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2006年3月に作成された投稿

2006/03/31

お客様は神様です

平成 15年 8月の当欄でも書いたが、米国の中堅スーパー、ステュ・レナーズの社訓は、「お客はいつでも正しい」 ということだ。

正確には、「規則 1: お客はいつでも正しい。規則 2: もし、顧客が間違っていたら、もう一度、規則 1 を読むべし」  日本流に言えば、「お客様は神様です」 みたいなものだ。

元の英語では、次のようになっている。

Our Policy:
Rule #1 -- The Customer is Always Right.
Rule #2 - If the Customer is Ever Wrong, Re-Read Rule #1

このように書かれた立派なモニュメントみたいのが、店内に飾ってあるのを、現に私も 3年前に見た。これは徹底した顧客志向のモデルケースとして、マーケティングの世界でも時々話題になっている。

しかし、現実問題として 「お客は常に正しいか?」 ということになると、そうも思えないことが多い。4年も 5年も前に買った服の袖口がほころびたといって、クレームをつけるお客もある。4~5年も着れば、服の袖口というのは、フツーほころびるものである。

きれいでしなやかな髪の女優が CM をするシャンプーとリンスを使っているのに、自分の髪が、「あんな風にふわっと風になびかないじゃないの!」 と、わざわざ電話してくるお客もいる。

消費者の中には、とてもインテリジェンスの高い人もいるが、中にはちょっとずっこけそうな人もいるということだ。それでも、顧客志向はしなければならないのだから、製品のサプライヤーというのは、なかなか気苦労の多いものだ。

ところで、件のステュ・レナーズの社訓だが、あれは社訓というよりは、したたかなイメージ広告として機能していると思う。

社訓というなら、スタッフの心構えとして徹底するために、オフィスやバックヤードに掲示しておけばいいのだが、あんな風に売り場の目立つ位置にもっともらしく飾ってあるというのがミソだ。あれはまさしく、外に向かった 「広告」 なのだ。

あれで顧客をいい気分にさせるのである。まさに 「お客様は神様です」 と言っているようなものだ。

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2006/03/30

朝日新聞をきっちりと擁護する

朝日新聞の秋山社長の息子が大麻所持で逮捕され、社長を辞任するのしないので、騒がれている。夕刊フジの見出しでは、「朝日クーデター説」 とまで言われているようだ。

普段、朝日には批判的な私だが、これくらいのことで社長を辞めることはないだろうと、珍しく擁護派にまわってしまおう。

別に朝日新聞から給料をもらっているわけでもない 35歳にもなった息子が何をしようと、それは単なるプライバシーである。息子が警察沙汰を起こしたぐらいで社長を辞めなければならないのなら、日本中に辞めなければならない社長がいくらでもいる。

朝日新聞社長は、普通の私企業の社長とはワケが違うというのかもしれない。社会正義を任ずるジャーナリズムの社長であれば、責任を取らざるを得ないとの論調もある。

しかしそれは買いかぶりすぎである。朝日にそれほど立派な社会正義があるわけではないのは、一連の不祥事で、既に広く認識されている。

また、政治家や大企業の不正は積極的に追求するのに、自らの社長の息子の不祥事は 10日間も隠していたことがけしからんという人もいる。しかし、これは別に隠していたわけではない。単に 「報道しなかった」 というだけである。

警察の取り調べにも黙秘権が認められているのに、自分に不利益な報道をしなければならないといういわれはない。不祥事を隠さず自ら報道せよというなら、多くの新聞は身内の不祥事のニュースだらけになる。

こんなことでいちいち社長を辞めていたら、世の中、大変なことになる。社長を失脚させたかったら、そのどら息子をドラッグか色仕掛けでたらしこんで、不祥事を起こさせればいいということになる。おちおち社長なぞやっていられない世の中になる。

それに、自分の息子をまともに育てられなかった人物が社長にいれば、社全体としても、少しは謙虚な姿勢になるのではないかと期待する。

今回は、珍しくきっちりとアサヒを擁護させていただいた。

本当は、4月 1日付で 「アサヒ、大麻解禁キャンペーンに乗り出す」 というエイプリルフール・ネタを書こうかとも思ったのだが、あまりにもバレバレだろうから、断念した。

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2006/03/29

ココログさん、またやってくれた

28日に、ココログが機能アップのためのサーバ・メンテをしていた。このところ、ココログがメンテすると、必ず何か不具合が発生するのだが、今回もまたやってくれた。

メンテが終わってから、管理画面に入るのがやたらに重い。その上、ブログのヘッダー・デザインが、崩れてしまっているじゃないか。

それだけじゃない。今回のメンテで、コメント/トラックバック・スパムのセキュリティを大幅強化したという触れ込みなのだが、嘘ばっかりである。こともあろうに、28日付けで、どっとトラックバック・スパムが付いてしまった。

崩れたヘッダー・デザインの修正も、トラックバック・スパムの削除も、なにしろ操作が重すぎてままならない。こんなになるなら、何もしてくれない方がマシだった。

あまりレスポンスが悪くて、まともなことを書き込む気にもなれないので、今日のところは、これにて失礼。

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2006/03/28

あの事故で死なずに済んだ妹

昨年の 12月 25日に発生し、死者 5名、重軽傷者 32名となった羽越線特急の脱線転覆事故は、まだ記憶に新しい。

人の命というのは、わからないものである。この便に乗る予定だった私の妹が、たまたま直前に予定を変更して、命拾いしていたということが、後で聞いてわかった。

昨年 12月中旬は、実家の引っ越しがあって、私と妻、そして妹がその手伝いで帰郷したのである。この頃から、東北の日本海側は大雪が続いていたが、この引っ越しの間だけは、幸運にも大した雪にならずに済んだというのは、当欄でも触れたとおりである。

我々夫婦は早めに引き上げ、妹は引っ越し後の細々とした整理のために 12月下旬まで残った。そして、彼女は 12月 25日の特急いなほ 14号に乗って、東京の自分の家に帰る予定だった。

しかし、前日だか前々日になって、妹の娘 (私の姪) から 25日は、友達が泊まることになったから、帰るのは 1日遅らせて欲しいという連絡があり、予定を変更したのだった。

そして、彼女の乗るはずだった 12月 25日の特急いなほ 14号が、酒田駅を出てしばらく行ったあたりにある鉄橋を渡り終わえたところで、烈風に煽られ、脱線転覆したのである。とくに進行方向前側の 3両は、めちゃくちゃに潰れてしまった。

妹は、新潟駅での乗り換えに都合がいいというので、いつも 1両目に席をとることにしていたらしい。ということは、予定通りにその列車に乗っていたら、たとえ死なないまでも、重傷を負っていただろう。

この事故のために、羽越線はしばらく不通になり、妹は高速バスで仙台まで行って、東北新幹線で帰宅したのだが、酒田から仙台までの峠越えは、吹雪のために相当な難儀をしたらしい。それでも、「死ぬよりはまし」 と、我慢できたというわけだ。

人の運命というのは、ほんのちょっとしたことでどう転ぶか知れたものではない。あなたも私も、今、ここにこうして生き長らえているということは、実は、かなり幸運に恵まれた結果と言えるかも知れない。

どんなに 「ついてない」 と思える人生でも、事故で死ぬよりはずっとましである。今、この瞬間に、自らの幸運に感謝しても、バチは当たるまい。

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2006/03/27

尊厳死ということ

富山の病院の外科部長が 7人を 「安楽死」 させていたというニュースは、法律問題を少し離れてみても、かなり面倒な問題だ。

私は今月 9日のエントリーに 「百まで生きてどうする」 というタイトルで、この長寿社会においては、「いかにしてつつがなく死ぬか」 が問題になると書いている。

私は医療に関してはまったくの素人なので、完全な素人考えとして言わせてもらうのだが、「如何に手を尽くしても快方の望みがなく、延命的措置を施さなければ死ぬことが確実な病人」 というのは、どう扱うべきなのか、これからは大きな問題になると思う。

下手すると、「病院で呼吸だけはしている」 という人間が、この世にあふれかえらないとも限らない。

私個人について言えば、延命措置に頼って生き続けるのは、御免こうむりたいと思っている。そうなったら、さっさとあの世に行ってしまいたいものだ。

「お迎えが来たら、さっさとこの世にさよならしたい」 というのは、案外多くの人に共通した願いだと思う。だからこそ、かの外科部長は、一見 「オートマチックな措置」 に見えるほどに、当然のごとく人工呼吸器を取り外させてしまったのだろう。

もし、自分がそうしたケースの遺族だったと仮定したら、「親族を殺された」 として、その外科部長を強く恨むだろうかというのは、かなり疑問だ。そりゃあ、かなり複雑な思いが残るだろうが。(誤解のないように付け加えるが、これは自分に限ったケースとして想定している)

問題なのは、そうやって個人の権限で 「オートマチック」 に、延命措置を停止させることを認めてしまったら、大変なことになるということだ。その個人が、病人の生死を決める 「神のような存在」 になってしまうからだ。

いくら 「八百万の神」 の国とはいえ、あちこちの病院ごとにそれぞれに我の強い 「神」 がいたのでは、かなわない。

それだからこそ、日本尊厳死協会という会でも、"自分らしい 「死に方」" という問題について、かなり慎重な態度を示している。話は面倒になるが、いくら面倒になってもしかたのないことだ。

それに、死に行く当人が 「早くあの世に行きたい」 という意志をもっていたとしても、その家族や親類縁者が 「まだまだ息だけでもしていてくれ」 と熱望したら、なかなか死なせてもらえないだろう。家族のエゴとまでは言わないが、なかなか難しい問題だ。

