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2006年12月に作成された投稿

2006/12/31

パソコンは文明の利器といえるか?

クィックル・ワイパーというお掃除用品がある。モップの先にマイクロファイバー・シートをちょいと付けて、軽く拭き取ると、細かな塵でも汚れでも、かなりよく吸着してくれる。

今回、そのウェットシートというバージョンを初めて使って天井と壁の大掃除をしたところ、これがものすごく効果的なのである。

これまではドライシートばかり使っていたのだが、大掃除用に試しに買ってみたところ、これが "当たり" で、ドライタイプでは取りきれなかった汚れがよく拭き取れる。とくに、台所の壁や天井に付いた料理などで発生した油脂分が、きれいに取れる。

雑巾を絞って天井の拭き掃除などをすると、腕が猛烈にだるくなって感覚がなくなるほどしんどいのだが、これだと、踏み台も使わずに、ひょいひょいと楽に高いところの拭き掃除ができる。

「すごいねぇ、さすがに文明の利器だねぇ」 と感動していると、それを見逃さず、我が家の次女がツッコミをいれる。

「お父さん、いつもパソコン使って仕事してるくせに、こんな程度で 『文明の利器』 になっちゃう?」
「いやいや、パソコンはただの道具だけど、クィックル・ワイパーは、まさに文明の利器だよ」
「はあ? それって、フツー、絶対に逆だと思うけど」
「むむ、そうか?」

確かにそうかもしれん。しかし、私はこうも思ったのだ。

クィックル・ワイパーに注ぎ込まれた、「使いやすさ」 を保障する精妙なまでのノウハウ - モップの柄の軽さと適度な弾性、シートを止める部分の絶妙の手軽さと確実さ、ヘッド部分の動きの滑らかさ、その他諸々の試行錯誤の成果が、パソコンにはなぜないのだ。

パソコンって、本当にそのあたりが不親切だ。ユーザー・アンフレンドリーである。例えば、キーボードの右側にテンキーがあることによる、ユーザーの体のねじれなんて、なんとかして欲しいのである。(私は、テンキーが左側にあるキーボードを使ってるから、いいけど。 参照

確かに先端技術は使われているかも知れないが、パソコンが文明の利器だなんて、現状では言いたくなくなってしまうのだ。

ところで、今年も 365日、1日も欠かさずに更新できた。これで、3年連続で掛け値なしの毎日更新達成である。何はともあれ、健康の賜物である。お付き合いしてくださった読者の方々には、ただひたすらの感謝を捧げたい。良いお年を!

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2006/12/30

スカイプをまだやってない理由

いろんな人から 「スカイプ」 を始めるように勧められて、ヘッドセットまで買ったのだけれど (安いし)、いざやろうとすると、なんだか面倒くさくなってしまって、まだ始めていない。

結構新し物好きのくせに、どうしてスカイプには二の足を踏むのか、考えてみると、要するに、私は電話が好きじゃないのだね。

私は普段の仕事でも、できるだけ電話ではなくメールで済まそうとする傾向がある。電話なんてものに縛られなくて済むようになって、かなりありがたいと思っている。せっかくそうなったのに、なんでまた、電話なんかに逆戻りしなければならないのだ。

下手にスカイプを始めてしまって、それを公言したりしてしまったら、浮世の義理で、あちこちに 「スカイプ仲間」 を作らざるを得なくなって、別に必要もないのに、「スカイプをするためにだけスカイプをする」 という時間を捻出しなければならなくなりそうだ。

ああ、それを思うと、本当に億劫になってしまって、ますます始める気にならないのである。

もしかしたら、こっそりと始めればいいのかもしれない。その場合は、スカイプから一般回線への通話が安くなるだけだが、それだけでもメリットはある。じゃあ、どうすればいいのか、スカイプのウェブサイトで調べてみると、「skype クレジットを購入する」 なんてことが書いてある。

ありゃ、フツーのクレジットカードでは支払えないのか。何なんだ、その 「skype クレジット」 ってのは? どんなものか調べてみようとクリックしてみると、いきなり購入画面に入るためのサインイン画面になる。まだ ID すら取得してないのに、サインインなんかできるわけないじゃないか。

というわけで、何だかいつも面倒くさくなって、途中で挫折してしまうのである。スカイプなんてなくても、全然不便してないし。

と、ここまで書いてみて、まだインターネットをやっていない人たちが挫折する理由がわかったような気がする。要するに、スカイプをやってない理由の裏返しだ。

ウチの父なんかも 「インターネットをやると世界が広がるよ」 とさんざん言われても、全然興味を示さない。

まず、パソコンの画面に向かうのが嫌いなのである。通信は電話で済ませられるし、情報はテレビと新聞で得られるから、それでいいのである。

でも、インターネットは便利らしいから、やってみようと思わないでもないが、何だかしらないが、ID とか パスワードとかを求められるのである。わけのわからんものに、ID とか パスワードとか使いたくないのである。そこで挫折する。

いいじゃないか。インターネットなんかなくたって、別に不便は感じないし、電話で十分だし。

というわけで、両者は単なる裏返しのような気もするが、決定的に違うのは、もしインターネット会議なんかをしなければならなくなって、どうしてもスカイプを始める必要性に迫られた場合、私はいつでも始められるということだ。なるべくしたくないけど。

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2006/12/29

年賀状は手間がかかる

ようやく年賀状に取りかかっている。ほとんどパソコンに任せきりだから、楽と言えば楽だが、デザインには案外凝ってしまう方なので、その結果、印刷に手間がかかる。

印刷を計時してみると 1枚あたり 130秒かかっているので、150枚だと単純計算で 5時間 40分、実際には 6時間以上かかるだろう。

というわけで、夜の 7時頃から始めた印刷が、夜中を過ぎてもまだ終わらない。持久戦である。印刷しただけでは終わらず、手書きで何か一言添えることにしているので、2日がかりになってしまう。元日に届けられるのは、まず無理だろう。申し訳ない。

年賀状といえば、今年の 5月 1日のエントリーでも触れたことなのだが、私は 「新春のお喜びを……」 とか 「迎春」 とかの文字は、絶対に書きたくないというこだわりをもっている。

というのは、「新春」 というのは旧正月だからこそ言えることなのだ。今度の旧正月は、2月 18日で、まあ今度に限らず、旧正月というのはたいてい立春を過ぎている。昔の正月は、文字通り 「新春」 を迎える行事だったのだが、寒の入りにもなっていない新暦の正月に 「新春」 なんていうのは、空々しすぎるだろう。

どうしても 「新春」 とか 「迎春」 とか書きたかったら、その年賀状が旧正月に着くように書けばいい。

印刷の話に戻るが、今年のインクジェット用の葉書は少し使いやすくなったようだ。去年までの葉書は分厚すぎて、インクジェット・プリンターのフィードにかかりにくく、しょっちゅう中断されてしまっていた。今年は少しだけ薄くなって、コシを弱くしているような気がする。

あまり薄くしすぎると、今度は印刷文字が裏面に透けてしまって具合が悪いので、その微妙なさじ加減に苦労した跡がしのばれる。

さて、年賀状を仕上げたら、今度は大掃除の仕上げだ。年末は忙しい。

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2006/12/28

Web 2.0 は、雰囲気でもつ

japan.internet,com のリサーチ (参照) によると、IT 業界で 今年の流行語トップになった (らしい) "Web 2.0" という言葉の、ネット・ユーザー間の認知率は、52.28% にのぼる。

もっとも、「聞いたことはあるが、意味はわからない」 というのが、35.91%で、「理解している」 という 16.37% の倍以上なのだが。

そもそも、「聞いたことはあるが、意味はわからない」 というレベルの回答を加えて、「認知率 52.28%」 というレポートにしてしまうのが、妥当なのかどうか。私にはちょっと乱暴なような気がするのだが。

それに、この調査記事、執筆者の日本語理解にかなりの問題がある。以下に問題箇所を引用してみよう。(注目箇所を赤太字にした)

調査対象は全国20代~50代以上のインターネットユーザー1,075人。男女比は男性53.49%、女性46.51%、年齢別は10代17.86%、20代19.72%、30代16.84%、40代17.40%、50代以上28.19%

「調査対象は全国20代~50代以上のインターネットユーザー1,075人」 という表記は、事実としてもレトリックとしてもでたらめで、正しくは、「調査対象は全国10代以上のインターネットユーザー1,075人」 じゃないか。これだけで、このレポートの信憑性はスポイルされている。

それに、この程度の調査で、小数点第 2位までのパーセンテージを出すかなあ、普通。まあ、この辺りは好きずきかもしれないけど。

とまあ、こんなようなことからも感じられるように、"Web 2.0" というのは、「雰囲気のもの」 だというのが、最も妥当な理解なんじゃないかと、私は思っている。もともとあった "Web 1.0" がバージョンアップされて "Web 2.0" になったわけでもなく、明確な定義なんてないのだから。

「みんなでいろいろごちゃごちゃ楽しめるようになっちゃったよね」 というのが、"Web 2.0" だと思っていればいいんじゃなかろうか。

ロングテール」 なんてものが言い出されたおかげで、パレート理論では量的に 80%を占めるという上位 20%にしがみつかなくても、マイナーはマイナーなりの存在価値が認められたし、おめでたいことである。

