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2006年11月に作成された投稿

2006/11/30

ねじめ正一さんと酒田

昨日から酒田に帰ってきている。市内全戸に無料配布されている地元誌 "SPOON" の10月号をみたら、詩人のねじめ正一さんがいらして、朗読会やトークショーに参加してくれたという記事が出ている。

迂闊にも知らなかったのだが、ねじめさんは、とても酒田に縁の深い方だったのである。

ねじめさんは、30年前の酒田大火 (その時、私は既に東京暮らしだったのだけれど) 後の復興に取り組む商店街の奮闘を、『風の棲む町』 (1996年・NHK出版) という小説にしており、その後 『青春ぐんぐん書店』 と改題して新潮文庫に収められているらしい。

おいおい、知らなかったよ。これ、もっと酒田発の話題としてもっと積極的にアピールしてもらいたかったなあ。本当に酒田って、いいものが一杯あるのに、プロモーションがお下手なんだから。ともあれ、さっそく書店で探して読んでみようと思う。

ねじめさんが初めて酒田にいらしたのは、19年前のことだという。酒田の阿蘇孝子さんという人から、ねじめさんの朗読会をしたいという手紙があったのだが、いったんは断ったらしい。しかし、再び届いた手紙の便箋から、コーヒーのいい匂いがしたのにやられてしまって、つい引き受けてしまったそうだ。

阿蘇さんは、その頃喫茶店をやっていたという。酒田って、喫茶店文化がまだ生き残っているのだよね。

ねじめさんのトークショーの記事から、以下を引用しておこう。

実際には、復興をめぐって、いろいろトラブルがあったと思います。(中略) それでも、これは町のためにやっていくんだって決めた時の酒田人の速さ。それから町の復興のために、みんなが一致協力してやっていくんだという、酒田の人たちの必死さというものも書いておきたいと思いました。

よくわかってくれているなあ。感激した。本当に、酒田の人たちって、「速い」 んだよね。だから、わたしもものごとがサクサク動かないと、ついいらいらしちゃったりする。酒田人の悪い癖だけど。

この記事は、最後にこう締められている。

酒田は魚も米もおいしいし、人も温かいし、老後に住むには最高にいい街だよねって、うちの奥さんとも話しているんです。六十歳過ぎたら移住してきちゃうかも知れませんけど、その時は仲よくしてやってください(笑)。

おお、大歓迎だ。

(写真は、SPOON 10月号より)

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2006/11/29

PC の時代は 2015年で終わり?

電車に暖房が入る季節になって、夏の冷房車は、低血圧の OL にとって冷凍車のようなもので、弱冷房車は、脂ぎったオジサンにとって暖房車のようなものらしいと知った私である。

だがそれは、今日のエントリーには何の関係もない。こんな感じの 「つかみ」 というか、「マクラ」 というか、どうかなと思っただけである。

で、今日のテーマは、PCの時代は、2015年に終わるらしいということである。今日の JR 常磐線電車内の、新装なった月刊アスキーの吊り広告に踊っていたキャッチコピーだ。中身を読んでいないので、詳しいことはわけわからないのだが、どうやら、ユビキタス・コミュニケーションがどーたらこーたらという話らしい。

私は PC を毎日毎日使い倒すほど使っているけれど、別に PC 大好きというわけでもなんでもないから、PC の時代があと 9年で終わろうがどうなろうが、知ったことじゃない。PC がなくなっても、今の PC で実現されている機能以上のことがもたらされるなら、全然 OK だ。

よく人から 「tak さんは パソコンが好きだからね」 なんて言われるが、「別に好きでも嫌いでもないんだけど」 と思ってしまう。パソコンを使わないと仕事にならないから、別段抵抗なく使っているだけだ。

毎日毎日、電気洗濯機で洗濯をしている家庭の主婦に、「電気洗濯機がお好きですねぇ」 なんて言ったら、全くの的はずれなのと同じだ。

今の洗濯機よりも革命的に高機能のデバイス、例えば、水も洗剤も使わずに、何かの光線をパッと当てただけでたちどころに衣類の汚れが落ちるようなものが発明されたら、多くの家庭の主婦は、そっちに走るだろう。

「私は、水と洗剤を使ってかき回すタイプの洗濯機を愛してるから、いつまでも使いたいわ」 なんていうのは、圧倒的少数派に違いない。

私とて洗濯をする主婦と同じである。現在のパソコン以上の画期的な機能が、別のデバイスで実現されたら、抵抗なくそっちに走るだろう。

「スイッチを入れて、ハードディスクからプログラムを呼び出すまでにカリカリいって、夏は放熱で暑くてしょうがなくなる、ケーブルだらけの PC から離れられない」 なんてことは、絶対に言わない。

ただし、謳い文句ばかりで、中身は代わり映えしないようなものだったり、現状の PC のコンセプトから離れられず、単にちょっとした見た目を変えただけのようなものだったら、今の PC、しかも  Vista だのなんだのいうものでなく、現状の XP で充分である。

ただ、PC時代の終わりとやらになるまでに、Windows は使命を終えてしまうのだろう。既に Windows の開発は、だんだんとユーザー・ニーズからズレを感じさせ始めているから、そうなるのは時間の問題という気がする。

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2006/11/28

「大手を振って」 歩く女たちへ

上野駅で常磐線から山手線に乗り換える時に、ふと思い立って、コンコースを歩く人たちの、腕の振り方を観察してみた。

男は大抵、腕を肩から真下に垂らして、小幅に降って歩く人が多いが、なぜか、女は 「大手を振って」 歩く人が多い。腕を体から離し、横に大きく広げて振る人が多いのだ。

そりゃあ、男でも腕を横に広げて振る人がいないでもない。しかし、そういうのは、ほとんどが 「太ったおじさん」 だ。脇の下からウェストにかけての盛大な贅肉が、腕が真下に降りるのを邪魔しているのである。

あるいは、片手にやたら重そうな荷物をぶら下げている人も、バランスを取るために、反対の腕を大きく横に広げることが多い。

しかし、女の場合は、別に太っているわけでも、重い荷物をぶら下げているわけでもないのに、腕が横に広がる傾向がある。不思議でしょうがないので、さらによく観察すると、文字通り 「大手を振って」 いるというわけでもないようなのだ。

彼女らの多くは、腕が体の前面では内側にきて、後ろに振ると外側に開く。つまり、両腕を平行に前後に振るのではなく、体の後ろ側で極端に広がる 「ハの字」 形に、斜めに振って歩いているか、片手にバッグを持っているので、残りの片方をより盛大に後ろ外側に振って歩くケースが多い。

歩くときの腕の振り方の決定的な男女差は、どうもこの辺りにあるようなのだ。つまり、男は両腕を平行に振る人が多いが、女の多くは、後ろに振るときに、なぜか (男の目から見ると) かなり無駄に、横に広げる。

なんでまた、こんな細かいことをくどくどとブログに書いているのかというと、女特有のこの腕の振り方は、雑踏の中ではとても迷惑なのだ。単に人混みの中で邪魔になるというだけではない。もっと、微妙に困ることがある。

雑踏で斜め前を歩く女性の手で股間を直撃された経験のある男は、かなり多い。盛大にぶん殴られなくても、当たり所が悪いと、ちょっとした 「コツン」 程度で、あれは涙が出るほど痛いのである。

妙齢の女性の手で、絶妙の打ち所を 「コツン」 されてしまい、思わず 「うっ!」 なんて声を漏らそうものなら、「何よ、この人!」 みたいな目でにらまれてしまう。「何よ」 じゃない。あんたの思いっきり振った後ろ手が、言いようのない危害を加えたのだよ。

それはまさに、「言いようのない危害」 だから、男としては、ただ我慢するのみである。

あれって、目に見える自分の体の前面では腕が内側に振られているので、案外自覚がないのかもしれないが、その分、後ろ側では思いっきり外側に振られているのだ。多分、無自覚だからこそ、あんなにも平気で男の股間を直撃できるんだろうけど。

世の中の女性諸君、お願いだから、腕を後ろに振るのは、できるだけ慎ましくするように、基本的なウォーキングの練習をしてもらいたい。そうでないと、その無意識の所作が、ごく物理的なセクハラになってしまうこともあるのだよ。

それに、腕を振るのは、やっぱり並行に近い方がエレガントな歩き方に見えるのは、確かなことだしね。

【追記】

江都屋黄金丸さんからの大変示唆的なコメントを得て、"歩行における 「でんでん太鼓理論」" という記事をまとめた。合わせてお読み頂ければ幸いである。

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2006/11/27

「こちら、○○になります」 というバイト敬語

昨日の昼過ぎ、某蕎麦屋で、ちょっとだけバイト店員の兄ちゃんをからかってしまった。悪気はなかったんだよ。ごめんね。

その蕎麦屋は、ちっとは気取った造作で、値段だってそれほど安いわけじゃない。なのに、蕎麦湯を頼もうにも、店員が調理場に引っ込んだまま、なかなか顔を出してくれない。

客席が細長い造りの店だから、端の席から大声で呼ぶのも憚られ、ようやく顔を出したおねえちゃんに、「済みません」 と声をかける。一度目は聞こえなかったようで、無視された。二度目、もう少し大きな声で呼んで、ようやく気付いてくれたようだ。

ところが、このおねえちゃん、私が安心してちょっと視線をテーブルに落としたら、それで、何かの間違いと勘違いしたらしく、ふと見ると、気にしないで奥に引っ込もうなんてしている。

おいおい、するてぇと、なにかい、この店は、店員がテーブルに来てくれるまで、客がじっと注目して待たなければならないのかい。それとも、離れたところから、大声で用件を言えってか。

あわてて、三度目に大きな声で 「済みません」 と声をかけたら、振り向いてようやく確信をもって、近づいて来た。やれやれ。

半分ほど来てくれたところで、普通の声でも届きそうになったから、「蕎麦湯、お願いします」 というと、そのおねえさん、うなずいただけで、返事もしないで戻っていった。再び、やれやれ。

本来ならば、蕎麦湯ぐらい、言われなくても頃合いを見て持ってきてもらいたいんだがなあ。

ところが、それからしばらく経っても、蕎麦湯は出てこない。少しだけイライラ感を募らせていると、さっきのおねえちゃんではなくて、今度は兄ちゃんが湯桶をもってやってきた。何度目かの、やれやれ。

ところが、この兄ちゃん、いかにもバイトっぽい口調でこう言った。

「お待たせしましたぁ。こちら、蕎麦湯になります」

イライラ感が募っていたこともあって、ここでおじさんは、ちょっとだけ意地悪を言ってみたくなってしまったのである。

「いつ、蕎麦湯になるの?」
「は?」
「何分待つの?」
「ですから、こちら、蕎麦湯になります」
「だから、これが蕎麦湯になるまで、どのくらい時間かかるの?」
「あ、いえ、こちら、もう蕎麦湯です」
「なぁんだ、よかった。この店のは、ティーバッグみたいに、少し待たないと蕎麦湯にならないのかと思ったよ」
「いえ、はあ、あの、こちら、ちゃんと蕎麦湯になりますので……」

おいおい、通じてないじゃん。ここで振り出しに戻ろうかとも思ったが、洒落にならないだろうから、止めておいた。嫌み言っちゃって、ごめんね。

こういうの、「バイト敬語」 というらしい (参照)。「○○になります」 「○○の方」 「○○円からお預かりします」 など、いろいろなバリエーションがあって、私なんか、かなり気になってしまうのだ。「いらっしゃいませ、こんにちは」 に関しては、わざわざ独立したコラムを書いてるし (参照)。

この店の名誉のために言うが、蕎麦はとてもおいしかった。これで、店員が気の利いたおばちゃんだったら、文句なしである。

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2006/11/26

無駄に几帳面な日本人

ペットボトルは蓋を取って捨てるのが常識と思っていた私は、最近、たまたまペットボトルのゴミ箱の中身を見て仰天した。

ほとんど 9割以上のペットボトルに、蓋がしっかりと付いている。なんで、捨てる時にわざわざ蓋を閉めてから捨てるんだろう。日本人って、妙なところで無駄に几帳面?