延命措置というのは、考え方によっては 「余計なお世話」 である。しかし、医療行為のほとんどは 「必要な措置」 というのは当然のことで、どこから先が 「余計なお世話」 になるのかという線引きは、これまたとても難しい。個人の考え方や時代によっても違うだろうし。

ただ、私に限っては 「余計なお世話」 をされるのはとにかく嫌いなので、何十年先になるかわからないが、とにかくよろしく頼む。

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2006/03/26

水に落ちた犬は、放っときゃいいじゃん

永田議員がついに 「情報仲介者」 の名前を白状した。もう既に日本中で有名な人だったから、別にニュースというにも値しないが。

今回の偽メールケース、こんなに日本中で大騒ぎするほどのことだったのかなあと思う。何でかくまで大騒ぎになったのかというと、マスコミの浮かれすぎがあるかもしれない。

これ、自戒をも込めて言うのだが、この件に関してのマスコミの論調、「俺らが最初っからわかってた見え見えのガセネタ、こんなに無邪気に信じちゃうなんて、信じられないぜ。民主党って、馬鹿だぜ!」 と言わんばかりのはしゃぎすぎだ。

自分に跳ね返ってくる心配がないからといって、ちょっとエラソーすぎやしないか。いくら滅多にないチャンスだからといって、鬼の首でも取ったように自らの優位を示しすぎである。マスコミってそんなことまで言う立場じゃないんじゃないか。

考えてみれば、今回のケースって、永田議員が西沢某にだまされていい気になって、自民党の武部幹事長の息子にちょっとした迷惑がかかって、でも、すぐにコケてしまったというだけのお話である。国民全体には、具体的な被害はない。

それでも、国全体がよってたかって民主叩きに出ているのは、「俺たちゃ、すっかりわかってたのさ」 という、マスコミの 「プチ自慢」 的論調が多いからではなかろうか。なまじ、はっきりとは書けなかっただけに、小出しに繰り返される。

もういいじゃん。そりゃあ水に落ちた犬を叩きまくるのは気持ちいいかもしれないけれど、周り中で便乗的に騒ぎ立てるのは、止めにしとこう。マスコミも、「刀の穢れ」 ってことを知ったらよかろうよ。

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2006/03/25

「名残り雪」 というには凄すぎて

昨日から酒田に来ている。車で来たのだが、途中、通称 「月山越え 六十里街道」 の 国道112号線を通った時には、驚いてしまった。

何度も通った道筋だが、3月下旬であんなにも雪が残っているのを初めて見た。さすがに道路はきれいに除雪してあるが、周りは雪の壁のようになっている。

それも、山越えの道だけではない。登り口に取り付く前の西川町の辺りで、すでに道路の両側が雪の壁だったりする。軒下は、屋根から落ちたらしい雪が積み重なって、山になっている。

月山の麓の集落ともなると、まだすっぽりと雪に覆われて、完全に冬景色だ。今年の豪雪の如何にすごかったかがうかがわれる。父に今年の雪かきの苦労を聞くと、大変なことだったろうと思う。

ありがたいことに、今日は快晴だ。朝から春らしい日が差し込んで、ほのぼのとした景色である。彼岸も過ぎて、これからは、少しは体の筋がのびのびとする季節である。

今日は、雪の写真のサービス。「名残り雪」 というには凄すぎるが。


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2006/03/24

民主党の知らないリスクマネジメント

民主党、本当にリスクマネジメントがなってないなあ。「ヤバイ状況になったときに、やってはいけないこと」 ばかりやっている。これでは危なくて、政権なんて任せられない。

こういう場合のもっともいいやり方は、「何もそこまでしてくれなくても・・・」 というぐらい、さっさと責任者の首を差し出すことだ。

今回のケースで言えば、まず、永田議員は素速く辞職し、さらに、野田国対委員長ばかりでなく、前原代表まで辞任すべきだった。「トカゲの尻尾キリ」 ではなく、「解党的出直し」 を印象付けるべきだった。

そこまでして、初めて世の中というのは納得するのである。相手に与えそうだったダメージの数倍のダメージを自ら引き受けることによって、相手も 「あなたの誠意はよくよくわかりました。さ、さ、ついた両手をお上げになって・・・」 となるのである。

なぜなら、相手もそれ以上追いつめようという姿勢なんか見せたら、今度は自分の方が悪役になってしまうからだ。

ローレンツ博士の 『ソロモンの指輪』 に、オオカミは争いになっても、相手が負けを認めて首筋を差し出せば、自然に抑制が働いて、それ以上攻撃することができなくなるというようなことが書いてある。人の世でも、時としてそれと似た摂理が働く。

しかし、民主党は進んで首を差し出さなかったばかりでなく、「トカゲの尻尾」 すら切らず、拙いレトリックの 「謝罪」 を小出しにしているだけである。前原代表は辞める気配すら見せず、さらに代議士の地位にしがみつく永田議員に引導を渡すこともできない。

これだと、相手はいつまで経っても居丈高な姿勢を崩さなくて済む。一番下手なやり方なのだ。

それにしても、永田議員は、これまでよっぽど 「順調」 な道を歩き続けてきたんだろうなあ。「この俺が、公衆の面前であれだけ頭を下げたんだから、もうチャラだろう」 ぐらいに思ってるのかもしれない。シアワセな人である。

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2006/03/23

仏道修行は広く深い

私はこう見えても 「家事をする夫」 である。炊事、洗濯、掃除、ボタン付け等々、一通りの家事は、そつなくこなせる。

とくに、食器などの洗い物は、我ながら感心なものである。私は食事が終わると、ほぼオートマチックに自分の使った食器を流しに運び、ささっと洗ってしまうことが身に付いている。

そのうちに、家族の食べ終わった食器がどんどん流しに運ばれてくるが、それらも私は躊躇することなく洗ってしまう。そればかりではない。私が炊事すると、作り終えた時には、同時に鍋釜も洗い終わっている。その段取りのよさは、はっきり言って妻の数段上である。

禅の公案をまとめた 『無門関』 という書物の第七則に、「趙州洗鉢 (じょうしゅうせんぱつ)」 というのがある。

唐代の名高い禅僧、趙州和尚が、道場の新参者の僧に指導を請われたということが書かれている。

新参僧 「ご指導をお願いします」
趙州  「粥はもう食ったか、それともまだか?」
新参僧 「もう頂きました」
趙州  「そうか、それじゃ、茶碗を洗っておいで」

これだけの問答のうちに、新参の僧は、深く悟るところがあったというお話である。要するに、当たり前のことを当たり前にやれということと伝えられている。(その 「当たり前」 というのが、かなり曲者といえば曲者なのだが)

とりあえず、私も禅宗の坊主の孫なので、自分の使った食器は、さっさと洗ってしまおうと、いつの頃からか心に決めたのである。大げさにいえば、これも仏道修行である。

ところが、私の知人のご主人は、夕食後にさっさと食器を洗うことを、とても嫌われるというのである。芸術家である彼は、夕食後はゆったりとお酒を楽しみたいので、台所からカシャカシャと食器を洗う音がするのは堪らないのだそうだ。

ふぅむ、いろいろなライフスタイルがあるものである。

私は食事の後はさっさと食器を洗うのが、仏道修行であると思っていたが、彼の妻は、さっさと済ませたい食器洗いを先延ばしにして、夫に気持ち良くお酒を飲ますことを優先しておられる。

これは自分の都合だけでワシワシと洗い物を済ませるより、もっとレベルの高い仏道修行といえるかもしれない。「当たり前」 以上のことをしておいでなのである。

仏道というのは、広く深いものである。

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2006/03/22

「胴上げ」 を世界に広めたい!

私は、野球、ゴルフ、テニス、卓球といったスポーツにはあまり興味がなくて、圧倒的なシンパシーを感じることがないんだけれど、あえてこれらの共通点を挙げるとすれば、「小さいボール」 のスポーツということになりそうだ。

とはいいながら、WBC 初代チャンピオンとは、そりゃ、負けるよりはずっとおめでたい。

てなことをいいながら、少しは儀礼的に、王ジャパンに 「おめでとう」 を言っておくのだが、私としては、優勝そのものよりずっとうれしかったのは、サンディエゴで 「胴上げ」 というパフォーマンスを盛大にやって見せてくれたことだ。

私は、「胴上げ」 大好きである。せっかく初代優勝監督が胴上げで宙を舞うというパフォーマンスをして見せたのだから、これを機に、WBC の優勝チームは監督を胴上げするという恒例にしてはどうかという提案をしてみたいのである。

これ、積極的に提案しないと、国際的には受け入れられないだろう。というのは、「胴上げ」 というのは、多分、日本独特の習慣なのではないかと思うのだ。他の国には決してないと断言するまでには至らないが、少なくとも、日本以外での胴上げというのは、見たことも聞いたこともない。

一節によると、「胴上げの総元締め」 は長野の善光寺で、いにしえの昔から毎年暮れの 「如来ご越年式」 という行事の中で執り行われるのが、日本で、ということは、世界的にみても、「最も権威ある胴上げ」 らしい。

民俗学的発想としては、人の足を地面から離すということにより、「ケ」 (日常) から、神聖なる 「ハレ」 (非日常) の世界に送るということのようだ。道理で、胴上げされると気持ちがいいわけだ。

