blockquote) 部分の中でパラグラフを区切った場合、最後の締めで、パラグラフを閉じるタグ (/p) が、引用を閉じるタグ (/blockquote) の後に来てしまっていたのである。

しかし、それは何度も言うが、通常の記事作成画面では見えないのである。そして、この順番を誤ったタグで書き込んでも、個々の記事の表示には問題がなくて、そのくせ、ページ全体の方に影響して表示が崩れてしまっていたのだ。全体の表示の崩れる原因が、個別の記事にあったとは、さすがに気付かなかった。

間の悪いことに、ココログのリザーブで使っている 「はてな?」 の方では逆に、blockquote タグ は、行を変えて打ち込まないと表示が乱れてしまう。それで、コピペしやすいように、ココログの方でもそれをしてしまっていたのだが、それが表示の乱れの原因だったのだ。やれやれ。

というわけで、問題の部分を修正したので、昨日からきちんと表示されるようになった。ここしばらくお見苦しいことだったが、ご容赦頂きたい。

ちなみに、@nifty からの返事では、「タグが正しく入力されていないことによる表示の乱れが多い」 らしいので、悩んでおられる方がまだ多くおられると推定される。それで検索エンジンで探し当ててこの記事をご覧になることもあるかもしれない。

そうした方のために、最も端的なアドバイス。「blockquote タグは、行を変えて入力するとダメみたいよ!」 (これでお役に立つことができれば幸いだ)

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2005/03/23

カジュアル面接といっても

世の中には 「カジュアル面接」 というのがあるそうだ。企業の採用面接試験で、通り一遍のリクルート・スーツではなく私服の着用を求められるらしい。

ところが、これを真に受けていつものスタイルで行ってしまうと、一発で不採用になるという都市伝説があるという。

確かに難しいところである。「カジュアルウェアでおいでください」 なんて書いてあっても、どこからどこまでが 「カジュアル」 であるかという基準は、時と人と所によってみな違うのだ。

例えば、スーツしか作ったことのないアパレル・メーカーが、商品レンジ拡大のために 「新カジュアル企画」 を発表したりする。ところが、それはカジュアルウェアしか作ったことのないメーカーが作る 「新クラシック・ライン」 なんていうのよりずっとフォーマルっぽかったりするのだ。

普段スーツしか着たことのないオジサンが 「カジュアル・フライデー」 に着ていく格好は、ホリエモンの記者会見に臨む服装よりずっとずっとずぅっとフォーマルだったりするのと同じことだ。

だから、フツーの会社の 「カジュアル面接」 に、"Fuck You!" なんてロゴのある Tシャツに穴あきジーンズで臨んだら、やっぱり不採用の理由になってしまうだろう。「逆踏み絵」 みたいなもので、モロに正直に踏んでしまったらアウトなのだ。

世の中、「本音と建て前」 というのは厳然としてある。この 「逆踏み絵」 の場合、踏まな過ぎるのも問題で、「踏んだか踏まないか」 という微妙なグレーゾーンでとどめるという、日本のビジネスで最も重要な 「阿吽の呼吸」 感覚が要求されるのだろう。社会に第一歩を踏み出す時からこんななのだから、日本はなかなか変わらない。

この関連で、私は 30数年経った今でもまだ憤慨していることがある。中学校を出て高校に入る時、入学前の 「オリエンテーション」 の通知が来た。それには 「服装自由」 と書いてある。私はそれを真に受けて私服で臨んだ。ところが、当日私服だったのは、私を含めて 2~3名しかおらず、ほとんどは制服姿だったのである。

そして、最初に登場した教師が開口一番に 「いくら 『服装自由』 と書いてあっても、学校に来る以上、制服で来るのが当然で、私服で来るなどはもってのほか」 などとほざくのである。

「だったら、初めから 『服装自由』 なんて書かなきゃいいじゃないか!」 というのは、通らない理屈で、日本の教育現場では、こうして高校に入学する時期から 「本音と建前」 をきちんと見極めるという教育を施してきたのである。

あれが採用試験だったら、学科で通って、面接で落っこちるというパターンだったのだろう。まあ、高校入試だからオリエンテーションで私服だったからといって、合格取り消しというわけにもいかなかったわけだが。

要するにあれは、「問題児を問題児として見極めて、レッテルを貼る儀式」 として機能していたわけだ。私はこの狙いを正しく受け入れて、きちんと 「反抗的な生徒」 になった。

その意味では、私はとても素直だった。「服装自由」 という案内を真に受けたし、最初に貼られたレッテル通りの 3年間を律儀に過ごしたし。

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2005/03/22

「つくば万博」 は何だったのだ?

車を運転しながらカーラジオを聞いていると、愛知万博でマンモスの牙がどうとか、リニアモーターカーがこうとか言っているので、もう開幕したのかと思っていたら、正式オープンは 25日からだそうだ。

今回大騒ぎしていたのは、どうやら 「プレビュー・ショー」 みたいなものらしい。

ところで、今回の愛知万博は、「大阪万博以来 35年ぶりの万博」 なんてなことを言っているので、「じゃあ、あの 『つくば万博』 は何だったんだ」 と思っていたのである。私はその頃、筑波の地に引っ越して間もない頃で、子どもも小さかったので、せがまれて何度か連れていった記憶がある。何しろ近かったので、軽い気持ちで行けたのだ。

それは、万博というよりは、ちょと奇をてらった遊園地のような印象だった。あれなら、ディズニーランドの方がずっとスゴイだろう。

そう思っていたら、他にも、「じゃあ 『沖縄海洋博』 はどうなってるんだ」 とか、「そういえば 『花と緑の博覧会』 とかいうのもあったぞ」 とかいう声が巷でチラホラ聞かれるのであった。ああ、そう言えば、そんなのもあったなぁ。

大阪万博はやたらとすごかったらしいけど、あれから 3回もマイナーな万博が開かれていたのだ。あれらは、「万博」 のうちに入らないのだろうか。あるいは、開くまではわいわい盛り上げておいて、開かれたとたんに盛りさがってしまったという共通項ゆえに、歴史から抹殺されてしまっているのだろうか。

調べてみたら、大阪万博以後の 3つのマイナーな万博も、国際博覧会条約に基づいて BIE (博覧会国際事務局) に認定されたという点では、立派な 「万博」 に間違いないようなのだ。

ただ、love-station というブログの記事によると、次のようなことらしい。

ただし国際博覧会の中には、テーマを花なり海なりに絞った特別博と、普遍的テーマで行われる一般博との2種類あって、70年の大阪万博以外は特別博、大阪万博のインパクトが圧倒的だったということからこれ以来35年ぶりといわれているんじゃないか、とこういうわけなのだ。ところが丁度最近になって条約が改正されて特別博と一般博という区別もなくなったということだからややこしい。

ははあ、なるほど、それで愛知万博も、「エコ」 にテーマを絞っているようないないような、いかにも曖昧な訴求の仕方で、それでいて、「35年ぶり」 とかいう幻想はしっかりと強調しておこうという算段なのだな。

まあ、いわゆる 「万博」 の成功する時代は、1970年代で終わっていると思うので、今回もあまり浮かれるつもりはない。 つくばぐらいに近ければ、散歩気分で行ってもいいけど。

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2005/03/21

名曲喫茶 「クラシック」 の閉店

東京中野の名曲喫茶 「クラシック」 が、今年 1月末、「閉店しました」 という 1枚の貼り紙を出したきり、75年の歴史に幕を閉じたという。(参照

ここ 20年以上も行っていないが、とても残念な気がする。何しろ、私の妻
がこの店でバイトをしていたのだ。

もう 30年ほど前の話である。私たちはこの店によく出入りしていた。早々と大学を中退し、絵の勉強をしようとしていた彼女は、クラシックの雰囲気が格段に好きだったようで、ある日、マスターの故・美作七朗氏に掛け合った。

「私を使ってくれませんか?」
「あぁ、あんた、良さそうだから、明日からおいで」

たったこれだけの会話で、彼女は翌日から、かの伝説の名曲喫茶の店員になってしまったのだった。

妻は美作氏に結構気に入ってもらっていたようである。ある日、当時私が住んでいた国分寺の駅近くを一緒に歩いていたら、美作氏に出会った。彼はあちこちの友達を訪ねて、ほっつき歩くのがお好きだった。

その日は、彼の友達の経営する飲み屋に連れて行ってもらい、一緒に酒を飲んだ。いつもクラシックの店の奥にゆったりと座っておられる風情を崩さず、淡々とした飲みっぷりだったが、ビールの銘柄だけは 「キリンのラガー」 に情熱的に固執しておられた。

