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2007/03/12

忽然と悟る自我、ぼんやりと感じる自我

一昨日、車を運転していたら、絵本作家の五味太郎氏がラジオでご自身の 「自我の目覚め」 について語っておられた。

なんでも、小学生の時分の夏休み、田んぼのあぜ道だかを歩いていると、「自分は他の誰でもない、自分なのだ」 ということが、忽然としてわかったのだという。

この 「忽然として」 というのがいい。ホスト役の久米宏は、「そういう経験、自分にもある」 と言っていたが、具体的には語らなかった。そして、話を振られた小島慶子アナウンサーが、「私にもある」 と、突如、具体的に語り始めた。

彼女が言うには、やはり小学生の頃、交差点で家族と一緒に信号待ちをしていたとき、「私は自分自身が主人公で、周りの人は皆、脇役だと思っていたけど、実は周囲の人のすべてが、それぞれに自分が主人公だと思っているんだ」 ということが、忽然とわかったという。

五味太郎氏と小島慶子アナウンサーの違いは、とても興味深い。五味氏はあくまで、「あれからこっち、(他はどうあろうとも) 自分はずっと 『五味太郎』 であり続けている」 と言い、小島アナウンサーは 「それぞれに主人公だと思っている他人」 との関係性の中で生きてきた。

今どきはやらないかもしれないが、マクルーハン的な言い方をすれば、五味流は 「ホット」 であり、小島流は 「クール」 だと思った。小島慶子、ただ者ではない。久米宏はつまらんけど。

で、ようやく私自身を語るとすれば、私は子供の頃から、「どうして皆、おもしろいことをおもしろがらないんだろう?」 と思っていた。自分の 「おもしろがるツボ」 が、どうも他人と違うようだと、常に感じていて、それがいわば、私の 「自我の目覚め」 のようなものだった。

だから、私のそれは、五味氏のように 「忽然」 としたものではない。いつも、ぼんやりと、しかし確実に感じられる 「プレッシャー」 のようなものだった。それ故に、他人のおもしろがるものを、自分もおもしろがるフリをしてみせることも必要だった。

なるほど、周囲のそれぞれも、皆、「自分が主人公だと思っているらしい」 ということも、その過程で、やはり 「ぼんやり」 と悟られた。わたしは、案外 「ぼんやり」 なのである。あんなにも一見プリミティブに見える絵を描く五味氏が、実は 「自我の塊」 なのに。

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