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2005年4月に作成された投稿

2005/04/30

情報操作 − 「知らせないこと」 の罪

以前にも 2度ほど書いた (参照1参照2) のだが、「知って犯す罪と知らずに犯す罪」 というテーマがある。

仏教的には 「知らずに犯す罪の方が重い」 ということになっている。私は過去 2回のコラムで、「"知らないということ" 自体が罪だ」 という書き方をしてきた。

世間一般では 「悪いと知らずにやっちゃったんだから、しょうながいよ」 ということになりがちだが、実はそうではないのである。

その理由を釈尊は焼け火箸の喩えで説明している。

焼け火箸を握るのに、熱いと知っていて握るのと、知らないで握るのでは、どちらがダメージが大きいか。知っていたら、恐る恐るの行為だから、握るか握らないかのうちに放してしまい、大したダメージは負わないで済む。しかし、知らないで握ったら大やけどを負ってしまう。

寓話の概略は、ざっとこんなところだ。底の浅い仏教入門書などでは、釈尊は 「結果重視主義」 の立場を取っているなどと解説されていることがある。

しかし、本当のところは、知らずに罪を犯した者は、とても傲慢な存在になってしまうから、罪が重いということだろう。

仕事などでミスをして周囲に迷惑をかけても、 「だって、知らなかったんだもの」 と言って、非を認めようとしない者がある。甚だしくは、「前もって教えといてくれればいいじゃないの」 と逆ギレする者まである。

そんなケースでは、「その程度のことを知らなかったのは、あんただけだよ」 とか、「教えるも何も、そんな無茶苦茶なミスは想定外だし・・・」 というようなことが多い。

「だって知らなかったんだもの」 というのは、みっともない自己憐憫である。昔の職人の世界では、いちいち細かいことまで教えなかった。知識や技術は、教わらなくても見て覚えるものだった。いい年をしてものごとの道理を知らないのは、怠慢という罪である。

怠慢な者は自覚と反省がないから、同じ罪を何度でも犯す。

さて、問題はここからだ。世の中には、当然知るべきことを 「知らせない」 という情報操作がある。

中国では、反日デモがあったことすら知らない人が多いという。ニュースにならないからだ。まして、日本大使館に投石があったことなど、ほとんどの人が知らないらしい。現場を通りかかって狼藉の後を見ても、その理由はわからないわけだ。

反日デモの呼びかけはインターネットなどを通じて行われたらしいが、中国のインターネットは、外国の情報には自由にアクセスできない仕組みになっているという。「あれはインターネットというより、単に "巨大な LAN" のようなもの」 という人もいる。

私は中国に行ったことがないので、その辺りの詳しい事情は知らないのだが、「中国のインターネット フィルタリング体制は、その種のものとしては世界で最も洗練されたもの」 との信頼すべき報告がある。(参照

この 「洗練された」 という直訳語に惑わされないようにしていただきたい。要するに、「都合の悪い情報は徹底的に排除されている」 ということだ。

「知らないこと」 も罪だが、「知らせないこと」 の罪はもっと重いだろう。 それは 「罪を犯せしむ」 ということだからだ。

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2005/04/29

FD 紛失事件というアナクロ

UFJ 銀行東京本部の顧客管理部門が、融資先企業の取引先 347社の住所や売上情報などを記録したフロッピーディスク 1枚を紛失したと発表した。(参照

どうも誤って捨てた可能性が高いようだが、今どき、FD で情報をやりとりする形態がまだ残っていたことに驚いた。

ここ 2~3年の内にパソコンを使い始めた若い人たちには、FD に触れたこともないという人だって多いだろう。それほど、FD は過去のものになりつつある。

私が最後に FD を使ったのはいつのことだったろう。少なくとも、この 2年ぐらいは使ったことがない。そもそも、私が今使っているデスクトップとモバイルノートは、両方とも FD を挿入するドライブが付いていない。

確かに、最近になってからも FD で情報を渡したがる人もいないではない。そんな場合、私は 「できればメールに添付して送ってもらえませんか」 と、やんわり言うことにしている。

滅多にないことだが、インターネット対応していない場合は、いつも持っているスティックタイプの USB メモリに入れてもらう。さすがに、USB の使えないマシンは、最近はみられなくなった。

私がなるべく FD を介した情報のやりとりを避けたいと思っているのは、そもそも、FD というものをあまり信頼していないからである。このメディアは、物理的に案外簡単に壊れる。壊れないまでも、なぜか情報が読み出せない場合もある。

以前、NEC のPC9800シリーズのマシンで記録した FD は、DOS-V では読めないという不都合があった。Windows 95 が普及し始めた頃は、従来の MS-DOS でフォーマットした FD が読めないという、訳の分からないケースも相次いだ。そんなこんなで、私は FD に嫌気がさしてしまったのである。

それだけに、FD に取引先情報を記録して渡すなどということが、ずいぶんアナクロのような印象を受けてしまったわけだ。ブロードバンドの世の中だから、FD 1枚に入るぐらいのファイルなら、メールに添付しても送受信に大して時間はかからないのに。

セキュリティの観点からしても、FD という形で放り出しておくのでは、危なくてしょうがないだろう。

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2005/04/28

識字能力問題とサイトの読みやすさ

Usability というサイトに、「識字能力の低いユーザ」 という記事がある。

「識字能力の低いユーザは、高い識字能力を有するユーザとは違う読み方をする。流し読みはせず、一語一句を読み拾おうとするために視野が狭まり、要点を取り損ねてしまう」 というものだ。

「識字能力の低いユーザ」 とは、読み書きができないのではなく、「読むことはできるが、楽々と読めるわけではない」 という人々のことだそうだ。このサイトに来てくれる方のほとんどは、これには当てはまらないと思う。

米国教育省の 全米成人識字能力調査 によると、米国の人口の 48%は識字能力が低いということだ。そのため米国のウェブサイトは、こうしたユーザのために、以下のような配慮をしなければならないと提案されている。

  • 平易な文章を書くこと。ホームページや重要なカテゴリーのページ、ランディング・ページなどには小学 6年生レベル、その他のページも、中学 2年生レベル程度にする。
  • 要点はページの冒頭におき、ほんの 2~3行を読んだだけで諦めてしまうような読者の目 にもとまるようにする。
  • 重要な情報は、他と区別できるよう仕切って見せ、スクロールして見失う危険性を最小限にする。
  • 動いたり、変化したりするテキストの見せ方は避けること。

米国の多くのウェブサイトがこうした配慮をしてくれると、本当に助かると思う。それは私自身、日本語こそきちんと使いこなせる (ことを望む) が、こと英語になってしまうと、まさに 「識字能力の低いユーザ」 の範疇に入ってしまいそうだからだ。

さらに、ここで提案されている留意点は、英語のサイトだけではなく、日本でも多くのサイトで意識されるべきことだ。「スキルの高い読者でも、冒頭にあるいくつかのパラグラフに価値を見出せなければページを去ってしまう」 と指摘されているとおりである。

重要ポイントを先に書いてしまうというのは、新聞記事でもそうなのだが、商業文の鉄則である。コマーシャルなものでなければ、起承転結式の文章もあるので、必ずしもそれにこだわる必要もないが、それでも、ウェブのコンテンツは長すぎてはいけない。

私が某所で書いているメルマガは、1200字を目安にしている。原稿用紙で 3枚分、ワープロの標準的なフォントで A4 用紙に 1枚分ぐらいのものだ。初めのいくつかのパラグラフで要点をまとめて、あとは詳細説明に移行するか、あるいは全体を短くするかのどちらかを選択すべきだろう。

サイトを運営する者は、アクセスしてくれる読者の識字能力を見くびる必要はないが、それでも、読みやすさには最大限の配慮をしなければならない。自分のコンテンツをも含めた反省点である。

願わくは、日本語を学ぶ外国人が 「読みやすい」 と言ってくれるようなサイトを作りたいと思う。

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2005/04/27

鉄道事故とヒューマン・エラー

どこに行っても JR 宝塚線の事故の話題でもちきりだ。とくに関西方面の人には、大きなショックだったろう。

あの地下鉄サリン事件は、その前年まで毎朝乗っていた路線で起きたため、ニュースを聞いた妻はパニクりかけたようだ。後から考えると、私は転職したおかげで命拾いをしていたのだった。

さらに、昨日夕刻に帰宅しようと上野駅から常磐線に乗ったところ、特急とトレーラーの衝突事故で中距離電車が不通になっていた。トレーラーの運転手が酒気帯び運転だったらしい。やりきれない。

今回の尼崎の事故は、こうしてコラムを書いている間にも死者の数が増え続けている。最終的には 100名を超えそうだ。書いている者としても心が痛む。

原因はまだ究明されていないが、いずれにしても運転士のオーバーランというヒューマン・ミスが遠因となったのは確かだろう。地下鉄サリン事件とは、まったく違う範疇の事件である。当初、8メートルのオーバーランと報道されていたが、実際は 40メートル行き過ぎていたという。

