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2006/10/02

「言挙げ」 せぬ蕎麦の花

おっと、もう 10月に足を突っ込んでしまっているのだな。蕎麦の花の咲く季節だ。もうすぐ、新蕎麦も出回るし。

茨城県というのは案外蕎麦の多く作られているところで、ふと見ると、道端の畑に蕎麦の白い花が咲き乱れていたりする。それはそれは美しいものである。

ところが、蕎麦の花の存在感というのはちょっと不思議なもので、ふと気付いてしまえば、見とれるほど素晴らしいのだが、気付かない人は、全然気付かなかったりする。

「○○に行く道に沿った蕎麦畑の花が、綺麗に咲いてたね」 と言っても、「えっ、そんなところに蕎麦畑なんて、あったっけ?」 なんて、びっくりされてしまったりする。あんなにも、見渡す限りの白い花盛りなのに。

これは、多分、白く可憐な蕎麦の花のさりげなさのせいかもしれない。本当に、蕎麦の花というのは、見とれてしまうといつまでも見とれてしまうほどなのに、ことさらな自己主張をしないのだ。だから、気付かないと、全然気付かないということもある。

昨日の 「和歌ログ」 で、こんな歌を詠んだ。

言挙げをせぬ白さなり道端の蕎麦の畑に花は咲き満つ

Goo 辞書によると、「言挙げ (ことあげ)」 とは、「言葉に出して言い立てること」 となっていて、「言葉に呪力があると信じられた上代以前には、むやみな 『言挙げ』 は慎まれた」 と説明されている。

万葉集の柿本人麻呂の歌が有名だ。

葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ我がする 言幸く (ことさきく) ま幸く (まさきく) ませと つつみなく 幸く(さきく)いまさば 荒磯波 (ありそなみ) ありても見むと 百重波 (ももえなみ) 千重波 (ちへなみ) にしき 言挙げす我は 言挙げす我は

(葦原の瑞穂の国は神意のままに言挙げしない国だが、それでも言挙げを私はする。元気に無事でいてくれと・・・)

「言挙げ」 をしないことが 「神ながら」 の道でありながら、人麻呂は、「言挙げす我は」 と繰り返す。むやみな 「言挙げ」 が慎まれたが故に、ここぞという時にこそ敢然と 「言挙げ」 し、「人ながら」 の道を突き詰めることで、逆説的に 「神ながら」 の道に至るとでもいうかのようだ。

しかし、常陸の国の蕎麦の花は、さりげなく咲いている。慎ましく、「言挙げ」 せぬ様は、実は、敢然たる 「言挙げ」 にも勝るとも劣らぬ力があるような気もする。

ともあれ、新蕎麦を食うのが楽しみだ。ああ、なんて 「人ながら」 の食い意地だろう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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