この調査によると、"Web 2.0" を知っている層は、検索エンジンに Yahoo ではなく Google を使う比率が高いらしい。何を今さらという気もするが。

ちなみに、最近 1ヶ月の当 "Today's Crack" (ココログ) への検索エンジン経由のアクセスを見ると、Google が76.7%を占めて、圧倒的だ。どうやら、このブログは、かなり "Web 2.0" であるらしい。これもまた 「それがどうした」 で済みそうな話ではあるが。

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2006/12/27

十二月の雨の日

昨日は、朝から降っていた雨が、昼過ぎには土砂降りに変わった。大雨強風注意報が出ていて、今日の夜明けまで続くらしい。

12月の雨というのは関東では珍しいので、つい、はっぴいえんどの 「十二月の雨の日」 を思い出してしまうが、あの歌に出てくる雨は、こんな大雨ではないと思い返す。

あの歌が世に出てから、なんと、30年以上も経ってしまっているのだなあ。あの頃は、まだ気候も今ほど極端から極端に振れるようなものではなくて、東京の師走の雨は、そっと降って、そっと上がり、そして 「雨上がりの街に風がふいに立る」 というような光景が見られたのだった。

昨日から今日の夜明けにかけての雨は、どちらかというと、「颱風」 に歌われた光景に近い。「地面でぴしぴしとびはねる/雨は天の投げ飛礫」 である。

なんだか、「日本の亜熱帯化」 という言葉が思い起こされる。松本隆の、あのいかにも東京山の手生まれの、注意深く 「過剰」 を包み込むが故に、もう一つの慎ましい過剰が見え隠れしてしまうという風土性が、少しずつ失われてしまっているように思う。

あの頃、京都や大阪の風土から生まれた 「フォークソング」 が、ややどぎついメッセージを前面に出していた真っ最中に、松本隆の東京的叙情が現れた時には、とても新鮮な気がしたものだ。

ホワイトアウトの地吹雪の中を学校に行き、ガラス戸の隙間から容赦なく吹き込んで、机の上にうっすらと積もった雪を掻き落とすのが朝の日課だった、田舎者の少年には、手の届かない感性だと思った。

都会暮らしを続けるうちに、あの感性を身に付けてしまったわけじゃないけれど、違和感がないぐらいには馴染んでしまっている。だから、12月にこんな大雨が降ると、ちょっと驚いてしまう。

ああ、そういえば、「颱風」 の作詞・作曲は大瀧詠一だった。東京山の手ネイティブの感性じゃない。彼は、やはり岩手県出身なんだなあ。

今、夜中の 12時 40分。雷まで鳴り出した。私の田舎では、冬の雷は 「雪下ろしの雷」 といって、決して珍しいものではないのだけれど。

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2006/12/26

大晦日に 「みんなのうた三昧」

NHK FMで、大晦日の朝 9時から夕方 6時 50分まで、10時間近くにわたって 「きょうは一日 "みんなのうた" 三昧」 という大特集を放送してくれるそうだ (参照)。楽しみである。

私はこうみえても、「みんなのうた」 のファンなのだ。最近はあまり見られないけれど、初期の頃の歌なら、ほとんど今でも歌える。

「みんなのうた」 で昭和 36年に流された最初の曲、「おお牧場は緑」 の衝撃は、今でも鮮やかに覚えている。すごい番組が始まったなあと思ったものだ。なにしろ、たかが歌に、やたらと金のかかった映像がついているなんて、それまで考えられなかった。

当時は、最初に 1ヶ月間ぶっ通しの外国のフォークソング系の名曲が流れ、2曲目に、1週間をローテーションとした日替わりだったか、週替わりだったか、定かではないが、別の歌が流れた。2曲目は、ちょっとおもしろい画像付きというのが多かった。さすがにアニメではなく、静止画像をフレーズごとに変えていくという方式だったように思う。

第 1号の 「おお牧場は緑」 に続いて、「調子を揃えてクリッククリッククリック」 (タイトルは忘れた) とか 「森へ行きましょう」 とか 「雪山賛歌」 とか、とにかく、外国フォーク系のスタンダードはほとんど 「みんなのうた」 で覚えた。

それにも増して素晴らしかったのは、2曲目である。谷川俊太郎作詞による言葉遊び系の歌、「♪ あいうっえおっ かきくけこ 誰かがどこかで笑ってる~ ♪」 なんて、もう、大好きだったなあ。

インドネシア民謡の 「クヮイクヮイマニマニ」 なんて、意味はさっぱりわからないけれど、今でも耳で覚えた通りのインドネシア語で歌える。子どもの頃の記憶力というのは、大したものだ。

それから、「小さい秋見つけた」 「雪の降る街を」 など、しみじみした画像を見ながら一緒に聞けたのもよかった、あれで、私の歌感覚も鍛えられたんだと思う。

一時、「一円玉の旅がらす」 なんて、なんだか悪趣味の方に振れていたような気がするけれど、最近はまただいぶ良くなってきたようだ。宇多田ヒカルの 「ぼくはくま」 なんて、初期の頃の 「みんなのうた」 の雰囲気である。

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2006/12/25

歩行における 「でんでん太鼓理論」

先月 28日に 「大手を振って歩く女たちへ」 というエントリーを書き、少なからぬ女性は歩くときに、斜め後方に不必要なほど大きく腕を振るので、雑踏で後ろを歩く男の股間を直撃することがあり、困ったものだと指摘した。

すると、江都屋黄金丸さんから非常に興味深い指摘のコメントがあったのである。

要約すると、男は体の重心を前へ前へと直線的に移動させて歩くタイプが多いので、腕の振りも自然に前後に平行になるが、女の場合は、骨盤を左右に回転させて駆動力を得るタイプが多い。

俗な言い方をすると、お尻をぷりぷり動かして歩く人が多いということだ。そのため、腰の回転に伴い、腕もその反動で回転する。これが 「でんでん太鼓」 のような動きになるというのだ。

私はこれは見事な観察だと、恐れ入ってしまったのである。それで、勝手ながら 「でんでん太鼓理論」 と命名させていただくことにした。

試しに、男の私でも骨盤の回転による駆動力で歩くと、確かに、腕がでんでん太鼓のように自然にぶるんぶるんと振られる。ただ、体の後ろ側に行った腕は、肩と肘関節の動きの許容範囲があるために、外側に振られたまま、内側に回り込むことがないのだ。

それに、女性は片方の腕を曲げて、肘のあたりにバッグをぶら下げていることが多いので、肘が後ろを向きがちだ。それで、バッグをぶら下げていない方の腕の肘も自然に左右対照的に後ろを向いているので、肘から下がますます外側に振られてしまうようなのだ。

肘が後ろでなく、外側 (左腕なら左側) を向いていれば、肘から下はあれほど極端に外側に振られることがないということを、私は自分の体を使ったシミュレーションで確認した。

それから、どうして女性がことさらに骨盤の回転で駆動力を得ようとしているのかということも、見えてきた。どうやら、朝の駅の雑踏などで、時間に遅れないように急いでいる様子の人が、「骨盤歩き」 をしている場合が多いようなのだ。

周囲の男たちに比べて小柄であるというハンディキャップを補うために、骨盤回転駆動力まで動員して、流れに遅れないようにしている様子が見て取れる。女は女で、なかなか大変なようなのである。

と、このあたりまでは理解したつもりになったのだが、その上で、やっぱり女性たちには、無闇に男の股間を直撃しないように、気を使ってもらいたいと思うのである。

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2006/12/24

トラックバックと互酬性

最近、私のブログへのトラックバック・スパムが増加傾向にある。私がトラックバック・スパムと判断する唯一の基準は、こちらと相手のエントリーの内容に、明確に共通するテーマがあるかないかである。

共通ファクターがない場合は、スパムと判断して遠慮会釈なく削除することにしている。

トラックバック作法については、「絵文録ことのは」 の "トラックバックをめぐる4つの文化圏の文化衝突――「言及なしトラックバック」 はなぜ問題になるのか" というエントリーにとてもよく考察されているので、ここであえて付け加える必要もないくらいだ。

私自身は 「言及リンク文化圏」 に属しているようで、トラックバックする際は、自分のエントリー中に相手へのリンクを入れることにしている。

というより、むしろ自分のエントリー中での言及が先にあって、トラックバックは、「あなたのエントリーにリンク付きで言及してますので、一応知らせときます」 という意味合いが大きい。「決してコソコソあげつらっているわけじゃありません」 という態度表明である。

また、やや 「関連仲間文化圏」 的意味合いで、共通した論じ方をしているブログにトラックバックすることもある。ただ、私としてはそれほど多いケースではなく、この場合でも、こちらのエントリー中でトラックバック先にリンクを張って紹介することは忘れない。

こちらのエントリー中でリンクを張っておくのは、「単なるコバンザメのごとき宣伝行為じゃありませんよ」 という副次的意味も含んでいる。

翻ってこちらへのトラックバックをみていると、「スパム文化圏」 からに次いで、「関連仲間文化圏」 からのものが多い。「関係ある内容だから、張っとくわ」 といったもので、相手のエントリーには、こちらへの言及もリンクもまったくない。

これらの少なからずは、宣伝意図が露骨な 「スパム文化圏」 とオーバーラップするように思うのだが、それでも、テーマに多少なりとも共通するファクターがあれば、無闇な削除はしないことにしている。

