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2005年9月に作成された投稿

2005/09/30

性差と家庭

"「男らしさ」 「女らしさ」 にも、もっと多様性があっていい" ・・・ うぅむ、何だか素敵に感じてしまったじゃないか。

昨日の一撃、「性差と個人差」 に、そういったトーンのコメントを寄せていただいた。気持ちは本当によくわかる。しかし、本当に多様化してしまったら、「らしさ」 の意味がなくなる。

「○○らしさ」 というのは、ある一定の傾向を表すのだから、そこに多様性を求めてしまったら、元の言葉自体を裏切ってしまって、矛盾に陥る。多様じゃないから 「らしさ」 なのである。

鈴木清順監督の 「けんかえれじぃ」 に、高橋英樹が校長室だったかに呼び出されると、そこに大きな額が飾ってあり、仰々しく 「羅志久」 と大書してあるという場面がある (漢字はこれでよかったかなあ、間違ってたらごめんなさい)。

その学校の理想とするところは、「男は男らしく、女は女らしく」 ということなのだそうだ。そのあまりの権威的なステロタイプの滑稽さに、観客は笑ってしまうところなのである。そう、笑ってしまえばいいのである。そんなもの。

しかし、世の中にはやはり、笑い事ではない男女の区別というものがあるのである。私は今年 6月始めに "花田家の 「ねじ曲がり」" というコラムで、以下のように述べている。

誤解を恐れずに言ってしまうが、「変な家族」 のほとんどは、大人しく忍耐強い旦那と、我の強い仕切りたがりのかみさんの間に、妙に真面目な息子がいるというケースである。

本当に本当に、誤解を恐れずに重ねて言ってしまうが、世の中の家庭というものは、やっぱり、旦那の方がほんのちょっとだけえらそうにしている方が、あるいは (本当のところは)、させてもらっている方が、安泰のようなのである。

夫婦という単位で考えれば、それはどっちが主導権握ろうが、全然構わない。しかし、そこに子どもという存在が加わる 「家庭」 という視点では、かみさんが強すぎるとろくなことがない。

これは経験知で知ったことである。横暴な亭主というのは、それはそれで困ったことだが、まだコトは単純だ。第三者の力で、その横暴な亭主をぶっ飛ばして、ぎゃふんと言わせればいいだけである。

しかし、かみさんが仕切りたがりで、亭主が尻に敷かれっぱなしの家というのは、なかなか手に負えない。仕切りたがりのかみさんは、なかなか降参しないし、その分、子どもにかかるストレスは大変なものである。気の毒なのは、「妙に生真面目な息子」 である。

私は、妙に権威的な 「男らしさ」 とか 「女らしさ」 とかを押しつけようという気は毛頭ない。毛頭ないけれども、結果が物語る場合は、その結果は雄弁である。

聖書に、イエスが 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」 (ルカ 6:43) と言われたとあるのは、とても示唆的である。

健康オタクというジョークがある。例の 「健康のためなら、命も惜しくない」 というやつだ。私は 「性差解消のためなら、家庭の幸せも惜しくない」 とは、とても言えないというだけのことである。

まあ、性差解消にこだわりたいなら、家庭を持たないという選択もあるということだが、私は 「持つな」 と言っているわけでもない。何度も言うけれども、このことで押しつけをしようという気は毛頭ない。

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2005/09/29

性差と個人差

私は 「○○らしくない○○」 というのが案外好きだ。「先生らしくない先生」 とか、「営業マンらしくない営業マン」 なんて、OK である。

で、「いわゆる男っぽくない男」 とか、「いわゆる女っぽくない女」 というのも、OK だが、かといって、ジェンダーフリー論者というわけでもなく、「性差」 に関しては肯定的である。

最近、性差に関して積極的に肯定すると、「性差別主義者」 のレッテルを貼られることがある。しかし、性差というものを認めないなんて乱暴な言い方は、私にはとてもできない。それは 「あって当たり前」 というものである。

こんな言い方をすると、必ず反論される。その反論の代表が、「性差よりも個人差の方が大きい」 ということである。しかし、このレトリックはかなりヒステリックなものであることを指摘しなければならない。私はこうしたモノの言い方には、ちょっといらいらしてしまう。

「性差よりも個人差の方が大きい」 なんて、言うまでもなく当たり前ではないか。「傾向値」 で語られる 「性差」 と 「個別の話」 である 「個人差」 は、そもそも直接比較する意味のないものである。

「英国人一般とフランス人一般の違いより、個人差の方が大きい」 と言ったら、そりゃ、当たり前である。しかし、それを言ったら、民族性とか国民性とかいった議論は成立しなくなる。性差とか民族性とかいう議論は、個人差の方が大きいという言わずもがなのテーゼとは、別のレベルのお話なのである。

「個人差」 は大きくて当たり前である。だから、いわゆる男っぽさでは普通の男より上を行く女がいたところで、それは別に大したことではない。逆もまた真なりである。

こうした言い方をすると、私が 「いわゆる男らしさ」 とか 「いわゆる女らしさ」 とかを無批判に受け入れているという批判が生じるかもしれない。しかし、いいではないか。長い歴史の中で、そうした既成観念ができているのは動かしがたい事実として認めてもいいだろう。

しかし、「男たるもの、『いわゆる男らしさ』 を身に付けなければならない」 ということになると、話は別である。「いわゆる男らしさ」 のない男がいても、一向に構わない。「いわゆる女らしさ」 を、私は女性に強く求めたりはしない。どうでもいいことである。

そして、「男らしさに固執する男」 や 「女らしさにこだわる女」 がいても、また、それはそれで一向に構わないことである。価値の多様さにこだわるあまり、こちらの方を否定してしまっては、それは本来の 「多様性」 のコンセプトを裏切ることになる。

このあたりが、いわゆる 「ジェンダーフリー論者」 の陥りやすい罠である。

要は、人間として、性差を超えて魅力的ならばいいのである。性差やジェンダーの問題と、人間的魅力とは、また別のレベルのお話である。直接関わりのないことをごっちゃにして語るから、話がややこしくなるのである。

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2005/09/28

杉村太蔵先生は、政界のいじられキャラ?

テレビのニュース見ながらお茶飲んでたのに、吹いちまった。例の、杉村太蔵議員の 「反省記者会見」 の模様である。

当初の型破り (のように聞こえた) 発言を伝え聞いて、一時はなかなかアドリブの利くトリックスターが国会に登場かと期待してしまったが、実は単なる 「天然モノ」 だったのね。

一昨日だったか、ちょっと誤解して興味を持ってしまって、彼のブログに行ってみたのだが、期待に反して全然つまらないのである。というか、「はぁ?」 って感じなのである。「こりゃ、変に期待した私が馬鹿だった」 としか言いようがなかったのである。

なんでつまらなくて、「はぁ?」 なのかは、あまりくどくど説明しない。行ってみれば誰でもわかることだが、ちょっとだけ。

(8月 29日のログより引用  -  一部、フォントを変更)
小学校、中学校、高校と水泳の授業があった。学校にあるプールで行われる授業である。しかし水泳の授業の究極のテーマは、見ずに放り出されたときに最低限自分の身を守ると言うことだろう。ただ、プールで泳ぐとき、海で泳ぐとき、川で泳ぐときで泳法がそれぞれ違っている。

・・・???  あぁ、「水に放り出されたときに」 の変換ミスね。いいのよ。よくあることだからね。(「放り出された」 では物騒だから、「水に落ちたときに」 でいいような気もするけど)

とにかく、「最低限自分の身を守る」 ための教育問題を論じるのかと思ったら、突然、プールと海と川の泳法の違いという、ものすごくニッチな問題を掘り下げそうな気配をうかがわせる。しかし、気配だけみせて、そうはならない。

(途中をちょっと省略して、引用の続き)
例えば東京でも、江戸川の周辺にある小学校では、高学年の生徒は江戸川で水泳の授業をする、そのくらいに水のきれいな環境に戻すというのが、1つ明確なヴィジョンではないだろうか。

「究極のテーマ」 の各論である 「泳法の違い」 から、再び突然の飛躍を見せて、「1つ明確なヴィジョン」 の環境問題に話が飛ぶ。こりゃ、「芸風」 ではなく、はたまた 「思いつき」 ですらなく、単なる 「苦し紛れ」 というレベルだな。

これでは、トリックスター的な国会レポートなんてことは、到底できそうにないなぁ。江戸川ではなく、大阪の道頓堀川を引き合いに出してくれていたら、時節柄、「こいつ、なかなかやるな」 と思うところだったのに。

せいぜい政界始まって以来の 「いじられキャラ」 として珍しがられるだろうが、こんなことでは、それもすぐに飽きられるだろう。

こうなったら、しぶとく 「いじられ芸」 を磨いて欲しかったりもするが、杉村先生にそれができるかなあ。

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2005/09/27

「わかった気にさせる」 ということ

人にものを説明するというのは、とても難しい。自分で理解することと、他人にわからせることは、かなり違う脳の働きが必要だ。

さらに、「本当にわからせる」 よりも 「わかった気にさせる」 ことの方が、世間では重宝されたりする。だから、わかったつもりでも、実際にはさっぱりわからないことも多い。

ものごとを他人に説明するとき、初めから細部にわたって説明過多になると、エラそうに見えるか、逆に自信なさそうに見えるか、あるいは煙に巻いてごまかそうとしているように見えるかの三つに一つで、いずれにしても逆効果になりやすい。

例えば道案内をするときに、丁寧に教えようとするあまり、必要以上の情報をくどくど言うよりも、「駅から三つ目の信号を左に曲がると、ケーキ屋さんがあるんで、その辺でもう一度電話ください」 なんていう方が、ずっと効果的だったりする。

初めから全てをわからせようとするよりも、まずは、取っかかりだけでもなんとなくわかったような気にさせて、ある意味での信頼感を持ってもらうことの方がずっと重要なのだ。

この点で、まったくダメダメなのが、パソコン・ソフトに添付される純正マニュアルである。「わかってない相手にイチから説明する」 のだということを、全然わかっていない。わかってるヤツが、わかってるヤツに確認を取っているだけである。

だから、市販の 「少しはわかりやすい」 マニュアル本が売れる。市販のものは、機能の全てにわたって正確に解説しているわけではないが、要するに、取っかかりがわかりやすければいいのである。

先頃の選挙で民主党が惨敗したのも、このような構造である。「IQ の高いヤツ?」 なんて相手にしたのが、そもそもの間違いのもとなのである。

道案内をするときに、

駅前にジャスコがありまして、
その先 50メートルほどの小沢工務店のところの
一つめの信号を通り過ぎてもう 50メートルほど行くと、
二つ目の信号のあたりに、
鳩山デンタルクリニックがありますから、
そこを曲がらずに、もう一つ先の、
角の右側に管デザインオフィスのある信号を左に曲がると、
20メートルほど先に、
パーラー・マエハラという名前のケーキ屋さんがありますから、
ここであきらめないでくださいね。
その手前の小路を左に入って、次を右に ・・・

ってな具合に、くどくど言い過ぎたようなものである。

前述の如く、小泉さんは、これらをすべてひっくるめて、「駅から三つ目の信号を左に曲がると、ケーキ屋さんがあるんで、その辺でもう一度電話ください」 と言ったのである。この方が、とりあえず行ってみようという気になる。

ただ、これだと、その気になって駅まで行ってみたはいいものの、「さて、どっち口から出たらいいんだ?」 なんて迷ってしまったりする。出口がいくつもあるなんて、想定外だったりして。

結局は、話の発端のところでウロウロさせて、その上、よく考えてみれば、最終目的地も明確に示されていないというのが、いわゆるひとつの小泉流なのだが、それでも選挙で大勝利してしまうのである。

