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2007年2月に作成された投稿

2007/02/28

大丈夫か、Google?

私はずっと、Yahoo よりも Google の検索機能に大きな信頼を寄せてきた。本宅サイトである 「知のヴァーリトゥード」 でも、サイト内検索に Google を使わせてもらっている。

しかし近頃、この信頼に陰りが生じている。どうも、Google がトロく感じられ始めたのだ。それはどうやら、私だけではないらしい。

CNET Japan が、「グーグルに苦情を言ったら逆に脅された--あるサイト運営者の話」 という記事を載せている。(以下、引用)

新たに開設したウェブサイトがなかなか検索結果に反映されないので、Googleに苦情を言ったところ、そのサイトをブラックリストに載せてやるとの脅しを受けた--半導体業界専門の調査会社VLSI Researchの会長を務めるDan Hutcheson氏が、ニュースマガジン「The Chip Insider」の中で明らかにした話だ。

記事によると、以前の Google は、電話での苦情にも快く対応してくれていたのだが、最近は、「調査対象となるサイトがあまりにも多いため検索エンジンの処理が追いつかない」 との理由で、なかなか対応してくれなくなったというのである。

さらに、件のサイト運営者は、「おかしな話だが、Yahoo はわれわれのサイトをさっさと見つけ出してくれて、こちらの方がよっぽど信頼できる」 とコメントしている。これは、確かにいえる傾向だと思う。

私が母校である 「酒田東高校校歌」 のページを作ったのはごく最近のことだが、Yahoo はほぼ 5日後ぐらいに見つけ出してくれて、このキーワードでの検索結果のトップにランクしてくれた。ところが、Google が見つけ出してくれるまでには、ほぼ 2週間かかった。

これだけではない。最近のブログ記事が検索結果に載るのは、ことごとく Yahoo の方が早いという印象を持っている。Google の検索エンジンは、Yahoo の Inktomisearch に比べて、サボりがちなのではないかと思ってしまうのである。

一部では、アクセス解析の結果を見ると、Inktomisearch のアクセスが頻繁すぎて気味が悪いなどといわれているほどで、とにかくこの検索ロボットはめちゃくちゃ巡回しているようなのだ。

件の記事では、Google の検索エンジンがサボりがちなのに、それにまともに向き合おうとしない態度を、「企業の成長がピークを過ぎているのに、高い株価を維持するために無理をして成長を続けようとしているしるし」 としている。

Google は近頃、オンラインでのオフィス・プログラムの提供など、検索以外の業務に進出して、より包括的なウェブサービスを志向しているらしいが、そのせいで本業が半端になっては、本末転倒だ。大丈夫か、Google?

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2007/02/27

「俺の身内を勝手に追悼するな」 という理屈

「靖国神社の合祀取り消し求め、韓国人が提訴」 というニュース (参照) は、なかなかビミョーである。諸々の政治的要素を差し引いて、核心部分まで突き詰めると、「俺の身内を勝手に追悼するな!」 ということだからだ。

少なくとも我が国には、「他人を勝手に追悼してはならない」 なんて法律はない。

良くも悪しくも、現在の靖国神社というところは、一宗教法人であって、国家に属する政治的な組織ではない。だから、A級戦犯が合祀されているのが気にくわないのなんのといっても、一宗教法人の裁量だから、過去のいきさつはさておいて、純粋に現在の法的視点からは、周りがどうこう言うような筋合いではない。

で、同様に、「お前が勝手に俺の身内を追悼するのは気に食わんから、するな!」 と言っても、「そうはおっしゃっても、追悼しないではこちらの気が済まないので、追悼させて頂いております」 と言われれば、それ以上は何も言えない。

世の中には、親の位牌を遺族の誰がもって供養するかでもめる (というのは表面上で、要するに、その実は遺産争いがほとんどのケース) なんてことがあるのだが、靖国神社の場合は、位牌やお骨を祀るわけでもなければ、お墓を建てるわけでもない。一律に玉串料を要求するわけでもない。ただ名簿に記して、追悼するだけのことである。

つまり、勝手に拝んでいるだけなのである。追悼したり供養したりするのは、する側の自由としか言いようがない。

例えば、殺人犯が刑務所内で、自分が殺した人間の供養のために毎日お経をあげ始めたからといって、遺族が 「親の敵に勝手に供養されるのは精神的苦痛だから、慰謝料寄こせ」 なんて訴訟をしても、通らないだろう。

追悼だの供養だのというのは、遺族だけに独占権があるわけじゃないのだ。そして、どんな流儀で追悼したり供養したりするかというのも、する側の裁量だ。坊さんが陰ながらクリスチャンの供養をするなんてこともあるし、坊さんの追悼を牧師がすることだってあるだろう。

要するに、追悼や供養をせずにはいられないという気持ちの問題である。

韓国の遺族としては、かなりむかっとくるほど気にくわないことなのだろうし、その気持ちもわからないじゃないが、法的にどうこうという次元の問題じゃないんじゃなかろうか。

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2007/02/26

「人権メタボ」 はうまい言い方かも

「日本は同質的な国」、「人権メタボ」 という伊吹文科相の発言が話題になっている (参照)。柳沢厚労相の時みたいに、寄ってたかって叩かれる雰囲気になっていないのは、言葉センスがずっとマシなためだろう。

「人権メタボリック症候群」 なんて、なかなか秀逸な造語じゃないか。

「大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。極めて同質的な国」 という発言については、「大和民族」 の定義がかなり漠然としている以上、誰も表立っては噛みつくことができないだろう。

それに、中曽根さんのように 「日本は単一民族」 と言ったわけでもなく、「同質的」 という言い回しなのだから、なるほど、表現がセンセーショナルな割には、リスクは小さい。ある意味、賢い言い方だ。

「人権メタボリック症候群」 という言い方も、なかなかセンスがある。いかに人権論者であるといえども、ちょっと反論しにくいところがある。うかつに噛みつこうものなら、「ヒステリックな反応」 呼ばわりされそうだ。

「○○メタボ」 というのが、流行語になっちゃうかもしれないと思ったほどだ。柳沢さんも、少しは伊吹さんに言葉の使い方を学んだらいいのにとまで、一瞬思ったが、これは 「言葉センス」 の違いだから、ちょっとやそっとで学べるものじゃないかもしれない。

柳沢さんが付け焼き刃で変な言い回しなんかしたら、聞く方は悶えちゃいそうだから、止めた方がいいだろう。

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2007/02/25

テクノラティの検索キーワード、ベストテン

時々、ブログ検索サイトの 「テクノラティ」 を利用しているのだが、私はこのサイトのティピカルなユーザーとは、かなりかけ離れているのではないかと思うようになった。

というのは、トップページにある 「今、最も検索されているキーワード」 というのを、私はほとんど知らないのである。

例えば、昨日の午後 7時頃に表示されていた検索ワード・ベストテンは、次の通りだった。(あなたは、いくつご存知だろうか?)

   1. わるいやつら
   2. ニコニコ動画
   3. エコクラフト
   4. ホワイトプラン
   5. 705NK
   6. E61
   7. Youtube
   8. Xfy
   9. Rimo
  10. 三洋電機

この 10個のキーワードの中で、私は 7位の Youtube と 10位の三洋電機の 2個しか知らないのである。他の 8個は、「???、何、それ?」 という感じなのだ。自分がいっぺんに時代遅れのじじいになってしまったようで、愕然としてしまう。

で、あせって調べてみると、1位の 「わるいやつら」 は、テレビ番組のタイトルだった。大昔に同じタイトルの松本清張の小説があったなと思っていたら、なんだ、そのテレビドラマ化か。あまりテレビを見ないし、松本清張ファンでもないので、スルー。

2位の 「ニコニコ動画」 は、近頃よくネット上で目にするので、何のことかと思っていたら、動画でチャットできるというサイトらしい。おもしろくないコンテンツでも、寄ってたかってツッコミを入れると、おもしろくなるんだそうだが、現在 DDoS攻撃を受けて休止中だとか。再開されたとしても、そんなのに深入りするほど暇じゃないので、これも、スルー。

むしろ、ひろゆき氏との関連で、どんな経緯でトラブルが発生しているのかということの方が、興味深い。単に Youtube にタダ乗りしてるだけなので、ムッときた Youtube 側がアクセス拒否してるだけという説もあるようだし。

3位の 「エコクラフト」 というのは、ハマナカという会社のエコ素材を使ったクラフトのことらしい。エコには興味あるけど、「エコクラフト」 となると、まあ、スルーしておこう。

4位から 6位を占める 「ホワイトプラン」 「705NK」 「E61」 は、いずれもケータイ関連。へぇ、テクノラティ・ユーザーには、ケータイというのは、かなり重要なテーマなのだな。だが、私はケータイに深入りする気は全然ないので、スルー。

8位の 「Xfy」 は、ややこしそうなテクノロジー用語だ。XML を簡単に編集できるらしい。将来的には必要になるかもしれないので、記憶には留めておくが、今のところはスルー。

9位の 「Rimo」 は、はてなのサービスで 「リィモ」 と読むらしい。「YouTube に掲載されている人気の動画から約1日おきに新しい番組プログラムを生成、配信する」 んだそうだ。ふぅむ、これなら、たまに暇なときに見てもいいかなという気がする。今回の収穫といえば、これぐらいかな。

でも、これも Youtube ただ乗りということで、「ニコニコ動画」 の二の舞を踏まないのかな。それとも、それほどのトラフィックじゃないので、お目こぼしなのかな。しばらくウォッチしてみよう。

ふぅ、それにしても、私も若い頃はずいぶん新しもの好きだったはずなのだが、人間というのはこうしてだんだんと時代から遠ざかっていくのだろうか。それとも、べつにそんなのは気にしないで、自分の得意分野を極めていけばいいのだろうか。

いずれにしても、最近の話題をあまり知らなすぎるというのも問題だから、たまにはテクノラティのベストテンにきちんとあたって、脳内の普段使わない筋肉にちょっとした負荷を与えてみようと思う。

結局のところ、それで鍛えられるのは 「スルー力」 だけかもしれないが。

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2007/02/24

はたして中国人は、行列に並べるか?