日本の標準タロウ」 というサイトの第 1回は、「胴上げされた経験があるか、ないか」 のウェブ上アンケートになっていて、その開票結果は、投票総数 129票のうち、「ある」 が 41票、「ない」 が 88票ということになっている。

つまり、日本の胴上げに関しての標準は、「されたことがない」 ということになっているようだ。しかし、願わくは日本人の大半が 「1度は胴上げされたことがある」 という社会にしたいものである。そうなれば、日本はさぞかし平和で豊かな社会になっていることだろう。

私自身は、過去に胴上げされたことが 3度ある。しかし、3度のうち、本当に上手に上げてもらったのは、1度きりで、残り 2度は中途半端に終わり、消化不良的な印象にとどまった。「正しい胴上げ」 とは、実は、なかなか難しいものなのだ。

「胴上げ」 の裾野がより広がれば、「正しい胴上げ」 をするテクニックが、国民的常識となるはずである。そうなることを念願する。

こうなったら、第 2回大会でも日本が優勝して、ダメ押し的に胴上げのパフォーマンスをしてみせて、「ドーアゲ」 を国際語に昇華させてもらいたいものである。こんな気持ちのいい風習を、日本だけに留めておくのは、「モッタイナイ」。

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2006/03/21

風邪ってどんなものだか、忘れていた

「毎年よ彼岸の入りが寒いのは」 という正岡子規の句があるが、今年の彼岸の入り、18日から 19日にかけての寒さは格別だった。

私は出張先の三重県で、雪の降るほどの寒空にさらされていた。おかげで、どうやら風邪を引いてしまったらしい。まだまだ、本物の馬鹿になりきれていない証拠である。

出張先では晴れ男の常で、雪が降ろうが吹雪になろうが、徒歩移動と野外での撮影の必要な時には、ぴたりと晴れる。おかげで、仕事には何の差し障りもなかったが、それでも、寒さには変わりない。とくに、名古屋での乗り換えの時は、あまりの寒さに、別の国に来たかと思った。

やはり、琵琶湖というのはくせ者である。あれのおかげで、日本海側に吹き付ける季節風が、せき止められることなく、まともにやってくる。雪を濾し取る山がないので、当たり前のように、吹雪になる。

二日目に仕事が終わり、上野城、忍者博物館、芭蕉翁記念館を見学した時にも、さすが晴れ男、雪には降られずに済んだ。しかし、寒風は寒風である。

その寒風の中、どうしてこんなに鼻水が出るのかと思ったが、まさか、風邪を引いてしまったとは気付かなかった。しばらく、まともな風邪らしい風邪を引いていないので、風邪とは鼻水の出るものだということを忘れていたようだ。

昨日になって、妻に 「どうしたの? ずいぶん風邪声よ」 と言われて、初めて風邪を引いたと気付いたのである。そういえば、すこし喉も痛くて、寒気がすると思っていた。しかし、そうしたことが風邪の症状というものだということも、すっかり忘れていた。

ただ、頭痛がするわけでもなければ、節々が痛いわけでもない。元気である。しかし、こういうのが一番困る。つい油断をしてこじらせてしまいかねない。

今週の金曜日からは、田舎に帰らなければならない。車を運転するので、こじらせるわけにはいかないので、少しは大事にする必要がある。

というわけで、養生させて頂くことにする。今日のところはこれにて失礼。

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2006/03/20

「ボブ君」 に助演男優賞

出張先から帰ってくる新幹線の電光掲示板ニュースで、WBC で日本が韓国に勝ったことを知り、思わず笑ってしまった。

この大会、既にほとんど終わっている。我々は、「米国の米国による米国のための大会」 で、米国が見事に消えるという、ナンセンス・コメディを見せてもらったのだ。

現在継続中なのは、日本とキューバのためのサブストーリーというか、ボーナストラックみたいなもので、メインストーリーからみたら、もうどうでもいいお話なのかもしれない。

この大会に最も熱狂的だった韓国は、唯一地区リーグからずっと無敗で突っ走ってきて、しかもあの米国に大勝したナショナルチームが、どうして、それまで 2度勝った相手にたった 1度負けただけで、消え去らなければならないのかと、憤慨しているだろう。

しかし、それこそが、この大会のとてもいびつなシステムの結果なのだから、仕方がない。

フツーの常識だったら、準決勝は、2つのリーグ戦の、異なった組の 1位と 2位同士が対戦することになるのだろうが、今大会ではそうした常識は無視され、同一組の上位 2チームの対戦となっている。これだったら、トーナメントの準決勝という意味がない。リーグ戦の 2つの組のプレーオフで、勝った方が最後の決勝進出という方がずっとわかりやすい。

この常識外れのシステムは、元々は、米国が強豪の中南米チームに当たらずに 「準決勝」 を突破し、確実に 「決勝」 に進出するために作られたシステムだと、考えざるを得ない。

その妙なシステムの結果、日本はフツーに闘いさえすれば勝てる相手に勝って、決勝進出を決めたというわけだ。元々の想定では、ここで米国が、日本か韓国に勝っているはずだったのだろうが。

その米国が、日本相手に 「ボブ君」 の奥の手を使って勝ち、そのためにどう気後れしたのか、同じアジアの韓国に大敗した。そして、フツーに戦えば負けるはずのないメキシコ戦でまで、「ボブ君」 が変てこなことをしたために、すっかり諦めてディズニーランド見物なんてしていたチームを、必要以上に奮い立たせてしまった。

「ボブ君」、彼なりによかれと思ってしたことが、すべて反対の効果をもたらしている。最高のボケ役だ。今回の大会のナンセンスさの元凶は、システムをきちんと整備することなく、拙速に大会実現にこぎ着けてしまった主催者の甘い見通しだったが、それを見事に完成させたのは、 「ボブ君」 の大ボケだったと思う。

おかげで、この大会にはほとんど興味のなかった私までが、急に大喜びでウォッチするようになってしまった。「ボブ君」、助演男優賞確実だ。

ちなみに、米国という国は、昔から余計なお節介をしては、かえって失敗するという伝統があるようだ。

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2006/03/19

東横インのコンセプト

やや旧聞になってしまうけれど、実は、私は例の 「東横イン」 というホテルに泊まったことがある。それも、最近の話だ。

泊まってみた感想は、悪くはなかった。部屋はそこそこきれいだし、サービスも悪くない。ただ、肝心なところで 「ふーん、やっぱりね」 という、セコさ丸出しの印象は否めない。

それは品川に近い青物横丁という京成線の駅に隣接したホテルだったのだが、14フロアもあるのに、エレベーターが 1基しかない。10フロア以上のホテルで、エレベーターが 2基に満たないというのは、少なくとも私は初めて見た。

エレベーターを 2基設置するぐらいなら、その分、客室を 13室増やせということなのだろうなあ。まあ、気持ちはわからないではない。

しかし、宿泊客にとっては大迷惑なのである。空いた時間帯なら、それほどエレベーター待ちの時間を取られなくて済むが、朝のチェックアウトが殺到する時間帯は、大変なことになる。

まず、エレベーターが到着するまで、とんでもない長時間待たされる。そして、せっかく来たと思っても、既に満員近いので、5人待っていても 2人しか乗れなかったりする。

それならばと、階段を利用しようにも、階段につながるドアノブはプラスチックケースで覆ってあって、開けるには、そのケースをぶち壊さなければならない仕掛けになっている。よほど待たされて、こちらがぶち切れてしまった場合には、躊躇なくぶち壊すだろうが、なかなかそうもいかない。

それに、通りかかったメイドさんに聞いたら、その階段を下りると、ロビーではなく、ホテルの外に出てしまうのだそうだ。へぇ、階段スペースまでけちって、純粋の非常階段のみにしているわけね。

要するに、「これだけ安く泊めてるんだから、障害者だけでなく、一般の宿泊客も、多少の不便は我慢してね」 というコンセプトのホテルだと理解した。しかし、「不便」 にも、我慢できるものとできないものがある。

混雑によるエレベーター待ちで、望んだ時刻にチェックアウトすることはおろか、フロント・ロビーに到着することすらできないというのは、我慢以前の問題だ。失われた時間は取り戻せないのだ。

全室シャワートイレなんかにするよりも、適切な数のエレベーターを設置することの方が重要だと思うがなあ。

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2006/03/18

WBC のいびつさ

ふーん、アメリカン・ベースボールというのも、日本の大相撲と似た状態だったんだ。「土俵」 としてのメジャーリーグは、そりゃ世界一だが、横綱は外国人だったというような。

今回の WBC の主催者、見通しの甘さ加減に地団駄踏んでるかもしれない。準決勝以後のトーナメントが、お金にならないんだもの。

主催者は、米国チームは当然の如く決勝戦に進出して、悪くても 2位ぐらいの目算でいたんだろうなあ。優勝は、メジャーリーガーどっさりのドミニカあたりなら、何とか言い訳できるし。

しかし、野球という競技は、なかなかくせ者である。昨年のパリーグのプレーオフを見ても、レギュラーシーズンではダントツで首位だったダイエーが、ころりと負けてしまうのだもの。

それに、野球の 「実力」 というのは、案外微妙なものだと、私は前々から思っていた。なにしろ、各シーズンの優勝チームの勝率は、大体 6割前後で、5割台での優勝というのも全然珍しくない。

つまり、シーズン平均で、3回やって 2回勝てなくても、余裕で優勝という競技なのだ。短期決戦なら、どこでどう転ぶか知れたものではない。そうした意味では、2次リーグを、アウェイとホームで 2回戦うというシステムにしなかったのは、大いなる誤算だった。