9月 12日付の当コラムで、"今や政治の世界では、「どう言うか」 という要素が、「何を言うか」 よりも、ずっと重要な時代になった" と書いたのは、こうした意味を含んでいる。

要するに、本当は肝心なところがさっぱりわからなくても、「あとでもう一度電話すればいいかな」 程度に、わかった気にさせるというテクニックの方が、世の中ではずっと力を持つということだ。

これは、「いい、悪い」 の問題ではなく、世の中の傾向というものである。いずれにしても、「とことんわかる」 なんてことは至難の業だし、仮にわかったところで、常に現実の変化に裏切られる。

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2005/09/26

スロッシングのメタファー

ざつがく・どっと・こむ」 で、「スロッシング」 という言葉を初めて知った。英語のスペルは "sloshing"。英和辞書では、"slosh" は 「(水などを〉 盛んにはねかす」 と出てきた。

他のサイトでは、「液面揺動」 などと訳されている (参照)。地震の際に、給水タンクや石油タンクが破壊されたりするらしい。

「ざつがく・どっと・こむ」 では、

コーヒーカップを、何気なく運んでいるとどうってことないのに、気をつけてゆっくり運ぼうとしたときに限ってこぼしてしまう。揺れをしずめようと手の動きをあわせると余計に波立ったりもして。

と書かれている。これがすなわち 「スロッシング」 そのものである。誰でも経験していることだろう。本当に身体的な感覚として、よくわかる。

以前、自宅で風呂に入っているときに地震があった。震度 4 ぐらいの、茨城県南西部ではしょっちゅうあるレベルの地震で、最初のズーンという突き上げで震度の見極めもついたので、別段あわてもせず、そのまま浴槽に浸かっていた。

ところが、くせ者はスロッシングである。ほんの 10数秒の揺れだったが、浴槽の中の揺れはいつまでも収まらない。非日常的なまでの単調さで、延々と "とっぷんとっぷん" が続き、私は乗り物酔いのような状態になって、這々の体で脱出した。

この 「単調な揺れ」 が、容器の中の液体の揺れ周期とぴったり重なると、かなりヤバイ。悪くすると、地震の揺れで石油貯蔵タンクが損傷し、火災になったりする。

コーヒーカップの持ち運びに戻るが、何気なく運ぶ方が、こぼさずに済むというのは、多分、自然な動きの中に 「自然の揺らぎ」 があるおかげで、単調な揺れによる大きなスロッシングが発生しないで済むのだろう。

逆に、意識して運ぶと動きがなまじ規則的になる分、大きなスロッシングが発生する。そんな時、カップの中のコーヒーが今にも縁から飛び出しそうになったら、下手に手の動きで調節しようとすれば、かえってあふれ出してしまうというのは、何度も失敗した経験で知ったことである。

多分、目で見た感覚と、そこから得た判断を手に伝えようとする運動神経の微妙なズレによるのではないかと思うが、かえって火に油を注ぐような結果になるのだ。

そういう場合は、とにかく、「ゆっくりと立ち止まる」 のが一番だ。カップの中に伝わる振動の源になる動きを止めさえすればいいのである。

考えてみると、世の中には気付かないうちに習慣化した 「単調なオペレーション」 のおかげで、「縁からあふれ出してしまいそうになった危機的状態」 というのがいくらでもある。

オペレーション自体を止めずに危険を回避するために、人間はいろいろな手を打つのだが、下手な考え休むに似たりである。たいていの場合は、ただ、止まりさえすればいいのだ。

目先の利益にとらわれて、あくせくしてはならないというメタファーである。

[追記]

"Slosh" の訳語としてあげた 「はねかす」 は、Bookshelf Basic 所蔵の、研究社の新英和中辞典 第 6版より。同じく Bookshelf Basic に入っている三省堂の新明解国語辞典 第 5版によると、「はねかす (跳ねかす)」 は、東京方言ということになっている。

もう少し適切な訳語を思いつかなかったのかなあと、かなり気になった。

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2005/09/25

ブログの文体と読者層

この 「今日の一撃」 というコラムは、ココログのブログ機能を使い始めて、既に 1年以上経ったのだが、20日のコラムにも書いたように、コメントとトラックバックが、なぜかとても少ないという特徴みたいなものがある。

コメントは、本宅の BBS に付くこともあるが、トラックバックとなると、本当に少ない。

ウチのブログは、平均 200件/日以上のユニークアクセスがある。そりゃあ、いわゆるメジャーなブログには及ぶべくもないとしても、決して少ない数字ではないと思っているのだが、コメントとトラバは、極端に少ない。

コメント率とトラバ率は、 適当に作った造語で、20日には、

コメント率 : コメント件数/アクセス件数
トラバ率: トラバ件数/アクセス件数

と書いてしまったが、よく考えてみると、

コメント率 : コメント件数/アクセス件数×記事本数
トラバ率: トラバ件数/アクセス件数×記事本数

とするべきかも知れない。このコラムは毎日更新だけに、どちらもかなりの低率になってしまう。多分、日本のワースト・ブログの一つだ。

これには、文体ということが関係しているかもしれないと思いついた。「絵文録ことのは」 の 「ネット文体について」 という記事で、ブログ文体の分類が紹介されているので、以下、その要旨をまとめて紹介する。

  • テキスト系ブログ: 斬鉄剣、侍魂、ろじぱらあたりで確立されたテキストサイトの文体を、ブログで受け継いだもの。真鍋かをりのブログが代表例。

    改行を駆使して「間」を取ったり、最近のテレビのバラエティで字幕も駆使して強調するように、フォントいじりをしてみたりと、ラジオやテレビでの 「しゃべり」 を文字で再現したような文体。主張の内容云々よりも 「笑いを取る」 「ウケる」 ことが第一目的であることが多い。

  • コラム系ブログ: 淡々とした文体で、ネタや主張やデータの詳しさなどで勝負する文体。「笑える」 とは違う 「興味深さ」 という意味での 「おもしろさ」 を工夫することになる。

というわけで、私の文体は、大雑把に言って 「コラム系ブログ」 に属することになるのだろうと、思い当たったわけである。

さらにまた、私の文体はそもそもが 「ブログ」 ということすら、あまり意識していない。元々は本宅サイト内で、日々の警句的な形で始めたものが、だんだんと長くなってコラムの形になったものだ。"Today's Crack" の "crack" というのは、「ぴしゃりとした鋭い警句」 という意味もある。

昨年の夏から、毎日更新するにはブログを使う方が面倒がないということで、便宜的にココログを利用しているだけなので、発端からして 「ブログ」 というものをあまり意識していない。他のブログに積極的にトラバしてアクセスアップしようなんていう発想もないし。

コラムとして完結するようにしているので、読者の反応とか、それに対してどうするとかいったことは、あまり想定していない。それだけに、あるいは、とりつく島がないコラムになってしまうこともあるだろうと思う。

コメント率、トラバ率の低いもう一つの理由は、読者層の問題である。アクセス解析の結果から想像するに、私のサイトは、サラリーマンが会社について PC を立ち上げ、メールのチェックをするついでにちょっと寄ってみるという傾向があるようなのだ。

朝の 9時、10時台、そして昼休みの時間帯のアクセスが非常に多い。そして、休日になると、アクセスが平日の八掛けぐらいに落ちる。多くは会社からのアクセスなので、ゆっくりコメントを付けるわけにも行かないのだろう。

いずれにしても、近頃は 1日に 200人を優に超える読者が来てくれているという事実を重く受け止めている。淡々と酒を飲んで、悪酔いしないうちにさっさと帰る常連客の多いスタンドバーみたいなものである。

これは、考えてみると素晴らしい客種 (キャクダネ) である。感謝のうちに毎日更新を継続していこう。

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2005/09/24

K-1 GP 観戦記

K-1 ヘビー級の試合は、世界で一番つまらない格闘技になってしまいつつあるのかもしれない。昨夜のテレビで夜 9時から観戦したが、最後のボブ・サップ対チェ・ホンマンなんて、ブーイングする気も起きなかった。

PRIDE があれだけ進化し、K-1 ミドル級だって見応えあるのに、困ったモンだ。

多分、主催者の考えが、プロレス流の悪しきプロモーション・システムの影響下にあるのがダメなのかもしれない。ボブ・サップだの曙だの、話題性ばかりで技術のない選手を使って、大衆人気をとろうなんてしたのが間違いのモトだった。

ボブ・サップはウルトラマンじゃあるまいし、3分動けば息が上がってゼイゼイしだすし、こないだまで K-1 にしがみついていた曙にいたっては、リングに上がって第 1ラウンドのゴングが鳴る前に大汗かいてスタミナを消耗してしまっている。

まともに考えたら、あれではお金は取れない。

相撲というのは、体の小さな力士でも大きな曙にぶつかってきてくれるという、とても不合理なお約束があるから、跳ね返してやりさえすれば勝てたのである。捕まえるまでに足許がフラフラしてしまうようなシステムでは、勝手が違いすぎる。

その意味でも、曙がさっさと 「お約束」 の世界のプロレスに転向したのは正解である。しかし、ボブ・サップが 「お約束」 の世界でうまくやっていけるとも思われないし、今のままで使い潰しになるしかないのだろう。

しかし、同じ使い潰しでも、今回のチェ・ホンマン戦のような試合がメイン・イベント的な扱いになるようなやり方をしていたら、K-1 ヘビー級の将来は暗い。

1ラウンドの中盤あたりから、お互いに息が上がって体が動かなくなり、ベタ足で見合ってばかりいるような試合を、高い金を払って見せられる有料入場者の身にもなってみろというのである。

あれでは、レフリーも大変な気苦労だったろう。いくらファイトを促しても動かないし、だからといって減点の罰則を与えても、両方からどんどん減点してしまうほかないので、有効なペナルティにならず、しらけるばかりになる。

一部では、チェ・ホンマンが今後の K-1 ヘビー級の期待の星みたいなことをいう論調もあったが、あれでは、とてもじゃないが、ジャイアント馬場にもなれない。

ジェローム・レ・バンナ、ピーター・アーツなどのベテランはさすがだったが、アレクセイ・イグナショフは、まだ病み上がりだし、鳴り物入りだったマイティ・モーだって、あのサモアン・フックの間合いさえ外せばいいというのがバレてしまっている。

日本期待の武蔵は、相変わらず踏み込みの足りないパンチとキックを当てては逃げるという、全然リスクを取らないスタイルで、ホームタウン・ディシジョンで判定勝ちするというスタイルから一歩も抜け出ていない。

今回の収穫はセーム・シュルトの成長だけで、あとは 「なーんだ」 という感じの K-1 グランプリであった。

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2005/09/23

パソコンは基本的にアメリカ人

一昨日、「PC というやつは基本的にアメリカ人なので・・・」 と書いた (参照) が、フォントの扱いでも、それはしみじみ感じられる。

文字を使って画像を表現するとき (例えば当サイトのトップページのリンクボタンなど)、英文字は苦もなくきれいに決まるが、日本語はなかなか厄介なのである。

当サイトのトップページでは、サイト内リンクのために合計 9個のボタンを配置しているが、できたての頃のボタンは、ものすごく不細工だった。日本語の表示が、どうにもきれいに決まらなかったのである。

3年半ほど経過するうちに、時間を見てはボタンの日本語フォントをいじり、少しはきれいに見えるようになってきた。よく見ていただくとわかるのだが、ボタンの日本語文字は、一つ一つ、フォントサイズを変えているのである。さらに、文字間隔もすべて一つずつ調整してある。

例えば、左上の "「今日の一撃」 全目次" というボタンでは、「今」 という文字のフォントは、「日」 よりずっと大きくしてある。そうしないと、バランスが全然取れないのだ。そのほかの文字も、とくにカギ括弧などは、一文字ごとに微調整してある。

