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2006年7月に作成された投稿

2006/07/31

根元的存在のビヘイビアとしての複数

作家、森博嗣氏はご自身のブログの昨年 6月 1日付エントリー 「日本語に複数形がない理由」 で、 "「2つのリンゴがある」 とは言わず、「リンゴが2つある」 というのが日本語らしい言い回し" と指摘しておられる。

これは、日本人の発想の仕方に関する根元的な示唆を含んでいると思う。

氏は、「2つのリンゴ」 などの複数形表現は、英語の翻訳によって生まれたものと推測した上で、日本語に複数形がないのは、「複数個存在することが、物体の性質としてではなく、物体の動作として受け止められていたからだ」 と述べている。

これを私流に表現すると、日本語では、「2つのリンゴというもの」 があるのではなく、「根元的存在としてのリンゴ」 が、「仮に 2つという姿で顕れている」 ということになる。つまり、「2つ」 というのは、その時のリンゴの本質ではなく、単なる 「ビヘイビア (振る舞い)」 なのだ。

同様に、日本人は古来、「2人の人がいる」 とは見ずに、「人が 2人いる」 としてきた。「2人」 を別個の存在ではなく、同じ根元からの派生として見てきたわけである。

この非常に日本的ともいえるコンセプトは、日本人のメンタリティの 「近代化」 を進める上で、最も大きな障害とされてきたフシがある。「人が 2人いる」 という発想では、「近代的自我 - アイデンティティ」 の確立が不可能だからだ。

分割しつくして、これ以上分割し得ないものを 「インディヴィデュアル (個人)」 とするコンセプトと、複数に見えるのは、一つの根元的存在の、ある種の振る舞いでしかないとする見方とは、まさに対極的なものである。

しかし私は、今さらながら日本というユニークな文化圏内に生まれたことを幸運と思わずにいられない。分割に分割を重ねて、物事をトータルでみることのできなくなった 「近代性という呪縛」 から、既に一歩踏み出していることができるからだ。

単なるプリミティブな精神性ではなく、既に近代性というものを経験しつつ、その限界をいともお気楽に超えることのできる 「すべては一体で、トータルなもの」 という実感的コンセプトを、我々がまだ失っていないという幸運に、私は感謝したい思いである。

「山川草木国土悉皆成仏」 という仏陀の悟りにも似た 「すべてが根元においては一体」 という実感こそが、地球規模の危機を救うコンセプトになりうると思うのだ。

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2006/07/30

ようやくパソコンが届いた

金曜の午後 3時過ぎに、デルの PC が届いた。先週の水曜夜、出張先のホテルの LAN サービスを利用して、モバイル・ノートで注文しておいたものだ。

今月 12日の帰郷以来、落雷で絶命したデスクトップが使えない状態で半月以上耐えていたのだが、ようやくストレスがなくなる。

デスクトップが使えない間も、セカンドマシンのモバイル・ノートが使えたのだが、CPU が 1GHz、RAM が 256MB というスペックでは、数年前からみたら十分に贅沢でも、Windows XP 上でごちゃごちゃするには非力すぎる。

ちょっと複雑なことをすると、ハードディスクにアクセスするカリカリという音ばかり延々と続き、それだけなら我慢できるが、下手するとフリーズしてしまう。届いたデスクトップは、CPU が 3GHz、RAM が 1GB というスペックなので、これなら、かなりサクサク動く。

しかし、新しい PC を使い始めるというのは、どえらい疲れるものである。なにしろ、オフィスを引っ越すようなものだからだ。

まず、インターネット接続を設定し、普段使うソフトを順繰りにインストールしていき、それらの設定を行う。一連の接続のパスワード、メール関連のアドレス、ウェブサイトの FTP 関連を覚えさせ、業務で使うソフトのカスタマイズを行う。そしてようやく、バックアップしておいたデータを HD に移す。

一昨日の午後 3時過ぎに梱包を開いて、一応日常業務で使える状態になったのが、昨日の午後 3時である。ほぼ 1日がかりだ。その間、予定していた仕事は先延ばしになる。

新しい PC を買うたびに思うのだが、自分の環境設定を CD-ROM か何かに保存しておいて、まっさらの PC に一発で読み込ませるなんてことができないものだろうか。

単純な設定ならできないこともないのだろうが、いかんせん、Windows というのは、しょっちゅう細部が変化している。重要な部分まで読み込ませすぎたら、動かなくなってしまう懼れの方が大きいのだろう。

同じ WindowsXP ですらそうしたことがあるのに、そのうち Windows Vista なんてものが出るらしい。そんなもの要らないのに。いりもしないものを無理矢理に押しつけられて、使いこなしに往生するなんていうのは、パソコンという市場ぐらいのものである。

なるべく早いうちに、Linux ベースの OS で、MS-Office と互換性のある軽いアプリケーションをちょっとだけカスタマイズして使うという世の中になってもらいたいものである。

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2006/07/29

表現するという 「最良の業」

昨日の過去ログについての話の続きである。まこりんさんは、「何かを作り出す、生み出す作業というのは、『自己を外化する』 作業だ」 と書いておられる (参照)。

そして、脳内の段階ではあんなに瑞々しかったコンセプトが、外化したとたんに、不完全で色褪せたものになってしまうのだ。

まこりんさんは、「私たちの文明が決して楽園でないように、私たちの作り出したものは、いつも不完全で、なにか足りない。手のひらを離れた瞬間 『これこそ、まさしくわたしだ』 と、いえないものになってしまう」 とも述べている。

これこそ、過去ログへのアクセスがあるごとにとらわれてしまう、不思議な感慨の正体のような気がする。私の名を語ってはいるが、すでに 「(今の) 私とは微妙な、あるいはかなりの差異をもってしまっているもの」 が、誰かに読まれているという違和感である。

表現したとたんに薄々感じられていた差異が、時間が経過すればするほど、大きくなってしまうのだ。

しかし、表現とは常にそうしたものだ。脳内コンセプトの段階では、あれだけ完全な姿をしているように思えたものが、表現されたとたんに、不完全になる。表現とは、限られた媒体に限られた形で投射することだから、不完全にならざるを得ない。

コンセプトとは 「懐胎」 の意でもある。生まれ出たとたんに、それは赤ん坊でしかない姿となる。しかも、その赤ん坊は放り去られたまま、成長するということがない。

夢の中ではとてつもない構想に思えたものが、目が覚めた瞬間、たいしたものではないと気づくという感覚にも似ている。夢の中で感じたあのすばらしい手応えは、どこに失せてしまうのだろう。

脳内コンセプトを外化したとたんに、いつもある種の失望感を覚えながら、それでも、表現という行為を捨てきれないブロガーたち。これはもう、「業」 というよりほかないものである。

しかし、それはあながち悪い宿業というわけでもないと思う。あるいは、業の中でも最良の業のような気もするのだ。

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2006/07/28

過去ログは、結構読まれてる

"304 Not Modified" の、まなめさんによると、「ブログは最新記事しか読まれない」 のだそうだ。「煩悩是道場」 の ululun さんはそれに呼応して、「過去ログなんて、読まれなくてもいい」 と、クールにうそぶいておられる。

でも、本当にそうなのかなあ。ウチの場合は、過去ログ、結構読まれてるんだけど。

試しに、ココログの "Today's Crack" の先週のアクセス解析を覗いてみたら、最新エントリーへのアクセスはたったの 38%ほどで、残りはすべて過去ログへのアクセスだった。ウチは 「過去ログ・オリエンティッド・ブログ」 のようなのだ。

過去ログの中でも、あの物議をかもした "「的を得る」 は、間違いじゃない" なんてエントリーが、今でも全体の約 5%のアクセスを集め続けている。こんなの、もういいのに。

ululun さんはまた、毎日ブログエントリを書いていれば、最新記事しか読まれない傾向があるのかもしれないが、ご自身は更新頻度が毎日とはいえないので、過去ログにもかなりアクセスがあるといった印象を述べておられる。

しかし、そうは一概には言えないだろう。私の場合、掛け値なしに毎日更新なのだが、あるいは、それだからこそ、過去ログへのアクセスがほぼ 3分の 2もあるのだと言えるかもしれない。

毎日更新なればこそ、過去ログは単純に量的な意味合いで、かなりのリソースになっている。そして、量的に豊富だからこそ、いろんなキーワードでの検索にひっかかるという、シンプルな構造だと思うのである。

まなめさんは、「過去ログを読ませるための方法」 として、現在の自分を語ることをシリアスに論じておられるけれど、私の印象では、別に特段のことをしなくても、過去ログでも、読まれるエントリーは読まれ続ける。

過去ログといえば、まこりんさんが興味深い記事を書かれている。

3年前に書いた宇多田ヒカルに関するテキストに、最近になってアクセスが集中したのだそうだ。また、ある作曲家のブログで 「このアルバムを録音した時の思いが伝わっていた」 と、彼のテキストが紹介されたこともあったという。(参照

そんなこともあるのだ。ちょっといい話じゃないか。過去ログも捨てたもんじゃない。

まこりんさんも、私同様に、ブログではなくテキスト中心のサイトから出発され、今でもそちらの方に軸足を置いているように思われるので、そのあたりの感覚に、なんとなく共感する雰囲気がある。

この件については、明日、論を発展させたいと思っている。

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2006/07/27

パレート法則と、ロングテール

従来のマーケティングの金科玉条は、「パレートの法則」 だった。例の 「上位 20%で、全体数量の 80%を占める」 というやつである。

これってサプライヤーには好都合でも、ちょっと変わった消費者には不都合な論理だった。そんな法則をありがたがりながら、「消費者志向」 だなんて、よく言うよってなもんだ。

試しに、その辺のステーションビルに入ってるレコード屋 (今は CD屋というのか) に行ってみるといい。あなたの欲しい CD は見つからないから。テレビやラジオをつければ必ず聞こえてくるようなベストセラーしか置いていない。

そこそこの規模の本屋でもそうだ。ベストセラーとコミックスと参考書しかないし、その上、超ベストセラーだと、品切れになっている。

ファッションでもそうだ。今どきの流行なんて興味がなくて、いつも定番の自分流のスタイルをしたい向きには、「トレンド商品」 ほど邪魔なものはない。店員に 「これ、今売れてますよぉ」 なんて言われたら、普通なら、買いたくなくなると思うんだがなあ。

というわけで、薄っぺらな 「売れ筋」 とやらには興味のない消費者にとっては、下手にマーケティング理論に沿った品揃えをした店なんて、なんの魅力もないのである。

マーケティングから外れた品揃えをしてくれる店が欲しいのだが、そんな店はよほどの市場規模の裏づけがないと、あっという間に潰れてしまう。だから、地方都市に行くほど消費が画一化されてしまうという現象が生じる。

