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2007年5月に作成された投稿

2007/05/31

日本はまだまだ 「安全」 か?

先日、広島出張から帰る際に、いかにも日本ならではの光景を目撃してしまい、感動すればいいのか、呆れればいいのか、自分でも判断がつかなくて、固まってしまった。

それは、広島駅のトイレでの出来事である。一人の中年男性が、キャスター付きスーツケースを引っ張って入ってきた。

それは、5泊以上の海外旅行用といった大きなスーツケースというわけではなく、せいぜい 1泊用の小型のパックである。彼は、そのキャスター付きパックを、洗面所の隅に置いて、自分は 「大」 の方の用を足すために、個室のドアの中に消えた。

つまり、彼は大事な荷物をトイレの洗面所 (つまり、ドアの外) に放置して、呑気にウンコしていたわけである。

私は自信を持って断言するが、日本以外の多くの国の大都市でこんなことをしたら、100%近い確率で彼の荷物は盗まれてしまうだろう。何しろ、海外に出たら、荷物を自分の足元に置くときですら、両足の間に挟むように置かないと、安心できないくらいなのだから。

あるいは、盗まれずに済むとしても、持ち主不明の不審な荷物として通報されて、爆薬処理班の出番になってしまいかねない。いずれにしても、ただでは済まないのである。

それにしても、日本は平和で安全な国である。荷物をトイレの一画に放置してウンコしていても、誰もそれを持ち去ったりしないのだから。

しかし、こうも思う。今や、日本だってそれほど安全な国じゃなくなってしまった。あんなことをしたら、日本でだって、荷物を持ち去られてしまう確率が、15%か 20%ぐらいには高まっているんじゃなかろうか。ウンコの最中に荷物を個室のドアの外に放置するというのは、今や、一種のギャンブルに近い行為なんじゃあるまいか。

持ち去られてしまう確率が、50%に近くなったら、誰もウンコで荷物放置なんてしなくなり、そして日本人の振る舞いも国際標準に近くなり、その結果、「平和ボケ」 なんて言われなくなるのだろうが、それはそれで、悲しいことではある。

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2007/05/30

動物的ヘジテーション感覚

柳沢厚労相の 「産む機械」 発言に関しては、私はこのコラムで、原則的にマスコミのヒステリックな論調を批判しながらも、柳沢さんに対しても、しっかりとツッコミを入れている。

しかし、松岡前農相のスキャンダルは、ずっと無視してきた。いかにもツッコミどころ満載なのに、どうしてもツッコむ気がしなかった。

彼が自殺したというニュースで、なぜツッコむ気になれなかったかが、得心された。下手にツッコんだら、いかにも壊れちゃいそうで、どうしてもためらわれてしまったのだよ。これは何というか、論理的というよりは、ある意味、直感的あるいは生理的なヘジテーション反応である。

ある程度強そうな相手に対しては、メラメラと闘志が燃えてしまっても、ちょっと脆そうな、壊れそうな、危うい感じの相手に対しては、思いっきりの攻撃を仕掛けづらいというのは、多くの動物に共通してみられる傾向なんじゃあるまいか。

受け身の下手そうなヤツには、危なっかしくてハードな投げ技は使えない。関節の固そうなヤツに思い切った関節技をしかけたら、簡単に脱臼しそうで逆にコワイ。簡単に傷ついてしまいそうなヤツには、冗談も下手に言えない。

松岡さんの場合には、なんだかそんなような感じがヒシヒシとしていたのだ。調子に乗ってツッコみ過ぎたら、何だかよくわからないが、きっと後で夢見の悪いことになるぞというような気がしていた。

国会で鬼の首でも取ったように追及質問をする野党議員には、「あ~あ、知ーらないぞ、知らないぞ」 みたいな気にもなっていた。「お前ら、そんなノー天気に攻撃できるなんて、動物的直感が鈍すぎ!」 と。

今になったら、その感覚の正体をこうして説明できるが、それは後出しジャンケンみたいなもので、種明かしの前は、漠然とした、自分でもわけのわからない感覚でしかない。

だから、まさか当人が自殺を図って、本当に死んでしまうとまでは、予想できなかったのである。世の中、本当にどう転ぶかわかったもんじゃない。まあ、責めるときでも、最後の逃げ道までは塞がないようにという教訓なのかもしれない。戦争じゃあるまいしね。

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2007/05/29

食の 「ありがたさ」 と 「ありがたみ」

今でこそ納豆なんて、日本中どこのスーパーでも買えるが、私が学生の頃は、東京に来て初めて納豆というものを見たとか食ったとかいう関西人が、案外多かったものである。

ましてや、「辛し明太子」 とか 「ししゃも」 なんて、かなりレアな食材で、九州とか北海道に行かないと食えなかった。

昔は、大学に入って上京した関西人が、「東国で名高い 『納豆』 というものを試してみよう」 なんて思って、当時全盛を誇った 「定食屋」 というスタイルのメシ屋に入り、生まれて初めて実物の納豆を見た途端にカルチャーショックを覚えるなんてことが、ごく普通にあったのである。

さらに、そっと店のおばちゃんを呼び、「な、な、おばちゃん、この納豆、腐っとるで。見てみ、糸引いてるやん。黙っといたるからな、こっそり新しいの持ってきて」 なんてことを言って、恥をかいてしまった関西人も、一人や二人ではなかったという。

辛し明太子なんてものも、今ではどこのスーパーでも買えるが、以前は北九州に旅行した際の 「おみやげ物」 だった。だから、身近に北九州に旅行した者がいないと、辛し明太子というものも 「幻の食品」 だったのである。

私が中学の頃、北海道に単身赴任した父から届く手紙に 「今日は、ストーブで 『ししゃも』 を焼いて食べた」 なんて書いてあると、「ししゃもって、何だ? 俺も食ってみたい」 なんて強烈に思ったものである。

それが今や、日本中に広まってしまった。しかし、本物のししゃもは供給不足なので、日本で流通している 「子持ちししゃも」 の 90%は 「カベリン」 という代用品なのだということは、既に広く知られるところとなってしまった (参照)。しかも、オスの腹にまで注射で卵を入れて 「子持ちししゃも」 化させているという噂まであるが、本当のところはどうなんだろう。

最近になってにわかに全国区になったものには、沖縄の 「ゴーヤーチャンプルー」 がある。私なんか、これは大好きである。

さらに、上野駅構内の売店を覗けば仙台名物の 「ずんだもち」 が一年中売られ、東京駅構内では広島土産の 「もみじまんじゅう」 が幅をきかせる。今どき、本当に現地に行かないと食うのが難しいという食材は、あまりなくなってしまった気がする。

こうなると、食べたいものを気軽に求めることができるというのは、ありがたいようだが、「ありがたみ」 ということになると、ちょっと薄くなっているような気がする。コンビニエントな 「ありがたさ」 と 気分としての 「ありがたみ」 というのは、違うのである。

そんな中で、今でも 「幻の食品」 といっていいものに、九州の 「おきゅうと」 と 「からすみ」 というものがある。ところが、このうちの 「おきゅうと」 というものは、最近になって私にとってもお馴染みのものであるということがわかった。

というのは、「おきゅうと」 は、私の生まれた庄内地方では 「えご」 といわれるものとほとんど同じものであるようなのだ (参照)。南里商店のおきゅうとなんて、私の知っている 「えご」 にそっくりじゃないか。なんだ、「ありがたみ」 が一挙にうすれてしまったなあ。

となると、正真正銘の 「幻の食品」 は、「からすみ」 にトドメをさすように思われる。これは、博多に出張するたびに空港の土産屋でそそられるのだが、やたらと高いので、つい辛し明太子の方を買ってしまうため、まだ食ったことがないのだ。まだまだ 「ありがたみ」 度は高い。

あ、それから、宮城県の珍味 「ほや」 はとてもおいしいから、仙台に旅したらぜひ試していただきたい。まだそのへんのスーパーで買えるほど一般化してないから、「ありがたみ」 度も維持されてるし。

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2007/05/28

「中国で原発 100基超」 というスリル

中国、2030年までに原発 100基超を建設へ」 というニュースの見出しを読んだだけで、申し訳ないけど、背中がゾクゾクしてしまった。

世界で品質管理の最も優れた国と言われた日本にして、原発関連の不祥事がぼろぼろ出てくるのだから、中国で原発を 100基も作ったら、一体どんなことになるのだろう。

私の専門のアパレル業界と一緒に論じるのは、ちょっと乱暴すぎるかもしれないが、中国の品質管理というのは、かなり進歩したとはいえ、正直言って、まだまだ信頼しきれないところがあるのだ。

今の日本のアパレル市場は、70%以上が中国製の製品で占められるようになったので、一事が万事という論法は通用しないが、それでも、いくら何でもそりゃないだろうと言いたくなるような不良品が頻発する。

例えば 「シャツの両方に右袖が付いていた」 とか、「下げ札に表示されている寸法と、縫いつけのケアラベルに表示されている寸法が全然違う」 とか、「ポケットの内袋が脇の縫い代に縫い込まれていて、何も入らない」 とか。