あれって、リサイクルするときに、ボトルの材質である PET と、プラスチックの蓋は分別しなきゃいけないから、最悪、同じゴミ箱に捨てるにしても、蓋と本体を別々にして捨てればいいのに。

そうすれば、係の人が、親の敵でも取るように必死になって何百本、何千本というペットボトルの蓋を手作業で開けて処理するという無駄な手間が要らなくなるのだ。

ペットボトルは普通、蓋を開けて飲み干した時点で用済みになるのだから、捨てる時にわざわぜ蓋を閉めるなんて、面倒くさがりの私はごめん被りたい。そのまま、蓋を閉めないで捨てればいいじゃないか。

それとも、飲み干してからゴミ箱に移動するまでに、一つにまとめておきたいのだろうか。それならそれで、捨てるときにまた別々にする手間を厭わなけりゃいいじゃないか。

そもそも、日本の飲料のペットボトルは、材質が丈夫すぎる。あんなのは、飲み干したらグチャッと潰して体積を小さくして捨てられればいいのにと思う。ペットボトルのゴミ箱は、ほとんど空気で占められていて、すぐに一杯になってしまうのだから、管理者は大変だ。

文句を言いついでにもう一つ言ってしまうが、日本のペットボトルのラベルの貼り付け方はしっかりしすぎで、剥がしにくい。ラベルならまだいい方で、ぴったりとしたビニールで覆うようなラベルのものも多いから、分別する担当の人は、さぞかし大変だろう。

フランスのエビアンのペットボトルなんて、薄くてペナペナだから、潰しやすいし、ラベルなんて、とてもいい加減に付けてあって (多分、わざと周到に 「良い加減」 にしてあるんだと思う)、すぐに剥がせる。リサイクルには本当にありがたい。

日本人は、最近、肝心なところでクォリティ・コントロールがいい加減になってきたくせに、無駄に几帳面という妙な性分は、なかなか直らないみたいだ。

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2006/11/25

しゃっくり止めのコップ

「しゃっくり」 のことを英語で "hiccup" というのだけれど、その名も "Hic-Cup" というしゃっくり止めのコップがある。

mecwiki - GIZMODO 経由で知ったのだが、クリスマス・プレゼントにいいかもしれない。値段は 1個で 24ドル 97セント。3個のまとめ買いで、60ドルと、お買い得になる。

謳い文句によると、この "Hic-Cup" という商品は、「安全で、仰々しくなくて、超低コストで、使いやすい」 製品なんだそうだ。コップの縁から伸びる真鍮の棒の先をこめかみに当てて水を飲むと、微弱電流が体内を流れ、横隔膜のけいれんを止めらしい。

"Hic-Cup" は 1個 25ドル近くするわけだから、日本円にして大体 3000円の投資ということになる。考えてみると、私はこの 30年間に、しゃっくりが止まらなくて困ったことが、1度だけある。そして、妻は確か 2度ほどあったような気がする。

となると、夫婦で平均 10年に 1度あるかないかという事態に備えるために、3000円の投資をするということになる。これがリーズナブルかどうか、意見の分かれるところだろう。

普通のしゃっくりは、どんなに長引いても何時間も続くということはないし、もしかしたら、これから一生、出ないかもしれない。あるいは、せっかく "Hic-Cup" を買って家庭に備えていても、旅行先でしゃっくりが止まらなくなったりしたら、口惜しいだろうなあ。

件のサイトには、「私の夫は、心臓手術の 2週間後からしゃっくりに悩まされましたが、 "Hic-Cup" を使ったら、たちどころに治りました。しゃっくりで眠れない幾夜から解放されました。ありがとうございました」 という、米国ニューアークの C. Lazartic さんの体験談が載っている。

ひどい病院があったものである。心臓手術後の患者がしゃっくりで眠れずにのたうち回るのを、"Hic-Cup" が届くまで何日も放置していたらしい。米国人のことだから、きっと裁判沙汰にして、病院に 24ドル 97セントの代金と送料を負担させただろう。

もし何かの手術で入院することがあったら、前もって病院に "Hic-Cup" を 1個購入しておくように、強く要求するといい。盲腸手術後にしゃっくりが止まらなくなっても、ナースコール 1本で、"Hic-Cup" を持って駆けつけてもらえる。

ちなみに、"Hiccup" は、"hiccough" ともつづるらしい。これだと、文字通り 「ヒック咳」 だ。日本語と英語で、これだけ擬声語が共通するのも珍しい。

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2006/11/24

「テレビに出たあの犬」 が欲しいんだもん

救出された 「崖っぷちの犬」 を飼いたいというオファーが、日本全国から寄せられているのだそうで、それに対して、多くのブログで 「偽善者め! だったら、自分の街の保健所で殺処分寸前の犬を飼え」 と論難されている。

だけど、こういう人たちって、「テレビに出た "あの犬"」 しか見えないんだもんね。

この犬は一定期間、人に慣れるための訓練をしてから希望者に引き取ってもらうことになるらしい。そして、この 「一定期間」 とやらの間に、今回引き取りたいと申し出た 40人だか 50人だかのうち、少なくとも半分は 「考え直したけど、やっぱり降りる」 と言い出すに違いないと、私は踏んでいる。

このエントリーを読んでいるあなたが、もしかして、引き取りたいと希望した何十人だかのうちの一人で、そして、本当に本当にあの犬の幸せを念願して、熟慮した上で申し出たのだとしたら、妙な言いがかり、本当に本当にごめんなさい。

だけど、私には、申し出た人の全てが、熟慮した上でのことだったとは、到底信じられないのである。申し訳ないけど。

さっさと冷めてしまって、早めに降りるなら、まだ救われる。だが、「飼ってはみたけど、思ったほどなつかないから、やっぱりいらない」 なんてことになったら、目も当てられない。

あの犬は少なくとも数ヶ月間、野犬として育ったのだから、その辺のペットショップで買ってくる犬とはわけが違う。飼い慣らすための難易度は、かなり高いと見なければならない。その辺の事情をきっちりとわかって言っているのか、はなはだ疑問だと思うのだ。

何かにつけてほだされて、すぐにホットになってしまうくせに、あっという間に冷めてしまうという人がいる。こういうタイプの人は、人から信用されにくいが、かといって、あながち根っから不誠実というわけでもない。

これってきっと、体質的なものなのだ。心の比熱が低いんだと思う。ちょっとしたエネルギーで、沸点に達してしまうけれど、元々比熱が低いから、冷めるのも早いというだけのことだ。

頭から 「信用がおけない」 と決めつけるのは気の毒だが、やっぱり、少なくとも、無条件に信用しすぎてもいけない。善意はあえて疑わないが、その持続性はしっかりと疑ってかからないと、危なくて仕方がない。

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2006/11/23

ビューグルボーイ・ジーンズ CM のパロディ

私は一昨年の 9月 4日に、「ビューグルボーイ」 という米国製のジーンズの、とてもよくできたテレビ CM について書いている。

あまりよくできた CM だったので、ぜひもう一度見てみたいと思い、Youtube で検索したが見つからなかった。しかし、とてもよくできたパロディなら見つかったのである。

これだけパロディが作られるというのは、やっぱりオリジナルがそれだけ上出来だったということなのだろう。ああ、本当にもう一度見たいものである。誰か、オリジナルの録画を持っていないのだろうか。

既に書いたことなのだが、話の行きがかり上、どんな CM なのか、ここで再録しておこうと思う。(以下、自分のエントリーからコピペ)

見渡す限りの荒涼たる西部の砂漠を走るハイウェイの道端で、車が通るのを待つヒッチハイクのイケメン青年。

そこに、1台の見るからに高級そうなスポーツカーが通りかかり、ちょっと行き過ぎてから、乱暴に急ブレーキをかけるとバックで戻ってくる。パワーウィンドウがスルスルと開くと、運転席にいるのは、絶世のモデル顔の美女である。

女はセクシーな声で訊ねる。

"Are those Bugle boy Jeans you are wearing?" (あなたがはいてるそれ、ビューグルボーイ・ジーンズ?)

「ラッキー!」 とばかりに、青年は嬉しそうに答える。

"Yes, they are." (その通りですよ)

女が 「やっぱりね」 と納得した顔をして、"Thank you." と言うと、パワーウィンドウがスルスルと上がり、スポーツカーはそのまま悠然と走り去る。呆気にとられたようにそれを見送る青年。

【平成 19年 5月 5日 追記】

探していたビューグルボーイ・ジーンズの CM がやっと見つかった。ぜひ一度ご覧あれ。

以下、この CM のパロディである。

Cheap Television's Bugle Boy Commercial

オリジナルでは、ひねたガキンチョではなく、絶世の美女だったのである。それに、ピストルで撃つなんてことはなかったのだが。

Bugleboy

これは、かなり乱暴なバージョン。それに、台詞が違っている。
オリジナルでは
"Are those Bugle boy Jeans you are wearing?" 
だが、
"Are those Bugle boy Jeans you have on?" 
に変えられている。このあたりも、乱暴。

The Looneys Hack Show - Bagel Boy Condom

ジーンズではなく、「ベーグルボーイ・コンドーム」 の CM ということになっている。オリジナルは荒涼とした砂漠だが、これはうらぶれた田舎道。でも、とてもよくできたパロディ。

バックしてきた車の中の女が 「あなたが付けてるのそれ、ベーグルボーイ・コンドーム?」 と聞くと、男は、「そうだよ」 と答える。

すると、女は快く車に乗せてくれるというところが、ベーグルボーイ・コンドームの優秀性を物語っている。最後に、「ベーグルボーイ・コンドーム、それは世界を救う」 というメッセージが流れる。

ちなみに、The Looneys Hack Show というのは、他にもいろいろおもしろいフィルムを作っているようだ。

最後に、ビューグルボーイ・ジーンズ CM の別のバージョンをご紹介しておこう。かなりクールである。最近、聞かないと思ったら、なんと、2001年に倒産しちゃってたのね (参照)。

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2006/11/22

スパムメールのタイトル批評

スパムメールが多いのは相変わらずだが、昨日届いたメールのうちの 1通のタイトルに、思わず感動してしまった。

「主人がオオアリクイに殺されまして1年が過ぎました」 -- ああ、この久し振りの傑作が、迷惑メールフィルターをかいくぐり、私の目に届いてくれて、本当に幸いである。

メールの内容自体は、よくある出会い系サイトへの誘導なのだが、このタイトルだけで、このメールには充分に存在意義がある。このタイトルの考案者は、ただ者ではない。スパム界に埋もれているような人ではない。

もしかしたら、他にも楽しめるタイトルがあるかと思い、サンダーバード (私のメーラー) が隔離してくれた 「迷惑メール」 フォルダをわざわざ開いてみたが、さすがに 「オオアリクイ」 の域に達するほどの力作は見当たらなかった。多くは工夫が足りないか、あざといかのどちらかだ。

せっかくだから、ここ数日のスパムの中から主なものを拾い出して、以下に論評を加えてみることにしよう。

パンチdeエッチ 極秘!人妻のセフレ、恋人紹介!
  タイトルがくどすぎて、稚拙。かえってインパクト減少。

またメールしちゃいました
  もう、しなくていいから。

【ダイレクトメッセージ】あさかさんのお誘いです。
  ちっとも、ダイレクトじゃないんだもの。

☆裏DVD激安販売店☆最新作40枚で、な・な・なんと10,000円ポッキリ!!!
  1枚で 250円でも、売ってくれるかな?