しかし、最近になってようやく福音が与えられたように見える。「ロングテール現象」 というやつである。上位 20%が求める 80%の売れ筋から外れた商品でも、延々と長い尻尾のごとく続く小さな需要として、認知され始めた。

「ウェブ 2.0」 という、正直言ってわけのわからん風潮のおかげで、こうした商品を訴求しても潰れずに済むことになりつつあるようなのだ。

後は、システムの使いこなしである。とりあえず、そうした商品を探し当てるための検索システムの充実が求められるだろう。

そうなって、初めて、地方の文科系少年少女も、読みたい本が読め、聞きたい音楽が聞け、着たい服が着られるようになる。あぁ、私の高校時代にも、ウェブ 2.0 があればよかったのに。

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2006/07/26

誕生日より遅い梅雨明け

なんとまあ、またしても誕生日が巡ってきた。毎年触れているので、歳は隠しようもない。54歳になってしまったのである。

関東は、7月に入って初めてじゃないかというほどの上天気である。私の晴れ男ぶりは最近つとに有名になったが、誕生日までこんなにピーカン状態とは、ありがたいことである。

私はこの30年ほど、出張先で傘をさしたことがほとんどなく、また、自分の関係する旅行や野外イベントなども、ここぞという時には、ほとんど雨の影響を受けずに済んでいるのだが、考えてみれば、誕生日もほとんど上天気だ。

ちょっと気になって、気象庁のサイトで昭和 27年の東北南部の梅雨明けを調べると、「7月 20日ごろ」 (「ごろ」 というのが、なんともいえず、いい味だ) となっている。

私は俗にいう 「梅雨明け十日」 の最も天気の安定したタイミングで生まれたわけだ。生まれたときから晴れ男だったわけで、以後、毎年の誕生日に天気がいいというのも、道理である。

そして、もう少し気になって調べてみると、私が山形県庄内で過ごしていた 18年間に、東北南部の梅雨明けが自分の誕生日の後にずれ込んだことが、3回ある。6年に 1度の割だ。さらに、大学に入って東京に出てきて以降も、今年も含め、36年で 6度と、同じペースである。

へぇ、6年に 1度は、誕生日になっても梅雨が明けていなかったのか。そんな気はまったくしていなかったので、かなり意外である。今年のような長梅雨は、それほど珍しいことでもなかったのだな。

ただ、梅雨明けが遅かった場合でも、今年のように私の誕生日だけは上天気という例もあっただろうから、意外な印象というのも不思議ではない。

考えてみれば、天気の記憶というのは、無意識のうちに平均化されてしまっているみたいなのだ。よほど印象に残るような特殊ケースを除けば、その季節ごとの代表的なイメージで残っている。

だから、小学生の頃の夏休みのイメージといえば、青空に入道雲がもくもくと湧いている下で、1本 5円のアイスキャンデーをなめているところであり、冬休みのイメージといえば、そりゃあ庄内の地のことなので、地吹雪の合間をぬって雪遊びをしているところとかになってしまう。

「近頃、気候がおかしいよね」 という言葉を、よく耳にする。確かにおかしいといえば、相当におかしいのだが、なんでもかんでもおかしいというわけでもなさそうだ。私の誕生日以後の梅雨明けなんて、この 半世紀以上、ずっと 6年に 1度の割であるのだから。

ただ、これが 2~3年に 1度とかになったらたまらないので、環境問題にはアンテナを張り巡らしておきたいと思うのである。

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2006/07/25

役者が不足してた? 本荘高校

アマチュア・スポーツ関係のお偉方たちは、大概びっくりするほどエラソーなのだけれど、個人的な印象からすると、野球の人たちの 「エラソーさ」 はひときわ群を抜いている。

権威ばかり振りかざし、空虚な精神論に終始する。今回の高校野球秋田大会の 「故意の三振問題」 も、そんなようなもんだろう。

既にあちこちで取りざたされているから、改めて触れるまでもないが、22日の全国高校野球選手権秋田大会準決勝の、本荘 ― 秋田戦で、12対 1でリードした本荘高校の監督が、雨天ノーゲームを避けるために、わざと三振をするように選手に指示したという問題だ。

この件で、高野連は、「雨天で試合が中止されることを恐れた故意の行為」 「最後まで全力を尽くすべき理念に反する」 「相手チームに失礼」 などと判断し、校長、部長、監督の連名による始末書の提出を求めたという。

断言してもいいけど、この大会の運営現場は、雨天ノーゲームにもならず、試合予定がサクサク運んだことを喜んでいたはずだ。接戦ならまだしも、12対 1である。再試合なんてことになったら、馬鹿馬鹿しい。連投につぐ連投の、ピッチャーの身にもなってみろ。

そして、報道にも問題があると思うのだが、結果は、「雨天コールド」 では断じてない。あくまでも、7回までに 7点差以上開いたことによる 「得点差コールドゲーム」 である (根拠は こちら)。この点はしっかりと認識しておかなければならない。

雨天というファクターは、雨天によるノーゲームが避けられたという事項のみに関連する。そして、雨天に乗じてノーゲーム狙いの遅延行為をしようとしたのは、相手の秋田高校の方のようなのだ。本当に 「相手チームに失礼」 なのは、どっちなのか。

ほとんど結果の見えた試合を、サクサクと運ばせてきちんと成立させるために、ちょっと手を抜いたぐらいのことで、「校長、部長、監督の連名による始末書」 の提出を求めるなんて、エラソーにもほどがあると思うのである。

「最後まで全力を尽くすべき理念に反する」 と言っても、試合そのものが無効になったら、泣くに泣けないだろう。その結果、ピッチャーが肩でも壊したら、誰が責任を取るというのか。

相手の秋田高校の監督のコメント、「最後まで一生懸命やろうとしていたのに、負けた以上の屈辱だ。悔しい」 というのも、なんだかなあと思ってしまう。

だって、その後にちゃんと 7回裏があったじゃないか。その 7回裏で食い下がって試合を引き伸ばすことができず (つまり、ノーゲームにもちこめず)、7回コールドで負けた時点で、それは、きちんとルールに則った 「最後」 に他ならないのである。

あるいは、7回表の攻撃を延々と続けてもらい、20対 1ぐらいの点差がついた時点で、雨天ノーゲームになれば、「屈辱」 ではなかったのか。よくわからん。

だが、まあ、こうした理屈の通用しないところが、高校野球の高校野球らしいところと、言えば言えなくもなかろう。そのあたりが好きな人は好きなんだろうな。私はうんざりするけど。

私が本荘の監督なら、「故意とはバレないように、必死こいたスイングで空振り三振して来い」 「本盗の途中で、足をもつれさせて転んで来い」 と、そっと耳打ちしただろうと思う。本荘高校、ちょっと役者が不足していたかも。

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2006/07/24

「沈み行く家」 なんて、よくぞ言ったもの

県道から我が家に向かう途中に、工事途上のまま 3~4ヶ月以上もほったらかしにされた 2軒並びの家がある。

春頃までは建売住宅として順調に工事が進んでいたのだが、ある時からぱったりと大工さんが来なくなり、足場を組んだ鉄パイプもそのままに、放りっぱなしになっているのだ。

どうしたのかと思っていたら、どうやら建築を行なっていた不動産会社が倒産し、社長が夜逃げしてしまったらしい。責任者が不在で、宙に浮いてしまっているわけだ。

当初はみたところ、しっかりした断熱構造で、地震にも強い工法とやらで、なかなかよさそうな感じだった。

しかし、元々は田んぼだった土地の埋め立てが不完全だったようで、今となっては、少々傾いてしまっているようにも見える。「沈み行く家」 などと言う人もいる。

いずれにしても、ヒューザーのマンションほどではないにしろ、「いわくつき物件」 であることには変わりない。春の時点で既に売り出し開始になっていたのだが、幸か不幸か、まだ買い手がついていないようだ。

買い手がついていたら、辛うじて社長が夜逃げせずに済んだだろうが、その買い手は、後で後悔することになっただろう。世の中、どこでどう転ぶかわからない。なかなか難しいものである。

そのうち、固定資産税を初めとする税金未払いで市に接収されるのだろうが、外壁もなくほっぽり出されているので、そうなるまでには、せっかく建てかけた家もガタガタになる。

ただ、なまじしっかりした断熱構造なので、断熱材が外壁の役割を果たしていて、家自体が朽ち果てるまでには、かなりの時間がかかりそうだ。そのままでも売り物になりそうにないし、解体するにも手間がかかるというジレンマである。

なにしろ、管理者不在なので、既に家の周囲には雑草が生い茂り、なんだか怪しげな雰囲気さえ漂い始めている。そのうち、お化け屋敷扱いされかねないぞ。

こういうのって、管理は一体どうなるんだろう。勝手に入り込むものがいて火事でも出してしまった日には大騒ぎになるので、暫定的にしろ、市がしっかり管理してくれないと困ることになりそうな気がする。

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2006/07/23

今年の梅雨は、いつ明ける?