縫製現場では、右袖を両側に縫いつけようとしたら、不自然でやりにくいので、途中で間違いに気付かないはずがない。それでも、「エイヤ!」 で縫いつけてしまって、それで (かなりいい加減な) 検品の目をかいくぐって、出荷されてしまうのである。「見つからなければ、それで OK」 という世界のようだ。

こうしたことは、アパレル製品だけじゃなく、薬やら粉ミルクやら、キクラゲやら、ペットフードやらで、どんどん明るみに出ているから、まあ、ほかの業界だって似たようなものなのだろうと思われても仕方ない。

それでだ。こんなようなイージーさが、原発の中でもフツーに現われるとは、思いたくない。思いたくないが、それでも、やっぱり心配になってしまうのは、そりゃ、人情というものだ。

願わくは、2030年までには、原発なんて時代遅れの技術になってしまっていて、もっとずっと安全で効率のよい発電技術が普及していてくれるといいのだが。

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2007/05/27

知のヴァーリトゥード、30万ヒット達成

知のヴァーリトゥード」 は、毎週土日にはアクセスが減るのでどうなるかと思っていたが、昨夜 9時過ぎに、平良さんという方が 30万ヒットをゲットしてくださったようだ。感謝。

いつもは仕事中にアクセスしてくださっているらしい。そうなのだ。ウチは、朝イチとお昼休みに、アクセスが一番多いのである。

つまり、ウチは 「インターネット・オタク」 のサイトではなく、フツーに仕事をしている人が、仕事の始まりとか合間の時間に、さっとアクセスしてくれるサイトといえるようだ。

こちらとしてもそれを意識して、それほど長文の記事にならないように気を付けている。長文をじっくり読んでしまったら、仕事に差し支えてしまうだろうから。要するに、あまりヘビーではないが、内容的にはちょっとわさびの効いた感じを心がけてはいるつもりである。

まあ、あまりヘビーな長文を書いていたら、「毎日更新」 という謳い文句どおりの運営はまず不可能になるので、当分はこんな感じて続けさせていただきたい。

さらに、読者の方もさっとアクセスするだけだから、コメントの数も、アクセス数の割に多くない。よほど物議を醸してしまったときには、ちょっとだけ多くなるが、そうした類のエントリーは、半年に一つか二つもあれば十分だという気がする。

ところで、昨夜は高校時代の同窓会 (昭和 46年卒業で首都圏在住者の集まり) に出席、そのまま二次会まで行ってしまい、気付いてみたら、常磐線の終電の時刻がとっくに過ぎていた。

で、仕方がないので、都内でアパート暮らしをしている長女の部屋に泊めてもらった。実は長女の部屋に足を運んだのは、これが初めてである。我ながら呑気なことだ。割合まともに暮らしているようで、安心した。今日の朝飯は、近所のファミレスでおごらされたが。

というわけで、自宅に帰ってきたのは、朝の 10時を過ぎてからのことである。当初の予定では、日付の変わらないうちに帰宅するつもりだったので、自分でキリ番を踏んでしまうのが心配だったが、このくらいの時間になれば、そんなこともあるまいと、軽い気持ちで自分のサイトを確認したら、「300151番」 だった。

さらに、BBS を覗いたら、平良さんからキリ番踏まれたとの連絡があったので、ホッとした次第である。

10万ヒット目から 20万ヒットまでは、ほぼ 13ヶ月かかったが、今回の 10万ヒットのピッチは、ほぼ 8ヶ月になった。40%近い短縮である。この調子でキリプレを実施すると、次からはほぼ半年ごとにドキドキしなければならなくなりそうなので、次回のキリプレは 50万ヒット目ということにさせていただきたい。

あ、それから、土曜の昼の山形放送ラジオ 「ドンキーのいいのおー庄内」 への電話出演は、ドンキーさんの庄内弁ヒアリング・チェックで、楽しい時を過ごさせていただいた。地域限定なので、聞かれた人はそれほど多くないと思うけれど、週末に山形にでかけることがあったら、話の種にダイヤルを合わせてみても、損はないと思うので、よろしく。                

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2007/05/26

緊急業務連絡: エリア内の人は聞いてね

緊急業務連絡。本日 (26日) のお昼ごろ、山形放送の 「ドンキーのいいのおー庄内」 に、電話出演するんで、放送エリア内の方は、よかったら聞いてくださいな。

この番組には、昨年の今頃に続いて、2度目の出演となる。今回は、ドンキーさんの庄内弁ヒアリングをチェックすることになる。

前回は、「知のヴァーリトゥード」 のサブサイト 「庄内力養成委員会」 の 「庄内力チェック」 に挑戦してもらって、内陸出身のドンキーさんは 50点で 「初心者」 というランクに甘んじてしまった (参照) のだが、あれからどのくらい進歩したのかを知るため、アシスタントの佐藤さんが駆使する庄内弁のヒアリング・チェックを行う。楽しみ楽しみ。

さて、24、25日と、広島に出張して、日付の変わる直前に帰宅した。25日は、晴れ男の私にはとても珍しいことに、出張先で土砂降りにあった。私は少なくとも 20年以上、出張先では晴れるか、悪くても小糠雨が一時的に降る程度ですむものと信じ込んでいたので、なんだか不思議な感覚にとらわれたほどだ。

とはいえ、さしもの土砂降りも昼過ぎにはだんだん小降りになり、2時過ぎには上がってしまった。仕事上の屋外での撮影もなんとかギリギリでクリアできたので、よしとしよう。この雨は、きっとお清めの雨で、これからはまた晴れ男に戻れそうな気がする。

で、夕方に広島を発って、新幹線で戻ってきたのだが、大阪あたりまで来たらまたしても雨になった。どうやら、「のぞみ」 の 250km/h のスピードで、東に進んでいく雨雲に追いついてしまったらしい。それから先はずっと雨で、つくばの地に着いてからもまだ降っていた。

よほど大きな雨雲だったようだ。それにしても、車で走っていて、雨雲に追いつかれてしまったことはあるが、去っていく雨雲に追いついてしまうというのは、さすが新幹線のスピードである。

今日の朝になったら、またしてもいい天気になるようで、夏日になるらしい。さて、山形県の天気はどうなってるだろうか。

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2007/05/25

「知のヴァーリトゥード」 30万ヒット目前

本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 が、30万ヒット目前だ。で、キリ番をゲットしてくれた方には、記念の和歌を捧げるのが恒例になっているので、よろしければ狙っていただきたい。

計算によると 27日の日曜日あたりに達成されそうなのだが、キリプレ狙いのアクセスが増えると、土曜日になるかもしれない。

今どき、和歌を捧げられるなんてことは滅多にないことだろうと思うので、話のタネぐらいにはなるかもしれない。また、捧げられた和歌は、ご自分のサイトに貼り付けようが、短冊にして飾ろうが、ご自由にお使いいただけるので、カウンターが逼迫してきたら、ちょっと狙ってみてはいかがだろうかと思うわけである。

実は、昨日の夕方に出発して、さっき広島に着き、日付が変わったばかりだ。そんなわけで、今日のエントリーは極めて短めで失礼。

で、今日は夜遅く帰宅する。そして、明日の土曜日は朝から仕事で、夕方は高校時代の同窓会に出席する。母の四十九日も明けてない時期なので、同窓会ではせいぜい大人しくしていようと思うが、それでも、帰宅するのは夜中になるだろう。ふう、結構なハードスケジュールだなあ。

怖いのは、夜中に帰って更新作業に入り、表示を確認するために自分のサイトにアクセスした途端に、自分でキリ番を踏みゃしないかということだ。そうなったら目も当てられないので、せいぜいアクセス解析とにらめっこで、安全 (?) を確認してから表示させることにしよう。

それでも、アクセス解析と実際のカウンターとは、ちょっとしたズレがある。よほど慎重に見きわめなければならないだろう。ああ、どきどき。

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2007/05/24

歳はとりたくないもので…

30代の頃までは、激しい運動や労働をしても、一晩眠れば疲れは取れていた。翌日に筋肉痛に悩まされることがあっても、翌々日には楽になっていたものである。

ところが 40代になると、筋肉痛の出るのが翌々日に持ち越されるようになった。疲労感も、2晩寝ないと取れないのである。

そして、50代半ばに差し掛かって、さらに哀しいことになった。はっきりした筋肉痛すら現れないのである。日曜日に町内会の一斉草刈りで、我が班に男手が決定的に不足していたため、孤軍奮闘してほぼ土手一つ刈ったのは、「和歌ログ」 でも触れた (参照)。

これはけっこうな重労働だったので、例によって翌々日 (翌日でないのがまず哀しいところ) には筋肉痛に悩まされるだろうと覚悟していたのである。ところが、今回は翌々日になってもあまり痛くない。どういうことなのだ?

