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2007年7月に作成された投稿

2007/07/31

カール・ゴッチの死

30日、名古屋での会議に出席するために、10時前の新幹線に乗ろうとしたら、静岡県内の豪雨のため運転していないという。

「おやまあ、どうしましょう」 と思ったが、とりあえず東京駅まで行くと、動き始めていた。あらうれしやと新幹線改札口を通った途端に、落雷で再び運転中止。やれやれ。

で、またまたとりあえず、一番先に出発しそうな 「ひかり」 の自由席に座っていると、ほどなく発車して、約 40分遅れで名古屋に到着した。会議にはぎりぎりセーフ。やれやれ。

帰りは 5時前の 「のぞみ」 で、何のことなく帰って来ることができた。やれやれ。で、名古屋駅で 「東スポ」 じゃない、「中京スポーツ」 を買うと (45年来のプロレスファンである私の愛読紙である)、なんと、あのカール・ゴッチが亡くなったという記事が載っている。

今年は、本当に大切な人が死ぬ年である。5月に母が亡くなったのは別格として、カール・ゴッチが死んだというのは、一つの時代の終焉を感じさせるお話だ。

私は昭和 48年にカール・ゴッチの試合を生で見ている。今はなき蔵前国技館で開催された、新日本プロレスの 「世界最強タッグ」 という試合だ。アントニオ猪木、坂口征二組 対 カール・ゴッチ、ルー・テーズ組 である。

この当時、カール・ゴッチは 48歳、ルー・テーズは 57歳だった。ルー・テーズは最盛期にいくら強かったとは言え、今の私の年よりさらに 2歳も上である。2本目で坂口征二をバックドロップで投げて、フォールを奪ったとはいえ、印象としてはちょっと弱々しかった。それも仕方がない。還暦までに 3年しかないという年である。

それに、坂口征二は決して器用なプロレスラーというわけじゃなかったから、あの年のルー・テーズの良さを引き出すというわけにはいかなかった。猪木ならそれができたのだが。だから、バックドロップで投げられた時も、わざわざ投げてもらったという印象だった。

ところが、カール・ゴッチは 48歳にしてまだまだ強かった。猪木と五分で渡り合えていた。30代前半の頃は、うっとりするほど強かったろう。

ゴッチのスタイルは、ショーマンシップを廃した 「ストロング・スタイル」 であると言われているが、それでも、それなりのギミックは要所要所に配していた。猪木のキーロックに決められたまま、彼を肩の上まで担ぎ上げて、コーナーポストの上まで運んでしまうというのは、おなじみの見ものだった。

後に長州力が同じことをしようとしたが、どうしても相手を肩の上まで担ぎ上げることができず、ちょっとみっともなかったのを覚えている (もちろん、相手も下手だったのだろうが)。こうしてみると、ゴッチさん、一面ではなかなかのパワーレスリングの体現者だった。

昭和プロレスの地味ではあるが重要なギミックのひとつに、レッグロックがある。足固めだ。子供の頃のプロレスごっこで、足固めを決めようとすると、空気を読めない素人 (どうせ素人なのだが) の子供は足を思いっきりバタバタさせたり、相手を蹴ったりするので、なかなかレッグロックに入れなかった。まったく困ったものである。

現在の格闘技でも、レッグロックなんていうのは容易には決まらない。思いっきり足をバタバタさせて逃げれば、そんなに決められるものではない。

カール・ゴッチは、いくらショーマンシップを嫌ったとはいえ、足をバタバタなんてみっともないことはしなかった (そんなことをしたら、プロレスにならない)。しっかりとシックに、エレガントに、足首関節の極め合いという状況を演出して見せてくれた。

プロレスで大切なものは、レスラー同士の信頼感である。信頼し合っていればこそ、難しい技も仕掛けられる。仕掛けられれば、受けても見せられる。信頼感のないところに名勝負は生まれない。

今思えば、カール・ゴッチとの信頼感を醸造するというのは、なかなか高いハードルだった。なまじの技量では追いつかないのである。日本のプロレスラーの中には、それを体現する者が多かった。だから、カール・ゴッチは日本のレスラーをコーチするのが好きだったのである。