7月18、19日の両日は、某誌の取材で熊本県の人吉というところに出張していた。司馬遼太郎が、日本で最も魅力的な隠れ里と絶賛したという土地である。

翌日、その取材先からメールが入った。「1日ずれていたら、大変なことになっていました。球磨川は今、濁流です」 とある。

人吉の情景は、私のもう一つのサイト、「和歌ログ」 の方で詠んである。(文月十八日の歌文月十九日の歌) 和歌ログに掲載した写真でわかるように、天気にはぎりぎりで恵まれた。18日は晴れたし、19日も午前中は降らずに済んだので、写真撮影は順調だった。

それが、帰ってからニュースを見ると、南九州の豪雨被害が報じられている。あふれ出した水につかって歩く人の姿が映し出される。

18日の和歌日記に添えた写真にある球磨川の清流が、濁流と化しているというのだから、相当のことである。多分、石垣の高さまで増水しているのだろう。

今から思えば、よくよく絶妙のタイミングで取材に行ったということのようなのだ。私ときたらまあ、よくよくの晴れ男である。つくづく天気の神様に感謝である。

先々週あたりまでは北陸や信州の被害が報じられていたが、今度は九州に移っているようだ。メールによると、私が帰った後、人吉でも激しい雷がなって、インターネット回線から入り込んだ過電流で、ハブがぶっ飛んだそうだ。PCは無事だったようだが。

当方も 14日の雷で風呂釜、PC、ビデオ、ステレオ、BSアンテナがぶっ飛んだことは報告済みだが、こうした被害は日本中に広がっているようなのだ。日本中の風呂釜屋さん、電気屋さんは、このところずいぶん忙しかっただろう。

思えば、5月は雨模様の日が多かったのに、6月に梅雨入りが宣言されたとたんに、あまり降らなくなってしまった。空梅雨の年は、梅雨明け間際の大雨に気をつけろとは、昔から言われていることだが、今年は並みの話じゃない。

今年は去年に比べると台風はずっと少ないが、その分、梅雨前線が被害の元になっているので、なかなか難儀なことだ。

週間予報を見ると、今週もまだ、梅雨明けにはなりそうにない。この分だと、8月にずれ込みそうな勢いである。

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2006/07/22

ムクドリの逆襲

今年も常磐線取手駅西口周辺は、ムクドリの大群に脅かされている。何万羽というムクドリが、西口ロータリーの植え込みと並木をねぐらとしていて、夕方を過ぎると、キュルキュルという騒々しい鳴き声があたりに響き渡る。

鳴き声だけならまだいいのだが、ボタボタ落ちてくる糞害は、かなり深刻だ。

夕方、取手駅からロータリーの上のデッキに出ると、まず聞こえてくるのが、キュルキュルとけたたましいムクドリの鳴き声。そして、空を舞う大群のシルエットが目に入る。

まるで、ヒッチコックの映画を見ているようだ。

そして、駅から車を停めてある駐車場への道の途中、電線でムクドリが羽を休めるポイントが 3か所ある。電線にびっしりと並んでいるのが不気味だ。

そのポイントに近づくと、キュルキュルという鳴き声の通低音のように、ポタリポタリと何かが落下している音が聞こえる。もちろん、ムクドリの糞である。雨が降らない日が続くと、道路は白い糞の跡で一杯になっている。

その下を通るのだからたまらない。糞を落とされないように、ムクドリを脅かして、一時的に飛び去ってもらわなければならない。

初めのうちは、両手を思い切りパチンと打ち鳴らして脅かすと、ムクドリは一斉に飛び去ってくれた。しかし、あまり強く手を打ち鳴らすので、そのうちに、手のひらが充血して痛くなってしまった。

そこで、最近は空のペットボトルを持ち歩いている。これを歩道のガードレールなどの固いものに打ちつけると、カンッとするどい音がして、ムクドリが驚いて逃げてくれる。

彼らは逃げ去ったとしてもすぐに戻ってくるので、飛び立ったばかりのわずかなすきに、そそくさと電線の下を潜り抜けるのである。なかなか大変なことである。

心配なのは、ムクドリがこの音に慣れてしまって、飛び立ってくれなくなることだ。現に、最近では 8割ぐらいしか飛び立たず、残り 2割は悠然と電線に止まったままでいる。

ムクドリの逆襲は、秋が深まるまで続く。

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2006/07/21

「ブロゴスフィア」 における振る舞い

「今日の一撃」 の本文を ココログ上で書き初めてから久しく、しかも、近頃は本宅 「知のヴァーリトゥード」 よりブログの方が倍以上のアクセスを稼ぐので、私も一応 「ブロガー」 の端くれであると思っていてもいいようだ。

そのくせ、「ブロゴスフィア」 と 「アルファブロガー」 という言葉を今日始めて知った。

私はなりたくてブロガーになったわけでは決してない。本宅サイトで 「今日の一撃」 というコラムを毎日更新していたのだが、同じ毎日更新するならブログの方が楽そうなので、本宅サイトのサーバ容量節約の意味もあって、2年前からココログを使い始めたというだけなのである。

だから、「ブログそのものについての考察」 的なエントリーは、今まであまりしたことがない。皆無というわけではないが、「ブロゴスフィアの住人の振る舞いのありよう」 的なことは、ほとんど論じたことがなかった。

まず念のため、私同様に 「ブロゴスフィアって何だ?」 という方のために説明しておくと、以下のようなことになるようなのだ。

ブロゴスフィア

ブロゴスフィア(blogosphere)とは、weblogを行う人たちにより構成されている世界、空間を意味します。ブログ圏とも呼ばれます。(ミツエーリンクス 「Weblog 用語集」 より)

アルファブロガー

【alpha blogger】多くの読者に読まれている、影響力のあるブロガー。(Hatena Diary Keyword より)

ほほう。いつの間にか、そんな特殊な世界が構成されていたようなのだね。道理で、ソシアル・ブックマークだのなんだのという、私のあまりあずかり知らない世界での評判に一喜一憂する雰囲気が、まわり (の一部) に漂ったりしているわけだ。

しかし、ウチのブログのアクセス解析の結果をみても、ソシアルブックマークからのリンクでのアクセスなんて、平均すれば 1日に 2~3件だ。こういっちゃなんだが、ユニーク・アクセス数の 1パーセントよりはるか下である。

無視すると言っては語弊があるだろうけれど、申し訳ないが、ほとんど気にしていない。そこでの評判なんて、読もうという気も起こらない。だから私は、「いわゆるブロゴスフィア」 の住人としては、あまり 「らしくない」 振る舞いをしているようなのである。

しかし、私のようなブロガーは、少なくとも決して少数派ではないだろうと思う。数の問題じゃないけど。

私としてはブログでブログを語るよりも、ブログで世の中のことを語りたいので、ブロゴスフィア内部のことに興味が向かないのだよね。まあ、最低限のマナーとか知識はおさえておきたいけど。

というわけで、「いわゆるブロゴスフィア」 あるいは 「狭義のブロゴスフィア」 とは、「ブログについて語るブロガーの世界」 と言ってしまおう。ただ、これには反論があるだろうし、そもそも私だって、「もっと開かれた世界であるべきだ」 と、自分自身に反論したい気持ちがある。

そんな意味も含めて、私の知る限りにおける魅力的なブロゴスフィア住人として、「煩悩是道場」 の ululun さんを挙げておきたい。

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2006/07/20

疲れると、繰言が多くなるかも

ほぼ 1週間にわたるドサ廻りで、さすがに疲れてしまった。昨夜遅く、ようやく帰宅すればしたで、先週の落雷でやられたパソコンの屍が鎮座ましましてるし、ちょっと気が滅入る。

でもまあ、いつまで滅入っていても仕方がないので、プラス思考で今年の後半戦を乗り切るしかあるまいて。

今日はドサ廻り明けで、久し振りに神田のオフィスに出たら、久し振りの知人が顔を出して、「今回の被害の収支報告、期待してるよ」 などと、他人事のようなこと (確かに他人事だけれど) を言う。(Mさん、もちろん、あなたのことです)

というわけで、今日の更新は本当に久し振りに当日の午後になってしまった。昨夜は帰宅して風呂に入り、ばったりと寝てしまったので。ああ、そうそう、私の出張中に風呂釜だけは新しいのが取り付けられたのである。請求が後から来るので、恐ろしいが。

ところで、風呂釜ではなく、湯沸かし器の話といえば、例のパロマのお話である。

昨日のエントリー、情報ギャップの問題でも、「イエスマンの担ぐ御輿に乗せられただけの経営者がトンチンカンなことを言ったり」 と、遠まわしに触れたのだが、察しのいい方はその場でピンときていたと思う。

まあ、本当を言えば、別にパロマに限ったことではないのだが、たまたま今回は、ほとんどの方はパロマを思い浮かべただろう。この問題についてはあちこちで述べられているので、今さら言うまでもないが、リスク・マネジメントのなっていない例が、また一つ増えたということだ。

で、吉本興業のケースでは、山本なんとかが逮捕されてもいないのに、先回りして切っちゃったというのも、これと関連があるだろう。こちらは、芸能プロダクションにしては珍しいほどドライなリスク・マネジメントをしたということだ。

本来ならば、パロマの方が吉本ぐらいのきっちりした対応をとってもらいたかったわけなのだが、御家大事の番頭さんばかり多いと、そうはいかないもののようだ。

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2006/07/19

情報には常にギャップがある

今月 12日から続くドサ回りの旅の空で、情報からやや遠ざかっているうちに、例の秋田の事件で、畠山鈴香容疑者が、自分の娘まで殺したと今頃になって自供していた。

地元では当日、橋の上の畠山母子が目撃されていたというのに、狭い地域ながら、情報のギャップというのは恐いものである。

秋田県警は当初、最初の事件は 「事故の可能性が高い」 としていて、まともな捜査が行なわれなかったフシがある。

これは確かに 「最終結論」 として出されたわけではなかったが、こんなふうなコメントが一応としてでも出されてしまうと、それが一人歩きしてしまって、現場ではそれ以上の捜査がしにくくなるものだ。

それに関して多くのマスコミも、「もっとまともな捜査をしていたら、2件目は防げたかもしれない」 と、批判的な報道をしている。読売新聞社説でも、次のように述べられている。

遺体には、高所から突き落とされたことを示す痕跡があったのではないか。事件現場となった橋の上で、畠山被告と彩香さんとみられる母子を目撃した住民もいた。周辺の聞き込み捜査を徹底していれば、このような、事件性をうかがわせる情報が得られた可能性もある。

2件目は防げたかも知れない。そう思えば、豪憲君の両親には実に悔しいことだろう。捜査幹部の対応や司法解剖、現場検証などに問題はなかったか。詳細に検証すべきである。

確かにその通りである。しかし、世の中というのはなかなか難しいものである。情報にギャップはつきものなのだ。

事件現場の橋の上の母子を目撃した住民がいたというのは事実なようで、その情報は警察に伝えられてもいたようだ。しかし、警察内部でそれが軽く見られたのか、その情報が直接具体的な捜査の動きを引き起こすことは、ついになかった。

これがまず、「情報ギャップ・その 1」 である。

さらに言えば、この目撃情報が、地域住民の間では噂として公然と囁かれていたにもかかわらず、影響力のある情報として表面化しなかったということもある。

思えばマスコミも、畠山容疑者宅と実家周辺にはあれだけ大人数のスタッフを繰り出して常時監視体制を敷いていたのに、ちょっと離れた橋の周辺で公然と囁かれていた情報は聞き逃していた (あるいは書き漏らしていた?) ということになる。

これが 「情報ギャップ・その 2」 だ。情報ギャップというのは、どうやら生じやすい特定ポイントがあるようなのだ。

情報とはもともとそうしたものなのだ。さらに、「みんな知ってるはず」 のことほど、肝心なところに伝わっていなかったりするものなのである。

それだから、イエスマンの担ぐ御輿に乗せられただけの経営者がトンチンカンなことを言ったり、国や自治体の重要問題の対策が後手後手に回ったり、家族や職場の人間関係がギクシャクしたりするのだ。