個人的には、こうしたリンクはあまり愉快なものではなく、「厚かましさ」 さえ感じるものもある。一方的に相手側へのトラフィックが増えるばかりで、こちらには何ら明確なメリットがないし。

世の中には、自分の側へのリンクのないトラックバックは削除するという方針のブログもある。それはそれで、一つの見識というものだろう。

私は決してけちなことを言っているわけではない。この世では 「互酬性」 というファクターがとても重要で、文化人類学を学べばわかるのだが、人間というのは、一方的にいいとこ取りばかりしていると、かえってストレスになってしまうという傾向がある。

だったら、「お互い様」 という貴重な文化を、ブログの世界でも踏襲しようではないか。私が前述の "「コバンザメのごとき宣伝行為じゃありませんよ」 という副次的意味" に多少こだわるのは、互酬性の原則から外れたくないからである。

世間から一方的な 「借り」 を作らない方が、すっきりした気分でいられるというものだ。

それから蛇足だが、私のもう一つのブログ 「和歌ログ」 に、一時、大量のトラックバック・スパムが付いたことがあった。アクセスの少ない地味な文芸ブログにスパムが集中するのが、当初は理解できなかったのだが、どうやら URL の末尾にある "wakalog" という文字が誤解の元だったらしい。

「和香ちゃんのブログ」 みたいな、ネットアイドル路線と思われていたようなのだ。

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2006/12/23

去年に比べりゃ、確かに暖冬だ

今年は暖冬傾向との予報が出ているが、確かに、朝にベッドから出られないほど寒いと思ったことは、まだない。

去年の今頃は、酒田の実家の引っ越し手伝いを終えたばかりだった。昨年 12月 20日付の和歌ログは、雪明かりの夜の写真を載せている。その前 4日間も、雪景色の写真だ。

1年前、酒田では既に大雪に見舞われていた。その大雪は年が明けてからもなお降り続き、大雪という程度の表現では済まなくなって、「豪雪」 と呼ばれてしまったのである。今年はまだ、雪が積もったという話は聞かないから、昨年とはえらい違いなのだ。

私の実家は、昨年末に築40年のボロ屋から、「高気密性」 とやらを謳う新築の家に引っ越したのだが、その快適さはどえらい違いである。

まず、古い家はただでさえすきま風が通っていたのだが、引っ越しで家具を運び出したとたん、それはすきま風というレベルでは済まなくなった。文字通り、家の中を寒風が吹き抜けるのである。それまでは、箪笥や茶箪笥や冷蔵庫などで風を遮っていたようなのだ。

向かいに新築した家への移転なので、引っ越し作業はのんびりと四日かけて行った。ところが、最初に大物を運び出してしまったので、我が家の家族は寒風吹き抜ける家で、震える夜を過ごしたのである。それだけに、新しい家で寝た夜は天国のような心地よさだった。

私たち夫婦は引っ越しの手伝いを終えて一足先につくばに帰ってきたのだが、妹は細かい整理をしているうちに、あの羽越線特急の脱線転覆事故が発生し、しばらく東京に帰れなくなってしまったのである。とにかく、去年の冬はものすごい冬だったのだ。

それだけに、この冬はかなり穏やかに感じられる。エルニーニョが発生しているとやらで、暖冬傾向が続くのはほぼ確実と言われていて、その代わり、来年の夏は冷夏の可能性が大きいのだそうだ。

2ヶ月に 1度の割で、酒田に帰って母を介護する父の応援をしなければならないので、今年は初めて車にスタッドレスタイヤを付けた。このまま暖冬傾向が続けば、1月も車で帰郷できそうだ。

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2006/12/22

安倍さんは 「エイブ」 ?

少なからぬ米国人は、まだ安倍首相を 「プライムミニスター・エイブ」 だと思っているだろう。"Abe" と表記してあったら、彼らは何の疑いもなく 「エイブ」 と発音するだろうから。

ニューヨーク・タイムズなんかは、"Mr. Abe (pronounced AH-bay) " と載せている。「アーベイ」 と発音されるのも、ちょっと変だが。

ジョージ・ブッシュ大統領も、初めは 「ミスター・エイブ」 と言っていて、いくら何でも元々の発音と違いすぎると日本の外務省筋から指摘があったらしく、それでも 「ミスター・アビー」 に修正されただけだったようだ。"Abe" は "A-be" というわけだ。

日本語の固有名詞をローマ字表記にすれば、ちゃんと読んでもらえると思っている日本人は少なくないが、世界の標準語としてデファクト・スタンダードになっている英語では、それはなかなか難しい。

「堀江」 は当然のごとく 「ホーリー」 になるし、「伊藤」 は 「アイトー」 になり、訛りによっては 「アートー」 に聞こえたりする。そういえば、モハメッド・アリは、アントニオ猪木を 「アノーキ」 と言っていたな。

「上野」 を "Ueno"  と表記すると、英語しか知らない米国人は、どう読んだらいいかわからなくてうろたえる。それで、「"no way" の反対で、"way-no" と言うといいよ」 なんていうと、ようやく当たらずといえども遠からずの発音をしてくれたりする。

名刺に "Wedda" と表記している上田さんを知っている。なるほど、これなら最初から 「ウェダ」 と発音してもらえて、少なくとも面倒は省ける。

まあ、日本人だって、Audrey Hepburn を 「オードリー・ヘップバーン」 なんて読んだりしてるので、あまり文句も言えない。本当は、ヘボン式ローマ字のヘボン博士 (James Curtis Hepburn) と同じ苗字なのだが。

それに、欧米語圏内でも固有名詞をそれぞれ自国語風の読み方にして、まったく意に介していない。例えば聖書に出てくる名前なんか、ヨハネ - ジョン、ペテロ - ピーター、パウロ - ポールなど、全然平気で英語化している。

漢字のハングル読みでないとダメなんていう主張の方が、国際的には珍しいケースだ。さらに解せないのは、日本人には 「ノ・ムヒョン」 だと主張する 「盧 武鉉」 が、英語だと Roh Moo-hyun で、全然 OK のようだということである。

元中日ドラゴンズの 李 鍾範 選手も、日本では 「イ・ジョンボム」 だが、米国では "Jong Beom Lee " になってるし (中日在籍時は 「リ・ジョンボム」 だったようだが)。

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2006/12/21

首相官邸の IT 広報は大盤振舞い

小泉政権の 5年間で運営された首相官邸ホームページに約 10億円、メルマガに約 8億円の経費がかかっていたそうだ (参照)。

すごい大盤振舞いである。もし私に委託してくれていたら、あの程度のものなら、5年間で 5000万円で転がしてあげたのに。いや、それでもボリ過ぎと言われるかもしれないが。

なんでまたこんなにコストがかかったかというと、ニュースの文面をそのまま引用すると、次のようになるのだ。

官邸HPの制作・運営は「既に使用している設備やアプリケーション類との互換性を確保できるものが1社」 しかないなどの理由で、01年度から05年度までほぼすべてが随意契約。

小泉内閣メールマガジンも、多数の登録者に配信するためのソフトウエアの使用権を設定できる社が1社しかなかったとして、制作・運営を随意契約。

こんな子供だましの言い訳が通ると思っているらしいということ自体が、お笑いである。正攻法で言ったら、「互換性を確保できるものが 1社」 しかないようなコンテンツの作り込みなんかするなと言うところだが、それもちょっとおかしい。

実際のところは、あの程度のコンテンツで、「互換性を確保できるものが 1社」 しかないなんてはずがないではないか。

メルマガの話にしても同様で、「多数の登録者に配信するためのソフトウエアの使用権を設定できる社が1社しかなかった」 というなら、それがどこの会社の何というソフトウェアか、具体的に挙げてもらいたいものだ。「その程度のことなら、ウチでもできる」 という社がいくらでも出てくるから。

そうでなかったら、毎日毎日、クサるほどのスパムメールが、世界中の何百万人にも届くものか。おおかた、例のタウンミーティングと同じ構造で、大手広告代理店が中間に入って、暴利を貪ったのだろう。

ホームページというものが注目され始めた頃は、どうでもいいコンテンツに、業者の言いなりに何千万円もかける企業があったようだが、今となっては、からくりがばれてしまって、そんな無駄遣いをするところはなくなった。

ところが民間ではなくなったが、哀しいことに、オオヤケでは、まだあったのである。

もう馬鹿馬鹿しいから、首相のメルマガ購読なんてやめてしまうことをおススメする。私はそんなもの読んでるほど暇じゃないから、初めから購読してないけど。

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2006/12/20

日本の酔っぱらいと中国の自動車メーカー

ちょっと旧聞だが、飲酒運転と飲酒事故で行政処分を受けたドライバーに警察庁が実施した調査 (参照) というのをみると、ほとんどがものすごく身勝手な答えをしている。

195人に調査しているのだが、「酔っていないと思った」 が 72人と最多。「事故を起こさない自信があった」 というのも 22人いた。

冒頭に 「ものすごく身勝手な答え」 と書いたが、しかし、一昔前どころか、ほんのちょっと前なら、これで十分に通じていたのだ。宴席などで 「車を運転しますから」 と断っても、「まあ、ビール 1杯ぐらいなら、いいじゃないですか」 なんて勧められるのは、日常茶飯事だった。