とはいいながら、プレシーズンにそんな時間をかけたご丁寧なことをすることにしたら、メジャーリーグの反対で WBC は実現しなかっただろう。つまり、今回の急ごしらえの大会は、初めからいびつなシステムだったのだ。

そこから目をそらせたのは、「米国が決勝に行けないわけがない」 という信じ込み以外の何物でもなかったろう。その 「信じ込み」 が強すぎて、米国の選手は調整が中途半端だったということもあるだろうし。

彼らにしてみれば、WBC でいくら頑張っても、レギュラーシーズンでその反動が出てしまったら、給料に関わるのだから、かなり歯がゆいところだろう。

その一方で、よく言われることだが、韓国選手のモチベーション、異常に高い。兵役免除という、鼻先にぶら下げられた人参は、ものすごい威力だったようだ。こんなことなら、兵役免除措置はそんなに急がずに、準決勝にも勝って 3位以内が決定した時点で、初めてお墨付きを与えるということにしておけばよかったのに。

せっかく日本に 2勝しておきながら、3度目で気がゆるんで負けたりしたら、今回の微妙なタイミングが揶揄されかねない。そんなことにならないように、それはそれで必死に頑張るだろうけれど。

でも、もし今度は日本が勝ったりなんかしたら、2次リーグで 1勝 2敗のチームが 「世界第 2位」 だなんて (下手したら、もっと上の可能性だって生じるし)、それはそれで、ちょっとこっ恥ずかしいだろうなあ。

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2006/03/17

「ライフガードジャパン」 て、何なんだ?

当サイト及び "Today's Crack" には、アクセス解析の仕掛けがしてあり、どんなキーワードで検索してアクセスされたかが、一応わかる仕組みになっている。

今年 1月以後に目立つのは、「ライフガードジャパン」 のキーワードでのアクセスだ。多いときで、1日 に 7〜8件、これで飛んでくる。

私は、今年 1月 10日のエントリーに、「怪しい電話アンケート」 というタイトルで 「ライフガードジャパン」 について触れている。

このエントリーでは、とても怪しい電話アンケートが 「ライフガードジャパン」 というところからかかってきたが、多分、個人情報収集を目的としたものだろうから、こんなのに気軽に答えてはいけないというようなことを書いた。

しかしその後、 「怪しい以上」 のお話なのではないかということがわかってきた。上述の 1月 10日のエントリーに、一連のコメントとして書き加えているが、行きがかり上、ここで改めて報告しておきたい。

1月 30日に、「ライフガードジャパン」 という会社のサイト を発見した。それは、「ブームの真相」 という、ベンチャービジネスを紹介するサイトからのリンクで見つけたのである。しかし、その後、このサイトでの紹介は、削除されてしまったようだ。

ライフガードジャパンのサイトは、本日現在では、工事中ということになっているが、1月 30日の時点では、先物取引だったか何だかの事業内容が紹介されていた。しかし、このサイト、文字情報と見えるものも、すべて画像として表示されており、テキストとしては検索エンジンにひっかからないようになっていた。

つまり、フツーに考えれば、信じがたいほど下手くそな SEO (検索エンジン最適化) をしており、穿った見方をすれば、敢えて、わざと、(くどいようだが) 意図して、検索エンジンにひっかからないように作ってあるものだった。

その後、2月 14日には、住友商事の <なりすましにご注意> というページが検索にかかった。その内容を以下に引用しておく。

「住友商事」 や 「住友商事」 を冠する子会社の社員を装って、投資商品の勧誘や投資に関するアンケートを実施している事例が頻発していますので、ご注意ください。;

当社に照会のあった事例はいずれも類似しており、概ね次のとおりです。

  • 「ライフガードジャパン」 なる会社が個人宅に電話し、天然ガス関連の投資話を持ちかけるが、電話を受けた個人は、同社には馴染みがないので断る。
  • すると、その翌日、「住友商事」 の社員や 「住友商事」 を冠する子会社の社員を装った者が、電話にて、天然ガスに関するアンケートや投資話を持ちかける。
  • 電話を受けた個人が、「ライフガードジャパン」 から同様の話があったことを告げると、社員を装った者は、同社は信用のおけるよい会社である旨伝える。
  • 住友商事がそういうのなら大丈夫と思い、個人は 「ライフガードジャパン」 にコンタクトし、その投資話を進める。

当社及び当社の子会社と 「ライフガードジャパン」 との間に、資本・取引関係は一切ございません。また、当社及び当社の子会社が個人向けに投資商品を販売したり投資に関するアンケートを実施するようなことは一切ございませんので、十分ご注意いただきますようお願い申し上げます。

へぇ、ずいぶんなことをしてくれてるじゃないか。

そして、今日に至るまでほぼ毎日、「ライフガードジャパン」 のキーワードで検索したアクセスがあるということは、今でも、こうした 「怪しい以上の」 アプローチが展開されているのだと想像させるに十分である。

というわけで、同社からアプローチがあったら、十分注意して、それでもなおかつ、欲の皮が突っ張って話に乗るときは、「くれぐれも自己責任で頑張ってね」 ということになるのである。

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2006/03/16

春はとにかく眠い

「春眠暁を覚えず」 というが、私はそんなことはない。朝に冷え込まなくなったので、少なくともベッドから抜け出すのは、冬の間よりずっと楽だ。その分、日中にやたら眠くなる。

とくに、電車で座席に座ってしまうと、覚醒は 5分と続かない。ちょっと目を閉じただけで、次の瞬間には眠ってしまっている。

「眠れない」 などという悩みを聞くと、ほんの少しだけはうらやましいという気さえする。私なんぞは、根を詰めて原稿を書いたりしているときですら、ふと気付くと眠りかけたりしている。ずっと目が冴えていれば、さっさと書き上げられるのに。

それに、眠れなければ、たまっている映画のビデオを一晩がかりでじっくりと見ることもできるのに。今の私は、夜中に映画なんかみたら、多分、30分以内に眠ってしまっているので、映画をまとめて何本も見るなんて芸当は、到底できない。

先だってなぞは、夜中に仕事の調べものでインターネット検索をし、Google で発見したページが混んでいて、表示されるのにちょっと手間取っているうちに、瞬間的にすっと眠りに落ちた。ふと目が覚めて、「俺はいったい、どうしてこんなサイトを見てるんだろう」 と思ってしまった。

電車では、私はいつも常磐快速で終点の上野駅まで行くのだが、時々、ふと目を覚ますと、とっくに上野駅に着いていて、周りはがらんとしていたりする。人情紙の如しである。終点に着いても眠りこける私を、起こしてくれる人とていないのだ。(私は、終点で眠りこけている人を見たら、必ず起こしてあげるのだがなあ)

とはいえ、よく眠れるということは健康な証拠だから、悦んでおくことにしよう。昨日は確定申告に行ってきて疲れちまったので、軽くこんなところで。

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2006/03/15

米国の米国による米国のための・・・

日本中が、「アナハイムの悲劇」 に怒っているようだ。野球を知らない妻までが、「ちょっと、ひどすぎるわよね」 と憤慨している。

しかし、「そりゃ、米国の米国による米国のための大会だもの。そのくらい、十分 『あり』 だろうと、初めから思ってたよ」 と、私は、野球に関しては、かなり冷たく突き放す人である。

ぶちこわしのようなことを言ってしまって、恐縮だが、スポーツの世界の裏側なんて、結局はどろどろした世界である。あまり幻想を抱かない方がいい。

4年前の日韓ワールドカップ、韓国対イタリア戦でどんなことが起きたか、思い出してみるがいい。ましてや、WBC の 2次リーグから先は、すべて米国で行われるのだ。アウェイもホームも、「第三国の審判」 も、「何のこっちゃ?」 という世界なのだ。

元々、この ワールド・ベースボール・クラシックという大会、ずいぶん虫のいいお話なのである。初めから 「公正」 というものがあろうとは思っていなかった。というか、何しろ興味がない。WBC という名称自体、つい最近までボクシングのお話かと思っていた。

だから、サッカーでは少しばかり腹が立ったが、今回はしらけている。

要するに、米国がベビーフェイスで、メジャーリーグに多くの選手を輩出している中南米が準ベビーフェイス、そして、アジアの国 (つまり、日本と韓国) は、ヒール (悪役) という役回りなのだから、あまりきれい事を期待してはいけない。

しかし、見ようによっては、米国はあまりにも早く 「奥の手」 を使うという失策をしでかしてしまったことになるかもしれない。それに、日本は米国全体に 「貸し」 を作ったことになるから、第 2戦以後は、あまりひどい判定は受けずに済むだろう。

元々、米国戦は 「1敗」 と計算していたのだろうから、同じ負けるなら、貸しを作った形で負けた方がいい。あと 2戦を有利に戦えるとすれば、決勝トーナメントに進出する可能性は、逆に高まったといえる。

【同日 朝 追記】

上のテキストは、日付の変わるか変わらないかのうちに書いたものだが、朝起きてニュースをみたら、なんと、米国が韓国にボロ負けしていた。

野球に限らず、スポーツというのは微妙にメンタルな部分の影響力が大きいから、米国の選手、同じアジアの国相手とあって、ちょっと手足がしびれてしまっていたのかな?