で、ふと気付いたのだが、昨日 (水曜日) あたりから、ほんの少しだけ、腰や背中や太腿のあたりの筋肉が 「かったるい」 のである。それは、今日になって少し強まってしまい、駅の階段を上り下りするときに、ほんのちょっとだけ意識されたりするのである。

要するに、目立った筋肉痛が翌々日になっても出なくなった代わりに、3日後あたりから大したことのないかったるさが出て、それがじわじわ続くようになってしまったようなのだ。体の反応がそれだけ鈍くなってしまったのかもしれない。

で、疲労感の取れるのも遅くなったようで、昨晩はこのブログの更新もしないうちに、あっという間に眠ってしまい、珍しく今朝になってからシコシコと更新しているわけだ。

ある意味、10日に母が亡くなってから精神的というか、神経的というか、妙な疲労感があって、夜中に目を覚ましたり、時差ぼけに似た状態になっていたのだが、それは圧倒的な肉体疲労のおかげで解消されたので、幸いなことである。しかし、その肉体疲労が取れにくくなっていることは、ちょっと哀しい。

それに、体の反応が鈍くなっているということは、パンチを見切ったつもりでもぶっ飛ばされてしまうという可能性があるということだから、ちょっと気をつけよう。

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2007/05/23

「親学」 につっかかるメンタリティ

教育再生会議が 「親学」 なんてものを軽はずみにもまとめちゃったもんだから、ほおら、やっぱりお約束の非難囂々が始まって、最終的には提言見送りになってしまった。

しかしその内容は、私がみるところでは、そんなにひどいものではない。これを悪し様にいうメンタリティの方が、むしろおもしろい。

とりあえず、"「親学」 提言のポイント" なるものをレビューしてみよう (以下、毎日新聞の記事より)

  1. 子守歌を聞かせ、母乳で育児
  2. 授乳中はテレビをつけない。5歳から子どもにテレビ、ビデオを長時間見せない
  3. 早寝早起き朝ごはんの励行
  4. PTAに父親も参加。子どもと対話し教科書にも目を通す
  5. インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限する「フィルタリング」の実施
  6. 企業は授乳休憩で母親を守る
  7. 親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞
  8. 乳幼児健診などに合わせて自治体が「親学」講座を実施
  9. 遊び場確保に道路を一時開放
  10. 幼児段階であいさつなど基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目を習得させる
  11. 思春期からは自尊心が低下しないよう努める

これって、そんなに悪し様に言われるほど、ひどいことかなあ。まあ、取り立てて素晴らしいことでもなく、「なるべくそうした方がいいんだろうね」 という程度のことで、レトリック的には、ちょっと気恥ずかしいものもあるが。

確かに、細かいことを言い出せば、いろいろあるが、だからといって、正面切って噛みつく方が、私にはより恥ずかしい気がする。それに、こうした諮問会議の中身なんて、議事録を眺めてみるとそんなに立派なものじゃないというのは、なにも 「親学」 に限った話じゃないので、それはまた別の次元のことになる。

まず、総論的な批判の典型は、「子育てのマニュアル化」 というものだ。しかし、この程度のものを 「マニュアル」 だなんて言う人は、本当のマニュアルがどんなものか知らない人なので、この批判は論外。単なる感情論に近い。

それから、「そんなこと、政府に言われたくない」 というのも、あまり論評に値しない、単なる感情的態度。子育てに関して政府が何か言えば、この程度のものになると決まっている。それが嫌なら、無視しておけばいい。

あるいは、似たようなことを秋山ちえ子さんが言ったら (もしかしたら、いくつかはおっしゃりそうなことではないか)、ありがたく拝聴するのかもしれない。(秋山さん、妙なところで引き合いに出して、ごめんなさい)

それから、揚げ足取り。例えば、"「テレビでなく演劇」 というが、オペラやバレエはだめなのか" なんてブログで発言している人もいたが、これは、かなり恥ずかしい言いがかりだ。

文言には 「演劇など」 とちゃんと書いてある。この種の文章の 「など」 というのは、馬鹿にしちゃいけない。魔法の言葉なのだ。だから、法律とか何とか規定とかのテキストは、「○○等」 という言い回しのオンパレードである。

目立ったのは、「母乳がいいのはわかっているが、体質的に母乳の出にくい人の立場が考慮されていない」 という指摘。これは多分、一番言いやすいクレームだろう。

しかし、憲法 9条に関する 「平和がいいのはわかってるが、攻撃されたときのことが考慮されていない」 という指摘は、多分ナンセンスとして無視するのだろうなあ。

まあ、憲法 9条は、「美しき努力目標」 なのであって (実際には、軍備だって持ってるし)、運用で処理されているのであり、それを考えれば、「母乳で子育て」 だって似たようなものだ。同じ 「美しき努力目標」 でも、「平和」 は無条件でいいが、「母乳」 はナンセンスということになるのが、私には不思議である。

要するに、政治的なテーブルで論議し始めると、何が正しくて (あるいは妥当で)、何が間違ってるか (あるいは妥当でないか) というのは、立場によってコロコロ変わるのだ。私はそういうのには、なるべく関わりたくないと思ってしまうのだよね。

ちなみに、私の妻は 3人の子供を母乳だけで育てて、人工ミルクは一滴も飲ませてないというのを、内心誇りにしてるのだが、決して母乳の出ない人を差別しているわけじゃないので、そのあたり、よろしくね。

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2007/05/22

御輿に 「人」 が乗ることについて

三社祭の御輿に、担ぎ手が飛び乗ってしまって物議を醸している。

昨年、無理に人が乗ってしまったせいで、三基の本社神輿のうち一基の担ぎ棒が折れるという前代未聞の事態が発生したため、浅草神社側は、人が御輿に乗ることをかなり強行に禁止していた。

それでもやっぱり、今年も御輿に飛び乗ってしまうのが何人もいて、かなり問題になった。そのうちの 3人は、「迷惑防止条例違反」 というもっともらしい容疑で逮捕までされちゃったらしい。

神社側の言い分は、御輿には 「御神霊が入っている」 というのである。つまり、神様の乗られる御輿に、人間が乗ることはまかりならぬと言っているわけだ。

岸和田のだんじりを見るまでもなく、山車には人が乗っているではないかという指摘には、「御輿と山車は違う」 という意見が多く見られる。しかし、博多山笠の舁き山にも人は乗っていて、山笠の場合は、山車というより御輿の形態に近いじゃないか。

ばっさりと言ってしまえば、御輿も山車も、基本的には神の依り代 (よりしろ) であり、担ぐか引くかという以上の根本的な違いはない。じゃあ、どうして山車には人が乗るのかといえば、それは 「人が人として乗る」 のではなく、「人が神の代理として」 乗るのである。

山車や舁き山に乗る人は、単なるその辺の人として乗っているのではなく、神に近い者として乗るのだ。そのために、祭りの前から精進潔斎しているのである。だから、「山車には人が乗っているじゃないか」 というのは通らない。

山車に乗っているのは、あれは 「人」 じゃないのだ。だからといって 「人でなし」 というわけじゃなく、「神」 あるいは 「神に近い者」 ということになっているのである。

だから、御輿にだって、絶対に乗っちゃいけないというわけじゃない。三社祭の御輿だって、大分以前は粋な鳶頭などが乗っていた。しかし、それは 「神の代理」 としての資格で乗っていたのであって、単なるその場の勢いで乗っちゃってたわけじゃない。

やっぱり、クリカラモンモンのおじさんが、つい興奮して乗っちゃったでは、話が落っこちてしまうのだ。ちょっと前の成人式のドタバタみたいなことになってしまう。

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2007/05/21

フェイク・ブログは、逆宣伝かも

私のブログでは、トラックバックされてもそれは無条件では表示されない設定にしてある。スパム・トラックバックが多すぎるからだ。

最近とても目立つのが、フェイク・ブログからのスパム・トラバである。せっかくうちにトラバしても、そんなのは表示してあげないから、無駄なんだけれど。

最近も、こんなのや、こんなのや、こんなのや、こんなのから、まったく無関係の私のブログに不作法なトラックバックが送られてきたけれど、もちろん表示してあげてない。

ただ、トラバとしては表示してあげないけれど、志の低い不作法ブログのサンプルとして知ってもらうために、ここでリンクしちゃう。(おそらく長くは持たなくて、そのうちリンク切れになるだろうけど)

これらは、ブログのような体裁をとりながら、実際は単なる宣伝しかしていない。まともに更新すらしていない。

もし、私がすべてのトラックバックを無条件に表示する設定にしておいたら、私のブログにアクセスした人の何パーセントかは、トラバのリンクをクリックして、相手のブログに飛んでみるかもしれない。

そして、飛んでみた先で、特定ブランドの趣味の悪い宣伝文句ばかりならんだ記事を見て、がっかりしてしまうだろう。「なーんだ、単なる宣伝のためのブログか」 と。

いや、単なる宣伝のブログなら無視していればいいのだが、これらの多くは、オークションサイトなどに誘導するしかけになっていて、それによって多少の利益を得ているのだろう。

カリモクだの、エンポリオ・アルマーニだの、アライヘルメットだのは、それぞれのマーケットでそれなりの、あるいはちょっとプレステージャスなポジショニングを得ているブランドである。それなのに、こんな変てこりんなブログに寄生虫のようにとりつかれるのは、気の毒な限りである。

事情を理解していない人には、「カリモクって、エンポリオ・アルマーニって、こんなちんけな手段で宣伝をするブランドだったの?」 なんて思われてしまうだろう。とはいいながら、対策を講じるのはなかなかむずかしいだろうし。

もしかして、メーカー自身が宣伝のつもりでこんなブログを作らせているのだとしたら、それは金を払って自分自身のイメージを低下させる自殺行為である。

(最初、これらのブログはアフィリエイト関連かと思ったが、どうやらそうではないようなので、書き直した)