私も電車のオーバーランは何度も経験したが、せいぜい車両の長さ以下 (20メートルぐらい?) のことである。40メートルのオーバーランというのは、見たことがない。

しかも、この運転士は以前に 100メートルのオーバーランもしていたという。電車というのはブレーキをかけてすぐに止まるものではないだろうが、それでも 100メートルも行き過ぎるというのは、尋常ではない。直前までホームが見えていなかったのだろう。

よっぽどの 「ぼんやりさん」 である。少なくとも、命を預けてもいいというタイプではないようだ。

ゴキブリは 1匹見つけたら 100匹いると思えという。決して運転士をゴキブリに例えるわけではないが、ぼんやり運転士は他にはいないのだろうか。

以前、運転中に何分間だか熟睡してしまったという新幹線の運転士がいた。新幹線だけに、ヒューマン・ミス対策は行き届いていたようで、事故にはつながらなかったが、快速電車レベルでは、ぼんやりが過ぎるとこんなことになる。

私も車の運転中にどうにも眠くなることがある。以前、夜中に東名高速を走っていて、ふと気付いたら車線をまたいでいたことがあった。鳥肌が立つほどぞっとした。もう数秒意識が飛んでいたら、中央分離帯に激突するところだった。

あの経験以後、運転中に眠くなったら無理せずに、必ず止まって寝ることにしている。しかし、電車の運転手は眠くなったからといって電車を降りて寝るわけにいかない。

それだけに、プロとしての体調管理が求められるはずなのだが、それでも眠くなってしまったら、きっと瞬間的にしろ、意識が飛ぶこともあるだろう。それでも大丈夫なように、システムを整備してもらいたい。

先日の主導踏切の事故といい、ヒューマン・エラーは 100%防止できるものではないのだ。

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2005/04/26

ブログらしいブログとは?

この 「今日の一撃」 というコラムの更新を効率的にするために始めたブログが、知らぬ間に 4万ヒットを超えていた。

「本宅サイト」 の 「知のヴァーリトゥード」 が、3年 3か月で 8万ヒットなのに、ブログは 10か月足らずで 4万。単純平均では、ブログは 本宅の約 2倍強い。

ブログ恐るべし。しかし、それでも 「知のヴァーリトゥード」 の方を自分のポータルと位置づける私の方針は不動である。

以前、ブログを始めると従来の個人サイトの方はさびれる一方だから、 Movable Type を使って自前のブログを構築し、ポータルにした方がいいと勧めてくれる人もいた。それもいいかもしれないが、私は今さら Movable Type のカスタマイズのお勉強をする時間があったら、コンテンツの充実に当てたいと思う。

それに、本宅は決して 「さびれる一方」 などということにはならなかった。それは事実が証明している。

サイト設立以後の単純計算なら、ブログは本宅の 2倍の集客力だが、最近の動向に限れば、ブログへのアクセスは本宅トップページの 30%増し程度にすぎない。しかも、ブログのヒット数は、最新の記事だけでなく、過去の記事へのアクセスも含まれる。というより、分析してみると、過去の記事へのアクセスがほぼ 50%を占める。

ということは、大雑把だが、最新のコラムを読みに来てくれる定連さんの少なくとも 3分の 2以上は、ブログではなく、本宅トップページの方を贔屓にしてくれている勘定になる。それだけでなく、本宅トップへのアクセスは、このところ前年同月比で 30~60%増を継続している。ありがたいことである。

以前にも書いたことだが、私はブログを積極的に運営しているという意識はあまり強くなくて、以前から継続していたコラム 「今日の一撃」 の毎日更新に便利というだけの理由で、Cocolog を使い始めただけのことである。だから、バリバリのブロガーではない。トラックバックなんていうシステムも、あまり積極的に使おうという気になれないし。

トラックバックを積極的に活用したら、ブログへの来訪は軽く倍ぐらいにはなるだろうと思う。しかし、いかにもブログらしいブログにするつもりもないので、面倒くささが先に立つ。

ただ、広義では、「ブログは頻繁に更新されているウェブ・サイト」 とする定義もある。その意味では、私のサイトは Cocolog を利用するずっと前からブログだったということもできるし、いわゆるブログ・サービスを利用していても、更新が滞っているのは、本来の意味のブログではない。

今のところは、ブログがブームなので猫も杓子もブロガーを気取っているが、きちんと更新しながら続いているのは、一体何割ぐらいあるのだろう。

私のサイトは、今日で 16か月毎日更新を記録した。今後も自然体で好き放題に更新していこうと思っている。

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2005/04/25

PRIDE にみる日韓関係

23日の PRIDE ミドル級 GP について、昨日はレベルの高い試合が多いと書いたが、桜庭対ユン・ドンシク戦は別だ。

ユン・ドンシクは、韓国柔道界では 「無冠の帝王」 と言われていたそうだが、試合前のインタビューからして、その大言壮語が胡散臭い印象だったのである。

それほどまでの実力者が、どうしてオリンピックに一度も出場していないのかというと、「韓国では実力より学閥が重んじられるため、常に疑惑の判定に泣いた」 のだそうだ。うぅむ、十分あり得ることだが、胡散臭さは払拭されないぞ。

果たして、試合はわずか 38秒でケリがついた。桜庭のフック一発で記憶が飛んでしまったらしいユン・ドンシクが、今どきの総合格闘技の試合では滅多に見られなくなった無様な亀の子状態になってしまい、ぼこぼこに殴られてレフリーストップが入ったのだった。

この日の試合の中では、ダントツにレベルの低い試合で、論評にも値しないほどだった。ユンは多少はボクシングの練習を積んではいたらしいが、いくら何でも打撃に対する対処が下手すぎる。

それに、あんなに簡単に亀の子になってしまうようでは、総合格闘技のディフェンスの 「いろはのい」 も知らないことを露呈してしまったではないか。なめるにもほどがある。

これでは、昨年不調を極めた桜庭復活のための 「噛ませ犬」 だったと思われても仕方がない。桜庭ファンにとっては 「スカッとした試合」 と映ったようだが、格闘技をプロレスと一緒の目で見てはいけないのである。

ところで、こんな情けない負け方をしてしまったユン選手は、国に帰ってどんな迎えられ方をするのだろうか。反日感情の高い韓国のことだけに、もしかしたらとても冷たい仕打ちを受けてしまうのではなかろうか。

元々が学閥から弾き出された存在というし、柔道界に残っても出世が見込めないからこそ、日本人主催の 「素性の怪しい総合格闘技」 なんぞに転出する気になったのだろうが、結果がこれでは 「それ見たことか、恥さらしが」 ということになって、立場がなくなってしまうかもしれない。

先日のサッカー W杯アジア予選で、バーレーン MF サルミーンの絵に描いたような見事なオウンゴールの後でも、我が家では、「あの人、国に帰ったらきっと生卵かなんかぶつけられるよ、かわいそうに」 と心配していたのだが、今回はそれどころではない。

他人事ながら、かなり心配になってしまうのである。

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2005/04/24

サブミッションの復権を

最近当サイトを見始めた人は、私が格闘技フリークであることを知らないと思う。

というわけで、本当に久しぶりで格闘技のテーマで書こうと思う。このサイトがどうして 「知のヴァーリトゥード」 なんていうタイトルなのか、改めてきちんと認識してもらわなければならないこともあるし。

23日の PRIDE ミドル級 GP 開幕戦はとてもレベルの高い試合が多く、テレビ観戦していても、かなり力が入ってしまった。

これだけ納得させられる試合が連続すれば、PRIDE は大丈夫だろう。あるいは、ミドル級の下に、70kg あたりを中心としたライト級を作れば、日本人選手がものすごく活躍できるだろうに。

ただ、最近の総合格闘技を見ていて感じることは、関節技の不振である。今回の PRIDE でも、中村和裕がケビン・ランデルマンに決めたアームロックなどは、つい 2~3年前までなら確実にタップを奪えていた技だ。それがフィニッシュホールドにならず、すり抜けられてしまう。

近頃では、総合格闘技で決まり手になるサブミッションといえば、逆十字か、首/頸動脈を決める系統の技だけになってしまった。関節を曲がる方向に極限まで曲げる系統の技 (アームロック系) は、アウト・オブ・トレンドである。

それは、以前の桜庭対ホイス・グレイシー戦のように、最後まで我慢してタップしなければ負けたと認めないとかいう不明朗なことが生じて、何となく嫌われたということもあるが、ギリギリまで我慢してクリアする対処法が進んだからでもある。

それは、「曲がる方に曲げる」 という関節技が、「何とか我慢できる」 ものという認識が進んで、気持ちが萎えて諦めるということがなくなったからだ。その点、逆十字と首/頸動脈関係は、まだ生理的恐怖感が瞬時に襲うため (実際に関節が破壊される痛みに襲われることもあり)、すぐにタップを取ることができる。

このままでは、総合格闘技におけるサブミッションのバリエーションが狭くなってしまうことが心配だ。私はノゲイラのような 「関節技の職人」 的ファイターの試合が好みなのである。