♂男性募集♂
  ♂ のマークの角度に意味がありそう。

いかがでしたか?
  あざとい。さりげなさを装いながら、ヤバヤバ感を漂わせすぎ。

お久しぶりです
  そんなこと言って、毎日メールくれるんだもの。

お知らせ
  工夫がなさすぎだが、こういう単純なのが案外効果的なのかも。

お忘れ物ありませんか?
  そりゃもう、しょっちゅう!

このまま、会えないままだと後悔すると思うので
  心の琴線に触れるタイトルを志向しつつ、金銭にしか触れない。

じゃあ今日にします?
  西表島まで、すぐ来てくれるなら。

シンデレラ男性!
  ちょっと気持ち悪いものを思い浮かべてしまった。

すみません。
  謝って済むなら、警察はいらん。

レンタルします。
  「売春」 じゃなくて、「貸春」 だからいいってわけね。

飲み会しよう
  割り勘ならいいけど。

会員は全て人妻です。
  人妻なら、ウチにも一人いるから。

今のデータのままだと女性からお誘いがないですよ
  超あざとい。

少しならお互いのこと、打ち明けてあってもいいのかな
  日本語が不自由のようで ……

旦那と夜の生活もなく、欲求だけが溜まる生活…
  そんなのを相手にしたら、大変なことになりそう ……

真面目な出会いを求めるあなたに
  これ、スパムメールのタイトルとしては、超古典!

自由の象徴フリーセックス
  単刀直入だけど、インパクトは全然ない。

【淫らな人妻、派遣いたします】
  そ、それは困ります。

あなたのセフレになれる女性がお待ちかねです
  「なれる」 ってとこが、妙にひっかかる。

いきなりすみません
  かなり古典的。「いきなり」 というほどのインパクトはない。

ご予約ありがとうございました。
  あざとすぎ。いくら何でも、かわいげがない。

以下の件、確認をお願い致します。
  同上。

淫乱若妻とアイマスク
  AVタイトル調。メールタイトルには不向き。

奥の方が疼くのです
  ずっと疼いてなさい。

吉野家分かるでしょ?そこの近く
  中途半端すぎる芸風が、哀愁を醸し出す。

年齢は気にしません♪
  83歳じゃが、それでもいいかのう。

最初から、そういう行為ではダメでしょうか
  うーん、惜しい。もう一ひねり欲しかったなあ。

やっぱり、オオアリクイほどのレベルのものは、なかなか希有な存在のようだ。

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2006/11/21

ワープロで漢字を忘れるって?

私は、文章を書くときはほとんどパソコンを使う。もちろん手書きもするが、それは大抵メモ書きの時だけだ。すると、ワープロ嫌いが言うように、確かに漢字が書けなくなる。

ただ、漢字を書けないということと、漢字を知らないということは、かなり違う。ワープロを使っても、漢字そのものを忘れることはない。

ワープロを使い続けていると漢字が書けなくなるというのは、多分私に限らず、本当である。私はいろいろな取材の時など、手書きでメモを取るが、咄嗟に漢字が出てこなくて、カタカナになってしまうことがしょっちゅうだ。

あるいは、漢字が出てこないので、同じ意味の英語でメモしてしまうなんていうことがある。以前、外国人に英語でインタビューする機会が少なからずあったので、場合によっては、漢字で書くより同じ意味の英語でメモる方が早かったりするのだ。

ただ、こう言ってはなんだが、漢字が書けなくなって不便を感じたことは、あまりない。ブログのテキストは当然として、その他のいろいろな原稿も、ほぼ 100% パソコンを使って書くのだから、手書きで漢字が書けないことは、まったくハンディキャップにならないのである。

そして、漢字が書けなくなっても、漢字がわからないわけではないから、国語力が衰えているわけでは決してない。放っておくといい加減な変換ばかりする IME を扱っているのだから、漢字センスそのものは、むしろ研ぎ澄ましておかなければならない。

そうでないと、微妙な誤変換に気付かずに恥をかくことになり、まさに、道具を使っているのでなく、「道具に使われている」 ということになる。

例えば、「制作」 と 「製作」、「精算」 と 「清算」、「保証」 と 「保障」、「志向」 と 「指向」、「追求」 と 「追究」 と 「追及」 などがある。パソコンに搭載された IME は、これらの言葉の微妙な違いには案外無頓着で、いい加減な変換をしてしまう。

また、「言う」 と 「いう」 の違いもある。「そう言うことはない」 と、「そういうことはない」 の違いに、パソコンは全然無神経である。「興味をもつ」 と 「バッグを持つ」 の違いに関しても、パソコンはかなりお馬鹿だ。

このあたりは、「書ける」 ことと 「使いこなせる」 ことが、必ずしも一致しない。むしろ、なまじっか漢字を書ける人の方が、何でもかんでも漢字にしてしまって、かえって読みにくい文章にしてしまう傾向があると思っている。

漢字をきちんと書けると、その字の成り立ちや味わいなど、深いところまでの理解が得られやすいというのは、確かだろう。しかし、書けさえすれば自動的にそうなるというものでもない。それは微妙に別の問題だ。

今の世の中で、とりあえずどっちが大切かと問われれば、単に 「漢字を書ける」 ことより、「漢字を使いこなせる」 ことの方がずっと大切だと思うのである。

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2006/11/20

「客であること」 はどれほどのことか?

"「客であること」 をふりかざす人々" というエントリーを読んで、「客であること」 とは、一体どれほどのことなのかと考えた。

「お客様は神様です」 と言ったのは、今はなき三波春夫だが、日本の芸能における 「本来のお客」 は、元々、文字通り神様だった。だから、古い舞台には、いわゆる客席がない。

民俗学的にいえば、芸能とは本来、神に捧げるものだった。だから、神社仏閣の境内にある能舞台には、まともな客席がない。芸能を見るのは人間ではなく、神であり、仏であったからだ。そして、その芸能を演じる俳優 (わざおぎ) も、特別の存在であり、精進潔斎して、神の資格で演じるのである。

神同士が遊び、楽しんでいるので、それで、日本の芸能は古くは 「神遊び」 と呼ばれていたのだが、その芸能を物陰からこっそり覗き見るとか、ご相伴にあずかるとかするだけの邪魔者であった人間が、いつの頃からか 「金を払うのだから」 と、でかい面をするようになり、なし崩し的に 「客」 として扱われるようになった。

三波春夫の 「お客様は神様です」 との決めぜりふは、実は神仏の 「資本主義的零落」 でもあったのだ。

一方、現代の資本主義的 「お客」 = cutomers も、時として、神の如き振る舞いをすることがある。そして、サービスを提供する側もそれを認めて、「顧客満足」 などというものを尊重する傾向がある。

以前にも何度か書いたが、米国の中堅スーパー、ステュ・レナーズの社訓は、「お客は常に正しい」 ということだ。この店のど真ん中には、次のように書かれたモニュメントが鎮座ましましている。

Our Policy:
Rule #1 - The Customer is Always Right.
Rule #2 - If the Customer is Ever Wrong, Re-Read Rule #1

【翻訳】 私たちのポリシー
ルール 1 - 顧客は常に正しい。
ルール 2 - 万が一、顧客が間違っているようだったら、ルール 1 を読み返せ。

世のマーケティング専門家は、これを称して、顧客第一主義を徹底した経営方針として絶賛した。しかし、私はひねくれ者だから、別の見方をしている。

このポリシーが堂々と掲示してあるのは、売り場のど真ん中である。事務所やバックヤードではない。ということは、これは、社員ではなく、客に読ませるためにあるのである。客に読ませて、おだて上げるためにあるのだ。

つまり、とても巧妙な宣伝なのである。三波春夫の 「お客様は神様です」 という絶妙の決めぜりふと、同じようなものと思えばいい。

顧客満足は、「客であること」 を振りかざして要求するものではなく、むしろ、時にはサービス提供者の掌の上で、したたかに踊ってみせることで、最も望ましい形で得られるものであったりする。

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2006/11/19

フランスの差別 (?) 発言

フランス社会党幹部の 「差別発言」 が問題になっている。サッカー仏代表チームについて 「黒人ばかりで恥ずかしい」、「チーム 11人のうち (黒人が) 3、4人ならまだしも 9人もいる。白人は使いものにならないということで、みっともない」 と発言したのだそうだ。(参照

これって、自虐ネタじゃないのか?

前後の文脈がわからないので、あまり突っ込んだことは言えないが、今、とくにスポーツ界、その中でもことさらに、欧州サッカー界では、人種差別問題が非常にデリケートな問題になっているのだなと感じられる。

先日のワールドカップ決勝戦での、例の頭突き事件にも、かなり濃い影が落ちているのだけれど、これだけデリケートな問題になるということは、とても多くの人が、それぞれに、内心で穏やかならぬ思いを抱いているということなのだろう。

で、それはとりもなおさず、欧州の移民問題そのものということになる。

これまで、純粋に白人社会であった欧州に、非白人がこれほどまでに進出し、スポーツ界を中心に、ヒーローになっているというのは、スポーツ界に止まらず、社会全体で白人の牙城を崩しつつあるということだ。

これって、かなり複雑な問題である。

例えば、アフリカの黒人社会に白人が入り込んだら、武力進出ではなくても、それは 「経済的侵略」 ということで、あまりいいイメージではなくなる。現地で白人排斥運動が起きたとしても、それは、「人種差別」 とは受け取られない。

しかし、欧州社会で白人が非白人に対してデリケートな発言をすると、それは 「人種差別」 になる。これは、現状での強者対弱者という関係が反映されるからだ。このあたりが、またまたデリケートな感覚を増幅させる。

強者は弱者に対する思いやりの心をもたなければならないのは当然だが、ことさらに弱者に対して腫れ物に触るような態度を取るのは、それは裏返しの傲慢であり、さらに、奈良市役所のように 「弱者利権」 みたいなことまで生じる可能性がある。

今回の発言も、背景に差別意識がなければ、「あれは、白人選手のだらしなさに対する自虐ネタなのさ」 という洒落で済むのだろうが、そうならないところに大きな問題がある。

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2006/11/18

再び、「女王」 の読み方

本宅サイトの BBS に、reccoa さんという方から 「女王」 の読み方 (参照) について、貴重な反論が寄せられた。

私は 「じょわう」 - 「じょをう」 - 「じょうおう」 説を書いたのだが、reccoa さんは、「女房」 「女御」 のケースで 「にょう」 と読むようなものではないかと示唆しておられる。

「女房」 「女御」 の例を持ち出されると、ややたじろがざるを得ないということは、私も重々自覚してきた。

reccoa さんは、さらに、「徐王」 も 「諸王」 も、それぞれ、「じょおう」 「しょおう」 としか読めないとして、「王」 が 「うおう」 になる必然性がないことを指摘しておられる。しかし、これは両刃の剣のようなもので、「女王」 以外に 「じょう」 と発音する例が見当たらないということで、相殺されてしまう。