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2007/05/20

そりゃ、「斬る」 方が楽さ

世の中の矛盾や問題点をバシバシと 「斬る」 論調は、とてももてはやされやすい。

かくいう私のブログも、ややもすると、その類と思われているフシがある。「世の矛盾を爽快に斬りまくるブログ」 なんて紹介されたりすると、「ありゃ、そんな風に思われてるのかなあ」 なんて、戸惑ったりする。

私としては、なるべく 「斬らない人」 でありたいと願っている。ところが自分で表面上そう思っているだけで、実は言葉の端々で 「斬りまくっている」 としたら、それは私自身の不徳の致すところである。

人間、自分自身の 「当事者意識」 の及ぶ範囲のことについては、そうそうダイナミックに 「斬りまくる」 ことなんてできるものじゃない。自分自身を斬ることになるからだ。平気で 「斬る」 ことができるのは、自分が当事者ではない、「外界」 だけである。

ということは、私に言わせれば、平気であちこち 「斬りまくる」 論調を駆使することのできる人は、「当事者意識の及ぶ範囲」 が狭いのである。言い方を変えれば、人間としての間口が狭いというか、ケツの穴が小さいというか、度量が小さいというか、要するに、世界へのシンパシーが足りないのだ。

もし私が、そんな風な論調に堕するとしたら、私自身のケツの穴が小さいということである。現に、こんな書き方をしている今、そのワナに陥る寸前のところにいる。すれすれのエッジを渡っている。かなり危ない。

世の中の諸問題を豪快に斬りまくった方が、ポピュリズムの大原則に合致して、アクセスだって増えるし、自分が偉くなったような幻想にだってとらわれて、いい気持ちになっちゃうかもしれない。しかし、それはしたくないのである。

他を 「斬る」 ことができるのは、自分自身は 「善」 だと思いこめるからである。世の中の悪や矛盾の責任は、自分にはないと思いこめるからである。幸せなことである。

親鸞上人は、自身を罪悪深重の凡夫であると言っている。他を責める前に、まず自分が悪いと言っているのである。私はこうした態度の方が、人間として誠実であると思うものである。古今東西の大聖人は、世の一切の責任は自分にあると考えたのである。

私がこんなことを言いながら、時々心ならずも、あるいはつい我慢ができずに、世の中に 斬りかかってしまうのは、要するに、私自身の修行がまだまだ足りないということだ。スーダラ節の 「わかっちゃいるけど、やめられない」 である。

もっとも、それは植木等の父君 (浄土真宗の僧侶) によると、親鸞の教えに通じるものがあるということのようなのだが (参照)、そりゃ、かなりの方便というものだろうなあ。

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2007/05/19

事件は現場で起きているのだが…

母が亡くなったのが先週の木曜日で、葬儀の行われたのが日曜日、そしてつくばの地に戻ってきたのが今週の月曜日で、たまっていた仕事をひとまず片付けたのが水曜日。

世間の情報からかなり隔絶された 1週間を抜け出してみると、「日本の家族」 があちこちで変なことになっているじゃないか。

母親の首を持って自首した男の子、赤ちゃんポストに赤ちゃんじゃない子供を入れちゃった父親、バイクの座席下のヘルメット入れに赤ん坊を入れて死なせた両親、あげくに、拳銃をもって自宅に立てこもったオヤジ。

寿命を全うした人間のために、家族、親戚、友人、近所の人たちなど、皆集まって、追悼の日々を送っている間に、日本のあちこちで、家族を殺したり、捨てたり、傷つけたりする事件が頻発していたというのは、私にプリミティブな感覚ギャップを生じさせた。

いつもの精神状態ならばこんなにはならないのだろうが、今回はかなりセンチメンタルな部分でニュースを受け止めてしまった自分がいる。

「シンクロニティ」 という言葉がある。「同時性」 とか 「共時性」 とか訳されている。卑近な感覚で言うと、「似たようなニュースは、続けざまに起きる」 ということだ。飛行機事故なんかは、なぜか固まって起きるような気がするし。

「家族を傷つける」 というのは、そりゃあ、昔からなかったわけじゃないが、こうまでショッキングな形で現われると、やはり何か根本的な原因があるんじゃないかと考えるのが普通である。

「事件は現場で起きている」 というのは確かなことだが、その根本的な原因は、現場を見ているだけではわからない。その奥を見なければならない。しかし、最近の事件を分析して安易に普遍化してしまうのも危険だ。

確かに、「家族や地域の結びつきの欠如」 とか 「強すぎる母親」 とか 「父親の存在の軽さ」 とか 「社会的格差の増大」 とか、いろいろなことが言われる。しかし、その程度のことは、誰だって言える。如実に目に見えることなのだから。つまり、それらはむしろ 「結果」 であって、まだ 「原因」 というところまで迫ってはいない。

「家族や地域の結びつきを強めましょう」 とか、「母性愛の復活」 とか、「父親の威厳を取り戻しましょう」 とか、「社会格差を是正しましょう」 とか、いくら声を大にして言っても、あまり意味はないのである。原因に迫らないで結果のみを是正しようとしても無駄だ。

原因は、やはり人間の 「心」 の問題である。それも、昨日今日の問題ではない。

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2007/05/18

フレッツ障害でも、今回は物わかりのいい私

15日夕刻から発生した NTT 東日本のフレッツ・サービスの通信障害で、我が家もご多分に漏れず、夜中まで、インターネット接続とひかり電話が全然通じなくなった。

だが、これは私にとって 「想定内」 のことで、かなり冷静に対応することができた。多分、これからも起きることだろうし。

昨年 9月のひかり電話不具合の時は、私の関係している某団体事務局で、3日連続、音声通話も FAX もずいぶんつながりにくくなり、かなり往生してしまった。あの時、私は "「ひかり電話」 は枯れるまで待て!" というエントリーを書いている。

そして自分がそう書いたくせに、無節操なことに、自宅の回線を今年の 3月に B フレッツに変えてしまった。「枯れた」 かどうかと言われたら、多分、まだ全然枯れきっていないだろうと思うのだが、この際、勢いでやってしまったのである。

昨年秋の不具合を経験しているので、光ファイバーというのは、ちょっとしたことで障害が発生するものだということは、しっかりと認識していた。NTT も、インターネットというインフラを使った通信に関しては、まだ十分なノウハウを蓄積しているわけではなさそうだ。だから、いつどんな障害が発生してもおかしくない。

私の場合、インターネット接続に関しては、定額でつなぎ放題の PHS 回線も契約してあるので、B フレッツに障害があっても、通信速度にはかなりの差はあるが、致命的に困ることはない。それに、音声通話ならケータイがある。だから、「えいや!」 とばかりに FTTH に移行できたのだ。

今回はデスクトップ PC からプロバイダーのニフティに ping を送っても全然届かないくせに、モバイル PC からピッチ経由では何のことなく接続できるので、B フレッツの不具合なのだということはすぐにわかった。「きっとあるだろう」 と思っていたことが、現実に起こってしまっだけである。

大体において、IT 関連のハード、ソフト、サービスなどというのは、未完成品が流通しているのである。「使いながら、何とかこなしていきましょう」 なんていう、甚だいい加減なところのある世界なのだ。

自動車のマーケットでこんなことをされたら、命がいくつあっても足りないが、パソコンや電話の世界でなら、死ぬことはなかろうから、まだのほほんとしていられる。

というわけで、IT というのは、壮大な規模でのシステム実証実験がエンドレスに続く世界なのだと思えば、多少のことはあっても、あまり腹は立たずに済む。それよりも、こんなに低価格でブロードバンドの常時接続が実現しているのだから、総論的には満足できるレベルにあると言えると思っている。

今回、私は妙に物わかりのいいオッサンなのである。

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2007/05/17

私には 「霊感」 というものが多少あるらしい

昨日は 「虫の知らせ」 などという話を書いた (参照) が、私にはどうやら、少しは 「霊感」 というものがあるようなのだ。

母の通夜の時も、母の霊が挨拶に来たのを感じたが、それはあくまで 「気配」 である。しかし、これまでにたった一度だけ、霊を明らかに 「見た」 という経験がある。

それは、私が安アパートに住んでいた大学 2年生の頃だった。初夏の頃、寝相悪く布団を蹴飛ばして寝ていたので、明け方になり、寒さのために目が覚めかけた。すると、誰か私の体に布団をかけ直してくれる者がいるのである。

びっくりして目を開けると、枕元に白っぽい人影が座って、私を見下ろしていた。それが私の祖父であることは、すぐにわかったので、恐いという感覚は全く生じなかった。そのまま少しうつらうつらし、目が覚めると急に、祖父が死んだのではないかと心配になって、朝の 8時前頃に、公衆電話から実家に電話をかけた。

いきなり電話して、祖父が死んだのではないかと聞くわけにもいかず、私は 「変わったことはないか」 とさりげなく訊ねた。すると、電話に出た母は、「何もない」 と答えた。「そうか、それならいいんだ」 と、電話を切ったのだが、それじゃあ、あの祖父の霊は何しに来たんだ? この疑問は、それから 10年間続いた。