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2006/03/14

試験監督官の 「いびき」

東北大学の入試で、試験監督官の助教授のいびきがうるさいと、つまみ出されたというニュース (参照) には、ちょっと笑った。

受験生が挙手して苦情を述べたため、起こしてつまみ出したというのだが、苦情が出るまで、残り 2人の監督官は、さぞかし居心地悪かっただろうなあと、同情する。

この入試には、1試験場に 3人の試験監督官が配置されていたということで、1人がいびきをかいて眠り始めたら、残りの 2人が、それに気付かないはずがない。しかし、受験生から苦情が出るまで、悲しいことに、何のアクションも取れなかったのである。

そうなのだよね。重要な場面で居眠りしちゃう人って、どこにでもいるのだけれど、眠っちゃった人を起こすのって、なぜか、かなり 「蛮勇」 を奮わないとできないのだ。落語にしたって、眠っちゃった客を追い出すなんて芸当は、談志師匠ぐらいしかできることじゃない。

私なんかも、会議で眠くなってしまうことはしょっちゅうだが、目立たないように、ちょこちょこと 「盗み眠り」 するという特技があるので、周囲には (多分) 寝ていると気付かれていない自信がある。これでも苦労しているのだ。

しかし、堂々と眠っちゃう人もいるのだね、これが。静かに眠っていてくれるなら、まだいいのだが、中には、熟睡していびきかいてしまう人もいる。堂々たるものである。

別に 「よほど疲れている」 というわけでもない。寝ちゃいけないところで、いびきかいて眠る人というのは、いつも決まり切っているのだから。つまり、そういう 「キャラ」 なのであって、病気でなければ、要するに、「無神経」 なのだ。

そして、ここが重要なポイントなのだが、無神経な人は、当人は無意識なのだが、周囲に 「遠慮」 を強制してしまうところがある。なぜか、神経の細やかな方が、無神経な方に気を遣ってしまうのだ。

いや、卵とニワトリみたいなもので、いつも気を遣う側に回るひとというのは、習い性として神経細やかにならざるを得ず、気を遣うことを知らないというひとは、結果的に無神経なのだということもできるけれど、まあ、要するに、そういう関係性というのが生じやすいのだ。

何を言いたいのかというと、まあ、こっくりこっくり程度の眠りをしている人は、「エヘン」 という咳払い程度で起きてくれるから、世話はないけれど、いびきかいて熟睡しちゃった人というのは、相当に起こしづらいのだ。やっかいなのである。

無理に揺り動かすと、プライドを傷つけられたような気がするらしく、妙に不機嫌になってしまう人もいるし。

件の試験場でも、無神経な助教授が呑気にいびきかいている間、他の 2人は、本当に困ってしまっていただろうと思う。その非常に気まずい膠着状態を救ったのが、一人の受験生の 「勇気ある」 挙手だったというわけだ。

彼または彼女は、「王様は裸だ!」 と言った子どもと同じような存在であり、その行為は、拍手に値するものである。

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2006/03/13

怒ってみせるということ

私はどちらかというと、怒りに火の点くのが遅い方だと思う。何とかまともに対応しようとしているうちに、後で考えると、「あそこは、怒ってもいい場面だったかな」 と思ったりするが、その時には、もう手遅れだったりする。

だから、いいタイミングできちんと怒れるというのは、ちょっとした才能だと思う。

しかし私だって、子どもの頃は喧嘩っ早かったのだ。一番よく喧嘩をしたのは、小学校 4〜5年生の頃だったと思う。喧嘩の度に、職員室に呼び出されてねちねちと説教をくらうのに、ほとほとうんざりしたのが、小学校 6年生の時分で、それから意識して 「怒り」 を抑えるクセがついてしまった。

この 「思春期の頃」 というタイミングが、大げさに言えば 「人格形成」 に重要なターニングポイントとなったようで、以後、私はすっかり 「穏やかな人」 というイメージを与える人になってしまったようなのだ。

とはいいながら、根っこの部分には、喧嘩っ早さの火種がまだくすぶっているようで、時々はしっかりと怒りを露わにすることがある。ただ、大抵の場合は、世の中の 「体制」 とか 「役所」 とか 「お偉方」 とか 「馬鹿な上司」 とか、そんな対象に向かって怒るのが常で、怒っても感情的にはならないようにしている。

そして、大体は、怒ってもしょうがない相手には、あまり怒らない人である。怒ってもいいタイミングでも、何とか遠回しな皮肉を言うに留めたりすることが多いのだが、私にそんな対応を取らせてしまう相手というのは、そんな皮肉は全然通じないというケースの方が多い。まあ、早く言ってしまえば、「いい気なモン」 なのだね。

近頃学んだのは、そんな相手を必要以上に傷つけないためには、ちょうどいい頃合いを見て毅然と怒ってみせて、私の周囲からいなくなってもらうというのも 「手」 だなということである。

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2006/03/12

捨てハンでのコメントへの対応

私は 「ブログ論」 みたいなものはあまり書く気がしないのだけれど、今回は、コメントに対するレスの付け方について書いてみよう。

なにしろ、3月 6日付のエントリー に、開設以来の多くのコメント (たかだか 40 や 50 という可愛いレベルだが) が付いてしまったので、つい、考えてしまったのである。

というのは、ちょっとした軽い疑問や感想を書く程度なら、捨てハン (「通りすがり」 とか 「名無し」 とかの使い捨てハンドル) でもいいが、本腰入れて議論しようというなら、少なくともコテハン (固定ハンドル、今回は、本名をコテハンとして使っている場合を含む) 名乗れよと、内心思ってしまったのだ。

当方、日頃は 1ケタ程度のコメントで転がってるブログなもので、つい、いつものクセで、いちいちマジにレス付けているうちに、際限なくなってしまって、途中で、何度かアホらしくなっちまったのである。何しろ、議論の相手の顔 (象徴的な意味で 「顔」 と言っている) がよく見えないのだから。

他のブログはどんな対応をしているのかと、調べてみると、大体以下の分類のようだ。

  1. 各コメントにそれぞれ律儀にレスしている。
  2. 一つのコメント欄の中で、それまでの各コメントに名指しでレスしている。
  3. 一連のコメントに、一言二言で、ざっと包括的なレスをつけている。
  4. コテハン以外のコメントは無視している (有無を言わせぬ削除もあり)。
  5. そもそも、コメントにはレスなんて付けない。
  6. コメントそのものを受け付けていない。

この他に、素性の明らかな相手に限るためなのだろうが、他のブログサービスのユーザーを受け付けないという制限を加えているブログもかなりある。

また、やたらとコメントの多いブログの管理人は、いちいちレスを付けない傾向にあるようだ。ブログでメシを食ってるわけでもないのに、毎日毎日 20 も 30 も、あるいはそれ以上のコメントにいちいちマジレスしてたら、仕事にならないのだろう。

で、私自身は、普段のせいぜい 1ケタ程度のコメントならば、よほど悪意があるか、単なる宣伝目的のコメントでもない限り、できるだけ律儀にレスをつけようと思う。コテハン/捨てハンは、問わない。そりゃ、コテハンの方が気持ちはいいけど。

しかし、今回のように突然多くのコメントが寄せられた場合は、考え物だ。今回はたまたま時間に余裕があったから、いちいちレスを付けられたが、こっちも忙しかったりしたら、捨てハンでのコメントは、無視してもバチは当たらないだろう。

そもそも、まともに議論したかったら、自分のコメントに責任を持つためにも、コテハン使えというのは、あながち理不尽な要求でもないと思う。相手が捨てハンだと、こっちとしても、つい軽く対応してしまいがちだし。

それに、「通りすがり」 なんていう捨てハンの誰かさんに執拗にからみつかれるのって、あまり気持ちのいいもんじゃないということが、今回身を以てわかったしね。

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2006/03/11

変痴奇論 − 「的を得る」 その2

「変痴奇論」 という言葉がある。案外使われている言葉でもあるのだが、手元の 『明鏡国語辞典』 には載っていない。Goo 辞書は 『大辞林』 だから、かなり語数が多いはずなのだが、それでも載っていない。

読みは、素直に 「へんちきろん」 でいい。意味も素直に、「変ちきなご意見」 である。

「変痴奇論」 というのは、明治の劇評に端を発する造語と記憶する。当時の 「劇」 といえば 「歌舞伎」 で、これは元々、奇想天外さを多分に含んだ庶民劇なので、近代の小理屈で見れば、つっこみどころ満載なのである。

そこで、歌舞伎の筋や所作などを、「あそこが変だ、ここが理屈に合わない」 などと、いちいちつっこんで評するのを、「変痴奇論」 と言った。そこから転じて、常識の盲点を突いた論理展開をも 「変痴奇論」 と言うようになったもののようだ。

明治の劇評の 「変痴奇論」 は、「心地よいお約束をぶちこわしにする無粋」 だったが、徐々に 「斬新な論理展開」 をやや自虐的にいうケースも加わったわけだ。

ちなみに、当サイトの今月 6日付 "「的を得る」 は、間違いじゃない" も、ちょっとした 「変痴奇論」 として受け取られた形跡がある。その証拠に、私のブログには珍しいほどのたくさんの賛否両論コメントがついた。

このエントリーで、私は 「的を射る/的を得る」 問題について、「的を得る」 は、歴史的に見るとあながち間違いではなく、見方によっては、むしろ由緒正しく、より論理的であるとさえいえるとの旨を書いた。

その上で、"「的を射る」 という表現のみが正しく、「的を得る」 は間違い" とする根拠が崩れた以上、「的を得た」 という表現に、「誤用だ」 とステロタイプなつっこみをするのは止めようと主張したのである。

これ自体、ある意味 「意表をついた」 展開ゆえに 「変痴奇論」 といえばいえるかも知れず、さらに、人によっては、明治の劇評と同様に 「心地よいお約束をぶちこわす無粋」 と受け取られたようなのだ。