しかし、「女房」 「女御」 のケースが 「にょう」 であることは、無視できない身体性である。そこで、ちらりと、こう考えた。

「女王」 の読み方は、古くは 「にょおう」 だったのである。これは、苦し紛れではなく、本当である。今でも、皇族の場合の読みは、「じょおう」 とも読むが、「にょおう」 の読みも残しており、どっちかといえば、こちらの方が由緒正しい。

まあ、正しい歴史仮名遣いでは、「によわう」 だったわけだが。そして、この 「にょ」 という発音は 「女房」 「女御」 に見る如く、「にょう」 と伸ばされやすいかもしれない。

そこで、この 「にょう」 という身体性の記憶と、「わう」 - 「をう」 - 「うぉう」 という音便とが 「合わせ技」 として超強力に作用して、「女王」 が 「じょうおう」 と言い習わされるという、大変に根強い現在の身体性に落ち着いているのではあるまいか。

あるいは、発想をひっくり返して、「女王」 の 「にょわう」 から引きずられて、「女房」 が 「にょうぼう」、「女御」 が 「にょうご」 になったという可能性もあながち否定できないような気もするし。

うん、かなり核心に近づいてきたような気がする。こりゃ、「知の関節技」 のエントリーの方も、少し加筆修正せざるを得なくなってきたかな。

とりあえず、昨日の約束通り、非常にコンパクトなテキストでカタが付いたことは、良しとしておこう。

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2006/11/17

再び、ブログはコンパクトにしたい

私は昨年 12月に、 「ブログのテキストは、コンパクトにしたい」 のタイトルで、できるだけ 30行ぐらいで抑えたいなんて書いている。

それなのに、いかんなあ。最近、またしても長くなってきた。詰まるところは趣味の問題だけど、私としては、短めでかちっとした、歯切れのいいテキストで行きたいのだよ。

世の中には、長文を長文と感じさせないブログも、いくらでもある。しかし、毎日更新して毎日読んでもらう前提で運営しているウチのようなところは、そうそう長いテキストに付き合ってもらうのは、心苦しいのだ。

だって、私自身、毎日アクセスして読むブログでは、申し訳ないけど、あまり長いと飛ばし読みしてしまう。何もブログを読むために生きているわけじゃない。毎日毎日そんなに時間をかけて熟読するほど、暇じゃないのだ。

そりゃあ、たまにはどんなに長くても気合いを入れて読みたくなるエントリーだってある。しかしそんなのは、こう言っちゃあなんだが、何本かに 1本という割であって、やっぱり、日常的に飛ばし読みをせずにきっちり読めるのは、30行ぐらいが限度だ。

だから、人がどう言おうが、「きっこの日記」 なんていう長尺ものは、とてもじゃないが、毎日巡回しようなんて気には、全然ならないのである。

自分がそうなのだから、他人もそうだと決めつけるわけではないのだが、少なくとも、自分のテキストなら、自分の身体性というものに沿ったハードボイルドな分量で書くというのが、正直というものだろう。それが、いわゆる一つの個性ってなことにもなるだろうし。

それに、きちんとした文章力さえあれば、大抵のことは 30行あれば言えてしまうはずである。それで言えないような内容ならば、さわりだけ書いて、後は本宅サイトの 「知の関節技」 にでも、長々と書けばいい。

というわけで、今日あたりからまた、コンパクトなテキストを心がけてみたいと思うのである。テキストというのは案外難儀なもので、ちょっと気を許すと、ついまた長くなりそうなのだが。

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2006/11/16

「憲法九条を世界遺産に」 に、つい共感

太田光と中沢新一の対談 「憲法九条を世界遺産に」 を買ってきて、40分ぐらいで一気に読み終えた。ちょっとした速読だった。

はっきり言って、藤原正彦の 「国家の品格」 なんかよりずっと知的だし、共感できた。私ってば、基本的に改憲論者のくせして、こんなこと書くから、周りから責められたりする。

私は "「何が何でも護憲」 の論理に首をかしげる" というコラムを書いているように、今の憲法にはかなり疑問を抱いている。しかし、多くの改憲論者が主張するように、「現憲法は米国に押しつけられたものだから」 という論理にも、同じくらい首をかしげる。

押しつけられたものだから悪いというのは、単に感情論である。いいものならありがたく頂戴し、悪いものなら放り出してしまえばいいというのが、私の基本的なスタンスだ。

で、太田光の 「憲法九条を世界遺産に」 という発想には、私は拍手を送りたいほどの共感を覚えてしまったのである。

この対談本を読めばわかることなのだが、この 2人、基本的に護憲の立場に立ちながら、いわゆる護憲派といわれる人たちとは、メンタリティが異なっている。憲法九条が国際的常識で見ればかなり 「変てこなもの」 ということは充分に認めているのである。

「変てこなもの」 であることは重々承知の上で、こんな無邪気というか、無謀というか、とにかく奇跡的珍品に違いないものを、戦後ずっと守ってきたのだから、それはそれでちょっとした価値であり、世界遺産にしてもいいぐらいのものだというのは、私にとって妙にしっくりくる主張である。

まさに昨日、「変だからこそ、おもしろいんじゃないか」 というエントリーを書いてしまった私としては、昨日の今日で、急に意見を翻すわけにいかないじゃないか。

天皇制という世界に類のない、見方によれば奇跡に違いないような制度を、少なく見積もっても千数百年守ってきたということに価値を見いだすとすれば、憲法第九条だって、この激動の時代に半世紀以上も変わらなかったというだけで、大変なものである。

本当に世界遺産として登録されて、世界中が犯すべからざる普遍的価値としてオーソライズしてくれるというなら、それこそ、この世で最高の安全保障である。確かに軍隊なんかいらない。

ただ、それが実効的に機能するかどうかというのは別問題で、確かに 「この世で最高の安全保障」 ではあっても、「絶対に安全」 かといえば、決してそうではない。逆に、一度攻撃を受けてしまったら、最もリスクの大きな安全保障政策となってしまう。

あるいは 「攻撃を受けても、他国が守ってくれる」 というなら、それは、自国のために他国が血を流してくれることを、当然のこととして期待するという意味で、とても恥知らずな安全保障政策ということになる。

そうした意味で、私は 「次善の策」 として、憲法九条は改正されてもいいんじゃないかと思っている。しかし、他国が血を流してくれることなんか期待せず、本当に世界史の崇高な犠牲となることも厭わない覚悟をもつというなら、それはそれで、究極の選択だと思う。

単に 「戦争は嫌だから」 なんていう軟弱な理由で 「平和憲法を守ろう」 という幻想に浸るというなら、それは最も愚かなことである。憲法九条を掛け値なしに守るというのは、ものすごいリスクを覚悟してのことでなければならない。世の中、そんなに甘くないのだ。

軍備というのは、ある意味、国家の威厳の象徴でもある。その威厳を持たないというなら、内側から自然ににじみ出るような、人格的な威厳を持たなければならない。残念ながら、今の日本では、それは望めまい。

最後に、太田光の以下の青臭すぎるとも言えなくもない発言 (P154-155) に、私はしびれてしまった。

みんな、感動を忘れてしまっている気がします。若い人たちが、自殺サイトで死んでいくのも、この世の中に感動できるものが少ないからなんでしょう。それは、芸人として、僕が負けているからなんだと思うんです。

テレビを通じて、彼らを感動させられるものを、何ら表現できていない。極論を言えば、僕の芸のなさが、人を死に追いやっているとも言える。だとしたら、自分の感受性を高めて芸を磨くしかないだろう、という結論に行き着くわけです。

この発言は、一切衆生を彼岸に渡すべく発願した菩薩の生き方である。笑ってもいいが、嗤ってはならない。中沢新一は、「かつて、こんな芸人がいただろうか (笑)」 と受けている。

国民全体がこれくらいの威厳を持てば、確かに軍備はいらなくなるだろうと思う。

ちなみに、太田光は、カート・ヴォネガットの愛読者だそうだ。事務所の名前 「タイタン」 や飼っていたオカメインコの名前 「キルゴア」 は、ヴォネガット・ファンなら、すぐにピンとくる。もしかしたら、趣味が合うかも知れない。

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2006/11/15

変だからこそ、面白いんじゃないか

「いじめ」 は、日本で最悪の病理であると思う。いくつかのブログで、いじめとは 「構造」 の問題だと指摘されている。

私もそれに賛成する。というより、いじめとは、「構造」 の問題というより他にない。しかし、単にそう言って評論家じみた態度を取っているだけでは、何の解決にもならない。

われわれ一人ひとりが、「我が内なるいじめ」 に向き合ってみなければならない。子どもの頃から現在に至るまで、「自分はいじめとは完全に無縁だった」 と言い切れる人間が、果たして何人いるだろうか。

私自身は、先月 23日のエントリーで、次のように書いている。

「典型的弱者をいじめる」 ということは、繰り返すが、私にとっては強い生理的嫌悪の対象である。だから、これまでの人生で強者に楯突くことは何度もあったが、弱者を直接いじめたことは、一度もない。そう言い切れるのは、私の誇りである。

しかしである。一見すると弱者には見えない対象を、まるで暗黙の合意の上に立ったように、軽い気持ちでからかったことがなかったかと問われれば、「一度もなかった」 と自信を持って言うことはできないような気がする。

私は意図的に人をいじめたことは、一度もないけれど、無邪気なじゃれ合いのような感覚での、ちょっとした 「からかい」 が、相手の心に突き刺さっていなかったという保証は、全然ないのである。

振り返ってみれば、「寸止めのいじめ」 的なことは、無自覚にやってしまったことがあると思う。今から思えば、その疑いのある場面が一つ一つ思い出される。それは自分の未熟さである。反省しなければならない。

ただ、それが本当のいじめにまでは発展しなかったことは、私にとって救いである。あのときからかっってしまった同級生と、私は今、笑って思い出話をすることができると思う。

逆に、人は多かれ少なかれ、「いじめられた」 という経験もあるのではなかろうか。私自身にしても、今から思い返せば、「あの時、もしかして、自分はいじめというものに遭っていたんだろうか?」 と思われないこともない状況にいたこともあった。

しかし、幸いにも、その時は私自身が 「いじめられている」 ということに関して、ほとんど無自覚だった。「何を愚にもつかないことを、ごちゃごちゃ言ってるんだろう?」 ぐらいに思って、のほほんとしていた。

その無自覚故に、私はいじめグループよりも強いパワーを発揮してしまったらしく、結果として、私は 「いじめられた」 という自覚がほとんどない。幸か不幸か、私は 「いじめられっ子」 の素質に欠けているのだと思う。

それだけに、下手すると、いじめられる者の心の痛みを知らずに育ってしまいかねなかったのだが、後になって、「そうか、あれはいじめだったのかもしれない」 と気付いたことで、そうならずに済んでいる。つまり、「軽い "いじめ" らしいもの」 に遭遇したのは、こと私にとっては、ある意味、幸いなことだった。

「煩悩即道場」 の ululun さんが、自分のいじめに遭った体験を 3日間にわたって (参照 1参照 2参照 3) 告白している。彼がいじめられたのは、毎週教会に通うような、敬虔なクリスチャンの家庭に育ったことが理由だったという。