昭和プロレスの時代は、なかなかいい時代だった。その中での最も高レベルの体現者であったカール・ゴッチの死を、私はとても重く受け止めている。本当に本当に、冥福を祈る。

そして、クラシック・スタイルのプロレスを追求する 「無我」 には、少なからず期待している。

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2007/07/30

近頃 「いい目」 を見てなかった保守王国

せっかちな私なんかは、自民惨敗ムードに飽きてしまって、もう少し冷静になりたいと思い始めていたのだが、結果は、やっぱり 「自民大敗」 程度では済まず、「惨敗」 と出た。

今回の 「反自民ムード」、思った以上に根が深いようだ。これを単に 「逆風が強かった」 程度に総括したら、大間違いかもしれない。

民主党が大躍進したといっても、これまでの実績が認められたわけじゃない。自民党側にチョンボが続出して、批判票が大量に出ただけである。ただ、この批判票は 「一時的」 なものではないようだ。

中川幹事長は 「不規則発言や政治と金の不透明感など、最後までアゲンストの風を止めることができなかった」 と述べたという (参照)。「アゲンストの風」 ねえ。ゴルフ気分ですか。

今回が、たまたま 「逆風」 の一番強い時期だったというのは、多分当たっている。しかし、ほとぼりが冷めれば、次の選挙ではまたすっかり自民党に票が戻るかといえば、それは危ない。「アゲンストの風」 は、そんなに簡単には収まらないんじゃなかろうか。

というのは、これまで 「保守王国」 と言われた一人区で、民主党が勝ちすぎているのだ。これまでの日本だったら、いくら逆風が強くても、田舎の県でこんなにも自民党がボロボロに負けるなんてことは、あり得なかった。田舎のじいさんばあさんは、何はどうあれ、やっぱり自民党に票を投じていたのである。

ところが今回は、そのタガが外れた。これまで、何が何でも自民に票を投じていたじいさんばあさんの多くは、死なないまでも足腰が弱ってしまって、投票所に行けなかったし、その息子たちは、それほど自民にがんじがらめなほどの恩義なんて感じていないから、棄権か民主かに走った。

たとえ農家の生まれで、農協との縁は深くても、実は農業収入よりサラリーマンとしての収入の方が多いから、意識の半分以上は 「都市労働者」 である。毎月給料から税金がごっそりと天引きされているのだもの。

で、ここが最も大きな問題なのだが、彼らは近頃、「ちっとも、いい目をみていない」 のである。じいさんの代までは、田舎は結構いろいろな恩恵があった。補助金やら利権導入やらで、かなり 「いい目をみていた」 のだ。割を食うのは、もっぱら都会のサラリーマンだった。

ところがよく考えてみると、田舎は最近、全然いい目を見ていないのである。大都会との格差は広がるばかりで、さっぱりいいことがない。自民党が天下を取っているうちは安心だとばかり思っていたが、どうやら、この頃の自民党は 「改革」 なんてきれい事を言い出して、都会志向ばかりしているように思われる。

今度の選挙でも、安倍さん 「改革推進」 なんて腹の足しにならんことを言ってたが、そんなこと言っているうちは、田舎は浮かばれん。もう、自民党ばかりに忠義を尽くしていても始まらない。たまには民主党に票を投じてみせなきゃ、田舎がなめらなるばっかりだ。

地方の有権者がそう感じたとしても、まったく不思議じゃない。

というわけで、久間さんのちょんぼ発言や、赤城さんのみっともない姿や、年金問題の噴出など、一時的な 「逆風」 が収まれば、自民への信頼が戻るなんてことは、あまり期待しない方がいいように思われる。

「改革」 を推進しないことには、日本が危ない。しかし、それをやりすぎると、自民党が危ない。ある状況でうまくできすぎていたシステムは、その状況が変わると、とてつもなくしんどいことになる。

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2007/07/29

民主党だって、結構ヤバイのがいる

今月 1日に、「自民党惨敗はもう決定的」 と書いてしまったが、それから 1月近く経って、その論調にはもう飽きてしまった。悪いけど。

今回は民主党に投票しようかと思っていたのだが、あれから、真紀子さんの演説でシラケてしまい、だめ押し的に、こういうトンデモ人間が民主党にいることも知ってしまったし。