10年経った頃、里帰りしていた私は、父と母に初めてそのことを話した。

「この 10年ぐらい、ずっと不思議に思ってるんだけど、じいさんが生きていた頃、俺のアパートに、霊になって来たことがあったと思うんだ。夜明け頃に、蹴飛ばしていた布団をかけ直してくれたんだよ」

すると、父と母は腰を抜かさんばかりに驚いた。「それじゃあ、あの時、本当にお前のところに行ってたのか!」 と。

両親の話によると、私が祖父の霊を見た頃、祖父は夜中から人事不省に陥り、かかりつけの医者に往診してもらって、ようやく一命をとりとめたことがあった。そして、意識不明の状態から回復した時、祖父は 「今まで、tak (私の本名の代わりに代入) のところに行っていたんだ」 と言ったのだそうだ。

祖父は続けて 「布団を蹴飛ばして寝ていて、あまり寒そうにしていたから、かけ直してやった」 と言った。父も母も明確にそれを記憶していた。

父と母は、それは単に祖父が夢でも見ていたんだろうと思っていた。そして、その日の朝、私から電話が入った時には、祖父は既に危篤状態を脱していたので、心配をかけまいとした母は、「変わったことはない」 と答えたもののようだ。

しかし、祖父が人事不省から覚めた時に口走ったことと、私が遙か離れた東京で体験したことは、あまりにも見事に符合するではないか。というわけで、あれは確かに祖父の霊だったと、私は今でも確信しているのである。

ちなみに、祖父が亡くなったのは、私が彼の霊を見て 3年ほど経った年である。その間、祖父はかなり認知障害が進行していたので、私は 「霊になって、俺の所に来たよね」 とは、直接当人には聞けなかった。聞いてもまともには答えられなかったと思う。

ただ、私は身内とか、生前よほど親しかった人の霊とかでないと、気配を感じることもできない。あまり霊感が強すぎるのもうっとうしいだろうから、この程度で十分だと思っている。

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2007/05/16

「虫の知らせ」 って、どうやらあるみたいだ

母が 10日に亡くなり、12日に通夜、13日に葬儀を執り行ったので、14日に予定していた奈良への出張は急遽中止した。

当初の予定では、奈良で仕事をこなした翌日の 15日は、たまたま 1日だけぽっかりと空いていたので、室生寺辺りを見物して帰ろうと、かなり楽しみにしていたのである。

先月から土日祝日も仕事の予定が入って、休みが取れず、ゴールデンウィークもどこにも行けなかったため、14日に出張の予定が入り、翌日がエアポケットのように空いていることを発見した時は、「やった!」 とほくそ笑んだのであった。「この空白の一日は、思いっきり仕事から逃亡しよう」 と。

萌野の和歌日記」 の萌野さんから、今の季節は室生寺辺りがきれいと推薦してもらい、室生寺なら、ずっと前から行ってみたいと念願していた所なので、かなりルンルン気分だった。

ところが、日が経つにつれてそのルンルン気分が消えて行くのである。ホテルやレンタカーの手配も、何故かする気になれない。予定まで 1週間を切った先週の 8日に、ようやくインターネットで予約したのだが、何だか全然気分が乗らないのである。

せっかく推薦していただいた室生寺だが、「行くと言った手前、行かなきゃいかんだろうなあ」 なんて、萌野さんには申し訳ないような気分にまでなってくる。旅好きの私としては、こんなことは今まで一度もなかったのに。

そうこうしているうちに、10日に母が急に亡くなったという知らせが入った。それで、あの妙な気分は、母からの 「虫の知らせ」 と思い当たったのである。「お前には悪いけど、今度の旅は、行けないからね」 というメッセージだったようだ。

実家に帰ったら、父も予科練の集まり (いわば戦友会みたいなもの) の知らせが入ったのに、なぜか行く気がせず、欠席の知らせを出していたそうだ。毎年、あれだけ楽しみにしていたのに。妙な気分になっていたのは、私だけではなかったわけだ。

母の中の潜在意識は、既に自分の寿命を知って、身内にそれとなくテレパシーを送っていたのかもしれない。私は、こういうことは案外信じてしまう方なのである。

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2007/05/15

亡き母への 「母の日プレゼント」

母の葬儀が 13日に終わり、翌日の月曜日に玄関で片付けものをしていると、宅急便が届いた。「13日の母の日の配達指定でしたが、昨日はお留守だったもので」 という。

包装紙に "Mother's Day" のリボンが付けられている。妹が大分前から手配しておいたプレゼントのパジャマが届いたのだった。

そうか、母の葬儀の日は、「母の日」 でもあったのだと、その時、気が付いた。

家の中で掃除をしていた妹に、「お前と同じ名前の人から、母の日プレゼントが届いたよ」 と言うと、彼女は一瞬絶句して、「早めに手配すると送料無料のキャンペーンだったから、大分前に予約しておいたんだった」 と、改めて悲しそうな顔をする。

私と妻からの母の日プレゼントは、鉢植えの花を手配しておいたが、直前にキャンセルが間に合った。妹のプレゼントは手配したのが大分前のことだっただけに、キャンセルし忘れていたようだ。

ずっと寝たきりの母へのプレゼントなので、パジャマを選んだのだろうが、今やそれを着る体がなくなって、骨壺に収まってしまった。父は、「もう、お前が自分で着るしかないね」 と言う。

思えばこれから先、何年かに一度は、母の命日と母の日とが重なることになるだろう。ちょっと複雑な気持ちである。

とにかく 3日間浮き世と隔絶した暮らしで、ニュースなども全然知らず、浦島太郎みたいになってしまったので、「今日の一撃」 にふさわしいネタが何もない。それで、こんな話を書かせてもらった。

ここから先は、今日も、「和歌ログ」 からの再録。しかし、今日は部分的なコピー & ペーストに止めさせていただこう。それだけ、気を取り直してきているということである。

葬儀に参列してくれた多くの人が、「死んでしまったような気がしない」 「あの笑顔で、今にも語りかけてくれそうな気がする」 と言ってくれた。そう言ってもらえる間は、まだ 「亡くなって」 いるのではない。生きているのだと思える。

思えば、人は、最後には自分以外の人たちの心の中で生きるのである。それだけに、生きているうちに周囲の人を大切にしなければならないなどと、殊勝なことを思ったりする。

そして、母は巧まずして自然にそれをしていたのだなと、感心する。

皐月十三日の歌

人てふは死なぬものなり縁ありし人の心に生き続くれば

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2007/05/14

母の葬儀が終わった

母の葬儀が終わった。身内の弔いを出すというのは、なかなか気骨の折れるものである。故人の人生の集大成をきちんと完成させるのは、残された者たちの役目だからだ。

気持ちの整理はかなりついてきたが、何しろ物理的時間がないので、以下、今日も前日の和歌ログの再録で失礼。


五月十三日の歌

残りしは骨と写真と人々の記憶の中の笑顔なりけり


母の葬儀が終わった。今、実家の中はごった返している。整理には少し手間がかかるだろう。我々は明日帰路に着いてしまうのが心苦しい。

母の女学校時代の友人も、大勢参列してくれた。その中の、とくに仲のよかった一人が、顔をくしゃくしゃにしながらも、素敵なはなむけの言葉を言ってくれた。

「決して自分を強く主張するわけではないけれど、いつもにこにこしてくれていて、私たちとしては、その場にいてくれないと困る人、いてくれないと、なんだか足りない気がする人、そんな人でした」

そうか、母は確かにそんな存在だったのだ。認知症になってからまで、そうだったし。ただ、これからはいつも 「足りない」 気持ちでもいられない。

火葬場で骨を拾いながら、もう母はこの世にいないのだ、残ったのは骨と写真しかないのだと思った。しかし、人々の心の中に残るあの笑顔は、まだ生き続けるという気がした。

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2007/05/13

母の通夜が終わった

母の通夜が終わった。今、斎場のホールでモバイル PC に向かっている。母の死後、2日目にようやく駆けつけた薄情息子の罪滅ぼしとして、灯明の番をしている。

今日も、前日の和歌ログのコピー & ペーストで失礼させていただきたい。葬式が終わるまでは、「今日の一撃」 どころじゃない。


五月十二日の歌

生き変はり死に変はりしていつの日かこの恩をこそ返したきなれ


母の通夜が終わった。

朝につくばの地を発って、昼過ぎに酒田に着き、そのまま斎場に棺おけを運び、通夜になった。

親戚や近所の人が集まってくれて、母の思い出話に花が咲いた。

遺影もいつの間に撮影したものやら、ずいぶんいい写真があったものである。

さて、明日は葬儀だ。

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2007/05/12

一日、仕事してしまった

母が急死して、2日目の昨日、どうしても仕上げなければならない仕事に追われて、一日中パソコンに向かってしまった。

世の中には、親の葬式にも駆けつけられない仕事の人もいるが、こちらは、通夜には間に合いそうだ。今日も和歌ログのコピー & ペーストでお許しいただきたい。


五月十一日の歌

着慣れたる喪服なれども母がため明日着るとは思はざりしを


今日中に帰郷しようかと思ったが、どうしても仕上げなければならない緊急の仕事が残っていたので、明朝に発つことにする。

母の通夜は明日の夕刻からだから、十分間に合うだろう。早く帰りたいのはやまやまだが、一刻を争う危篤という段階はあっという間に過ぎ去ってしまったので、仕方がない。

こんな時に限って、パソコンのフリーズが連発して、イチから作業のやり直しという事態が二度も繰り返された。体の力が抜けているので、ひどく疲れる。

ワードローブの外に喪服を掛けて風を通している。近頃、結婚式というのは全然縁遠くなってしまって、葬式にばかり着ている。しかし、母の葬式で着るのが、いつか来るものとはいえ、こんなに早くなろうとは思っていなかった。