彼は、「どんなに彼らが苛烈ないじめをしてきても私は日曜のミサで彼らを許して貰うよう神に祈り、その事が発覚してさらなるいじめを招いていた」 と書いている。こともあろうに、自分のために祈ってくれる者にいじめを加えた馬鹿餓鬼どもは、神に恥じるがいい。死ぬほど恥じるがいい。

ululun さんは、「中野富士見中学いじめ自殺事件」 というページから、多くを引用されているが、次の件が、私の心に残った。

社会福祉法人「いのちの電話」の斎藤友紀雄事務局長は、「『いじめ』 は世界中で起きていますが、日本の場合、その一番大きな原因は、異質なものを認めない という精神文化に根ざしていると思います。偏差値教育や核家族化によって孤独を強いられた子どもたちは、必死に自分の居場所を求めるのですが、性格や能力 が集団と調和しない子は、集団から排除されてしまう。つまり、村意識が働いて、村八分にされてしまうのです」と語る。

いじめが問題になるのは、ある意味、余裕のない時代である。異質なものを認める余裕のある時代には、いじめはそれほど大きな問題にならない。その意味では、いじめる側の心も、何かに押しつぶされそうになりながら、必死に助けを求めているのである。

太平洋戦争中の軍隊内の苛烈ないじめに関しては、私は父によく聞かされた。父は戦争に行った中では最も若年世代だったから、最も苛烈ないじめを引き受けたのである。「あんな下らんことをしていたから、戦争に負けたのだ」 と、父は言う。

あるいは、絶望的な軍隊だったからこそ、理不尽ないじめが横行したといえるかもしれないが。

そして、バブル崩壊後、社会の枠組みが危機に瀕したまま長らく放置され続けた今、「いじめ」 がこれまでで最大の焦点となってしまっているのだと思う。多分、絶望的社会なのだ。

いじめという行為自体、ある意味、助けを求める声のもっともいびつな姿であるとも言える。

私自身は、以前のエントリーにも書いたが、弱者をいじめることに 「生理的な嫌悪感」 を覚えてしまうタイプである。それは、幸せなことに、私自身が 「異質なもの」 に尽きせぬ興味を示し、共感すら覚えてしまうという 「特異体質」 だからである。

私は昔から、転校生に一番先に話しかける子どもだった。そして、そいつがごく当たり前のやつだとわかると、とたんにつまらなくなって、興味をなくしてしまうのだった。不思議なことに、ごく当たり前のやつと判明した転校生は、クラスでは決まって人気者になった。

私は、「変だからこそ、面白いんじゃないか」 と思ってしまうのである。そして、「みんなで、そう思おうよ」 「みんなも、それなりに、変になろうよ」 と言いたいのである。

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2006/11/14

1台の多機能機より、複数の専用機

調査会社 In-stat の調査によると、「携帯デバイスは多機能1台より複数を持ち歩く」 傾向があると、IT Media News が伝えている。

消費者の多くは、ケータイ、PDA、MP3 プレーヤーと、単機能機器を複数携帯しているそうだ。かくいう私も、ケータイ、モバイル PC、デジカメ、iPod Mini を持ち歩いている。

この調査は、スマートフォン (日本で言えば、ウィルコムの W-ZERO3 みたいのものと、言っていいのかなあ) タイプのデバイスを意識して行われたもののようで、「回答者の半数は、スマートフォンを購入すれば持ち歩く携帯機器の台数は減ると思っていた」 が、実際はそうはならなかったと、以下のように報告している。

今回の調査対象となったユーザー (全員がビジネスユーザー) のうち、スマートフォンのおかげで生産性が向上していると回答したのは43%のみ。また、多く の携帯端末利用者は、現在使用している端末に新機能が追加されても、それは単なる 「おまけ」 のようなもので、ツールとしては役立たないと考えている。

また、15%以上の人がケータイを 2台携帯し、カメラ付きケータイ所有者の 80%が日常的にデジタルカメラを携帯、さらに、スマートフォン利用者の 75%はPDAを持ち歩き、マルチメディア携帯利用者の 50%が MP3プレーヤーを携帯しているというのである。

私は、SOHO スタイルで仕事をしているので、出歩くときはモバイル PC が絶対に必要である。パナソニックの Let's Note を使っており、これさえあれば、自宅オフィスのデスク 1台と書棚 1台を持ち歩いているようなもので、不便がない。

メールをするにも、ケータイではたった数行のメールを打つのに苦労するが、PC を広げればあっという間だ。それに、添付ファイルが送られてきても、その場で開いて見ることができる。私はモバイル PC を 「どこでもオフィス」 と呼んでいる。

また、もう一つのサイト 「和歌ログ」 で、毎日和歌 1首を詠み、それに写真を 1枚添えているので、デジカメも必須グッズの一つである。今年の 5月に、200万ピクセルのカメラ付きケータイに買い換えたので、もうデジカメを持ち歩く必要はないと思っていたのだが、それは幻想だった。

ケータイとデジカメでは、やはりカメラとしての使いやすさは雲泥の差である。ちょいと取り出してシャッターチャンスを逃さず撮影するにも、画像データをパソコンに取り込むにも、やはり専用機としてのデジカメでないと、毎日のことなので、どえらいストレスになる。

それで半月も経たないうちに、再びデジカメを持ち歩くようになった。それぞれが小型軽量だから、2つ持っても、大した荷物じゃない。ケータイにカメラが付いていても、私の場合、デジカメを家に置き忘れた時の予備以上の役には立たないと言っていい。

なんでもかんでも、多機能機 1台で済まそうとするのは、無理がある。ケータイというのは、大体 3年ごとに買い換えるから、日常的に使うのは、できれば通話とちょっとしたメールぐらいに止めておきたい。機種交換の度に、カメラや MP3プレーヤーの操作まで一から覚えるのは大変だ。

それに、多機能機は 1つの機能が壊れただけでも、丸ごと修理か買い換えが必要になる。そんなのはゴメンである。さらに、ケータイでしょっちゅう音楽を聴いたり写真を写したりしていたら、バッテリーがもたない。ケータイの機種交換の最大の理由はバッテリーのもちが悪くなることだから、面倒くさい話である。

カメラ付きケータイは、今や最も当たり前のデバイスになり、スマートフォンも市場を拡大するだろうが、私はそれぞれの専用機の市場は、今後もなくならないと思っている。

それは、ウェブのブラウジング、通話、写真撮影、音楽を聴くことなどは、それぞれ独自の身体性に基づくので、1つのデバイスで兼用しようとすると、人間工学的に使いにくくてどうしようもないからである。

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2006/11/13

千葉県のロゴの教訓

千葉県民じゃないんで、よそ事といえばよそ事なのだが、千葉県のロゴマークにブーイング続出 (参照) という記事は、結構いろいろな教訓を含んでいると思うのである。

このロゴ、職人的技術論としては、ものすごく完成度が高いことは確かなのだが、県のやり方が、やっぱり 「あか抜けない」 のだ。

大体において、ロゴマークなんていうのは、単体で発表してしまったら 「いったいどこがいいのか」 と思われるものなのである。そんなものに高い金をかけて、どういうつもりなのかと言われるのが、関の山なのだ。

廻りを見回してみるがいい。今をときめくマイクロソフトにしても、今をときめかないソニーにしても、今回のロゴを制作した中條正義氏が在籍していたという資生堂 (なんとなく、似てる感じはあるかな) にしても、単体でみれば、どこにそんなに金がかかっているのかと思うほどのものなのである。

しかし技術論としてみると、ロゴマークというのは微妙なバランスが勝負で、字の大きさや字間、傾きなど、ものすごい職人芸があって初めて 「しっくりとくる」 ものになる。だから、今回の 「ちば」 のロゴにしても、一見すると何の変哲もないようなものだが、結構な手間暇がかかっている。

ただ、その 「手間暇」 の成果を、A4 だか B4 だかの紙ぺらに印刷して壁に貼り付け、堂本暁子知事が 「千葉の持っているパワーをロゴに凝縮した」 なんていう、ちょっとどうかなと思うコメントを付けて発表するという手法が、やっぱり 「千葉」 なんだなあ。

それに、千葉県の公式サイトに行ってみても、今月 2日に発表されたはずのこのロゴが、10日以上たった 13日午前 1時の時点になっても、まったく使われていないばかりでなく、それについて言及したページも全然ないというのも、やっぱり 「千葉」 なのである。

相変わらず、もっどダサイロゴが使われているばかりである。(せっかく金かけて作ったのなら、さっさと、ちゃんと使えよ!)

(平成 17年 5月 30日 追記)

たまたま、千葉県のサイトをみる必要があって、ようやく例のロゴマークが使われているのを確認した。記憶は定かじゃないが、今年の 3月ごろはまだ使われていなかったように思う。あるいは、年度代わりでようやく更新したものか。

単体としてのロゴを決めただけでは、実は何の役にも立たないのである。そのロゴを、県のパブリシティの中にどのように活用し、どのようなデザイン戦略を推進していくかというガイドラインまで作って、はじめて 「あか抜けない千葉」 のイメージからの脱却をはかれる (かもしれない) のだが、お役所にそこまで要求するのは、ちょっと無理かな。

あ、それから、今回のロゴデザイン、職人技としての完成度は確かに高いかもしれないが、センスとしては、ちょっと古いかも。

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2006/11/12

「お邪魔」 文化が、ちょっと行き過ぎると

3日前に書いた 「メールの返事は、メールでしろ!」 の関連で、もう少し書かせてもらうことにする。例の、「一言で済むレスは、電話でする」 とかいう世迷い言についてである。

「邪魔する」 ことに関する比較文化論だ。日本では、他人の邪魔をすることに関して、罪悪感がなさすぎるんじゃないかと思うのだ。

何でもかんでも 「西洋では……」 と引き合いに出して日本人の悪癖をあげつらうのは、ちょっと嫌みなのだが、少なくとも、「他人の邪魔をする」 ことに関しては、日本人はもう少しセンシティブになってもいいんじゃないかと思う。

「一言で済む」 返事のために、わざわざ電話をかけて、相手の仕事のペースを乱してしまうことに対して、おそろしく無自覚で、かえってそれを、自分の仕事の能率を上げる 「裏ワザ」 だなどと、愚かな新聞記事にまでしてしまう文化が、確かに日本にはある。

「邪魔をする」 ことを、英語では "disturb" という。または、"stand one's way" というイディオムもある。「誰かの行く手に立ちふさがる」 ということは、英語文化圏では、確実に 「やってはいけないこと」 になっているのである。

一方、日本では、「誰かの道をふさぐ」 ことに、ものすごく無神経な人が多い。高速道路では、追い越し車線をのろのろと行く車がいくらでもあるし、歩道一杯に広がって歩く女子高生やおばちゃんの集団もおなじみである。

私がとても気に障るのは、駅の通路などで、右後ろから追い越してきて、わざわざ目の前を横切って左折する (あるいは、左後ろから追い越して目の前を右折する) 人がかなり多いことである。こう言っちゃなんだが、そのほとんどは、女性である。

右折とか左折とかしたいなら、わざわざ追い越してから目の前を横切るなんて無礼なことをせず、人の後ろで曲がればいいのに。

そもそも、ニュアンス的には、「邪魔する」 イコール "disturb" では、決してない。英語では "Sorry for disturbing you." (邪魔しちゃって、ごめんね) という言い回しがある。本来なら、相手は自分のペースで仕事を進められたはずなのに、自分に付き合ってくれたおかげで、それができなかったことに対するお詫びである。

これが日本では、単に 「お邪魔しました」 で済んでしまって、「ごめんね」 がない。それどころか、初めから 「お邪魔します」 なんて断って、ずかずか上がり込む。自分の行為が文字通り 「邪魔」 だなどとは、本音では決して思っていないからである。