問題のトンデモ人間とは、民主党の平岡秀夫議員の秘書 (であるらしい) 石田敏高という人である。この人、デロイトトーマツでコンサルかなんかしてたらしいが、民主党の立候補者公募に応じて会社を辞めて、そのあげく、選挙には落ちて、紆余曲折の後、今のポジションにあるということのようだ。

で、彼が、自民党候補者、丸川珠代氏のポスターにある 「日本人でよかった」 というコピーに、「偏狭なナショナリズムにむかつく」 とかいうような言いがかりを、自分のブログに今月 27日付で書いてしまって、大変なことになってしまったようなのだ。

で、昨日夜 9時頃に問題のブログに行ってみたら、なるほど、見事な炎上ぶりだったのだが、さすがにヤバイと思ったらしく、現在はパスワードで保護されていて、アクセスすることができなくなっている。とはいえ、ばっちり魚拓も取られているので、いくらでも見放題だ。

読んでみるとわかるが、丸川さんはどうでもいいんだけれど、この人の文章自体がちょっとどうかと思うような稚拙さで、まともな論評にも値しない。国際人を気取っている割には、"Im happy being English!" なんて、変な英語を得々と書いてるし。

この人、魚拓を取られたブログの他に、公式サイトをニフティで運営していて (私と同じなのが、複雑な気分)、そっちの方にも、まともにアクセスできなくなる直前に行ってみたのだが、臭ったのだよね。えもいわれぬ、「トンデモ臭」 が。

なんとなくわかるでしょ。このサイトの管理人の頭の中、ちょっとやばいんじゃないの? と感じさせる、思わず引いてしまいそうな、独特のちょっと気持ち悪い雰囲気。

で、まともにアクセスできなくなった今、行ってみると、はからずも、その 「トンデモ臭」 は、やけっぱち的なまでに増幅されてしまっているのだった。試しに行ってみるとわかる。(こちら: けたたましい音に、要注意。)

こうしてみると、悲しいことだが、民主党もかなりヤバイ気がする。ホリエモン偽メール事件だって、記憶に新しいことだし。

自民党への不信感もピークが過ぎて、少しほとぼりが冷めかかっているようなので、安倍首相にとっての最悪の結果というのは、避けられそうな気がしてきた。いずれにしても、大敗は間違いないだろうけど。

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2007/07/28

周知の事実? 衆知の事実?

あるサイトで 「衆知の事実」 という表記を見て 「ありゃりゃ?」 と思い、試しにその言葉でググってみたら、13,900件もヒットした。

で、そのトップは 「今日の漢字 掲示板」 というところの 「衆知の事実のしゅうちは、周知じゃないのですか?」 というスレで、そのレスに、ちゃんとしたことが書いてある。

結論をいうと、「衆知の事実」 は、よほど限定された特殊な文脈を除く一般的な言い方としては間違いで、普通は 「周知の事実」 が正しい。

Goo 辞書 (『大辞林』 第二版) によると、次のようになっている。

衆知: 多くの人のもっている知恵。大勢の人の知恵。「―を集める」

周知: 広く知れ渡っていること。また、広く知らせること。「―の事実」 「趣旨を―させる」

もうおわかりのように、「衆知」 は、「大衆に広く知られていること」 ではなく、「大勢の知恵」 ということだ。で、「衆知を集める」 という言い回し以外に 「衆知」 という言葉が使われているのを、「衆知の事実」 という誤用以外には、私は見たことがない。

「衆知の事実」 と言ってしまったら、無理矢理解釈すれば 「大勢の知恵のなかにある事実」 というような意味になってしまい、「既に知れ渡った事実」 という意味からは離れてしまうのだが、それはあまり意識されないで、誤用がかなり多く見られる。

ググってみると、「衆知の事実」 が 13,900件なのに対し、「周知の事実」 はさすがに 677,000件と、圧倒的に多い。MS-IME でも ATOK でも、普通に変換すれば 「周知の事実」 が最優先で出てくるので、当然と言えば当然である。