ただ、これに対して、"「正しいとされる」 表現である 「的を射る」 を使うべきだ" と反論されても、それは単なる蒸し返しだ。"「的を射る」 は正しい" とするのはいい。しかし、 "「的を射る」 こそが正しくて、「的を得る」 は誤用だ" というセット (これこそ現代の常識なのだが) になると、「その根拠は崩れたんだよ」 というほかない。

実は、「的を得る」 は、案外まともな文筆家 (しかもそうそうたる中国文学者) だって使っているようなのだ。(以下 「練習帳問答」 より引用)

「的を得る」という表現は、日中出版 『論語の散歩道』 重沢俊郎著 (p.188 「それが的をえていればいるほど」) や、大修館書店 『日本語大シソーラス』 山口翼編の 「要点をつかむ」 という項目にもあります。また小学館の 『日本国語大辞典(12)』 にも 「まとを得る」 があり、中国文学の京大助教授・高橋和巳の小説から 「よし子の質問は実は的をえていた」 を引用しています。

事情を知らないと、「あんなに有名な文筆家のくせに、(あるいは、国語辞典のくせに!) 日本語を間違っている」 と思いかねない。しかし、その思い込みこそが、間違いだったのだ。

ましてや、辞書に載ってなくても、現実に 100年以上にわたって、ずっと使い続けられてきた言葉だってあることだし。まさに、この 「変痴奇論」 とか。(参照

"「的を得た○○」 という表現は誤用" という国民的思い込みには、この際、潔くピリオドを打って、「両方ありだったんだ」 と認めようということだ。その上で、「心地よいお約束」 がお好きならば、「的を射た○○」 という表現を使い続ければいい。

私自身は、件のエントリーのコメントに書いたように、 「的を射た○○」 というオフィシャルな言い回しは、決して心地よいと思えないので、今後使わないつもりである。かといって 「的を得た○○」 も、現実問題として、危なくて使えないから、必要な場合は 「当を得た○○」 にしようと思っている。

ただし、学校の試験では、 「的を射る」 に ○、「的を得る」 に × をつけておく方が。確実に点を取れるからね。

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2006/03/10

ココログさん、ちょっとひどいぜ

"Today's Crack" は、できるだけ夜中の日付の変わる頃には更新終了することを心がけていて、よっぽど疲れて眠くてしょうがない場合でも、翌朝 10時頃には更新している。

しかし、今回のココログのメンテが滅茶苦茶に長引いて、ログインできず、取り敢えず、リザーブの 「はてな」 の方で更新しておく。

【附記】

10日、午後 3時 55分頃、ようやく 30時間以上ぶりにココログにログインできたので、「はてな」 上で更新したテキストを、こちらにもコピーする。

サーバ・メンテナンスが事前に予告された時間では終わらないのは、ココログに限ったことではないので、多少の延びには目をつむるが、今回のはちょっとひどい。

当初の予告では、昨日の午前 10時から、午後 3時までということだった。こう言われれば、3時までには終わらないにしても、いくらなんでも、夕方の 5時頃には終わっているだろうと思う。

5時過ぎにログインしようとしたが、まだ 「メンテナンス中」 と表示される。ココログのトップページをみると、なんと、夜の 9時までかかると告知してある。メンテにかかる時間が、いきなり倍に伸びてしまった。

夜の10時頃に帰宅してログインしようとすると、こんどは重すぎて入れない。「混雑しているのでしばらく待ってから・・・」 との表示が、いつまでも続く。これでは、ブログの更新は、朝まで待つしかない。

朝になってから、10時前にログインしようとする。ここで我が目を疑う。「メンテナンス中」 と表示されるではないか。何度アクセスし直しても同じ。9日のメンテ後の状態がまともではないので、再びメンテに入ったのだろう。

しかし、ココログ・トップには、この再メンテナンスに関する告知はまったくない。ちょっとずさん過ぎやしないか?

「はてな」 にリザーブをつくっておいてよかった。

ちなみに、6日の "「的を得る」 は間違いじゃない" のエントリーに対するコメントが殺到していたのだが、今回のトラブルでコメント書き込みも不能になったので、幸か不幸か、あれから沙汰止みになっている。

頭を冷やすには、いいインターバルかもしれない。

こんなこともあるので、ブックマークは、本宅サイト にどうぞ。

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2006/03/09

百まで生きてどうする?

医療や老化防止研究が現在のペースで進み普及すれば、人間の平均寿命は 2030年までに 100歳前後になりそうだという。(参照

エライことである。ただでさえ IT の進展で、人間はさまざまなバーチャル・リアリティを経験できるようになったのに、そのうえ、そんなに長く生きたら、人生に飽きてしまうだろう。

2030年といったら、あと 24年後である。その頃、私が生存している可能性はかなり高い。喜寿を過ぎ、80歳を目前にして、「近頃、若い頃のようには無理がきかなくなったわい」 なんて嘆いているだろう。

2030年での平均寿命 100歳ということは、私がそれからさらに 20年以上も生きられるという意味ではない。しかし、医療や老化予防研究の進展・普及を前提とした話だから、下手したら、私は 80歳やそこらで、めでたくあの世に行くというわけにはいかなくなるということではあるようだ。

先進国に生息する以上、普通にしていたら、年をとろうが病気になろうが、そう簡単には死なせてもらえないということになってしまったということだ。これからは、「いかにして、つつがなく死ぬか」 ということに心を砕かなければならない。

私の父などは 「俺が不治の病になったら、頼むから余計な延命措置を講じないで、自然に死なせてくれよ」 と、今から言っている。「ただし、痛いのだけは嫌だから、その方面の処置だけはよろしく頼む」 と。

そんなことを言われても、何かのときには 「痛みだけは感じないようにして、あとはさっさと死なせてやって下さい」 なんてことは、息子として医者には言いにくい。結局、しばらくはうだうだと生きることになる。

父は、そんなことは御免こうむりたいと言うし、私自身だって、自分が死ぬときには、さっさと往生してしまいたいものだと思っている。しかし、そうした当人の希望は、実際にはなかなか通りにくいもののようなのだ。うっとうしい話である。

それだけに、ある程度の年齢になったら、後腐れなく死ぬための算段を、きちんとつけておきたいものである。好んで死のうとは思わないが、何が何でも生き長らえたいというわけでもない。

近頃は、老人の神社仏閣参りの願掛けは、「長生き」 ではなく、「ぽっくり逝くこと」 なのだそうだ。「飽食の時代」 を通り過ぎて、今や 「飽生の時代」 になったようだ。

人間は情報技術の進展で、いろいろな経験を高密度で得ることができるようになった。昔なら一生かかって学ぶことを、今では数年でモノにできたりする。それだけに、あまり長く生きてもしょうがない。人生に満腹してしまいかねない。

あんまり体を大事にし過ぎないで、せいぜいあくせく働いて、ちょうどいいあたりで、さっさと区切りをつける方が得策かもしれないぞ。

医学の方でも、あまり病気を治したり、長生きさせることばかり考えずに、自然に寿命を全うするコーディネーションを研究することも必要だろう。

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2006/03/08

Windows Vista ねぇ

Windows XP の後継 OS、Vista が、いよいよ今年末に登場するらしい。これについては、私は既に 「もう、そんなものいらないよ」 みたいなエントリーをあげている。(参照

日経 BP では 「一足先に知るWindows Vista」という記事をあげて、ヨイショしているが、それを読んでも、魅力は感じない。

そもそも、私は先にあげたエントリーでも述べているように、フツーのユーザーには Windows 2000 の段階で十分だと思っている。XP になってからも、インターフェイスがちゃらちゃらしてうざいので、2000風に戻して使っているほどだ。

上記の日経 BP の記事でも、次のように、今回のバージョンアップがユーザーにそれほど歓迎されていないことを認めている。

読者の中には 「Windows OS の機能は Windows XP で十分」と思っている方も少なくないだろう。確かに Windows Vista になっても,Windows 3.1 が Windows 95 になったときと違ってGUI が大変化するわけではないし,Windows 9x が Windows NT (NT/2000/XP) になったときと違って,システムが劇的に安定するようになるわけでもない。

その上で、「しかしだからといって,Windows Vista に何も期待できないと考えるのは早計である」 と、以下のように述べている。

Windows Vista は,2001年11月に発売された Windows XP 以来,5年ぶりとなるメジャー・バージョンアップである。発売から 4年が経過した Windows XP は,最新のハードウエアやセキュリティ上の脅威に対応できないなど,時代遅れになっている部分も多い。この 5年間に出た最新ハードウエアに対応した り,セキュリティが強化されたことだけでも,Windows Vista に十分な価値があると言える。

ふぅむ、発売以来 4年が経過した XP は、時代遅れになっているというが、私自身はそんなことは全然感じたことがない。むしろ、「使いもしない機能が多すぎる」 と思っているぐらいだ。

セキュリティ問題にしても、私は SP2 を入れてシステムが不安定になる可能性を懼れて、まだインストールしていない。それでも、全然平気だ。Norton Intenet Security の機能で、セキュリティは十分に確保されていると思っている。

この記事には、Vista になることで、標準でサポートされる新機能 (シリアルATA、PCI Express への対応など) が列挙されているが、私はこれまで、それらを使ったこともないし、無理矢理押しつけられさえしなければ、今後も必要としないだろうと思う。

近い将来に PC そのものを買い換えれば、有無を言わせず Windows Vista がインストールされているのだろうが、それに慣れるのは、私にとって負担以外の何ものでもないだろう。