このあたり、先月に書いた 「ヘンリー・フォードと畳」 の話を思い出した。畳も日本語フォントも、すべてその場その場の手作りで行くしかないという点では、見事に同じである。

先日、印刷のプロと話していてわかったのだが、マックの DTP でパンフレットなどを作成する場合も、タイトルやキャッチコピーなどの重要な部分は、一文字単位で慎重にアジャストしているという。そうしないと、まったく不細工になってしまうらしい。

彼が言うには、「日本語のフォントは、とくに横書きに弱いんですよ。サイズのバランス、文字間隔が、全然ヘタ。その点、英文字は楽ですね。ほとんどアジャストしなくても、一応はきれいに見えますから」 ということだそうだ。

なるほど、その通りである。ウチのトップページでも、"Images of Life" というボタンなんか、まったく調整を加えなくてもきれいに見えている。日本語の扱いの難しさとは雲泥の差である。

そういえば、本宅サイト一番上のサイト・ロゴにしても、日本語フォントは一文字ずつフォントと文字間隔を調整しているが、その下の英文字はアジャストなしである。

日本語フォントの扱いがどんなに大変か、実際に画像で示してみよう。

右の図は、「HGP教科書体」 というフォントを使って作成したものだ。上はドロップシャドウを薄く入れただけで、他には何の調整も加えていない。

最初の 「調」 の字は、画数が多いので、表示のかすれて見える部分がある。さらに、全体に文字間隔が妙にばらばらになってしまっているのがわかるだろう。「を」 の後や、カギ括弧の後は、間抜けなほど空きすぎている。

下は、それに調整を加えたものだ。一文字単位でフォントサイズと文字間隔をいじり、少しは自然な感覚に仕上げている。日本語フォントの場合、こうして手取り足取りしてあげないと、PC という機械は、まともな表示ができないのだ。

こうしたことを考えると、日本語を使う我々は、PC を使った仕事の生産性という点で、欧米にかなりのハンディを負っているのだとわかる。なにしろ、キーボードでの入力でも、ローマ字入力なんていう非効率なシステムが一般的だ。

かな入力ならいいかというとそうではない。一番上の段の数字や記号を入力するのに、いちいちモードを変えなければならないので、かえって手間がかかる。

「日本人のための PC」 は、もっときちんと開発されなければならない。

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2005/09/22

調味料バトン

ブログ 「庄内弁の日々」 のいどさんから、「調味料バトン」 を渡された。

いどさんのブログは、かなりオススメなのだが、庄内弁のわからない人には、難解を極めると思う (私はスラスラ読めるけどね)。漢字が手がかりになるはずなので、興味のある方は、トライしてみていただきたい。

食い物ネタはベタベタの自己満足になりやすいから、書くときには注意が必要だ。その点、いどさんは、さすがセンスがよくて、ちゃんと最後まで読ませてくれる (ああ、庄内弁のわからない人が気の毒)。

で、私もベタベタにならないように気を付けて答えてみよう。

Q1.次のメニューにどんな調味料をかけますか?(薬味は含みません。)

  • 目玉焼き: 醤油と、ラジオから流れる朝のニュース − なんて、最初はちょっと意表を突いて洒落てみる (近頃、バトンずれしてしまったかな?)

  • 納豆: 醤油。最近は捨てるのがもったいないので、添付の 「タレ」 を使うことも増えたけど、本来は、あれ、余計なお世話 (と、素に戻る)。

  • 冷奴: ほんのちょっとの醤油。おかかもいらない。

  • 餃子: 醤油+酢+ラー油たっぷり (餃子の王道)。

  • カレーライス: とりたてて何にもいらない。ただ、旅先の田舎のどうでもいい食堂で、甘口過ぎるお子様カレーが出されたりした場合は、思いっきりだぼだぼソース (瓶の 3分の 1以上) すると、かなり食べられるようになる (というか、信じられないだろうけど、時には 「絶品」 になったりする)。

  • ナポリタン: ナポリタン単品では、この10数年食べたことない。安物の幕の内弁当のすみっこにある、ちまちまっとしたナポリタンに、そのとなりのアジフライにかけたはずの醤油が飛んじまった (あのビニールの袋がくせもの) 状態で食べることが多いかな。

  • ピザ: そのまま。タバスコなし。辛いのは好きだけど、タバスコの 「酸っぱ辛さ」 は、ちょっと違う気がしてるので。

  • 生キャベツ: 醤油。文句ある?

  • トマト: そのまま。何も付け加える必要なし。

  • サラダ: 妻特製の和風ドレッシング。外食の場合も、そのお店の和風ドレッシング。要するに、ベースは醤油。

  • カキフライ: これも醤油。

  • メンチカツ: もちろん醤油。

  • コロッケ: ひたすら醤油。

  • 天ぷら: 何はともあれ醤油。ただし、そば屋の場合は、蕎麦つゆ。天ぷら専門店の場合は、敬意を表して、そのお店の天つゆ。これも和風ドレッシングと同じで、要するにベースは醤油。

  • とんかつ: 申し訳ないけど、醤油。とんかつ専門店の場合のみ、敬意を表して、そのお店の特製ソース。

  • ご飯(おかず無しの時): 生卵かけご飯じゃだめ? これもおかずになっちゃう?
    昔の日本映画で、昼飯のご飯に醤油かけてかっこむ場面があったけど、こればっかりは、塩か味噌のおむすびになってしまうかなあ。

Q2.周囲に意外だと驚かれる、好きな組み合わせはありますか?

  • 番茶に、だぼだぼ醤油 (梅干しも入れて)。これ、風邪を引いたときにいいみたい。

  • 大根おろしの絞り汁に生醤油を混ぜただけの蕎麦つゆ。湯島の 「古式蕎麦」 というお店でやっているスタイル。初めはビックリするけど、これがクセになるほどイケル。

  • 「ヨシギュー」 をしばくとき、牛丼 (最近は豚丼か) と味噌汁の上に、七味どばどば (表面が真っ赤になるくらい)。ツユの甘ったるさを、ごまかすため。

Q3.それが一般的なのだとは知っているが、苦手な組み合わせはありますか?

  • コーヒーと砂糖。口の中でべとつく感じがして。

  • 蕎麦つゆも、できれば砂糖を使わないでもらいたい。山形県西川町の 「一松」 の蕎麦つゆは、その点で、最高。(もちろん、蕎麦もいい)

  • お酒とフェロモン (「フェロモンって調味料だったけ?」 なんて、言いっこなし)。お酒の席に、なまじフェロモンむんむんのおねえさんがいると、水を差される。ただし、酸いも甘いもかみ分けた風情のおねえさんなら OK。

Q4.バトンをまわしたい5名は誰ですか?

  • いつもの通り、その辺に転がしておくので、拾いたい方はご自由に拾ってくださいということで。

解答の舞台裏 ・・・ はあはあ、食い物ネタのバトンにまともに答えるのって、本当にむずかしかった。設問が即物的なだけ、ちょっとひねりを加えないと、ちっともおもしろくならない。以前、「ファーストフードバトン」 に答えたときは、ひねり具合がまずかったと、反省。

このバトンを拾うときは、心して拾った方がいいとだけ、最後に書いておこう。

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2005/09/21

Windows の慇懃無礼

酔っぱらって帰宅して、PC を立ち上げようとすると、10回に 6-7回は手元が狂って、ログイン・パスワードをタイプし損なう。すると PC は、「パスワードを忘れてしまいましたか」 なんて、慇懃無礼なことを聞いてくるのである。

お生憎様。毎日入力してるパスワードを忘れるほど、私はボケちゃいないよ。

というわけで、いつもは夜中のうちに更新するのだが、今日は夜が明けてからになってしまった。ログインでむかついているうちに、ぱったりと寝てしまったのである。

とにかく PC というやつは基本的にアメリカ人なので、日本人の常識的な口のきき方を知らない。とくに、Windows という OS は、米国の中でも白人社会特有の慇懃無礼さを遺憾なく発揮している。

マイクロソフト本社のある米国ワシントン州の人種構成は、白人が 80%以上を占めている。人種のるつぼのような米国社会の中では、かなり特異な地域だ。

以前、マイクロソフトを特集した英国のニュース番組で、この会社の社員がバーベキュー・パーティみたいなものをしている映像をみたことがある。異様なほど白人ばかりだった。

なるほど、ああいう企業風土だからこそ、あのうっとうしい MS-DOS にしろ、Windows にしろ、それを日本語環境に直訳的に移植してしまうと、平均的日本人ユーザーを時々むっとさせてしまうわけだな。

Windows で、もうひとつむかついてしまうのは、慇懃無礼の延長線上にあることなのだが、数々の 「小さな親切、大きなお世話」 的な機能と設定だ。

新しい PC を買ってまず最初にやることは、「フォルダ オプション」 の中の 「登録されている拡張子は表示しない」 のチェックを外すことである。そもそも、「拡張子」 なんていう風習を自分で作っておいて、自分で表示しないのをデフォルトにするとは、何事か。

「普通のユーザーは、拡張子なんて、煩わしいだろうから」 なんて思っているのだろうが、同じ名前の gif, jpg の画像ファイルが並んで表示されているのを見てみるがいい。拡張子を表示しなかったら、どっちがどっちか、悩んでしまうじゃないか。

最初のログイン・パスワードの問題に戻ろう。タイプミスをすると最初から 「パスワードを忘れてしまいましたか」 なんて表示されるのは、"[?] をクリックするとパスワードのヒントが表示される" という機能を、スムーズに見せるためだと思うが、それこそが、酔っぱらった私をむっとさせるのである。

最初はさりげなく 「パスワードが違います」 ぐらいの表示をして、3回目ぐらいから初めて 「忘れてしまいましたか」 にしろと、言いがかりをつけたくもなるではないか。5回間違ったら、「本人じゃないなら、とっとと失せろ!」 にしてもいいから。

自分のアイデンティティを守るためには、Windows を使っていて時々むっとする感覚を、きちんと大事にしようなんて、二日酔いの頭で考えているのである。

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2005/09/20

「引用」 のマナーとセンス

Rtmr さんが 「引用」 について極めてまともな正論を論じておられる。(参照

この関連で、昨日当コラムで論じた 「ぶっ飛びお天気キャスター」 のお話をきっかけに、こう言ってはなんだけど、ブログの世界の引用に関するマナーとセンスの悪さを、しみじみと感じてしまったのである。

昨日の記事は珍しく、半日経たないうちに 3件もトラックバックされた。ウチのブログは、平均 200件/日以上のアクセスがあるのに、コメントとトラバは、極端に少ない。コメント率 (コメント件数/アクセス件数)、トラバ率 (トラバ件数/アクセス件数) で言ったら、多分、日本のワースト・ブログの一つである。

で、珍しくトラバがサクサクっとついたので、この話題に関するブログ記事がどのくらいあるのか知りたくなり、Technorati Japan で 「スコット・スティーブンス」 のキーワードで調べたら、昨日昼前の時点で 95件ヒットした。まあ、こんなものだろう。

ところが、それらをざっと眺めてみると、単に Sankei Web の記事をコピペしただけというログが結構あるのだ。そのほとんどは、元記事へのリンクを張ってあるので、まったくのパクリとは言えないが、中には、引用元すら明記していないブログもある。

一番多いのは、記事の全文コピペの最後に、チョコチョコっと感想じみたコメントを添えたものである。そういうのって、「個人ニュースサイト」 というらしいが、そのコメントにしても、「とりたてて言うほどのことか?」 という程度のものが多い。

前述の Rtmr さんのページに、引用する際の 「公正な慣行」 として、いくつかの条件が明記されているが、そのうちのひとつに、"質的にも量的にも、引用先が「主」、引用部分が「従」という関係にあること" という一文がある。