ただ、それを前提とすると、「衆知の事実」 と表記した人の多くは、わざわざ意識してそう変換したのではないかと思われる。ご苦労なことである。

確かに、「大衆に知れ渡った事実」 と考えれば 「衆知」 の方が正しいように思われないこともない。しかも 「周知」 というと 「周知徹底させる」 というように、他動詞的用法が目立ち、「既に知れ渡っている」 という自動詞的な用法は 「周知の事実」 以外にはあまり見ないから、ますます 「衆知の事実」 と書きたくなる気持ちもわかる。

ところが、せっかくそう意識して、誤用とはいえ 「衆知の事実」 と変換しても、同じページ内で無意識に 「周知の事実」 という表記を用いているサイトも、かなり多い。

「周知の事実/衆知の事実」 の 2語でググると、300件ヒットする。この中には、正誤表や間違いを指摘したものなども含まれてはいるが、多くは意識的と無意識的とが混在していて、他人事ではなく、ちょっと恐いことである。

と、ここまで書いて、自分自身が過去に間違えて 「衆知の事実」 なんて書いてしまったことはなかったかと不安になり、ハードディスクの中を検索してみたら、幸いなことに見つからなかった。ホッとしている。

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2007/07/27

政見放送の違和感

選挙期間中に、候補者についてどうのこうの書くのはいけないんだそうだが、これはまあ、一般論だからいいだろう。

というのは、政見放送というのを聞いていると、政治をやりたがる人の 「しゃべり」 に、「ある種共通した "独特のお下手さ" 加減」 というものが感じられてしょうがないのだ。

私はテレビというものをあまり見ないので、政見放送はラジオで聞くことが多い。だから、候補者の風采とかいうビジュアルな要素への注目はできない。それだけにことさら、彼らの 「音声」 としてのしゃべりの変てこさ加減が、気に触ってしまうことが多いのだと思う。

まず目立つのは、過剰な 「音節区切り」 である。「私は、このほど、参院選に、○○党より立候補、いたしました、○○で、ございます」 なんて具合である。便宜的に 「音節区切り」 なんて書いたが、実は、「立候補、いたしました」 なんて、「単語区切り」 になっちゃうことまである。

さらに、「単語区切り」 どころか、複合語を区切っちゃったりしている人もいる。「○○党の、この、許し、がたい、暴挙を…」 なんて言っている。「許し、がたい」 なんて、フツーは言わないだろうよ。頭悪いと思われちゃう。

だから、7秒で言えることに 10秒かかったりする。政見放送の時間は限られているから、単純に考えればかなりの時間のムダなのだが、どうせそれほど具体的に言うことなんてないのだから、それでもいいのかもしれない。

純粋に 「しゃべりのテクニック」 として、「ああ、人間がまともに語りかけているなあ」 と感じさせるのは、共産党の候補者の場合が多い。彼らは日常的に街宣活動に慣れてるから、自然に上手になるのかもしれない。

ただし、この党の候補者にも、共通した語り口があって、それに気付くとちょっと… (おっと、選挙期間中だから、これ以上は書かない。書かなくてもわかってもらえると思うし)。

話を過剰な文節区切りに戻すが、彼らの多くがこうした語り口に陥ってしまうのは、彼らの原稿が 「こてこてにこねくり上げた」 内容だからである。「自分の言葉」 で語っていないからである。さらに言えば、本当に 「自分の言葉」 なんかで語ってしまったら、「政見」 たりえないんじゃないかとさえ思うのである。

中には、本当に共感したくなるような内容と語り口の候補者もいる。しかし残念なことに、そうした候補者の多くは、当選圏から遠く外れたポジションにあるようだ。当選確実、あるいは、激しくデッドヒートを演じているような、現実的に有効な候補者 (我ながら妙な言い方だなあ) の多くは、変なしゃべりをする人なのが、私はとても悲しい。

元の首相の竹下登さんなんて、「言語明瞭、意味不明瞭」 とか自分で言っていたが、彼の話の意味が不明瞭だったのは、そもそも言語が不明瞭だったからである。彼が学生時代に所属した早大雄弁会が雄弁を育てるところじゃないというのは、もう広く知れ渡っているところで、私が在学中も、あの会というのは 「浮いた存在」 だったよなあ。