つまり、日本では、「邪魔すること」 は、決して悪いことではないのである。「付き合いなんだからいいじゃないか」 ってなもんだ。こっちの都合で無理矢理付き合わせることを、申し訳ないと思う文化との、決定的な違いである。

「邪魔」 を当たり前に 「邪魔」 と感じるのだけれど、ストレートにそれを表現できないでいるといったような、微妙な立ち位置にある子が、いじめの対象になってしまったりする。いじめる側は、「邪魔」 を全然 「邪魔」 と思わない、ウルトラ無神経な子だ。

あるいは、邪魔を邪魔と感じないほど、本当は心が飢えているのかもしれないが。

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2006/11/11

共産党は 「やらせ質問」 したことないのか

教育改革タウンミーティングの 「やらせ」 が発覚して大問題になり、他のタウンミーティングでも同じようなことがなかったか調べがつくまで、開催は行わないという。

「何を今さら」 である。タウンミーティングに限らず、この種の行事での 「やらせ」 なんて、多かれ少なかれないわけないじゃないか。

そもそも、そうした行事への参加者自体、半分以上は業務命令か、浮き世のしがらみでとかいった理由で来ているのだから、初めっから 「やらせ」 色はついているのである。

さっき、ラジオを聞いていたら、どんな 「やらせ質問」 が行われたかという 「再現」 があったが、「家庭教育の大切さが盛り込まれることは重要だと思いました」 とか 「教育改革に期待します」 とか、全然 「質問」 の体をなしていない。単なる 「感想」 じゃないか。

「やらせ」 の中でも最低レベルのわざとらしさで、これじゃ、はっきり言って、大した効果は期待できない。文科省 (だか出向だか) のお役人も、この程度の演出力しかなかったのかなあと、逆にもの悲しくなってしまった。

いずれにしても、こうしたイベントでは、「やらせ」 はつきものである。やらせをまったくしなかったら、最後に 「何か、ご質問は?」 という段になって、満場しーんと静まりかえってしまうか、一握りの 「プロ市民」 が独演会を始めて、どっちらけになってしまうかのどちらかだ。

そうした事態を避けるために、主催者側の担当者が、「あんたとあんたと、あんた、適当にうまく質問してちょうだいね」 と話を通しておくのは、世の中の常識である。逆に、こうした話を通しておかなかったら、担当者が後でお叱りを食う。

主催者側の用意した質問者なのだから、そりゃあ、提灯担ぎになるのは、当然である。そんなことは見え透いているから、他の参加者にしたって、それがあまりにも露骨でムッときたら、「何をアホなことを」 と反対の立場から鋭い質問を浴びせかければいい。

それで、丁々発止の論議の発端になれば、それはそれでいいじゃないか。何人かが体制側の立場で当たり障りのない感想を述べただけでうやむやになり、議論が誘発されなかったというなら、それは単に、大したインパクトがなかったというだけのことだ。

今回のケースは、文科省 (だか出向だか) のお役人の、やり方が稚拙過ぎたのである。「やらせ」 の証拠になるような依頼を、公式文書に仰々しく明記するやつがあるものか。それこそ、電話を通じ、「以心伝心」 のレベルで話を通しておくに限るのである。

最近は、こうした 「以心伝心」 の通じる気の利いたやつが、いなくなってしまったのだろうか。

それでも、いくら何でも、「棒読みは避けるように」 とか 「"依頼されて" とは言わないで」 とか、余計なことまでメールにして通達するなんて、田舎者と思って馬鹿にするにもほどがある。もう少し人を信用してもらいたいものだ。

「人前でしゃべるのは苦手なんですが、ご依頼ですので、一言述べさせていただきます」 なんて言い出しかねない素朴すぎる素っ頓狂も、中にはいないわけじゃないが、そんなアブナイ人には、初めからやらせの片棒を担ぐのを頼むわけないじゃないか。

まったく、やりにくい世の中になったものである。

最後に言っときたいのだが、今回の問題の発端となる国会質問をした日本共産党は、自らの党大会などで 「やらせ質問」 など一度もしたことがないと、胸を張れるだろうか。

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2006/11/10

ヒラリーは、ただスマートなだけかも

アメリカの中間選挙関連のニュース、やたらとヒラリー・クリントンがフィーチャーされていて、次期大統領候補は決定みたいな雰囲気だ。

日本から見た限りでは、今回の選挙、ある意味で、イラク戦争問題を正攻法で問うというより、ジョージ・ブッシュ対ヒラリーのイメージ選挙みたいなところがあったような気がする。

現在の情勢の中で、どっちが大衆にアピールするかは、言うまでもない。

どのように振る舞い、何を言えばスマートに見えるかを熟知しているヒラリー・クリントンと、どのように振る舞い、何を言えば馬鹿に見えるかを知らないジョージ・ブッシュとでは、勝負は目に見えていた。

ヒラリーが本当の意味で賢い人間かどうかというのは、私はかなり疑問を抱いているが、何をやらせてもそつなくこなす常識と 「勘の良さ」 に関しては、ちょっとしたものだと思う。ツッコミどころを作らないところは、ブッシュとは全然違う。

ただ、彼女のインタビューなんかを聞いていると、何を聞いたらどう答えるかというのが、大体想像通りだったりして、意外性というのはほとんどない。アメリカのベビー・ブーマーズの最大公約数的な 「スマートさ」 というのを、意識して身につけているだけという気がしないでもない。

つっこみどころがなさ過ぎて、カリカチュアしにくいので、私みたいなへそ曲がりにしてみれば、マニュアル通りのつまらない政治家ということになってしまう。

「スマートさ」 が大好きな人間には支持されるだろうが、「ユニークさ」 まで要求する人間には、物足りないかもしれない。そのあたり、2年後の本番まで底が割れずにもつかどうかというのが、最大の問題だ。

私はビル・クリントンが大統領に選出される前、彼を 「アメリカの口先男」 と呼んでいた。同じように、今のうちに言っておこう。「ヒラリーは、ただスマートなだけ」 と。

しかしながら、大統領に人間としてのユニークさなんて要らないということならば、ヒラリーは、とても有力な候補である。あれだけスマートな人間というのも、貴重だろうから。

ただ、大統領選挙ということになると、アメリカ人、とくに南部のオッサン達というのは、スマートすぎる人間が嫌いだから、どうなるかわからない。いかに 「あたりさわりのない隙」 を作っておくかということも必要になる。

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2006/11/09

メールの返事は、メールでしろ!

昨日、横浜での仕事の帰り道、夕刊フジと間違えて買ってしまった日刊ゲンダイに 「押し寄せるメール、短時間で片付ける裏ワザ」 という記事があった。

「裏ワザ」 というほど目新しいワザも見当たらない中に、「メールで返事しない」 というのがあった。電話で済ませろというのである。

これには驚いた。電話がうっとうしいからメールで済ませようとしているのに、その返事をいちいち電話で寄こされたら、ムッときてしまいそうだ。ちょっと原文を引用してみる。

ひと言で済む返信をいちいちキーボードを叩いて書いていたのでは時間がかかる。「了解」 「確認しました」 という程度なら、電話で済ませたほうがずっと早い。相手への電話がつながらないときだけメールで残す。

信じられない。「了解」 「確認しました」 程度の返信なら、私なら、いや、大抵の人は、キーボードを叩く方が絶対に早い。これを電話で済まそうとしたら、以下のプロセスが必要になる。

  1. ダイヤルする。
     
  2. 先方が出たら、「tak と申します。いつもお世話になっております。△△課の××さん、お願いします」 と告げ、目指す相手が出るまで待つ。
     
    (ここで、相手がすぐに出てくれるとは限らない。「ただ今、席を外しております」 とか、「別の電話に出ております」 とかいうことになる可能性は、かなり高い)
     
  3. ようやく相手が出たら、「tak です。いつもお世話様です。さきほど頂いたメールの件ですが、了解致しましたので、よろしくお願いいたします」 と告げる。

これを読んで、「何と間の抜けたことか」 と思わなかったとしたら、あなたのビジネス手法は、既に世の中で通用しないということである。

繰り返すが、電話で返事をするよりも、メールでレスする方が絶対に早い。さらに、先方としても、面倒を避けるためにメールで済まそうとしているのに、一言で済む返事のためにわざわざ電話をかけてこられたら、仕事のじゃまをされているのと同じである。

私なら、こんなことをされたら 「こいつ、馬鹿か?」 と思う。

この記事には、さらに、こんな信じられない項目もある。

アドレス帳を整理してあるか

アドレスはあいうえお順、ABC順に整理されるようになっているが、初期設定で送信者を必ず登録するように設定していたり、一回やりとりしただけの相手が残っていたりすると、たちまち 100 や 200 はたまってしまう。送信のときに、あて名をこの中から探そうとするとイライラするし、時間のムダ、いらないメールアドレスは削除してしまおう。

この記事は、そもそも 「押し寄せるメールを短時間で片付ける裏ワザ」 という記事なのである。つまり、受信したメールへの、返信を含む対応を効率よく済ませるという内容なのである。事実、最初から最後まで、そのトーンで書かれている。

だったら、「返信」 ボタンを押せばいい。いちいちアドレス帳から探す馬鹿はいない。それに、こちらからの送信の場合でも、通常の送信相手なんて限られているから、アドレス帳がいくら一杯になっても、探す場所は決まり切っていて慣れてしまい、実際にはそれほどの手間はかからない。

日刊ゲンダイの PC 関連の記事は、まともに信じてはいけないという教訓である。(「PC 関連の」 という条件付きにする必要はないとの見解も、当然あると思うが)

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2006/11/08

「ブラレンジャー」 という戦略

トリンプ・インターナショナルが、買い物袋としても利用できる特製ブラジャー、トリンプ 「NO ! レジ袋ブラ」 を制作、07年春夏新製品展示会で公開している。

レッド、ブルー、グリーン、ピンク、イエローと 5色のバリエーションがあり、愛称は 「ブラレンジャー」 というんだそうだ。

Gigazine に詳しく写真入りで紹介されている (参照)。カップの部分にパッドの代わりにバッグがたたんで収納されており、それを引っ張り出して伸ばすと、レジ袋替わりになるというアイデアで、特許を出願するそうだ。

しかし、せっかく特許を出願しても、これ、非売品のようなのだ。そのあたりが思い切りの悪さを感じてしまう。本気でエコを考えて特許まで取ってしまおうというなら、行きがかり上、ちゃんと商品化しなきゃ、意味がないじゃないか。

話の種に、あるいはパーティのおみやげとして、売れちゃうかも知れないのに。

トリンプはこれまでにも、「何、それ?」 みたいな企画を発表している。「リサイクル PET ブラ」 「エコ 地球儀ブラ」 「ウォームビズ・ブラ」 などで、そのたびに、ちゃんといろんな新聞に載って、パブリシティ効果抜群の成果を得ている。今回も、その一環なのだろう。

トリンプという企業が、本気でエコに取り組んでいるのかどうか、私は知らない。もし本気なのだとしたら、ISO 14001 ぐらいは取得していてもよさそうなものだが、この会社のサイトを見る限り、どうもそんな様子はない。となると、エコをパブリシティに利用していると思われても仕方ないかもしれない。

この戦略は、パリコレなどの季節になると、決まってファッション紙でもないフツーのオッサンの読む新聞に写真入りで紹介されるための 「やたら裸に近い」 ファッション作品がちょこちょこ出てくるのに似ている。