情報流通のある時点で、誰かが 「こんなこと言ってもしかたないかな」 とか 「こんなこと言って、恨まれたりするのも嫌だな」 とか、その場では妥当かもしれない 「小さな判断」 をすることで、結果的に大きなギャップが生じることがある。

これは、複雑系のお話になるだろう。

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2006/07/18

落雷被害レポート

昨夜、自宅に戻った。落雷でやられた風呂釜/ボイラーは、まだ直っていないが、世の中は連休だったのだから、仕方がない。

一方、電話線は復旧しているが、ADSL はまだ接続できない。ルーターがやられてしまったのだろうか。本日の朝に熊本県人吉に出張なので、調べている暇がない。

パソコンは、やはり息絶えてしまったようだ。普段は、家を長く開けるときはパソコンの電源を抜いておく習慣なのに、こんな時に限って、それを忘れてしまっている。こういうのをマーフィーの法則というのだろうな。やれやれ。

風呂釜/ボイラーは、火災保険が適用されるようで、安心した。考えてみれば、かなり長い間使ってガタがきていて、買い換えようと思っていた矢先なので、これはむしろ幸運だったかもしれない。保険で買い換えることができる。

問題はパソコンだ。早いところ買い換えないと、仕事にならない。モバイル・ノートでは、非力すぎる。それと、ADSL 回線の復旧を急がなければならない。ルーターを買い換えることになりそうだ。

いずれにしても、熊本出張から戻っての話なのだが、これもまた、やれやれだ。

パソコンを買い換えたら、それだけではすまない。ソフトのインストールやインターネット環境の再構築などで、一日がかりとなる。なにしろ、これは引越しのようなものだから、時間がかかる。さらにまた、やれやれだ。

それと、ビデオが壊れてしまったようである。これもまた、HDモデルに買い替えということになるのだろうな。さらにやれやれ。物入りな話である。

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2006/07/17

迷惑メールとウィルスメール

今に始まったことではないが、メールを 1度に100件受信すれば、そのうち 80件以上は迷惑メールで、うんざりする。

しかし、その代わりに、ウィルス・メールはずいぶん少なくなったと思う。最近は、100件に 1件程度で、実感としては、最もひどかった頃の 1割以下に減っていると思う。

近頃では 「迷惑メールが、1日に 10通も 20通もくる」 などとこぼす人の話を聞くと、「その程度で済んでて、よかったね」 と言いたくなるのだが、嫌味に聞こえるかもしれないので、「本当に大変だよね」 と言うに留めている。

私はメーラーとしては Thunderbird を使っていて、このソフトは迷惑メールフォルダというのがあり、一度このフォルダに入るように指定した差出人の IPA から送付されたメールは、次からは自動的にそこに行くように振り分けられる。

だから、最近では、一度に 100通程度のメールを受信しても、受信し終えた直後にその半分以上は迷惑メールフォルダに直行してしまって、受信トレイの未読メールとしては 30通ちょっとぐらいしか残らない。それでも、その半分ぐらいは、新たに迷惑メールに指定することになるのだが。

こうしてみると、インターネット上を流通しているメールが、世界中で 1日に何億件、何十億件あるかしらないが、少なく見てもそのうちの半分以上は迷惑メールなのだろう。そんなもののためにブロードバンドにしているわけでもないのに、悲しくなるほど無駄なお話だ。

一方、ウィルスメールが少なくなっているということに関しては、Sophos 社が以下のような情報を出している (参照)。

メール全体に占めるウイルス付きメールの割合は91通につき1通(前年同期は35通につき1通)に減っており、メールで広がるタイプの減少は鮮明だ。

91通につき 1通の割合で、昨年同期に比べて 3分の 1ぐらいに減っているというのだから、私の実感はかなり当たっているようだ。その代わり、トロイの木馬型のワームが増加して、金目当てに個人情報を盗むという目的が増加しているというから、油断がならない。

コンピュータ・ウィルスも、単なる愉快犯ではなく、金目当ての世知辛い世界になったようで、それはそれで悲しいものがある。くれぐれも、ネット経由でへんてこなプログラムをインストールしないように、気をつけよう。

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2006/07/16

東我孫子と天王台

私は都内から帰宅する時には、常磐線快速電車で終点の取手まで行くのだが、これにはちょっとだけ注意が必要だ。

1時間に 1本ぐらい、途中の我孫子から成田線に入り、成田まで行ってしまう電車がある。それに乗ったまま居眠りなんかしたら、とんでもないところまで連れて行かれてしまう。

常磐快速の始発、上野駅から、終点の取手駅までは、約 40分かかるので、途中で大抵眠くなってしまう。眠くなっても、「取手行き」 に乗っていさえすれば、大抵は終点で眼が覚めるのだが、「成田行き」 というのに乗ってしまうと、大変なことになる。

取手の 2つ手前の我孫子駅の分岐で、成田線に入り、成田方面に延々と向かってしまうのだ。

問題は、この成田行きに乗ってしまって、我孫子駅を出てしまったら、どこで下車するかである。一度だけ、終点の成田まで眠りこけたことがあるが、その場合は、終電車でもない限り、大抵はそのまま乗っていればまた戻ってくるので問題ない。時間はかかるけれど。

しかし、途中で気付いてしまったら、それはそれで問題なのである。たまたま我孫子から出て 1つ目の、東我孫子という駅で気付いて、脊髄反射的に飛び降りたことが何度かあるのだが、実は、それは悲劇の幕開けとなる。

この東我孫子という駅は無人駅で、まともな駅舎もない。冬は木枯らし吹きすさび、夏は蚊の大群に襲われる。反対方向の電車が来るまで、30分以上をそんな中でひたすら待たなければならないのだ。

この失敗で学んだ私は、以後、東我孫子で気付いても、ぐっと堪えてそこで飛び降りるような愚を犯さず、まともな駅舎のある木下 (きおろし) あたりまで乗って行くことにした。どうせ早めに降りても、反対方向の電車がそんなに早く来るわけじゃないし。

ところが、私は最近衝撃の事実を知ってしまったのである。東我孫子駅から、常磐線の我孫子と取手の間にある天王台駅までは、10分もかからず歩いていけるのだ。

それまで、蚊の大群や木枯らしを耐えながら待った 30分以上の苦行は何だったのだ。また、わざわざ遠くの駅まで乗っていった辛抱は、何だったのだ。

素直に東我孫子で降りて、天王台まで歩けば、そこからたった 1駅で取手まで帰れたのである。知らないということは、げに恐いものである。

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2006/07/15

落雷でパソコンが死んだ

昨夜田舎から帰宅したところ、我が家のそばの街灯が消えている。娘によると、とんでもない雷が鳴って、すぐ近くに落雷したらしい。

そのためか、風呂と湯沸しのボイラーが壊れてしまっている。もしやと不安になって、仕事場のデスクトップ・パソコンのスイッチを入れたところ、うんともすんとも言わない。

どうやら、少なくとも電源部分が死んでしまったらしい。もしかしたら、メインボードも焼けてしまっているかもしれない。長時間の運転の後だけに、パソコンのガワを開いて確認してみる気力もない。

おまけに ADSL 回線もやられてしまっているらしく、電話も通じなければ、LAN ケーブルをノートパソコンにつないでも、インターネットに接続できない。

というわけで、このエントリーは、モバイルのノート PC で、ピッチでつないで書いている。ただでさえ疲れているのに、がっくりと力が抜けてしまった。

このクソ暑いのに、ボイラーが壊れては、風呂に入ることもできなければ、シャワーを浴びることもできない。エラいことである。

おまけに、私は明日から来週の水曜日まで、また旅の空である。パソコンの修復はずっと先の話になってしまう。それを思うと、ますます力が抜ける。どうやら、長期戦になりそうだ。

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2006/07/14

ノムヒョン = ベルボトム論

1970年代初頭、ベルボトムという形のジーンズが大流行。20歳前だった不肖私も、恥ずかしながら 2着ほど買った覚えがある。

しかし、その流行もあっという間に下火になり、振り返ってみれば、「なんでまた、あんなものはいてたんだろうね?」 と、「気恥ずかしいファッション」 の代表格になってしまった。

ベルボトムとは、今さら言うまでもないが、膝下から過激にフレアーしたシルエットで、当時はカウンターカルチャーのシンボルとして、そっち方面にかぶれた若い連中は、こぞってはいたものである。

それはそれは、熱狂的な支持だった。ロック・ミュージシャンも、フォーク・シンガーも、新左翼も、ファッションかぶれも、アート志向派も、ヒッピーもフーテンも、皆、お尻と太腿がぴったりで、膝下がガバガバのシルエットに包まれていたものなのである。

しかし、その流行も 3年ともたなかった。ブームが終わってしまうと、あんなものを身に付けたことを、誰もが、ある種複雑な感慨で思い出すようになった。

冷静になって考えれば、とても気恥ずかしい格好なのであった。あまりにも無邪気なのであった。自分がベルボトムを履いた写真なんぞがあったら、「恥じゃ~!」 とばかり、火をつけて燃やしてしまう者までいた。

というわけで、本日のエントリーのタイトルは、「ノムヒョン = ベルボトム論」 ということにするのである。韓国でも、あと何年か経つと、「何であのようなお人を・・・・・・」 と、複雑な感慨で思い出されるようになるのではないかと、余計なお世話ながら拝察してしまうのだ。

これ以上は、長々書かなくてもわかっていただけると思うので、今日のところはこの辺でおしまいとする。

ココログのメンテが終わって、少しは軽くなったような気がする。まだまだ予断を許さないが、一応のところは、「やればできるじゃないか、ココログ!」 と言わせていただく。

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2006/07/13

いにしえの峠道を辿る

昨日の早朝につくばを発って、酒田に帰郷している。先週の段階の週間天気予報では、この 3日間は 「曇り時々晴れ」 といった基調だったのだが、急に梅雨前線が北上して、今日は朝から雨が降っている。

晴れ男の私としては、実に珍しいケースである。まあ、今日一日は我慢していよう。

昨日は途中で仙台に寄り、久し振りに妻の母の墓参をした。そこから酒田に来るのに、普段は高速道路 (山形道) を使うのだが、今回は時間に余裕があったので一般道で行くことにした。

私は実は高速道路があまり好きではない。ただ単に速く移動するというだけで、旅の実感がないからだ。時間に余裕さえあれば一般道を辿りたいと思っている。

国道 286号線を辿り、東北の背骨のような奥羽山脈を越えて山形県に抜けるのだが、その途中に笹谷峠がある。実は、私はこの笹谷峠を越えるのに、その下を貫通する笹谷トンネルしか通ったことがなかった。 しかし、この笹谷トンネルは 「山形道」 の一部として供用されているため、一般道を辿るとなると、旧道の峠を越えるしかない。