ところが、昨年大晦日のノゲイラ対ヒョードルの試合でも、ヒョードルはせっかく上になってもノゲイラのガードポジションからの関節技に一切付き合わず、下から腕を取られそうになると、すぐにふりほどいて自らスタンディング・ポジションに移行していた。

こうした状況が続いたら、総合格闘技で勝つための条件は以下のようになる。

  • 撃ち合いにめげない。
  • タックルを切る技術が高い。
  • バランスがよくて、容易に尻餅をつかない。
  • 寝技での打撃技術が高い。
  • 腕を極められそうになったら、さっさと立ち上がる。

これでは、あんまり面白くないなあ。

今後、組み技系のファイターが総合格闘技で勝つためには、ガードポジションからの関節技をすかされずに極める技術を開発しなければならない。

上からのパウンドを封じるためには、膠着にもっていくよりも、リスクは高いが、相手のパウンドの動きを逆利用して下から揺さぶり、バランスを崩しながら、マウントポジションを維持すること自体を困難にしなければならない。少なくともその方向で技術開発を行わない限り、組み技系の不利は続く。

そして、相手が向きを変えようとする隙に、脚部を効果的にフックして逃げられなくした上で、流れの中で手首か足首を極める。

肘とか膝では、ここまで技術が進歩してしまうとなかなか極められないが、手首/足首なら極まる可能性が高い。足首は慎重にじわじわ極めることも可能だろうが、手首は一瞬にして極めなければすぐにふりほどかれるか、逆にパウンドを浴びせられる。難しいところである。

総合格闘技は、以前はマウントをとってぼこぼこにパウンドを浴びせ、相手が嫌がって亀の子になったら後ろから頸動脈を極めるという単純な勝利の方程式があった。しかし、近頃では、それ以前の立ち技の強さが勝負を決めるようになってしまっている。

この流れを、もう一度サブミッションに変えていくためには、より高い技術開発が必要だ。あるいは、立ったままでのサブミッションを磨くとか。

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2005/04/23

Adobe の Macromedia 買収で

Adobe が Macromedia を買収し、今年 11月までの経営統合を目指すことになった。これで、クリエーター市場は、事実上 Adobe の独占状態になる。(参照

ところで、私の使っているオーサリングソフト、Macromedia の Dreamweaver は、どうやらなくならずにすみそうだ。

このニュースを聞いたときは、Dreamweaver が Adobe の Golive に統合されるのではないかと心配したが、杞憂に終わりそうだ。一安心である。Dreamweaver の方が Golive よりユーザーがずっと多いようなので、そんな乱暴なことはできないだろう。

それよりも、Dreamweaver とセットで使用すると抜群に使い心地のいい Fireworks が、Adobe の画像処理ソフトに統合されるのではないかという気がしてきた。Fireworks は、Adobe の Illustrator と Photoshop の機能の、ウェブサイト作りに便利な要素を選りすぐって統合したような使い勝手なので、ぜひ残してもらいたいものだ。

Adobe としては、「PDF をインターネット上で流通する文書の標準形式としたい考え」 などと報道されているが、そんなことは既に達成されているんじゃないかなあ。さらに Flash を取り込むことで PDF の上で画像を動かしたりしたいとも言われているが、そんな需要があるのだろうか。

もしそれが実現してしまったら、アートっぽいサイトは HTML ではなく、PDF で見るなんてことになってしまいそうだ。確かにその方が、フォントやレイアウトの崩れがなくなって、限りなく制作者の意図に近い表示になるだろう。

PDF 多用が一般化すれば、私の 「和歌ログ」 なんてサイトでも、筆文字の縦書き表示にした方がいいかもしれない。しかし、作成にも表示にも手間がかかりそうで、毎日更新は骨折りになりそうだ。考えものである。

ところで、Dreamweaver の正しい読み方だが、これに関する私のパロディページにアクセス解析を設置したところ、毎日結構なアクセスのあることがわかった。

それで、今後は、Adobe の読み方を 「アドベ」 とすることに力を注ぐ番かもしれないと思い、念のため辞書で調べたところ、

Adobe: 【名】 【U】 アドーベ[日干し]れんが
     【形】 【A】 アドーベれんが造りの

New College English-Japanese Dictionary, 6th edition (C) Kenkyusha Ltd.

と出てきた。なんだ、IT 以前に建築業界では、「アドーベ」 で定着していたのか。この事実に敬意を表して、「アドーベ」 としておこうかなあ。なお、英語の発音は 「アドウビィ」 ( "ドウ" の部分にアクセント) に近い。アメリカ人は、平板アクセントのできない不自由な人たちである。

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2005/04/22

健康は幸福の後についてくる

Hot Wired Japan に、"「幸福は最良の薬」 を裏付ける研究成果" という記事が出ている。

ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジ (UCL) 疫学・公衆衛生学部の研究によると、「幸福感」 は、重要な生物学的作用の機能を高める働きをもつそうだ。

ここで、面白いレトリックが紹介されている。それは 「人は健康だから幸せだというだけではなく、幸せだから健康なのだ」 ということである。つまり、「健康は幸福を得るための条件」 というよりも、「幸福であると感じれば、健康は後からついてくる」 ということのようなのだ。

健康であるということは、生物としての人間の望ましいありようである。その望ましいありようが、「幸福感」 という心のもちようで促進されるとしたら、その 「幸福感」 も、心理的という以前に、「生物的に」 望ましいことであると、三段論法的に結論づけられる。

「幸福感」 の鍵は、「精神世界に触れることや宗教の実践によってアルツハイマー病の進行が緩和される可能性があるとする研究結果」 に見出されるだろう。「高いレベルの精神世界や信仰を持つ患者は、認知機能低下の進行が著しく遅くなることがわかった」 と報告されている。

つまり、望ましい心の持ち方というのは、物質的な満足よりも精神的な充足にあるとみられるのである。

「精神的な充足」 が何から得られるかといえば、ポジティブな心情である。不満、憎悪、怨念、嫉妬などというネガティブな心情に対し、感謝、和解、慈愛、調和といった心情は、幸福感の源泉であり、しかもそれは、功利的な処世術というよりも、よりプリミティブな生物学的レベルでも、「望ましい状態」 に合致しているらしい。

どうも、我々の DNA は、もともとそのように設計されているらしいのだ。

これは精神世界の意義の実証的レポートとみることもできる。つまり、あまたの良き宗教の説くところに信頼を置くことは、決して迷信ではないとわかる。チベット仏教のダライラマ 14世 (現ダライラマ) は、この辺りの科学的アプローチに関するフロンティアの役割も果たしている。

多くの宗教の根本的態度である感謝し合い、尊重し合うことは、精神世界においても、はたまた生物学の世界においても、自然で望ましいことのようなのだ。

そして、人間の生物的ありようだけでなく、国家の社会的ありようにも、それは言えるだろう。他国への憎悪を増幅することで得られるドメスティックな安定は、決して健康なことではない。

中国の国家システムに対して異を唱えても、彼国の人民を憎悪してはならないことを、片時も忘れないようにしよう。

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2005/04/21

対中外交カードとしての大使館外壁

反日デモに伴う破壊行為で被害を受けた北京の日本大使館の修復を、中国側が自発的に申し出たそうだ。(参照

日本側はこれを受け入れるかどうか検討中だそうだが、迷うことなく突っぱねるべきだ。インクやペンキで汚された外壁は、またとない外交カードではないか。

原爆の悲惨さを後世に伝えるために、広島では原爆ドームを永久に保存しようとしている。原爆ほどではないにしろ、今回の乱暴狼藉の跡を、2008北京オリンピックで世界中から訪れる関係者に、きちんとみせてあげればいいのである。 落とし前は、早くとも 4年後だ。

逆に言えば、体面を重んずる中国としては、謝罪はしないが、修復だけは是非ともしたいのだ。身内の恥をさらす痕跡、とくにインクやペンキを投げつけた跡などは、オリンピックまでにきっちりと消しておきたいところだろう。

というわけで、今回の中国側の申し出は、罪滅ぼしとか好意からのものでは決してなく、証拠隠滅をしたいという自分の都合である。まず最初に、オリンピックの開かれる北京の大使館を修復したいと申し入れていることからも、その意図はみえみえだ。

そんなもの、「ただで消させてなるものか」 である。割られたガラス窓の修理ぐらいは仕方がないが、外壁に残されたペンキやインクの跡は、業務に差し障りがあるわけではないのだから、自然に消えるまで何年でも放っておけばいい。中国側が強引に消そうとなんぞしたら、治外法権領域侵犯で、国際問題にすればいいのである。

少なくとも、大使館の汚された外壁は、今後の交渉の 「カード」 として、日本側の手にあるのだ。もし、今回の申し出を易々と受けて、せっかくのカードを捨てるようなら、日本の外交下手を象徴する出来事が、また一つ増えることになるだろう。自前で消したりなんかしたら、それこそ笑いものだぞ。