これで軽い気持ちで、「それじゃ、お言葉に甘えて」 なんて飲んじゃってた (あるいは今でも飲んじゃう) 人というのは、「事故を起こさない自信」 が十分にあるんだろう。しかし、どんなに自信があっても、事故というのは一定の確率で起きる。この意味で、やはり 「ものすごく身勝手な答え」 なのである。

で、唐突だが、私はこのお話と、Youtube に載って大変に有名になってしまった 「中国製自動車 衝突実験」 という動画が、頭の中でリンクしてしまったのである。

この動画というのも、なかなか衝撃的なもので、中国の陸風汽車という自動車メーカーが今年のフランクフルト・ショーにも出品した 「陸風」 という SUV を、ドイツのADAC (Allgemeiner Deutscher Automobil-Club、ドイツ自動車連盟) という団体が衝突実験にかけた際のものだ。

なにしろ、エアバッグは作動しているものの、そんなのは全然役に立っておらず、ドライバーは時速 64キロの衝突時にボコボコになってしまうというのがわかる。衝突時にキャビンを守る補強という世界の常識が、ほとんど無視されている。

今どき、とんでもない自動車があったものだが、中国側は、国内で既に数万台の販売実績があるが問題は発生しておらず、中国の強制製品認証制度 (CCC) もクリアしていると主張して、猛反発しているという。

安かろう悪かろうでも一定の需要があるらしい中国では、そうした需要への対応の方が、人命尊重というトレンドよりも重要というのが事実のようだ。いつまでもこのレベルの状態が続くというわけではないだろうけれど。

日本の飲酒運転ドライバーが現在の中国の自動車メーカーと同じレベルの発想なのか、あるいは、中国の自動車メーカーが、日本の飲酒ドライバー程度の発想なのか。

いずれにしても、根底には共通した考え方があり、それこそが、かなり恐いお話だと思うのである。

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2006/12/19

「メイジャー」 はマイナーになってしまった

以前は 「大リーグ」 と言っていたものだが、最近では 「メジャーリーグ・ベースボール」 なんて言うので、この 「メジャー」 という言葉が気になって仕方がない。

原語は "major" だから、「メイジャー」 である。「メジャー」 と言うと、物差しとか巻き尺 (measure) を思い浮かべてしまう。

こんなことが気になってしまうのは、昔、音楽なんぞをやっていたからで、音楽の世界では長調のことをメイジャー、短調のことをマイナーと言う。ハ長調のことは、普通 C と言うが、正式には、Cメイジャーである。

とくに、コードネーム (和音名) では、CM7 なんて表示されていたら、「Cメイジャー・セブンス」 と読む。少なくとも、私の世代では 「Cメジャー・セブンス」 なんて読むヤツはいないと、つい最近まで信じていた。

しかし、「Cメジャー」 というキーワードでググってみて、愕然としてしまった。20,600件 (12月 18日現在) もヒットしてしまったのである (参照)。そして、「Cメイジャー」 だと 157件しかないのだ (参照)。

どうやら、今では 「マイナー」 の反対は 「メイジャー」 ではなく、「メジャー」 ということになってしまったようだ。悲しいことに、「メイジャー」 という発音は、完全にマイナーになってしまったようなのだ。

きっと、形容動詞的に使う場合、「メイジャーな○○」 というより、「メジャーな○○」 と、平板アクセントで言う方が言いやすいということで、こんなことになってしまったのだろうなあ。

だからといって、私が不利益を被るとかそういったことは全然ないので、まあ、どうでもいいようなことなのだが、何となく気持ち悪くひっかかるところがあるのである。

松坂が行ったのは、アメリカの巻き尺リーグではないよなあと、思ってしまうのだ。

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2006/12/18

正しい和食で、天下りか?

日本政府による 「正しい和食」 レストランの認証制度の話題が、まだ収まっていない。私の疑問は一貫して、「日本人が渡航先で安心してまともな日本食を食うため」 の制度ごときに、税金を投入するのかなあというものだ。

日本の食文化の普及のためなら、それこそ 「民間活力」 に任せた方がいいだろうし。

そもそも、日本人って、なんだか 「食うこと」 にこだわりすぎなんじゃないかとも思うのだよね。

英国人が味音痴というのは、定評のあるところで、日本人がいくら旨いメシを食わしてやっても、全然感動してくれない。それどころか、「日本人は、なんで食い物ごときで、そんなに盛り上がれるんだろう」 ぐらいに思っているようだ。

実は、私は英国人の気持ちが半分わかる。テレビで芸能人がいろんなメシを食って、旨いだの不味いだの、熱狂的に盛り上がっていると、「あいつら、普段、まともなメシを食ってないんじゃないか」 なんて、冷めた目で見てしまう。

それに、私って、ずいぶん 「変なメシ」 を食っているという自覚がある。例えば、私はスパゲッティはごま油で和えて、納豆をかけて食べるのが好きだ。イタリア人がみたら何というだろうか。

それから、トーストに海苔の佃煮をつけるとか、イカの塩辛のサンドイッチなんてのも、ごくフツーに食べる。嫌ぁな顔をされるときもあるが、何のことはない。海苔の佃煮は、「海苔ジャム」 に他ならないし、アンチョビーの塩っ辛いやつのサンドイッチがあるのだから、イカの塩辛サンドがあっても不思議はなかろうと思うのだ。

というわけで、私は自分がこんな食い方をしているので、滅茶苦茶独創的 (?) な 「日本食もどき」 があったとしても、責められないような気がしているのである。そもそも、そうした料理を供するレストランは、「正しい和食を食いたがる日本人」 なんて、ターゲットとして想定していないだろうし。

「正しい和食を食いたがる日本人のための和食レストラン」 は、数が限られている。だったら、わざわざ政府が認証なんかしなくても、民間のガイドブックに任せておけばいい。あるいは、少々不正確な情報で、地雷を踏むリスクを楽しむのも一興だ。

それに、わざわざ税金を投入して認証した 「正しい和食」 にしても、その認証システムを将来にわたって継続し、リストを 「正しく」 メンテし続けるには、かなりなコストがかかる。そのうち、外郭団体か何かに丸投げということになるに違いない。

ああ、わかった。これもきっと、農水省の役人の天下り先確保の一環なんだ!

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2006/12/17

ネット参拝 - 「神霊」 はどこに存在するのか

神社本庁が 「ネット上に神霊は存在しない」 と言い切っているらしい (参照)。うぅむ、これって、かなり論争を呼びそうな発言だ。

じゃあ、神社になら存在するのか。他には存在しないのか。あるいは、一本の草木にも神霊は存在するが、ネット上に限っては、存在し得ないということなのか。

最近、ちらほらみえる 「ネット参拝」 に関しての問題である。深く突き詰めようとしたら、「神とは何ぞや」 という根本的な問題にまで行き当たってしまいそうだ。

折口信夫は、日本の神社の元々の形は、拝殿があって本殿は存在しなかったというようなことを言っている。上代においては、神社の背後にそびえる山そのものがご神体であったりして、神社はそれを遙かに拝 (おろが) みて祈るための、いわば 「窓口」 みたいなものだった。

今でこそ、神社の 「拝殿」 の背後にはもっともらしく 「本殿」 があるが (といっても、よくわからん人も多いと思うので、詳細は、こちらを参照のこと)、本来は、礼拝の窓口としての 「拝殿」 こそが神社だったとみることもできる。本殿のない神社の原初的な構造は、大神神社 (三輪神社) に残されている (参照)。

だったら、ネット上に 「拝殿」 機能をおくことだって、まんざらおかしなことではない。礼拝のための窓口ならば、どこにどんな形で存在してもいいだろうということだ。

むしろ、日本的な 「神」 とは、天地万物に宿るものであるから、いわば 「遍在」 するものである。オムニプレゼンスである。あるいは、流行の言葉で言えば、「ユビキタス」 である。

と、ここまで言ってしまうと、もしかしたら、日本の神を礼拝する窓口として、ネットはむしろ、とても相性がいいかもしれないではないか。何も、神社のみにその機能を独占させておくことはない。

とはいいながら、やはり、独特の神々しさというか、清浄な雰囲気というか、リアルの神社にはそれなりに、バーチャルでは得難いものがある。本当の神社に足を運んでこそ御利益があるなんてことまでは言わないが、そこはそれ、気分の問題ということもある。

だが、身体的ハンディキャップなどで、リアルの神社に参拝できないような人には、ネットでの参拝の機会を保障するということだって、神ながらの心の現われと言えるかもしれないではないか。

こんな性急に 「ネット上に神霊は存在しない」 なんて言い切ってしまったのは、まるで 「既得権益確保」 みたいな臭いがして、ちょっと勇み足だと思うがなあ。

(蛇足かもしれないが、日本の神社の場合の 「礼拝」 は、「れいはい」 ではなく、「らいはい」 と読むので、よろしく)