カーナビの地図を見ると、見事なほどギザギザの九十九折りである。 笹谷峠は宮城県と山形県とを結ぶ最古の峠で、標高 906mと、1000m近い。かなりの難所である。

Wikipedia をみると、その歴史は平安時代まで遡ることができるという。 「すぐせやな名ぞいなむやの関をしもへだてて人にねをなすからん」(源俊頼・散木奇歌集)、「ふた國の生きのたづきのあひかよふこの峠路を愛しむわれは」(斎藤茂吉) の歌が紹介されている。

陸奥の国と出羽の国という 「ふた國」 の間に、「いなむやの関 (有耶無耶関)」 というのがあったわけだな。この関には、鬼が出たと伝えられている。 ちなみに、「有耶無耶関」 の跡というのは、山形県に 2箇所あって、もう一つは庄内浜の北端である。「うやむやのせき」 と読むのが今は一般的だが、源俊頼の時代には 「いなむやの関」 と読んだものらしい。

峠の登り口には、「大型自動車通行禁止」 とあり、「落石注意」 の看板が随所にある。道も狭く、車 2台がすれ違うのも容易ではなさそうだ。大雨でも降ったら、通るのに躊躇するだろう。

辛うじて舗装されてはいるが、まさに 「いにしえの峠道」 と呼ぶにふさわしい様相である。古代から、なくてはならない道だったが、時には人を呑み込んでしまうこともある危険な道でもあった。(何しろ、鬼が出たぐらいだから)

峠の下を貫通する笹谷トンネルしか知らなかった私には、新鮮な驚きを伴う旅程だった。古人 (いにしえびと) は、歩いてこの峠を越えたのである。彼らの身体感覚は、現代を生きる我々のそれとはかなり違っていただろう。

その 「いにしえの身体感覚」 を、我々は時には蘇らせて、五感をリセットしてみる必要があるような気がした。そうすれば、この世界はかなり違ったものとして認識されるだろう。

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2006/07/12

日本一の炎上ブログ

ブログ炎上という話はよく聞くのだが、今の日本で最も景気よく炎上しているのが、「【特設】ココログレスポンス問題お知らせブログ」 だろう。とくに 7月 9日のエントリーがすごい。

近頃のココログのシステムとしてのお粗末さと、誠意のない対応に、ユーザーが怒りまくり、呆れ、見放しつつあるのがわかる。

該当エントリーは、「2006年7月9日(日) 12:35からココログの管理画面へアクセスしにくい現象が発生しております」 と告知しているのだが、それに対して、「アクセスしにくいのは、その 3日も 4日も前からだ」 と、馬鹿も休み休み言うがいいとばかりのコメントが、280以上も付いている。

普通は、ブログが炎上するといっても、コメントの中身は賛否両論というのが多いが、この場合は、99%以上が怒りまくっていて、そうでない残りも、単なる気休めである。こんなのは、本当に珍しい。

確かに、私も 7月に入って間もなくから、ココログの管理画面が異常に重いのを認識していた。7月 9日からだなんていうのは、ノー天気にもほどがある。運営会社が、自分の商品の有様を全然知らないことになる。

この告知は、ユーザーの怒りの火に油を注いだ形となった。富士通系は、個人ユーザー相手の商売が、本当に下手だ。(最近は個人ユーザー相手に限ったことでもないけど)

私としては、ココログのレスポンスが悪いのは今に始まったことでもないので、今回の大規模メンテナンスに期待する気持ちになっていたのだが、このブログの木で鼻をくくったような対応をみると、あまり期待できないかなという不安にもかられる。

親指シフトの OASYS を愛用し、パソコン通信時代からニフティ・ユーザーである私には、実に悲しいことである。有名な労働基準法無視の過重労働のせいで、社員の頭の中が判断不能状態になっているんじゃあるまいか。

思えば、ニフティのココログというブログ・サービスは、日本のブログの中でも最も早くから出発した草分け的存在の一つである。それだけに、今のようなブログ・ブームが来るとは予測できず、かなり貧弱なシステムでスタートしてしまったのではないかと思われる。

他の会社からみたら、「ニフティさん、失敗しちゃったね」 ということになるのだろうね。もっと早くから抜本的対策を取っておけばよかったのに、ユーザーの怒りが臨界点を超えるまで、姑息な場当たり的対応しか取らなかったツケが、今になって噴出しているという感じだ。

今回の大規模メンテが終わっても大した改善が見られなかったら、今度こそブログ移転を本格的に検討しなければならないだろう。

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2006/07/11

ココログのメンテに伴う業務連絡

ココログの、とくに夜間の異常な重さを解消するために、大がかりなメンテナンスが実施されると告知されている。

11日 14:00 から 48時間にわたるというので、その間、ココログの更新は出来ない。仕方がないので、その間、リザーブの はてな の方で更新するので、そちらをご覧頂きたい。

「とくに夜間の異常な重さ」 と書いたが、実際のところは、夜間ばかりではない。日中でも話にならんほど重くて、ストレス感じまくりだ。このままの状態が続くようだと、移転は必至の状態である。メンテの結果に注目したい。

今回のメンテは、何しろ、レスポンスの抜本的改善のために、データベースソフトおよびオペレーティングシステムのバージョンアップを行うというのだから、今までになかったほどの長い時間がかかるというのも仕方がない。

ただ、48時間とはいえ、実質的には 2泊 3日に相当するブランクだから、「毎日更新」 を標榜している当方としては、影響が大きい。こんなこともあろうかと、はてな にリザーブを作っておいて正解だった。

取り敢えず、本日 11日のエントリーはココログにアップしておくが、12日と 13日の分は、はてな の方で更新させていただきたい。そして、13日の 14:00 に本当にメンテが終わり、まともに動くようになったら、この 2日分のエントリーをココログにもコピーする予定である。

いつもココログでご覧頂いている方には、煩雑なことで恐縮だが、2日間だけ、ちょっと面倒を我慢して頂ければ幸いである。

しかし、今までの例のように、メンテを行ったせいで、かえってガタガタになったりしたら嫌だなあ。正直なところ、心配である。ココログを利用するブロガーの多くは、祈るような気持ちかもしれない。

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2006/07/10

今年は七夕が 2度ある

七夕を新暦の 7月 7日で祝うのは、如何ともしがたい違和感である。第一、梅雨も明けないうちの七夕では、織姫・彦星に気の毒だ。

東北では、たいてい月遅れで七夕を祝うのでずっとましだが、本当のところをいえば、旧暦で祝うのが正しい。そして、今年は、旧暦の七夕が 2度あるというのがおもしろい。

本来、七夕は歳時記でも秋の季語である。旧暦の 7月は、「秋」 なのである。

暑い盛りを過ぎて、日の沈むのが早くなり、夜がだんだんと長くなる。黄昏時を過ぎると、少しは涼しい風が吹き始めて、見上げると、水蒸気に霞んだ夏の夜空とは異なり、星々が清かに輝いている。本来の七夕は、そんな季節感の行事である。

そして、旧暦の 7日というのは、どの月でも上弦の月となるのだが、夏が過ぎたばかりのすっきりとした上弦の月は、舟の形をして、天の川を横切り、あたかも、ベガとアルタイルの間を結ぶように見える。これが、七夕のインスピレーションの根幹である。

だから、本来の七夕は、旧暦の 7月 7日でなければならない。そして、旧暦の 7月 7日というのは、たいてい、新暦 8月の中旬以後で、日暮れ以後の情緒の深まる時期なのである。

そして、今年の旧暦七夕の話に戻ろう。今年は七夕が本当に 2度あるのである。

というのは、今年は閏月 (うるうづき) というのがあり、7月が 2度あるのだ。7月と閏7月である。だから、7月 7日も 2度ある。

最初の旧暦 7月 7日は、新暦でいうと、7月 31日で、閏7月 7日は、新暦の 8月 30日だ。

旧暦は、新暦とだいたい 1か月半ぐらいの差があるとちょうどいい頃合いなのだが、今年の最初の七夕のように、新暦と 24日しか差がないと、いくらなんでも季節感が狂う。それで、閏月をはさんで、アジャストするのである。

新暦 8月 30日の七夕となると、ちょっと遅すぎの感じもあるが、中を取って 8月中旬頃とすると、ちょうどいい。そして、来年からはまたちょうどいい感じの頃合いになる。

というわけで、今年の織姫・彦星は 2度逢瀬を楽しむという特例の恩恵に浴する。よかったね。もっとも、新暦と月遅れを合わせたら、4度ということになるが。

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2006/07/09

脳内感覚コンバーター

昨日、テキストからイメージが自然に浮かぶとか浮かばないとかいう話を書いた (参照) が、別の視点からもう少し論じてみたい。

といっても、脳の構造とか認識のプロセスなんていう臨床的なことにはまったくの素人なので、仮説とも言えないノー天気なファンタジーみたいなことになりそうだが。

昨日もちらりと触れたが、TBS ラジオのキャッチ・コピーに、「聞けば、見えてくる」 というのがある。これは、多分、「読めば見えてくる」 というのより、かなり容易なのではないかと思う。

最近はラジオドラマというのは滅多にないが、例えば、野球の実況をラジオで聞いて、実際の画面をイメージできる人は多いだろう。視覚と聴覚というのは、ある意味では近い感覚だと思う。

さらに、梅干しを見ただけでつばが出るとか、明治の落語家、四代目橘家圓喬が真夏に 「鰍沢」 (雪山の噺) を演じたら、客がみな震えたとか、五感 (視覚・聴覚・臭覚・味覚・皮膚感覚) というのは、容易に変換がきくと思ってもいいように思う。

あるいは、五感というのは、それぞれ別物というよりは、元々トータルで統合的な対象を、異なった感覚器官 (目・耳・鼻・舌・皮膚) を通じて認識した際の、分化した感覚とみていいのではなかろうか。

ここまで書いていて、「般若心経」 を想起した。「是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」 、物質的現象も心的作用も感覚器官も感覚も、すべて無であると説く部分である。

つまり、五感で感覚される対象を 「色」 とする。言い換えれば、「色」 は、五感それぞれで感覚されるから、変換も可能だと規定しておこう。

さて、般若心経では、五感の感覚器官は、「眼耳鼻舌身」 とされているが、そのほかに 「意」 というのがあり、合わせて 「六根」 といったりする。それぞれの感覚器官で感覚される対象も、「色声香味触」 のほかに 「法」 というのがある。これらは 「六識」 という。