「こんなの、誰が着るの?」   と言う人がいるが、言うまでもなく、ショーのモデル以外、誰も着ないのである。誰も着なくても、写真入りで紹介されるだけ、パブリシティの役に立つのである。

ただ、最近は 「パリコレでの一幕」 みたいな感じで、誰がデザインしたかさえ字にならないことが圧倒的に多いので、パブリシティ効果は薄れていると思うのだが、トリンプのケースに関しては、まだまだ効果はあると見ていい。

ただ、「変な会社!」   としか思われないリスクもあるが。

 
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2006/11/07

MS の 「余計な押しつけ主義」 の弊害

Windows Vista の発売日は、1月 30日と決定したそうだ。ということは、来年の 2月以後しばらくは、PC の購入を控えた方がいいと、過去の経験が教えてくれている。

新しく発売されたばかりの OS を搭載した PC は、ほとんどパフォーマンスが悪い。その時点のハードに対して、OS が重すぎるのだ。

新 OS が出たての時期のハードは、その前の OS に対してはかなり高性能でも、新規 OS に対しては力不足である場合が多い。私はこれまで、自宅、オフィスで PC の更新をした経験が何度もあるが、出たての OS を搭載したハードは、ことごとく使いづらかった。

起動が遅い、インターフェイスの使い勝手が悪い、次々とパッチを当てることを要求される等々。新 OS がこなれるまでには、個人的印象にすぎないが、1年はかかると思っている。

ということは、PC が壊れて使い物にならなくなったというようなケースを除いては、あわてて買い換えなんかしてはならないということだ。

それから、MS は Vista へのアップグレード優待サービスを開始しているが、これも経験からすると、危ない。OS のアップグレードをすると、たいていどこかに不具合が生じるのだ。

以前勤務していた団体の購入した PC は、Windows 3.1 から 95 へのアップグレード優待サービス付きだったが、アップグレードした途端におかしくなり、ディスプレイが壊れて 2度も交換した。のみならず、本体の力不足で、とてつもなく起動が遅くなったのは言うまでもない。

また一昨年のこと、我が家の家族用の PC は、XP の SP2 をインストールしただけでガタガタになって、すぐにインストール前の状態に戻した (参照)。SP2 ごときでおかしくなるのだから、新規 OS にアップグレードするということは、かなりリスキーだということだ。

消費者が経験を積んで、この程度の身を守る知恵を身につけてしまった以上、新規 OS の展開開始が、必ずしも売り上げ増加にストレートに結びついたりはしないのだということを、MS はきちんと認識しておいた方がいい。

「技術に詳しいユーザー」 に限った話だが、「29.8%の WindowsXP ユーザーが Vista ではなく Linux への移行を考えている」 との調査結果もある。この調査によると、すなおに Vista へのアップグレードを考えているのは 21.1%のみで、38.6%は XP を使い続け、そして、29.8%は、Linux に移行すると答えたというのである。

MS の 「余計な押しつけ主義」 は、確実にユーザー離れを加速させるだろう。ユーザーは、MS の社員にメシを食わせるために PC を使っているわけではないのだ。

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2006/11/06

わさびの辛さを、英語で言うと?

前々からとても気になっていることに、「"わさびの辛さ" を英語でどう言うんだろう ?」 というのがある。普通は 「辛い」 は "hot" というのだが、唐辛子の辛さは "hot" でも、わさびの辛さは違うだろうと思うのだ。

結局、答えは今でも謎のままで、なんともモヤモヤしている。

思うに、英語というのは味覚の表現がとても大ざっぱで、とてもじゃないが、繊細な味を言い表すには充分な言語ではない。これは、英語の本家本元である英国人が、味音痴であることによるものと、勝手に思っている。

英国人の多くは、せっかくおいしいと評判のレストランに連れて行っても、ほとんど甲斐がない。「どう? おいしいでしょ」 とたずねても、「そうだね」 程度の、木で鼻をくくったような返事しかないのだ。本当は、あんまりわかってないようなのである。

逆に、彼らの方からすると、「日本人てのは、なんで食い物ごときに、そんなに熱狂的にならなければならないんだ?」 なんてことを思っているようなフシがあるのである。「別に、大した問題じゃないじゃないか」 ってな感じだ。

だから、味覚をあらわす英単語も、わりとぞんざいだ。「甘い: sweet」 「しょっぱい (塩辛い): salty」 「酸っぱい:sour」 「苦い: bitter」 が、日本語とほぼ対応する言葉で、 「えぐい」 とか 「うま味」 なんてのは、英語では到底表現しきれない。

「辛い」 もそうだ。"hot" (熱い) なんていうのは、即物的すぎてまったく無粋な表現である。カレーの辛さみたいなのは、"hot and spicy" なんて言うが、これまた即物的だ。"Pungent" なんていう表現もあるが、これも、刺激的な味なら 「辛さ」 に限らず、何でも使える。

元々、唐辛子や胡椒は東洋から渡ったものだから、ネイティブ欧米人の味覚の文脈にはないのかもしれない。

で、日本原産スパイスである 「わさび」 の辛さも、"hot" と言うしかないようなのだが、英米人に 「でも、わさびと唐辛子の違いは、同じ "hot" では、表現できないでしょ」 と言うと、「確かにそうだ」 と言う。しかし、それで終わってしまう。

まあ、それを言ってしまえば、日本語も同じ 「辛い」 でくくってしまうので、偉そうなことは言えないのだが、英語で "hot" と言ってしまうと、エライ違和感なのだ。ちっとも "hot" じゃないじゃないか。ありゃ、むしろ "cool" だろうよと。

一説によると、"wasaby" という新語があるなどという話もあるが、これは未確認情報である。この言葉でググルと、多くのページがヒットするが、かなり混沌としている。ただ、なかなかうまい言い方だという気はする。

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2006/11/05

ウィルス、スパム、Vista の三題噺

ふと気付いたのだが、最近ウィルス・メールがほとんど来ない。以前は、ノートンさんがひっきりなしにウィルスを検疫したり削除したりしてくれていたが、最近すっかりご無沙汰だ。

インターネット・ユーザーのセキュリティ意識がようやくしっかりしてきたのだろうか。感染者が減れば、ウィルス拡散も自然に減るのだ。

ウィルス・メールが劇的に減ったのは、いつの頃からだったろうか。自分のサイトとブログ内を 「ウィルス」 のキーワードで検索してみると、一昨年の 5月 9日に 「連休が明けた頃から、またどっとウィルスメールが届くようになった」 と嘆いているのにヒットした (参照)。

連休明けにウィルス・メールが増えたということは、企業ユーザーのウィルス感染が多かったことを示している。常時接続している会社の PC のスイッチを入れたとたんに、勝手にウィルス・メールの大量発信が始まっていたのだ。

当時は、常時接続しているのにセキュリティ・ソフトを入れていない企業ユーザーが多かった。いくら口を酸っぱくして 「セキュリティ・ソフトを入れるのは、インターネット・ユーザーの義務みたいなもの」 と力説しても、わずかの出費を渋る企業が多かったのである。

ところが、さすがに何度か痛い目にあったせいで、ようやくセキュリティ・プログラムの導入が常識となったようだ。それに伴い、ウィルス感染者が劇的に減った。ウィルス感染者はとりもなおさずウィルス発信者とイコールだから、発信されるウィルスの総量も劇的に減ったというわけだ。

その代わり増えたのが、スパム・メールである。昨年 7月 17日には、ウィルス・メールは減ったが 「1度に 100件受信すれば、そのうち 80件以上は迷惑メール」 と言って嘆いている (参照)。

世界中のインターネットのトラフィックのうち、多分、半分以上がスパム・メールなどの 「クズ」 で占められているんじゃないかと思う。いくら FTTH だなどといって大容量の高速回線を整備しても、クズの流通で混雑するのだと思うと、馬鹿馬鹿しい。

それとは少し話が違うが、いくら PC のハードが進化して高速化しても、OS が肥大化して重くなる一方では、いつまで経っても打てば響くようなサクサク感は得られないのではないかという気がしてきた。

Windows Vista なんて、せっかく進化した PC により以上の重荷を負わせて遅くするだけのものだろう。次々にバージョンアップして、従来のソフトを陳腐化させるというマイクロソフトのビジネスモデルも、そろそろ終わりに近づいているな。

来年以後は、新しい PC を買えば嫌でも Windows Vista が入っているのだろうから、せいぜい今の XP マシンを長持ちさせて使い続けようと思う。

だって、Windows XP って、まだ陳腐化したような気がしないもの。(陳腐といえば、元々陳腐なのだし)

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2006/11/04

他人の 「お客様」 なんて、俺は知らん!

顧客に対して直接呼びかける時は 「お客様」 でいいが、そうでない時まで、単に 「顧客」 を 「お客様」 と言い換えて顧客重視した気になっている風潮に、私はかなり抵抗がある。

最近、小売業界のセミナーなどで、「お客様、お客様」 と連発されるが、こうした場面では、「顧客」 という言い方で充分じゃないか。

客観的なニュース報道で、「最近医師不足が深刻な問題に……」 というところを、「最近、お医者様不足が……」 なんて言ったら、おかしいだろうよ。

接客関係のセミナーなんかになると、変てこな講師がでてきて、「時々、困ったお客様というのもいらっしゃいますから ……」 てなことを言ったりする。「時々、変な客も来るから」 を接客用語でいうと、こうなるらしい。

いわゆる 「接客」 の必要な業界や、営業担当者同士 (それと、顧客リストなどを扱う情報システム担当者に至るまで) の世界では、「顧客」 を 「お客様」 と呼び習わすのが 「ギョーカイ用語」 になりつつあるようなので、あまりしつこく文句をいうつもりはないが、外部の世界にまでこの習慣を不用意に持ち出すのは考え物だ。

外部に向けたテキストで、「昨日、あるお客様との商談で……」 なんて書き出す人がいる。これなんか、完全に 「顧客との商談で……」 でいいではないか。

そのテキストが一貫して客観的視点で書かれていればいるほど、その中に混じった 「お客様」 に違和感を覚えてしまう。そこだけ、身内の主観的価値観が無遠慮に出てしまっているのだ。

筆者にとっての 「お客様」 は、筆者 (及び筆者の所属する組織) とその顧客との間だけで成立する関係であって、客観的には、知ったことじゃない。テキストを読む者にとっては、それは筆者の 「顧客」 でしかない。

電話応対で 「○○課長は、本日、お休みされてます」 なんて言われるのと、ある種共通した感覚である。

「あら、いいそこまちがいヨ」 というブログに、次のような話が紹介されている。(参照、以下引用)

べらんめえ口調でしゃべるロイ=ジェームスというトルコ人の司会者がテレビ等で活躍していた。このひとは素人のど自慢番組の司会をしていたのだが、ゲスト出演者であるプロ歌手の紹介をするときには〈三波春夫が歌います〉といった具合に呼び捨てであった。かれはある日の番組の終了まぎわに、このことについて視聴者から批判の投書があったことを紹介し、これに答えた。ゲスト歌手は視聴者に対してはわたしの身内だ。身内のものに敬称をつけることはできない、視聴者に対して失礼だ、と。以後もかれは呼び捨てをつづけた。

つまりロイ・ジェームスは、比喩的言い方だけど、ゲスト歌手を最後まで 「お客様」 と言わずに 「顧客」 と言ったというわけだ。視聴者こそが、司会者とゲスト歌手の両方にとっての 「お客様」 なんだからね。

まあ、芸能番組に関しては、もはやここまで潔く筋を通すのも考え物という時代になってきた。それは、芸能界という世界を 「覗き見る」 という趣向になりつつあるからだと思う。視聴者は覗き見に付き合ってるだけで、「お客様」 じゃなくなってしまった。

ただし、フツーのビジネス関連では、自社の顧客を、他の無関係な者に対してまで 「お客様」 なんて言ったら、本来は失礼なのである。

「お前の客は、俺から見れば、いわばお前の身内なんだから、外部に対してまで内輪の関係意識丸出しで語りかけるのは、気持ち悪いから止してよね」 というわけだ。

ところで、とくに JAL のスチュ … あ、いや、何だっけ、あぁ、そうか 「キャビン・アテンダント」 だったかな、いや、JAL では、単に 「アテンダント」 というのか、そう、そのアテンダントが、ものすごい作り笑顔で 「オキャクセメ」 と発音するのは、何とかならないかなあ。

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2006/11/03

「手ブレ防止」 を、レーザーポインターにも!

