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2006/01/26

「全能の神」 って、想定内?

Reiko Kato さんの 「晴れの日もある」 で紹介されていたのだが、「秋久のページ」 に、全能者の存在を簡単に否定するロジックに対する反論というのが披露されている。

「全能者」 とは、すなわち 「全能の神」 ということだろうから、要するに 「あなたは神を信じますか?」 というテーマにつながるだろう。

まず、「秋久のページ」 で紹介されている 「全能者の存在を簡単に否定するロジック」 を、引用してみよう。これは、筆者が 17歳頃にクリスチャンである数学の先生から教わったものだという。

 まず、全能者がいると仮定する。彼に向かって、『絶対に折れない棒を作ってください』 と頼む。彼は全能だから、『絶対に折れない棒』 を棒を (ママ) 作ってくれたとする。
 次に、彼に向かってこう言えばよい。『その棒を折ってください』 と。
 もし彼が棒を折ったとすれば、最初の条件である 『絶対に折れない』 と矛盾する。逆に、棒が折れなければ、それは彼の 『全能』 と矛盾する。棒が折れても折れなくても、全能は否定される。だから全能者は存在し得ない

このロジックに対して、秋久さんは、以下のように反論している。

私たち人間が、全能の神に向かって 『絶対に折れない棒を作ってください』 と言います。ここまでは先ほどと同じです。すると全能の神は、『人間には絶対折ることができないが、神には折れる棒』 を作ります。人間には折れない棒、すなわち、人間の文明がどれほど発達しても折ることの出来ない棒です。しかしその棒は、神の文明(?) を用いれば折ることの出来るのです。
 その棒を見た人間が、全能の神に向かって 『その棒を折ってください』 と言います。そうすれば、神はいともたやすく自分の作った 『神には折れるが、人間には折れない棒』 を折ることでしょう。

この反論には、多少無理がある。「絶対に折れない棒」 と 「神には折れるが、人間には折れない棒」 という命題自体が矛盾するからだ。「絶対」 対 「全能」 の矛盾である。

秋久さんは、さらに、以下のように言及している。

 この話は、全能の存在を許すわけではありません。もし全能の神に向かって「神でも折ることができなお (ママ) 棒を作ってくれ」 と頼めば、最初の話に従い、全能は否定されます。それでは、クリスチャンは全能の神を信じないのでしょうか?

私が今まで話をしたことのあるクリスチャンの方によると、「人間は神を試してはいけない」 という事です。

なるほど、クリスチャンの信仰は徹底したものである。しかし、より徹底した言い方をすれば、「人間は神を試してはいけないどころか、試すこと自体が不可能である」 ということになるだろう。

もし 「全能なる存在」 というものがあるとすれば、全能ならざる人間 (あるいは 「人間の論理」) は、それを試したり検証したりできるレベルにないのである。二次元世界の住人が、三次元世界の住人を想像することができないのと同様だ。全能なる神とは、いわば、無限大次元の存在なのだから。

それ故に、人間は神の存在を証明することができず、ただ、「想定する」 だけである。自ら想定して、自ら信じるのである。信仰とは、そうしたものである。

ということは、人間が存在しなければ、神も存在しないかもしれないのである。その意味では、人間というのは大したものである。全能者が 「想定内」 なんだから。このあたりは、「全ての者に仏性がある」 と喝破する仏教に近くなる。

全能なる神は、幼稚な論理で神の存在を否定したつもりになっている人間をも、その無限の愛もて摂取し、生かし続けてくれるだろう。そして、その全能なる神は、全存在をかけて想定、つまり信仰する者の中に存在するのである。

宇宙は  「全能」 を想定しうる者を、大脳皮質を超えたレベルで 「全能者」 とつなげ、無限に生かしてくれる。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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コメント

こんにちは、ネットサーファーです。
サイト作りに行き詰るとこういう息抜きがいいですね
おもしろかったです。ではまた

投稿 ぱみこ | 2006/01/26 17:03

>サイト作りに行き詰るとこういう息抜きがいいですね

どういう息抜きですか?

投稿 tak | 2006/01/26 22:25

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