記事の丸写しの後に、ありきたりな短い感想を述べるというスタイルでは、質的にも量的にも完全に、「引用部分が主」 ということになってしまう。引用をせずに、リンク先の URL のみを記して、鋭い一言を添えるというスタイルならば、OK だが。

ただ、記事の全文をコピペしたくなる気持ちもわからないではない。リンク先の記事は、大抵の場合、一定期間を過ぎると削除されてしまい、リンク切れになるからだ。

しかし、「個人ニュースサイト」 だからといって、コピペし放題の免罪符になるわけではない。どうしても全文コピペしたかったら、引用した記事以上の分量と質的内容のコメントを付けなければ、マナーとセンスの両面から、コトは済まないだろう。

マナーを別としても、小学生の絵日記の 「きょうは、おとうさんとおかあさんと、おとうとのヒロシと、かいすいよくに行きました。とってもたのしかったです」 と大差ない構造になってしまう。

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2005/09/19

ぶっ飛んだお天気キャスター

森田正光さんなんて全然お呼びじゃないほど、ぶっ飛んだお天気キャスターがアメリカにいるようだ。その名は、スコット・スティーブンス。見た目は、アイダホの田舎町をドサ廻りしていそうな、二流のプロレスラー。

このお兄さん、「カトリーナはヤクザの仕業」 と発言して、注目を集めている。(参照

Sankei Web は以下のように報じている。

アイダホ州のテレビ局KPVIのキャスター、スコット・スティーブンス氏は、カトリーナについて、「雲の形状から自然に発生したものではない」 と断定。先物取引でボロもうけしたヤクザが、ハリケーンや台風を人工的につくり出すため一九七六年に開発されたロシア製機器を購入、米国による原爆投下への報復措置 として発生させた−と話した。

とまあ、こういうことで、なかなかファンタスティックなお天気キャスターさんである。"Weather Wars" と名付けられたこの人のサイトをみると、そのファンタスティックさは想像以上なのである。

例えば "Katrina" に関しては、ブッシュ大統領が被害地を視察して、「メキシコ湾岸はまるで、想像できる最悪の兵器によって破壊されたかのようだ」 と発言したのを受けて、それはまさに 「兵器」 であったのだと断言している。

そのほかにも、アイダホ地方の雲の様子を撮影した画像に、「EM光線を探査する飛行機が何機も見える」 とか (どうみても、飛行機なんて見えないんだが)、「大気量と重力波、そして人の手で作られた雲の幾何学模様」 なんて、かなりシュールな解説を付けている。

このお兄さんが、カトリーナは兵器によるものとラジオで発言して、全米の注目を浴びてしまったのだが、日本の産経新聞も、便乗的にちょっと注目してしまって、電話インタビューしちゃったらしい。このあたり、朝日じゃ絶対にやらないことで、産経の面目躍如だ。

そのインタビューでスコットは、「多くの国や組織が、超音波を利用してハリケーンや台風を人工的につくる最新機器を隠し持っていると確信している。『カトリーナ』 の場合、日本のヤクザが起こした可能性が最も高い」 と、大真面目に話したというのである。

彼のウェブサイトの "Katrina" のページには、"yakuza" の 「ヤ」 の字もないのに、日本の新聞社の取材だというので、急に 「ヤクザの仕業」 にしてしまうあたり、かなりサービス精神旺盛で、アドリブも利く人間のようだ。決してお馬鹿じゃない。

このようなお天気キャスターが、ローカル局とはいえ活躍できるというのは、よく言えば米国の間口の広さであり、悪く言えば、米国中西部のオッサンたちの 「民度」 の問題である。

ちなみに、lecca-lecca さんからのトラックバックのおかげで、この Weather Wars の日本語翻訳サイトまで見つかった。本日午前 10時現在は、"Katrina" に関する記事は、まだ翻訳されていないようだ。

よほど退屈な時は、覗いてみて、妄想をたくましくするのもいいかもしれない。

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2005/09/18

年寄りの生き死に

「昭和37、38年ごろ、ふらっと外出したまま帰って来なかった」 というばあさんが、戸籍の上だけで年齢を重ねて、110歳になっていた (参照) とは、ちょっとなんだかなあ。

「そうか、その手があったか!」 と膝を打った人もいるんじゃなかろうか。死んだことにしなければ、年金は、ずっともらい放題だ。

それは冗談として、マジな話、これって常識で考えれば、かなり 「ヤバイ」 匂いがしてしまう。ニュースでは、区役所の 「ずさんな調査」 ばかりがやり玉に上がっているが、そんなことより、東京オリンピックよりも前に、当のばあさんがどうなっちゃったのかが問題だろう。

荒川区の昭和 30年代といったら、下町の人情がまだまだ健在だった頃だ。「ふらっと出かける」 ぐらい足の達者なばあさんの姿が見えなくなったら、近所で不審がられない方がおかしい。

それでも 40年以上もばれなかったなんていうのは、やはりちょっと変だ。もう生きてはいないと考えるのが自然だろうが、それらしき死体も出ていないとなれば、どこかに計画的な意図があったと疑っても、あながち悪意ともいえないだろう。

とにかく、役所がズサンだったという前に、年寄りの生き死になんて、隠そうと思えば隠せる世の中だというのが、ちょっと寒い。

世の中には寝たきり老人というのがいて、私の田舎の母もその一人なのだが、彼女は日当たりのいい部屋で、一日中ニコニコしたり、ウトウトしたりして、父に声をかけてもらっている。

頭はかなりぼけてしまったが、来客があればいつも顔を合わせてもらう。調子のいいときなら、それが誰かぐらいはわかっているようで、うれしそうな表情をする。その顔を見ると、こちらもうれしいのである。

ところが、世の一般の寝たきり老人は、「隠しておかれる」 傾向が強いと聞く。日の当たらない部屋で、食事と下の世話以外は放っておかれることが多いらしい。不憫なものである。

このような状態で、近所でもいるのかいないのか、はっきりとは知られていない老人の消息を、ある時突然 「数年前にふらりと出て行ったまま」 なんて、とぼけられたら、役所としては手の下しようがないではないか。そんな例が増えないとも限らない。

こんな風潮が続いたら、団塊の世代が 70代後半になる頃には、生きてるんだか死んでるんだかわからない年寄りばかりになってしまうぞ。

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2005/09/17

小泉さんの英語

小泉さん、とんぼ返りでニューヨークに行き、国連で英語で演説をした。総選挙での圧勝直後だけに、前回よりはずっと堂々としていたが、英語の発音の悪さは相変わらず。

この人の略歴では (参照)、1967年から 2年間、ロンドン大学に留学したことになっているが、まともに勉強したのかなあ。

この人の英国留学に関しては、以前、妙な噂が流れたことがあり、それについては、2チャンネルあたりに任せておきたいが、いずれにしても、ロンドンでは日本人同士でつるんで遊んでばかりいたのではないかと疑わせるに十分な英語力である。

私がテレビのニュースで聞いたのは演説のほんの一部分だけで、それは、"Reform is always a challenge.  In the reformed coucil, Japan is ready to play a larger role as a permanent member." と言っていたのだと思う。

日本のニュースでは、「わが国は改革された安保理で常任理事国としてより大きな役割を果たす用意がある」 (Yomiuri Online より)と演説したと報道されているから、私の聞き取りは、多分間違っていないと思う。

"Reform is always a challenge" と言った時のしょっぱなの "Reform" が、きちんとした "R" の発音になっていたので、「お、少しは上達したかな」 と思ったが、その後の "larger role" (より大きな役割) の "larger" まで  "rarger" になっていた。

やっぱり、この人、ロンドンに 2年もいたのに、"L" と "R" の発音の区別がつかないようだ。それに、"is" の後に常に余計な "a" がついて聞こえるのも、とても気になる癖だ。"Reform is always a challenge." が、"Reform is a always a challenge." に聞こえる。

今回はそこまで聞くことができなかったが、前回は "shi" がすべて "si" になってしまうのも気になった。

昨日の昼のラジオで、「インプレッション・コントロール (印象操作) の点で、民主党の岡田さんが外国人記者クラブで演説したとき、日本語で演説したのとは大きな違いだ」 と、小泉さんを誉める解説者がいたが、実際のところは、どっちもどっちではなかろうか。

小泉さんが外国人記者クラブで英語で演説したとしても、質疑応答まで英語でこなすのは到底無理だと思う。岡田さんも、英語ができないわけではないだろうが、それでも日本語で演説したのは、その辺まで考えた、この人の 「律儀さ」 故のことだろう。

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2005/09/16

詰め込めば、頭がよくなる?

頭の良さって、一体何なんだろう? 昔は 「読み・書き・算盤」 と言われたが、これは、理解力・表現力・計算力ということだろうか。

確かに、この三つの力があると、「頭のいい人」 と言われる場合が多い。しかし、そのベースには 「記憶力」 がある。「物覚え」 というのは、かなり重要なことのようだ。

9月 15日付 asahi.com では、「勉強したら脳細胞増える」 とのタイトルで、次のように伝えている。

勉強すると脳細胞が増える仕組みの一端を、東大の久恒辰博・助教授 (脳科学) と大学院生の戸塚祐介さんが実験で突き止めた。何かを覚える時に出ると知られている脳波の一種 「シータ波」 が脳の中の海馬という部分に伝わると、将来脳神経細胞に育つ前駆細胞が刺激され、最終的に脳細胞が増えることがわかった。(中略)

実験では、マウスの脳を切り取った切片に電極を刺し、シータ波と同じような刺激を人工的に与えた。すると、海馬にある前駆細胞が興奮し、この興奮が引き金になって前駆細胞が脳神経細胞に育つことがわかった。

成人の脳の神経細胞はいったん失われると再生できないといわれていたが、98年にスウェーデンの科学者が成人の脳でも海馬で神経細胞が新しく生まれると発表し、注目された。今回の研究で、新しく生まれるきっかけを作るのはシータ波であることが示された。

このニュースの中でも触れられているが、「シータ波」 というのは、「何かを覚える時に出る」 ということのようだ。このシータ波が、海馬に伝わって脳神経細胞に育つ前駆細胞が刺激されるという。

この 「何かを覚える」 ということは、「勉強」 の基本的な要素であり、 「読み・書き・算盤」 のベースになると考えていいだろう。何しろ、文字を覚えなければ読むことすらできず、九九を覚えなければ、計算もむずかしい。

A, B, C という勉強をすれば、A, B, C という直截的な知識のみが獲得されるというわけではない。むしろそれによって、脳のキャパシティ自体が増大することの方が、より大きなメリットと考えてもいいだろう。

「こんなこと勉強して、何の役に立つの?」 と、子どもに聞かれたら、とりあえずは、「お前の能力そのものがアップするんだよ」 と答えればいい。「RPGで、ワンランク上に行くようなものさ」 と言えば、今どきの子にはわかりやすいかも知れない。

いずれにしても、 「一を聞いて十を知る」 といった 「理解力」 のアップは、「覚えること」 と、かなり直接的にリンクするような気がする。

問題は、「覚える」 ことと 「考え、表現する」 ことは、少々別のようだということだ。記憶力のいい人が皆、頭がいいわけではない。「覚える」 ことで活性化された脳も、きちんと 「考え、表現する」 ことができなければ、大して役に立たない。

「詰め込み学習」 は、確かに脳のキャパシティを増やす。しかしこれは、ベーシックな要素である。もう一歩進んで、きちんとした思考力、表現力が高められなければ、「こんなこと勉強して、何の役に立つの?」 という子どもの疑問も、確かにもっともなことになる。