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2005/04/20

誰も損をしない反日デモ

中国の反日デモ、日本のニュースでは乱暴狼藉場面ばかりが放映されているが、参加した大方の中国人にとっては、呑気な憂さ晴らしだったようだ。良き友、坂口昌章氏のブログで報じられている。

見たところ、今回の反日デモは、誰にとってもあまり損はないようなのだ。

まず、当の中国にとっては

  • 人民の政治的不満のガス抜きができる。
  • オリンピック開催の前にガス抜きができたことは大きい。
  • 日本に 「歴史認識」 における反省を迫ることができる (と思っている)。

そして、日本 (の保守勢力) にとっては、

  • 「瓢箪から駒」 式に、「何言ってやんでぇ、べらんめぇ」 的ナショナリズムの高揚が図られた。
  • 対中 ODA の見直し機運が高まった。
  • 内政の混乱から目を逸らすことができる。

日本の左翼勢力にとっては、

  • ほら、言わないこっちゃない、日本の歴史的な反省が足りないから、こんなことになると、キャンペーンできる。
  • 靖国参拝にこだわる小泉内閣では、周辺諸国との友好が図れないと、攻撃材料にすることができる。

台湾にとっては、

  • 中国メインランドの無茶苦茶さが印象づけられて、台湾が相対的に善玉になった。
  • メインランドに集中しがちだった投資が、台湾にも向けられることが期待される。

韓国にとっては、

  • ね、ねっ、日本て酷い国だよね、と、「反日」 を共有できるパートナーができた。
    (ということは、北朝鮮と中国以外に、「反日」 を共有できる国がないということだが)

北朝鮮にとっては、

  • とりえあえず、日本を敵とする視点で、完全な孤立を防ぐことができる。

周辺アジア諸国 (とくに ASEAN) にとっては

  • 中国一辺倒だった投資が、嫌中ムードで周辺諸国に分散される期待が高まった。
  • アジアのパワーバランスで、キャスティング・ボートを握れる可能性が高まった。

米国にとっては

  • 中国への牽制球を投げることで、日本にまたしても恩を売れた。
  • クォータ撤廃による貿易摩擦を和らげるカードに使える。

EU にとっては

  • 高みの見物を洒落ながら、「アジアってしょうがねえなあ」 と優越感にひたれる。
  • 乱暴な中国から輸入するより、EU 域内での貿易や投資の方がいいよねと、プロモーション材料に使える。

なんだ、どの国もハッピーじゃないか。迷惑したのは、とばっちりを蒙った日本料理店と日本車のオーナーだけか。

とはいえ、中長期的視点では、差引勘定で中国にマイナスとなって顕れるのではないかなぁ。

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2005/04/19

「反米」 「反日」 の表と裏

韓国の民間世論調査会社の調査によると、「韓国の安全保障に最も危険な国」 は 「日本」 との回答が昨年の 7.6%から 37.1%に急増、1位となった。(参照

「歴史認識」 の問題が、いとも簡単に 「現在の脅威」 にシフトしてしまった。中韓ではきっと 「反日」 がトレンドなのだろう。

北朝鮮を軽く上回ってトップというのも 「おいおい」 と言いたくなるが、昨年のトップは米国だったというのも、かなりお笑い草である。ベトナム戦争で米国と軍事行動を共にした国とも思われない。

そういえば、日本でも 60年代から70年代にかけて、「日本にとって最も危険な国」 というアンケートをすると、「ソ連」 とほぼ匹敵するか、時には凌駕するほどの割合で 「米国」 という回答が上位を占めたものだ。

冷静に考えれば、安全保障条約を結んでいる相手国が、それほどまでに脅威になるというのは荒唐無稽な話なのだが、当時盛んだった左翼勢力にとって、「米国は日本にとって脅威である」 というのは、何はなくとも唱え続けなければならない命題だった。

彼らによると、「米国と安保条約を結んでいるからこそ、米国が戦争を始めたら、日本も巻き込まれる」 とか、「米国はソ連、中国を攻撃する前線基地とするために、まず日本を属国化する」 とかいう話だった。(まあ、ある意味、程度問題を抜きにすれば、それはその通りでもあるのだが)

憲法前文そのままに 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」 軍備放棄を支持しているはずの彼らが、一方では、そんなにも 「諸国民の公正と信義」 に信頼していないという自己矛盾は、私にはまったくしっくりこなかった。

要するに、実際はどうあれ、政治的な建前として唱え続けなければならないフィクションというのは、どこの国でもある話なのである。

日本の民衆の約 3分の 1も、なぜか米国を 「最も危険な国」 としながら、米国製のテレビドラマや音楽を、さんざん楽しんでいたのだった。日のあるうちは 「米帝打倒」 を唱えながら、日が沈んだら米国発のロックンロールを踊っていたのは、他ならぬ日本の団塊の世代だったのである。

アジアの平和に最も貢献するのは、政治的駆け引きよりも、日本のカウンター・カルチャーだと、私は密かに思っている。

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2005/04/18

赤に変わらない黄信号

中国の反日デモについて、ごく当たり前の反応をここに書いてもしょうがないが、あんな風に堂々と素顔を晒して投石をする上海のあんちゃんには、「あんた、志が低すぎるよ」 と言ってあげたい気がする。

「自分の安全は保証された乱暴狼藉」 を働くのは、単なる 「お調子者」 だ。

帰りのバスまで官憲によって用意されているような 「暴力的示威行動」 なんてのは、聞いたことがない。そんな場面で石を投げたところで、かっこ悪くてしかたないじゃないか。

領事館への投石なんていう違法行為を働く場合は、顔を隠すのが常識というモノだ。日本ではその昔、ある程度は官憲に 「泳がされていた」 とみられるフシのある全共闘だって、ヘルメットにタオルという正装で素顔を隠していたものである。

あれほど堂々と素顔を晒しているというのは、決して逮捕されないという保証があるからである。マッポとつるんで暴れるなんてのは、10年後に自慢のできる話じゃない。

あれでは、 「赤信号、皆で渡れば恐くない」 以下の所業である。何せ、「絶対に赤に変わらない黄信号」 なのだから。

あんなに 「官民グル」 がまともに印象づけられるようでは、演出が下手すぎる。頭の悪い演出家と、センスの悪い役者による、「最も安直な鬱憤晴らし」 に群がっているようでは、国の将来も思いやられる。

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2005/04/17

高田渡の訃報

16日夜、水戸方面から国道 6号線を南下中、ラジオで高田渡の訃報を聞いた。享年 56歳。

この人の評価を、私はまだきちんとできていない。「ごあいさつ」 は大好きなアルバムだし、「生活の柄」 は、今でも口ずさむ。しかし、どうもひっかかるところがある。

「ひっかかるところ」 というのは、彼の破滅志向である。一時、「渡は死んだ」 といわれるほど酒浸りが伝えられ、今世紀に入ってから、少しは持ち直して活動を再開していたようだが、言動に 「やっかみ」 が目立つようになった。

60年代に、一応 「反戦フォーク」 と言われ、70年代に入ってからはその程度のレベルではなくなって、「枯淡」 の味まで漂わせていた男が、どうして 21世紀になって、あんな風に世間に毒づく姿をさらさなければならなかったのか。

本来ならば、40歳を超えてからは世間を超越していなければならない男だった。残念である。

まあ、今日の記事はさっぱりわからんという人も多いかもしれない。それでも、彼の歌を聞く機会があれば、何らかのショックを覚えると思う。

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2005/04/16

世俗の高み~声優のキャラ

本宅サイトの 8万ヒットは、週末になるという私の予測を裏切って、金曜日の昼過ぎに達成された。踏んでくれたのは、博多発の世俗の高み、kumi 嬢であった。

BBSの 「80000」 というタイトルに 「踏んだかも・・」 という最上級シンプルのカキコに幻惑され、キリプレ和歌はまだできない。

ところで、「ドラえもん」 の声優が入れ替わったという話は聞いていたが、新しい声の放送を初めてみた。確かに 「全体的に甲高くなった」 という評判通りだった。

我が家の末娘は、当初は 「今度のドラえもんの声はむかつくよ」 なんて言っていたが、近頃は善き理解者で、暖かく見守っているようである。ふむふむ、なるほど、そのうちに板について、新しいドラえもん像が確立されるだろう。

思えば、大山のぶ代さんという声優は偉大な存在であった。(現役の人に対して過去形の表現、甚だ失礼なのは十分承知の上で、こう書かせていただいた)

「んもう、しょうがないなあ、のび太君」 なんて言いながらも、のび太のドジに対して決して必要以上の怒りは見せず、ある種、母親のような愛深さをもって接する 「ドラえもん像」 は、大山のぶ代さんなくしてはあり得なかったキャラなのだと、今にして初めて気付く。

今度のドラえもん (水田わさび) は、なんとなく 「ドラえもん度」 が薄いような気がするが、それは、偉大なる大山さんの直後ということで、仕方のないことだ。こぶ平の正蔵を、先代正蔵の林家彦六と比べても詮ないのと同じである。

