« 自然の帳尻合わせ | トップページ | 私の木造校舎体験 »

2007/03/14

「自我」 の認識の仕方

一昨日のエントリーで、自我の目覚めのあり方というものを書いた。「自我」 の認識の第一歩が 「他との違い」 に立脚するのは当然だが、それ以後に微妙な違いがある。

うまく言えないが、「圧倒的主体としての自我」 と、「他との関係性を通じた自我」 というものに分けられそうな気がするのだ。

一昨日の例でいえば、幼い頃に 「忽然として自我に目覚め」、それ以後は他がどうあろうとも、「自分は五味太郎であり続け、それ以外の何物でもない」 と主張する五味太郎氏と、同じく幼い頃に 「他の人も皆、それぞれに自分自身が主人公だと思っている」 ことに気付いたという小島慶子アナウンサーとの違いだ。

私自身の感覚で言わせてもらえば、「圧倒的主体としての強烈な自我」 というのは、一時代前の自我なんじゃなかろうかと思う。今どき、そんなにストレートに (かなりおめでたく)  「自分が自分自身であり続けられる」 なんていうのは、ちょっと奇跡みたいなものだ。

自分というのは、他との関係性の中の一個でしかないというのは、ポストモダンの思潮の中の基本的な認識だと思う。「強烈な自我」 というのは、いわば、古き良き時代の芸術家的アイデンティティの名残である。

教育や、あるいは企業の人材募集などでも、いともおめでたく 「個性」 を要求する向きがあるけれど、「個性」 なんてものは要求して得られるものじゃない。この時代の 「個性」 とは、「後で気付けば、あれがそうであったか」 というようなものだ。

そうでなければ、大概のケースにおける 「個性的な人材」 なんていうのは、意識的、無意識的の違いはあるかもしれないが、時代の要請に合わせてマーケティング的に演出したものである。

それだからこそ、妙な 「個性」 の看板を安易に上げてしまうと、後で分裂症的なストレスに悩まされることになる。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

|

« 自然の帳尻合わせ | トップページ | 私の木造校舎体験 »

哲学・精神世界」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。

>「圧倒的主体としての自我」 と、「他のと関係性を通じた自我」

これって仏教でいう「真我」「仮我」のこと ?
で、takさんは真我論的自我観を否定しているってことなのかしら ?

なぁんて、思いました。
以上、大学の東洋思想史の講義「可」だったまこりんからでした。失礼っっ。

投稿: まこりん | 2007/03/14 23:23

まこりん さん:

>>「圧倒的主体としての自我」 と、「他のと関係性を通じた自我」

>これって仏教でいう「真我」「仮我」のこと ?

あ、いえ、この場合は、両方とも 「仮我」です。
「圧倒的主体としての自我」というのは、
より重い業を背負って立ってるんじゃないかなあ。
その意味では、拍手拍手! ですが。

「真我」 は、業から解放されてるらしいですから。

投稿: tak | 2007/03/14 23:39

> この場合は、両方とも 「仮我」です。

「自我」という業のエントリだったのですね。
読み返して、なんとなく、わかりました。

>「圧倒的主体としての自我」というのは、
> より重い業を背負って立ってるんじゃないかなあ。


「個性的な人」って、はたから見て、大変そうだな、って部分結構ありますものね。

投稿: まこりん | 2007/03/16 01:00

まこりん さん:

>「自我」という業のエントリだったのですね。
>読み返して、なんとなく、わかりました。

う、う…、
そこまで明確に意図して書いたんじゃないので、
我ながら、「そうかな?…そうかも…」 という感じです。

ともあれ、新たな論の発展の方向性を示唆してもらえたようで、
感謝です。

投稿: tak | 2007/03/16 21:52

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/42004/14256303

この記事へのトラックバック一覧です: 「自我」 の認識の仕方:

« 自然の帳尻合わせ | トップページ | 私の木造校舎体験 »