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2007/05/11

ちょっと、お断り

申し訳ないが、ちょっとした事情で、「今日の一撃」 的なネタをすいすいと書けるような精神状態にない。

気持ちが落ち着くまで、別宅サイト 「和歌ログ」 の前日ログを、コピー&ペーストさせていただくことにする。気を取り直すのに、それほど長くはかけないつもりなので、よろしく。


五月十日の歌

降るはずの雨降らぬ間に垂乳根の母は静かに死に給ふなり


昼前、出先に妻から電話が入った。母が緊急入院したという。実家の近所の人から知らせが入ったらしい。

とはいえ、父からの電話はない。妹が急遽実家に飛んだが、様子がわからず、どうにも動きが取れない。

夕方、ようやく父から電話が入った。今日の昼頃に亡くなったという。寝たきりだったとはいえ、あまりにも突然の死だったので、検死に手間がかかり、警察の調べまであって、連絡が取れなかったそうだ。

それにしても、こういう場合って、一応とはいえ、警察が入るのだな。

左手の肘から先しか動かせず、自分では寝返りも打てない体で、しかも認知症で言葉も発することができない状態で、しかし、七年間、ベッドの上でただ ニコニコと笑っていた。全然動けないのに、とても始末のいい病人だった。寝たきりになっても、ずっと友人や近所の人気者だった。

今朝も、市の介護サービスのヘルパーさんから朝食を食べさせてもらい、満足してうとうとし始めて、その数分後に呼吸が止まっていたという。大往生だ。五月十日とは、命日も憶えやすいし、幸せな人だったと思う。

昼頃には降り始めるはずだった雨がなかなか降らない間に、夕方になり、暗くなり始めるころから、遠くで稲妻が光り始めた。

もう緊急を要するわけではないので、自分と家族の仕事の予定を都合して、明日か、明後日の朝には家族全員で帰郷することになる。

土曜に通夜、日曜に告別式。よって、来週の月曜からの奈良出張は中止。

唯々感謝、合掌。

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2007/05/10

神田祭を巡る冒険

本日 10日の夕刻から、神田祭が始まる。神田の街は今、神楽の音が絶え間なく響いて、祭りムードが高まっている。

神田祭とは、いうまでもなく神田明神の祭礼である。神田明神の主神は平将門と思われているが、実は、御祭神としては 3番目の 「三之宮」 として位置づけられている (参照)。

ただ、公式には、大己貴命 (おおなむちのみこと)、少彦名命 (すくなひこなのみこと) の方が上位に祀られているからと言っても、庶民感覚としては、やはり明神様は将門公を祀った神社ということになっているのだ。

元々は、神田の地に入植した出雲系の氏族が、大己貴命 (出雲大社の大国主命の別称とされる) を祀ったことに始まるようだが、何といっても、将門の乱以後に一挙に高まった御霊信仰で、将門の霊が相殿神として祀られてからは、もう 「平将門を祀る神社」 ということになってしまった。

で、将門の乱に際して、朝廷の命を受けて東国平定の願をかけて建立されたのが、成田山新勝寺である。俵藤太藤原秀郷は、将門征伐に先立って、この寺で必勝を祈願したという。

だから、成田山と神田明神とはそもそも発端からの敵同士のようで、以前は成田山の信徒は神田祭の間は江戸に出るのを憚ったという。また、神田明神の氏子も、成田山に参詣なんかしたら将門様の逆鱗に触れて、帰り道にきっと災いに遭うとやらで、足を向けなかったらしい。

将門は逆賊という位置づけになっていたのだが、江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が、幕府より将門の事績について聞かされて感ずるところあったらしく、「将門は朝敵に非ず」 と奏上したことにより、朝敵の汚名は除かれている。

さすがに、三代将軍の時代になると、江戸のポジショニングも向上して、東国の大英雄で人気の高い将門を、朝敵扱いに据え置くのも憚られたのだろう。

ところが明治維新の王政復古後は再び逆賊扱いのムードが高まり、明治 7年には、平将門神は神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座された。圧力に屈した神田明神側の自主規制といったところだろうか。

しかし太平洋戦争後は、逆に将門は反体制の英雄という評価が高まり、昭和 59年に再び、神田明神に合祀されている。かなりの毀誉褒貶だが、収るべきところに収ったと言うべきか。ただ、一貫して、将門様の庶民の人気は圧倒的だった。

ちなみに、江戸庶民の娯楽の王様、歌舞伎の大立者である市川団十郎の屋号が 「成田屋」 であるというのは、なかなか複雑な心象風景である。元禄の世でも、日の丸掲げる右翼的メンタリティと、一種共通していただろうか。

こうしてみると、江戸庶民の日常感覚により近かったのは、尾上菊五郎の音羽屋系だったかもしれない。庶民感情にも、事大主義と反骨精神のない交ぜとなった重層的なところがある。

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2007/05/09

霧は痒いのだ

昨日の朝、珍しく都心に霧がたちこめたそうだ。私が都心に出たのは午前 9時半頃だったから、もう消えかけていたが、8時前頃はかなりの濃霧だったらしい。

ここ 10年間の東京の霧発生日数は、年平均で 1.8日しかないそうだが、1945~50年頃は、30~40日も霧が発生していた (参照)。

なにしろ、「東京の灯よいつまでも」 という大昔の歌謡曲があって、その出だしの歌詞が 「雨の外苑 夜霧の日比谷」 というのである。ちょっと調べてみたら、昭和 39年、つまり東京オリンピックの年のヒット曲だったようだ (参照

ということは、東京オリンピックの年あたりまでは、歌に歌われるほどに、東京都心の日比谷あたりでも霧がしょっちゅう発生していたようなのである。まあ、サンフランシスコほどではないだろうけれど。

東京の霧の発生が極端に減ったのは、1970年代を境にしている。私は昭和 46年 (1971年) に大学入学で上京したが、確かに東京で霧なんかほとんど見たことがない。それどころか、私は今住んでいるつくばの里に越してくるまで、霧なんてまともにみたことがなかった。

東京での霧の発生が激減したのは、温暖化、都市化現象のためとみられている。樹木伐採、ビル建設、道路の舗装などで裸地が減少し、地表からの水蒸気の蒸発が減り、その結果、霧が発生しなくなったと言われている。

一方、私の生まれた山形県庄内地方は、自然環境は豊かなのだが、何しろ年中風が強いので、霧なんか滅多に出ないのである。いや、出たとしても、すぐに吹き飛んでしまうのだ。その代わり、地吹雪で見通しがきかなくなることはしょっちゅうだが。

ところが、昭和 57年に、このつくばの地に越してきて、驚いた。年中濃霧が発生するのである。夏の朝、とっくに日は昇っているはずなのに、霧で見通しがきかないために、車のライトを点けて、歩くようなスピードで行くことが度々あるのだ。つまり、この地は風が穏やかで、自然が豊かということなのだろう。

ちなみに、霧が発生するには、空気中に霧の核となる微粒子が多数存在しなければならない。芥子粒ほどの塵とか、煤とか、そんなものである。それに水蒸気がひっついて、凝結して霧になる。

そのせいだろう。霧の中をバイクで走ると (フルフェイスのヘルメットでは大丈夫かもしれないが)、顔がものすごく痒くなる。霧の核となっている微粒子が、毛穴の奥まで入り込んでしまうようなのだ。だから、なまじの洗顔では、この痒みはなかなか取れない。

東京オリンピックの頃、夜霧の日比谷公園で愛をささやき合っていた恋人たちも、もしかしたら、ほっぺたをぽりぽり掻いたりしていたのだろうか。

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2007/05/08

ケータイの操作って、わけわからない

ケータイの操作って、ややこしくて、わけわからない。さっきも末娘から 「ケータイのメルアド変えた」 というメールが入って、それをアドレス帳に登録するので大騒ぎだった。

新しいメルアドを登録するのはなんなくできたのだが、古いメルアドを消去しようとしたら、末娘のデータ全体が消えてしまった。

ケータイの番号なんてのは、ケータイのアドレス帳にしかデータがないから、末娘に電話できなくなってしまったわけだ。しかたないから、妻に聞こうとしたら、「私も同じ操作間違いしたらしくて、データが消えちゃったのよ」 という。やれやれ。

仕方がないから、メールボックスを開いて、今来たばかりの末娘のメルアド変更メールに Res を送る。こういうことは、妻がやると私の倍ぐらい手間がかかるから、私が引き受ける。

「君の古いメルアド消去しようとしたら、全部消しちゃった。こちらから電話かけられないから、ワン切りして」

すると、30秒も立たないうちにちゃんとワン切りがあった。その番号をアドレス帳に新規登録し、そのアカウントに、さっき届いたメールのアドレスを登録する。ふう。ようやくできた。ありゃ、そういえば、まだもう一つすることがあった。

今登録したばかりの番号に電話する。私は基本的に音声通話よりメールで済ませたいクチなのだが、ケータイでテキストを打ち込むと、時間がかかってイライラしまくりになる (PCのキーボードなら、10秒足らずで打ち込めるのに) ので、仕方なく電話を選択してしまった。

「お母さんの方のケータイにもワン切りしといて」
「なんだ、夫婦で同じ失敗しちゃったの?」
「そうなんだよ」
「何だか、かわいい夫婦だね」
「知るか」

本当にもう、ケータイの操作のわけわからなさ、何とかしてもらいたい。

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2007/05/07

ジャンボジェットはなぜ 「浮かぶ」 か?