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2007/07/26

なんとまあ、55歳になってしまった

別に 「おめでとう」 と言ってもらいたいわけでもなんでもなく (実際、この年になると、それほど 「おめでたい」 なんてこともないし)、単なる事実として報告申し上げるのだが、今日は私の 55回目の誕生日である。

で、去年に続いて、今年も関東の梅雨明けが誕生日以後に持ち越されている。

近頃、しみじみと思うのだが、ビジネスの現場で、自分より年上の人と接することが少なくなった。いろいろな人とテンポラリーなチームのようなものを組んで仕事をすることが多い中で、自分が一番年上ということも多くなって、愕然とする。

私は 20歳代から業界記者としてのキャリアを開始して、それなりの 「お偉方」 にインタビューしたりする機会が多かったので、仕事で接するのはほとんど自分より年上という印象を長い間持ってきた。

それに、何というか、自分自身、気が若いもんで、それほど年取ったような気がしていないのである。だから、自分より年上だとばかり思っていた周囲の人の多くが、実際には年下だと知って、驚いてしまうことが多い。

こちらはごく自然に (長年のクセのようなもので)、相手を年上と思って、敬して接しているのだが、向こうは私の方が年上と知っている場合が多い。だから、「tak さんて、フランクな人柄 (権威的じゃないというぐらいの意味か?) なんだな」 という印象を持つらしい。

フランクも何も、こちらは自分の方が年下か、少なくとも同年代だと思いこんでいるだけなので、自然にそうなってしまうだけなのだが。

はっきり言わせてもらうと、近頃の 50歳そこそこか、40台後半の連中って、案外老けた印象のヤツが多い。そして、結構態度が大きい。

私の年代というのは、すぐ上にかの有名な 「団塊の世代」 がごちゃっといて、おいしいポジションを独占していたから、あまり大きな態度に出られなかった。今現在、54~55歳の人間には、かなり謙虚なイメージの人間が多いが、それは子供の頃からの 「習い性となる」 みたいなことが大きいのだと思う。

ところが、近頃、団塊の世代はビジネスの現場から急速に姿を消している。定年にさしかかっているということもあるが、さらにリストラとか早期退職とかいうこともあって、あのエラソーだった連中の影が、どんどん薄くなっているのだ。

そうなると、私より少し下の世代は強い。元々、団塊の世代の影響力が比較的薄いところでキャリアを開始したことに加え、ふと気付くと、「数の力」 でもっていたオッサンたちが一掃されているのだから、かなりでかい態度でもやっていける。

近頃、この年代の中に 「俺様イメージ」 のやつが多いように思えるのは、そういう背景があるのかもしれない。

まあ、世代論なんかで割り切れるほど、実際の人間というのは単純なものじゃないのだけど、ある程度の類型化というのも可能なようなのだ。

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2007/07/25

ネット選挙、みんなで渡れば恐くない

NB Online で、「公選法、ネットでなし崩し」 という記事が報じられている。

公選法では、選挙期間中に選挙運動として配布できる 「文書図画」 はビラやはがきに限定されていて、ウェブでの選挙運動はできないものとされていた。それが、「みんなで渡れば …」 式に、なし崩しになっているらしい。

私は今年 4月に "「連呼」 って、やっぱり迷信だと思う" というエントリーで、以下のように述べている。

要するに、この国では、「連呼」 に限らず、「選挙そのもの」 が迷信で成立しているようなものだ。現行の公選法こそが、最も強力な 「守旧ファクター」 だと言うほかない。

選挙って、かなり人間を興奮させるゲーム的要素を色濃く備えている。その一つが、「制約が多い」 ということで、多くの重箱の隅的な制約の中で、いかに網の目をくぐり抜けて 「うまくやる」 かが、成功の基準になっているところがある。

その 「うまくやる」 ための専門家 (「参謀」 とか 「コンサルタント」 とかいう存在) にとって、現行の公選法のばかばかしさは、「メシの種」 なのだ。公選法がきちんと常識的なものになって、ばかばかしさが消えてしまうと、彼らのメシの種もなくなる。

ところが、インターネットという要素は、彼らの理解を超えてしまっているがために、どうやら全然うまく扱えないらしいのだ。だから、彼らとしても 「取扱品目」 からはずしてしまったようなのだね。「こればかりは、どうも手に余ります」 ってなもんだ。