北京オリンピックを目前に、中国では今、政府主導で公衆マナー向上に取り組んでいるという。毎月 11日を 「整列乗車の日」 と定めたのだそうだ。 (参照

「11」 という字が、人が並んでいるように見えるということからこの日に決めたそうだが、効果を上げるには、手間がかかりそうだ。

「外国人に評判の悪い中国人の日常的な割り込み行為や往来でのたん吐き、ごみのポイ捨て、汚い言葉での罵りあいなどの追放運動で、ボランティア動員などによる街頭キャンペーンを繰り広げている」 というのだが、監視のボランティアがいなくなると、すぐに割り込みし放題に戻るらしいのだ。

問題は、中国人自身が、自分たちはマナーが悪いなんてあまり感じていないことのようなのである。「一体、何がそんなにいけないのか?」 ぐらいに思っているか、あるいは、自分だけ行儀良くしていたら、馬鹿を見ると感じているのだろう。

中国人が決して列に並ばないというのは、今や国際的に有名になっていて、中国内でやっている分にはいいのだが、今や外国に旅行してまで、世界各地で盛大に割り込みを演じてみせて、ヒンシュクを買っている。

ただ、私も昨年の 5月にそれについて触れている (参照) のだが、中国人の中でも少しは周囲の空気を読める層が生じてきていることに、やや期待を込めた書き方をしている。

広島駅の新幹線ホームにいた中国人の一団の、半分は猛烈な割り込みをしてみせて、日本人はただ呆れて眺めているしかなかったのだが、残りの半分は、日本では列の最後尾に並ぶのが常識のようだと学んだ形跡がみられたのだ。

私は件のエントリーを、"中国人のおよそ半分を占めるらしい 「空気を読める層」 が、今後増加してくれることを望まずにはいられない。それが国際平和を守ることになると、私は確信する" という文で結んでいる。

他国に来てまで半分しか空気を読むことを学ばない人たちだから、自国にいてどうなるかはわからないが、ここは期待するしかないのである。半分しか学ばないとみるか、半分も学ぶのだとみるかの違いである。私は楽観的すぎるだろうか。

まあ、いずれにしても、来年までというのは無理だろうけど。【参照:上海市民交通バトル】 (よくみると、ちゃんと信号はあるのだね)

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2007/02/23

「ホッピー」 というものを試してみた

ホッピー」 なる飲み物があるということは、何十年も前から知っていたが、なぜかこの年まで飲んだことがなかった。で、急に思い立って、飲んでみることにしたのである。

「ホッピー」 とは、基本的に清涼飲料水である。だが、アルコール分が 0.8%含まれていて、見た目はもろにビールのようなのだ。

いわば、ノンアルコールビアの草分けのようなものである。ただ、オッサンたちがゴルフ帰りにアルコール抜きの乾杯をするためというニーズには、ほとんど適用されない。0.8%とはいえ、アルコールが含まれていないわけでもないし。

ホッピーのニーズというのは、酔わないためというよりは、安上がりに酔うためということにある。酔わないためにアルコール抜きなのではなく、安上がりにするためにアルコールを抜いてあるのだ。飲むときに焼酎を加えて、「ビールのようなカクテル?」 に仕立てるのである。

「ホッピー」 という名称は、元々の清涼飲料水の商品名であると同時に、焼酎を加えて酔えるようにしたカクテルの名称でもある。搾菜 (ザーサイ) が野菜の名前であると同時に、その野菜を原料にした漬け物の名前でもあるようなものだ。(我ながらいい例えである)

私が昨日用意したのは、西友で買ってきた 「ホッピー 330」 (330ml、121円) と、宝焼酎 の 「タカラカップ」 (アルコール 25%、220ml、183円)。合計 304円だが、焼酎は半分ぐらいしか使わなかったので、小ジョッキ 1杯で、実質 215円ぐらい。

これらを冷蔵庫で冷やして、ついでにジョッキも冷やす。この作法を 「三冷」 というらしい。そして、まず焼酎を半分ちょっとぐらいジョッキに注ぎ、次いで、ホッピー 1瓶をどばっと勢いよく注ぐ。

本当は 焼酎 1 にホッピー 5 の割合がいいらしいのだが、ついなりゆきで、1:3 ぐらいになってしまった。で、ご覧の通り、見た目はもろにビールだが、アルコール度数はざっと計算すると、約 7%と高めである。

おそるおそる、一口飲んでみる。思ったほどへんてこな味ではない。それどころか、その辺の発泡酒なんかよりは旨い。本物のビールのようなコクとかキレとかとは無縁だが、口当たりがよくて飲みやすい。つまみは、バタピーとか柿の種とか、安っぽい乾きものが合いそうだ。でなければ、モツ煮込みとか。

あまりの飲みやすさに、二口めはほとんどイッキ飲みで開けてしまったのだが、さすがにベースは焼酎である。しかも、ビールの倍ぐらいのアルコール度数にしちゃったので、その後、5分ぐらいして、「ありゃ?」 と思うほどの酔いが急にきた。ビールの酔いは緩やかにくるが、ホッピーの酔いは急に来る。

白状するが、このおかげで、昨日の当コラムの更新はちょっとだけ難儀だったのである。

これさえ注意すればなかなかオツなものだが、単に値段だけを考えれば、今やホッピーより発泡酒の方が安上がりなぐらいである。ホッピーは、単なる安上がりに酔える酒というより、今や、趣味の酒という意味合いももちつつあるのかもしれない。

ちなみに、雑誌 「酒とつまみ」 編集発行人、大竹聡氏の 『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』 という本がある。書店で見つけたら読んでみよう。この本について、著者自らラジオで語っているのは、こちら (Podcast で音が出るので注意)。

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2007/02/22

「おふくろさん」 騒動の読み方

森進一が 「おふくろさん」 の歌い出しで 30年来やってるクッサいセリフ (業界用語で 「バース」 というらしい) の件で、作詞者の川内康範氏ともめているのだそうだ (参照)。

著作権については、解釈次第でビミョーなところだろう。それよりも、この騒動、いろいろな見方をすることができる。

まず、著作権についての考え方だが、上記で紹介したサンスポの記事中で板倉宏教授が述べているように、著作権法では 「著作物の同一性を守る権利が認められており、著作権者が認めていないのに歌詞にない言葉を足すことは著作者人格権の侵害にあたる」 ということがある。

しかし、「おふくろさん」 のクッサいセリフについては、「歌詞の改変」 というよりは、「前振り」 みたいなものと解釈することもでき、いわば、歌謡ショーの司会の浜村淳の名セリフを自前でやっているようなものと言ってしまえば、目くじらを立てることもないだろう。この点で 「ビミョー」 というしかない。

首をかしげてしまうのは、川内康範が、直接問題視している 「おふくろさん」 以外にも、自分の作詞した歌は森進一に歌わせないと言っている点だ。作詞家は、「改変した歌を歌わせない差し止め請求」 をすることはできるが、他の歌まで歌わせないというのは、少なくとも法律的にはやりすぎだ。

川内氏がここまで言い出すことの背景は、歌謡曲というのは、作詞家・作曲家先生が、歌手に 「下賜」 するものだという風潮である。この世界では、歌手は師匠からありがたく押し頂いた (あるいは押しつけられた) 歌を歌うもので、歌うにあたっては、自由な解釈をしちゃいけなもののようなのである。

最近では、自分で作って自分で歌うのが当たり前になっているので、ちょっと理解しにくいことだが、以前は、日本の音楽業界では、カバーバージョンをレコーディングすることすら、なかなか大変なことだったようだ。「○○先生が△△に賜った曲」 ということで、いわば師弟による暗黙の独占権が認められていたのである。

だから、今回の問題も、作詞家先生がヘソを曲げてしまうと、「俺の歌は、あいつには歌わせない」 なんてことになる。要するに 「破門」 だ。

ビジネスライクに考えれば、著作権料さえ払えば誰が何を歌おうと勝手なのだが、日本の芸能界というのは、なかなかそうは行かないもののようなのだ。破門されちゃうと、師匠に頂いた歌を歌うことができなくなる。素人はカラオケでいくらでも歌えるのに。

そして、今回の問題には、単に著作権の視点ではない読み取り方もあるようなのだ。何だかややこしい話だが、前妻である森昌子側の陣営がプレッシャーをかけているというのである。

これについては、あんまり馬鹿馬鹿しくて書く気にもなれないが、まあ、あり得る話ではあるのだろうね。なかなか面倒く、付き合いきれない世界のようなのである。

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2007/02/21

Vista の売れ行き

Windows Vista の売れ行きがあまりぱっとしないようである。私が何度も書いている (代表的なのは、これ) ように、当たり前の話だ。

販売の中身も、パッケージよりは、OS の交代を前に買い控えていた層が、Vista のプレインストールされた PC を一斉に買いに出たという代替需要によるものが大きいようだ。

これにしたって、積極的に Vista を求めたというよりは、OSが変わるなら変わるまで待ってから買った方がいいだろうぐらいの、かなり受動的な態度と言った方がいいだろう。お古になるのがわかっている商品を、高い金を払って買う消費者は少ない。