三重県の女子校の文化祭で、手ブレのひどいビデオを鑑賞した 50人以上が目まいや吐き気を訴え、13人が救急車で病院に運ばれ、4人が入院したという。(参照

ちょっと聞くと、何やら大袈裟な気がするだろうが、私にはよくわかる。私も映像関連の手ブレには、滅法弱いからだ。

私は、乗り物酔いは滅多にしないが、プルプル震える映像を見させられるのが、本当に苦手だ。冗談じゃなく、目まいや吐き気がしそうになる。早めに目をそらしてしまうから大事には至らないが、そのまま我慢して見続けたら、本当に救急車のお世話になるだろう。

中でも何と言っても、一番苦手なのは、パワーポイントを使ったプレゼンテーションで、オッサンが震える手でレーザーポインターを使うケースだ。あんな迷惑なことは止めてもらいたいと、私は切に思っている。

これについては、一昨年 2月にも書いたのだが、現在も目に余るから、もう一度書いてしまおう。

レーザーポインターを操るオッサンは、私の印象では 8割方、手がプルプルと小刻みに震える。これは、とくに緊張しているわけではなくとも、中年以降の人間にとってはごく普通のことなのだが、大酒飲みやヘビースモーカーのオッサンほど、その傾向は強いような気がする。

レーザーポインターのあの赤い小さな光の点が、パワーポイントの細かい文字 (あんな細かい文字じゃ、後ろの席からは読めんわ!) の上でプルプル震えるのは、到底正視に耐えない。本当に目まいと吐き気がする。

私自身がプレゼンテーションを行う場合は、大抵の場合 「それでは、失礼して座ってお話させていただきます」 と言って、自分でマウスを握り、画面の中のマウスポインターで指し示すことにしているので、この 「プルプル状態」 は起きようがない。

しかし、世の中には、パソコン操作を (エラソーに) アシスタントに任せてしまいたがる人も多い。さらに、ステージ上で歩き回り、大袈裟なジェスチャーを交えながらプレゼンテーションしたがる人もいる。こうした種族の多くは、レーザーポインターが大好きだ。

中には、パワーポイントを使ったプレゼンには、レーザーポインターを使うのがデフォルトと思っている人もいて、要らないと言っているのに、「いや、どうぞこれをお使いください」 と、レーザーポインターを押しつけられたりすることまである。私は決して使わないけど。

レーザーポインターを使うオッサンの多くは、ただでさえ手が震えるのに、無意識にスクリーンとの距離を縮めようとしているらしく、腕を思い切り前に突き出すように伸ばす傾向がある。そのせいで、震えはますます大きくなる。勘弁してもらいたい。

どうしても使いたいのなら、手が震えないようにしっかりと脇を締めて固定してもらいたいのだが、レーザーポインターのお好きな人に限って、そこに考えが至らず、かえって腕を伸ばそうとする。困ったものである。

「手ブレ防止機能付カメラ」 というのが普及しつつあるけれど、 「手ブレ防止機能」 というのは、レーザーポインターにこそ装備してもらいたいと、私は本気で思っている。

そうでないと、プレゼンテーション会場で、いい年をした大人が目まいや吐き気で救急車を呼ぶことになる。実際にそうならないのは、多くの受講者が居眠りをしているからだ。

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2006/11/02

電車で寝るのは、日本人だけ?

人からどう言われようと、徹底的に開き直って、改める気がない悪癖 (?) が、私には 2つある。冷たいおしぼりでゴシゴシ顔を拭くのと、通勤電車の中での熟睡だ。

電車で寝るのは日本人だけだし、おしぼりゴシゴシは、日本人の中でも、さらにオジサンしかしないそうだが、そんなの知ったことか。

冷たいおしぼりゴシゴシは、とくに真夏の暑い日にやるのが最高だ。うら若き女性は口を極めて非難するが、この爽快感だけは譲れない。よくぞ男に生まれけりである。女性がしたくてもできないのは、化粧が取れて別人になってしまうからだろうと決めつけている。

通勤電車での熟睡も、なかなか手放せない。「電車で寝るのは日本人だけ」 という説があるが、これは嘘である。電車の座席で軽く目を閉じてウツラウツラしているぐらいは、日本に限らずどこでも見られる。

ただし、私の行った大抵の国では、「次は○○」 なんて車内案内はしてくれないし、治安だって日本ほどよくないから、「軽く目を閉じてウツラウツラ」 程度にとどめて、いつでも目を覚まして周囲をウォッチできる準備をしておかないと、危なくてしょうがない。

だから、座席に座っている少なくとも半数以上が、揃って平和にこっくりこっくりしている光景なんてものが見られるのは、確かに日本の通勤電車だけだと思う。さらに、「熟睡」 までできるのは、間違いなく日本に限られるだろう。よくぞ日本男子に生まれけり。

電車での熟睡を可能にするには、少なくとも 2つの条件がある。どえらく長い乗車時間と、車内の治安の良さだ。日本は、この 2つの条件が満たされた希有な国である。ただ、治安がいいのは嬉しいが、乗車時間が長いというのは、決して喜ばしいことではない。

ただ、いくら治安がいいと言っても、荷物を網棚に載せたまま熟睡するのは考え物だ。盗まれるおそれがあるだけじゃなく、降車駅でハッと目が覚めたとき、あわてて自分の荷物を忘れて飛び降りる危険性もある。

私はどんなに熟睡しても、降車駅を過ぎて寝過ごすということは滅多にないのだが、一度だけとんでもない寝過ごし方をしたことがある。

新橋から有明 (今は豊洲まで行ってるらしいが) に行く 「ゆりかもめ」 で、国際展示場正門 (有明の一つ手前) まで通勤していた頃の話である。仕事が終わってから同僚と一杯飲み、8時半頃に新橋行きのゆりかもめに乗ったまま、すぅっと眠りに落ちた。

ふと目を覚ますと、ゆりかもめは終点新橋のホームにさしかかったところである。私は思わず自分自身を褒めた。「おぉ、どんなに酔っぱらっても、新橋に着く直前に、こうして自然に目が覚める。我ながら立派なものではないか」

ところが、周囲の様子がどうもおかしい。8時半にゆりかもめに乗ったのだから、せいぜい 9時頃のはずなのだが、どうみても深夜モードに近い雰囲気がある。はっとして時計を見ると、10時半を過ぎていた。

どうやら、新橋-有明間を、1往復半してしまったようなのである。ああ、人情紙の如し。私なら、終点で目が覚めずに眠りこけている人を見かけたら、ちゃんと起こしてあげるんだがなあ。

ちなみに、眠りこけている女性を起こしてあげるには、ちょっとした注意が必要である。下手に肩をつついたり揺り動かしたりしたら、「キャ!」 なんて悲鳴を上げられるおそれがあるからだ。そっと声をかけようとして顔を近づけるだけでも、変に誤解されたら面倒だし。

私はそんな時、決して立ち止まらず、通り過ぎる瞬間に、女性の頭の後ろの窓枠を正拳突きで 「ドン!」 と叩くことにしている。女性がはっとして目を覚ました時には、私は既にその場にいない。私の正拳突きの音でも目が覚めない女性までは、面倒見切れない。

そういえば、私がいつも乗車する 8時 *分取手発上野行きの快速電車の 5~6両目では、時折ものすごいいびきが聞こえてくる。それは本当に大音響といっていいレベルで、私だったら自分自身のいびきにびっくりして、飛び起きてしまうだろうというぐらいのものだ。

そして、ある日、わたしはその大いびきの音源をこの目で確認することができた。それは信じられない光景だった。体重 120キロほどはあろうかという大男が、つり革にぶら下がり、立ったままで大いびきをかいていたのである。

これは、電車内熟睡大国の日本といえども、そうそうお目にかかれない超絶技だろう。

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2006/11/01

NHK 連ドラと 「サザエさん」 の関係

実際にはまともにじっくり見たことなんてないので、私の単なる偏見かも知れないが、NHK の朝の連続ドラマ、とくに NHK 東京制作のドラマを見るのが、大の苦手である。

いや、決して嫌いというわけではない。だが、あの何とも言えない NHK 独特の 「連ドラ臭さ」 が、何とも居心地悪い。

ヒロインが虚空に向かって、不器用な長台詞をのたくっている間、背景にいる他の登場人物が、素に戻りそうになるのをぐっと堪えたような微妙な笑顔で、台詞の終わるのを、凍り付いたように待っている、あの何とも言えない 「間」 は、何とかならないものか。

とくに、ヒロインの弟とか、ヒロインに密かに好意を寄せる近所のあんちゃんだとか、そんなような役どころの若い男優の、不器用すぎる 「間」 ときた日には、もう最悪である。見ていて、ムズムズしてくる。「おい、もっと自然にやれよ!」 と言いたくなってしまう。余計なお世話だけど。

あの 「凍り付き方」 は何かに似ていると、長年思っていたのだが、近頃、急に思い当たった。アニメの 「サザエさん」 なのである。「サザエさん」 の場合も、誰かが口だけ機械的にパクパクさせて台詞をしゃべっている間、他の全員は背景の中で凍り付いている。

だが、アニメの場合は、確かに不自然は不自然なのだが、ムズムズするような居心地の悪さまでは感じない。そりゃ、人工の 「絵」 なのだから当然だ。

「絵」 は、他の役者の台詞の終わるのを待ってる間も、自分の体のやり場に困ったりはしない。それでこちらも、単なるコスト節減策なのだろうと割り切って、のほほんと見ていられる。

しかし、生身の役者となると、そうはいかない。若い男優なんか、所詮芝居が下手くそな上に、下手なりの自然な動きをしようとすると、民放ドラマの雰囲気になっちゃうから、NHK スタイル至上主義の演出としては、ダメだしすることになるのだろう。

それで、いかにも居心地悪そうに凍り付くことになるわけだが、そんな不細工な芝居ともいえない芝居 (「偽善者にもなれない偽善者」 とはちょっと趣が違うので、許されい!) を見せられる視聴者の方が気の毒というものだ。

いや、もしかしたら、あれもアニメ同様、ある種のコスト節減策なのだろうか。限られた時間内でどんどん撮り進めるために、余計な芝居をさせないという長年の伝統が、連ドラ・スタイルとして定着してしまったということも考えられる。

ところが、同じ NHK 連ドラでも、NHK 大阪制作になると、あの独特の NHK 臭い 「間」 というものがずいぶん薄められているような気がする。さすが、大阪である。ボケとツッコミの間というものができあがっているのだ。その分、少しは安心して見ていられる。

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