そのマスターも平成元年になくなられたと風の便りに聞いたが、店はまだ続いているという話だった。

ついにその 「伝説」 にも終止符が打たれたわけだが、その途中にささやかながら関わりをもってしまった我々は、このニュースを読んで、とてもしんみりとしている。

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2005/03/20

年度末工事渋滞

世間では三連休だが、私は休みではない。それどころか、逆に忙しい。

今日は古河まで行ってきた。茨城県の西の端である。読み方は 「こが」で、「ふるかわ」 ではない。三連休初日の行楽渋滞に年度末工事渋滞が重なり、通常の倍近くの時間がかかった。

年度末に工事が増えるのは毎度お約束で、別段驚きも腹が立ちもしないが、それでも不条理は感じてしまう。あれは必要もないところを掘り起こしているのである。掘り起こさなかったら、役所の予算が余って、上司に怒られるのである。

民間会社は節約して支出を抑えれば褒められるのだが、お役所というところは節約するとヒンシュクを買う。これは小さな村から国家にいたるまで、例外のないことである。予算が余りそうになると、必死に無駄遣いをしてでも消化しようとする。

これは、役所に限らず、団体などでも同じである。年度末に予算が余りそうになると、文房具屋が開けるほど事務用品を大量購入したりする。その結果、糊などは使いもしないうちに固まってしまって、3年後に大量廃棄したりする。

役所や団体にも限らない。実は民間にしたって、利益があまりにも出すぎると、交際費や旅費を必要以上に使って税金を抑えたりする。最近はこうした話はとんと聞かないが、バブルの頃はタクシー代使い放題ということもあった。

個人にしてもそうである。誰かが宝くじに当たったりすると、親類縁者がよってたかって食い物にする。水は低きに流れ、人は気楽に使える金のあるところに集まる。

だから、年度末工事には必要以上なことを声高に言う気はないが、それでも、予算消化の単年度主義を多少手直しすれば、地方自治体から国家にいたるまで、赤字体質が少しは改まるように思えることも事実である。

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2005/03/19

Dreamweaver の正しい読み方

今日は重箱の隅をつつくようなことを書く。「紡 (つむ) ぐ」 と 「織る」 の違いである。この違いを明確に説明できる人が、一体どのくらいいるだろう。

最も単純明快な答え。繊維を撚り合わせて糸を作るのが 「紡ぐ」。その糸を組み合わせて布を作るのが、「織る」 である。

なぜこんなことを書くのかというと、昨日の 「附記」 の蒸し返しになるが、"Dreamweaver" の読み方という問題である。

Dreamweaverを正しく呼ぼうの会(仮)」 というサイトがあり、そこに行ってみると、Dreamweaver の発売元の Macromedia 社までが、あまりの誤読の多さに耐えかねてか、 「Dreamweaverの正式な読みは何ですか? 」 という Q&A ページを作っていることを知ったのである。

この本家本元のページでも、Dreamweaver の公式の読み方は 「ドリームウィーバー」 と指摘しているわけだが、残念なことに、次のような誤った記述がある。

"「Dreamweaver」 は、夢の 「Dream」 と、糸を紡ぐ人や織工という言葉の 「Weaver」 を合わせたものです。

”Weaver" は確かに 「織工」 (織る人) ではあるが、「糸を紡ぐ人」 ではない。 「紡ぐ」 という動詞は、英語では "spin" であり、「紡ぐ人」 は "spinner" である。”Spin" というのは、繊維を撚り合わせるとき、クルクル回すからだと思われる。

「夢を紡ぐ」 というのでは、「細くて長~い夢」 のようなイメージになる。やはりここは、経糸 (たていと) と緯糸 (よこいと) を交差させて、いろいろな模様を織りなしていくという意味でも、「夢織り人」 でなければならない。

それにしても、Macromedia Japan さん、自社の製品名の話なんだから、もっときちんと調べて書いてもらいたかった。

ちなみに、「ドリームウェーバー」 でググると、 3月 18日現在で、736件ヒットする。もちろんその中には、"「ドリームウェーバー」 は誤読である" と指摘したページも多く含まれているが、中には大まじめに "「ドリームウェーバー」 の操作法" を解説したページもある。

さらに、「"Dreamweaver" の正しい読み方は 『ドリームウェーバー』 と 『ドリームウィーバー』 のどちらですか?」 という質問のページまである。最近の若い子は、インターネットのやり方は知っていても、英和辞書の引き方は知らないらしい。

「ドリームウェーバー」 と思っている向きは、"Dream" の読み方まできちんと整合性をとって、「ドレームウェーバー」 と言うべきで、本当にそこまで徹底するならば、許してあげてもいい。

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2005/03/18

ページタイトルをめぐる冒険

まこりんさんのブログによると "Welcome to Adobe GoLive" というキーワードでググると、日本語サイトだけで 230,000 件がヒットするそうだ。

試してみると確かにその通りで、サイト全体では、さらに 558,000 件に増える。しかも、ページの内容はバラバラだ。

種明かしをすると、Adobe の GoLive というホームページ作成ソフトを使うと、ページ・タイトルの初期値が "Welcome to Adobe GoLive" ということになるのである。通常はこの初期値を自分のページに適合したタイトルに変更してサーバにアップロードするのだが、それを怠っている人がかなり多いようなのだ。

タイトルなんてどうでもいいじゃないかと思われるかも知れないが、Google などの検索エンジンに拾われるとき、ページタイトルは最重要ファクターとなる。だから、きちんとしたタイトルを付けるということは、SEO (検索エンジン最適化) においては基本の基本なのだ。

タイトルを付けそびれているのは、素人の個人サイトだけではない。まこりんさんによれば、

個人サイトだけならまだしも、「なんちゃら医師会」 とか 「日本なんちゃら協会」 とか 「県立なんちゃら」 とか 「なんちゃら大学」 とか、おもっくそ公的団体や機関の名がどさどさどさどさヒットしまくり。

ということになる。これは問題だなあ。笑えるけど。ただ、もしかしたら、フレームを使っているサイトで、各フレーム内のページにタイトルを付けそびれているというケースがかなり含まれている可能性はある。

GoLive だけではない。私の使っている DreamWeaver 日本語版では、初期値は 「無題ドキュメント」 である。このキーワードでぐぐると、 657,000 件がヒットした。ちなみにこのヒット数から、多分 DreamWeaver の国内シェアは GoLive の 2.9倍ぐらいなのだろうと推定される。

このソフト、英語版の初期値はどうなのだろうか。当てずっぽうで "Untitled Document" でググったら、大正解だった。その数、何と 13,100,000 件! 世界中に、1千 3百万件からの DreameWeaver で作った 「うっかりページ」 が存在する。恐るべし。

一方、日本で最大シェアを占めていると思われる ホームページ・ビルダー では、初期値ではタイトルは付かない。その代わり、ファイルネームが "newpage1.html" で保存される。次に作ったページは "newpage2.html" である。これもどうかと思うが。

試しに "newpage1" でググると、 254,000 件がヒットする。ほとんどが、ファイルネームに"newpage1.html" の付いたページである。 "newpage2" だと、197,000 件。

ホームページ・ビルダーの圧倒的シェアにしては、物足りない数字だが、多分、トップページのファイルネームは "index.html" にするものという学習効果の賜物だと想像される。これを怠って、初期値のままでサーバにアップロードしてしまったサイトは、トップページを表示するのに、わざわざ "~co.jp/newpage1.html" まで打ち込まなければならないわけだ。

しかし、"newpage" 系でひっかかるのは、不思議なことに、ほとんどが日本語ページである。その代わり、"new page 1" でググると、2,180,000 件の欧米語系ページがひっかかる。ほとんどが、ページ・タイトルだ。これは一体どうしたことだろう。英語版の Homepage Builder では、初期値がこうなるのだろうか。

(附記)

前にも何度か書いた憶えがあるが、"DreamWeaver" を 「ドリームウェーバー」 と発音するのだけは、勘弁して頂きたい。「ウィーヴァー」 とまではいかなくていいが、「ドリームウィーバー」 ぐらいに言ってもらいたい。Weaver (ウィーバー) の意味は、機織機、機織人のことである。

どうしても 「ウェーバー」 と言いたいなら、いっそ 「ドレームウェーバー」 ぐらいに開き直ってもらたい。実際に そうした運動 も展開され始めている。

詳しくは Dreamweaverを正しく呼ぼうの会 (仮) へ。


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2005/03/17

日本の高校生は 「自己中心的」 か?