この 「意 - 法」 というのは、第六感だとかいう見方もあるが、メタフィジカルなメディアと、それによって表現される内容とみることもできる。つまり、テキストとそのコンテンツと解釈することも可能だ。

こうしてみれば、五感もテキストも、それほどかけ離れたものではないとみても、あながち間違いじゃないかもしれない。それを認識する脳の部分が違うということでしかないのかもしれない。

だとすれば、テキストをイメージにコンバートするのは、五感の場合ほどにもろに生理的ではなく、かなり前頭葉寄りの作業かもしれないが、可能なことに違いないのである。

テキストを読んでイメージ化するだけではない、hrk さんは、一昨日のエントリーに 「文章を読んでいると、映像だけでなく音声も再現してしまいます。声質とか声音とか…。臨場感満点です」 とコメントしてくれている。

こうなると、前述の四代目橘家圓喬の 「鰍沢」 で、テキストを伴う視覚/聴覚刺激が暑さ寒さの皮膚感覚に変換されたように、テキストから味覚、臭覚に変換することだって可能だろう。

「テキスト - イメージ・コンバーター」 は、人間の脳内に備わっているもので、あるいは、それはむしろ 「脳内感覚コンバーター」 というべきなのかもしれない。

感覚は、元々トータルなものだったろうから、一度、未分化な状態の、デジタル・データの変換でいえば、「中間ファイル形式」 みたいな脳内領域を経由すれば、それはもう、自由自在、どうにでもなりそうな気がする。

その自由自在さ加減は、下手したら、並の映画やアニメどころではない。多少感覚未分化な要素を残していて、なまじきっちり鮮明かつ具体的なイメージでなかったりする分、かえって縦横無尽、奇想天外のハイパー・センセーション (ハイパー感覚) になる可能性がある。

それに、どうせ 「色即是空、空即是色」 で、感覚される対象は 「空」 なんだから、何物にもとらわれずに済む。

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2006/07/08

テキストからイメージが自然に浮かぶか?

「色々バトン」 のエントリーへの kumi, the Partygirl のコメントで、テキストを読んで自然にその映像が頭に浮かぶ人と浮かばない人がいるということを知った (参照)。

私は案外自然にイメージが浮かぶ。だから、参照先を読むまで、浮かばない人がいるなどとは、思いもよらなかった。

TBS ラジオの最近のキャッチコピーに、「聞けば、見えてくる」 というのがある。だから、「読めば見えてくる」 のも当然のことと思っていたのだが、どうも、そうでもないようなのだ。

参照先、"Windbird :: Recreation" の kazenotori さんは、"俺の場合、そういった 「文章から映像への変換」 が全くできない" と述べておられる。しかし、文字通り 「全くできない」 というわけでもないようで、続けて次のようにも書かれている。

イメージがあることはあるのだが、いかにも端っこに「※写真はイメージです」と書かれていそうなものしかない。躍動感溢れる戦闘シーンを脳内で再生することなんてさっぱりできない。ライトノベルなら挿絵がついているが、それでもせいぜい、セリフを読むときに挿絵に描かれた人物の顔を思い浮かべるくらい。

うぅむ、そんなことを言ったら、私だって頭の中に映像が浮かぶとはいっても、そんなに完成された映画やアニメほどにしっかりしたものというわけではない。多くは雑ぱくで自分勝手な思い込みのイメージである。だから、もしかしたら、kazenotori  さんと五十歩百歩なのかもしれない。

そういえば、kumi, the Partygirl も、「私は本を読むときは、必ずしも映像になんてならないと思うんですけど」 とコメントしている。彼女は、サイトを見ればわかるように、魅力的なイラストを描くほどなのに、テキストから自然にイメージが湧くということがないとは、かなり意外な気がする。

試しに、文学少女にしてなおかつ絵描き志望だった妻に聞いてみたところ、彼女も 「うーん、どうかしらね」 と自信なさそうなことを言う。ますます意外である。

もしかしたら、自分なりの画像創出にこだわりがある人間は、それだけに、かえって脳内でテキストをイメージに自動変換するなんてイージーなことは、しないのかもしれない。私の脳内イメージのレベルでは、「そんなの、画像とはいえないわよ」 なんて言われそうだ。まあ、脳内まで覗かれる心配はないからいいけど。

その意味では、どの程度に鮮明なイメージを称して 「画像が浮かぶ」 と称するかも、案外、人によって基準が違うのかもしれない。テキスト派にとっては十分なイメージでも、基準の厳しいイメージ派にはイメージと呼ぶに値しないということになりかねないし。

もしかしたら、私の脳内に生成されるイメージというのは、元のテキストによって補完されながら、ようやく 「イメージらしきもの」 として認識されているだけという疑いも生じる。視覚イメージと脳内イメージの認識プロセスは、当然違うのだろうし。

ただ、私の場合、小説を読み終えてからその中の印象に残った部分を思い返すと、読みながらリアルタイムで思い浮かべたイメージも、そのまま甦ってくる。以前読んだ小説に挿絵があったように記憶していても、後でページをめくってみると、実際は挿絵ではなく、自分の脳内イメージだったらしいということもある。だから、それほど馬鹿にしたものでもない。

Windbird のエントリーに、2chのコピペとして、"「本読み」 という人種は 「Text→Image」  Generator   (生成回路) を脳内に形成している場合が多い" という興味深い一文があり、さらに、以下の 「まとめ」 というのがすごく極論で面白い。

1.文字情報は「本読み」にとり、生成される脳内ImageのSourceであり、圧縮fileである。

2.脳内Image-Generatorの精度向上により、漫画・映画以上の臨場感が得られる。

3.イラストはImage-Generatorの補助Fileである。

4.イラストの多いライトノベルはImage-Generator生成術入門としても意味がある。

まあ、ここまでくると、イメージこそがメインで、テキストはそれに従属する素材というポジションに落とし込められそうなので、一応 「おいおい、ちょっと待てよ」 と言っておこう。映画代を節約するために原作を読むなんてことになったら、ちょっと違う。

ただ少なくとも、テキストを読むと自然に脳内にイメージが浮かぶ人と浮かばない人がいるということは、とても興味深い。 「Text→Image」 Generator (生成回路) というのは、(私は、どっちかというと、「テキスト - イメージ・コンバーター」 と呼びたいけど) 脳内のどのあたりにあるんだろうか。

専門家が研究してみたら、かなり面白いテーマだろう。あるいはもしかして、既にかなり研究されているかもしれないと思い、「テキスト イメージ 生成 脳内」 の 4つのキーワードでググってみたら、「情動イメージの生体情報理論」 という、いかにも小難しそうなページが検索された。

その中で関連するかなと思われる記述を、以下にちょっとだけ引用しておく。

Kintsch(1974)のテキスト理解の (ママ) おける命題および命題間の関係などを引き,Pylyshyn(1973)のイメージは内的に構築された知覚の記述であるという立場を取り,一つの単語による意味ネットワークと考える.したがって刺激によって命題ネットワークが活性化し,様々な内容がイメージされるとともに,このイメージネットワークでは感覚調整,刺激への身体の方向付けや構えの姿勢など知覚的反応も喚起される.さらに反応命題は,遠心性への出力といった生理心理学的反応の過程そのものであり,命題によって決定される運動パタンが脳内で行われているイメージ処理の実時間での指標であるとともに,知覚反応の操作がイメージの中でどの程度表象されるかがイメージの鮮明さと深くかかわる.

どうやら脳内には刺激に応じて仮想イメージを生成するネットワークがあるらしい。ふぅ …… 今日はこれぐらいにしといたるわ。(正しい読み方をすると、ここで池乃めだかのイメージが生成されなければならない)

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2006/07/07

続 ・ 「鏡の法則」 のリアリティ

4日前の 「鏡の法則」 に関するエントリーで、私は自分の反応が 「シンプルに感動した」 派と 「馬鹿馬鹿しい」 派のどちらにも属さないと、確かに書いた。

しかし、どちらの方により違和感を覚えるかと言えば、馬鹿馬鹿しいとして、無闇に批判する論調の方にである。

高い壷を売りつけるインチキ霊感商法と同じやり口だとか、カルト宗教の洗脳のようだとか、いろいろな批判のしようがある。しかし、このストーリーでは、幸いなことに、壷も売りつけらていなければ、カルト宗教に金を貢がされてもいない。

誰にも迷惑をかけず、誰も不孝にならず、それどころか、(一応) 幸せになっている。その方法論が気に食わないとしても、あるいは、そのレポートが稚拙だとしても、別に、とりたてて悪し様に言う必要はないじゃないかと思うのである。それこそ、人生いろいろだもの。

一般的なことを言えば、そりゃあ、親を恨むよりは感謝している方がいいに決まっている。しかし、世の中には、どうしても親を許せないと思っている人も多い。不幸なことである。

親を許すことに抵抗があるのは、親が 「ダメな親」 であってくれた方が、自分にとって都合がいいからである。自分がこんなになってしまったのは (あるいは、この程度にしかなれなかったのは)、親のせいだと思っていられる方がいい。

またあるいは、至らない親を反面教師としたからこそ、自らの健気な努力で何とかここまで来たのだと思っている人も多い。それは裏返せば、あんな親でなかったら、自分はこんなに苦労しなくてすんだのにという思いだ。

自分は、愛情の欠けた親、つまらない仕事人間の親、話のわからない頑固な親、無教養な親、甲斐性なしの親、不潔な親、親の資格のない親の、快楽追求の結果の、いわば犠牲者である。

自分を犠牲者であると規定することは、なかなか居心地のいい、甘美なものである。「何てかわいそうな私」 「にも関わらず、何て健気な自分」 そう思うことで、ある種の心のバランスが保たれているというケースは、かなり多い。

しかし、そうした心のバランスの多くは、所詮長続きしない。最も身近な存在を責める無意識の心的傾向は、友人、上司、恋愛相手、配偶者、子どもなど、いろいろな人間関係に影を落とす。

周囲とうまくやっていきたいと強く思っているのに、なぜかいつもうまく行かず、軋轢を生じ、悩むということが多い。そして、その原因が自分の心の中にあるとは、なかなか気付かない。

たとえ気付いたとしても、それを認めて、一転して親と和解しようという気持ちになることは、とても難しい。親を責め、自分を憐れむことの甘美さが、現実の不幸を埋め合わせて余りあるうちは、人間はなかなか変われるものではない。

しかし、不幸が積み重なって、古いバランスがまったく機能しなくなってしまったら、新しい心的バランスを求めるしかないのである。その新しいバランスが、親との和解によって得られるのだとしたら、自分の中にどんなに頑強な抵抗があろうとも、試みる価値はある。