「ゆとり教育」 への疑問は、「詰め込み教育」 がいいか悪いかという問題ではない。「自分で考え、表現する教育」 との、匙加減の問題だと理解すればいい。

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2005/09/15

「政治なんて大嫌い」 のくせに

「政治なんか大嫌い」 なんて言っている割に、私はこのコラムで、政治について、少なからぬ本数を書いているような気がする。

昨年 7月にココログを使い始めて以後 「経済・政治・国際」 カテゴリーのコラムは 70本近くになり、そのうちで国内政治について論じたものは、ほぼ 3分の 1 といったところだ。

政治に関しては完璧に素人のくせに、よくまあいけしゃあしゃあと書いたものである。それでちょっと心配になって、自分の書いた政治関連のコラムが、見当違いに陥っていないかどうか、ちょっと検証してみたところである。

ざっと見たところ、安心した。結構まともなことを言っている。政治のプロとかでもなく、特定の主義主張に立脚してるわけでもないだけ、我ながらあまりバイアスのないことを書いているみたいだ。

とくに、今回の総選挙に関しては、例の郵政民営化が参議院で否決された翌日 (8月 9日) に、 「政治のガラガラポン」というコラムで、既に最重要部分をきっちりと書いてしまったと自負している。この日、こう書いている。

これまで私は、「どうしてこの程度の問題 (筆者注: 「郵政民営化」 のこと)で、こんなにガタつかなければならないのか」と不思議に思っていたが、今、ようやくわかった。大きな化学反応をもたらすための、可能な限り無害な触媒という役割を、郵政民営化問題というのは、歴史の中で果たしているわけだな。

結果、その通りになった。ただ、この時はちょっと抽象化した書き方をしてしまったので、念のため、後日に 2度に分けて少しは具体的に書いている。

9月 5日付 「郵政民営化は、絶妙のテーマ」

もしこれが「消費税引き上げ」 とか 「年金支給削減」 みたいなテーマだったら、大きな動きを促進させるトリガーにはなるはずがない。「郵政民営化」みたいな、国民の大多数にはあまり実害のないテーマだからこそ、構造改革の有効な 「触媒」 の役割を果たせるのだ。

9月 10日付 「私の選挙はもう終わったので・・・」

郵政民営化というテーマは、それが正しいか、間違っているかというのは、ほとんど問題ではない。(中略)

一般人にはさして実害のない問題だけに、どんどん進めるのが 「正義」 で、逆らうのは 「悪役」 ということになるに決まってるのだ。その単純な図式を、恥ずかしげもなく前面に出せたのは、さすがに 「変人以上」 の人である。

「正しいか、正しくないか」 を真剣に考える必要のない、「それほど重くないテーマ」 だったのが、とても幸いしたわけだ。「郵政民営化触媒論」 である。

「国政をたった一つのテーマに集約させた、まやかし的手法」 を批判する論調もあるが、それを言うなら、社民党は 「護憲」 という 「たった一つのテーマ」 に、社会党時代から延々と集約し続けている。

「郵政民営化」 なんてことより、「憲法」 はずっと重い問題だ。この重い問題を 10年以上も訴求して、ちっとも反応がないのは、その十年一日の如きステロタイプの言い方がまずいのである。

この部分に関しては、選挙結果の出た直後、9月 12日に、「モノ、はっきり言うちゅうこってすわ」というコラムで、こう総括した。

今や政治の世界では、「どう言うか」 という要素が、「何を言うか」 よりも、ずっと重要な時代になったのである。

小泉さん、巷では 「頭がよくない政治家」扱いされているが、バックには、結構スマートなブレインがいるような気がする。それは多分、「民」のセクターだ。政治をマーケティング的に捉える手法に、自民党中枢は、案外慣れてきているようだ。

民主党にだって、こうした考え方のできる人がいないわけじゃないのに、今回は、岡田さんが暗い顔して、自ら画面の外に歩いて消えるという、呆れるほど優れて予言的な TV-CF で、墓穴を掘った。何考えてたんだか。

とはいえ、今回の自民党、いくら何でも勝ちすぎだ。「勝ちすぎ」 というのは、負の財産としても機能することを忘れてはならない。

文化人類学では 「贈答儀礼」という言葉がある。贈答というのは、実は受けた側の立場が弱くなるのである。返礼をしなければ、気が休まらない。この不安を避けるため、北米インディアンの 「ポトラッチ」 という風習では、時に互いの財力を使い切るまで返礼の応酬をする。

今回の選挙における 「贈答」 とは、とりもなおさず 「過分の投票」である。選挙の票とポトラッチを一緒にはできないが、少なくとも、身の丈以上の投票を受けた自民党国会議員は、次回の選挙が不安でしょうがない。反動を最小限にするためには、必死に国民に 「お返し」をするほかない。

この 「お返し」 に期待しよう。もし自民党がそれを忘れるようなら、あるいは、「お返し」 のつもりで勘違いの愚行をするようなら、次は壊滅に追い込むことだってできる。何しろ、小選挙区制なのだから。

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2005/09/14

Fetish Baton

kumi, the Partygirl から、Fetish Baton なるものが廻ってきた。わたしに廻した理由が、「さらりと書いてくれそうだから」 だという。

こんなもの、「さらりと」 書けたら、そりゃ、塩じいレベルの達人というものだ。とはいえ、ちょっと意表を突かれるテーマだったので、かえって興に乗って書いてしまおう。

まずは、"Fetish" のおさらい。

マイクロソフトの "Bookshelf Basic" に入っている、研究社の ニューカレッジ英和辞典 (第 6版) では、次のように説明されている。

I. フェティッシュ, 呪物 (じゅぶつ), 物神 (ぶっしん)
 《霊が宿り魔力があるとして未開人などに崇拝される木像・石など》.
II. 迷信の対象, 盲目的崇拝物; 盲目的な愛好, 狂信
 make a fetish of… …を盲目的に崇拝する, …に熱狂する.
III. 〔心理〕 フェティッシュ 《拝物性愛 (fetishism) の対象物》.
語源 ポルトガル語「魔術」の意

"make a fetish of…" というイディオムは知らなかったけれど、ちょっと使えそうだ。III の方の意味でもいけるじゃないか。

ここでいう 「フェティッシュ」 は、III の意味で、本来は肉体に向かうべき性愛が、「物」 に向かっている状態なのだと確認しておこう。かなり 「イッちゃってる」 感じである。

だから、「足フェチ」 とか 「耳たぶフェチ」 とかいうのは、本来は誤用なんだろうけど、例えば 「足フェチ」 にとっての 「足」 というのは、肉体の一部分としての足ではなくて、肉体から半ば切り離されたイメージの 「物神」 と化してしまったと考えれば納得もできる。まあ、もともと、肉体だって 「モノ」 に違いないし。

とまあ、前置きはこれくらいにして、さっそく答えてみよう。

  1. あなたは何フェチ?

    中学校の教員室で、女教師の何でもないローヒールが、机の下に揃えて置いてあったのを見たとき、ちょっと萌えた憶えがある。思いのほか大きなサイズで、それでいて横幅が狭く、なかなかよかった。

    その靴があまりにもよすぎたものだから、改めて靴の持ち主の教師本人を見て、ちょっと失望した。この傾向をきちんと醸造したら、立派な 「靴フェチ」 になったかもしれない。今でも、「24.5センチの履き込んだローヒール」 というのには弱いかも。

    ちなみに、私の妻の足は、22.5センチしかない。

  2. 異性を見る時、まず何処を見る?

    ん? 何処って、まずは、全体的な印象というのが、オーソドックスなのでは?

    それから、各論に移るとしても、そりゃ、相手によって違うんじゃないかなあ。その相手の一番魅力的なところに目は移ると思う。(別段、靴を凝視したりはしない)

    できれば、本棚を見たいなあ (とか言って、部屋に入り込むという手はある)。

  3. 最近プッシュ出来る部位

    うーむ、そういうことは、若いうちに聞いてもらいたかった。

    しかし、ウチの末娘のいうには、私は 「美脚」 なんだそうだよ。すね毛少ないし、足首もきっちりと締まってるし。

  4. 異性の好きな部位5つ

    物心ついた頃から、異性の何に対して萌えたかを、つらつら思い返してみるに、こんなところだろうと思うのだ。

    • クラスのちょっと可愛い子のお母さん (お母さんも 「部位」 なのだ)

      どのクラスにも 「ちょっと可愛い子」 がいるが、そのお母さんは、その子の何倍も魅力的という法則がある (と、私は信じている)。

    • 手書きの字 (もちろん、これだって 「部位」 なのだ)

      学校の先生の板書みたいな几帳面な字とか、丸文字とかではなく、本格的な達筆にものすごく弱い。細筆で流れるような草書体だったりしたら、もう、ダメ。 (はぁはぁ)

    • 低めの声 (声だって 「部位」 なのだ)

      話すときは、キンキンしない落ち着いた声。そのくせ、ボーカルはハイトーンまで出せるというのがいい。最低でも 2オクターブ半は欲しい。

    • 脇腹から腰骨 (ようやく、「部位」 そのものになった)

      小さな相合い傘で歩くとき、どうしても相手の腰に手を回す。その時の、ゴツゴツしてない、かといって、ぷよぷよでもない、微妙な感覚が大切。

    • 寝顔 (トドメの部位)

      これはもう、本当に弱い。

      若い女の子は、飲み会なんかでちょっと酔ったら、すぐに眠っちゃいなさい。周り中の男に拝まれる。

  5. フェチを感じる衣装は?

    いつもはジーンズに T シャツというシンプルなスタイルで、それはそれで、とてもスタイリッシュなのだが、その日に限って、なぜかフェミニンなロングスカート (ミニでは、ダメなのだ) だったりするというのが、とてもいい。

  6. バトンを渡す5人

    これは、いつもの通り。適当に放り出しておくので、拾いたい人は拾ってくださいということで。
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2005/09/13

現代の日本戦略車 「ソナタ」

ちょっと旧聞系で恐縮だが、韓国の現代自動車が、日本戦略車として、主力セダン 「ソナタ」 を投入、韓流ブームに乗って、CM にはヨン様を起用すると発表した。

日本での 「冬ソナ」 のヒットは、絶好のマーケティング・チャンスと思っているようだが、ちょっと勘違いの臭いもする。

米国に旅行して、ホテルの部屋でテレビを見ていると、現代自動車の CM が、かなり頻繁に流れる。"Hyundai" のブランドは、十分に米国市場に浸透しているようだ。それだけに、日本市場での鳴かず飛ばずには、かなりムカついていることだろう。

この 「ソナタ」 という車種は、排気量 2400CC で、日本で言えば、ホンダの 「アコード」 クラス。韓国内では 20年前から販売しているというので、別段 「冬ソナ」 を当て込んで急に作ったものではないようだ。

現代自動車としては、「冬ソナ」 のヒットは、「ソナタ」 の展開に千載一遇のチャンスと思っているのかもしれず、それだからこそ、ヨン様を CM に起用したりもするのだろうが、ちょっと逆効果じゃないかと思うのだ。多分、独りよがりの勘違いだ。

韓流はヒットしているとはいえ、そのターゲットは圧倒的に 「オバサン」 である。一方、車はまだまだ、「男の買い物」 という側面が強い。いくらかみさんがヨン様に入れ上げているからといって、「ソナタ」 に 200万円からの金を喜んで出す男は少ないだろう。

逆に、反感を抱いてしまって、意地でも買わないというケースの方が多いのではなかろうか。

あるいは、自分の財布からポンと 200万円を出せるような女性だったら、もしかしたら買うかも知れないが、この層の全員がヨン様に入れ上げているわけでもないし。

純粋に性能と価格とのバランスがリーズナブルであると判断して、購入したいと思う層があったとしても、ちょっと、こっ恥ずかしい。

「最近、車、韓国製に買い換えたんだよね」
「へぇ、どんな感じ?」
「そこそこ、いい走りしてるよ。コストパフォーマンス、いいね」
「で、何ていう車なの?」
「ソナタ」
「 ・・・ 」