しかし、私としては Vista のプレインストールされた PC を買うのも、手持ちがよほどのお古でなければ、もう少し先に延ばした方がいいと思う。というのは、現状の一般的な PC のスペックならば、XP の方がずっとサクサク動くだろうからだ。

似たようなスペックのハードウェアに載っけるならば、より軽い OS の方がいいに決まっている。ましてや、ウィンドウが半透明や斜めになって、回転するように表示されるという程度の機能のためにサクサク感を犠牲にするのは、かなり馬鹿馬鹿しい。

ここは、ハードウェアのスペックがもう少し向上するのを待ってから買う方が、利口というものだ。バグ・フィックスの問題だってあるし。個人的には、Vista がストレスなく動くスペックのハードウェアで XP を動かしたら、さぞかし軽快に動くだろうにと、何となく口惜しい気までするのだが。

ハードがいくら進歩しても、ソフトの方が要らぬ機能で臑をかじっていては、いつまで経っても小気味の良いサクサク感は得られない。

私は時々、今のスペックの PC で MS-DOS (GUI をお望みならば、Windows 3.1 でもいい) を動かしたら、さぞかし超速だろうねと冗談を言うことがある。「押されたエンター・キーが元に戻る前に、結果が表示されちゃうだろうね」 なんて思うのだ。

一般的に言えば、Windows 2000 以後の OS のバージョンアップなんて、よほどの PC おたく以外には、面倒な押しつけとしか感じられない。好きで使っているというより仕方なく PC  を使っているユーザーにとっては、せっかく慣れたばかりの XP から新しい OS に移行しなければならないというのは、余計な負担である。

私なんぞは、かなりのヘビーユーザーだという自負があるが、それでも、Windows 2000 と MS-Office 2000 の組み合わせをメインにすれば、今でも何の不便もなく十分に仕事ができると思っている。XP になって本当にありがたいと思ったことなんて一度もないし、Vista になっても、多分同じだろう。

一部では、MS の提供する PC の OS は、今回の Vista が最後になるだろうなんて噂されている。おぉ、そうなってもらいたいものである。OS なんて、もはやコモディティとしての位置づけで十分だ。セキュリティは、ノートンやウィルスバスターなどに任せればいいじゃないか。

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2007/02/20

mixi と My Space の違い

IT Media News に、My Spac eと mixi の違いは 「わたし」 対 「わたしたち」 という文化の違いだという記事が出ている (参照)。

日本発 SNS で一人勝ちする mixi が 「わたしたち」 という意識に立脚しているなら、アメリカ発 の My Space の雰囲気は、徹底して 「わたし」 の発信にあるというのである。

こんな記事を読んでしまったからには、本当にそんな感じなのかなあと、確かめたくなるのも人情というものだ。で、勢いで My Space に登録してしまった。My Space は mixi と違って招待制なんてものを取っていないので、いとも簡単にメンバーになれたのであった。

私はこれでも mixi の会員である。ululun さんに招待していただいちゃって、ものは試しと会員になったのだ。

ところが mixi の雰囲気には何となくなじめず、徹底的に非アクティブなまま、ほとんど放置状態だ。私のサイトにリンクされたコミュニティの発言だけは、どんな言われ方をしてるのか確認するために、アクセス解析をたどって、ちょっと覗いてみたりする程度である。

で、新しく登録した My Space だが、個人的には、mixi よりは、まだなじめそうな印象をもってしまった。

どんな雰囲気かを確かめるためにのみ、試しに登録しただけなので、積極的になじんで活用しようという気には、まだ全然なっていないが、どっちかを選ばなければならないとしたら、私なら My Space を選びそうな気がする。

確かに、「わたし」 的雰囲気は、mixi より強い。ちょっとだけ、とんがったイメージがあるような気もする。

日本での勝負ということになれば、mixi の圧倒的優位は動かないだろうが、My Space もそれなりに健闘しそうな予感がある。mixi の差別化要因のひとつが 「招待制」 にあるとすると、会員が増えすぎた今、その面での差別化の意味は全然薄れてしまっているし。

だったら、ちょっととんがった SNS というのも、「あり」 かなという気がするのだね。とりあえず、My Space の会員になっておいたのは、あながちチョンボじゃないと思ってしまった。ソフトバンクが出資してるというのが、ちょっと気にくわないが。

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2007/02/19

お粗末ドライバーは、あなたの隣にも

mecwiki というニュースサイトで、瞠目すべき動画が 3つ紹介されていた。「無理に給油する人」 「狭すぎるゲート」 「チケットを入れようとして……。」 というものである。

いずれも、お粗末なドライバーのネタで呆れるほどのドジ加減なのだが、よく考えると笑えない気もする。

動画は、セルフ給油の GS で、給油口が反対側になる向きに車を止めてしまい、無理矢理に給油パイプを伸ばして大変なことになってしまう女性、十分に余裕のあるゲートを、なぜか無事に通過できないオッサン、駐車場の自動精算機にチケットを入れようとするがどうしても手が届かず、ついに機械に突進してしまうオッサンが映し出されている。

こんなお粗末なドライバーは、よく考えれば、あなたの隣にもいないとは限らないのだ。それどころか、もしかしたら自分自身がこんなお粗末をしでかさないとも限らない。

昔、こんな話を聞いたことがある。近所の奥さん同士が、車に乗り合わせて大型スーパーに買い物に行った。運転していた奥さんは、パーキングで見事に後ろ向きの駐車をこなした。

ビューッと入ってピタリと止まった位置は、その後ろに止まっていた車にわずか 15センチぐらいの距離だったという。助手席からから降りた奥さんが、その精密機械で計ったような駐車位置を確認し、「上手ねぇ!」 とほめると、運転していた奥さんは、「まぁ、こんなところに他の車が止まってたなんて!」 と青ざめたという。

運転免許を取得して以来、その免許証を自宅の神棚に載せたまま、次の免許更新まで一度も携帯したことがなかったという、ある意味、究極のスゴいドライバーの話も聞いたことがある。

よく考えると、私も 35年前に免許を取った時、教習所では、まともなメソッドで教わったという記憶がない。今やっているのは何の教習かという説明すらなかった。車庫入れも縦列駐車も、どんな意味やコツがあるのかとか、実際のどんな場面で必要になるのかという説明は一切なく、ただわけもなくやらされるのみだった。

あんまり上手に教えると、すぐ卒業されちゃって、教習所が儲からないからだろうか。

後ろから入る車庫入れがなぜ必要なのか、まっさらな状態で運転を習う人間にはあまりよく理解できないだろう。それどころか、運転免許を持っている人でも、わかってなかったりする。

実は私も、「車というのは内輪差、外輪差故に、フロントを大きく振って曲がるものだから、大きく振らなければならないフロントから先に狭いところに押し込むのは不合理で、狭い駐車場では不可能な場合もある」 と説明してもらって、初めて理解できた。

恥ずかしながら、それがわからないうちは、「どうして、わざわざバックで止まらなければならないんだ?」 なんて、まるで理不尽なことのように思っていたのである。

こうした 「当たり前すぎる基本」 も、きちんと教えてあげないと、わかってなかったりするのだ。実は、運転だけではなく、人生全般にも、「当たり前すぎる基本」 をきちんと教わってない人が多いような気がする。

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2007/02/18

「新春」 は旧正月で祝いたい

今頃 「新春のお慶びを申上げます」 などと書くと、気が狂ったかと思われそうだが、そうじゃない。今日は旧正月なのだ。

東アジアの多くの国では、正月を旧暦で祝う。旧正月をほとんど意識しない日本は、この地域では珍しい国だ。さらに、ここでわざわざ 「新春のお慶び」 と言うのには訳がある。

これは昨年の大晦日にも書いたことなのだが、新暦の元日あたりに届く年賀状に 「新春のお慶びを……」 とか 「賀春」 とか書いてあると、書いてくださった方には申し訳ないが、私はちょっとだけ白々しい気がするのである。これは本来、旧正月の挨拶だと思うのだ。

新暦の 1月 1日といえば、立春の 1ヶ月以上前である。それどころか、4~5日後に 「寒の入り」 になり、20日後ぐらいに 「大寒」 になる。本格的な寒さはまだまだこれからという時期に、「新春のお慶び」 なんて、ちょっとおかしいじゃないか。

単に昔の名残で使っているというわけなのだろうが、他に挨拶のしようがないわけじゃあるまいし、少なくとも私は、新暦の正月で 「新春」 という言葉は、あまり使いたくないと思っている。

もっとも、旧暦の元日だって、確実に立春以後というわけではない。最近の 10年間をとっても、平成 9年 (1月 28日)、12年 (1月 24日)、15年 (2月 1日)、16年 (1月 22日)、18年 (1月 29日) と、半分の 5回も立春以前の旧正月がある。

厳密に言えば、これらの年の旧正月だって 「新春」 という言葉は使えないことになるが、そこはそれ、大寒 (1月 20日頃) を過ぎてさえいれば、固いことは言わないようにしよう。そんな年でも、大抵 (旧正月の) 松の内の間には立春になるんだし。

私が旧暦派なのは、長い読者ならとっくにご存知のことと思う。とくに、七夕だけはぜひ旧暦に戻してもらいたいものだ。梅雨も明けないうちの七夕では、あまりにもその意義をないがしろにしている (詳細はこちら)。

そして、正月まで旧暦で祝えとは言わないが、せめて 「新春」 云々は、よく考えて使いたいものである。

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2007/02/17

晩秋から早春の庄内は、白鳥だらけ

あまり知られてないことだが、私の故郷、酒田市は、日本最大の白鳥飛来地なのである。毎年冬になると、約 1万羽の白鳥がやってきて、最上川河口で越冬する (参照)。

白鳥たちは、日中はあちこちの田んぼに出張して餌をあさるので、庄内の冬の田んぼは、白鳥だらけになる (参照)。

白鳥が酒田に来始めたのは、記録によると昭和 41年からのようだ。最初の年は、わずかに 7羽だった。ところが、年ごとにどんどん増えて話題になり、酒田市民も最上川河口に白鳥見物をしにでかけるようになった。