それは決して 「敗北」 ではない。「敗北」 だと思うと、決して和解は得られない。甲斐性なしの親を持った子ほど、自力で必死で生きてきたから、「負けず嫌い」 が多い。しかし、時には、その負けず嫌いが余計な邪魔をする。

親鸞上人が、「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 と言われた真意も、そこにあると、私は思っている。「自分は悪くない = 自分は善人である」 と思っている人の心は、実は案外かたくなである。悪いのは他の誰かだと思っている。しかし、まず自分の非を率直に認める人の方が、仏の心に叶う。

現代の心理学の成果と共通することを、宗教は昔から直観的に表現していることがある。だから、宗教はあながち迷信の固まりというわけではない。むしろ、学問の苦手な人にも受け入れられるように、平易に説いてあるだけ、汎用性があったりする。

それに、実際のカウンセリングで、こうしたカタルシスのメカニズムを前もって論理的に説明しすぎると、相手はいろいろな逃げ道をたくさん用意してしまって、単なる堂々めぐりの議論に陥りがちだ。だから、一見宗教じみたアプローチを取る方が、効果的ともいえる。

というわけで、私は、正しすぎる人と付き合うのは苦手である。なお、「正しすぎる人」 の中には、カルトの教祖というのも入るわけだが。

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2006/07/06

「色々バトン」 を受け取った

萌野さんのところ から、「色々バトン」 というのが廻ってきた。このところ、こういったバトンにご無沙汰していたので、ちょっと気分転換の意味もあって、受け取ってみようと思う。

回答の中に 「即ち空」 の側面が出過ぎたりすると、趣がなくなってしまうので、できるだけ色っぽく答えたいと思うのだが、はてさて……

というわけで、さっそく答えてみよう。色っぽく答えられるかなあ。

  1. 自分を色に例えると?
     
    私の妻は、とても絵心がある。3人の娘たちも、その遺伝子が色濃いんだか、ちゃんとした絵が描ける。それに比べると、私の絵心はとても貧弱で、とくにカラー感覚がなってないような気がする。
     
    それでも、強いて自分なりの色というものを挙げるとすると、「浮世絵の色」 ということにしたいと、いつも思っている。私の本宅サイトと、和歌ログのトップページは、この浮世絵の色をフィーチャーしたつもりなのだ。
     
    その中でも、「苔色」 (今どきの言葉でいえば、「モスグリーン」)が自分の色かなあ。萌野さんは、私を 「明るめの若竹色」 という、自分自身でイメージしているよりずいぶん若めの色にたとえてくれていて、そのあたり、ちょっと嬉しかったりしている。
     
  2. 自分を動物に例えると?
     
    私の干支は 「辰」 で、星占いでは 「獅子座」 だったりするので、もっと雄々しいイメージであるべきなんだろうけれど、何しろ、母親の 「巳年」 の 「蠍座」 という遺伝子を受け継いでいるので、なかなかど派手に迫るキャラになれない。
     
    で、アメリカン・フォークソングに出てくる 「パフ」 という魔法のドラゴンあたりが適当かもしれない。ジャッキー・ペイパーという少年に遊んでもらえなくなって、すねてしまうなんていう、だらしない竜である。
     
  3. 自分を好きなキャラに例えると? (漫画や映画何でも可)
     
    落語の 「長屋の花見」 に出てくる、長屋の大家さん (参照)。なかなかノー天気でいい人なんだな、これが。こんな人になれたらいいなと思う。
     
  4. 自分を食べ物に例えると?
     
    そりゃもう、私は蕎麦好きだから、お蕎麦にたとえたい。ただしかし、お蕎麦といっても、なかなか奥が深い。いろんな蕎麦がある。
     
    並木の藪に代表されるような、江戸前のきりりとした蕎麦というほど、私は粋じゃないし、信州蕎麦という感じでもない。また、ぶっとくて黒いワイルドな田舎蕎麦というわけでもない。
     
    というわけで、江戸前と田舎蕎麦の中間的な、ちょっとだけ太くて、やんちゃなイメージの蕎麦ということにしたい。
     
  5. 次にまわす5人を色でたとえると?
     
    「次にまわす」 といっても、受け取ってくれるかどうかは別問題として、私がその 5人をどんな色としてイメージしてるかということをメインの意味としたいので、そのあたりよろしく。
     
    おはよう富良野」 のつぼちゃん: 朝焼けに染まった富良野の雪の色。
    酔流亭日乗」 の酔流亭さん: 白磁の徳利に、着ているブルーのシャツがぼんやり映った感じ。
    桜と滝と・・蕎麦が好き」 の花まきさん: そりゃもう、満開の桜色。どちらかというと、白っぽさの勝ったピンクかな。
    It's my Party」 の kumi, the Partygirl : いつも定冠詞を付けてリスペクトの意を表しているぐらいだから、ゴールドとしておきたいんだけど、迷惑かな?
    まこりんのわがままなご意見」 のまこりんさん: ややピンク味を帯びたモノクロームなグレー。
     
    こんな感じなので、よかったら、受け取ってもらえると嬉しいんだけど。
                                                                                                                                                                           
つぼちゃん
酔流亭さん
花まきさん
kumi, the Partygirl
まこりんさん
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2006/07/05

都心の一等地の剣道場は無駄か?

詳しい事情を全然知らないので、部外者の戯言になってしまう虞れもあるのだが、ちょっとだけ、嘴を突っ込んでみようと思う。

何かというと、東京文京区音羽の講談社の敷地内にある剣道場、野間道場の取り壊しが決定してしまったらしく、それを惜しむ声が上がっていることについてである。

このことは、私の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 の BBS に書き込みのあったくまさんという方のサイトで知った。くまさんは、この野間道場の保存のために活動を開始されているようである。

野間道場というのは、講談社の創業者で、「剣道社長」 とも呼ばれた野間清治氏が、全人教育を目指して、大正 14年に自社の敷地内に建てられたものだという。全国の剣士を受け入れた、70数年の歴史がある。

この野間道場が取り壊されることになったというのだが、講談社にしてみれば、都心の一等地に、酔狂な剣道場を置いておくなんてことは、もったいない話なので、より有効な土地活用をしたいということなのだろう。

しかし、私はこの話を聞いて、逆の発想をした。この都心の一等地に、金を生むわけでもない剣道場を持っているということが、出版企業としての無形の価値を生み出すということに気付いてもらいたいと思ったのである。

自社内にこの道場を保存し、きっちりと活用していくことは、その辺の何とかコンクールとかかんとか大会のスポンサーになったり、バブルが崩壊すると忘れたふりをする薄っぺらなメセナ活動をしたりするより、ずっと意味のあることではないか。

この道場を取り壊してしまったら、何か大きなものを失うことになるような気がするのである。

「諸外国では云々」 みたいなことは、あんまり言いたくないけれど、こんな由緒ある建物をあっさり取り壊すなんていうのは、日本以外の先進国では、あまり聞かれないお話だとも思う。そもそも、そんなことしたら、すごい反感買うだろうし。

とまあ、部外者ならではのお気楽なことを書いてしまったのだが、そのあたり、よろしくお願い致したいと思うのである。

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2006/07/04

「谷川俊太郎の 33の質問」 に勝手に答える

「谷川俊太郎の 33の質問」 というのがある。私はまだ読んでいないが、詩人の谷川俊太郎が、いろいろな人に 33の質問をして答えてもらうという内容で、ちくま文庫で出ている。

この質問に、勝手に答えてしまうというのが、今ネットで流行っているみたいで、私もちょっと乗っかってみようと思う。

  1. 金、銀、鉄、アルミニウムのうち、もっとも好きなのはどれですか?
    いぶし銀が一番好きで、その次が金。
     
  2. 自信をもって扱える道具をひとつあげて下さい。
    一応、パソコンは自信を持って扱っています。ただし、日常の業務用途レベルで。
     
  3. 女の顔と乳房のどちらにより強くエロチズムを感じますか?(女の方であれば、男の顔と身体。)
    う~ん、エロチックな顔は、しぼんだ乳房よりエロチックで、エロチックな乳房は、硬直した顔よりエロチック。要するに、場合によるということ。
     
  4. アイウエオといろはの、どちらが好きですか?
    普段は、いろは。有機的な並びだから。でも、あいうえおの無機的な秩序も悪くないと思います。
     
  5. いま一番自分に問うてみたい問は、どんな問いですか?
    その知恵は、愛もて裏付けられているか?
     
  6. 酔いざめの水以上に美味な酒を飲んだことがありますか?
    そういわれてみれば、ないような気がします。酒のうまさは、解釈したもので、酔い覚めの水は、多分直観的なうまさ。
     
  7. 前世があるとしたら、自分は何だったと思いますか?
    普通の人間だったと思います。ちょっと間の悪いところのある。
     
  8. 草原、砂漠、岬、広場、洞窟、川岸、海辺、森、氷河、沼、村はずれ、島、何処が一番落ち着きそうですか?
    海辺。高校時代、よく授業をサボり、最上川河口の渡し船に乗って、海辺に行ってました。
     
  9. 白という言葉からの連想をいくつか話して下さいませんか?
    夏の陽は白い。白い光の下で、動くものとてない。そこに幼い日の自分自身を幻視します。
     
  10. 好きな匂いを一つ二つあげて下さい。
    潮の匂い。無臭という匂い。
     
  11. もしできたら「やさしさ」を定義してみて下さい。
    常に見守っているけど、滅多に手出ししないこと。
     
  12. 一日が二十五時間だったら、余った一時間を何に使いますか?
    余らないです。きっと。
     
  13. 現在の仕事以外に、以下の仕事のうち、どれがもっとも自分に向いていると思いますか? (指揮者、バーテンダー、表具師、テニスコーチ、殺し屋、乞食)
    なりたいのは指揮者だけれど、向いているのは表具師だったりすると思います。
     
  14. どんな状況の下で、もっとも強い恐怖を味わうと思いますか。
    夜の帰り道、角を曲がっとたん、立ち小便をしているみのもんたが、こっちをじろりと振り向いたとき。
     
  15. 何故結婚したのですか?
    今の妻と、どうしても結婚したくなったので。
     
  16. きらいな諺をひとつあげて下さい。
    「旅の恥はかき捨て」 拾わされる者の身になってみろと言いたいので。
     
  17. あなたにとって理想的な朝の様子を描写してみて下さい。
    午前 3時半まで降っていた雨が止んで、朝日が昇り始める頃。
     
  18. 一脚の椅子があります。どんな椅子を想像しますか?(形、材質、色、置かれた場所など)
    昔の小学校の、木製の椅子。飴色に古ぼけて、廃校の教室にぽつんと置かれている。
     
