« データの背後にある見えない事実 | トップページ | 自分で自分の首を絞める高野連 »

2007/04/26

自分だけの都合による偏見

"「自分だけは大丈夫」,セキュリティ対策を妨げる 「正常化の偏見」" という興味深い記事を見つけた。昨年夏に書かれた記事だが、全然古くなっていない。

「正常化の偏見」 とは、英語で "normalcy bias" といい、要するに、自分にとって都合がいい思い込みである。

例えば、交通事故と宝くじのそれぞれに対して抱く、期待 (不安) の違いが挙げられていうる。交通事故に遭って死亡する確率は、宝くじの 1等に当選するより高いんだそうだ。

それでも、人は宝くじで大もうけして、海外旅行をしたり家を買ったりすることを強烈に思い描いても、自分が今日にも交通事故で死ぬかもしれないとは、あまり考えない。また、非常ベルが鳴っても、すぐに非難しようとする者は慌て者と嗤われてしまう。

人間には常にそうした意識が働いているため、コンピュータの世界においても、セキュリティ対策は遅れがちになる宿命があるようなのだ。

確かに、常に取り越し苦労をしていては、日常生活もままならないし、はかないとわかっていても夢をもったりすることは、人生を楽しくしてくれたりもする。しかし、あまりに都合のよすぎる考え方ばかりしていては、リスクマネジメントが成立しない。

30年近くも前だが、東名高速の日本坂トンネルで事故による火災があり、トンネル入り口には 「進入禁止」 の表示が出されたにも関わらず、車が次々に突っ込んで、大惨事になったことがあった。これなんかは、「正常化の偏見」 が最悪に働いた結果である。

この 「正常化の偏見」 という心の働きは、とても複雑だったりする。

例えば、横断歩道を渡るとき、私はこちらに向かってくる車のドライバーが女性だと認めたときは、その車をやり過ごしてから横断する。というのは、経験知からいうのだが、女性 (とくにオバサン) の場合は、横断歩道の手前で停止して歩行者を渡すという意識が皆無である場合が多い (あるいは 「ほとんど」) のだ。

甚だしくは、渋滞のために車の往来がかなりゆっくりで、どうせ横断歩道を通り過ぎた辺りで止まらなければならないというようなケースでも、こちらが横断しようとすると、ものすごい目でにらまれちゃったりする。

ところが、逆の場合はこうは行かない。横断歩道を渡ろうとしているオバサンがいるので、こちらはルール通りに止まって、横断させてあげようとする。ところが、オバサンは躊躇して、なかなか渡ろうとしない。

もじもじしたまま渡る様子がないので、それじゃあと、こちらがスタートしようとすると、急に意を決したように横断し始めたりするから、危なくてしょうがない。

これなんかは、交通法規よりも、自分の感覚を優先させることによるんじゃないかと思う。「正常化の偏見」 が、自分だけの感覚によって、もろに 「偏見的」 に作用した結果である。結果そのものは、都合よく現われたり (あくまでも当人にとってだが)、トンチンカンになったりする。

「歩行者がいるけど、どうせ横断なんかしないわよね」 ということで、スピードダウンもせずに突破するかと思えば、逆のケースでは、「横断したいんだけど、車が止まってくれるわけがないわよね」 と思いこんでいるので、現実にこちらが止まってあげても、それに対する反応がメチャクチャになるわけだ。

「正常化の偏見」 というのは、ほとんどの場面で日常生活を円滑にする役に立っているが、そうでない場合は、たちどころに 「異常化の偏見」 に変貌して、下手すると命取りになる。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

|

« データの背後にある見えない事実 | トップページ | 自分で自分の首を絞める高野連 »

心と体」カテゴリの記事

コメント

おばさんですが、横断歩道で歩行者は渡しますねぇ。
個別の事象は関係なしでしょうか。
またはこれぞ正常化の偏見というのでしょうか。
こちらのサイト、ファンでありますけど、おばさんに関してはご自分と別の生き物という偏見があるのですね。そこが残念。

投稿: tetuko | 2007/05/02 00:23

tetuko さん:

>またはこれぞ正常化の偏見というのでしょうか。

まさにご指摘の通りです。
反省です。m(_ _)m

投稿: tak | 2007/05/02 20:14

このブログでは、日本語に対する極めて愉快なやりとりがあって、
本当に面白いです。
なので、連続投稿失礼します。

実は、TAKさんのこの文章に100%同意します。
「オバサン」の行動についても、全く同感です。
そこでついた、TETUKOさんのクレーム、これについてひとこと。

我々オジサンwにおいて、「オバサン」というのは、
女性が自らを「おばさん」と呼ぶ状況と、
決定的に意味が異なっています。
我々オジサンは、黒木瞳を決して「オバサン」とは呼びません。
吉永小百合を「オバサン」だとは、夢にも思っていません。
女性における「おばさん」という平仮名の概念が、
主に年齢による女性のカテゴライズだとすれば、
オジサンにおける「オバサン」というカタカナの概念は、
品質による女性のカテゴライズです。
つまり、低品質な女性という。
そして、正直w若きゃ若いだけで価値があるので、
若い「オバサン」はいませんが、
その価値を失った年代の女性においては、
明らかに品質の上限と下限が、
強烈な勢いで拡大し始めます。
その理由についての仮説はここでは述べませんが、
明らかに男性よりも、格差が激しくなり、
そして低品質層の厚みwも、男性よりも充実しています。
そして、そういう低品質層に属する女性は、
まず見かけからして、明らかに一目瞭然、
高品質層とは異なっています。
そういう、一目瞭然低品質な女性について、
我々オジサンは「オバサン」と呼ぶのです。

ちなみに、この投稿は女性差別を構成しません。
低品質な男性ももちろん大量に存在していますし、
それを否定するものでは全くありません。
どんなものにも品質の格差は存在するので、
例えばPCパーツにリテール品・バルク品・ジャンクと、
品質によるそれぞれのワーディングがあるように、
人間においても、品質によるワーディングがあっても、
全くおかしくないでしょう。
その一例について述べた、それだけのことです。

で、今回のやりとりを解説するなら、普通「オバサン」は、
間違いなくこのようなブログは購読しません。
それどころか、ネットの使いこなしすらほとんどできません。
少なくとも、このようなブログを訪問し、
きちんと意見を書き込めるTETUKOさんは、
我々オジサンの言う「オバサン」に当てはまらない可能性が、
極めて高いとご理解ください。

>おばさんに関してはご自分と別の生き物という偏見があるのですね。

つまり、おばさんとオバサンは(ひらがなとカタカナの時点で)
異なる意味を持つ言葉であったというわけです。
もちろん別の生き物ですし、でもそれは、
TAKさんの偏見とは関係ありません。

以上、横レス失礼しました。

投稿: 的得 | 2007/05/03 13:45

的得 さん:

私も 「オッサン」化しないように気を付けます。

投稿: tak | 2007/05/03 22:40

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/42004/14851117

この記事へのトラックバック一覧です: 自分だけの都合による偏見:

« データの背後にある見えない事実 | トップページ | 自分で自分の首を絞める高野連 »