私が高校 2年の頃に見に行った昭和 45年は、記録では 430羽が飛来したことになっている。今とは比べものにならない少なさだが、それでも、当時はものすごい数に思えた。考えてもみてもらいたい。一度に 100羽以上のオオハクチョウを見る機会なんて、滅多にないだろう。

それが今では約 1万羽である。私は最近は最上川河口まで行って見たことがないので、なにしろ想像を絶してしまう。

私の高校時代、最上川河口にびっしりと浮かんでいる白鳥たちは、土地の人が茶殻などの餌を撒いてくれる時間になると、ますますすし詰め状態になり、我先に餌にありつこうとしていた。

それはそれはすさまじいもので、ぴゃあぴゃあうるさく鳴きながら、阿鼻叫喚の様を呈する。水面にエレガントに浮かぶ白鳥のイメージは、一瞬にして吹っ飛び、思わず 「畜生の浅ましさ」 なんて言葉が脳裏に浮かんだりする。

それでも、遠くからみる白鳥はやはり美しく、鳴きながら群れをなして空を飛ぶ姿は、何度見ても感動的なほどだ。冬の酒田の名物は、地吹雪と寒鱈汁と白鳥である。この冬は、地吹雪はさっぱりだったが。

昭和 46年、高校を卒業して東京で大学生活を始めようとしていた春、白鳥たちも酒田からシベリアへの遠い旅路に発ち始めていた。

餌をあさりに行くのとは明らかに違う大きな編隊を組んで、コウコウと鳴きながら飛んでいく白鳥たちの姿に、自分自身の旅立ちを重ね合わせて見送っていたことを、私はまるで昨日のことのように憶えている。

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2007/02/16

「ソーシャライツ」 って、ご存知?

「ソーシャライツ」 って、ご存知だろうか? 昨年頃から、もはや手垢まみれの 「セレブ」 に代わるキーワードとして注目を浴びると言われた割には、ほとんど鳴かず飛ばずだ。

原語は "socialites" で、辞書的には 「社交界の名士」 という意味なのだが、世間一般では女性を指すのは 「セレブ」 と同様だ。

代表的ソーシャライトは、サマンサ・タバサのプロモーションモデルの、ティンズリー・モティマー (Tinsley Mortimer) と言われている。

セレブとどう違うのかと言われると、実は私もそのあたり、よくわからないんであるが、一時はコロンビア大学卒という教養と才能がウリだったのかな。と言っても、まだよくわからないけど。

Wikipedia の米国版を見てみると、ソーシャライツと目される人物のアルファベット順のリストがあって、そのスペル故に筆頭にあげられているのが Akie Abe (他でもない、安倍首相夫人) だったりして、ますますよくわからんのである。

で、最近の Cube New York の記事を見ると、やっぱり、ソーシャライツはセレブより下になっちゃってるみたいなんである。(以下、引用)

先シーズンの某デザイナーのショーで女優のエバ・メンデスと、ソーシャライトのティンズレー・モータイマーが同じドレスで登場してしまった際、デザイナー側がこっそり簡易式トイレで着替えるよう 別のドレスを差し出したのはティンズレー・モータイマー。彼女が同じドレスを着用しているところがスナップされてしまったら、エバ・メンデスに恥をかかせることになって、エバに今後2度とショーに来て貰えないどころか、衣装を提供しても着用してもらえなくなってしまう訳である。

へぇ、セレブに代わるキーワードになるはずだったのに、うまく熟成されないうちに、ちょっと腐り気味になってきたんだろうか。気の毒に。(この記事では 「ティンズレー・モータイマー」 と表記されてて、どっちが正しい読みなんだか、これもよくわからん)

最近のニューヨーク・タイムズには、"The Shelf Life of Socialites: For Some , Shorter Than Mini" (ソーシャライツの陳列期間、ミニスカートより短いかも) というタイトルの記事が掲載されていたとのことで、どうも分が悪いみたいなのである。

そもそも、「セレブ」 は "celebrity" が英語でも "celeb" なんて略されたので言いやすかったのだが、「ソーシャライツ」 は 「ソーシャ」 なんて略しにくいしね。日本では定着するはずもなかったかも知れない。

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2007/02/15

マックとスタバで考えた

米国の米有力消費者情報誌 「コンシューマー・リポーツ」 が、スタバよりマックのコーヒーの方がおいしいと言っている (参照)。

もっとも、これはマックのコーヒーの中でもちょっと違う 「プレミアム・ロースト」 のお話ということで、私は永らくマックに縁がないので、日本でも味わえるのかどうかも知らない。

ただ、確かにマックのコーヒーは捨てたモンじゃないということは言えると思う。特別においしいというわけでもないが、ぞんざいな感じもしない。それに、あのハンバーガーとフレンチフライのキッチュな香りと味に合わせるために、最適化されているとは思う。

一方、スタバの方は、毎日いろんなブレンドを提供してくれるので、「これがスタバの味」 というイメージを構築しにくいところがある。だから、私は何年も口にしたことのないマックのコーヒーの味は明確に想像力の中で再構築できるけれど、スタバの味はそうはいかない。

この、味覚とか風味とか口当たりなどを想像の中で明確に再構築できるというのは、できそうでできないことらしい。何しろ、いろいろな食べ物、飲み物を口にして、瞬時に判断できるというのは、なかなか難しいことのようなのだ。

以前勤めていた職場で、食品関係の営業スタッフが、ミネラル・ウォーターの試飲をさせてくれたことがあった。3種類だったかのミネラル・ウォーターと、普通の水道水を試飲して、違いがわかるかというのである。

職場の連中が試飲して、「さっぱりわからない!」 とかなんとか盛り上がっているところへ、遅ればせながら私が登場して、ちょこちょこっと飲み比べてみたら、簡単にどれがどれだかわかってしまった。

同僚たちはびっくりして、「なんでわかるの?」 と聞く。しかし私には、こんな明確な口当たり、喉ごしの違いの区別が、どうしてつかないのかの方が理解できない。赤と白が視覚的に簡単に区別できるぐらいに、明確な違いである。

「どうして、こんなはっきりした違いがわからないの?」
「わからないよ、さっぱり!」

というわけで、私はそれ以後、フツーのおっさんたちが、「あそこの店は旨い」 だの 「不味い」 だの言うのを、信用しないことにしたのである。水の違いがわからん人が、どうしてメシの旨い不味いがわかるものか。

というわけで、私は、食い物、飲み物の味がかなりよくわかるようなのである。まあ、子供の頃から酒田の旨いもので育ったのだから、舌が肥えるのも当然だ。

しかし、私は食い物に贅沢は言わない主義である。おいしいものはおいしく、不味いものも、口に入れるのもはばかられるようなものでない限り、それなりに感謝して戴くことにしている。

それに、高級なレストランでもさっぱりおいしくないところもあれば、庶民的なジャンク・フードでも、かなりおいしいものもある。食い物というのは値段じゃないのである。

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2007/02/14

本当にヤバいかと思った!

昨日はちょっとヤバいかと思った。「もしかして、脳溢血の前兆って、こんなのか?」 なんてね。まあ、思い過ごしだったけど。

それでも、原付バイクを運転しながら、一時は目まいはする、吐き気はする、冷や汗は出るで、どうなるかと思った。そんな時って、どうにもまともなことを思いつかなくなる。

実は、先日仕事で制作を依頼されたホームページの画像を作るため、つくば周辺の写真をとにかくたくさん撮る必要に迫られたのである。都会的な風景と自然の風景を織り交ぜて、それらしい見た目にしようと思ったわけだ。

あちこちの写真を撮るには、車で行くよりもバイクの方が小回りが効く。それで、妻の原付バイクを拝借することにした。天気もいいし、ダウンパーカを着込めば、凍えてしまうこともないだろう。私はヘルメットを持ってないので、これも妻のを借りた。

つくば学園都市の中心までは、原付バイクでとろとろ行くと、40分以上かかる。それでも、春風とも言えるような陽気の中を、快調に飛ばす。そして、いい景色があれば気軽に止まってパチパチ撮れるので、やっぱりバイクで来たのは正解だったと、いい気分である。

2時間以上かかって、ようやく十分な枚数が撮れたので、帰ることにする。その頃には、午後 4時近くになって、少し日が陰り、往きと違って向かい風なので、頬にあたる風がかなり冷たくなっていた。

帰路の途中、こめかみのあたりがズキズキし出した。向かい風のせいか、両こめかみにドライアイスでも押しつけられたような痛みである。いくら冷たい風に当たっているからといって、これは生まれて初めての感覚である。ちょっと不安になる。

そのうちに、目まい、吐き気、冷や汗が襲ってくる。まともなスピードで運転しているのでは、危なくてしょうがない。時速 20km/h 程度 (自転車程度かな?) で、ノロノロ走る。

ゆっくり走れば、冷たい風が和らげられるだろうと思ったのだが、全然変わらない。ドライアイスを押しつけられたようなズキズキ感は、ますますひどくなる。これでは、家にいつたどり着けることか。本当に、脳溢血の前兆って、こんなのかと、不安がますます大きくなる。

いくら何でもあぶなくて運転していられない状態になったので、バイクを道端に止めて、歩道の縁石にへたり込む。大きなため息をついて、ヘルメットを脱ぐ。

すると、なんということか、急に人間らしい気分になってきた。これは、一体どういうことだ? 頭の中がすっきりして、まともな考えができるようになって、初めて気付いたのだが、要するに、妻に借りたヘルメットがきつすぎたのだ。

