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2005/12/14

「フツーのずるさ」

さて、今日は BBS に 「かっこいいお兄さん」 から提示された 「公案」 の 「フツーのずるさ」 について考察してみよう。

二者択一の質問をしても、どっち付かずの 「フツー」 と答える子どもたち。極めて中途半端な手応えのなさ。これを 「フツーのずるさ」 と見る視点は、とても鋭いと思う。

さらに、BBS には 「かっこ悪いお兄さん」 まで乱入し、別の視点からの指摘をしてくれた。まさに、当サイトは 「ヴァーリトゥード (禁じ手なし)」 である。うれしいことである。

「かっこ悪いお兄さん」 は、"「フツー」はずるさではなく、社会の矛盾に立ち向かう、子供達にすれば立派な知恵" という見方も提示してくれた。なるほど、そうした見方も可能だ。

彼の指摘は、以下のような裏付けを伴っている。

(いわゆる 「フツー」 でない) 言動が個性的な子ども達は、「出る杭は打たれる」 式に潰されていくか、反抗や非行や犯罪といった、メディアが非難するだけで根本的な 「教育問題」 に言及しないニュースに次々に登場していっている・・・

そうならないように、子どもたちは 「フツー」 を装う 「立派な知恵」 を身に付けているというわけだ。

ただ、これが 「立派な知恵」 かどうかは議論の余地がある。時と場合によっては、「猿知恵」 だったり 「狡猾さ」 だったりもするからだ。それが小学校の先生である 「かっこいいお兄さん」 のいう 「フツーのずるさ」 という見方につながる。

結論をいえば、「フツー」 は、本質的には善くも悪くもない。「相対的な善悪」 が、人間の都合による言い方にすぎないのと同じで、「フツー」 は、時と場合によって、善くも現れれば悪くも現れるというだけのことだ。

ただ、ちょっとだけ意地悪な見方をすれば、「フツー」 は多くの場合、隠れ蓑である。人は個性的だと、誉められもする代わりに叩かれもする。しかし、「フツー」 を装えば、とても安全なところに身を隠していられる。

「善人なほもて往生をとぐいはんや悪人をや」 と親鸞は喝破した。「善人」 とは、「俺は決して悪くない。悪い奴らは他にいる」 と思っている 「フツーの人」 である。それよりも、「俺って、結構悪いかも」 と己をきちんと省みることのできるヤツの方が、極楽往生を遂げやすいというのである。

「無自覚なフツー」 は、「無明 = 迷い」 そのものなのだ。それがわかれば、「悪人正機説」 とは、昨日触れた "「知って犯す罪」 より 「知らずに犯す罪」 の方が重い" というテーゼの、別の言い方であるとわかる。

「善人」 を 「フツーの人」 、「悪人」 を 「フツーでない人」 と読み替えてみよう。「俺、フツーじゃないかも」 と、自惚れでなく、きちんと自覚できるヤツの方が、そりゃあやっぱり、ちょっとしたものなのだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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