(財) 日本青少年研究所の実施した 日・米・中 3か国の高校生の意識調査によると、「国に誇りを持っている」 という日本の高校生は 51%で、米国、中国に比べて 2割以上少なかったという (参照)。

日本の高校生は、総体的に 「自己中心的で刹那的」 ということだそうだ。

何しろ、日本の高校生は米国・中国の高校生に比較して、 「将来に悲観的で、若いうちに楽しんでおきたいという願望が強く、家族の犠牲になることを嫌い、学校では居眠りし、家庭でも勉強せず、国に誇りを持つという意識も薄い」 という傾向が強いのだそうだ。こうした結果により、「自己中心的で刹那的」 と結論づけられたわけだ。

しかし、 「本当にそうかなあ」 と疑問に思うのである。

この種の調査結果が報告されるたびに、私はいつも思うのだけれど、文化の違う地域の人間に、同じ内容の質問を、しかもそれぞれの言語に直訳して投げかけて、それに対する解答を、何の調整も加えずにそのまま発表したところで、あまり意味がないのではなかろうか。

私は米国には何度も行ったことがあり、現地の人間ともかなり接触した。中国には行ったことがないが、何人かの中国人を知っている。その上で言うのだが、「自己中心的で刹那的」 という性向なら、米国人と中国人の方がずっと強いという印象だ。日本人なんか、足元にも及ばない。同様の印象を持つ人は案外多いのではないかと思う。

国に誇りを持つかどうかということについても、この質問への回答は、文化性にかなり制約される。米国人は何しろ 「USA は世界でナンバーワン」 という単純な幻想を抱いている。プライドがあるかと聞かれたら、そりゃあ 「ある」 と答えるだろう。

中国に至っては、何が何でも誇りをもつように教育されているし、「誇りを持たない」 なんて言ったら危険分子扱いにされるだろうから、こんな質問をすること自体がナンセンスともいえる。

その点、日本人は 「国に誇りを持つか」 と聞かれると、とてもデリケートになってしまう。「持ちたいけど、こんな状態ではちょっと持てないよなぁ」 という心根は、単純に 「大いに誇りを持つ!」 と答えるよりも、純粋なものであるような気もするのだ。

日本の高校生の傾向をもっときちんと分析したら、「自己中心的で刹那的」 というよりは、「ストレートな反応を示すことに、かなりのてらいを示す」 ということになるのではなかろうか。なまじニュアンスの豊富すぎる文化圏に住んでいるので、他の 2国に比較すると、かなり複雑な反応を示す傾向が強い。

だから、こうした一律の質問に答えなければならないというのは、いわばハンディキャップ・マッチみたいなものなのだ。

完全に楽観的でいてもいいということではないが、それほど危機的というわけでもないのではなかろうかと、当たり前のことを指摘しておきたいのである。

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2005/03/16

受信料 「不払い 70万件」 の数字のトリック

NHKは 15日、一連の不祥事による受信料の不払いが、2月末時点の暫定値で約 56万件となり、3月末には 70万件に達する可能性があると報告した。

1月の予算案作成時に予測していた 3月末の不払いは 45−50万件だったので、大甘に高をくくっていたわけだ。

しかし、不払いが 70万件に達したのが一大潮流にでもなっているかのような報道だが、そんな大きな数字だろうか? かなり疑問に思ったので、ちょっと調べてみた。

日本の世帯数は、約 4980万世帯とされている。このうち、テレビ受像器を持っているのが約 8割の 4000万世帯と仮定しよう。4000万のうちの 70万は、比率で言えば、1.75%に過ぎない。なんだ、大した数字じゃないじゃないか。売上げが 2%以下のレベルで減ったところで、それを企業努力で吸収できないなんてことが、あるはずがない。

より詳細に調べると、平成 10年発行の通信白書によると、平成 9年12月現在の受信契約総数は、約 3620.9万契約だった (参照)。とすると、減少比率は、1.9%ほどになる。それにしたって、吸収できない数字じゃない。

待てよ。テレビを持っている世帯が 4000万件とすると、残りの 380万件はどこに行ったのだ?

いや、これだっておかしい。 「受信契約総数」 というのは、会社や事業所に設置してあるテレビ受像器も対象になるはずだ。それなら、世帯数の 4000万プラスかなりの数の事業所が対象となるはずだ。

とすると、正確なデータに基づいているわけではなく、あくまで想像上の数字だが、少なく見ても 300万~400万件くらいの 「不払い」 は、元々あったのではないかという気がする。今さら 70万件ぐらいでオタオタするのでは、甘ちゃんにもほどがあるではないか。

今回、不払いに転じた (そして、間もなく転じるであろう分を含めた) 70万件は、確かに 「一連の不祥事に対する抗議の意味」 があるのだろうが、それ以上に、たまりたまった 「正直に払い続けていることの不条理感」 が大きいかもしれない。

NHK なんてほとんど見ないのに、一定額をふんだくられるというのは、たまりたまれば、かなりのストレスである。かたや、10件に 1件ぐらいの割で、受信料を払わずにテレビを見ているやつがいるのは、公然の秘密みたいなものなのだから、鬱憤はなおさらだ。

NHK の官僚機構は、そのことに気付かなかったんだろうなぁ。その上で、あんな不正が発覚したら、そりゃあ、払うのが馬鹿馬鹿しくもなろうというものだ。

夫婦げんかの直接の原因はささいなことでも、その裏には、「長い間、我慢を重ねた鬱憤」 というのがある。NHK にしてみれば、「何でまた、この程度のことで、70万世帯がケツをまくるんだ」 と思っているだろうが、「この程度のこと」 の背後には、いろいろな思いがトグロを巻いているのである。

今回の 「一連の不祥事」 は、長年不満に耐えた妻が荷物をまとめて出て行ってしまうきっかけとなった、「決定的契機となったいさかい」 みたいな役割を果たしてしまったのだろう。

こうなると、気分の問題だから、後から後から不払いが増え続けることになっても不思議ではない。私なんかは、受信料は 「御奉納金」 と諦めているから (だって、「奉納」 以外の根拠は思い浮かばないではないか)、今さら不払い手続きをするつもりはないが。

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2005/03/15

「レシート」 と 「領収書」

ホームセンターやファミレスのレジで、「当店のレシートは領収書としてお使いいただけます」 という貼り紙をよく見かける。

日本では 「レシート」 と 「領収書」 は、意味が違うようなのだ。レシートは POS から自動的に打ち出されるロール感熱紙、領収書は手書きというお約束である。

こうした例はほかにもある。「インポート物」 というと高級ブランドだが、「輸入品」 というと、今どきは中国製の廉価品を指す場合が多い。「旅行」 は個人で 「ツァー」 は団体、「支持者」 は政治がらみで 「サポーター」 はサッカー、「手紙」 は郵便で 「メール」 は E メールだ。

レシートの話に戻ろう。「当店のレシートは‥‥」 とわざわざ断ってある場合が多いが、別にどの店のレシートだって同じだ。経費の請求でも税務署の監査でも、何の問題もない。

わざわざ POS から打ち出されたレシートを 「サービスカウンター」 か何かに持参して、手書きの領収書を書いてもらうなんてことがあるが、実は、あれは無駄な話である。今どき、一番コスト圧迫要因となるのは人件費だからだ。

何故にそんな無駄なことをするのかといえば、会社の経理担当者がうるさいことを言うからである。何故にうるさいことを言うかといえば、それはプライベートで飲み食いしたレシートを、会社の経費として請求したりする輩がいるからである。だから、わざとハードルをちょっとだけ高くしておくのだ。

ほんのちょっとしたズルをしたがるやつが少しだけいるために、社会全体として無駄なコストをかけているのである。かなり馬鹿馬鹿しいことだ。だから店によっては、わざわざ 「当店のレシートは・・・」 と、言わずもがなの貼り紙をしているわけだ。

ところで、この謳い文句、おかしいといえばおかしい。日本語の 「領収書」 は、とりもなおさず英語で "receipt" だからである。それで、こんな おかしな英語が現れたりする。

"The receipt of our shop can be used as a receipt."
(私どもの店の レシート=領収書 は、 レシート=領収書 として使うことができます)

「でも、レジ袋はもはやレジ袋としては使えなかったりして・・・」 と、件のページでも茶々を入れられている。これを英語に翻訳した人、自分でおかしいと思わなかったのだろうか? 

