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2006/09/01

単純素朴な差別批判を怪しむ

先月 29日のエントリーで 「オーマイニュース・ジャパン」 が 「重すぎる」 と書いたが、それは初日にご祝儀アクセスが殺到したためで、徐々に解消されると思っていた。

ところが、解消されるどころか、夕べの 10時頃にアクセスしてみたら、輪をかけて激重になっている。これでは、使い物にならない。

ようやく表示されたトップページに 「メディア批評 都知事は差別的発言慎め」 というリンクがあり、クリックしてみたが、あまりの重さにあきらめて、別の作業をし、30分後ぐらいにふと思い出して、開いたままにしておいたウィンドウに戻ったら、さすがに表示が完了していた。

一通り読んでみたが、西野玲さんという記者の、ちょっと笑ってしまうほど古典的な主張である。以下にハイライト部分を引用してみる。

石原知事はこれまで、「三国人」等々の“人種差別的”な発言を繰り返してきた。(中略) 「差別を受けた」と感じる人がいる以上、「差別的な発言」であり、謝罪・陳謝をしなければ当然、「人種差別論者」と受け取られる。30日夜の祝賀パーティーの席では早速、福岡の応援演説をした在日韓国人二世で東大教授の姜尚中氏(カンサンジュン)を称して、「怪しげな外国人」と述べたという。

誤解を避けるために一応述べておくけれど、一連の石原氏の発言には、私自身も不愉快さを感じている。趣味の悪いものの言い方だと思う。エレガントな人間なら、決してしない言い方である。

しかし、だからといって、西野記者の "「差別を受けた」 と感じる人がいる以上、「差別的な発言」 であり、謝罪・陳謝をしなければ当然、「人種差別論者」 と受け取られる" という単純素朴な差別批判がまったく正しいかと言えば、それもかなり危険な気がするのだ。

それを正しいとしてしまえば、ちょっと不用意な、あるいは辛辣な発言に関して、「差別を受けた」 と大声を上げさえすれば、それらはすべて 「差別発言」 ということになってしまう。発言者は、「そんなつもりじゃなかった」 などと呑気なことを言っているうちに、容赦なく 「人種差別論者」 の烙印を押される。

このことには、2つの大きな弊害がある。

一つは 「言葉狩り」 である。本来ならばまったく差別的な意味合いを持たない言葉まで (例えば、言っちゃうけど 「片手落ち」 とかね)、十把一絡げに 「差別語」 として使えない言葉にされてしまう。

それから、もう一つは、前者とつながることだが、社会的弱者が、ことさらに弱者であることを主張することによって、「裏返しの強者」 になるという現象だ。そのようなパラドックスは、案外そこら中にあふれかえっている。それは、決して社会的和解に至らない。

かえって 「逆差別」 が生じ、それまでの 「因習的差別」 は表面から消える分、見えないところでますます陰湿なものになるという実例が、いくらでもある。

"「差別を受けた」と感じる人がいる以上、「差別的な発言」" という声を上げる人の正義感は、一見美しくはあるが、その実、従来の差別主義に劣らないほどの危険さを内包している。それは、単なる裏返しに過ぎない結果を生む場合が多いからである。

しつこく言うけれど、だからといって、私は石原都知事の傲慢で横柄で浅はかなものの言い方を良しとしているわけでは決してない。それは、差別云々というより、美意識とか品格とかの問題だ。

ちなみに、私が日本以外の国に行って 「怪しげな外国人」 呼ばわりされたら、多分、笑ってしまうだろう。だって、図星なのだもの。

姜尚中氏が同じように思ってるかどうかは知らないけれど (思っていたとしても、ちっとも不思議じゃない)、少なくともヒステリックな反応をしておられないところは、見識だと思う。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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