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2006/12/16

酒の方面の 「グルメ」

東京都内などに出かけるときは、自宅から常磐線取手駅近くに借りている月極駐車場まで車で行き、そこから電車に乗る。帰りも車を運転するので、当然、酒は飲めない。

で、最近、めっきり外で酒を飲む機会が減った。昨日は今年初の忘年会だったが、全員食事のみで、アルコール抜きだった。

昨日集まった参加者のほとんどが、車で来ているので、自然にアルコール抜きということになったのだ。以前ならば、「まあ、ビール一杯ぐらい、いいじゃないですか」 なんて、無理にでも勧めたがる人がいたが、最近はさすがにそんな無理強いはしない。

アルコール抜きの忘年会なんて、なんと味気ないと思う人もいるかもしれないが、そんなこともない。全員、盛り上がり上手だから、飲まなくても十分に盛り上がる。アルコールの助けなしの、ナチュラルな盛り上がりだから、それはかなり充実した盛り上がりである。

考えてみれば、酒がないと盛り上がれないというのは、困ったものである。酒の力で理性や判断力を麻痺させて、べろんべろんになった姿を見せなければ信用がおけないなんていう価値観は、もうそろそろ捨てなければならない。

私なんぞは逆に、酒のせいでぐずぐずになった姿を見せられると、そいつを信用したくてもできなくなってしまう。

酒の力なしで、きちんと自分の人間性を表現し合える場というのは、なかなかいいものだ。まあ、べろんべろんに酔っぱらうのでなければ、多少の酒があってもいいのだが、なくたって、一向に構わない。

誤解しないでいただきたい。私は、酒は好きである。大好きである。一時は、毎日のように浴びるほど飲んだおかげで、かなり鍛えられて、少しはいける口になっていた。

しかし、遺伝的に言えば、アルコールにはそれほど強い体質ではない。だから、飲む量が減ると、一気に酒に弱くなる。最近では、ちょっと飲み過ぎると動悸が激しくなって、頭が痛くなる。

だから、少しの酒を味わって飲むのはいいが、飲み過ぎて酔っぱらうのは、身体的にかなり苦痛である。好きな酒を飲んで苦痛を味わうのはごめんだから、飲み過ぎたくはない。

「食」 でいえば、「グルメ」 は美食家で、「グルマン」 が大食家なのだという。だったら、私は今後は、酒の方面の 「グルメ」 で行きたいと思っている。おいしい酒をほんの少し飲めば十分なのだ。

そして、酒の力なんか借りなくても、ナチュラル・ハイになれる体質だから、心配無用である。

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2006/12/15

歴史的パリの夜と、ノロウィルス疑惑

ノロウィルスによる感染性胃腸炎が大流行しているのだそうだ。毎年この季節になると取りざたされるが、今年は 81年の調査開始以来、患者報告数が最高になっているらしい。

81年といえば、私も牡蠣を食ってひどい目にあったことを、急に思い出した。あれは確か、5月だったのだが、ノロウィルスのせいかなあ。

1981年の 5月、私は仕事で初めて外国旅行というものをした。ドイツのフランクフルトに 5日間ほど滞在し、夜行列車でパリに入った。パリの 2日目、私は同行の日本人数人と、レストランで生牡蠣をたらふく食ったのであった。

パリの牡蠣って、やたらと大きいのである。その大きいヤツにレモン汁をばしばしかけて、じゅるじゅると食う。はてさて、何個食っただろうか。多分、30個や 40個ではきかなかったろう。おいしかったなあ。

さんざん牡蠣を食ってレストランを出ると、パリの街中は大騒乱状態だった。車という車がクラクションを鳴らしっぱなしで走り周り、歩道は浮かれた人たちが大騒ぎしている。いつもの気取ったパリとはまったく様相が違う。

同行の日本人連中は、「一体何があったんだ?」 と訳がわからん状態。そういえば、フランスはその日、大統領選挙だったはずだ。

「こりゃ、きっと、ミッテランが勝ったんじゃないの? ジスカール=デスタンは、大分飽きられちゃってたみたいだしさ」

というわけで、歩道で浮かれているパリのオッサンに、聞いてみた。といっても、私はフランス語ができないから、まず 「エレクシオン?」、そして親指を立てて 「ミッテラン?」、で、下に向けて 「ジスカール?」

すると、オッサン、抱きつかんばかりに大喜びで 「ウィ、ウィ、ウィ!」 と叫ぶ。ふむふむ、なるほど、ミッテランが勝ったらしい。おぉ、どうやらフランスの歴史的瞬間に立ち会ってしまったようだぞ。

そのオッサン、フランス訛りのすごい英語で、「アー・ユー・ア・ソシアリスト? (お前、社会主義者か?)」 ときた。(ミッテランは社会党第一書記だった)

「ノン、ノン」 と答えてはみたものの、そのままでは済まされそうにないから、"But, I hate Giscard." (でも、ジスカールは嫌いだよ) と言うと、本当に抱きついてきた。あの夜、パリジャンは私の嫌いな気取り屋の集まりではなく、まるで、ニューヨークのハーレムにでもいるようだった。

で、その夜はその後にまたひとしきり酒を飲んで、かなり酔っぱらってホテルに帰ったのである。酔っぱらいすぎて、吐き気がしたことは覚えているが、そのまま眠ってしまった。

翌朝、胃がむかむかする。いかん、完全に二日酔いだ。もうろうとした頭でスケジュールをこなす。そして夕方頃から、ひどい下痢が襲ってきた。もう、どこにも出られず、ホテルの部屋 (のトイレ) に籠りっぱなしである。

翌日は飛行機に乗って、帰国しなければならない。下痢が治まらなかったら、どうしよう。

しかし、帰国の朝は、何事もなかったように爽快な気分で目が覚めた。下痢はすっかり治ってしまっている。で、無事に日本に帰って来れたのでる。

私はこれまでずっと、あれは単なる二日酔いで腹を壊してしまったのだと思っていた。しかし、今思えば、ノロウィルスだったのかもしれない。どちらだったのか、今となっては謎のままである。

ところで私は、パリジャンは 「うんこ強い」 と、あちこちで言ったり書いたりしている (ここでも書いている)。 事実、パリの歩道は犬の糞だらけだし、ベルサイユ宮殿にはトイレが少なかったので、ルイ王朝の貴族は、庭で垂れ流しをしていたらしいし。

私がことさらにパリジャンのうんこ強さを強調するのは、あの夜のトラウマのせいもあるのかもしれないと、今気付いた。

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2006/12/14

新聞の 「切り抜き」 というか、コピーしやすさ

新聞記事の 「切り抜き」 なんてことを言うが、今どきは、本当にハサミで切り抜いてしまうヤツなんていないと思っていた。コピー機という便利なものがあるからである。

しかし、どこの会社にも勝手に記事を切り抜いてしまう乱暴者がいる。後から読むやつのことを、全然考慮していない。

本当にもう、コピーしろよ。第一、ハサミで切り抜くなんて、面倒だろうに。それに、新聞紙はすぐに黄ばんでしまうけれど、コピー紙ならずっと長持ちするぞ。

まあ、本当に切り抜いてしまうにしても、コピーを取るにしても、日本の新聞記事というのは、本当にやりにくい。割付が突飛な場合がとても多いからである。

記事をずっと左の方まで読み進み、段が変わると、突然紙面の一番右に飛んでしまうなんてことが、少なからずある。こんな場合、コピーを取るにしても、2度コピーして、切り貼りのようにしてまとめなければならない。

コピーしにくいだけでなく、読みにくくて堪らないのだが、一向に改善されない。これって、日本の新聞の妙ちくりんな 「割付の美学」 によるものだと思う。

日本の新聞の 「割付の美学」 というのは、記事を単純なブロックの中に収めるのをよしとしないようなのだ。視線をあっちに飛ばし、こっちに戻しするような、複雑怪奇な流れにするのが、「美しい割付」 と思われているようなのである。

一つには、記事中に小さな広告なんかを挟みたがることにもよる。こうすれば、広告が目に止まりやすいと思っているのだろうが、そんなことはない。単に邪魔くさいだけである。下手な考え休むに似たりだ。

アメリカの新聞の割付なんかは、よほど単純である。ほとんどボックス型の中に収まっていて、切り抜きやコピーをしても、でこぼこがあまりない。日本の新聞も、余計なことを考えずに、ボックス型の割付にしてくれる方が、ずっとありがたい。

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2006/12/13

3年経って日の目を見たページ

近頃、「知のヴァーリトゥード」 の中の 「和式と洋式 - 便器の形の考察」 というページへのアクセスがやたらと多い。リンク元をたどると、案の定、個人ニュースサイトだ。

しかし、面映ゆいものである。このページは 「ニュース」 なんかでは全然なく、3年 2ヶ月も前に書かれたものなのだ。

内容は、何のことはない、和式と洋式の便器の形から、思いつく限りのことを羅列しているだけの話で、とくにどうということはない。だが、あるニュースサイトでは、「マニアックな考察」 と紹介されている。

そんなにマニアックかなあ。

ことの発端は、トイレの形の違いについて、ある方から BBS に書き込みがあったことだ。高校時代の教師が、「日本人は性質上自分のしでかしたことを確認する傾向がある」 ために、和式トイレの形はあんなになったと教えてくれたというのである。

そう言われると、そんな気がしないでもないが、ここで安易に納得してしまっては、へそ曲がりの沽券に関わる。「そりゃ、おかしいんじゃないか」 と言わなければ気が済まない。