今はまだ、ドラえもんを演じることで手一杯で、あの 「愛深さ」  は表現しきれていないが、そのうちに新しいイメージの 「愛」 が醸造されるだろう。それを期待しよう。

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2005/04/15

カントリーと村田英雄

ジョージ・ブッシュは、昨年 6月に娘と夫人からの誕生日プレゼントとして贈られた iPod を愛用しているらしい。(参照

ニューヨーク・タイムズによると、大統領のお気に入りは、カントリー・ミュージックで、他には黒人系や、ゲイ・ミュージックはおろか、ビートルズも 1曲もないという。

ローリング・ストーン誌のレビー副編集長は大統領の 「お気に入りアーティスト」 について、以下のようにコメントしている。

団塊の世代のためのロックンロールと、団塊の世代にむけて最近のナッシュビルが発信している音楽がほとんど。安全で信頼できて愛にあふれた、聴けば気分が良くなる音楽ばかり。たとえばセックスピストルズとは全くの別物だ。

(注: ナッシュビルとは、テネシー州都で、アメリカのカントリーミュージックの中心地)

なるほどね。とても単純明快な好みなのだ。日本で言えば、北島三郎~鳥羽一郎~氷川きよし~吉幾三~松山千春 のレンジを聞くオッサンと思えばいいだろう。基本的に演歌好きと共通する心理が感じられる。

そういえば、あのハマコーこと浜田幸一氏が、ディスクジョッキーをしたことがあるということをご存じだろうか?

確か、昭和 55年頃、国会議員を辞職して浪人されていた頃だ。ラジオの文化放送の昼頃の番組で、何度か放送されたことを記憶している。文化放送のスタジオでもちらっと拝見したことがある。

どんな曲をかけたかというと、それはもう、村田英雄のオンパレード。「王将」 「無法松の一生」 「柔道一代」 「花と竜」 「人生劇場」 等々 ・・・。村田英雄のヒット曲ばかりが延々と続くのである。しゃべりの部分も、その気で聞けば結構面白かった。

カントリーだの村田英雄だのと比べたら、私の iPod mini に入っている曲は、ずいぶん 「リベラル」 なものである。

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2005/04/14

入国審査でのちょっとしたウソ

アイスランドへの留学で、入国の際に研修会社の示唆の通り、入国目的を 「観光」 と答えたところ、ウソがばれて入国できなかったという人がいた。(参照

ビジネス目的のパッケージ・ツァーでも、添乗員は 「"観光" と答える方が、面倒がありません」 などと言うことが多い。

確かに、入国審査の際に "What's the purpose?" (目的は?) と聞かれて "On business." (お仕事よ) と答えると、どんな仕事かとか、いろいろ根掘り葉掘り聞かれることが多い。だから、添乗員は "Sightseeing." (観光よ) と答えることを勧めるのだろう。

ところが、私は自慢じゃないが、純粋な観光目的で海外旅行をしたことが一度もない。これまでの海外旅行は、すべて 「海外出張」 である。そして、すべてのケースで一応きちんと  "On business and some sightseeing." (お仕事と、観光も少しね) と答えてきた。

すると、向こうは必ず 「どんな仕事か?」 と訊ねてくる。こちらは、例えば次のように答える。

「あるトレードフェア  (業界向け展示会) を訪問する」
「どんなトレードフェアか?」
「○×○×というフェアである」
「それは、一体何か?」
「話せば長くなるが、要するに、×○×○関連のフェアである」

これで、ほぼ確実に OK である。これ以上、根掘り葉掘り聞かれることは、まずない。

「話せば長くなるが」 (Oh, it would be a long story, but...)  というのは、ある時、ふと口をついて出たのだが、思いのほか効き目があったようで、使いでがある。「俺はそっち方面のプロで、その気になれば何時間でもしゃべれるけど、要するに・・・」 という感じで、決してでたらめではないんだよと印象づけることができるようだ。

多分、入国審査で大切なのは、もっともらしさである。おどおどしたり、不自然に硬直したりすれば、怪しまれるに決まっている。

私は個人的には、仕事ならきちんと "On business" と答える方がいいと思っている。"Sightseeing" と答え、"Any other purposes?" (他に目的は?) なんてたたみかけられて、ドギマギするよりはずっといいし、まともに受け答えしさえすれば、そんなに時間がかかるものでもない。

それに、例えばアタッシュケースなんかぶら下げて "Sightseeing" なんて答えたら、かえって不信感を抱かれるだろう (私はアタッシュケースなんか持たないけれど)。

冒頭に紹介した青年の場合も、いかにもそうは見えない雰囲気で、「観光目的」 と答えてしまったのではあるまいか。

何でもかんでも 「観光」 と答えておけば面倒がないというのは、日本人の英語力をみくびった指導だろうと思う。

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2005/04/13

本宅サイト 8万ヒット目前

ふと気付くと、本宅 「知のヴァーリトゥード」 のアクセスカウンターが 79500 を超えていた。この分だと、週末には 8万ヒットを達成しそうである。

3万から 7万まで、5回連続でキリ番ゲットの申告がないのだが、キリプレ和歌は今回も実施の予定だ。今度こそ、きちんと和歌を捧げたいものである。

このサイトを始めた当初は、1日に 50人が 100回来てくれるサイトにしたいと思っていた。しかしそのレベルは昨年のうちに超えてしまい、今ではトップページへの 1日のユニーク・アクセス数が 100を超える日も珍しくない。

ココログへの直接アクセスも加えれば、今やサイト全体で 1日に400人以上が 800回以上アクセスしてくれるサイトになってしまった。そのうちの半分がいわゆる 「一見さん」 だが、常にそのうちの何人かが 「定連さん」 に加わってくれている。ありがたいことである。

ただ、一見さんが増えてしまったので、キリ番に気付かずに通り過ぎてしまうケースが増えてしまった。何人かの定連さんがキリプレを狙って、ちょっとした駆け引きを演じている間に、一見さんが無意識にかっさらったまま、通り過ぎてしまうのである。

不特定多数のアクセスがこれだけ増えてしまうと、キリプレということ自体が成立しにくくなるのではないかというコメントも、前回、7万ヒットの際にいただいた。

それはその通りかもしれない。しかし、今回はキリプレ和歌を継続してみたい。その次は、9万はすっ飛ばして、10万ヒットを記念して何かしてみたいと思う。今秋までには十分達成可能だと思う。

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2005/04/12

政教分離のグレーゾーン

民主党の仙谷由人政調会長が、6日の記者会見で、ヨハネ・パウロ二世の葬儀に日本の首脳が出席しないことについて、「少し (感覚が) ずれているのではないか」 と疑問を呈していたそうだ。

他の宗教行事に国費で出席したら、「政教分離に反する」 とか言うだろうに。

一時、日本のあちこちで、お役所が地鎮祭で玉串料を公費から出したことに対して 「政教分離に反する」 として訴訟を起こすのが流行ったことがある。しかし、今回の葬儀はそれどころの問題ではあるまい。

あれしきのことで訴訟を起こした人は、ジョージ・ブッシュが莫大な公費を使って (多分公費だったろう) ワシントンからローマまで飛び、葬儀に出席したことについても、米国で訴訟を起こせばいいだろうに。

超巨大教団とはいえ、国教というわけでもないカソリックの指導者の葬儀に、各国の政府首脳があれだけ駆けつけて頭を垂れているのは、政教分離の原則に著しく反していないとは言わせない。

訴訟を起こさないまでも、何らかのアピールぐらいすればいいのにと思う。それをしないで、日本国内の玉串料ぐらいでごちゃごちゃ言い、あまつさえ、仙谷発言に関しては何も言わない。

あの発言は、煎じ詰めれば 「政教分離の原則に、積極的に違反することをしないのは、感覚がずれている」 と言っているようなものなのにである。

これでは、ご都合主義と言われても仕方ないだろう。今回、小泉首相がバチカンに行くべきだったと主張した人が、同じ舌で靖国神社参拝問題で何を言っていたか、検証してみたい気もする。

要するに、「政教分離」 なんていうのは、とても曖昧な原則であって、杓子定規に運用するなんてことはできない代物なのである。とくに、世界中でメジャーになってしまえば、ゴチャゴチャ言う方が無粋ということになってしまうのだ。

これって、欧米に今でも隠然としてある白人至上主義にも通じる話になってしまうと思うのだが、今回はそれには触れないでおこう。

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2005/04/11

ネット右翼ということ

近頃 「ネット右翼」 という言葉がある。とくに、ブログなどにみられるナショナリズム的言辞を吐く人たちなのだそうだ。

私なんか、時々自衛隊とか改憲論とかに物わかりのいいことを書いたりしているから、下手すると 「ネット右翼」 の一員と思われているかもしれない。

私は、確かに自衛隊は嫌いではない。親戚にも友人にも、現役・元を含め、自衛隊員はうじゃうじゃいるが、皆いい人たちである。少なくとも、いわゆる左翼活動家よりは一緒に酒を飲んでも気持ちがいい。

それに、私は共和制論者ではなく、立憲君主主義者である。古歌に出てくる 「大君 (おおきみ)」 という呼称に、とても共感を覚える。

はたまた、朝日新聞嫌いである。あの社説や天声人語は、まともな感性で人間というものを理解している人の文章ではないと思っている。

だからといって、自分は右翼であるかといえば、「またまた、ご冗談を!」 と言いたくなってしまう。そんな単純ではないといううぬぼれぐらいは持っている。

「ネット右翼」 かどうかを判断するには、最近の中国の反日デモに対する反応をみるといいように思っている。

ヒステリックに反応して、かの国の連中を罵倒するのは、まあ、やはり 「ネット右翼」 の名に値するとみていいだろう。

一方、「また始まった、困ったもんだ」 程度のぼやきで済んでいる人までも 「ネット右翼」 と言うのは、ちょっと決めつけが単純すぎるというものだ。

私はもはや、中韓の 「反日」 に関しては、まともに反応しようという気も起こらない。疲れるから。

だが、少なくとも、国の指導者までがああした動きを利用したり尻馬に乗ろうとしたりする限りは、決していい結果にならないとだけは言っておきたい。「反日」 の旗印で騒ぐエネルギーは、ある日、いとも簡単に 「反政府」 にも転換しうるということは知っておかなければならない。

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2005/04/10

なぜハモらない?

