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2006/07/31

根元的存在のビヘイビアとしての複数

作家、森博嗣氏はご自身のブログの昨年 6月 1日付エントリー 「日本語に複数形がない理由」 で、 "「2つのリンゴがある」 とは言わず、「リンゴが2つある」 というのが日本語らしい言い回し" と指摘しておられる。

これは、日本人の発想の仕方に関する根元的な示唆を含んでいると思う。

氏は、「2つのリンゴ」 などの複数形表現は、英語の翻訳によって生まれたものと推測した上で、日本語に複数形がないのは、「複数個存在することが、物体の性質としてではなく、物体の動作として受け止められていたからだ」 と述べている。

これを私流に表現すると、日本語では、「2つのリンゴというもの」 があるのではなく、「根元的存在としてのリンゴ」 が、「仮に 2つという姿で顕れている」 ということになる。つまり、「2つ」 というのは、その時のリンゴの本質ではなく、単なる 「ビヘイビア (振る舞い)」 なのだ。

同様に、日本人は古来、「2人の人がいる」 とは見ずに、「人が 2人いる」 としてきた。「2人」 を別個の存在ではなく、同じ根元からの派生として見てきたわけである。

この非常に日本的ともいえるコンセプトは、日本人のメンタリティの 「近代化」 を進める上で、最も大きな障害とされてきたフシがある。「人が 2人いる」 という発想では、「近代的自我 - アイデンティティ」 の確立が不可能だからだ。

分割しつくして、これ以上分割し得ないものを 「インディヴィデュアル (個人)」 とするコンセプトと、複数に見えるのは、一つの根元的存在の、ある種の振る舞いでしかないとする見方とは、まさに対極的なものである。

しかし私は、今さらながら日本というユニークな文化圏内に生まれたことを幸運と思わずにいられない。分割に分割を重ねて、物事をトータルでみることのできなくなった 「近代性という呪縛」 から、既に一歩踏み出していることができるからだ。

単なるプリミティブな精神性ではなく、既に近代性というものを経験しつつ、その限界をいともお気楽に超えることのできる 「すべては一体で、トータルなもの」 という実感的コンセプトを、我々がまだ失っていないという幸運に、私は感謝したい思いである。

「山川草木国土悉皆成仏」 という仏陀の悟りにも似た 「すべてが根元においては一体」 という実感こそが、地球規模の危機を救うコンセプトになりうると思うのだ。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

「複数形」の記事,興味深く読ませていただきました。
同時に,何かひっかかるところも。

それは,
「複数形がない理由」

「複数形がある理由」
とは,裏返しなのにどうもちがうような気がするからかも。

「2つ」
にもカギがありそうです。

「リンゴ特売でい!持って行きねえ!」
と言えば,2つと言わず「箱いっぱい」を想像しますね?

でも,
「きのう,リンゴ食べたよ」
って言うときには,まあ1個か2個か,というぐらいかな。
あるいは「一切れ」単位かもしれません。

具体的に数を伝える必要の有無,も関係あるのでは?
「いくつか」をsome,anyとかセブラルで表しますが,それは「17個」でも「18個」でもかまわないときですかね。

「おれ,ゆうべシューマイどか食いしちゃって腹いてー」
のときには,
I ate the"shoe my" enough,so,,,,,腹いてー.
となるのが日本語で,(訳は怪しい)  
英語なら,
「1個や2個じゃないって。もう,大変!」
ってことで,
I ate many many many"shoe myes",,,
になるのかどうかわかりませんが,,,。

「おー,複数やねえ」
と,聞く方も納得!(納得するのかしらん)

そんなことを考えました。

2個が複数,というより,「2個以上はすべて複数にして」
とすれば彼らが言う「合理性」の区分けにかなうのではないかしら。

「ヒット打ったぜ!」
「へー,何本?」
「1本だけさ」
「じゃ,シングルだね」
「いや,ダブルだよ」

これなんか,使えそうな「複数ジョーク」になりませんか?

それよりも日本語と英語の違いを感じるのは,
「あさって」と「おととい」の表現。
印刷時のインクの違いは何倍かしらん?

投稿: かっこいいお兄さん | 2006/07/31 23:52

かっこいいお兄さん:

>それは,
>「複数形がない理由」
>と
>「複数形がある理由」
>とは,裏返しなのにどうもちがうような気がするからかも。

恐縮ながら、おっしゃる意味わかりません。何がどう違うのか。

>「2つ」
>にもカギがありそうです。

私が「リンゴが 2つ」 と書いたのは、たまたまで、「2つ」 だろうが 「3つ」 だろうが、「100個」 だろうが、「1億個」 だろうが、「1000兆個」 だろうが、はたまた、「0.5個」 だろうが、「0.00001個」 だろうが、さらに、まさに 「1つ」 だろうが、同じことです。

断じて言いますが、そんなところにこの問題のカギはありません。

>具体的に数を伝える必要の有無,も関係あるのでは?

複数形のある英語でも、複数形のない日本語でも、数は十分に伝えられますので、複数形のあるなしは、具体的に数を伝える必要の有無に、全然関係ありません。

投稿: tak | 2006/08/01 00:28

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