  19. 目的地を決めずに旅に出るとしたら、東西南北、どちらの方角に向かいそうですか?
    西です。新しい出会いは、常に西の方向にありそうな気がするので。
     
  20. 子どもの頃から今までずっと身近に持っているものがあったらあげて下さい。
    何だろう? 延々と代替わりはしているけど、手帳かなあ。
     
  21. 素足で歩くとしたら、以下のどの上がもっとも快いと思いますか?(大理石、牧草地、毛皮、木の床、ぬかるみ、畳、砂浜)
    ぬかるみ。指の間からドロが 「むにょ」 ってなる感じ、大好きです。
     
  22. あなたが一番犯しやすそうな罪は?
    あはは、スピード違反。
     
  23. もし人を殺すとしたら、どんな手段を選びますか?
    殺さないと思います。殺さなくても、必ず死ぬから。
     
  24. ヌーディストについてどう思いますか?
    気持ちよさそうだなあと。
     
  25. 理想の献立の一例をあげて下さい。
    盛りそば、漬け物、以上。
     
  26. 大地震です。先ず何を持ち出しますか?
    地震国日本に住む者の業みたいに、全然つまらない答えですが、携帯電話ということになるんだろうなあと。
     
  27. 宇宙人から『アダマペ プサルネ ヨリカ』と問いかけられました。何と答えますか?
    「おぉ、それはそれは」 と。
     
  28. 人間は宇宙空間へ出てゆくべきだと考えますか?
    ここが、宇宙空間です。
     
  29. あなたの人生における最初の記憶について述べて下さい。
    自分が何か動作をする度、声をあげる度に、家族が笑っていたこと。
     
  30. 何のために、あるいは誰のためになら死ねますか?
    多分、国のためになら死ねます。できれば、死するに値する国であってもらいたいけれど、極限状況では、多分、それは問いません。
     
  31. 最も深い感謝の念を、どういう形で表現しますか?
    合掌礼拝で。
     
  32. 好きな笑い話をひとつ、披露して下さいませんか?
    庄内昔話の 「屁ふり嫁」。ネットでは見当たらなかったけど、よく似た話は これ
     
  33. 何故これらの質問に答えたのですか?
    谷川俊太郎さんの質問なら、答える意味があるだろうと信じて。

以上。

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2006/07/03

「鏡の法則」 のリアリティ

「読んだ人の 9割が涙した」 という 「鏡の法則」 が、ブログの世界では賛否両論を含め、かなりの話題になっているようだ。

元ネタは こちら なのだろうが、ちょっとした長文なので、速読術でもやっていない限りは 少なくとも 5分以上かかるだろうということを覚悟して、読んでみて頂きたい。

そんな長文を読んでいる暇がないという人のために、無理矢理なダイジェストで話の内容を紹介すると、ごく普通の主婦が、息子がいじめにあっているらしいことを非常に心配していたのだが、夫の知り合いというカウンセラーの電話を通じた指導で、問題解決に導かれたというお話だ。

根本的な問題は、実は息子にあったのではなく、父親を憎み、夫を軽蔑していた自分の心の中にあったということがわかり、その反省の上に、父との和解が成立し、夫への愛情がよみがえったことによる。

「鏡の法則」 というのは、自分自身の内面的問題が、まるで鏡のように身近な家族に投影されて現れるということを意味しているのだろう。

これに対する反応は、「シンプルに感動した」 派と、「馬鹿馬鹿しい」 派に、二分されているようだ。「怪しい宗教団体の勧誘じみている」 という反応もある。

ここで、ようやく自分自身の感想を述べる段になったのだが、はっきり言って、私はこれらのどちらでもない。

話としては、決して馬鹿馬鹿しい世迷い言ではなく、構造的にはあり得る (それどころか、現実にそこら中にある) ことなのだが、この個別の話に限ると、ストーリーとして、ちょっとリアリティにかけていて、「9割が涙」 するほどのことじゃないだろうと思うのだ。

親との和解が、広範な人生問題の解決につながるというのは、心理カウンセリングの世界ではよく知られたことで、決して根拠のない話ではない。親子間の相剋というのは、潜在意識の中で大きなトラウマとなり、実際の行動に大きく影響するからだ。

親との劇的な (あるいは一見 「さりげない」) 和解という重要なカタルシスが、人生のターニング・ポイントとなったという例を、私も少なからず見聞きしている。だから、この 「鏡の法則」 というのは、実際にまともな教訓を多く含んでいる。

しかしながら、個別のストーリーとしてのこのお話が、「9割が涙した」 というほどよくできたお話かというと、そうは思わない。いろいろな実例の最大公約数みたいな要素をシンプル化して詰め込んだような印象で、リアリティが欠けているように思われるのである。

実際には、かたくなだった主婦の心が、見知らぬ人との電話を通じた会話ぐらいで、そんなに簡単に解きほぐされるものではない。現実の解決は、行きつ戻りつ、苦しみや悩みが波のように寄せたり引いたりして、もっとずっと手間のかかる場合が多い。

だから、この話に含まれる教訓と、ストーリーとしての 「出来」 の問題は、きちんと区別して考えなければならない。

そして、この 「9割が涙した」 というのは、ほぼ 「でまかせ」 で (だって、データの取りようがないんだもの)、本を売るための安っぽいキャッチフレーズとして機能しており、話題性と、ある種のうさんくささを醸し出している点で、功罪相半ばするだろう。

なお、このストーリーは、「玄倉川の岸辺」 の「ハンカチを窓から投げ捨てろ!」 のエントリーで知った。

【追記】

この件に関して、7月 7日のエントリーで、より具体的に触れているので、興味のある方はご参照のほど。

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2006/07/02

煙草が値上がりしたようだが

煙草が値上がりしたようだが、私は煙草を吸わないから、ちっとも構わない。それに、こればかりは、煙草を吸う人の身になって、同情しようという気にも、ちっともならない。

それに、喫煙派には気の毒だが、もっと大幅な値上げでもよかったのになんて書いても、自分が利己主義だという気もしない。

ファミリー・レストランというところには、滅多に入らないのだが、時々、車で遠出をした時など、郊外のファミレスを利用することがある。近頃では、このファミレスというところでも、ほとんどは、喫煙席と禁煙席を分けてくれるようになったのはありがたい。

ところが、ウィークエンドの夕方過ぎなど、ちょっと見渡すと、信じられない光景に遭遇することがかなり多いのだ。

禁煙席に陣取るのは、圧倒的に 「大人だけ」 というグループが多いのだが、喫煙席には、明らかに 「家族連れ」 が多い。そして、その家族連れのほとんどが、小さな子を連れているのだ。

喫煙席というのは、煙草を吸う連中が座るところだから、もちろん煙草の煙が立ちこめている。私はそれが我慢できないから、禁煙席に陣取るわけなのだが、家族連れで来ている連中は、自分たちの小さな子どもを煙草の煙の真っ直中に座らせて平気なのである。

見ていると、そうした家族連れの親は、両親共に煙草を吸うというケースが多い。大人 2人で煙草をふかすから、そのテーブルは煙の密度がことのほか高い。その中に幼い子どもをおいておくという神経が、私には信じられない。

喫煙者のすべてがそうした無神経な連中であるとはいわないが、彼らの中には、このように、自分の子どもの健康にさえ無神経な者が多いのだから、周囲に気を遣う意識が甚だ薄いことが多いといっても、あながち間違いではなかろうという気がする。

だから、煙草 1箱が 500円になろうが、1000円になろうが、1万円になろうが知ったことじゃないと書いても、私は自分が利己主義だとは決して思わないのである。

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2006/07/01

PC が余裕で 5年もつ時代

以前は、PC の性能がすぐに環境変化に付いていけなくなり、3年足らずで買い換えを余儀なくされていたけれど、今使っている機種は、 2年 3か月経っても、全然不満がない。

最近は IT のハードとソフトのバランスが成熟してきたような気がする。この分だと、5年経ってもそれほど不満はなさそうだ。

買ったパソコンが、ハード的には壊れなくても、性能が環境変化に付いていけないために、買い換えざるを得なくなっていたのは、Windows 3.1 から、95、98 に移行する頃だったように思う。

私が最初にプライベートで買った PC は、OS が Windows 3.1、性能は、420MB のハードディスクに、8MB のRAM、そして、CPU は SX (クロックなんて、25MHぐらいだったかなあ) というデスクトップだった。

これは 3年もたずに、Windows 95 ノートに買い換え、これも、あっという間に HDD が一杯になり、Windows 98 のデスクトップとノートの 2台体制に移行、それでも追いつかなくて、Windows XP マシンに移行した。

この間、最も不満に感じていたのは、HDD 容量である。なにしろ、プログラムやデータファイルの容量は肥大化の一方で、不要のファイルを消しても消しても、すぐに HD が一杯になっていた。

マイクロソフトが純粋に我が世の春を謳歌したのは、この時期だったと思う。何しろ、既存の OS やアプリケーションを自らの手で陳腐化させることで、新バージョンが自動的に売れまくったのだから。

現在のマシンは、Windows XP になってから 2台目なのだが、ここに来て、2年経っても PC の性能に全然不満がないという、初めての経験をしている。HDD は、まだ 3割も埋まっていないし、何を走らせても、一応はサクサク動く。

ということは、とりもなおさず、ソフトウェアが成熟してしまって、これ以上に進化しても、差しあたりあまり意味がないという状況になってきたということだ。だから、ハードの方もそれほど大変化しなくて済む。

Windows Vista だの、Office 2007 だのといっても、全然必要な感じがしない。今のままで十分である。多分、そんな風に思っているユーザーが多いだろうから、Windows Vista の展開が開始されても、それほどには売れないだろう。

Windows 95 が発売された時には、秋葉原で徹夜して買ったという物好きが多かったが、今度は、買い換え需要に迫られて、ようやく OS の置き換えが徐々に進むという感じになるだろう。

ビル・ゲイツは再来年に引退するそうだが、いい潮時かもしれない。もう、アベレージ・ユーザーの使うべき OS は、これ以上に進歩したところで、使いこなしようがない。つまり、需要が行き詰まって、マイクロソフトは、今までのようには儲からない構造になる。

ということは、IT 業界は、そんな無茶苦茶な高報酬の人間を何人も抱えきれなくなってしまうということだ。かなりはっきりとした時代の変わり目である。IT が特別のものではなくなるのだ。

要するに、互換性のあるデータを作成できさえすれば、OS やアプリケーションなんて、何でもいいわけであり、自分の使い勝手のいいものをちょっとだけカスタマイズして使うという時代になってくれればありがたい。

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