"Hatena Question" の、「ジャンボジェット機はなぜ空に浮かんでいられるのですか?」 という質問が、妙な注目を浴びている。

回答者たちは論理、比喩、ジョーク等々、あらゆる手を尽くして質問者に納得させようとするが、その試みは未だ成功していない。質問者の得心を得るのは、至難の業なのである。

質問者は、"「空気の密度と機体の速度により翼下に揚力が発生し、機体重量よりも揚力が大きいと浮力が、、、」 のような、純科学的な説明は求めていません。そんなことは頭では分かっています" と公言している。決して馬鹿ではないのである。

それだけに、「非常に主観的な命題」 であると自分で納得していて、この 「非常に主観的な感覚」 に、ストンと腑に落ちるような説明を求めている。そして、なまじの説明ではまったく受け付けようとしないのである。

それだけに、このケースに付き合うには、「ジャンボジェットがなぜ飛ぶか?」 という物理学的理解よりも、「こうした心的傾向をもつ人間は、何故にこのような質問をするか?」 という、心理学的理解が優先されなければならない。物理的な説明をしようと試みた回答者は、まずこの最初のステップでつまづいているのである。

要するに、質問者は、物理学的なプロセスでの理解なんか、初めからしたくないのである。そして、自分が納得しようがしまいが、ジャンボジェットは現実に空を飛んでいるので、いくら理解を拒否しても、自分にも世間にも、何らの損害も与えないのだから、とても気楽だ。

つまり、なまじのことでは理解なんかしたくない。しかし、何かとてつもなく素敵でファンタスティックでチャーミングな論法による説得があったら、そこで初めて納得してあげてもいい。ただ、よっぽどチャーミングな論法でなければ、納得の安売りなんかしたくないのだ。

ふーむ、何と素敵なポジションに、質問者は座しているではないか。まるで、火鼠の皮を所望するかぐや姫のようである。

ただ、この質問者のアキレス腱は、「ジャンボジェットはなぜ空に浮かんでいられるのですか?」 と聞いていることだ。お気づきかと思うが、「浮かぶ」 という言葉は、このケースでは適切ではない。ジャンボジェットは、決して船や風船のように 「浮かんでいる」 わけではないからだ。

つまり、質問自体に隙があって、ちょっとだけナンセンスなので、この質問に付き合うことも、ちょっとだけナンセンスということになる。敢えていえば、これが私の結論だ。

ところで、高所恐怖症気味の私は、初めてジャンボジェットに乗って海外旅行をしたとき、離陸と着陸の際には、緊張して両足を踏ん張っていたことを思い出す。しかし、二度目からは極めて安心して飛行に身を任せていた。

「人間が飛ばそうと思って作ったんだから、飛ぶに決まっている」 と、私は納得したのである。「時々落ちることもあるのは、普段は飛ぶからこそなのだ」 と。そして、私自身は常に 「普段」 の方に乗り合わせる人だと信じたのである。

これこそ、「非常に主観的」 (あるいは、"normalcy bias") ではあるが。

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2007/05/06

人間のディスプレイ行動

私は 「つくばみらい市」 という、れっきとした 「市」 に住んでいるのだが、家は住宅地と農地との境界線に近いところにあって、かなりというか、とことん 「のどか」 である。

で、今の季節、昼はヒバリのひっきりなしにさえずる声、そして、夕方以後は蛙の大合唱が聞こえてくる。

これだけひっきりなしに動物の鳴き声が聞こえてくると、うるさくて気に障っても不思議ではないが、実際には、あまりうるさいとは感じない。聞こうと思えば聞こえるが、気にしなければ聞こえないという音になっている。

とくに蛙の鳴き声は、いわばクラシック音楽の通低音みたいなもので、本当に気に障らない。しかし、ヒバリの鳴き声は、何かの拍子に気にし始めたら、ちょっとうるさく感じても不思議じゃないようなレベルである。

絶え間なくさえずりながら必死に羽ばたいて上昇するヒバリを、俳句の世界では 「揚雲雀」 と言って、春の季語になっている。私は、ヒバリが空中を上昇するのに、あんなに必死に羽を動かしているのに、その上、あんなに鳴き続けていたら、エネルギー効率がさぞ悪かろうにと、つい最近まで思っていた。

ただでさえ、ほかの鳥よりも飛ぶのが不器用そうで、必死に羽ばたかなければ上昇できないくせに、なんでまた、あんなに声まで出し続けなければならないのかと。

しかし、あれはヒバリにとっては縄張りを主張する 「ディスプレイ行動」 なのだと最近知って、納得した。なるほど、それならば単に飛び上がるだけでは足りなくて、うるさいぐらいの鳴き声だって動員して、自己主張しなければならないだろう。

で、ここまで考えて、私は自分が 4日前に書いたエントリーを思い出した。電車の中で、自分の言葉を不必要なまでに周囲に聞かせつけるような、小うるさい話し方をする人種の話である。

私は、こうした小うるさい話し方をするタイプの潜在意識の中に、「ねぇ、お願い、みんな、わかって、私をわかって!」 という欲求があるのではないかと推論した。なるほど、あれもまた、ヒバリの絶え間ない鳴き声と同様に、「ディスプレイ行動」 だったのだ。

でも、あまり電車の中なんかでディスプレイ行動なんて、しないでもらいたい。単純にうるさいから。

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2007/05/05

大家族の鯉のぼりと少子化

私の生まれた庄内は、ひな祭りの盛んな土地柄 (参照) だが、現在住んでいるつくばの里は、鯉のぼりが盛んである。

こちらに引っ越してきた 25年前は、あちこちの家々に、びっくりするほど盛大な鯉のぼりが上げられていて、感心するというよりは、ただただ呆気にとられて見ていたものだ。

この辺りでは、男の子が生まれると、親戚一同が寄ってたかって鯉のぼりをプレゼントするという風習があるようで、多分、もらった鯉のぼりは全部上げないと申し訳がないというようなメンタリティからだと思うのだが、結果的にとても派手な鯉のぼりになる。

何しろ数が多いので、一本の柱に縦に上げるのでは、とんでもない高い柱が必要になる。そんなわけにもいかないので、大抵は写真のように、柱を中心に左右に振り分ける形になっている。ものすごい大家族の鯉のぼりだ。

ところが、以前はあちらにもこちらにも、こうしたど派手な鯉のぼりが見えたのだが、最近ではとんと目立たなくなってしまった。探すのに苦労するほどである。理由は単純で、子供の数が減ってしまったからだろう。

私がこちらに引っ越してきた 25年前の男の子は、今では 30歳前後に達しているのだろうが、多くはまだ独身で、その下の世代は極端に少ない。小学校でも教室が余ってしまって、何とか資料室とか、かんとか懇談室とか、わけのわからない空き部屋が一杯だ。

というわけで、人間の世界は子供が減って大変なのだが、たまに見かける鯉のぼりは相変わらず大家族なのである。それどころか、最近はあまり日の目を見なくなった鯉のぼりを大量動員して、川に渡してしまおうという試みがこの辺りまで出てきている。なるほど、確かに気持ちはわかる。

こどもの日の本番は、一昨日あたりまでは天気が崩れるという予報だったが、昨日から、「曇り時々晴れ」 に変わっていて、何とか持ちこたえそうだ。

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2007/05/04

高野連の都合

高野連の 「最終発表」 によると、日本学生野球憲章に違反するスポーツ特待制度申告は 376校だったそうだ。

要するに、有力校のほとんどなんだろう。あれだけ勇ましくプロ野球側に噛みついちゃった行きがかり上、このくらいの出血は、仕方がなかったのかもしれない。

それにしても、なんでまた、今さら、特待制度の調査なんてことになったのだろう。高野連のお偉方が、こうした制度があるのを知らなかったわけはないだろうに。

これは、部外者の寝言と思ってもらって結構なのだが、私は密かに、これまで 「おねだり体質」 で甘い汁を吸ってきた高野連の一部 (?) のお偉方を守るために、学校に泥をかぶってもらったんじゃないかと疑っている。要するに、個人を守るために、学校をやり玉に上げたんじゃないかということだ。

野球の得意な子の学費を免除するなどの優遇は、私は別に悪いことじゃないと思う。勉強のできる子が奨学金をもらえるのだから、スポーツの得意な子が特待制度の恩恵にあずかって、何が悪いというのだろう。それほど大騒ぎするほどのことじゃなかろう。

それよりよっぽど問題なのは、有力なアマチュア選手をプロ球団に斡旋して、法外な裏金を受け取ることだ。しかも、プロ球団が多額の裏金を出すようになったのは、アマチュア側の指導者が要求したからだという、有力な情報がある。