うーむ、やはり思わなかったんだろうなぁ。多分それどころではなかったのだろう。その下の英文のめちゃくちゃさ加減を見れば、相当苦し紛れの 「翻訳」 の結果というのが察せられる。

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2005/03/14

同じモノで別のコトを観る

一昨日の当コラムで紹介したオンライン・カードマジックには、いろいろな反応が寄せられて、とても興味深かった。

一発でトリックを見破った人もいれば、あせりまくった末にようやくわかった人もいる。即物的に見る人もいれば、メタファー (隠喩) として観る人もいる。

反応は、ココログの記事への直接のコメントとして書き込まれたほか、本宅サイトの BBS にもいくつか寄せられ、また、自分の運営しているサイトで取り上げた方もおられる。いかに早くトリックに気付いたかは、この際、問題ではない。このトリックに如何に関わったかが、面白い。

はっきり言わせていただけば、早くタネがわかったからといって、エライわけでもなんでもない。逆に、長時間にわたってだまされ続けることができるというのも、一つの才能かもしれない。

「注意力の問題」 という指摘もあったが、単に 「注意力」 といってもその範囲は広い。たまたまその人のアンテナの拾いやすい周波数にひっかかったからといって、その人の注意力が鋭敏であると結論するのは早計である。ほかの周波数に対してはまったく鈍感かも知れないし。

どうも、理数系 (私が勝手に理数系と思っている人も含めて) の方が、トリックに気付くまで時間がかかったのではないかというフシがある。さもありなんである。

理数系の論理は、考え得るすべての可能性について検証しなければならない。その検証する順番は、いかにも論理的と思われるアプローチから優先されるだろう。

ところが不幸なことに、今回のトリックは、論理性というよりは感覚性 (あるいは 「認識性」 とでも言い換えた方がいいかもしれない) の方に強く依存しているので、その方面の検証は、無意識のうちにかなり後回しになったはずだ。

"「分かった」 と書くだけで分かったことが信じてもらえるのはなぜでしょう" というとても鋭い指摘もあったが、それこそが、このトリックの 「認識論」 への依存を端的に言い当てている。

従って、論理人間がトリックに気付くまで時間がかかったのも無理はない。しかし彼の脳内では、気付くまでの間、CPU がすさまじいまでにフル稼働していたことだろう。

ユングのアプローチに即して言えば、このトリックは、「感覚性」 に優れた人ほど早く見破れたはずだ。「感覚性」 とは、単純化して言えば、道順を一発で記憶できたり、複雑な設計図を易々と書けたりする類の才能である。ファッションショーを見て、脳内でビデオを再生する如く、ありありと再現できる人などは、この方面の達人である。私はそうした人を何人か知っている。

「ハートの 9」 を、具体的イメージとして鮮明に脳内に焼き付けることのできる人 (感覚人間) と、それを 「ハートというセグメントの中の 9番目」 という抽象データとしてしかハンドリングできない人 (論理人間) では、今回のマジックに対するアプローチはかなり違っていたはずだ。

論理人間が注意力散漫とは限らない。別のケースでは、感覚人間の方が論理的緻密さの欠如を露呈するかも知れない。要するに、得意・不得意といった類のお話である。

今回のトリックを最も楽しめたのは、多分、「感情型」 の人間だろう。「やばい! インターネットでマインドコントロールされてるぅ!」 と言って無邪気に舞い上がりながらも、その感情的高揚に浸りながら、思う存分異次元世界を楽しめたはずだ。

我が家の娘はこの部類で、かなりのシズル感を堪能したようだ (これで血液型は A型だから、当てにならない)。願わくは、実社会ではもうちょっと論理的な対応もしてもらいたいところだ。

直観型の資質をもった方は、また別の楽しみ方をしたようだ。どうも、このトリック自体を 「メタファー」 と捉えているフシがある。「ネットで個人情報を読まれる脅威」 という大ボケのレベルまで話を膨らませたり、「人の云うことを聞かないで明後日のところを見」 る性向のおかげで、すぐに見破れたなどという独特のレトリックを披露してくれたり、かなりユニークである。

人は、同じモノを見ながら、別のコトを観ているものだ。

ちなみに、私自身も、このマジックをメタファー化して楽しんだ部類だろう。こんなことを長々と書いているのだから。

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2005/03/13

クズタグの荒野から生還

私のサイト ( 「知のヴァーリトゥード」) は、テキスト中心とはいえ、ビジュアルに凝っていないというわけでもない。

バナーやボタンのほとんどは自作だし、色使いも、気付いてもらっているかどうかは別として、「浮世絵の色」 のコンセプトで統一しているつもりなのである。

とくにトップページは、テキストサイトにあるまじき込み入ったレイアウトにしている。原型は、まだウェブデザインの腕が未熟だった頃に作り上げたものなので、テーブルをコテコテに使って、無理矢理のレイアウトにしている。さすがに、テーブルの入れ子は原則 2層までにとどめているが、「今日の一撃」 のリード部分は、仕方なく 3層にしている。

ここまで凝ってしまうと、HTML タグのベタ打ちでは、ちょっとこなしきれない。自分のトップページの HTML ソースなんか、自分で見てもゴチャゴチャでわかりづらくてしかたない。

そんなこんなで、私はサイトの作成・更新には、DreamWeaver Ver.4.0 というのを使っている。このソフト、ちょっとプロ仕様っぽくて値段も高いので、2年オチのバージョンである。Homepage Builder も、人に使用法を聞かれた時のために一応インストールしてあるのだが、自分ではほとんど使わない。

というのは、Homepage Builder というのは、ちょっとクセのある作りをする上に、クズタグ (HP作成ソフトが自動的に生成して、使わなくなっても消されずに残っているタグ) が異常に多く残るという定評があるからだ。

その点、自分の使っているのは DreamWeaver だから、大丈夫のはずだと思いこんでいたのである。人にソースを覗かれて恥ずかしいようなクズタグは、皆無ではないにしろ、それほど目立つほどではないはずだと信じ切っていたので、最近は自分のページのソースを見ることすらなくなっていた。

ところが一昨日、ほぼ 1年半ぶりぐらいに自分のトップページのソースを覗いてみて、愕然としたのである。ページの真ん中のあたりが、びっしりとクズタグの中に埋もれていたのだ。

ありがちなことだが、やはり、フォントサイズと色の指定が何度も何度も繰り返されて死骸と化し、累々と堆積している。あまりのクズタグ密度で、それがページのどの部分かを特定することすら、難儀を極めたほどだ (なにしろテーブル多用で、ただですら込み入ったソースなので)。

我がネットの盟友、Rtmr さんなんか、タグ打ちの名手で、いろんなサイトのソースも気になるみたいなので、きっと我がトップページも覗いて、「あ~ぁ、外面ばっかり整えても、裏を返せばクズばっか!」 なんて、内心呆れていたのではなかろうか。あぁ、恥ずかしや。

というわけで、気付く限りのクズタグを手作業で消しまくった。時々消してはいけないタグまで消してしまい、ブラウザで確認すると、レイアウトが崩れまくって、一体どこの間抜けのページかみたいな様相になるのを、あわてて復元したりして、小一時間もかかってしまった。

その結果、わがトップページのファイルサイズ (画像を除く) は、修正前は 40KB もあったのに、クズタグを消しまくっただけで 28KB に軽量化してしまったのだった。それまでは、皮下脂肪率が 30% 以上の肥満体だったわけだ。

まあ、たった 12KB 減っただけでは、表示の速さにそれほどメリットがあるわけでもないし、とくに、昨今の夜 9時過ぎの @nifty ホームページ・サーバの状態では、どうせ重くてどうしようもない。それでも、ソースを覗かれて呆れられる心配は軽減したわけだ。(あるいは、CSS などでもっと効率的な作りをすればいいと思われるかもしれないが)

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2005/03/12

インターネットで心が読まれる

「お父さん、大変だ、大変だ、ちょっと来てみて~。スゴイよ! インターネットで心が読まれちゃうんだよ~!」

我が家の次女が呼ぶ。何事かと居間に置いてある家族用の PC の前に行くと、「ヤバイよ、これじゃ、心が支配されちゃうよ!」 と、かなり興奮の面持ちである。

一体何に興奮していたのかというと、オンライン・カードマジックというやつである。試しに、こちら をクリックしていただきたい。

※ 【平成 22年 10月 6日 追記】
上記のリンク先はもう消えているので、似たようなサイトを探した。こちら をご覧いただきたい。トリックの中身はほとんど同じである。

英語のサイトなのだが、念のため、説明を日本語に訳すと、以下のようなことである。

では、あなたの思考をコントロールしてみましょう。心の中でカードを 1枚選び、それに集中してください。しかし、そのカードをクリックしてはなりません。それでは、マインドコントロールの妙技で、当ててみましょう。

選んだカードをしっかり覚えたら、こちらをクリックしてください。

試しに、心の中でスペードの 8 を選んで、右下の "click here" をクリックしてみると、以下の表示になる。

あなたのカードを選んで、パイルから消し去りました。驚きましたか?

