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2005/12/13

「確信」 の悪と、 「未必」 の悪

このところ、BBS で続けざまに難問を突きつけてくれている 「かっこいいお兄さん」 が、またしても難しいテーマを提起してくれた。

一つは "「確信」 の悪と 「未必」 の悪の境界"、さらに難儀なのは、"「フツー」 のずるさ" というものだ。彼は小学校教員をしておられるので、いつも感じる問題らしい。

二ついっぺんに考察するのは大変なので、まずは "「確信」 の悪と 「未必」 の悪の境界" というテーマに絞ろう。「かっこいいお兄さん」 は、次のように述べておられる。(改行調整済み)

小学校にいて,明らかに 「悪いこと」 「よくないこと」 をしでかした子どもがいたとして,その行為が良くないことと知っているのにやってしまう,という心理を測りかねることがあったので,そんな問い方になってしまいました。

きっと 「ちょっとしたおふざけ」 「うけようと思って」 したことがかなりヤバイ事態を招いて,初めてことの重大さに気づく。で,評論家的に,「そうやって子どもは成長していく」 それは結果として誰にでも言えることでしょうけどね。

これは、以前に論じた "「無明」 と 「罪」" という問題に行き当たるかもしれない。釈尊は 「知って犯す罪」 と 「知らずに犯す罪」 とでは、後者の方が重いと説かれている。「知らない」 = 「無明」 ということが、即ち根本的な 「罪」 なのだ。

無邪気な子どものすることを 「罪」 と決め付けるのは酷かもしれない。しかし、その  「罪」 = 「無明」 は、「知ること = 悟ること」 によって消えていくのだから、いわば成長のプロセスなのである。

そう考えてこそ、「罪を憎んで人を憎まず」 というテーゼが、初めて意味を持つ。

今回の京都府宇治の学習塾における殺人事件も、犯人のアルバイト講師は、年齢的には大人かもしれないが、精神的には小学生よりもまだ子どもである。

彼は取り調べに対して、「紗也乃さんがいなくなれば、楽になると思った」 と供述したと伝えられる。人を殺して自分が楽になれるはずがないという単純なことに、彼は気付かなかった。なぜ気付かなかったのかといえば、彼が 「無明」 に耽溺して、「気付こうとしなかったから」 である。

今回の事件に限らず、ほとんど全ての殺人は、そうした深刻な 「無明」 によって成立する。だから、「確信の悪」 と 「未必の悪」 の間には、根本的な境界線はない。「悪」 は 「無明」 の中にしかないからだ。

「人を憎まず」 というには、殺人はあまりにも取り返しのつかない行為だが、それでもなお、「憎まず」 に通すのが、宗教的態度であると、私は思う。憎悪は無明を増幅させるだけだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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コメント

納得です。

投稿: alex99 | 2005/12/13 19:01

alex さん:

ありがとうございます。

投稿: tak | 2005/12/13 22:48

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