てな感じになりそうで、変な抵抗がある。

つまり、メーカー自身はアドバンテージだと思っている 「ソナタ」 という名称が、実際には、あまりベタ過ぎるが故に、邪魔者になってしまうのではないかと思うのである。その上に、CM にヨン様では、イメージ固定化のダメ押しというものだ。決してプラスには働かない。

ちょっとしたジョークに何百万円も出せるような大金持ちが、ヨン様ファンの愛人に買って上げるなんてことがあるかとも思ったが、そういう連中は、ソナタより BMW なんかに目がいくだろう。

それに、ヨン様に群がっているオバサンたちの顔を見ていると、「ソナタ」 の、いや、ソナタに限らず、車のハンドルなんか握らない方が身のためだと、心の底から思ってしまうのである。

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2005/09/12

「モノ、はっきり言うちゅうこってすわ」

さすが塩じい。頭の中、若いなあ。

某選挙報道番組で、「小泉さんの作戦の勝利ですよ」 とコメント。「作戦というのは?」 と突っ込まれ、「そら、モノ、はっきり言うちゅうこってすわ」 と飄々と言い放つ。「郵政民営化に焦点を絞った」 なんて、フツーの評論家みたいなことは言わないのである。

塩川正十郎、その辺の政治評論家や大新聞の論説委員なんていう人たちより、ずっと冴えてる。

ここでお断りしておくけれど、はなはだ申し訳ないが、この発言のあった番組、どこの局のなんという番組かは、わからない。私はあまりテレビを見ないので、普段から、ちらっと見た番組が何という番組かなんて、ほとんど意識してないのである。

今回にしても、ちょっと階下に降りて冷蔵庫の中から冷たい飲み物を出そうとしたときに、ちらりと視界の端に入った塩じいが、そう言っていたのである。私は、「なるほどねぇ、言えてるねぇ」 と思いながら、二階に昇ってきてしまった。

いずれにしても、この塩じいの発言。とても当を得ていたと思うのだ。今や政治の世界では、「どう言うか」 という要素が、「何を言うか」 よりも、ずっと重要な時代になったのである。

言質を取られないように気を付けるあまり、わかったようなわからないような、まぁ、よく聞きさえすれば、わかるにはわかるんだけど、その代わり、うっとうしさは増すばかりみたいな、そんな話し方スタイルの政治に、国民はほとほとウンザリしていたのである。

失点を抑えようとするあまり、フォワードがセンターラインのこっち側でパス回しばかりしているような政治には、「無関心」 という態度で応えるしかなかったのである。サッカーだって、そんな試合ばかり見せられたら誰も応援しなくなる。

何しろ、ドッグイヤーの世の中である。「郵政民営化には決して反対ではないが、もっと時間を掛けて論議してからでも ・・・」 なんて、寝ぼけたことばかり言うスタイルには、もう付き合いきれないのである。

そんなことでウダウダしているから、ほら、見てごらん、日本はシンガポールやマレーシアより国際的関心を持たれない国になってしまった。まあ、国際的関心を持たれさえすればいいというわけでもないが。

とにもかくにも、団塊の世代以後の日本国民は、政治の世界の 「微妙なアヤ」 なんてものを眺めて喜ぶほど、娯楽に飢えちゃいないのである。

物事は、はっきり言ってもらった方がずっといい。はっきり言ってもらいさえすれば、それが間違いだとわかったら、さっさと軌道修正が効く。これまでは、はっきりしないから、軌道修正すらまともにできなかったのだ。

小泉さんが選挙に強くて国会対策にそれほど強くないのは、永田町ではまだ 「はっきり言う」 風習がないからなのね。

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2005/09/11

カトリーナのウェブサイト

ニューオーリンズに壊滅的被害をもたらしたハリケーン 「カトリーナ」。これ、英語のスペルは "Katrina" となっている。

ちょっと見慣れないスペルだ。英米で一般的なのは、「キャサリン: Catharine」、ドイツでは 「カタリーナ: Katharina」。知り合いに 「カトリン」 というドイツ人の女の子もいる。

フランス語だと、"Catherine"。 英語のキャサリンも同じスペルになることがあるが、フランス語の場合の読み方は、「カトリーヌ」。ここでカトリーヌ・ドヌーブを思い出すのは、オジサン世代である。

カトリーナは、あまりにもどでかいスケールで、かなりの被害をもたらすと予想されていたので、敢えてあまり一般的でないスペルの名前にしたのだろうか。もし、今回のハリケーンが 「キャサリン」 だったりしたら、アメリカ中のキャサリンさんが、嫌な思いをするだろうし。

そう考えていたが、なんと、アメリカにはアメリカのカトリーナさんが、ちゃんといたのである。ハリケーンと同じスペルのカトリーナさんが。

Katrina Leskanich。1960年、カンザス州生まれの女性歌手。1985年に  "Walking On Sunshine" という曲で、グラミー賞にノミネートされているというから、マイナーな歌手ではない。残念ながら、私は知らなかったけれど。

ファミリーネームの方は、「レスカニッチ」 と読むのかな? ドイツ系なのかもしれない。ドイツ語だと、「レスカニッヒ」 となるんだろう。それで、ファーストネームの方も、ちょっとドイツっぽさを意識した名前にしたんだと思う。

何もいわなくてもドイツっぽい発音で読んでもらえるように、あえて Katrina という一風変わったスペルなのかもしれない。ああ、米空軍大佐であるという (彼女のホームページの Biography で知った) 彼女の親父さんの、家系のルーツに対する心中立てが感じられるなあ。

ところで、このカトリーナさん、やっぱり今度のハリケーンでは、えらく迷惑しているようなのだ。彼女のウェブサイトに行ってみると、テンポラリーなトップページが誂えてあって、そこには、

KATRINA'S WEB

This website contains information on Katrina Leskanich: vocalist, songwriter and recording artist.

If you are looking for information on Hurricane Katrina, and how you can help the relief effort,
please CLICK HERE to visit the website of the American Red Cross

To proceed into Katrina's Web, CLICK HERE TO ENTER

とある。翻訳すると、

カトリーナのウェブ

このウェブサイトの中身は、歌手、ソングライター、レコーディング・アーティストのカトリーナ・レスカニッチに関する情報です。

もし、ハリケーンのカトリーナの情報、どうすれば救援運動の助けになれるかを知りたいのでしたら、こちらをクリックして、米国赤十字のサイトを訪問してください。

カトリーナのウェブに進むには、こちらをクリックしてください。

ということである。

多分、ハリケーンの被害発生以来、世界中から勘違いのアクセスが殺到してサーバがパンクしそうになったんだろう。無理もない。URL が http://www.katrinasweb.com/ というのだもの。

それで、大変なことになって、こんなトップページを作り、早々に赤十字の方に行ってもらうことにしたのだろう。ご苦労なことだ。それにしても、飛ばす先がニュースサイトなどではなく、赤十字というのは、ちょっとしたヒットだ。彼女のイメージアップにもなるだろう。

ちなみに、カトリーナ・レスカニッチさん、今年で 45歳になるのだが、写真を見るとなかなか若作りでがんばっていらっしゃる。

そして、他人の空似というが、「自分がセクシーすぎてカトリックの教師をクビになった」 と信じ込んでおられる (参照) イタリアの カテリーナ・ボンチ さんとちょっと似ている。名前だけでなく。

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2005/09/10

私の選挙はもう終わったので・・・

私は 9月 11日の朝から晩まで予定が入っているので、とっくに期日前投票を済ませた。

これって、案外便利だ。某学会系や某共○党系から電話が来ても、「もう済ませちゃった」 と言うと、「あぁ、それじゃね」 と、すぐに終わる。彼らとしても、意味のない電話に、無駄な時間をかけてはいられないんだな。

とまあ、私の選挙はもう終わってしまったので、勝手なことを言ってしまおう。もっと早くアップしてしまいたかったのだが、投票日前日まで寝かせておいていただいた。

マスコミでは自民党の圧勝が予想されている。解散直前まで、小泉さんの支持率は下がる一方だったのに、わからないものだ。郵政民営化反対という 「悪役」 の役割は、こんなにも効果的だったのである。

郵政民営化というテーマは、それが正しいか、間違っているかというのは、ほとんど問題ではない。賛否両論あって、どっちももっともらしく聞こえる。どちらも、相手の突いていることにまともに答えてないという関係で、実際のところは、やってみなければわからない。関係者には申し訳ないが、それほどまでにどっちでもいいことなのだ。

一般人にはさして実害のない問題だけに、どんどん進めるのが 「正義」 で、逆らうのは 「悪役」 ということになるに決まってるのだ。その単純な図式を、恥ずかしげもなく前面に出せたのは、さすがに 「変人以上」 の人である。

それがきっかけになって、旧来の因習のしがらみをご破算にしてしまうことができれば、郵政民営化の本当の目的は達成されるというものなのである。

ところで、あまりにも自民圧勝ムードが盛り上がりすぎたので、選挙戦の間に揺り戻しが来て、多少は民主党が健闘するのではないかと思っていたが、それもあまり期待できないようだ。今の岡田さんの路線では限界があるのかもしれない。

そもそも、民主党が最近の選挙で議席を伸ばし続けてきたのは、多少は自民を食った部分があるにせよ、主には社民と共産の票を奪ってきたからに過ぎない。

最近は野党全体としてはそれほど伸びてはおらず、野党内のパイの奪い合いで民主党が伸びただけのことだ。民主党は自らの思惑とは裏腹に、「二大政党の一翼」 というよりは、「健全野党」 扱いなのである。

そうなると、小泉さんが 「与党内野党」 のくせに、ひょんな形で権力を握ってしまい、妙なねじれ現象を演じつつ、図らずも与野党ひっくるめた機能のほとんどを自民党内でまかなってしまったものだから、野党の出る幕がなくなってしまったのだ。

今度の総選挙で民主党がボロ負けして、「それ見たことか、やっぱり岡田じゃダメなんだ」 ということになれば、ついに小沢一郎さんが動き出すんだろうが、この人が前面に出て、うまく行った試しがないからなあ。

政治家の中には、政策面では決して共感できないけど、一緒にお酒を飲んだら結構楽しいかもしれないと思える人は、何人かいる。しかし、小沢さんは、その逆っぽいイメージだ。

民主党は、岡田さんにしろ、小沢さんにしろ、管さんにしろ、鳩山さんにしろ、一緒にお酒を飲みたいと思わせるようなキャラがいない。このあたりの改善が、今後の課題だ。

まあ、政権交代は、アメリカでジョージ・ブッシュが用済みになる 3年後ということで、がんばって頂きたい。その頃は、せっかく小泉さんがぐちゃぐちゃにした旧来の自民党体質が、またぞろ復活したがりそうな時期だから、トドメを刺す意味でも、期待したいところだ。

[ 9月 12日 追記]

そういえば、民主党にも一緒にお酒を飲んで楽しそうな人が一人いた。愛知 1区選出の河村さんである。おっしゃるとおり、首相になってくれることを期待したい。

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2005/09/09

プラス志向? プラス思考?