おぉ! 確かにスペードの 8 が消えている。何度試しても、選んだカードがしっかりと消える。気持ち悪いほど的中する。見事なものである。

「ねぇねぇ、スゴイでしょ。いったいどんな仕掛けになってるの? クリックの仕方でわかるの? それとも、本当にマインドコントロールされちゃってるの?」
(ちなみに、この娘、20歳である)
「そんなわきゃないだろう。どれどれ、タネを探してみよう」

タネは、案外呆気なくわかった。

わかったことはわかったが、ここですぐにそれをバラしてしまってはもったいないので、頃合いを見て 「コメント」 として書いてみたいと思う。それまで、十分に楽しんでいただきたい。

タネがわかった方も、少なくとも本日 (3月12日) 中は、そのものズバリで書き込むのはご遠慮いただきたい。せいぜい、「ははぁ、なるほど」 程度にとどめていただければ幸いである。

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2005/03/11

「モテオヤジ系」 雑誌をめぐる冒険

最近、「モテオヤジ系」 雑誌というのが注目なのだそうだ。ざっと挙げると、"LEON" (主婦と生活社)、 "UOMO" (集英社)、 "BRIO" (光文社)、"Gentry" (アシェット婦人画報社) といったところか。

徹頭徹尾アート紙使用で、いかにも重そう。自分で買う人は少なそうだ。

いずれも、婦人雑誌から出発したか、それを得意とする出版社から出ており、雑誌のくせに分厚い背表紙をもつスタイルは、いかにも婦人雑誌っぽい。あの重量感では、通勤途中で読むために持ち歩く人なんて皆無だろう。

都心の書店の雑誌売り場ならば、どれも立ち読みできるが、ちょっと郊外の書店になると、なかなか一度に揃っていることがない。要するに部数が確実にはけるというわけではないというのが、実情のようだ。

どちらかといえば、何とかサロンの待合室か何かのラックに、「いかにも」 という感じで置いてあり、読むともなくパラパラとページをめくるためにある雑誌だ。そうした店にくる高額所得者に向けた広告さえあれば、採算は取れるという作りである。

そうしたコンセプトの雑誌の本家 ”Esquire" とか "GQ" がそうであるように、これらの雑誌も定期購読を推奨している。つまり、「フツーのおじさん」 が気の向いたときに最寄りの書店で買い求めるというよりは、「高級店の待合室やロビーの備品」 という法人需要狙いの色合いが濃い。

ただ、 ”Esquire" と "GQ" が、どちらかといえばアメリカっぽいコンセプトであるのに対し、最近の 4誌は、イタリアっぽさが表に出ているような気がする。"LEON" はジローラムがメインキャラだし、"UOMO" は雑誌名そのものがイタリア語だ。イタリアがトレンドというムードは、まだ根強いみたいだ。

"UOMO" といえば、昨年秋、集英社が満を持して創刊した雑誌だ。他社の切り開いたマーケットを、物量作戦でかっさらう手法が出てきたところで、そろそろ飽和状態とみればいいというのが、通り相場である。

同誌のキーワードは、「エレガンテ」 。イタリア語の多い音楽用語では 「優雅に」 という意味で用いられるが、要するに、英語で言えば 「エレガント」 ということだ。「エレガント」 は手あかが付いてしまったが、「エレガンテ」 なら、まだ使いでがあるということのようだ。

で、その特集のエレガンテ度チェックに出てくる項目はといえば・・・ 「エステネイルサロンへ定期的に通う」 「オンとオフで時計を変える」 「美味しいショコラを手土産にできる」 「負け犬の女友達がいる」 などなど・・・

何だかホリエモンのカリカチュアみたいだが、笑ってはいけない。どうやら案外 「マジ」 のようで、完全に 「くすぐりネタ」 というわけでもなさそうだ。これを見る限り、ご心配なく、確実に飽和状態に達しているようである。

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2005/03/10

「ひと段落」 をめぐる冒険

登山道を歩いていると、迷いやすいポイントというのがある。道が二つに分かれていて、どっちに行ったらいいかわからない。

そして困ったことに、間違った道の方が道幅の広いことが多い。行き止まりなので、引き返す人が多いからだ。結果、2倍踏まれるので、その分、道が広くなる。

多くの登山者は、「多分、広い道を辿れば間違いなかろう」 と判断して、間違った道に入り込み、行き止まりになるので、あわてて引き返す。こうして、間違った道を辿る延べ人数は増え続け、踏まれた分、道幅はますます広くなる。そして、ますます人を引きずり込みやすくなる。

なんでこんなことを書いたのかというと、最近、ウェブ上で 「ひと段落」 という表記をよく見かけるからだ。ウェブだけではない。ラジオなどでも、「ひと段落ついた」 などというのを聞くことが増えた。先日は、知人にも 「仕事の方は 『ひと段落』 つきましたか?」 なんて話しかけられた。

私は、「一段落」 の読みは 「いちだんらく」 だと思っていたので、この 「ひと段落」 が気にかかってしょうがない。念のため調べてみると、やはり、正しい読みは、「いちだんらく」 に間違いない (参照)。私の嫌いな 『新明解国語辞典』 でさえも、「いちだんらく」 では引けるが、「ひとだんらく」 という項目はない。

そのため日本語入力の MS-IME 2002 では、「ひとだんらく」 と入力すると 「一段落」 とは変換されず、「ひと段落」 になってしまう。なるほど、あちこちのサイトで 「ひと段落」 の表記が氾濫するわけが、これでようやくわかった (参照)。

手書きの時代は、「ひとだんらく」 と間違えて読んでいた人も、書くときは迷うことなく 「一段落」 と表記していたはずだ。ところが、キーボードで入力する時代になって、そうした人の書くテキストは、ほとんどが 「ひと段落」 になってしまったのである。

漢字で 「一段落」 と表記されている場合は、正しい読みを明確に知らない限りは、どう読んでいいか戸惑ってしまうだろう。ところが、あちこちで 「ひと段落」 という表記が氾濫しているために、世間一般でも 「いちだんらく」 より 「ひとだんらく」 の方が大手を振って歩き始めてしまった。

ようやく、冒頭の登山道の比喩の意味合いを理解してもらえたと思う。間違いでも、目立ってしまうと、皆、そっちの方に行ってしまうのだ。多分、「一区切り」 を 「ひとくぎり」、「一休み」 を 「ひとやすみ」 と読むことなどから、引きずられてしまったのだろう。

おかげで、日本語変換でも ATOK 16 では、「ひとだんらく」 で 「一段落」 と変換されるようになってしまっている。「ら抜き言葉」 などはしつこく指摘してくれる ATOK だが、「ひとだんらく」 の読みには迎合してしまったようなのだ。

まあ、目くじら立ててどうこういうほどの誤読ではないので、「ひと段落」 が公認扱いになる日も近そうだ。

しかし、圧倒的多数派の MS-IME が、「ひとだんらく」 で 「一段落」 と変換するようになると、結果的に 「ひと段落」 という表記が減少し、読みの方は逆コースを辿って、「ひとだんらく」 の力が弱まってしまうかもしれない。

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2005/03/09

デジカメをアナログ感覚で使う人たち

カメラの世界では、デジカメがフィルム式にすっかり取って代わり、写真に対するアプローチが変わってしまった。

私も、フィルム式の時代は写真を撮るのにほとんど興味がなかったが、最近は、別宅サイトの 「和歌ログ」 用に、ほとんど毎日デジカメで写真を撮っている。

ある日、歯医者だったかどこだかの待合室で、『暮らしの手帖』 が置いてあったので、パラパラとめくって見ていたら、「デジカメ写真の保存方法」 とかいう特集があった。どうやら、中高年層には、デジカメを購入したはいいが、その画像をどうして保存するかが大問題らしいのだ。

私はパソコンのヘビーユーザーとして久しくなってから、デジカメを購入したので、パソコンとデジカメをセットで考えるのが当然と思いこんでいた。写した写真は、どんどんパソコンのハードディスクに保存する。どうせ最近のパソコンはハードディスクが大容量化しているので、どんなにためこんでも、容量不足に悩むことはなくなった。

しかし、パソコンに馴染んでいない人にとっては、こうした当たり前のことができないようなのだ。下手すると、SD カードなどのメディアを何十枚も買い込んでしまっている人がいるらしい。何とアホなことを。

