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2007/05/10

神田祭を巡る冒険

本日 10日の夕刻から、神田祭が始まる。神田の街は今、神楽の音が絶え間なく響いて、祭りムードが高まっている。

神田祭とは、いうまでもなく神田明神の祭礼である。神田明神の主神は平将門と思われているが、実は、御祭神としては 3番目の 「三之宮」 として位置づけられている (参照)。

ただ、公式には、大己貴命 (おおなむちのみこと)、少彦名命 (すくなひこなのみこと) の方が上位に祀られているからと言っても、庶民感覚としては、やはり明神様は将門公を祀った神社ということになっているのだ。

元々は、神田の地に入植した出雲系の氏族が、大己貴命 (出雲大社の大国主命の別称とされる) を祀ったことに始まるようだが、何といっても、将門の乱以後に一挙に高まった御霊信仰で、将門の霊が相殿神として祀られてからは、もう 「平将門を祀る神社」 ということになってしまった。

で、将門の乱に際して、朝廷の命を受けて東国平定の願をかけて建立されたのが、成田山新勝寺である。俵藤太藤原秀郷は、将門征伐に先立って、この寺で必勝を祈願したという。

だから、成田山と神田明神とはそもそも発端からの敵同士のようで、以前は成田山の信徒は神田祭の間は江戸に出るのを憚ったという。また、神田明神の氏子も、成田山に参詣なんかしたら将門様の逆鱗に触れて、帰り道にきっと災いに遭うとやらで、足を向けなかったらしい。

将門は逆賊という位置づけになっていたのだが、江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が、幕府より将門の事績について聞かされて感ずるところあったらしく、「将門は朝敵に非ず」 と奏上したことにより、朝敵の汚名は除かれている。

さすがに、三代将軍の時代になると、江戸のポジショニングも向上して、東国の大英雄で人気の高い将門を、朝敵扱いに据え置くのも憚られたのだろう。

ところが明治維新の王政復古後は再び逆賊扱いのムードが高まり、明治 7年には、平将門神は神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座された。圧力に屈した神田明神側の自主規制といったところだろうか。

しかし太平洋戦争後は、逆に将門は反体制の英雄という評価が高まり、昭和 59年に再び、神田明神に合祀されている。かなりの毀誉褒貶だが、収るべきところに収ったと言うべきか。ただ、一貫して、将門様の庶民の人気は圧倒的だった。

ちなみに、江戸庶民の娯楽の王様、歌舞伎の大立者である市川団十郎の屋号が 「成田屋」 であるというのは、なかなか複雑な心象風景である。元禄の世でも、日の丸掲げる右翼的メンタリティと、一種共通していただろうか。

こうしてみると、江戸庶民の日常感覚により近かったのは、尾上菊五郎の音羽屋系だったかもしれない。庶民感情にも、事大主義と反骨精神のない交ぜとなった重層的なところがある。

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