何かの集まりの二次会などでカラオケに繰り出すと、分厚い電話帳みたいな曲集に、「デュエット曲」 というジャンルがある。

私は 「デュエット」 というからには二重唱でハモるものとばかり思っていたが、どうも違う。単に男女二人が代わり番こに歌うのを、「デュエット」 というようなのだ。

どんなのがあるかというと、「銀座の恋の物語」 「別れても好きな人」 「3年目の浮気」 などが定番のようだ。どれも、男女が並んで、一節か二節ずつ交代で歌い、最後の締めの部分だけユニゾンになるという、おままごとみたいなパターンが多く、ハモるなんて設定は滅多にない。

私は若い頃からアメリカ発の音楽で育ったものだから、2人以上で歌ったらハモって当たり前、たまにユニゾンで歌うことはあっても、それは途中から分厚いハーモニーに移行する変化を際立たせるための演出という感覚が強い。だから、ハモりがないとものすごく無駄をしているような気がする。

とにかく、日本人は案外ハーモニーに無頓着である。テレビを見ていると、今をときめくジャニーズ系の男の子たちの歌は、徹頭徹尾、ソロとユニゾンの固まりである。うっすらとコーラスがついているように聞こえる部分もあるが、それはそのグループの子たちの声ではない。単に外から付けた 「効果音」 である。

あの SMAP にしてからが、一つの曲の中で、交代でソロをとり、ユニゾンで締めるというパターンは、いわゆる 「デュエット曲」 と何ら変わらない。あれだけ頭数が揃っているのに、単純な三度違いのハーモニーすらつかないというのは、なんだか損している気がする。

だから、私は SMAP がテレビで歌うのを見ると、正直なところイライラする。「後ろでフラフラ踊ってる暇があったら、少しはハモれよ!」 と言いたくなってしまうのだ。

あるいは、ごく特殊な分野として 「交代でソロとって、最後にユニゾンで締める」 というジャンルがあってもいいのかもしれないが、私は 「ハーモニー」 というとてつもなく気持ちのいい要素を放棄するのは、もったいないような気がしてならないのである。

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2005/04/09

私は仏教徒

申し訳ないことにうっかり忘れていたが、昨日 4月 8日は、花まつり、つまりお釈迦様の誕生日なのであった。

私はこれでも一応、曹洞宗の坊主の孫でもあるし、人に 「お前の宗教は何か?」 と問われたら、迷うことなく 「仏教徒である」 と答える。

ところが、仏教の世界もいろいろ大変なようなのである。先頃死去したローマ教皇ヨハネ・パウロ 2世は、カソリック、キリスト教以外の世界的な宗教の融和を目指されたが、日本の国内では、仏教内部でいろいろな軋轢がある。

こうした問題は何も今に始まったことではなく、昔からのことだったらしく、明治 34年に村上専精という仏教学者が、『仏教統一論』 (大綱論) という書物を著して、仏教哲理のインテグレーションを模索したらしい。何しろ、この人は東京帝国大学において、アカデミックな仏教論というのを日本で最初に確立した人だから、言うことが論理的だ。

どうすればインテグレーションが図られるかというと、難しいことは抜きにしてごく単純に言うと、お釈迦様の説いた原始仏教の段階にまで立ち返り、原点回帰すべきだとの主張だったのではないかと、私は解釈している。

それで、この先生は 「大乗非仏説論」 ということを説かれた。つまり、日本に普及している 「大乗仏教」 は、釈迦が直接説いた教えではなく、後からいろいろな創作によってまとめられたものだというのである。

こうなると、「仏教学者」 と 「仏教者」 の立場の違いみたいなものも出てきて、既存仏教界は 「確かに大乗仏教はお釈迦様が直接説かれたものではないにしろ、その根本精神をまとめると、こうなるのだ」 という言い方をするしかないわけだ。結局、統一なんか果たせずに、火に油を注いだだけかもしれない。

まあ、私としては仏教学者でもなければ、仏教でメシを食っている坊主でもないから、そんなことはどうでもよく、ただ釈迦の教えといわれるものは、現代の視点から見てもなかなか素敵だなあと、単純に思っているわけである。

これだけ素敵だったら、釈迦の直接の教えであろうと、後でくっつけられたものであろうと、そんなことはどうでもいいじゃないか。ただ、基本をつくったのはお釈迦様だから、やっぱりエライのだ。

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2005/04/08

「問題な」 日本語

日曜日あたりから、当サイトの "「なおざり」 と 「おざなり」" というページへのアクセスがやたら多くて、一体どうしたのかと思っていたのだが、原因がわかった。

ベストセラー 『問題な日本語』 という本の広告で、「おざなり/なおざり」 というのがフィーチャーされているのである。

『問題な日本語』 広告

上の写真は、昨日山手線の電車の中で見かけたその本の広告である。広告のしょっぱなに、「おざなり/なおざり」 が何となく目立った感じで出ているので、インターネットで検索して、私のサイトに行き当たったのだろう。

このページは、普段から毎日 50~60件ぐらいのアクセスはあるのだが、この広告のおかげか、今週の日曜日から、161件、151件、81件、84件、98件と、5日連続でかなりな件数のアクセスなのだ。

この本は、大修館書店の 『明鏡国語辞典』 の編者が編集したものらしい。この辞書は、私も贔屓にしている辞書である。

さっそく、帰りに書店によって買ってみた。気軽に読めそうである。面白いのは、言葉の誤用を戒めるという趣旨ではなく、その誤用がどんなふうにして生まれたかまで解説しているところだ。

この本を買うまでは、「問題な」 という用法自体が、私にはかなり 「問題」 なのではないかと思われた。「問題だ」 という表現は、「形容動詞」 としてはまだ定着していない。「問題」 という名詞に 「だ」 がついた表現だ。それならば、連体形みたいな形で 「問題な」 というのは、それこそ 「問題」 だろう。

「迷惑な」 という用法はあっても 「困惑な」 という用法はないのと同じである。「問題の」 という言い方ならあるのだが。

このことについては、この本の 「まえがき」 でちゃんと触れてあった。

表題とした 「問題な」 も味な使い方だと思うが、問題のある表現である。本書が、「問題の日本語」 について疑問を持ち考えるときの一助になれば幸いである。

ということなのだそうだ。

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2005/04/07

ヨハネ・パウロ 2世の死去

ローマ教皇ヨハネ・パウロ 2世の葬儀に、世界主要国の首脳が出席するか、あるいは出席を検討するかしているのだが、日本の場合は、その検討にすら至らない。

それもそのはず、日本はキリスト教徒のとても少ない国なのである。だから、今回のニュースにも案外無関心だ。

例えば、"Pope" というたった 4文字の英単語の意味を知っている日本人は、案外少ない。"The Pope" といえば、ローマ教皇のことで、欧米の新聞ではよく 1面に登場するのだが、日本ではほとんど目につかない。

第一に、"The Pope" の訳語にしてからが問題だ。日本のカソリック司教団は、1981年 2月のヨハネ・パウロ 2世の来日を機会に、その日本語呼称を 「ローマ教皇」 に統一することにして、マスコミにもこの呼称を使うように呼びかけているのだが、なかなか実現しないらしい。

日本人の感性では、「教皇」 は歴史用語で、「法王」 が時事用語となるようだ。歴史用語と時事用語はあっても、日常の暮らしの中の身近な言葉としての機能は、決定的に欠如している。つまり、暮らしの中で意識されてないのだ。

何故に、日本ではこんなにまでキリスト教が根付かなかったのだろう。社会主義を標榜する国を除いた主要先進国の中では、キリスト教信者の割合が日本は極端に少ない。一説には 1%にも満たないと言われる。