『暮らしの手帖』 のオススメする解決策は、数枚のメディアを順繰りに使うことだった。原則的に、画像データは写真屋に頼んで紙焼きにしてもらって永久保存する。焼き増し用に保存したメディアも、1~2年経てば、その必要もなくなるので、数枚を順繰りに使っていけば、困ることはないということだった。

これでは、機械はデジタルになったが、発想はアナログ時代とほとんど変わらない。デジタル・データのメリットなんてものには一切目をつむり、紙焼きというアナログデータに落とし込んで保存するだけである。

インターネットで使うとか、画像をメールに添付して送るとか、画像ソフトで編集するとか、そういった使い方をしない限りは、これで十分なのだ。だったら、フィルム式の方がずっといいだろうにとも思うが、市場でフィルム式が消え去ろうとしているので、仕方がないのである。

世の中のハードウェアがデジタル式に移行しているから、しょうがなくデジタルを使うが、それをアナログに落とし込まないと使いこなせないという人は、案外多いようなのだ。

写真に限らず、パソコンだって、単なる文書の清書マシンとか、年賀状作成マシンとしか考えていない人も多い。デジタルがデジタルの強みを発揮している場面は、案外限られている。

テレビ電波もデジタル方式に全面移行するらしいが、そんなことをして意味があるのだろうか? 高い金を出してテレビ受像器を買い換えても、デジタル方式のメリットを使いこなせる人なんて、そんなにはいないだろう。

そんなにデジタルがいいなら、インターネットでテレビを見ることにする方が、ずっと安上がりのはずなのに。

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2005/03/08

ボーダフォンは 「いじめられっ子の転校生」

我が家では、私と妻と次女の 3人がボーダフォン・ユーザーである。Jフォン時代、ファミリー割引率が高く、ショートメールの受信が無料だったという、単純に経済的な理由で選択したのである。

ところが、このボーダフォンが今、国内市場で一人負け状態になっている。

電気通信事業者協会の発表によると、ドコモと au が順調に増加する一方で、2月のボーダフォン加入者数は、53,200件の純減となった。1月の約 58,000件の純減に続き、2カ月連続の大幅減になったという。

この不振の原因は、第三世代 (3G) ケータイの出遅れとされている。巻き返しのために、今冬の商戦で海外でも使える 3G の 7機種を発売したが、消費者の支持を得られていないという。

しかし、それが本当の原因だろうか? 私に言わせれば、ボーダフォンの不振の根本的な原因は、端的に言えば、「J フォン」 でなくなったことである。行き詰まっていたわけでもなんでもないブランドを捨てて、ごっつい耳慣れないブランドを持ってきた時点で、既に彼らのマーケティングは失敗していたのだ。

我が家の娘 3人は、「J フォン」 が ”Vodafone” になると知った時点で、ある種の反感を示していた。実際に、長女と末娘はさっさと ドコモに鞍替えしてしまった。「ケータイ、何使ってる~?」 と聞かれて、「ぼーだふぉんよ~」 と答えるのに、とりあえず大きな抵抗を感じたのだ。それならば、ケータイ番号の変わる方がまだマシだと判断したのである。これは大きな要素である。

ということは、キャリアを変えても番号が変わらないという、ナンバーポータビリティ・サービスがスタートしたら、この傾向には拍車がかかるということだ。ボーダフォンは時限爆弾を抱えているようなものだ。

今や、ケータイは機能性商品と言うよりは、感覚性商品である。必要不可欠な機能なんていうのは、通話とメールぐらいのもので、あとは 「無駄な遊びの要素」 で売っているのだ。

日本の若い女の子が常に持ち歩く感覚的な商品として、「ボーダフォン」なんていうブランド名は失敗である。身近でフレンドリーな感覚に欠ける。重すぎる。馴染めない。よそよそしい。頭文字の 「Vo」 を 「ボ」 と表記した時点で、どんくさいし、アイデンティティも薄まった。得体が知れない。エイリアンだ。生まれながら、カタカナに向かないネーミングだった。

あの、まっまっかにウナギがとぐろを巻いたようなロゴマークも、拒絶の対象だ。そもそも、ケータイに乗っかる色とデザインじゃない。

日本の若い世代はグローバル化しているなどと、たわけたことをいう評論家がいるが、とんでもない。逆である。彼らは思いっきりドメスティックである。海外旅行といっても、日本語で用の足せる所にしか足を向けない。インターナショナルなセンスなど、はっきり言って持ち合わせていない。

そんな連中に 「海外でも使える」 なんて訴求しても、アピールするわけがない。国内ですぐ近くにいながら、「おはよ~」 とか 「今、何してる~?」 なんて、どうでもいいことをメールし合って楽しんでいる、世界標準から外れまくっているユーザーたちには、国際性なんてことより 「かわいいデザイン」 の方が、ずっと重要なのだ。

日本以外のマーケットでは、ケータイなんて、「たかがケータイ」 として割り切られている風情がある。通話とメールができれば、それでいいじゃないかという具合である。とくにヨーロッパの感覚では、国境を越えて通話できさえすればいい。

ところが、日本では 「されどケータイ」 なのだ。海外通話なんて二の次だが、使い勝手としては、トヨタの自動車みたいに、痒いところに手が届く、至れり尽くせりでなければだめなのだ。

海外でどうのこうのより、さっさとパケット定額制を打ち出すべきだったのである。というより、それ以前に、「J フォン」 のブランドを捨てるべきではなかったのだ。あれ以来、ボーダフォンは、ヨソの国からやってきた 「いじめられっ子の転校生」 になってしまったのだ。

携帯電話に限ったことではないが、日本というのは、ずいぶん特殊事情の先行するみょうちくりんなマーケットなのである。とくに、ケータイみたいな感覚性の強い商品で、「これが国際標準だ」 みたいに、ごっついコンセプトを持ち込まれても、受けるわけがないのである。

日本って、どこかにまだ鎖国しているようなところが残っているのだ。

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2005/03/07

ウグイスのイメージ

「ホ~ホケキョ」 の鳴き声で、「春告げ鳥」 とも言われるウグイスだが、他の鳥一般と同様、あの鳴き声はオスがメスを呼ぶ声だということはつとに知られたところである。

やはり鳴き声のいいオスにメスは惹かれるらしく、オスは必死に鳴こうとする。だから、秋の終わりには喉が腫れ上がるらしい。

そこまでは知っていたので、ウグイスのオスは大変だなあと思っていたのだが、実は、それほどでもないようなのだ。最近ラジオを聴いていて知ったのだが、ウグイスのオスは、その鳴き声でメスを惹き寄せて生殖行為を行う以外、なーんにもしないのだそうである。

卵を産んだメスは、オスの力を借りることなく、独力で巣を作って孵卵にいそしむ。その間、オスは何をしているのかというと、もうそのメスのことは放っておいて、新たなメスを惹き寄せるために、またまた 「ホ~ホケキョ」 を再開するのだそうだ。

こうして、3月頃から 10月頃まで、およそ半年の間、ウグイスのオスはひたすらメスを誘惑してコトに及び、後はほったらかしにする。結構な放蕩者である。これでは、喉だって腫れ上がろうというものだ。

ところが、メスの方もさるもので、一度卵を孵して雛を育て終えると、別のオスの鳴き声を聞きつけて、さっさとそっちの方に行ってしまうらしい。

つまり、ウグイスというのは、オスの視点からは一夫多妻であり、メスの視点からは一妻多夫ということになる。複数のオスと複数のメスが同時にツガイを組むわけではないので、決して 「多夫多妻」 というわけではないという。

ずいぶんサバサバしたものである。ウグイスのイメージがちょっとだけ変わってしまった。

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2005/03/06

「判官贔屓」 の正しい読み方

「ユニークな語釈」 とやらで人気のある 『新明解国語辞典』 (三省堂) だが、私はかなり批判的である。マイクロソフトの辞書ソフト、"Book Shelf Basic" の国語辞書に採用されているのも、本当は気に入らない。

今日、また気に入らない語釈を発見してしまったので、ここでイチャモンをつけたい。

何が気に障ったのかというと、「判官贔屓」 である。これを 「ほうがんびいき」 の読みで引くと、なんと、"「はんがんびいき」の老人語" と出てくるのである。とんでもない乱暴な語釈である。

私は 「判官」 という独立した言葉なら、原則的に 「はんがん」 と読む。しかし、「判官贔屓」 という複合語に関しては、断じて 「ほうがんびいき」 と読む。「はんがんびいき」 とは絶対に読まない。「老人語」 とは何たる言いぐさだ。