これまでは、せいぜい 30分で行けるぐらいの距離を行くのに借りるばかりだったので、2時間以上もこのヘルメットをかぶり続けたことがなかったのである。初めてこんな長時間頭を締め付け続けたので、すっかり貧血気味になっていたのだった。

10分ぐらいヘルメットをはずしたまま休み、ようやく頭痛がなくなったところで、また仕方なくかぶりなおし、必死になって家にたどり着いた。その時には、またズキズキ感がひどくなっていたが、30分も休んだら、何のことなくすっきりしてしまった。

妻に話すと、「もう、本当に、危ないと思ったら、救急車でも呼んだらどうだったの?」 なんて言われたが、救急車を呼んでヘルメットを脱いだ途端に治ってしまったら、何と言い訳したらいいかわからないじゃないか。

とまあ、そういうことで、私は結婚式の文金高島田の鬘で頭がガンガンしたという妻の気持ちが、とてもよくわかったような気がしたのであった。

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2007/02/13

気ぜわしい今日この頃

「ちょっとご相談が」 なんていうタイトルの、娘と同じ名前の差出人からのメールを、何事かと開けたら、出会い系に誘導するスパムメールだったりしているうちに、3連休も終わり。

2月は短いから、あっという間に 3月になり、世の中の多くの局面で、年度末のバタバタに突入することになる。

暖冬傾向も度が過ぎていて、普通の年なら立春を過ぎてしばらくが一番寒い時期だったりするのだが、今年は 1ヶ月ぐらい前倒しの季節進行みたいで、「春眠暁を覚えず」 なんて言うけれど、近頃、眠くて仕方がない。

これは例年なら、3月ぐらいの感覚だ。それで、ますます年度末感覚まで前倒しでやってきているようで、なんとなく気ぜわしい。3連休中も、まともには休んでいられなかったし。

「今日の一撃」 の更新は、いつもは夜のうちにテキストを仕上げて、日付が変わってからアップするという習慣なのだが、一昨日と昨日は、そんなことをしている余裕もなく、日付の変わる前にどっと眠ってしまった。

2日連続で、更新が昼前になるというのは、珍しいことで、朝イチでアクセスしてくれる人は、もしかしたら当コラムの 「毎日更新」 が途切れてしまったんじゃないかと思ってしまうかも知れない。実はこの通り、しぶといのだが。

というわけで、今月はなかなか忙しい。ただ、いつもなら一泊で出かける出張がなく、近場で済みそうなのがありがたい。

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2007/02/12

「なんで怒ってるの?」 「怒ってないよ」

昨日のエントリーに、「イライラというかくだらない物事への怒りのようなもの」 を感じたという、ご心配のコメントをいただいてしまった。

下手なジョークが機能しそこねて、別に怒っていないのに、怒っているような印象を与えてしまうというのは、まったくもって不徳の致すところである。よく気を付けよう。

ふと思いついて、「なんで怒ってるの? 怒ってないよ」 というキーワードでググってみたら、1,050件がヒットした。かなりありがちなシチュエーションなのだなと、感慨を深くしてしまったのである。で、「なんで怒ってるの?」 と聞くのは、どうも女の方が多いようなのだ。

我が家でもホンのたまにだが、妻や娘に 「何でそんなに怒ってるの?」 と聞かれることがある。ところがそんな時というのは、私はほぼ 100%、全然怒ってないのである。怒っているどころか、頭の中は冷静そのもので、論理的分析に集中している時なのである。

「怒り」 とはもちろん感情の発露なのだが、そんな時の私には、感情の入り込む余地など全然ないのである。大抵は、「感情」 というものの存在すら忘れている。だから、「怒ってる」 と見られることそのものが、ちょっとしたショックなのである。

論理的思考に集中しているのだから、生産性のない感情は排除したいのである。そんな時に、「怒ってるの?」 なんて聞かれると、「呑気に怒ってるほど暇じゃないよ!」 と、初めてちょっとだけむっとしちゃったりするぐらいだ。

例えば、ちょっとした不都合があった時など、そして、それが案外ちょくちょくあったりする時など、それが 「ちょっとした」 不都合であるだけに、そんなことは、「ちょっとした注意」 で解決できそうに思える。それで、どんな風に注意すればいいのか、考えてみたくなる。

で、その状況に至るまでの経緯などを妻や娘にヒアリングしてみて、どんなケースでその不都合が起こりやすいのか、分析しようとする。

分析というぐらいだから、少しは詳しく聞いてみたくなる。念のためいうのだが、それは、怒りにまかせての詰問とか、責めているとかいうのでは全然ない。逆に非常に冷静である。「これから、こんなことが起こらないように、お互いに気を付けるために、ちょっと思い出してみようじゃないか」 ってな程度のノリである。

ところが、それが妻や娘には、「怒り」 として受け取られるようなのである。「そんなに怒らないでよ。こんな小さな事で、どうしてそんなに問いつめられなければならないの?」 ってな感じらしいのだな。

それがわかったので、先日は、「じゃあ、そういう時は、こちらは超々低姿勢で、『恐れ入りますが、ご協力のほどを。ちょっとだけ思い出していただけませんかねぇ』 ってな感じで聞くからさ。頼むから、怒ってるなんて思わないでよ」 なんて言ってみたのだが、どうやら、それは言い訳的冗談と思われてしまったようなのだ。

その時、実は私にはわかっていたのである。そんな低姿勢とかなんとかいう問題ではなく、感情の入り込む余地のない私の態度こそが、彼女らには 「怒り」 として感じられるようなのだということを。

私にしてみれば、それは 「怒りの定義の間違い」 ということになるのだが、それを言い出すと、また 「何でそんなに怒ってるの?」 と言われるに決まっているので、それは、よっぽど絶好の機会が巡ってくるまで持ち出さないのである。

要するに、「怒り」 ということに関しては、男と女ではメカニズムが違うのではないかという気がするのである。

それ故に、「男の冷静」 は、時として女には 「怒り」 として感じられるようであり、女の 「怒り」 は、時として男には 「なんで急にそんなに感情的になるんだ?」 と感じられたりすることがある。(念のために言うが、逆の場合だっていくらでもあることを、私は理解している)

で、それさえわかれば、あとはお互いの理解に少しは近づけるのではなかろうか。女には 「別に、怒ってるわけじゃないのね」 と思っていただきたいし、男の方も、女のちょっとした感情的高ぶりを論理で鎮めようとかやりこめようなんて、的はずれはしなくて済むと思う。

なお、このエントリーは、ジェンダーフリー論者から突っ込まれそうなリスク満載なので、断り書きをしておくが、そりゃ あ、男にもめちゃくちゃ感情的な馬鹿親父が多いし、ものすごく論理的な 「デキル女」 もいくらでもいることを、私は十分認識している。

だから、「男」 という単語を 「論理型人間」、「女」 という単語を 「感情型人間」 と言い換えるべきだったかとも思うが、それはそれで、ステロタイプに堕する危険性がある。同じアブないなら、敢えてばっくりとした個人的印象からくる平均値として言わせていただいた。

なお、ご心配のコメントをくださった ともさんが、男か女か私は存じ上げないが、それはこのエントリーとは切り離して考えて頂きたい。(全然怒ってないからね)

【同年 9月 10日 追記】

「飯豊の空の下から」 の mikio さんが、「気むずかしい顔」 というエントリーを書いている。「文学系理論家と工学系ロマンチスト」 という違いはあるものの、このエントリーと、根っこの部分がすごく共通しているようで、フムフムと、何度もうなずいてしまった。

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2007/02/11

政治家のための日本語教室

政治家がどうでもいい発言の言葉尻で余計なツッコミをされないためには、どんな点に気を付ければいいか、まとめてみた。

まず、人間を人間以外のものに喩えてはならない。女性を 「産む機械」 だの 「産む装置」 だのに喩えるのは、いくら 「ご免なさいね」 なんて謝りながらでも御法度である。

しかし、定年を過ぎた亭主を 「粗大ゴミ」 だの 「濡れ落ち葉」 だのに喩えても、あまり問題はないようだ。このあたりはかなり冗談めかしつつ、自分もその同類に近いようなことをほのめかしさえすれば、まず OK である。

人間を機械に喩えるのが問題ならば、動物に喩えるのも、いささか問題になるはずだ。

「選挙に出馬する」 などと言うと、「私をウマ扱いにするのか」 と、革新系女性議員に突っ込まれかねないので、要注意である。同様に、「勝ち馬に乗る」 「負け犬」 「夜の蝶」 なども、避けるにこしたことはない。

また、ある一定の状態を 「健全」 と称することはタブーである。そうした状態が、少なくとも 「不健全」 ではないという場合でも、それを 「健全」 と称した途端に、「それ以外の状態は不健全だというのか」 と、理不尽な追及を受ける危険性がある。

同様に、「望ましい」 とか 「しかるべき」 とか 「あり得べき」 とかいうのも避けるべきである。さらに 「特殊な」 とかいうのもかなり危険である。「たまたま多数派であるところの」 とか、「残念なことに少数派であるところの」 とか言ってごまかすのがいい。

ただし、それによって論点がボケボケになってしまうことは、避けがたいこととして甘受しなければならない。

「望ましい状態」 を 「望ましい」 、「健全な状態」 を 「健全な」 などと、ストレートに言うのは危険だが、いったん弱みをみせた相手に対しては、「あり得べからざる」 とか 「人間として許されない」 とか、最大限に攻撃的な言葉を使ってとことん叩いても、一向に構わない。ただし、後でどんなどんでん返しがあっても、しらない。