そこで、あんな考察が始まってしまったのだ。つまり、「自分のしでかしたことを確認」 しやすい形状の和式トイレというのは、水洗の普及して以後の、たかだか 50年ほどの歴史しかなく、それ以前は 「ぼっとん式」 だから、確認なんかしにくいじゃないかということだ。

日本人は、戦後になって急に 「自分のしでかしたことを確認」 したがるようになったのか。もしそうだとしたら、戦後民主主義の考察の有力な手がかりになりそうだが、決してそんなわけではあるまい。

いかにももっともらしいお話は、疑ってかかった方がいいという、例証のためのページだと思って頂ければいいのである。決してマニアックな考察をしたわけじゃない。だから、ちょっとフェティシュな傾向のサイトからリンクされたりもしているけれど、それは恐縮の限りである。

それにしても、「石の上にも三年」 とは、よく言ったものである。こうして、3年以上も経ってから、ようやく日の目を見るというページもあるんだなあと、しみじみ感慨に浸っている次第である。

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2006/12/12

「正しい和食」 は高くつく

農水省が世界中の和食レストランを審査して、 「正しい和食」 の認証を与えるシステムを検討しているというニュース (参照) を、私は複雑な思いで受け取ってしまった。

「お役所は、国際的な食文化に口出しするな」 という主張もあるようだが、結局これって、とても単純にドメスティックなお話だと思うのだ。

海外で "Japanese food" という名の珍妙な物を食べさせられて、「これのどこが日本食なんだ!」 と怒鳴りたくなったという経験は、多くの人がしているようだ。ならば、「正しい和食」 のお墨付きがあれば、日本人が渡航先で、安心してメシが食えるという発想は、理解できないこともない。

つまり、ここでしっかりと確認しておくべきは、この制度が 「日本人旅行者が安心して食える保障」 にすぎないんじゃないかということだ。ただ、認証されたレストランの多くは、お金の支払いという観点からすると、全然安心できないような高級店になるだろう。

海外で 「まともな和食」 を食おうとすると、かなり高いものにつく。それは当然で、和食は素材が命だから、希少な高級素材を使わざるを得ない。そして、調理師にしても仲居さんにしても、あまり適当なバイトを使うわけにもいかないから、人件費もそれなりに高くつく。

私に限って言えば、海外に行ってまで和食を食おうという発想がない。20年ほど前に、ニューヨークの 「スシ・バー」 で 「アボガド寿司」 に驚いたが、そんなものは、とっくの間に逆輸入されてしまっている。

ちなみに、この認証制度が、日本人旅行者のためだけでなく、「正しい和食」 の普及のためだとかいうのなら、それはまったく余計なお世話だと思う。こんな権威的な手法をとらなくても、もっと他にやり方があるだろうというものだ。

「パンにしますか、ライスにしますか?」 なんて聞かれるようなレストランが、「正しい洋食」 の店ではないことぐらい、日本人だってわかっている。わかった上で、食いにくいのを重々承知で米の飯を皿に盛り、不器用な手付きで食っている。

だったら、アメリカで供される "soy soup" (味噌汁) が、いかに変てこりんなものであっても、当のアメリカ人が喜ぶなら、それはそれでいいじゃないか。洋食の 「ライス」 ほど変じゃないかもしれない。

アメリカにあまたある "Japanese food" のレストランが 「正しい和食」 を供したとしても、売り上げの拡大にはほとんど結びつかないだろう。日本のカレー屋が下手に 「正しいインド料理」 を始めたりしたら、確実に売り上げを減らすだろうというのと同じことだ。

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2006/12/11

日本て、ものすごい国

先週、金沢出張の帰路、特急はくたかのデッキに、乗客の荷物らしいバッグが 2つ、無造作に置かれているのをみて、「あぁ、日本という国は、ものすごい国だ」 と思ってしまった。

他の国でこんなことをしたら、すぐに盗まれて消えてしまうか、「不審な荷物」 として、車掌に通報されるかのどちらかだろう。

列車が動いている間は、容易には盗まれないにしても、駅について乗客が降りるときなど、ついでに盗もうと思えば、簡単に盗める。しかし誰も盗まず、荷物はいつまでもそこに置いてある。

この国では、リスクをおかしてまで犯罪に走るほどに生活に困っている人は、ごく少ない。しかし、世の中にはとくに生活に困っているわけでもないのに、放置されているものをみたら、当然のごとく自分のものにしたくなるという文化圏もある。放置する方が悪いという発想だ。

日本という国は、長らく定住型コミュニティを形成してきたから、何かが放置してあっても、それは隣の権兵衛さんのものかもしれんから、勝手に手を付けちゃまずいという発想になる。

その代わり、つい最近まで、隣同士で 「味噌が切れたから、ちょっと貸して」 なんていう風習があった。こうした開けっぴろげな定住型社会が、強い犯罪抑止力として機能していて、その遺産はまだ完全には使い潰されてはいない。

ただ、こうした 「のどかな」 社会では、車内に爆発物を仕掛けようと思ったらとても簡単なことである。何しろ、デッキに誰のものだかわからない荷物が置いてあっても、誰も車掌に通報しないのだから。

逆に、この程度でいちいち車掌に通報していたら、日本中の電車はあちこちで臨時停車を強いられて、毎日ダイヤが乱れてしまう。世界で最も正確と言われる日本の鉄道の運行ダイヤは、こうした 「のどかな」 社会に支えられている。

もっとも、私が日本を 「ものすごい」 国だと思ったのは、賛嘆と皮肉が相半ばした感慨である。このままの状況変化が進んでいったら、所有者のはっきりしない荷物が特急車内に放置してあったら、少なくとも 「不審に思う」 ぐらいのことはしないと、リスク・マネジメントは図れないだろう。

今はまだ、幸いな状況にある。この幸いな状況が少しでも長く続いてくれればいいと願う。

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2006/12/10

北陸と東北の差

金沢出張から帰ってきて、あのたかだか人口 50万人にも満たない地方都市の文化の奥行きに、まだ圧倒されている。

ところで、北陸は古来、「越 (こし) の国」 と呼ばれ、それが奈良時代には既に、越前、越中、越後の三国に分割されていた。能登と加賀の二国は、越前から分離されている。

同じように分割されたのは、備前/備中/備後のほか、九州の筑前/筑後、豊前/豊後、肥前/肥後があり、さらに、関東では前後ではなく、上総/下総、上野/下野と、上下で分けられた。

同様に、我が郷里、東北では、出羽国が羽前/羽後、陸奥国が陸前/陸中/陸奥に分けられている。だが、なんと、東北の二国が分けられたのは、明治元年のことなのだ。それまでは、あのだだっ広い東北には、陸奥国と出羽国しかなかったのである。

ずいぶんなことなのである。どうせ辺境の地だから、2つに分けておきさえすれば十分と思われていたようなのだ。奈良時代には越前/越中/越後が独立し、さらに越前と越中の間で、まもなく加賀と能登が独立していたという北陸道とは、えらい待遇の差である。

しかも、わが庄内は、真ん中を流れる最上川を境に、南が羽前、北が羽後に無理矢理分けられてしまっている。同じ庄内平野なのに。

これは多分、幕末の動乱で、庄内藩が賊軍だったため、明治の御一新以後、なかば見せしめ的に不自然な境界線で分けられてしまったのだろう。その後の廃藩置県で、旧庄内藩は再びまとまって、酒田県という県になり、まもなく山形県に吸収された。

こうした歴史を振り返るにつけ、北陸という土地は、やはり都に近かったのである。辺境の出羽や陸奥とはわけが違っていたのだ。それをどうこう言っても、今さら詮無きことだが。

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2006/12/09

ビスタが "95" 以来の大変革?

金沢出張の帰りに買った夕刊フジ 12月 8日付に、山田祥平氏が、ウィンドウズ・ビスタについての記事を書いている。「"95" 以来の大変革」 なんだそうだ。そうかなあ。

私の育った業界誌紙の世界では、普通こういうのを 「提灯記事」 と言うんだけどなあ。どういう利害関係があるんだか知らないけど。

ビスタが 「大変革」 であるとの理由はいろいろ書いてあるが、まとめると以下のようになる。

  1. 11月 30日に東京都内で行われた MS の発表会で、ダレン・ヒューストン代表執行役自らがデモを行なった。
  2. これまでの 5年間、ソフトはセキュリティ確保が最優先課題となり、新製品開発は難産になっていたが、ようやく完成した。
  3. ビスタは過去のソフトや周辺機器との互換性を最大限に保っている。
  4. 最新ハードの性能をフルに発揮する仕組みも盛り込んでいる。

これだけである。これ以上は、どう探しても書かれていない。「大変革」 というには、あまりにも呆気ない。これで、いくら原稿料もらってるんだろう。

代表執行役が自らデモしたというのは、危機感の表れとみることもできるし、開発に 5年間かかったからといって、「それがどうした」 ということになるだろう。

過去の遺産との互換性が保たれるのは当然のことだし、それを完全に行なうには、バージョンアップなんてしないことの方が簡単だ。

さらに、最新ハードの性能をフルに発揮する仕組みといっても、それを求めるユーザーニーズがあるかというのも疑問だ。ほとんどのユーザーは、最新ハードの性能を、フルになんか使っていない。