多分、Windows のほとんどのホーム・ユーザーのニーズは、インターネットとメールと、年賀状印刷と、デジカメの画像をちょっといじくれればいいというレベルである。MS Office ソフトをバリバリ使っているという人は稀だ。

何しろ、ビジネス・ユースにしても、Office スィートをきちんと使いこなせている人なんて、それほどはいない。私なんかは、かなり使いこなしている部類だと自負しているが、それでも、これ以上の機能があっても、もてあますだけだ。

とくに、最新ハードへの対応なんていうのは、ハイエンドのユーザーにしか必要ないのだから、それだったら、限定的なプレミアム OS として展開すればいいのである。それらの機能がどうしても必要なユーザーなら、いくら高くても買うだろう。

Windows 95 の時代に喧伝された 「新規開発をどんどん進めて、既存のものを陳腐化させる」 という戦略は、それ自体が陳腐化しつつある。

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2006/03/07

「的を得る」 は、間違いじゃない

BBS に、当サイトで 「的を射たものと思われる」 という表現があるが、「的を得た」 の誤りではないかという趣旨の書き込みがあった。

これ、昨今の日本語ブームではかなり有名になったテーゼだが、よく似た意味の二通りの表現として、一般的には 「的を射る」 と 「当を得る」 が正しいということになっている。

「汚名返上/名誉挽回」 と並ぶ金科玉条になっているようで、うっかり 「汚名挽回」 なんて書くと 「挽回して意味のあるのは 『名誉』 であって、『汚名』 なんか挽回してどうなる」 と非難されるように、「的を得た」 なんて書くと、「的は 『射る』 もので 『得る』 ものじゃない」 とつっこまれる。

そんなわけで、今回のツッコミは、想定とは逆だったので、ちょっと意外だった。

私の使っている 「ATOK 16」 では、「的を得る」 と入力すると、すかさず 《「的を射る/当を得る」 の誤用》 と表示され、いわゆる 「よくある間違い」 は犯さないようになっている。というか、ATOK はかなり原理主義的で、表現の自由をあまり認めてくれない。

私自身は、「的を得た○○」 と言いたくなる気持ちは、とてもよく理解できる。「的を射た○○」 という表現には、表面上の論理性とはうらはらの、ある種生理的なまでの 「ぎこちなさ」 を、ずっと感じてきた。

気になって Google で検索するうちに、「『的を得る』 は間違いではない」 という主張に出会った。予備校講師、中谷臣氏のサイトの 「練習帳問答」 というページに、「的を得た答案」 という記述があり、その 「注」 として、この表現に関する彼の主張が述べられている。

詳しくはリンク先に飛んできちんと読んでもらうしかないが、要約すれば以下のようになる。

「的を得る」 という比喩的表現は、中国古典 『大学』 『中庸』 にある 「正鵠 (せいこく) を失する」 から来ている。「正鵠」 とは、弓道の的の中心にある黒星のことだ。正鵠から外れることを 「失する」 といい、当たることは 「正鵠を得る」 という。

「得」 という字には、元々 「当たる」 という意味がある。

いつのまにか、「正鵠」 という言葉が 「的」 に置き換わり、それとともに 「得る」 が 「射る」 になってしまったが、比喩的表現としての 「的を射る」 というのは、即物的でつまらない気がする。

なるほど。さらに、私なりに補足させてもらうと、次のようになる。

「射る」 という動詞は、「的に向かって矢を放つ」 という 「行為」 を表すが、射ても、すべて的に当たるとは限らない。つまり、「射る」 ことと 「当たる」 ことは、厳密にはイコールではなく、微妙に別の問題だ。

比喩的表現としての重要ポイントは、「射た」 という 「意図/行為」 ではなく、実際に的に 「当たった」 という 「結果」 なのだ。だから、厳密なことをいえば 「的を射た」 つもりで表現しても、実際にはピンぼけだったとしたら、「正鵠を失する = 得ていない」 ということになる。

こうしてみると、「得」 という字に 「当たる」 という意味があるのだから (手元の三省堂 『携帯新漢和辞典』 でも確認済み)、「的を得た○○」 の方が、表現として由緒正しいばかりでなく、より正確で論理的であるとさえいえる。

中谷臣氏の説を紹介したブログのコメントに、"「正鵠」 は 「得る」 ものでも、「的」 は 「射る」 ものだ" という趣旨の反論があるが、それは論理性をもたない。「射て、当たること」 が 「得る」 ということであるのは、「正鵠」 でも 「的」 でも変わらない。

これで、これまで感じてきた 「的を射た○○」 という表現の 「ぎこちなさ」 の正体がつかめた気がする。表面的にはもっともらしいが、実はちょっとだけ中途半端なところが残っているのだ。

ただ、現状では、商業的原稿に 「的を得た」 と書いても、編集段階で 「的を射た」 に変えられてしまう可能性が高く、もしそのまま通ったとしても、「日本語を知らないヤツ」 とばかりに、読者からのツッコミが多発するだろう。うっとうしいことである。

今回は、想定外の逆方向のツッコミをいただいて、思いがけなくこんな考察ができた。ありがたいことである。 これを機に、「的を得た○○」 という表現へのステロタイプのツッコミは、不毛なものだと認識しておこう。

ちなみに、もうひとつの 「汚名挽回」 の方も、間違いではないということになっている。

『続弾! 問題な日本語』(大修館書店) では、「挽回」 という言葉には 「取り戻す」 という意味の他に 「巻き返す」 という意味もあるので、「頽勢を挽回する」 という用法がある以上、「汚名挽回」 も間違いではないとしている。

「的を射る/当を得る」 「汚名返上/名誉挽回」 という、日本語ブームにおける二大金科玉条は、まともに考えればこの程度のものである。多分、新聞、放送業界の一知半解的お約束が、世の中に広まっただけというのが真相ではなかろうか。

【3月11日 追記】

これで納得がいかない方は、3月 11日付の "変痴奇論 − 「的を得る」 その2" も併せてどうぞ。

【3月14日 追記】

よく読んでもらえばばわかることなのだが、妙に引っかかる人が多いようなので、くどいようだが、念のため追記しておく。

このケースに限って言えば、「射る/得る」 は、「含む/含まれる」 の関係にある。「射る」 は 「得る (当たる)」 を含むので、論理的には何の問題もない。

ただ、「得る」 は、意味的には、よりピンポイントになるということだ。

しかし、現代では 「得る」 のもつ 「当たる」 の意味が薄れていて、奇異な言い回しと受け取られる可能性が高いため、「あまりお薦めできない」 というのは、当たり前すぎるので、くどくどとは書かなかった。

そもそも、私自身だって、つい最近までは、フツーのインテリにありがちなことに、「"的を得る" は誤用」 と思っていた (だからこそ、冒頭の BSS のコメントがあったのだ) ので、自分で使ったことは一度もないし、今後も使う気になれず、「的を射る派」 の論理もメンタリティも十分理解している。

それゆえ、その辺の突っ込み、あるいは蒸し返しのコメントなどは、もとより不要ということで。

【8月26日 追記】

このエントリーへのコメントに関しては、もう付き合いきれないので、よほど意味のあるものを除いては、レスしないことにした。

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2006/03/06

K-1 の 「つかみ」 規制強化

K-1 NZ 大会で、ピーター・アーツがセーム・シュルトに勝ってしまった。じゃあ、去年のボンヤスキー、ホーストは、何だったのだ?

これは、どうみても今年の K-1 が 「つかみ」 を排除する方向に出たことが大きい。上から押さえつけての膝蹴りを得意とするシュルトは、明らかにやりにくそうだった。

私には、K-1 が、F-1 やスキー・ジャンプ競技におけるヨーロッパのエスタブリッシュメントと同じような手に出たように思えた。

ホンダのターボ・エンジンが F-1 を席巻すると、ヨーロッパ勢はターボ廃止の手に出た。日本のジャンプ選手が飛びすぎると、同様にスキーの長さの規制を打ち出した。

K-1 は、シュルトの膝蹴りが強すぎるので、押さえつけての膝を出しにくくするために、「純粋に打撃の勝負を推進する」 との名目を掲げ、「つかみ」 の規制を強く打ち出し始めた。

シュルトの膝蹴り対策を、個々の選手の技術の向上に任せるよりも、ルールとして、長身選手の膝蹴りを出しにくくするという手法に出た。これにより、実質的に体格の差のありすぎる場合のハンディキャップをつけたことになる。

体格に勝る選手に手枷足枷をはめるという K-1 の戦略は、敢えて無差別級選手権に打って出るPRIDE と、対照的な印象を与える。

「純粋な打撃」 としてのスポーツライクな勝負を目指すという 「名目」 を強調するあまり、ムエタイなどでは十分に有効な 「首相撲からの膝蹴り」 という技術を無効化するというのは、私には、格闘技としての可能性に制限を設けただけのように思えてならない。

K-1 が、ますますつまらなくなってしまうではないか。

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2006/03/05

東京人は、のんびり屋さん

朝の通勤時間帯、都内のターミナル駅の乗り換えなどでプラットフォームの階段を上り、コンコースを移動するとき、私はしばしば、前がつっかえて動かないことにいらいらする。

「江戸っ子はせっかちだ」 なとどいうが、実際の東京人のほとんどは田舎から出てきた田舎者なので、案外のんびりしている。

私はそれほど急いで歩いているつもりではないのだが、それでも、周囲のスピードは 「穏やか」 過ぎる気がする。「この忙しい時間帯に、どんな気分になると、そんなにゆっくりと歩けるのだ?」 とさえ思うほどだ。