「神」 についての言及は、日本人である限り、タブーである。ただし、外国人ならいくら言っても問題はないようだ。つまり、日本人の政治家は、無神論者であることが求められていると言ってもいい (参照)。

さらに、つい口が滑って問題発言をしてしまった際には、あまりぺこぺこ謝らず、「何がいけねえんだ」 ぐらいの傲慢かつ高圧的な姿勢を貫く方がいい。石原都知事はこの手法でほとんど乗り切っているが、あるいは政治家のキャラへの依存度が高いかもしれないので、誰にでもオススメというわけではない。

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2007/02/10

「オリコン」 って、よく知らないけど

「オリコン」 というのは、音楽のヒットチャートみたいなもんだろうという認識でしかなかったが、ずいぶん影響力のあるものらしい。

それで、なんだか名誉毀損とやらで、近頃問題になっている (参照) らしいのだ。私にはほとんど関係ないのでどうでもいいことだが、ちょっとだけ野次馬根性でのぞいてみた。

いろいろ読んでみて、ようやくわかったことは、オリコンは烏賀陽さんというフリージャーナリストを名誉毀損で訴えていて、そのわけというのは、烏賀さんが、「『オリコンの数字はある程度操作できる』 という噂 (うわさ) はあった」 などと雑誌に署名記事を書いていることだという。

そして、オリコン自身は自社サイトで、「オリコンは調査方法をほとんど明らかにしていない」 という烏賀氏の発言に対して、以下のように反論している。(参照

弊社は、調査方法について昭和43年のランキング開始時以来明示しています。またその調査店についても平成15年7月以降、弊社のWEBサイト、雑誌等のメディアにおいて開示しています(3,020店)。

ふーん。自社サイトで調査方法を明示しているというなら、その自社ページにリンクをはるぐらいのことはしてくれてもよさそうなものだが、それが全然されていない。ようやく探し当てたそれらしきページが これ である。

再び、ふーん。この程度の情報で、「調査方法を明示している」 なんて言えるかなあ。かなり疑問である。フツーの常識で言ったら、「煙に巻いている」 程度のものという印象だがなあ。どうでもいいけど。

私としてはオリコンが単純に機械的に集計したデータに基づいたランキングをしていようといまいと、どうせ音楽業界と一蓮托生なのだから、業界全体の利益のためになるのなら、外野でどうこう言うことでもなかろうと思っている。

もし問題があるとすれば、業界の一部有力企業のみに利益を誘導し、他のセクターの排除の動きにつながるようなことがある場合である。

とはいいながら、どうやらオリコンは、既に業界の最も重要なエスタブリッシュメントとしてのポジションを確立しているらしいから、多少は有力企業仲間のための動きがあったとしても、そりゃあごく自然なことである。特段咎められるべきだとも思わない。

新興勢力は、そんな手垢の付いたメディアを頼らなくても、別のプロモーションの仕方がいくらでもあるだろうよ。なにしろ、Web 2.0 の時代なんだから。

まあ、単純な印象としては、オリコンさん、ちょっとやり方間違えたかなという感じである。これで、かなりイメージ悪くしちゃったんじゃなかろうか。もう、引っ込みのつかないところに来ちゃったみたいだし。

ただ、結局のところ、どうでもいいけど。オリコンの主要ターゲットである少年少女たちも、別の意味でそう思ってるだろうし。

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2007/02/09

「どっこいしょ」 って、言っちゃう?

先日お昼の TBS ラジオで、「椅子に座る時、"どっこいしょ" って言っちゃう? 言わない?」 という調査をしていて、結果は、言っちゃう 44%、言わない 56% だった (参照)。

これはややショック。私は疲れてる時なんか、よく言っちゃうし、立ち上がる時なんか、疲れてなくてもつい言っちゃったりするけどなあ。

番組では実にいろいろな意見が紹介されていた。その中には 「どっこいしょ症候群」 なんていう初耳の言葉もあって、ますますショックだったのである。「どっこいしょ」 の言葉が出だしたら、足元の筋力が低下している証拠で、人生における黄色信号なのだという。

それが本当だとしたら、私なんか、子供の頃から 「人生における黄色信号」 が出っぱなしということになる。「どっこいしょ」 以外にも 「よいしょ!」 とか、「うりゃ!」 とか、「がるる!」  とか、いろんなかけ声を最大限に活用してきているぞ。

これとは別の視点から、「医学的にはいいことで、掛け声を出すことで、体にこれから起きる負荷を覚悟させるアナウンス効果がある」 という指摘もあった。そういえば、ハンマー投げの室伏選手とか、卓球の福原愛ちゃんなんかも、ここぞという瞬間には 「どっこいしょ」 じゃないけど、声が出てるもんなあ。

番組によると、「どっこいしょ」 の語源には二つの説があるという。一つは 「六根清浄 (ろっこんしょうじょう)」 で、山登りの行をするときに唱える言葉 (元々は仏教用語だが) が 「どっこいしょ」 に変化したという説。

二つ目は、「何処へ!」  という感動詞から来たというものだ。江戸時代以前にはよく使われていて、相手の発言や行動をさえぎる時に使う言葉だったという。「どっこい、そうは問屋が卸さねぇ!」 なんていう使い方に変化し、さらにかけ声にもなったらしい。

「どっこい」 が 「どっこいしょ」 になったのは、明治以後だなんてことも言われているようだ。歌舞伎十八番 「暫」 なんかでは、主人公の鎌倉権五郎景政が、「ヤットコトッチャァ、ウーントコナァ!」 なんて言ってるし、「アーリャ、コーリャ」 なんていう化粧声という声もかかったりするけれど、確かに 「どっこいしょ!」 とは言わないなあ。

なるほど、「どっこいしょ」 の歴史は、それほど古いものではないようだ。そういえば、「よいしょ」 なんてのも、「どっこいしょ」 から来てるんだろうか。「よいしょする」 なんて動詞になると、また別の意味だし。

かけ声に戻るが、私なんかは、独自の基準というわけじゃないが、ちょっとしたバロメータみたいな感覚を持っていて、「どっこいしょ!」 と一息で言えれば問題なしだが、これが 「どっ・こい・しょー」 と三拍になってしまうのは、「あぁ、俺って、相当疲れてる!」 と自覚してしまう時である。

これが、「どぉーっ・こぉいぃ・しょおっとっとっと! ひぃひぃひぃ!」 なんてことにならないように、せいぜい気を付けようと思うのである。

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2007/02/08

笑いの取れるオチがつかないものか

先月末に 「産む機械」 発言について触れて以来、何度かこの関連のエントリーを書いたが、私って、政治関係のテーマは本当に長続きしない。もうほとほと飽きてしまった。

そもそもこの問題について、私は政治論というよりは、人間の 「言葉遣い」 の問題として論じたかったのだと、今頃気付いた。

そして、政治の場では、まともな言葉遣いなんてあり得ないと、前から知っていたくせに、まだ少しだけ期待してみようなんていう青臭さが、自分に残っていたことにも気付いて、照れくさくもあり、妙な心持ちになってしまったのであった。

で、例の 「健全論」 だが、柳沢氏が何故に、取って付けたように 「健全」 なんていう言葉を繰り返して使ったのかというと、多分、彼は彼なりに、世間におもねてみたくなっただけのことなのだろうね。

若者のモラルの乱れが言われているけれど、意識調査の結果を見ると、彼らの多くは、ちゃんと結婚して、子供も 2人以上欲しいと言ってる。まんざら捨てたもんじゃない。これは案に相違して、健全でございますよ。はい。

その健全さに応える政治を、私としては、いたしたいのでございますってなことを、先の 「産む機械」 発言の言い訳も兼ねて、というか、ほとんどその言い訳のために、してみたくなったんだと思う。

そりゃもう、つい口がすべって、妙な喩え話をしちゃったもんだから、多少は点数稼ぎし直さなければならないなんて、いらんことを思ったのだろう。彼としては、その辺の兄ちゃん姉ちゃんを 「健全」 なんていう言葉でおだて上げたこと自体、異例のおべっかだったのだと思う。

ところがやっぱり、あの通り言葉センスの欠けた人だから、「子供が 1人しかいないとか、1人もいないとかいう女性を、不健全だとでもいうのか」 なんて、意表を突いたところから、さらにいじめられちゃった。ほとほと間の悪いお人である。

「結婚して、子供は 2人以上欲しい」 という以外の意識を 「不健全」 だなんてことは、いくら柳沢さんでも、そんなことを言う意図はなかっただろうと思うよ。まあ、「困ったもんだ」 ぐらいのことは、心の底では思ってたかもしれないが、少なくとも、そうは言っていない。

あの発言の意図は若者の多数派をおだてることで、少数派をくさすことではなかっただろう。そんなことしたら、言い訳の邪魔になるし。ただ、結果的には、「下手な言い訳、休むに似たり」 になってしまったわけだけれど。

しかし、下手な言い訳と下手な言いがかりの応酬はもううんざりだと、私は言いたいのである。素敵な笑いの取れるオチがつけられればいいんだけど、そこまで芸のある人たちじゃないし。

やっぱり、ポリティカルな場では、人間の言葉センスは悪くなるもののようなのだ。なるべく近づかないようにしておこう。

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2007/02/07

そりゃもう 「言いがかり」 だろうよ

昨日の夕方、車で帰宅するときに、カーラジオで 「柳沢さんが、また余計な発言をして批判されている」 と、キャスターが告げていた。

録音された発言では、私は、どこが批判されるべき点なのかわからない。ところがキャスターは、子供の要らない人、できない人などを 「不健全」 呼ばわりしているのだという。