Reiko Kato さんが、「プラスしこう」 の 「しこう」 は 「思考」 よりも 「志向」 であるべきだと主張しておられる。(参照

気持ちはわかるけれど、やはり 「プラスしこう」 は 「プラス思考」 の方が妥当だろう。それは、英語の "positive thinking" に相当する言葉として機能しているからだ。

「プラス思考」 が "positive thinking" の訳語であるかどうかは、知らない。しかし多くの場合、この二つは共通のニュアンスで使われている。(参照

英語の "positive thinking" は、アメリカ人好みの、メソディカルな自己啓発トレーニングである。「プラス思考」 は、それを日本人好みに通俗化、一般化したものということができる。

また、英語から離れても、やはり、「プラス思考」 が妥当だろう。例えば、Reiko Kato さんは、次のように主張しておられる。

つまり、物事をプラスの方向に考えることだ。もっと言えば、プラスの方向に行動を起こすように考えることだ。そうしたら、「しこう」という言葉に方向性の意味が含まれないといけない。正解は「志向」だ。「思考」ではおかしい。

しかし、彼女のいう 「方向性」 というニュアンスは、「プラス」 という言葉に既に含まれている。「マイナスとは反対の方向性」 ということだ。ということは、「しこう」 にまで方向性の意味を含ませたら、ちょっとくどい言葉になる。

また、「プラスの方向に行動を起こすように考えること」 というのも、紙一重でアグレッシブすぎる。「プラス思考」 の必要条件には、「行動を起こすように」 というのは必ずしも含まれない。それは、過ぎてしまったことでも、くよくよ考えるより、プラスの方向で解釈して納得してしまおうといった意味合いもあるからだ。

その結果、次の行動もポジティブなものになるということは、十分あり得るし、またそうあるべきでもある。それは自然の流れとして分かちがたいものではあるが、順序としては、「行動」 は 「思考」 の次の段階と捉える方が、メソッドとして確立しやすい。

まあ、「プラス志向」 というのも、あり得なくはない。「プラスの方向性を志向すること」 だ。この場合は、Reiko Kato さんの言われるように、行動を伴うことが前提となるだろう。

しかし、広く使われているのは、「プラスの方向で考えること」 であり、「ポジティブな行動を起こすための心的ベースを養成する」 といった意味合いだろう。不断のトレーニングという意味では、"positive thinking" と共通する。

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2005/09/08

読売と星野さんは仲良しのようだ

始めは悪い冗談かと思っていた星野氏の巨人監督就任話だが、着々と実現に向けて動いてしまっているようだ。巨人もいよいよ、焼きがまわってしまったみたいだな。

巨人フロントのやり方は、あまりにも段取りが悪すぎるし、星野さんもちょっと、個人的野心が見え見えで、話が生臭すぎる。

今の堀内監督が出てきたときにしても、前監督の原さんが辞めるという記者会見の席で、「何でお前がそこにいるんだ?」 ってな感じで、見え見えの出来レースを自らバラしていたようなものだったが、今回はそれにも増して身も蓋もない。

ペナントレースが終わりもしないうちからこんなことでは、読売というところは、よくよく常識のない企業だと印象づけられてしまう。もっとも、あのじいさんがまたぞろ復権して、わがまま放題を口走ってしまうのだから、しょうがないが。

星野さんという人も、スポーツマンにしては、よくよく政治的な動きの好きなお人のようだ。

野村さんという人と比べると、よくわかる。野村さんは、どうにも辛気くさいオッサンだが、野球が好きということにおいては、とても純粋なのだろう。そして、野球以外のことでは決してうまく立ち回ることができない人のようである。ある意味、不器用な野球馬鹿である。

ところが、星野さんという人は自己演出がお上手だし、爽やかタッチの弁も立つ。加えて、政財界の人脈作りも達者なようだ。野球だけで人生を終わらそうとは、決して思っていないだろう。

この人、ついに 「元巨人軍選手」 というブランドを手にすることはできなかったが、それだけに、「元巨人軍監督」 というブランドが、喉から手が出るほど欲しいのだろうなあと思ってしまう。

現役選手がフリーエージェントの資格を得ると、何はともあれ巨人に移籍したがるのは、 「元巨人軍選手」 というブランドがあると、現役を引退してからの周りからの扱いが違うからだ。

一方、星野さんは、別に 「元巨人軍」 でなくても、生活にはまったく困りはしないだろうに、このブランドが欲しいのは、早い話が、「実力コミッショナー」 ってな存在になりたいのだろうなあ。その後は、お定まりの政治家か。

今回の騒動は、人気回復 (イコール視聴率回復) を狙う読売側と、星野氏の思惑の利害が一致してしまっているのだろう。

しかし、そんな都合良すぎるお話に、ファンは付き合う気がないのである。そこのところに気付かないと、巨人はますます人気を落とすし、星野さんも晩節を汚すことになりかねない。

一部では、今回の総選挙で、星野さんが民主党から立候補しかけたのを止めるためのウルトラC だったという説まであるが、そうなると、もう本当に食えない話である。

[ 9月10日 追記]

星野さん、記者会見で、巨人移籍を否定。すんでのところで思いとどまったようだ。これだけ話題になったことで、十分に実は取ったということだろう。賢明な判断だ。しかし、いつまたどんでん返しがあるかわからないので、油断がならない。

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2005/09/07

Windows Vista なんて

マイクロソフトは、Windows XP の後継 OS、Windows Vista を来年発売すると言っている。ああ、また面倒くさいことになるのか。

私は XP でそれなりに満足している。というより、XP のインターフェイスはウザイので、Windows 2000 ライクにして使っている。これ以上、余計な飾りはいらないのである。

私としては、OS は Windows 2000 のままで何の不便も感じていなかった。ところが、新しく買うパソコンはみな Windows XP がプレインストールされているので、仕方なしに XP を使っているのである。

XP になって目に見えて便利になったということなど、何もない。それどころか、画面に余計な装飾的要素が増えて、なんとなくお子様っぽいイメージになったのが気に入らないので、わざわざ Windows 2000 の頃のデスクトップ・イメージに戻して使っている。

XP が Vista になって、何がどう変わるのかと思っていたら、

  1. アイコンやフォルダが半透明なイメージで表示される。
  2. 『Windows Explorer』 (ウィンドウズ・エクスプローラ) でドキュメントを探している時の見た目が可愛らしくなった。

という程度のことのようだ。(参照

ああ、馬鹿馬鹿しい。今度もまた、Windows 2000 ライクのデスクトップにする機能が付いていることを望むばかりである。

Windows のバージョンアップは、Windows 95 から 98 になった時は、ある程度の意味があった。USB などの新しいデバイスが、そのまま plug & play で使えるようになったからである。

そして、Windows 98 は、Windows NT と統合されて Windows 2000 になるという触れ込みだったのだが、その前に Windows Me なんて妙なバージョンが出た。これは、はっきり言って Windows 98 よりお粗末なものだった。

その後に、ようやく Windows 2000 になり、それはそれで便利になった。NT の (それなりの) 安定性と、98 の便利さが合体したからである。私としては、もうこれで十分だと思った。これ以上、ゴタゴタしたものをくっつけて、何の意味があるというのだ。

そう簡単に落っこちなくなり、ネットワーク接続と周辺機器の接続が容易になった。これで十分である。これで足りないということになるのは、より画期的なデバイスやインターフェイスが開発された時である。

ユーザーとしては、OS のこれ以上のグレードアップにあまり大きな意味を見出しにくい。意味があるとすれば、ベンダーサイドである。既存の OS を陳腐化させて、新 OS に置き換えていかないと、利益が上がらないからだ。

これは、マーケティングの常道からかけ離れている。ユーザー・オリエンティッドではなく、ベンダー・オリエンティッドになってしまっているからだ。

いったいどこの馬鹿なユーザーが、フォルダのイメージを莫大なコストをかけて半透明にしてくれなどと希望したというのだ? そんなものは、ベンダーの押しつけに過ぎないではないか。

現在のレベルの Windows の使い勝手を Linux が実現して、Windows の主要ソフトと互換が確保されたら、もう誰も Windows のバージョンアップなんて相手にしないのではないかと思ってしまうほどだ。

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2005/09/06

人の心と天気が、極端になっている

四国あたりで水不足が続いたと思ったら、今度は台風 14号の影響による大雨で、東京都内で洪水騒ぎになった。

近頃、天気が極端だと思っていたら、それは単なる印象ではなく、データ的にも確認されたらしい。「大雨」 か 「まったく降らない」 かのどっちかに片寄りつつあるのだそうだ。

つくばの気象研究所の 「日本における猛暑と大雨の実態に関する研究」 というレポートの中で、それが語られている。(参照

このレポートの注目部分を以下に引用してみる。

それぞれ長期的な変動があるが、100年間を通じた変化傾向としては、弱い雨の日数は減少し、大雨と無降水の日数は増加している。(中略) 数日から1ヶ月間にわたってほぼ無降水の状態になる頻度も増加しており、日本の降水は 「降らないか、まとまって降るか」 という二極化傾向が現れている。

「天気が極端」 という漠然とした印象は、気象研究所のレポートによって、お墨付きをもらってしまったようなのである。

この二極化の要因の一つは、「温暖化に伴って大気中の水蒸気が増え、対流性降水が増して降水がより集中化する効果が働く」 ということなのだそうだ。

このレポートは、最高気温が 38度以上になる日が、三大都市圏の内陸側で増えているとも述べている。これは大都市圏のヒートアイランドと海風の相互作用による夏の日中の気温上昇によるとの見方もあり、要するに、かなりの部分は人間の行為によるものである。

そして、大気中の二酸化炭素の変化も考慮しながら、この温暖化傾向が継続すると仮定すると、西暦 2100年には、日本の気温は 2.4度から 4度上昇するというのである。エライことである。

2100年というと遠い未来のような気がするが、今年生まれた赤ん坊が、まだ生きている可能性のある未来である。彼らに、「わしらの父さんと祖父さんの代が、メチャクチャしたからなあ」 なんて言われないようにしたいものだ。

「天気が極端になってきたのは、人間の心が極端になってきたことの反映だ」 という人がいる。「まさかねぇ」 と思っていたが、人間の営為が気候に大きな影響を及ぼすということは、いつの間にか、見事に確認されてしまっているのだった。

人間の営為は心の反映だから、もし人の心が穏やかになれば、巡り巡って、間違いなく、気候も穏やかになるだろう。

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2005/09/05

郵政民営化は、絶妙のテーマ

読売新聞の世論調査で、今回の衆院選に 「大いに関心がある」 と答えた人は 61%に達し、投票に 「必ず行く」 が 75%を占めた。

これにより、今回の総選挙は、有権者のこれまでにない高い関心を集めているとされ、投票率もこれまでより高いものになると見られているが、私はまだ 「眉唾」 である。

というのは、昨年夏の参議院選挙の際の読売新聞世論調査でも、投票に 「必ず行く」 と答えた人が 73%だった。今回の数字とは、たった 2%しか違わない。で、実際の結果は 56.55%でしかなかった。

その 3年前の参議院選挙はもっとひどい。「必ず行く」 が 77%だったのに、実際の投票率は 56.44%だった。「ウソばっか!」 である。ついカッコつけて 「必ず行きます」 などと、心にもないことを言ってしまう人が多いようだ。

このアンケートは、無作為抽出で電話をかけて実施される。この 「電話アンケート」 というやり方が少々問題だと、私はみている。要するに、結果はあまり信用できないということだ。

読売新聞という 「一応の権威」 ある全国紙がわざわざ電話を掛けてきて、もっともらしい質問を浴びせかけてくると、回答者にはちょっとしたプレッシャーが働くみたいなのだ。

それで、「投票には行きますか?」 と聞かれ、「必ず行く」 「なるべく行く」 「わからない」 「行かない」 みたいな選択肢を示されると、つい、「必ず行く」 なんていい子ぶったことを言ってしまう。本当は 「わからない」 とか 「よほど暇だったら」 とかのくせに。

とはいえ、やはり今回の総選挙は、多少は投票率が上がるかもしれない。「郵政民営化」 というテーマは、それなりの役割を果たすことになる。

私は先月 9日の当コラムで、「大きな化学反応をもたらすための、可能な限り無害な触媒という役割を、郵政民営化問題というのは、歴史の中で果たしている」 と書いた。この見方は間違っていないと思う。