そして、最新ハードの性能をフルに発揮させるには、わざわざこれまでより重い OS なんて使わない方がいい。せっかくハードが進化しても、新 OS はさらなる重荷を負わせて、スピードを落とすだけとみることもできる。

確かに、ウィンドウズ 3.1 から 95 へのバージョンアップは、大変革といってもいいものだった。しかし、今度のバージョンアップがそれに匹敵するというのは、どうみても言い過ぎだろう。

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2006/12/08

ニフティさんの、とんだ上場祝い

ココログの長時間メンテナンスにより、「今日の一撃」 の更新は、2日間にわたり、はてなブログ のみで行なう変則措置で切り抜けたが、なんと、ココログはバージョンアップに失敗し、元の状態に戻してしまったんだって (参照)。

要するに、53時間もかけたのに、何にも変わらなかったということだ。

昨日、出張した金沢のホテルに戻り、はてなだけにアップしたデータをココログにコピーしようとしたのだが、バージョンアップしたにしては、レスポンスが全然改善されていないので、どうしたのかと調べたら、この体たらくだった。

まあ、ニフティさんお得意の 「メンテナンス、バージョンアップの結果、レスポンスがますます悪化」 というケースよりは、前のままという方がまだましなので、妙な安心のし方をしてしまっているのだが。

ニフティがココログのバージョンアップを 12月 7日の完了予定で開始したのは、もちろん、この日に、東証二部に上場が予定されていたからだろう。上場祝いに華々しく (?) ブログのバージョンアップを成功させて、株価を上げちゃおうという目論見だったのだろうけれど、大失敗で逆効果だったようだ。

結局は、21万円の売り出し価格を下回る 20万3000円の終値となったらしい。でも、この程度で済んでよかったね。ココログの失態がもっと大々的に取り上げられたら、多分 20万円を切っていただろう。

もっとも、ココログのバージョンアップ失敗は、昨日の 15時頃になって初めてわかったことなので、このマイナス効果は今日になって本格的に現れるかもしれない。

このバージョンアップに向けたメンテ自体が、しっかりした確証もなく、単に 12月 7日の株式上場にタイミングを合わせるために見切り発車したものだったとしたら、もともとそれほど大したものでもなかったニフティへの信頼は、ますます地に落ちたといえる。

ココログのメンテというのは、前回のただ一度を除いて、うまくいった例がないので、本当に大丈夫かなあと、不安だったのだが、今回も期待を裏切らず (?) きっちり失敗してみせてくれたわけだ。とんだ上場祝いである。

次はうまくやってね。ニフティさん。

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2006/12/07

「年俸」 の正しい読み方

大リーグに行くことになった松坂選手の年俸が話題になっているが、ラジオを聞いていると、これを 「ねんぼう (nembo)」 と発音するレポーターが多いのがとても気になる。

年ごとの俸給 (ほうきゅう) だから、正しくは、「ねんぽう (nempo)」 である。プロ野球関係のレポーターは、きちんと読んでもらいたい。

憲法が 「けんぽう」、漢方が 「かんぽう」、年報が 「ねんぽう」、連邦が 「れんぽう」、 文法が 「ぶんぽう」、になるのと同じ理屈で、「はひふへほ」 の直前の音が 「ん」 だと、口を閉じた 「M 音」 になり、それに引きずられる形で、次の音が 「P 音」 に変化する場合が多い。

音韻学的にいえば、「はひふへほ」 には、本来濁音が存在しない。「B 音」 は、「P 音」 の濁音であって、「H 音」 の濁音ではない。では、なぜ日本語では 「はひふへほ」 がこんなにも自然に P 音や B 音に変化してしまうのか。

それは、日本語の 「はにふへほ」 は、元々は [PA PI PU PE PO] と発音されていたからだというのが、定説になっている。

古い謎々に、「母には二度会って、父には一度も会えないものは何か?」 というのがあり、答えが 「唇」 であるということはわかっていたのだが、その理由が長い間わからなかった。

音韻学研究によって、上代においては、「母」 は [papa] と発音されていたということがわかり、なるほど、この発音をすれば、唇が二度閉じられるから、「二度会う」 のだということになった。

「月報」 や 「日報」 など、促音の後の H 音が P 音になるのはまだ自然としても、「ん」 の後までそうなる必然性はないように思われるが、実際には、とても自然な無意識の先祖返りで、そうなってしまうのだ。

ちなみに、「父」 の古い読みは [chichi] ではなく、[titi] (てぃてぃ) である。だから今でも、伝統芸能などでは 「父親」 が 「てておや」 なんて読まれたりする。

話は戻るが、「年俸」 を 「ねんぼう」 と読んでしまう人は、漢字の方も 「年棒」 か何かだと、間違えて覚えてしまっているのではなかろうか。そういえば、野球は中国語で「棒球」 と言うらしいが。

【平成 20年 1月 9日 追記】

半ば冗談で "漢字の方も 「年棒」 か何かだと、間違えて覚えてしまっているのではなかろうか" なんて書いたのだが、冗談じゃなかったようだ。

ふと思いついて 「年棒」 でググって見たら、391,000件もヒットした。トップの 2件は 「年棒」 が誤字であることを指摘したものだが、それ以下のほとんどは、マジに 「年棒」 だと信じて書かれている。

中には 「残業あれこれ【-7-】年棒制の場合の残業」 なんていう解説をしている社会保険労務士までいらっしゃる。この人、 「労働基準法の解説 年棒制について」 なんて別のページも書いているから、本当に正しい表記をしらないみたいなのだ。こんなんで大丈夫なのかなあ。

あ、それから、元プロ野球選手の解説者が 「ここは 『送りバンド』 の場面でしょう」 (正しくは、もちろん 「バント: bunt」) なんていうのも、かなり恥ずかしいなあ。朝日新聞まで、自ら主催する甲子園野球関連の記事見出しに 「バンド対策に集中」 なんて書いちゃったりしてるし。

これ、そのうち消えちゃったらもったいないので、スクリーンショットにしてとっておくことにする。

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2006/12/06

「スルー力」 の頃合いは難しい

「するーか」 って何のことかと思ったら、「するーりょく」 と読むんだって。

「スルー力」 - うむ、これはなかなかの新語だ。 ただし、ちょっと表記が今イチだ。「カヌー」 という文字を見て、「ちからまたいち」 なんて読んじゃった、私の母のような人もいることだし、紛らわしさは避けられない。

「スルーする」 という言い方を最近よく聞くけれど、これって、もちろん和製英語だ。英語の "through" は動詞じゃない。"go through" とか "drive through" とか、他の言葉と組み合わせられて、始めてまとまった意味をもつ。

本来の英語を使うとしたら、ignore とか disregard とかが、日本語化した 「スルーする」 に相当するんだろうなという気がする。Neglect というのは、意図的というより、うっかり見落としちゃったみたいなニュアンスもあるので、ちょっと違うと思う。

とすると、「スルー力」 は、"ability to ignore" と言ったらいいのだろうか。「無視する能力」 あるいは、「知らんぷりする能力」 とでも直訳したらいいだろう。

英語に "Ignorance is bliss" という言い回しがあって、日本語の 「知らぬが仏」 に当たると言われているが、本当のところはどうなんだろう。

「知らぬが仏」 は、本当に全然気付かないので、天真爛漫にのほほんとしていられるのだが、英語の方は、余計な関わりを持たないでいるのがいいというニュアンスが感じられる。同様に、スルー力は十分に意図的なものである。

スルー力が強い人は、自分は傷つかないかもしれないが、相手に対しては冷たすぎるということになる。何しろ、何を言っても反応してくれないのだから。しかし、スルー力が弱いと、誠実すぎて、自分がダメージを負う。下手すると、いじめられっ子になりかねない。

一般的には、スルー力が強すぎると 「傲慢」 になり、弱すぎると 「脆弱」 になってしまうと言っていいだろう。

私は、自分のブログでは全てのコメントにレスを付けるように心がけているが、それでも、反応のしようのないコメントというのもある。あるいは、執拗なコメントにまめに反応しすぎてうっとうしくなり、最後には爆発してしまったことも過去に一度だけある。

「スルー力」 の頃合いは、かなり難しいもののようだ。

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2006/12/05

県会議員候補者はモー娘と変わらない

来年春は統一地方選挙があって、多くの県で知事や議員の選挙になるようだが、わが茨城県は一足早く今月 10日が県会議員選挙で、一部の人たちは異常に盛り上がっている。

あちこちの広場や駐車場で、なんとか決起集会が行われていて、ありとあらゆる縁者が動員され、気勢 (奇声?) を上げている。

ただ、奇声を、じゃない、気勢を上げているのは、元から地元に住んでいる人たちばかりで、他から移住してきた、いわゆる 「新住民」 の多くは、候補者の誰が誰やら区別が付かず、ただ呆然としているだけだ。

本当に、候補者の区別がつかないこと、モー娘 (「モー娘。」 と書くんだっけ?) を見ても誰が誰やらさっぱりわからないのと同様である。ありゃ、「モーおじ。」 か?