おいおい、先の 「産む機械発言」 に関する批判は 「揚げ足取り」 のようなものだが、今回のは 「言いがかり」 だろうよ。昨日の私のエントリーの、"「産む機械発言」 の新機能" が、ここに来てさらに増強されてしまったようなのである。

今回の新発言は、朝日の記事から引用すると、「若い人たちは、結婚したい、子どもを 2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる。若者の健全な希望にフィットした政策を出していくことが大事」 ということだ (参照)。

これに関しては、朝日も "国立社会保障・人口問題研究所が 05年に実施した調査によれば、9割が 「いずれ結婚するつもり」 と答え、希望する子どもの数は 「2子以上」が 85%にのぼるが、実際にはそこまで達していないことを踏まえた発言" と解説していて、データ的裏付けはデタラメではないことがわかる。

問題は、結婚を希望して、子供が 2人以上欲しいという若者のみが 「健全」 であって、それ以外は 「不健全」 であると、柳沢氏が言っているのかどうかということだが、そんなことは一目瞭然で、「言ってない」 のである。

「ドストエフスキーの 『カラマーゾフの兄弟』 は傑作だ」 という発言が 「それ以外は駄作だ」 と言っているわけではないのと同じことだ。

言ってもいないことを、さも言ったようにあげつらうことを、日本語では 「言いがかり」 というのである。私は、そんなみっともないヒステリックなことはよう言わん。

朝日の別の記事中では、コラムニストの天野祐吉氏が、「結婚願望とか子どもの数を、統計データを基に、多数派、少数派というならいいが、『健全』 という言葉を使うのがおかしい」 と主張している。

この発言に対する最も手っ取り早い逆襲は、「それでは、あなたは結婚して 2人以上の子供をもちたいという多数の若者の意識が、『健全』 じゃないとでも言うのか?」 と、問いつめるだけで十分だろう。

言いがかりには言いがかりで反撃されやすいことぐらい、広告批評などでキャリアの長い天野氏のことだもの、きちんと理解しておいでのはずなので、笑って受け取っていただけると思う。

少子化防止のために出生率を上げたいという、それ自体は突飛でもなんでもないどころか、むしろ多くの人に望まれていることを、自身もまた希望している政治家の発言なのだから、「健全」 という言葉を使うぐらい、むしろ当然なんじゃなかろうか。

繰り返しになるが、それが唯一の健全なあり方で、それ以外は不健全だと言っているわけでもないんだし。

言ってもいないことを 「言われた」 と感じるのは、それはむしろ、感じた人自身の感性の働きによるところが大きい。天野氏は、「失言というより、彼の人生観、社会観が出たんだろう」 と非難していらっしゃる。それだけに、天野氏の発言もまた、そのままの形で非難されても仕方がないのである。

「"健全" ということにもいろいろな形がある」 というごく当たり前のことを理解できず、たった一つの状態しか 「健全」 と認めないという、非常に矮小で窮屈な考え方なので、柳沢氏への非難というより、彼の人生観、社会観が出たんだろう。

あるいは、今回の批判の大多数は、政治的な立場から、こういう時だけ意識的に矮小なことを言い出しているに過ぎないのかもしれない。しかし、そういう変にポリティカルな人を、私は決して信用しないと言っておこう。

で、ここまで言っておいてなんだけれど、まあ、要するに、結論的には、柳沢さんには、しばらく何にも言わないで、あくびすらもしないで (参照)、おとなしくしててもらうのがいいみたいなのである。(眠くなるのは十分理解できるけど、状況が状況だけに、この人やっぱり脇が甘いみたいだ)

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2007/02/06

「産む機械発言」 という装置の新たな機能

昨年春の民主党代表就任の時、「日本は変わらねばならない。私も変わる」 と大見得を切った小沢さんについて、私は 「60歳を過ぎた人間が、そんなに簡単に変われるものだろうか」 と疑問を投げかけている。(参照

結論。やっぱり、あんまり変わってないみたいだ。あのセンスの具合が。

小沢さんは自身の主宰する 「政治塾」 での講演で、柳沢厚労相の 「産む機械」 発言について触れ、「女性の抗議の声が大きくなると思っていたが、必ずしもそうではない。なかなか日本人は行動に出ない」 と嘆いてみせたそうだ。(参照

うーん、福島瑞穂さんとか辻元清美さんは、それしか仕事がないみたいな立場だからだろうか、どうだかしらないが (これは、できるだけ暴言臭を薄めるあいまい表現)、判で押したような芸のない抗議をしてみせたけど、フツーの女性は、そこまで騒ぎたがるかなあ。

この 「産む機械発言」 というスキャンダルは、ステロタイプな騒ぎ方をすればするほど、騒いだ人の軽薄さというか、センスの悪さが印象づけられる、一種の踏み絵的な装置として機能し始めたように、今や私には思われるのだけれど。

私は一貫して、言葉尻を捉えられるに決まり切っている類のたとえ話を、そう喩えなければわかりにくいわけでもなんでもないのに、事もあろうに、公衆の面前でひょろっとしてしまうような柳沢さんという人は、大臣不適格という考えである。

小沢さんの言うように、確かに 「欧米諸国なら罷免」 ということになるだろう。しかしそれは、たとえ表向きの理由が 「女性蔑視」 だったとしても、そのココロは、「こんな思慮の足りないヤツは、危なくて大臣なんかさせてられん」 ということだというのは、言わずもがなである。

ところがここに来ての推移は、安倍内閣にとって、柳沢さんを大臣の椅子に留めておくことのリスクよりも、ステロタイプに騒ぐだけの野党のセンスの悪さ (いわゆる 「万年野党病」) を印象付けることのメリットの方が、やや上回り始めたように思われるのだ。

「揚げ足取りと予算審議と、どっちが大切なんだ?」 と考えてしまう人は、かなり多いだろう。「民主党まで、社民党みたいな駄々のコネ方をして、一体どうなってんだ?」 と。

世の中、何がどう転ぶかわからない。自民党のリサーチ能力、やっぱり野党よりずっと上のようだ。

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2007/02/05

わかってる人だけにわかりやすい敬語分類

文化審議会の敬語に関する答申 (参照) が話題になっている。従来 3分類だったものを 5分類にした中身をみると、一応なるほどと思う。反対する理由はあまり見当たらない。

しかし、積極的に賛成する理由も見当たらない。再分類したからといって、敬語教育が格段にやりやすくなるとも思えない。

基本的なことを言えば、新しい分類はなかなかうまく辻褄が合っていると思う。謙譲語を 2種類に分けているところなんか、一応理屈が通っていて、(その理屈に沿う限り) 破綻はあまりみられない。

しかし、理屈が通っていて破綻していないからといって、フツーの人に説明しやすいとか理解させやすいとか、はたまた、実際の場面で使いやすいとかいうことには、直接つながらないのが面倒なところだ。

はっきり言ってしまえば、わかってる人からみれば 「なかなかうまくできた分類」 だが、わかってない人にとっては、「ますますわかりにくい分類」 になった。そして、従来、ある意味では便利に使っていた 「あいまいな敬語」 (端的に言えば 「ごまかし敬語」) を、使いにくくするものだ。

つまり、新分類は、わかってる人がすっきりした気分になるためのもので、わかってない人をわからせるための分類とは言えず、かえって混乱を呼びかねないものになったと思う。

基本的な敬語教育をする分には、従来の分類で十分だと思うのだよね。

もっと端的に言えば、やっぱり、分類は単純な方が望ましい。細分化すると、ティピカルな要素はかなり気持ちよくすっきり収るが、必ずどれにも当てはまらない要素が生じる。で、それらをすっきりさせるために、より細分化した項目を作ると、どれにも当てはまらない要素はさらに増えてしまう。

今回の分類でいえば、例えば、謙譲語 1 の 「申し上げる」 と 謙譲語 2 の 「申す」 なんか、かなり微妙だ。典型的な用法のみを考えれば、確かに明確に分けられるが、実際に使われる場面では、どちらとも言えず錯綜するケースも出てくるだろう。

机上の計画ではかなりすっきりしていたプランが、実際の運用の場面になると、かえってやりにくくてたまらないということは、この世の中にいくらでもある。むしろ、理屈だけですっきりさせすぎると実際には使いにくくなるというのは、経験則から自信を持って言える。

「あいまいでその場しのぎ的な敬語表現なんかするな」 ということなら、それはそれでいいのだが、浮き世のしがらみに縛られると、敬語の多くは 「あいまいな場面」 で、「その場しのぎ的」 に使う必要があったりするのだよ。

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2007/02/04

ペシミスティックな時代の菩薩

国連の 「気候変動に関する政府間パネル」 (IPCC) は、第 4次報告で、地球温暖化は人為的原因によって起きている可能性が 「非常に高い」 と結論づけた (参照)。

やれやれ。「他人に迷惑をかけないように」 と育てられた我々だが、どうやら生きているだけで、全地球的に迷惑をかけているらしい。

寒いからといって、ストーブやエアコンを点けるだけで、また、通勤のために電車に乗るだけで、会議の資料をコピーするだけで、はたまた、息をするだけで、我々は二酸化炭素をまき散らし、地球を温暖化させている。

報告書は、大型ハリケーンの増加など多くの気候変動は、「温暖化の影響である可能性の方が高い」 と述べ、「たとえ二酸化炭素など温室効果ガスの濃度が安定化したとしても、温暖化を止めることはできない」 としている。つまり、どんなに省エネに気をつけても、人間が生きて生活する限り、温暖化は長期的に続くということだ。

誠実に生きようとする者にとっては、つらい時代である。かくまでペシミスティックな時代が、人類の歴史上あっただろうか。「他人に迷惑をかける」 ということを罪悪とする以上、我々は、「これ以上、生きるな」 と言われているようなものである。

