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2006/04/13

何故殺してはいけないか その2 「ポア論」

昨日、「何故殺してはいけないか」 というエントリーで、私は、"「殺す自由」 は 「生きる自由」 を決して上回らないから" と書いた。

しかし、そう遠くない過去に、「殺してあげる」 ことを善しとする集団があった。そう、「ポア」 という名で、「意識を高い世界へと移し替えること」 として、殺人を犯した集団である。

彼らは 「輪廻転生」 というコンセプトを前提としている。人の魂は、輪廻転生で何度も生まれ変わり、異なった経験を積み重ねることによって、より高い次元に達するという考え方である。

つまり、人の生きる目的というのは、魂を高めることなのだ。そのために、人はただ一度の人生だけでは足りず、何度も生まれ変わる。

私も仏教を信じるもののはしくれとして、輪廻転生のコンセプトは信じている。だから、「肉体の死」 は 「魂の死」 ではないと考えている。魂はいつまでも生き続ける。そして、何度も新しい肉体の衣をまとって生まれ変わる。

「ポア」 というのは、真言秘密金剛乗 (タントラ・ヴァジラヤーナ) の教義からすると、「悪業を積み続ける魂を救済するために殺害すること」 と説明され、麻原彰晃の説くところによると必ずしも罪ではないばかりか、魂の救済に通じる行為であるとされた。

真言秘密金剛乗 (タントラ・ヴァジラヤーナ) は、「小乗 (ヒナヤーナ)」、「大乗 (マハーヤーナ)」 より、さらに高次元の仏道であるとされている。だから、小乗仏教でも大乗仏教でも罪とされる殺人を、時と場合によっては推奨すらするのだ。

しかし、これは 「究極の余計なお世話」 である。仏は衆生に決して 「悟り」 を強要しない。それは、白隠禅師の説かれたように、衆生は既に 「仏」 であるからだ。既に成道し、悟りを得た 「仏」 なのだ。それ故に 「覚者」 である衆生に、仏は 「迷う自由」 を与えている。

衆生は、とことん無明の道を彷徨い、地獄の底まで落ちる自由をもっているのである。地獄の底の辛酸を経験した覚者の悟りは、苦もなく優等生的に悟ってしまった覚者の悟りより、ずっと 「コク」 のある味わい深いものだろう。

その醍醐味を味わう自由を、「ポア」 という行為は奪ってしまう。「生きる自由」 とは、「迷い、そして悟る自由」 である。人並み以上に迷ったからといって、親切ごかしに殺されてはたまらない。

「仏にあっては仏を殺し、親にあっては親をも殺す」 と、禅宗では語られるが、それはあくまでメタファー (比喩) である。肉体に血を流させる殺し方というのは、決定的に想像力の欠如した手法である。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 へもどうぞ

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コメント

そう!
あくまでメタフォアーなのですよね。
それを、現実になそうとする。
それがオウム。

抽象的な概念を実践して見せる
そのために、「空中浮遊」などという虚構を産出さなければいけなくなる。

投稿: alex99 | 2006/04/14 03:44

alex さん:

あれは、オウムの幼児性なんですよね。

幼児レベルの魂のおっさんに、
「魂を救済するため」 なんて言って殺されたんでは、
殺された人が気の毒です。

「空中浮遊」 なんていうのは、
スピリチャル・レベルで経験している人が、
いくらでもいることです。

見え見えの写真を撮るほどのことじゃありません。
(結跏趺坐のままジャンプするのは、私でもできます)

投稿: tak | 2006/04/14 09:19

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