というわけで、この県会議員選挙というのは、最も投票のモチベーションが上がらない。

国政選挙や、町長、町会議員 (おっと、今年からウチの地元も、市長、市会議員選挙になったのだな) の選挙なら、まだ何とか、候補者の 「顔」 が見えるような気もするが、県会議員というのは妙に中途半端だからこそ、新住民にはものすごく遠い。

ただでさえ、距離を感じているのに、まともな情報も伝わってこない。先月末は、事前運動ギリギリの  「後援会員勧誘」 を名目とした家庭訪問が盛んに繰り広げられていたが、少しばかり話を聞いても、さっぱりわからない。

戸別訪問する方も、事前運動ギリギリと意識して腰が引けているから、あまり具体的なことは言わない。「いい人」 とか、「誠実な人」 とか、「地元のために働いてくれる人」 とか言うばかりである。全員そうなので、判断材料にはならないのである。

それに、ただでさえ投票率が低いのだから、中身は固定票と組織票ばかりである。ほんの少しの浮動層は、まともな情報を求めているが、届くのは候補者名の連呼ばかりである。

これでますます投票のモチベーションが下がり、投票率の低下に拍車がかかり、組織票に支えられたお約束の顔ばかりが当選することになる。

地方選挙の投票って、私にとっては、投票率を落とさないための義務感で行くだけのような気がする。利権がらみで盛り上がってる人たち以外には、本当につまらない。

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2006/12/04

大きな組織の小さなイベント

政府主催のタウンミーティングで、平成 13年度の人件費などはかなりの大盤振る舞いだったことが明らかになった (参照)。

要するに、大きな組織が小さなイベントを行おうとすると、広告代理店の食い物になりやすいということだ。本来の目的から外れて、単なる 「イベント」 と化してしまう。

私は 11月 11日に "共産党は 「やらせ質問」 したことないのか" のエントリーで、この種の 「イベント」 に、たっぷり皮肉を書いているのだが、中身が知られるにつれて、皮肉だけでは済みそうにない印象になってきた。

こうしたイベントは、シンプルにこなそうと思えば、いくらでも安上がりに済ませることができる。しかし、担当者としては、そうする気は元々なかったようなのだ。電通なんていう高コスト体質の企業を随意契約で起用して、格好付けたイベントにしたかったらしい。

政府という大きな組織が、ローカル単位の小さな複数のイベントを主催しちゃったら、どう考えても、間にいくつもの業者が入って、とても非効率なものになるというのは、ちょっと考えればわかることだ。

問題は、そうした非効率を承知の上で、どうしてもやらなければならないと、当事者が思い込まされてしまったということである。とても弁舌巧みなプレゼンターがいたということだな。

この種のケースの最も大きな問題は、質問にやらせがあったかどうかなんていう細かいことではない。そもそも、タウンミーティングそのものが、周到に段取りされた 「やらせ」 だったわけだ。

私としては、もしかしたら、このタウンミーティングの原案自体が広告代理店作成のシナリオだったのではないかと疑っている。というか、多分そうだったんじゃないかと、確信している。つまり、テレビ番組と同じような感覚で作り上げられちゃったということだ。

第一、教育問題に関するタウンミーティングが、そんなにあちこちで何度も行われたということ自体、私なんかちっとも知らなかったことだし、フツーのオッサンやオバサンのあずかり知らぬところで、もっともらしい既成事実作りが、分不相応な大金をかけて積み重ねられていたということである。

参加者の動員は、浮き世のしがらみでできることなのだから、プロモーション費用がかからない。そうなれば、予算の多くは 「事務局」 内部で取り放題という、とてもおいしい企画だったわけだ。

既成事実作りのための 「やらせ」 というさもしい発想だったのだから、そりゃあもう、食い物にもなるわ。

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2006/12/03

ウェブサイトの寿命

PLC というのがある。ここでいうのは、電力線を使ってインターネットに接続できるというパワー・ライン・コミュニケーションではなく、プロダクト・ライフ・サイクルという概念だ。

マーケティングを学ぶと、最初に、製品には寿命があると教わる。どんな製品でも、成熟期を過ぎると、衰退に向かう。

ウェブサイトにも、いろいろな製品と同じく寿命があるという発想がある。有名なところでは、「個人サイト 4年寿命説」 というのがある。個人サイトというのは、大体 4年も経過すると、更新が滞りがちになり、下手すると消滅してしまうというものだ。

個人サイトの寿命が本当に 4年なのかどうかは別として、確かに、かなり長い間巡回し続けていたサイトが、全然更新されなくなって、寂しい思いをしてしまうことがある。ざっくりとした印象では、3~4年もすると、そうなってしまうことが多いということのようなのだ。

私の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 は、平成 14年 1月 16日にスタートした。「今日の一撃 (Today's Crack)」 の毎日更新を始めたのは、そのほぼ 2ヶ月後の 3月 17日である。だから、私は魔の (?) 4年目は既に通り過ぎている。

ほぼ毎日更新 (とくにここ 3年ほどは、掛け値なしに毎日更新) を続けて、5年近くになっているのだから、長寿とまでいえるかどうかはわからないが、短命に終わっていないのは確かである。

ウェブサイトが短命に終わる原因の一つは、ある一定のテーマを志向しすぎることだと思う。傾向が定まってしまうと、固定読者は安心して巡回してきてくれるだろうが、どうしても、書くことがなくなってしまうか、いつも同じようなことを書き連ねてしまうかの、どちらかになってしまう。

私の場合は幸いにも、最初からテーマを限定しないで、何でもあり (何しろ、ヴァーリトゥードなのだから) というコンセプトでスタートしたから、毎日毎日、何かかにか、書くことが見つかってしまうというところがある。

振り返ってみると、私のサイトは、何となくテーマが循環しているように思う。時事問題に大きく振れたかと思うと、いつのまにか、ウンチク話が続いたりする。そうかと思うと、時々柄にもなく IT を論じたり、急に宗教論が多発したりする。これで硬直化せずに済んでいる。

しかし、数ヶ月周期のローテーションが何度も続くと、それ自体が 「硬直化」 ということになる。それが続くと、私のサイトも寿命を迎えるということになりかねない。そうなったら、また何か新機軸を考えよう。

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2006/12/02

谷間シーズンの道路工事ラッシュ

昨日は夜 10時頃に、12時間近くの運転の果てに自宅にたどり着いて、ばったりと寝てしまい、今日は今日で、和歌ログの 3周年の書き込みをしていたので、こっちの方の更新を危うく忘れるところだった。

いっそ今日はパスしようかとも思ったが、連続交信記録を一応継続させておこう。

高速道路は走っていてつまらないので、なるべくならば一般道を走ることにしているのだが、昨日はあちこちで道路工事中がやたらに多く、果てしない片側一方通行の連続で、予想以上に時間がかかってしまった。

山形県、福島県、栃木県、茨城県の 4県を通ってきたのだが、どの県でも工事中が多い。これは、どうみても緊急に必要な工事というのではない。予算消化の関係上、今の時期に集中的にやっておこうという意図がみえみえだ。

一時は、3月の年度末にかけて、道路工事が集中したが、最近はそれほどでもなくなった。だが、どこかで予算消化工事をしなければならないから、それが今の時期にシフトしてしまっているのだろうと思う。

あまり 12月下旬までかかると、帰省ラッシュの障害になるから、遅くとも月の半ば頃までには終了させてしまおうということなんだろう。なかなか大変なことである。

山形県の月山の中腹を走る国道 112号線 (通称 六十里越街道) などは、雪がしんしんと降っていて、気温は 0度と表示されていた。その寒さの中で、旗を振って交通整理をしている人は、それはもうまん丸に近いほど着ぶくれていた。あのくらい着込まないと、寒くてやってられないんだろう。

こんなに寒くない時期に工事をすればいいと思うが、それだと、紅葉狩りの観光シーズンに重なってしまうのだろう。一番文句の出ない時期というのが、11月末から 12月初旬という谷間のような時期になってしまうのだろうなあ。

それにしても、民間企業では節約をすれば褒められるのに、お役所というところは、無駄な工事だろうが、お金を使い切らないと怒られてしまうのだから、こんなことになってしまう。複雑な思いがするなあ。

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2006/12/01

サンタクロースは、本当にいるんだから!

今日から 12月。そろそろ私のとっておきのページのプロモーションをさせていただいてもいい頃だと思う。

1年以上の常連さんは既にご存知だろうが、「サンタクロースは本当にいる」 という、私のサイトの中では自分でも信じられないほど、最も美しい言葉が踊るページである。

「サンタクロースって、本当にいるの?」 と子供に聞かれて、返事に困る親は多いと思う。だが、私は自分に子供が生まれる前から、この質問に対する答えをしっかり用意しておいた。

それは、自分の子供に言うために、こねくりあげて作った答えというわけではない。ただ単純に、私自身がしっかりとそう信じられたから、大切にしたというだけなのだ。サンタクロースは、本当にいるのである。

たとえ、子供に上げるプレゼントは、親がデパートで買ってきたものであったとしても、「そうらみろ、やっぱりサンタクロースなんていないんだ」 というのは、暴論である。

お父さん (あるいはお母さん、または、それに代わる人) が買い物してきたものだから、サンタクロースなんていないなんていうのは、想像力の欠如も甚だしい。目に見えるものしか信じないというのは、「心」 というものの偉大さを知らないものの言い草だ。

誰がどこで買い物してきたものであったとしても、それは、ちゃんとサンタクロースからの贈り物なのである。

詳しいことは、こちら を読んでいただきたい。

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