「それでは、地球全体で集団自殺いたしましょう」 というわけにもいかないから、我々は何らかの救いとなる哲学を求めたくなる。科学的な視点では、どうみても人間は 「悪役」 のようなので、別の視点が必要だ。

科学を否定しはしないが、今の時代、誠実な人間ほど宗教的なものに救いを求めたがる傾向があるのは、こうした精神的底流があるからだと思う。

ただ、宗教に救いを求める者の多くは、自分だけは悪役でありたくないという無意識的な心的傾向をもつ。しかし、それは結局 「エゴ」 というものだ。このエゴに迎合する限り、いかなる宗教も、真に人を救い得ない。

宗教がエゴの別名になっていることによる悲劇は、世界中に見られる通りである。

時にはちょっとした悪役さえ引き受けながら、なおかつ他を救おうとする者が、仏教でいうところの 「菩薩」 である。私自身はそういうものでありたいと、本心から願うのだが、これがなかなか難しくもしんどいことである。

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2007/02/03

柳沢厚労相と石原都知事

マスコミとか政治の世界なんて、結局、叩きやすいものを叩くだけという安っぽいものだ。

柳沢厚労相の 「産む機械」 発言にしてもそうで、"「女性は産む機械」 と発言した" という (意図的な?) 誤報が、一人歩きしてしまっている。石原都知事の 「ババア発言」 というもっと酷いのは、あまり話題にもならないのに。

柳沢厚労相の発言に関しては、私のスタンスは 1月 31日のエントリーで書いているので多くは繰り返さないけれど、煎じ詰めると、こういうことになる (該当エントリーのコメントにも書いたが)。

  1. ほとんどのマスコミの論調
    「女性は産む機械」というのは、女性蔑視の暴言で、絶対に許せない。
     
  2. ちょっとだけ冷静な指摘
    柳沢氏は 「女性は産む機械」 などとは言っていない。単にたとえ話で言っただけなので、マスコミの論調は揚げ足取りだ。
     
  3. 私のスタンス
    確かにマスコミの論調は揚げ足取りで、不愉快だ。しかし、揚げ足取りされるに決まってる言い方を、する必要もない場面で、わざわざしてしまう大臣は、頭悪すぎ。おかげで、国会が空転して時間と金の無駄遣いだ。こんな大臣は、さっさと辞めろ。

ということで、要するに、私は柳沢氏の発言には、ステロタイプな論調とはちょっと違った視点で、かなり批判的である。

一方で、柳沢氏の発言は、石原都知事の 「ババア発言」 に比べればかわいいもので、本当に許せないのは、石原氏の方だという指摘も、ネットの中でかなり多くなされている。

ちなみに、「ババア発言」 というのは、以下のようなものである (「石原慎太郎暴言データ集」 より引用)

これは僕が言ってるんじゃなくて、松井孝典が言ってるんだけど、〝文明がもたらしたもっとも悪しき有害なる物はババァ〟なんだそうだ。〝女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です〟って。男は八〇、九〇歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって……。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。

どうして石原都知事の場合はそれほど叩かれなくて、柳沢氏は袋叩きにあうのか。それは、ひとえに、石原都知事は悪びれないどころか、大いばりで振る舞っていて、柳沢氏はぺこぺこしているからである。柳沢氏も 「俺は 『女性は産む機械』 だなんて言ってない!」 と、逆ギレしてみせれば、別の展開になるかもしれない。

もっとも、「ババア発言」 の方も、なかなか根は深くて、それについて、私はほぼ 2年前に書いている (参照)。

この中で私は、"都知事の 「文学的表現」 に関して、趣味がいいか悪いかは、この際別問題としておく" と書いている。誤解されるといけないので、ここではっきり言っておこう。そりゃ、趣味がいいわけない。この人、元々超悪趣味である。

石原さん、次の選挙にも出るつもりのようだが、止めた方がいいのに。

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2007/02/02

ウェブ上のテキストの読みやすさ

最近歳のせいか、パソコンのディスプレイに向かって長時間仕事をしていると、目が疲れてしょぼしょぼになる。それだけではなく、長時間本を読むのもしんどくなってきた。

それで気付いたのだが、同じ本を読むにも、横書きより縦書きの文章を読む方が、なんとなく目が疲れないような気がするのだ。

医学的にはどういうことになっているか知らないが、もしかしたら、仕事上で横書きの文書ばかり読んで、視線を横に動かす筋肉ばかり使っているので、たまに上下に動かす動作をすると、いい運動になってバランスが取れるのかもしれない。

それに、どうしたって、やっぱり日本語は元々縦書きにするようにできているのだと思う。

ただ、近頃では英数字混在の文章を書く必要があったりするので、実用文書ではどうしても横書きの方が便利である。しかし、これは日本語の遺伝子に逆らっているので、どうしても目には負担がかかるようだ。

日本語の横書きが読みにくいのは、欧米語のように 「分かち書き」 をする習慣がないからでもある。例えば英語などは単語ごとに分かち書きをするから、スペースが適度に取られて、「びっしり」 とした見た目感覚は避けられる。

ところが日本語は、多少の句読点はあるにしても、少なくとも単語ごとに区切ったりはしないので、びっしりと詰まってしまい、見た目に 「真っ黒な文書」 になってしまいがちだ。黒い塊というのは、何としても読みにくい。息詰まってしまうのだ。

古来、日本語はそうした見た目の息苦しさを避けるため、変体仮名で、意識的にひょろひょろぐにゃぐにゃ書いたものなのでる。これによって、見た目の心地よさにつながる 「余白の美」 が生み出せた。

ところが、活字印刷の時代になってからは、見るからにびっしりの息苦しい文章が増えてしまった。若い頃はいいが、ある程度の歳になってしまうと、もう、一目見ただけで疲れてしまって、まともに読む気がしなくなる。

それを避けるために、私のウェブ上のテキストは、できるだけ改行を多くして、段落ごとにほぼ 1行分の空白を取ることにしている。しかも、5行以上の段落はなるべく作らないように意識している。

ウェブ上のテキストは、4~5行で改行するようにと勧めているサイトがあるが、私は、5行では長すぎると思っている。私のブログの段落は、2行から 4行のものが 80%以上になっているはずだ。一番多いのは 3行の段落で、すべて読みやすさのためである。

単語ごとにスペースが取れないのだから、それを補うために、できるだけ段落ごとのスペースを取ろうという魂胆だ。

これはウェブ上のテキストという特殊性によるもので、私が書く新聞や雑誌原稿などはこの限りではない。ほとんどはもっと長い段落になる。紙に印刷された文字は、パソコンのディスプレイ上の文字より読みやすいからだ。

とくに印刷媒体の縦書きスタイルだと、安心して 10行以上の段落にすることも、全然珍しくない。だから、同じ人間でもウェブ用と活字用では、文体がほんの少しだけ変わるということがあるかも知れない。

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2007/02/01

ブログの文壇をブロゴスフィアというのか

近頃、「知のヴァーリトゥード」 のユニーク・アクセス数が、平日だと 300を遙かに越えるようになった。ブログの "Today's Crack" はその倍近くなので、両方合わせたユニークアクセスは、平気で 1000を越えてしまう。

我ながら増えたものだと思うが、世の中にはもっとすごいブロガーがいる。

私は 5年前に自分のサイトを始めた頃は、1日に 30人が 50回来てくれるサイトになればいいと思っていた。それは 1年足らずで達成してしまい、それからは、100人が 200回来てくれればいいと思うようになった。

それが実現したのは、たかだか昨年の初め頃である。その頃は、ブログと合わせたユニーク・アクセスは、1日に 500ぐらいだった。そして、私は 「もう、これで十分」 と思っていた。それ以後は、意識してアクセスを増やそうという気はなくなってしまった。

ところがおもしろいもので、そんな気になってからの方がアクセスの伸びは大きく、それから 1年足らずで、さらに倍以上に増えてしまったわけだ。私としては、本当にもうこれで十分である。これ以上増えてしまって、コメントががんがん付くようになったら、管理が大変だ。

ところが、世の中には 1日のアクセス数が 2000や 3000では済まないブログがいくらでもあるようで、そうした影響力の強いブロガーを、アルファブロガーというらしい。そして、そのアルファブロガーを選出したサイトというのまである。

このサイトでは、年ごとのアルファブロガー選出を 3年続けて実施していて、2006年のアルファブロガー 40傑も発表されている (参照)。

私はこの企画を近頃初めて知ったのだが、発表されたベスト 40のうち、もともと知っていたブログはいくつもなかった。私はあまり他の有力ブログを意識していないブロガーであるらしい。とはいえ、この際だからそのうちのいくつかを、私のはてなアンテナに加えさせていただいた次第である。

「そのうちのいくつか」 というのは、その他の大多数は、私にとっては 「あんまりおもしろくないな」 と感じてしまったからである。世の中で 「アルファブロガー」 と認められていても、それらの全てがおもしろいとは限らないようだ。

そして、ちょっと驚いてしまったのだが、ここで選出された 「アルファブロガー」 の中には、更新頻度がそれほど高くないものが結構多いということだ。せっかくアンテナに加えたのに、あまり更新されないから、頻繁に読むこともないのだ。

私なんか、毎日更新していてこの程度なのに、1週間に 2回や 3回程度の更新で、そんなにまで影響力が強いと認められるというのは、どこが違うのかなあと、単純にびっくりしてしまったのだ。

何だか、ブログの世界でも 「文壇」 みたいなものができつつあるのかなんて思ってしまった。ああ、なるほど、ブログの世界の文壇を 「ブロゴスフィア」 というのか。

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