十牛図解釈
「十牛図」 というものをご存知だろうか。なんでも、臨済禅の奥義を、牛に譬えて示したもので、私なんか、口開けっ放しで呆然としてしまうほどの、深い深いものなのである。
ウェブの世界でも、これについて解説したサイトがいくらでもあるので、興味があれば、辿ってご覧いただきたい (参照)。
十牛図に関しては、以前からとても興味をもっていて、私の本宅サイトのリンクページからも、リンクを張ってある (参照)。
十牛図は一口にいうと、悟りを得ようと志すという初歩のレベルから、もはや 「悟り」 と呼ぶすらおこがましいほどの最高の境地に至るまでを 10段階に分け、牧童が 「牛」 を求めるというメタファーで図示したものだ。
で、あんまりくどくど言ってもしょうがないので、私なりのごくごく初歩的な解釈を、以下に述べようと思う。(「私なり」 なんて言ってるうちは、しょうがないんだけれど)
壱 「尋牛 (牛を尋ねる)」
俺だって、悟ってみたいんだもんね。
弐 「見跡 (牛の足跡を見つける)」
悟りの糸口が見つかったかもしれんもんね。
参 「見牛 (牛の姿がちらりと見えた)」
悟りってどんなもんだか、おぼろげに見えちゃった気がするもんね。
四 「得牛 (牛を捕らえた)」
本当に、ちょっぴり悟っちゃったかもしれないもんね。
五 「牧牛 (牛を飼い慣らした)」
かなり悟っちゃったような気がするもんね。
六 「騎牛帰家 (手なずけた牛に乗って家に帰った)」
もう、本当に深く悟っちゃったもんね。
七 「忘牛存人 (牛を忘れた)」
悟りなんて、忘れちゃったもんね。
八 「人牛倶忘 (牛も自分も忘れた)」
悟りを忘れちゃったことも、忘れちゃったもんね。
九 「返本還源 (もとに返る)」
もう、「そのまんま」 だもんね。
十 「入鄽垂手 (いい気持ちで市場に行く)」
周りと一緒に上機嫌だもんね。
ということになる (んじゃないかなあ)。
つくづく、すごいなあと思うのは、「本当に深く悟っちゃったもんね」 というのが、10段階のうちの、たかだか 6番目の段階でしかないということだ。「悟った」 と満足している自分なんてものがあるうちは、まだその程度のものらしいのである。
で、悟っちゃったことなんか忘れてしまって、その忘れたことすら忘れてしまうという、かなり幽玄の境に入っても、まだ 8番目の段階である。奥はさらに深いのだ。
その奥というのは、「そのまんま」 ということ、つまり本源の自己にまっとうに立ち返り、そうなってしまうと、しまいには、別に寺に籠って修行なんてしなくても、酒瓶を腰にぶら下げて、上機嫌でスタスタと市場に行って、自由自在に楽しんでしまうんだそうだ。
最終段階に入ってしまうと、傍目には悟った聖者だか、ただの酔っぱらいだか、わかったもんじゃないが、それでも、そんじょそこらのおっさんとは、わけが違うのだろうなあ。どこが違ってるんだか、わからんけど。
一つだけ言えるのは、本当に最終段階に入ってしまうと、それは単に自分だけの境地ではなくなってしまうようなのだね。
もっときちんと学んでみたいという方は、こちら へどうぞ。
| 固定リンク
「哲学・精神世界」カテゴリの記事
- 土俵と女性(2018.04.07)
- 西部邁氏に関する最近の報道から(2018.04.06)
- 「我々は既に 『ロボット』 なんだから」 という思い(2018.03.03)
- コマイヌサン 「ア」、コマイヌサン 「ウン」(2006.01.01)
- 日本人の独特すぎる宗教観(2017.12.10)
コメント
なんとなーく、悟りについてわかったような気がしました。
牛の足跡くらいは見つけたかな?
投稿: 宗光 | 2007/06/22 12:39
宗光 さん:
私なんか、悟る前から忘れ放題ですからね (^o^)
投稿: tak | 2007/06/22 16:35