ところが、大阪に出張したときなどは、まったく違う。私に土地勘がないので、ややゆっくりになりがちということもあるのだろうが、周りにどんどん追い抜かれる。それはもう、見事なものである。

大阪にしたって、畿内を中心とした田舎から出てきた者がかなり多いはずなのに、誰もがあれだけスタスタ歩くところをみると、大阪人の 「いらち」 というのは、かなり伝染力が強いものと見受けられる。

その大阪人が舌を巻くのが、香港人のスタスタぶりである。歩く速さが速いだけではない、香港のエスカレーターのスピードたるや、恐ろしいものがある。ステップに足を乗せた途端に、有無を言わせずぐいっと引っ張られるので、慣れないものはむち打ちになりそうなほどだ。

総体的に見て、東京人の歩くスピードは、かなりのんびりしていると思う。どこでも田舎はのんびりしていると思うので、行ったことのある都市だけの印象になるが、人の流れのあまりののんびりさ加減にいらいらするというのは、東京以外では、あまり経験しない。

これも、何事も迅速に運ばない中央集権システムの弊害 (参照) によるものだとは言わないが、あるいは何か関係があるかもしれない。

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2006/03/04

「さざれ石」 は 「巌」 どころか 「星」 にだってなれる

国歌 『君が代』 では、「さざれ石の巌となりて」 と歌われる。「小さな石が巌になるわけがない」 と揶揄する人もいるが、実は、嘘偽りでも比喩でもなく、ちゃんと 「巌」 になるのだということは、ウチのこのページで触れている。

さらに、さざれ石は、「巌」 どころか、「星」 にだってなるというのだから、驚きだ。

それは、古くから伝わるなぞなぞにあるのだそうだ。この 「さざれ石は 『星』 になる」 というテーゼは、如何にしてもたらされるのだろうか。

まず、日本の伝統的なぞなぞの 「お約束」 で、「さる」 とか 「さり」 とか 「され」 とかいう言葉は、「去る」 「去り」 「去れ」 につながるので、消してしまう。

すると、「さざれ石の巌となりて」 の 「さざれ石」 は、伝統的表記では 「さされ石」 だから、「さされ」 の部分は、「『さ』 を消し去れ」 という符丁ということになる。それで、「石」 だけが残り、単に 「石の巌となりて」 となる。これが第一段階である。

そして第二段階。「巌」 の読みは 「いわお」 だが、歴史的仮名遣いでは 「いはほ」 である。続けて書いてみよう。「石のいはほとなりて」 になる。補足的に、もっとわかりやすく書こう。「『いし』 の 『い』 は 『ほ』 となりて」 である。

つまり、「いし」 の 「い」 という字は、 「ほ」 という字に取って代わられるというのである。それで 「いし」 が 「ほし」 になるのだ。

「さざれ石」 が 「巌」 になるばかりでなく、「星」 にだってなってしまうというロジック、おわかり頂けただろうか。ちまちました理屈と、気宇壮大さの同居したなぞなぞである。

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2006/03/03

長い尻尾の先っちょへの冒険

「ロングテール」 という言葉がそこかしこで聞かれるようになった。The Long Tail = 長い尻尾。日本語としては、「ロングテール現象」 という言い方が一番目立つようだ。(参照

「パレートの法則」 でいう 「上位 20%が、全体量の 80%を占める」 という現象のアンチテーゼが、インターネットで可能になっている。

従来の流通では、店頭在庫などの制約から、いわゆる 「売れ筋」 に集中した品揃えが余儀なくされていた。「売れ筋上位 20%が、売上げの 80%を占める」 というパレート法則が強調されるので、いわゆる 「ニッチ商品」 は切り捨てられる傾向があった。

今どきのステーションビルの中にある本屋や CD ショップの品揃えを見ればわかる。本屋は雑誌と漫画とベストセラーと学習参考書ばかりで、いわゆる 「読書好き」 が読みたくなるようなものは見当たらない。

CD ショップに行っても、ほとんどラジオをつければ聞こえてくるような、ミーハーな曲ばかりで、ちょっとマニアックな音楽は、探してもまず見つからない。

その辺の本屋や CD ショップというのは、読書好きや音楽好きのための店ではない。本当の読書好きや音楽好きは、そうした店に入っても、がっかりするばかりだから、自然足が遠のくばかりなのである。

「ベストセラー本というのは、普段本を読まない人が買う本」 であるとは、よく言われることである。だから、街の本屋は、普段本を読まない人のための店と言ってもいいかもしれない。

逆説でもなんでもない。本屋が、本好きのための店になるというのは、実は、かなり困難なことのようなのである。

ロングテール現象は、売れ筋上位 20%には興味を示さないタイプの消費者にとって、福音である。メガヒットには用がない。本当に面白いものは、世の中の隠れたところ (売れ筋グラフの長い尻尾の先の方) にある。

本当に面白いものが、探せば見つかる世の中になったのは、喜ばしいが、まだまだユーザビリティがよろしくない。インターネット検索の方法論は、まだ開発され尽くしていない。

ニッチな商品に興味をもつ消費者は、アマゾン的なやり方で 「他にもこんなものがあります」 という紹介をされても、あまりピンと来ない。よりニッチで、そして多少は意表を突ような趣向で、長い尻尾の先っちょの方に眠っている商品が示されたりすると、うれしくなってしまうだろうけれど。

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2006/03/02

「道州制」 と 「連邦制」

私は一昨年 12月の当欄で 「日本は、自由主義を標榜する先進国で、人口が 1億人をはるかに越えていながら、地方分権が進んでいないという点では、世界でたった一つのケース」 と指摘した。(参照

他の国は、地方分権どころか、多くは 「連邦制」 というシステムを採用している。

世界の国で人口の多いベスト・テンは、中国、インド、アメリカ合衆国、インドネシア、ブラジル、ロシア連峰、パキスタン、バングラデシュ、日本、ナイジェリアの順だ。

人口世界一の中国は共産主義国家だし、残る 9カ国中で連邦制をとっていないのは、インドネシアと日本の 2国だけである。さらに、人口が世界 11位、12位のメキシコ、ドイツも連邦国家である。

というわけで、人口が 1億人クラスの自由主義を標榜する先進国の中では、日本は唯一の中央集権国家なのである。道理で、何をするにしてもいろいろな各論ばかり噴出して堂々めぐりに陥り、小回りが効かないわけだ。

だから、最近 「道州制」 が俄に脚光を浴びているのは当然の話なのである。ただ、現体制が道州制に移行するには、かなりの障害があり、時間がかかるだろう。何しろ、「道州制への移行」 の決定権を握るのは、かくも効率の悪い 「中央集権国家」 なのだから。

世界には 「連邦制」 の国家が案外多い。連邦国家においては、かなり強力な自治権をもつ 「国」 という単位があり、いくつかの 「国」 が集まって 「国家」 を形成する。明治以来、100年以上も中央集権でやってきた日本では、そのあたりのコンセプトが、なかなか理解しにくい。

何しろ、"state" と "nation" という言葉に明確に対応する日本語が整備されていない。日本は明治維新とともに近代国家としてスタートしてからこの方、ずっと中央集権だったから、"nation" には 「国家」 というオフィシャルな訳語が定着したが、"state" に相応する的確な訳語が不必要だった。

なるほど、「ことばのチカラ」 である。適当な 「ことば」 がないと、まともに考えることすらできないのである。

そんなわけで、日本は、せいぜい、フランス同様に 「道州制」 ということになるのだろう。しかし、「連邦制」 でも 「道州制」 でも、運用次第で違いは紙一重だ。日本だって、天皇を 「元首」 と明確に規定してしまえば、あとは案外呆気なく連邦制だってとれるかもしれないぞ。

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2006/03/01

虚言癖のオジサン

「堀江メール事件」 は、永田議員にその 「メール」 を持ち込んだ情報源のフリーライターが、自分宛に送信して受信したものだという。

マスコミ関係者の間では、その 「情報源」 は周知の事実で、初めから 「あいつの言うことなど、当てになるものか」 と、結論のみえすいた問題だったようだ。

どこの世界でも似たようなものだと思うが、「あいつの言うことには、絶対に乗っちゃいけないよ」 と言われるような人物が何人か存在する。そういう人物は、もう本当に中毒のように、あちこちでとんでもないガセネタをまき散らして歩くのだ。

始末の悪いことに、そういう人物は口がうまい。そして、酒の席などでも座持ちがいい。つまり、一見すると 「魅力的な人物」 であったりする。だから、彼の素性を知っている者は相手にしないが、初対面だったりすると、つい信用してしまったりする。

初めのうちは、ガセネタを金にしたりして食いつなぐのだが、そのうちに、金にもならないことでホラを吹いたりする。「そんなことで騙しても、自分は何の得にもならないだろうに」 というような、訳のわからないでたらめまで言うようになる。

「中毒のように」 と言ったのは、そういう意味である。これはもう、「虚言癖」 という範疇のものだ。あるいは、自分の言葉で世間が動くことが快楽になってしまうのかもしれない。

世間にはあることないこと言いふらして歩く困ったオバサンというのがいるが、オジサンの虚言癖は、社会的で影響範囲がより大きい場合が多いので、そういうのとは別だと思われがちだが、要するに根っこは同じようなものだ。

そして、この虚言癖のオジサンをうまく利用したヤツが存在するかもしれないなどと深読みすると、かなりうんざりしてしまう。

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