思うに、キリスト教はあまりに 「信仰」 を要求するからではなかろうか。日本人は、「信心」 は好きだが 「信仰」 はあまり好きではない。何でもかんでもありがたがって拝むことには、ほとんど抵抗がないが、系統だった 「教義」 を生活の中で誠実に実践するという意味での 「信仰」 は、あまり得意ではないように思われる。

その上、キリスト教は 「先祖供養」 ということをあまり重視していない。ところが、日本人の暮らしの中では、「先祖供養」 のない宗教は、「信心」 の対象になりにくいのである。

仏教は今や 「葬式仏教」 などと揶揄されるほどに、実際生活の場では力を失いつつあるが、それでも隠然たる力を持つのは、「あの世」 のマネジメントをほぼ一手に引き受けているからである。キリスト教には、この方面の機能が欠けている。

とはいいながら、私は今回のヨハネ・パウロ 2世の死去には、ちょっとした感慨がある。この教皇は、「とても話のわかるいい人」 という印象があるのだ。他宗教との融和に、これほど積極的だった教皇は、これまでいなかったのではなかろうか。

折しも、先月末に東京で開催された 「IAHR 2005 東京大会」 (第19回国際宗教学宗教史会議世界大会) では、「宗教 ― 相克と平和」 という総合テーマが採用された。世界宗教界の 21世紀モデルは、"Pluralism" (多元的共存) であると言われる。ヨハネ・パウロ 2世は、それを率先垂範されたように思うのだ。

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2005/04/06

二十四節気のお勉強

昨日 4月 5日は、暦の上で 「清明」 という日だったそうだ。これは 「二十四節気」 の一つで、立春、啓蟄、春分の次に来るもの。その次は穀雨となる。

「暦便覧」 によれば、「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれる也」 という日だったのだそうである。

「此芽は何の草としれる也」 なんていうのは、かなり趣のある言い方で、昨日の陽気などはまさにそんな感じだったので、感心してしまった。旧暦大好きな私も、この 「二十四節気」 というものには疎かったので、これを機会にちょっと勉強してみた。

二十四節気を全て上げると、以下のようになる。

季節 名称 読み 時期
立春 りっしゅん 2/4 頃
  雨水 うすい 2/19 頃
  啓蟄 けいちつ 3/6 頃
  春分 しゅんぶん 3/21 頃
  清明 せいめい 4/5 頃
  穀雨 こくう 4/20 頃
立夏
りっか 5/6 頃
  小満 しょうまん 5/21 頃
  芒種 ぼうしゅ 6/6 頃
  夏至 げし 6/21 頃
  小暑 しょうしょ 7/7 頃
  大暑 たいしょ 7/23 頃
立秋
りっしゅう 8/8 頃
  処暑 しょしょ 8/23 頃
  白露 はくろ 9/8 頃
  秋分 しゅうぶん 9/23 頃
  寒露 かんろ 10/8 頃
  霜降 そうこう 10/23 頃
立冬 りっとう 11/7 頃
  小雪 しょうせつ 11/22 頃
  大雪 たいせつ 12/7 頃
  冬至 とうじ 12/22 頃
  小寒 しょうかん 1/5 頃
  大寒 だいかん 1/20 頃

春夏秋冬にそれぞれ 6つずつの節気が配せられていて、お馴染みの 春分、夏至、秋分、冬至 の4つは、二十四節気からの呼び名だったわけで、これらは 「二至二分」 と称せられるらしい。このほかに、立春、立夏、立秋、立冬 の 4つを入れて、「八節」 という。それぞれの八節の間に、結構文学的表現の節気が二つずつ入る。

旧暦の日付というのは、新暦に当てはめると一カ月前後ずれることが多い。それなのに、二十四節気というのは、新暦で大体定まっていて、1日ぐらいのずれしか生じない。

これはどうしてかというと、太陰暦を基にした旧暦の中でも、二十四節気は季節にきちんと合わせるために、太陽暦に沿って決められていたらしい。確かに、 「二至二分」 は太陽暦に沿わなければ決定できない要素だ。それで、旧暦は正確には 「太陰太陽暦」 と分類されるわけだ。

これにより、3年に 1度ぐらいの割で生じる 「閏月 (うるうづき)」 (旧暦では、1年が 13か月という年があった) というのを、一年のうちのどこにはさむべきかが決められた。つまり、二十四節気の狂わないところに入れられたわけだ。昔の人というのは、暦を計算するのにかなり高度な論理を使っていたことがわかる。

このおかげで、旧暦というのは日本の季節感をとてもよく表すことのできる暦として練り上げられたわけだ。

ちなみに、「立春」 の日などには、テレビのニュースでよく 「暦の上ではもう春ですが・・・」 などと言うが、これは誤解を生みやすい言い方だ。「立春」 というのは、「春になった」 というよりは、「冬の寒さがピークに達し、これ以上寒くはならないので、春に向かうしかない」 という意味合いのようだ。

だから、「春への道しるべが立った」 ぐらいのニュアンスとみた方がいい。8月 8日頃の 「立秋」 というのも、同じように考えればいいだろう。「立夏」 「立冬」 は、論理の都合で行きがかり上みたいに設定されたらしく、ちょっと微妙だが。

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2005/04/05

野球ファンと巨人ファン

1日夜の 「巨人−広島」 戦の視聴率は巨人戦開幕試合のナイターとしては過去最低だったらしい(参照)。

日本テレビ担当者は、「ファンは巨人がリードしていないと見てくれない」 と嘆いている。ふ~ん。しかし、これって野球ファン心理をついているかもしれない。

野球ファンの中には、長年にわたり、巨人以外のある特定の球団に入れあげているコアな人種がいる。その球団の成績がどんなに落ち込もうと、格別取り乱すこともなく、きちんと心中立てする人というのは、なかなか立派なもので、ある意味、人間としても信頼できる気がする。

一方、巨人ファンとなると、すべてとは言わないが、かなりわがままである。勝ちさえすれば単純に機嫌が良く、負けるととたんに不機嫌になる。それは、私の目には 「野球ファン」 というよりは、単に 「勝ち馬」 に乗っているだけのように映る。

巨人ファンだけでなく、いわゆるフツーの野球ファンというのは、案外無節操に  「勝ち馬に乗る」 ことを好むように見える。他のスポーツの多くが 「地元」 とか 「ご当地」 とかいう意識に支えられているのとは、ちょっと様相を異にしている。

一昨年、阪神が優勝したときには、普段はタイガースをケチョンケチョンにしていた関東人の中に、いかにも長年の阪神ファンのような顔をして浮かれるものが出現したし、昨年の中日優勝の時も、10年以上も落合を支え続けてきたような顔をしたのが何人も出てきた。

ヤクルトの場合は、最近まで 3~4年に一度優勝するサイクルを続けていたので、それに合わせて 「オレは東京在住だから、内心ではヤクルトを応援してきた」 なんて、にわかにフランチャイズ意識の謳歌が目立ったりする。

プロ野球というのは、どうもいびつな構造になっており、圧倒的に 「勝ち馬志向」 の強いファン心理に支えられている。それだけに、最も 「勝ち馬」 になる機会の多かった巨人が、人気を集めるのも、無理もないところだろう。案外、実社会での欲求不満のはけ口として、「勝利幻想」 に酔えるというのが重要ポイントなのかもしれない。

だから、巨人ファンの多くは、巨人の負け続けるのを目前にすると、「巨人ファンであり続けること」 の意味がなくなり、アイデンティティの危機に陥る。それで、とりあえず不機嫌になってみせるという 「甘えの構造」 を現出する。

スポーツファンというのは、勝とうが負けようが贔屓し続けるというのが、案外一般的である。その点、巨人ファンというのは、ちょっと特殊である。そして、その特殊さは、野球ファン全体にある特殊さを、凝縮しているものとも言える。

昨今の状態は、巨人一極集中型から地元意識を前面に出した形態に、ようやく移行しつつあるものとみていいだろう。だから、巨人戦の視聴率が下がったといっても、野球全体が地盤沈下しているわけではない。むしろ、野球界全体にとってはいい傾向だと思う。

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2005/04/04

「差出人が自分?」 のスパム

最近、あろうことか、自分からのスパム・メールが届く。差出人のアドレスは、紛うことなく "tak-shonai" のものである。

どうにも気分が悪いので、ネットで調べると、「送信元が自分のメルアド (もちろん詐称) になっている出会い系のスパム」 が増えているらしい。(参照

送られてくるメールの内容は、出会い系サイトの紹介とか、「あなたに 1万円当たりました」 とかいう馬鹿馬鹿しいもので、すべて URL をクリックさせて、あるウェブサイトにアクセスさせようというものだ。その URL は、以下のように記述されている。

 http://awg.qsv20.com/?**** (**** は、4ケタの数字)

これをクリックしたらどうなるのかは、私も知らない。クリックしてみる気もない。しかし、Google で調べたところでは、「プロポーズ大作戦」 とかいう名前のサイトのようだ。私は知らないが、同じ名前のテレビ番組があったらしい。とことん怪しい。