そもそも、「判官贔屓」 というのは、同辞書が 「はんがんびいき」 の項で説明しているように、「兄頼朝に嫉視されて滅びた九郎判官源義経に対する同情の意」 から発している。この 「九郎判官源義経」 というのが勘所である。

古典芸能の世界では、普通は 「源」 は付けずに、「九郎判官義経」 と言い習わす。読みは、「くろうほうがんよしつね」 である。さらに 「ほうがん」 と言ったら、それはもう準固有名詞みたいなもので、とりもなおさず、源義経のことなのである。それが 「お約束」 なのだ。

歌舞伎十八番の 「勧進帳」 などで、関守の富樫が 「判官殿にもなき人を・・・」 という台詞があるが、これを 「はんがんどのにもなきひとを」 などと言ったら、それでもう、日本の歌舞伎文化はおしまいである。断じて 「ほうがん」 であって、「はんがん」 ではない。

一方、「仮名手本忠臣蔵」 で浅野内匠頭に擬せられる 「塩谷判官」 は、「えんやはんがん」 である。「えんやほうがん」 とは絶対にいわない。それは、「ほうがん」 と言えば、源義経以外にいないからである。原則的に、義経以外は  「はんがん」 なのだ。

だから、「判官」 は 「はんがん」 でも 「ほうがん」 でも OK だが、「判官贔屓」 となったら、昔から今に至るまで 「ほうがんびいき」 なのである。

きちんと日本の伝統文化を囓ってから辞書を編纂しろといいたいのである。

ちなみに、私は 「小股」 という言葉に関しても、同辞典にイチャモンをつけている (参照)。

[附記]

とにかく、日本人は昔から源義経が大のご贔屓で、芝居の登場人物人気投票をしたら、ダントツの一番人気だった。それで、歌舞伎にも 「義経物」 という一大ジャンルがあるぐらいである。

そんなことだから、昔の歌舞伎のドサ廻りでは、義経とは何の関係のない芝居でも、一度は義経が登場しないと、客が収まらないのである。

それで、ストーリーのちょっとした隙間に、まったく関係のない義経がちょっとだけ登場する。御殿の場面などで、登場人物が全部引けた時などに、奥の襖がスルスルっと開いて、一座の二枚目役者が登場する。義太夫の語りがうなる。

「そこにィ 出でたるゥ~う 九郎判官 (くろうほうがん) (ベベン、ベンベン)」

「くろうほうがん」 と聞けば、源義経に他ならないことは、日本の常識だから、もう客席はやんややんやの大喜び。声がかけまくられる。ちょっとした所作があって、客の気が済んだところで、義太夫は続ける。

「さしたるゥ 用事もなかりせばァ~あ、(ベベン、ベン) 次の間にとぞォ 消へ給ふ~ (ベベン、ベンベン)」

この語りに乗って、義経役者は次の間に消え、芝居は何事もなかったように、本来の筋に戻る。

「備考」

もちろん、「ほうがん」 の歴史的かなは、「はうぐゎん」 である。そして、「はんがん」 は 「はんぐゎん」 (念のため)。

 

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2005/03/05

「いらっしゃいませ、こんにちは」 を巡る冒険 

先月 21日の当コラムで、「こんにちは」 という挨拶について述べた。ここで少し付け足しをしておきたい。

「おはよう」 には 「おはようございます」 という丁寧形があるが、「こんにちはございます」 とは言わない。「今日はいい陽気ですね」 などと言うのが、本来だからである。

私が以前  「知の関節技」 というサブサイトに、"「いらっしゃいませこんにちはぁ」 の怪" というコラムを書いたのは、まさにこのことと関係がある。

このコラムで書いたことというのは、だいぶ前からコンビニやファーストフード店で妙に流行している 「いらっしゃいませ、こんにちは」 という挨拶を聞くと、ムズムズするような違和感で不愉快になってしまうということである。

考えてもみるがいい。「いらっしゃいませ、おはようございます」 なら、違和感はない。しかし、「いらっしゃいませ、おはよう」 では、ちょっとムッとくるだろう。「いらっしゃいませ、こんにちは」 は、この 「いらっしゃいませ、おはよう」 に相当するのである。

本来ならば、「いらっしゃいませ、今日はいい陽気ですね」 まで、丁寧に言わなければならないのだが、いちいちそんなことを言っていては、舌と唇がひきつってしまうから、言わないだけである。だからといって、「いらっしゃいませ、こんにちは」 では、困るのだ。

「いらっしゃいませ」 で持ち上げておいて、次に続く 「こんにちは」 というタメ口で、どさっと落っことしてしまうことになるからだ。繰り返すが、これは 「いらっしゃいませ、おはよう」 という妙な言い方と同じ構造なのだ。

客としては、最初に持ち上げられて次の瞬間に落っことされるのだから、居心地が悪いのも当然である。車井戸のつるべじゃあるまいし、そんなに気安く上げたり下げたりしないでもらいたい。これで違和感を感じないとしたら、日本語に相当鈍感になっている証拠である。

店員に 「いらっしゃいませ、こんにちは」 と言うようにマニュアルで指導しているような店は、「私どもは、日本語が不自由です」 と広言しているようなものなのだ。それを助長している接客コンサルタントは、もう一度小学校から国語を勉強して出直すがいい。

「いらっしゃいませ」 ときちんと言えば、それで十分ではないか。その後にタメ口で落っことしてしまっては、実は失礼千万なお話で、論理的には明確に気付かなくても、何となく不愉快に思う客は非常に多いのだ。

このことを、改めて日本中のサービス業界の常識にしなければならない。そのためにも、これを読まれた方は、どうぞ、あちこちで吹聴して頂きたい。さらに、ご自分のサイトをお持ちなら、書いても頂きたいぐらいのものだ。

何しろ、この国のサービス業の日本語は、この他にも 「○○円からお預かりします」 だの 「レシートのお返しです」 だの、めちゃくちゃだから、何を言っても無駄かもしれないが、多少なりともまともになってもらわないと、買い物や外食するたびに違和感にさいなまされてしまうのである。

なお、「いらっしゃいませ、こんにちは」 について、さらに激烈に論じておられるブログがある。参照頂きたい。(このブログから、当サイトの"「いらっしゃいませこんにちはぁ」 の怪" にリンクされている)

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2005/03/04

バカたる者の日本地図

関東から西で生まれ育った人にとっては、山形県と秋田県というのは、とても区別がつきにくいもののようだ。

何度山形県の庄内出身と説明しても、酒の席などで 「あっ、そうだ、そういえば、あんた、秋田生まれだったよね?」 なんて言われて、うんざりすることがある。

生まれも育ちも大阪という友人に聞くと、九州や四国はまだ身近だが、関東から先は 「とーほく」 という茫漠たる辺境が広がっているだけで、その先に "Hokkaido" という外国があるのだそうだ。ちなみに、その国の最大の都市は "Sapporo" だが、首都は "Furano" ということになっているらしい。

以前、何度言っても山形と秋田の区別が付かない人に、「もう、まったく、関東からこっちの人は、東北を蔑視してるんじゃないの?」 と言うと、彼は鳥取出身だった。

「じゃあ、あんた、鳥取と島根の区別がつくか?」 と言われ、「ゴメン、わからない」 と言うほかなかったのは痛恨である。

それ以来、島根と鳥取の位置関係はようやくわかるまでにこぎ着けたが、まだどうしても曖昧なのが、香川と徳島の位置関係である。どっちがどっちだか、何度地図を見ても覚えられない。多分、実際に行ってみるまでダメだろう。私は、四国は高知に 2度行ったことがあるが、それ以外はわからないのである。

そういえば、愛媛と愛知の区別が付かないという人も案外多い。彼らの頭の中では、愛知と名古屋はリンクしていないらしい。

私の本宅サイトでリンクしている "It's My Party" というサイトの BBS で知ったのだが、「バカ日本地図」 というのがある。一度アクセスしてみていただきたい。ちなみに、これは書籍としても発行されているもののようだ。

この地図では、私の生まれた庄内はおろか、山形県そのものがすっぽりと抜け落ちている。「水戸」 から北は 「謎」 という茫洋とした地帯で、その謎がまだら模様的に薄れた先に、「仙台」 という地帯があることになっている。南に目を転じれば、鹿児島が文字通り 「島」 になっているというのが恐ろしい。

あまりの凄まじさに、そのままプリントアウトしてたまたま家にいた末娘に見せたところ、「別におかしくないよ。フツーの人の頭の中の日本地図って、こんなもんじゃない?」 と言い放った。おいおい・・・。