普通に考えても、需要と供給の関係の常識からいえば、少数の有力選手を複数のプロ球団が取り合えば、そりゃあ、売り手市場にもなろうというものだ。

そんなこんなで、アマチュア側の指導者の中には、叩けば埃の出る人がいくらでもいるだろうと想像される。とくに都道府県単位の連盟の役員の中には、そんな人がいても不思議じゃない。そんな 「おねだりさん」 がぼろぼろ明るみに出たら、それこそ大変なことになる。

こう考えると、連盟が個人としての保身に協力的になったとしても、不思議はない。そのために、学校レベルでの特待制度を 「隠れ蓑」 にするのは、まあ、少し奇異な感じはするが、アイデアとしては 「あり」 ということだったんじゃなかろうかと、思ってしまうのだ。

その上で、「世論に鑑みて」 許されてしかるべきという結論が出たとか何とか言って、近い将来、理事会で修正決議して、野球の特待制度にお墨付きを与えてしまうということだってできる。そうすれば、今回の一時的な出血なんて、取るに足りないことになる。

何度も言うけれど、これは 「部外者の寝言」 なので、そのあたり、よろしく。

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2007/05/03

大学生の国語力の低下というより……

大学生の国語力低下が話題だ。「骨が折れる仕事」 を 「骨折する仕事」 と勘違いした女子大生の話まで紹介されている。(参照

柔道の山下さんの同様の勘違いは、「実直な人柄を伺わせた」 で済んだのに、女子大生になると、とたんに 「亡国の民」 扱いになってしまうのはちょっと気の毒だ。

今回のニュースでは、社交性などを診断する性格検査の際、「骨が折れる仕事は嫌です」 という項目に対して、女子学生が 「『骨折する仕事』 が嫌なのは当たり前」 と言い出したことが紹介されている。

しかし、こんなのは今に始まったことじゃない。憶えておいでの方も多いと思うが、あの柔道の山下泰裕氏は、かつて皇居の園遊会に招かれた際に、昭和天皇から 「骨が折れますか」 と尋ねられ、「はい、昨年骨折しました」 と答えて周囲の笑いを誘った。

このエピソードは有名だが、一般には 「いかにも実直な人柄を表した逸話」 という位置づけになっている。ところが、同じ勘違いを女子大生がしてしまうと、とたんにバカ娘呼ばわりに近い扱いである。かなりバイアスがきつい。

この程度の勘違いをする人は、昔からいた。いくらでもいた。今に始まったことじゃないのである。ただ、昔は、こんな勘違いをするような連中まで大学に入ることは、そんなにはなかったというだけのことだ。

大学生の国語力が低下しているのではなく、国語力のない連中まで大学にはいるようになったというだけのことだ。立川談志が、「女子大生が売春してるんじゃなくて、売春婦が大学に行く時代になっただけ」 と喝破したようなものなのかもしれない。

ありゃりゃ、女子大生を弁護するつもりだったのに、おかしな方向に逸れてしまった。私自身は、談志師匠と同じ見解というわけではないので、よろしく。

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2007/05/02

言葉をきちんと届かせるには

昨日、久しぶりで電車の中の話し声が 「癇に障る」 タイプの女性がいた。決して大声で話しているわけじゃないのだが、その声が妙に周囲に小うるさく感じられるのだ。

こういうタイプの人というのは、自分の話している相手に言葉が 「ストン」 と伝わるのではなく、無駄に拡散してしまっているのである。

その女性は連れの男 (多分、職場の親しい同僚) と、仕事関係の話をしているのだが、「ああ、それはそうね。確かにそうね」 とか、「ふぅん、そうなんだ」 とかいう相づちのほか、「うーん、それはちょっと違うんじゃないかな」 とか、単純なことを言うだけなのに、無駄に周りに聞かせるような声の出し方をするのだ。

それは、決してことさらな大声というのではないが、不思議なほど周囲に無駄に響いて、小うるさいのである。

ことばが劈(ひら)かれるとき』 という本の著者で、演劇を通じて障害児その他の教育活動にも関わっておられる竹内敏晴氏のメソッドに、「声を相手に届かせる」 という訓練がある。

発する言葉が、目指す相手の胸に 「ストン」 と伝わらないというのには、大きく 2種類あって、それは距離と方向の問題だ。

距離の問題は、単にパワー不足で相手に届かない場合と、力みすぎて相手を通り越してしまい、その向こうに話しかけてしまっている場合がある。これらは、力の配分で案外単純に修正できるのだが、決定的に難しいのは、方向性の意識が欠如している場合だ。

竹内氏のメソッドを経験してみると如実にわかるのだが、声というものには、方向性 (ディレクション) があるのである。それを心と体でコントロールできるのだ。

自分の話しかけている相手に、きちんと声のディレクションを集約して届けられる人と、ばらけてしまう人がいる。声がばらけてしまうのは、要するに、心が相手にきちんと向かい合っていないからなのだ。そして、それを当人が全然意識していない場合が多い。

こんなタイプの人と話をすると、何となくきちんと通じ合っていないんじゃないかという不安を感じる。相手の発する声が、上の空のような感覚だからだ。

そうした人は多分、一見すると直接の相手と会話をしているようだが、実は、むしろその周囲に向かって、「ねぇ、お願い、みんな、わかって、私をわかって!」 と、無意識的に訴えているのである。対象を見る意識が拡散してしまっているので、発する声まで拡散してしまう。

「私をわかって!」 と訴える声は、しかし、実際は単に癇に障るだけだから、誰にも永遠にわかってもらえることはない。一種の悲劇である。自分を本当にわかってもらうためには、直接話している相手に、きちんと言葉を届かせるほかないのである。

そして、世の中にはそれができない人がいる。言葉による単純なコミュニケーションでも、本当に心を通い合わせるためには、意識的な心と体の訓練が必要なのだ。

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2007/05/01

「羊とプードル」 ネタの余話

私のサイトは、土日祝日には目立ってアクセスが減る。ましてや、年末年始やゴールデンウィークの連休になると、がくんと落ちる。

しかし、この連休は減り方がそれほど激しくない。どうしたのかと思ってリンク元を調べてみると、「羊とプードル」 ネタで検索されたのが、やたらと多いのだ。

で、試しに 「羊 プードル」 のキーワードでググってみると、4月 29日の段階では、ネタ元の "Tokyo Fuku-blog" の記事がトップで、ウチの 4月 28日付のエントリー、「羊とプードルとフリースの三題噺」 が、なんと 2番目にランクされていた。「へぇ~」 である。

そして、昨日は何だかミラーサイトの 「はてなダイアリー」 の方が賑わっているので、30日夜に改めて同じキーワードでググってみると、今度はそっちの方が、69,200件中のトップになってしまっているのだった。「へぇ~」 の 2乗である。ネタ元である Fuku-blog さんに申し訳がない。

しかし、どうせ Google のトップになるなら、ミラーサイトでない純正版のココログの記事の方になってもらいたかったのだが、なにしろ、はてな村というところは、ちょっと話題になるとすぐに自動的にリンクがばかばかと付いてしまうので、リンク件数重視の Google には高く評価されやすいようなのだ。ふ~ん。

で、ついでに 「羊 プードル」 でググられたサイトのいくつかを覗いてみると、このネタを真に受けているというか、少なくとも半信半疑というのが案外多いのに驚いた。

私のエントリーなんかは、あまり正面切って攻撃的に 「ウソ」 と決めつけるのも何だか野暮な気がしたので、ちょっと遠回しに、よくできたジョークと位置づけている (要するに、「本当のわけないじゃん」 と言っている) のだが、それでも、今になってみるとその真意が伝わっているのかどうか、心配になってしまった。

私は昨年、"「世間」 と 「ネット」 はよく似てる" というエントリーを書いた。どちらも、虚実ない交ぜの不思議な空間を構成しているという意味合いである。インターネットは今や、「第二の世間」 になったのだ。怪しい世間話が増殖するのも、無理もない。

ちなみに、「~三題噺」 のコメント欄に自分でレスしたことなのだが、もし私が詐欺師だったとしても、以下の理由で、プードル詐欺に手を染めることはないだろう。まずペイしないだろうから。

  1. 2000頭以上もの子羊を通関させる業務の煩雑さと、検疫などを終えて実際に入手できるまでの手間は、大変だろう。
  2. もし正規の通関手続きを経ない密輸だとしたら、大量の生き物を英国やオーストラリアから運んでくるだけで、かなりのリスクとコストだろう。
  3. 羊の毛をプードル風にカットできる技術者 (犬でできても、羊でできるわけじゃない) を探し出して雇うだけで、かなりの手間とコストがかかるだろう。
  4. 羊は決まった場所に排泄するしつけができないから、出荷するまでのウンチとオシッコの処理で、大変なことになるだろう。

SUN によると、詐欺業者のサイトは既に閉じてしまったらしい。きっと、ウンチとオシッコの処理に音を上げて、この仕事から手を引いてしまったんだろう。(こんな余計なこと書くから、またややこしいことになるのだが)

【追記】

5月 1日 午前 10時半頃に「羊 プードル」 のキーワードで再び確認したところ、ココログの記事の方が Google のトップになっていた。めでたし、めでたし。

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