だいいち、差出人が自分のメルアドになっているなどという、いかにも怪しげなメールに何の疑いももたないヤツがいるはずがない。それでもなおかつ、発送元に受取人のメルアドが入るように設定してあるのだから、多分、表示の URL をクリックした時点で、そのメルアドが相手に通知されてしまうという仕掛けなのだろうと想像する。

とはいえ、最初は発信元として私のメルアドが表示されたスパムが、多くの人に届いているのかもしれないと思い、かなり不愉快な気分になったが、そういうわけではないらしいとわかり、妙な話ながら、一安心した。要するに、受取人のメルアドが、自動的に差出人のメルアドとして表示されるというシステムのようなのだ。

それならば、とりあえずは届いたメールに表示された URL をクリックしなければいいというだけの話だ。

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2005/04/03

偏差値と IQ

受験シーズンも終わってしまったが、偏差値という言葉の意味を、私はきちんと認識していないことに気付いた。

高校時代、模擬試験とやらを受けさせられ、意味不明の数字が返ってきたが、全然気にもしなかった。一度きりのテストで頭の中身をどうこう言われたくない。

その時の私の 「偏差値」 というのは、かなり低い数値だった。そりゃそうだ。「偏差値」 というのは、基本的にテストの点数をもとに操作してはじき出した数字である。私は高校時代の 2年 8か月を遊んで暮らしたから、テストでいい点なんか取ったことがない。

しかし、さすがに大学受験が迫ってきたので、最後の 4か月はそれなりに勉強した。勉強というのは、してみると、面白いほどに頭に入る。「なんだ、ここんとこがわかれば、あの時、満点取れたのだな」 ってなものである。

それで最終的にはかなり点数が上がったのだが、母校に残されている (かもしれない) 私の 「偏差値」 のデータは、低いままのものでしかない。卒業後 2~3年は、受験指導における 「極端に例外的なケース」 として、無視されていたと聞いた。

要するに、こんな程度の偏差値では入れっこない大学に、軽い気持ちでいくつも合格しちゃったので (自慢たらしくて恐縮)、普通の受験指導には邪魔なデータになってしまったらしい。

もう一つわからないものに IQ というのがある。中学校時代に IQ テストというのを受けさせられて、自分の結果を知りたい生徒は、担任の教師に聞きに行くと教えてもらえた。それで、同級生は、自分は 110 だの、あいつは 115 らしいだのと、密かに噂している。

私も自分の IQ とやらがどの程度なのか知りたくなって、教員室に聞きに行ったのだが、なぜか教えてもらえなかった。担任の教師は 「あんなべらぼうな数字を教えたら、天狗になってしまうから、当人のためにならない」 と言っていたらしい。

おいおい、そんな曖昧なことを言ったら、私のことだから極端に高い数字を妄想して、天狗以上のものになってしまうぞ。実際には、IQ の 「相場」 みたいなものを知らないので、妄想のしようもなかったが。

というわけで、私は自分の IQ を知らない。そもそも、IQ というのは年齢と共に変化するらしいから、今ではすっかり 「ただの人」 になっているような気もするので、改めてトライしようという気にもならない。

だから、私は自分のまともな偏差値と IQ というものをまったく把握しないうちに、こんな年になってしまったのである。要するに、そういうことにあんまり興味がないみたいなのだ。

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2005/04/02

毎日がエイプリルフール

読売新聞大阪本社が、大阪国税局の税務調査を受け、2004年 3月期までの 3年間で計約 8880万円の法人所得の申告漏れを指摘されていたという。(参照

販売店関係者の研修旅行費や会議後の会食費、慶弔費などの処理の問題のようで、販売重視の読売らしい話だ。

こうしたケースの 「研修旅行」 の実体は 「慰安旅行」、「会議後の会食」 は 「宴会」 と、相場が決まっている。「販促費」 というよりは 「交際費」 と解釈されても仕方のないところだろう。それにしても、読売新聞は販売店にずいぶんお金を使っているのだなあと感心してしまう。

実は、我が家にも近頃読売新聞が入っている。私は昔から朝日と読売は嫌いなので、どうにも不愉快なのだが、いつの間にか毎朝夕に届けられるようになった。そのからくりは、販売員のノルマ達成のために、無料で購読しているという扱いにされているらしい。

先日も妻が外出しているときに、読売の販売員が来て 「また、いつものようにお願いします」 などという。「いつものようになんて、知らないよ」 と、すげなくすると、「それじゃ、奥様のおいでの時にまた来ます」 なんてなことを言って引き下がって行った。

それで、いつの間にか、「いつものように」 ということになってしまったらしいのである。この点に関しては、私はやや不愉快なのである。

以前、別の新聞を購読している時に、その新聞の契約更新を装って、印鑑を押させられたことがあった。翌月から契約した覚えのない読売が届けられ始めたので、「詐欺罪で訴えるぞ」 と、販売店に電話したら、「それじゃあ、キャンセルしときます」 というだけで、一言の詫びもなかった。

そもそも、それは 「キャンセル」 ではなく、「契約無効手続き」 だろうが。それに比べれば、納得ずくでの 「無料贈呈」 はまだマシかもしれないが。

読売新聞は、「ギネスブックが保証する世界最大 1000万部超」 を自称しているが、そのうちの一定の部分が、我が家のような 「無料贈呈」 になっているのだろう。かなりアンフェアな話である。きちんと金を出している人は、ご愁傷様だ。全国の読売購読者は、一度試しに 「ウチも無料で入れてよ」 と交渉してみてはどうだろう。

読売ジャイアンツの後楽園ドームでの観客数は、長年判で押したように 「5万 5千人」 だったが、今シーズンから 「実数」 での発表に切り替えたとたん、「4万 3684人」 ということになった。

これまでは、「毎日 (いや、読売が?) がエイプリルフール」 みたいなものだったのね。読売新聞の購読者数も、こんな感じなのだろうか。

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2005/04/01

日米政府間の密約を暴く

私は都内にオフィスを持たないので、モバイル PC が手放せず、PHS カードを使って頻繁にメールチェックをする。

最近、虎ノ門近くの某ビルの地下の喫茶店でメールチェックすると決まって混信が生じ、妙なメールが紛れ込むことが多いのに気付いた。すべて英文メールである。

初めのうちはウィルスかスパムメールと思い、全然読まずに削除していた。しかしどうもウィルスではないし、スパムメールでもない。 後でわかったのだが、そのビルの地下は、どういう関係か自動的に何かの無線 LAN にはいってしまうようなのだ。

かなり気になりだしたので、先月あたりから混信メールが入る度にちゃんと読んでみると、なんと、日米両政府間の機密のやりとりらしいのである。冷や汗をかく思いがした。

そういえばそのビルは、首相官邸と米国大使館を直線で結んだちょうど真ん中あたりにある。この間のセキュリティは、いったいどうなってるのだ?

ほとんどは大したことのない挨拶程度のメールなのだが、先月の 20日頃からのやりとりの中に、とんでもない機密事項を発見してしまったのである。ここで暴露してしまうことにはかなりのリスクを感じるのだが、非常に重要なことなので、思い切って書いてしまおう。

機密事項というのは、どうやら米国からの強い圧力で、来年度は 4月 1日から 9月 30日までの半年で切り上げてしまい、10月 1日から次の平成 19年度に入ることが、政府部内で極秘裏に内定してしまったようなのだ。年度を半分に短縮することで、財政赤字縮小を図るらしい。

収入は可能な限り先取りしてしまい、支出は半年分だけで抑えて、剰余金は次年度にまわすという方針のようだ。

確かに、赤字縮小には有効かもしれないが、突然やられては、社会の枠組みが激変してしまう。米国はどうしてそんな内政干渉的な圧力をかけたのだろう。その疑問が解けたのは、昨日のことだが、米国側から発信された次のようなメールを見てしまったからである。 (以下翻訳:庄内拓明)

今回の貴政府の決定を歓迎する。従来、貴国の官公庁・公的団体等の首脳が年度当初に発する声明を、我が国の政府関係者はまったくシリアスに受け止めることがなかった。そのために、必要なアクションを取りそびれてしまうことも、度々だった。

しかし、この度の決定により、会計年度初日が 10月 1日になることで、貴国の首脳がどんなに見当外れでトンチンカンな声明を発表しようとも、我が国政府関係者がそれをエイプリル・フールのジョークと誤解することが避けられるため、適切かつ迅速な対応を行うことが可能になるはずだ。

今回の我々からの希望に沿った貴国のアクションが、副次的効果として財政赤字縮小に一役買うようであれば、望外の喜びである。貴国でうまくいくようならば、我が国としてもそれに見習って前倒しを行い、2007年度あたりから、4月 1日を年度初日とすることを検討したい。

そうすれば、重要な場面で 「あれは、エイプリル・フール・ジョークだったのさ」 という言い訳を多用できるので、我々としても期待は大きい。

なるほど、そういうことだったのか。

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(4月 2日 追記)

今さら申すまでもないことですが、これはエイプリルフール・ジョークとして書かれたものです。

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