しかしながら、確かに、大阪人の考える東北よりはまだ詳細にわたっているかもしれんし・・・。

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2005/03/03

ライブドアへの苦言

昨年秋頃から、@nifty のウェブサーバが、夜の 9時半を過ぎると異様に重い。年明けは、その傾向に拍車がかかっている。

試しに、「知のヴァーリトゥード」 のトップページに、朝の 10時頃と、夜の 10時頃にアクセスしてみていただきたい。レスポンスのあまりの違いに驚かれるはずだ。

ちなみに、@nifty のウェブサーバは、一昨年頃もこんな状態だった。「ニフティは重くて使い物にならない」 とまで言われていた。ところが、さすがに大手である。回線を太くしたのかどうしたのか知らないが、かなり改善されて、昨年の夏ぐらいまではかなり快調だった。

しかし、昨年の秋頃からまたこんな調子である。多分、インターネットの利用者が急増し続けていて、回線増強が追いつかないのだろう。

ただ @nifty の場合、ポータルサイトの表示まではそんなに重くならない。そこはさすが腐っても鯛と認めてもいい。個人サイトの方も、前回そうであったように、そのうち回線増強によって緩和されるものと期待している (と、釘をさしておく)。

より問題にしたいのは、Livedoor である。

私は昨年末頃から、ホームページ (ブラウザを開いて最初に表示されるページ) を、"My Yahoo" から "My Livedoor" に変えた。例の 「Yahoo BB 問題」 以来、Yahoo に嫌気がさしていたためである。

ところが、Livedoor のポータルは、夜の 10時を過ぎると、時々 @nifty の比ではないほどの、とてつもない重さになる。甚だしくは、「混み合っているので、時間をおいてアクセスしてください」 などというふざけた表示になる。

いやしくもポータルサイトを自認しているくせに、混みすぎてページが表示できないとは何事か。あのアクセスが桁外れに多いはずの Yahoo でさえ、こんな状態になったことは一度もない。

社債まで出してニッポン放送の株なんか買い占めている暇があったら、自分のところの玄関に続く道のどぶさらいをきちんとやってもらいたい。

ホリエモンはまた例の調子で、「だからぁ、前から何度も言ってるようにぃ、回線が重いとか軽いとかいう問題じゃないんですよ。要はメディアの価値ということなんです」 なんてなことを言い出すかもしれないが、この程度の貧弱なインフラで、メディアの価値もへったくれもないだろう。

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2005/03/02

採血のトラウマ

今年も私の住む町から総合検診の知らせが来た。サラリーマンを辞めてからというもの、健康診断をしたことがないから、そろそろ受けてみた方がいいのかもしれない。

だが、どうも進んで受ける気がしない。というのも、血液検査の際に注射で血を抜き取られるのが、メチャクチャ苦手なのだ。

自慢じゃないが、私は自分の腕に注射針の刺さるのを自分の目で見たことがない。顔を背けていないと、いたたまれない。

別に痛いとかいうのではない。あの程度のチクリとした痛みなら、本来は全然平気なのである。だから、あの恐怖感は肉体的というより心理的なものなのだろう。

ところで、私は 20代から 30代にかけて、町道場に通って合気道をやっていた。その道場の師範の奥様は、日赤の婦長さんと聞いていた。

ある日、私は駅前でやっていた献血に応じた。献血バスに乗り込み、狭いベッドに横になると、例によって顔を背けていたので、しかとはわからないが、右腕に注射針を突き刺されたような気がした。やれ恐ろしや、どんなぶっとい注射針だろうか。

その注射針を刺されたまま、掌を握ったり開いたりし続けろという。そうすると、採血しやすいらしい。私は言われたとおり、おもむろに握ったり開いたりを開始した。

腕に注射針を刺されたまま掌を動かし続けるというのは、かなり心理的抵抗があったが、しかたなく延々と繰り返した。その度に、注射針を通して私の血液がどんどんとあふれ出ていくような気がする。

決していい気持ちのものじゃない。いや、気のせいとはわかっているが、かなり追いつめられた感じがする。1時間も経ったような気がする。意味もなく口がパクパクし始める。

「あ、あのぅ・・・、まだでしょうか」
「まだまだですね。まだ半分いってませんから」
「うわ! そ、そうですか・・・、こりゃ、えらいこっちゃ・・・」

もう、1リットルぐらい抜かれているような気がしていたのに。これ以上続けていたら、神経がもたないかもしれん。勘弁してくれ! お願いだ、リタイアさせてくれ!

身体がむずむずする。意味もなく笑いのようなものがこみあげてくる。緊張の極致に達したときになぜかこみあげてくる、あの不思議な笑いだ。息がうわずる。ひくひくと痙攣し始める。

婦長さんらしき人が、「緊張しないでね、リラックスして」 と声をかけてくれるが、こちらは冷や汗を流すばかりである。

ところが、その婦長さんの胸の名札に、道場の師範と同じ名字が書いてあるのに、私は幸か不幸か気付いてしまったのだ。やばい。

「あわわ、○○先生の奥様でいらっしゃいましたか!」
「あら、合気道やってたの?」
「ははぁ、大変お世話になっております。お見苦しいところをお見せして、面目ございません」

それから先は、どうやって採血し終えたか、まったく記憶がない。ふと気付くと、真っ青な顔をして、手渡された牛乳パックのストローをすする自分がいた。

翌日、道場に行くと、師範に 「だいぶ面白い状態だったみたいですな」 と冷やかされた。いやはや、何とも答えようがない。

タダでさえ、注射は嫌いなのである。その上、あの経験で採血はトラウマになってしまった。私は大抵のことは平気だが、高いところと注射 (とくに採血) だけは苦手なのである。武道をやろうが、黒帯を巻こうが、苦手なものは苦手なのである。

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2005/03/01

寝台列車のパラドックス

元祖ブルートレインの 「あさかぜ」 (東京・下関間) と 「さくら」 (東京・長崎間) が、2月末で廃止になったのだそうだ。

それで 2月中は、カメラを持った鉄道マニアが大勢押しかけたらしい。価値がなくなったからといって廃止しようとすると、その時になって、突然価値が上がったりする。

今の若い人は、寝台列車というものに乗ったことなどほとんどないだろうが、昔はそれなりに意味があった。飛行機は高かったし、前日のうちに現地入りしようとすると、その前日がほとんど潰れてしまう。だから、寝台列車で、移動と宿泊を同時に済ませようという発想が、合理的に思われていたのである。

しかし、この発想は 2つの意味で有効なものではなくなってしまった。

まず、移動と宿泊を同時に済ませようという安上がり発想をする者は、ほとんど高速バスに流れてしまった。その方がずっと安いからだ。

さらに、下関や九州まで寝台列車で行こうとすると、現地に着くのが遅すぎる。「あさかぜ」 では東京 19:00発 →下関 09:55着。ほとんど 10時だ。「さくら」 になるともっとひどくて、東京発 18:03→長崎 13:05着 である。長崎入りの日の午前は、列車の中でうだうだしているしかない。

料金的にも時間的にも、中途半端すぎる。バスと飛行機に客を取られるのも当然である。

バスではゆっくり寝られないのではないかという声もあるが、はっきり言って、寝台特急だってそれほど安眠できるものではない。私は割とどこでも寝られる方だが、寝台車ではいつも、うつらうつらしているうちに夜が明けてしまうという感じだった。

せっかく高い料金を払って寝台車にしたのだから、寝なきゃ損だというプレッシャーと、旅の非日常的気分のせめぎあいで、案外リラックスできないのである。いっそ高速バスの方が、旅行というより単なる移動と割り切って、余計なプレッシャーがなく眠れる。

これでは、他のブルートレインも徐々に廃止されるだろう。しかし、すべて廃止すればいいかというと、そういうものでもない。

世の中には希少価値という価値がある。観光シーズンに特別寝台列車を仕立てて運行すれば、それなりに需要はあるだろう。「寝台列車に乗る」 ということ自体を目的とした旅行だってあり得るからだ。それにしても、年寄りには思いの外、ハードな旅になるだろうが。

JR は 「カシオペア」 (上野~札幌) とか 「トワイライト エクスプレス」 (大阪~札幌) などの豪華寝台特急を走らせているようだが、採算が取れているのだろうか。取れないのなら、季節限定のプレミアムツアーにすればいいだろう。

昔は 「合理的」 だった寝台列車の旅が、今は 「無駄を楽しむ」 旅になっているのかもしれない。

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