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2006/09/16

「感覚のプロレス」 から 「論理のプロレス」 へ

元祖 「活字プロレス」 の 「週刊ファイト」 が、今月一杯で休刊になる (参照)。私はネット版の 「ウィークリーウェブファイト」 の有料購読者なのだが、こちらの方も休止となるようだ。

発行元の新大阪新聞社は、「活字メディアの衰退とマット界の沈滞などから読者が減少」 したことを、休刊の理由としている。

格闘技フリークである私は、学生時代から 「週刊ファイト」 の愛読者である。私の学生時代は、新日本プロレスの成長期で、試合はゴールデンタイムでテレビ中継されていたが、貧乏学生だった私のアパートの部屋にはテレビがなく、大事な試合も見逃すことが多かった。

それでも、翌日には 「東京スポーツ」 で試合結果を知り、さらに、毎週木曜日になれば、「週刊ファイト」 でその裏事情まで窺い知ることができた。

当時の編集長だった井上義啓氏のカリスマ的編集方針により、「週刊ファイト」 は、単なるリング上の結果よりも、それを保証するリング外の事情まで取り上げて、コアなプロレスファンのニーズに応えていたのである。

本物のプロレスファンにとっては、「プロレス八百長論」 などは極めて低次元の話であって、それを超越したパフォーマンスの評価こそが問題なのだった。それは、時折垣間見られる 「本物の殺気」 にも支えられていて、往年の猪木プロレスには、確かにそれがあった。

「約束事」 の上に成り立ちながら、時にはそれを踏み越えてしまうプロレスというパフォーマンスであるからこそ、井上編集長の言われる 「感覚のプロレス」 ということが、大きな意味を持っていた。

リング上の世界を支えるバックグランドまで精通して、その上で 「わかる人だけがわかる世界」 というものを、彼は 「活字プロレス」 で表現した。そこから、ターザン山本氏、金沢克彦氏などの名物プロレス記者が巣立った。

しかし、私は 「感覚のプロレス」 というのは、「井上編集長一代限り」 のものだと思っている。「感覚で観る」 プロレスは、猪木の引退とともに、とっくに終わってしまっているのだ。長州力があそこ止まりなのは、「感覚のプロレス」 に鈍い感覚で固執しているからである。

時代は 「論理のプロレス」 を志向しているのだ。しかし、プロレスが 「論理」 を志向してしまうと、それはもう 「プロレス」 ではあり得ない。「格闘技」 になってしまう。その意味で、「プロレス」 が衰退し、「格闘技」 が脚光を浴びるのは当然のことなのである。

そして、「プロレス記者」 の多くは、「論理のプロレス」 に対応できなかった。「論理のプロレス」 の記事というのは、道場で実際に打ち合い蹴り合いをし、関節を極め、極められする経験をしなければ、書けるものではない。「観客論」 の立ち位置では無理なのである。

例えばターザン山本氏は、いまだに個人的思い入れに立脚した 「感覚のプロレス」 を書くという流儀から離れられない。それゆえに、彼の書く格闘技記事には、膝を打って 「そうであったか!」 と感嘆することがない。

今では、格闘技のレポートは、活字記者の書く記事よりも、格闘技経験者の書くブログの方がずっと説得力がある。その意味で、「活字メディアの衰退とマット界の沈滞」 というのは、プロレスとプロレス・マスコミの両方が招いてしまったことでもある。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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