もしこれが 「消費税引き上げ」 とか 「年金支給削減」 みたいなテーマだったら、大きな動きを促進させるトリガーにはなるはずがない。「郵政民営化」 みたいな、国民の大多数にはあまり実害のないテーマだからこそ、構造改革の有効な 「触媒」 の役割を果たせるのだ。

その意味では、今回の選挙の焦点が 「郵政民営化」 になったのは、まさに 「絶妙」 の配剤と言える。

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2005/09/04

「リアルさ」 と 「様式美」

二泊三日で実家に帰り、いつもよりずっと余計にテレビの前に座ってしまった。

面白かったのは、9月 2日、NHK 衛星第 2 の映画 「大江戸七人衆」、そして、NHK 総合の 「秘太刀馬の骨」 だ。前者は昭和 37年、東映黄金時代のチャンバラ映画、後者は藤沢周平原作の渋い時代劇である。

「秘太刀馬の骨」 から触れよう。この作品は、謎の秘剣 「馬の骨」 を探るために、人間心理を穿ちながら、主人公が何人かに木刀での勝負をしかける。その勝負の中で、幻の 「馬の骨」 が繰り出されるのを待つのである。

それだけに、殺陣は微妙なリアルさが要求される。斬り合いというより木刀での 「叩き合い」 であるだけに、ゴツゴツとした体感表現を狙っているのだとわかる。苦心の殺陣である。

一方、 「大江戸七人衆」 の殺陣は、あくまでもお約束の様式美。しかも、大御所、市川右太衛門、大友柳太朗を始めとする時代劇豪華キャストだけに、いかにも手慣れた名人芸である。

この二つの時代劇を見比べて、唐突だが、私はプロレスの限界を悟ってしまった。

というのは、殺陣として見比べると、どうしても 「大江戸七人衆」 の様式美の方がずっと見応えあるのである。これは力道山である。

一方、 「秘太刀馬の骨」 は、現代的な感覚でリアルさを表現しようとしているが、一方で感情的な 「ストーリー」 をも絡めなければならないだけに、ややもすると 「演出意図」 が見えすぎてしまうときがある。「リアルさ」 を追求すればするほど、「作り物」 が見えてしまいかねない。

「リアル」 な闘いを見るならば、「プライド」 か 「K-1」 になってしまう。「感動のストーリー」 を見るならば、本来はプロレスなのだが、そのプロレスが妙に 「リアル」 さに色目を使ってしまっていて、消化不良を起こしている。

ならば、思いっきり 「様式美」 のプロレスに先祖返りしてしまうというのは、どうか。

いや、それはダメだ。力道山プロレスは、ノスタルジーの目で見るからいいのである。「大江戸七人衆」 が 「黄金時代のチャンバラ劇」 として見るからいいのと同じことだ。要するに 「骨董品」 なのである。

プロレスは伝統芸能として存続するわけにはいかない。それならば、藤沢周平ばりの人間心理を穿つストーリーを 「リアル」 に表現しなければならない。プロレスラーは、名役者になる必要があるのだ。

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2005/09/03

ジョージ 対 カトリーナ

カトリーナによる大被害にあったニューオーリンズの現状を伝えるニュースをみると、悲惨な状況にある貧困層のほとんどが黒人だ。

映像をみると、世界で最も富める国、米国のこととは思われない。アフリカかどこかの難民キャンプのようだ。彼らが皆、訛りの強い英語を話すので、米国とわかるだけだ。

やりきれない思いがする。

中間層以上の白人は、皆、いち早く避難してしまったのだろう。どこか、別荘にでも行ってしまったのかもしれない。それは、市当局の避難指示に素直に従っただけである。ごく当然のことだ。悪いことでもなんでもない。

逆に、今、市の中心部で悲惨な目に遭っている貧困層は、市の避難指示に従わなかったのである。自業自得という言い方もできる。

ただ、彼らが市の避難指示を正しく受け止め、正しく理解できるような教育を受けていなかったというのも事実だろう。さらに、仮に正しく理解できたとしても、速やかに脱出できる移動手段を持っていなかったということも、考慮しなければならない。

大きな被害が出てしまってから、大型バスで他地域への移動を開始しているようだが、被害が出る前に、こうした移動補助が講じられなかったのだろうか。

しかし、後になってそう言うのは楽だが、実際は、台風が来る前にこうしたバスを出したとしても、貧困層の住民が素直に移動に応じたかどうかも疑問である。多分、応じない者が多かっただろうと思う。

個別にみれば、台風への対応の遅れ、いい加減さ、大局的に見れば、今回とても極端な形で露呈してしまった貧富の差の増大。こうした問題は、とても構造的なものである。この構造を固定させてしまったブッシュ政権への批判は強まることだろう。

しかし、ジョージ・ブッシュは、あと 3年半も大統領であり続けるのである。昨年秋に、たった 2%の得票率の違いで大統領になってしまったテキサスのおっさんが、レイムダックになるまでに、まだ 3年近くあるのだ。

ジョージ・ブッシュと仲良しの小泉さんは、来年 9月に総裁任期が来たら辞めると言っている。その後に誰が首相になるか知れないが、2年間はジョージ・ブッシュと付き合わなければならないのだ。気の毒に。

現代社会の 3年は速い。しかし、速いからこそ、この 3年間の実質は長いのである。

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2005/09/02

地球の都合と、人間の都合

昨日朝に妻と車で筑波を発ち、夕方に酒田に着いた。途中は、福島も山形の内陸も、33度以上の真夏日。湿度が少ないので、日本の景色がやたらすっきり、くっきりだった。

ところで、昨日は 「防災の日」 とやらで、実家に着いたら、テレビは地震の話で超盛り上がりしていた。地震国日本である。

テレビは、地震のおきるメカニズム、これまでの巨大地震のレビュー、地震が起きたらどう対処すべきか、家具が倒れることを防ぐにはどの方式が効果的か ・・・ 懇切丁寧に説明する。これを見ただけで、地震のプロになれそうだ。

いかにあがこうと、神仏に祈ろうと、地震は来るときには来るのである。地殻のひずみによってエネルギーが不断に蓄積されつつあるのだから、時々はそれをリリースしてやらなければならない。

地球上に暮らしている人間は、「人間の都合」 を優先させて 「地球の都合」 を抑え込むわけにも行かない。もし抑え込むことができたとしても、蓄積エネルギーがさらに増えて、そのうちに、より大きな地震としてリリースされるだけである。

考えてみれば、地震に限らない。人間は少なくとも産業革命以来、「地球の都合」 を無視して 「人間の都合」 を押し通してきたわけである。申し訳ないことではあった。今、いろいろな面でその報いが来ているのである。

地震という命に関わることを 「天災」 と諦めながら、暑さ寒さを我慢できずにエアコンを使い放題使ってしまうといったところに、人間の 「業」 といったものを感じてしまうなあ。

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2005/09/01

悟って 「トンマ」 になる

あらら姫さんの楽天日記で、「トンマ」 が話題に上っている。

ネット辞書で調べると、【とんま: 頓馬】 の 「とん」 は 「とんちき」 の 「とん」 なのだが、次に 「とんちき」 を調べると、「とんま」 の 「とん」 とあって、堂々回りなのだそうだ。辞書って、案外いい加減なところがある。

【頓】 という字そのものを Goo 辞書で調べると、次のようになっている。

(1) 急であること。にわかであること。また、そのさま。
(2) にぶい・こと(さま)。とんま。
(3) 〔仏〕 教法の理解や修行などの段階的な深化を経ることなく、
  一挙に悟りに到達すること。

三省堂提供 「大辞林 第二版」より

おもしろいのは、(1) の 「急であること」 と、 (2) の 「にぶい」 という意が、正反対に見えることである。一体どうしてこんなことになったのか、探りを入れてみたいところだ。

「頓」 という字の元々の意味は、やはり 「急激であること」 なのだろう。

さらに上記の (3) で説明されているように、仏教では、突然のインスピレーションのように不意に訪れる悟りを 「頓得 (とんとく) の悟り」 などといい、段階的に修行を積んだ末の 「漸得 (ぜんとく) の悟り」 と区別している。

また、「頓教」 というのは、「長い修行を積まず、すみやかに悟りを完成させる教法」 とされており、それはとりもなおさず、宇宙の大真理を直接的に説いた 「華厳経 (けごんきょう)」 のことである。

「華厳経」 というのは、正式な名称を 「大方広仏 (だいほうこうぶつ) 華厳経」 という。「大方広仏」 というのは 「毘盧遮那仏 (びるしゃなぶつ)」 の別称といわれていて、有名な奈良の大仏さんである。あの大仏さんは、宇宙の大真理の象徴なのだ。

「大方広仏華厳経」 というのは、宇宙の大真理は、「一」 の中に 「すべて」 が包含されていて、「一即多」 「多即一」 の妙々なる原理であるということを説いたお経だ。

つまり、本当に透徹した目で木を見れば、森も見えるのだ。一粒の砂を見れば、宇宙だって見えるのだ。山川草木国土悉皆成仏、つまり、山も川も草木も国土も、すべてのものは、仏の現れなのだ。

お釈迦様は、長い修行の末にこの悟りを得たわけだが、悟った途端に、それを説法し始めたものだから、エライことになった。なにしろ 「頓教」 である。悟ったことを、ブワーっとそのまんま、堰が切れたように説き始めたので、実は聞いても誰も理解できなかった。

そこで、悟り薄き衆生にいきなり大真理を説いても通じないとわかったお釈迦様は、この 「華厳経」 に封印を施して、その代わりに阿含経など、日常の戒律のようなところから説き始めた。いわゆる 「小乗」 の教えである。

その後にだんだんと 「維摩経」 や 「般若経」 などの 「大乗」 の教えに移行していき、さらに 「法華経」 に至って、仏は未だかつて生じたこともなければ、永久に滅することもない、ただ存りて存り通すものだという、究極の悟りの世界を説かれたということになっている。

それは、最初に説いた 「華厳経」 を具体化したもので、これが、段階的に説く教え 「漸教」 というものである。

宗教学という学問の世界では、大乗仏典はお釈迦様が直接説いたものではないという説が有力なのだそうだが、それはそれ、仏教哲理では、上記のようなことになっているのだ。

問題は、この 「華厳経」 という 「頓教」 である。説かれた当時は、あまり崇高すぎて、誰にもわからず、チンプンカンプンだったという、ここが大事なところである。

あまりにスゴイ悟りというのは、悟り薄き衆生、常人からすると、わけのわからないものである。つまり、「イッちゃってる」 のと大差ないのだ。そこから 「頓狂」 という言葉が生まれたのではないかと、私は思っているのである。

「素っ頓狂」 の 「頓狂」 である。宇宙の大真理も、悟り薄き衆生には形無しである。「頓教」 ではなく 「頓狂」 扱いされてしまうのだ。

そのあたりから、ついには 「頓馬 (とんま)」 の 「頓」 にまで転化してしまって、「にぶい・こと(さま)」  という意味にまで零落してしまったのではなかろうか。

この世においては、「聖なるもの」 は零落するのである。しかし、零落してもなお聖なるものが、本当の聖なるものである。

禅の悟りの段階を示した 「十牛図」 では、「悟り」 を象徴する 「牛」 を完全に手なずけてしまった段階、つまり、「本当に深く悟っちゃったもんね」 という段階は、十段階のうちの六番目にすぎないとされている。

そこから、七番目の 「悟りなんて忘れちゃったもんね」 という段階に進み、最終的には、腰に酒瓶ぶら下げて、薄汚れた世俗の世界にダハダハ遊ぶことになっている。これ、一見したら 「零落」 そのものだ。

いきなりこの最終段階まで進んだら、そりゃもう、「素っ頓狂」 以外の何物でもない。だから 「急激」 と 「にぶい」 は、あんまり違わなかったりするのだ。何しろ、「一即多」 「多即一」 が宇宙の大真理なのだから。

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