で、これまでは手探り状態だった各政党も、「こりゃ、みんなで渡れば恐くないぞ」 ってことがわかったようで、意味もなくタブーとされていた選挙期間中のコンテンツ更新を、堂々とやり始めたということのようだ。

実は、これまでだって抜け道はいくらでもあった。

ウェブのコンテンツ更新が 「禁止」 とされていたのは選挙期間中だけのことで、だったら、公示、あるいは告示の前日までに、言いたいことは全部アップしておけばよかったのである。

「立候補者」 としての 「公約」 などを載せるのはいけないが、「立候補予定者」 としての 「考え方」 を載せるのは、OK だったのである。で、選挙期間中もコンテンツはそのままにしておけばいいから、選挙用の 「文書図画」 としての機能をほとんど果たしていた。

これって、本当にばかばかしいことなのである。こんなことで、警察との間で 「グレーゾーンの探り合い」 をするぐらいなら、さっさとインターネットによる選挙運動を認めてしまえばいいのである。

で、そのための 「手続き」 が、今始まっているようなのだね。何事も 「既成事実の積み重ね」 がものを言う世界だから。

当ブログの、この問題の関連記事一覧 (だんだん核心に迫っているかも)

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2007/07/24

鹿児島弁の都市伝説

3年前に、「鹿児島弁は本当にわからない」 という記事を書いた。今では相当年配の人でないと、「本当にわからない鹿児島弁」 は話さないそうだが、「本当にわからない鹿児島弁」 は、本当にわからないのだ。

で、その鹿児島弁だが、「わざとわからなくしてあるのだ」 という都市伝説がある。

で、困ってしまうのだが、鹿児島出身者ほど、「いやあ、鹿児島弁って、本当にわからないですね」 と言われると、「いや、実は、あれはわざとわからなくしてあるんですよ」 と、得々として応える傾向があるのだ。

「あれは薩摩藩時代に、よそ者が入ってきてもすぐわかるように、そして、幕府の隠密に情報が漏れにくいように、わざわざ鹿児島以外の人間にはわからないような言葉にしたんです」 というのである。いかにももっともらしく聞こえる話なのだが、あまりにもマジに語られると、私なんか、返事に困ってしまう。

ちょっとフツーに考えてもらいたい。

鹿児島の人たちは、元々はもっとわかりやすい言葉を使っていたのだが、島津の殿様が、「こんなにわかりやすくては、情報がダダ漏れじゃ」 と危惧して、わざわざわかりにくい言葉を考案、奨励し、庶民の隅々に至るまでそれが受け入れられたなんて、そんなことがあり得ると思うか?

一般庶民に至るまで、人工のエスペラント語を日常会話に使うなんていうような夢物語に類したことが、実現できるわけないじゃないか。

それに、江戸とか上方の人間からしたら、鹿児島弁も庄内弁も津軽弁も、わからなさで言ったら、甲乙つけがたい。それでも、庄内や津軽の人間は 「いやあ、ウチの言葉は隠密対策で、わざわざわからなくしてあるんです」 なんてことは、絶対に言わない。

そもそも、昔は日本国中どこの田舎に行っても、よそ者が入ってきたら、言葉の違いですぐにわかったのである。幕府の隠密はどこに行っても、お国言葉をまともに使われたら、慣れるまでは苦労したのである。程度の差こそあれ、別に、薩摩の特権的福音というわけじゃない。

また、公式情報の多くは文書で伝達されることが多く、江戸時代の書き言葉はいわゆる 「~にて候」 調の、とてもフォーマルな (型にはまった) 「全国共通言語」 だったから、いくらお国言葉をわかりにくくしても、あまり関係がない。

いくら薩摩隼人でも、文章を書くときは 「忝 (かたじけな) く存じ候」 と書いて、「あいがともしやげもした」 とは書かなかった。(そんな古文書、見たことない) 言文一致は、明治中期まで待たなければならなかったし、それ以降も、方言で文章を書くという発想はなかなかなかった。(いどさんみたいな人は、貴重なのである)

日本中どこでも、お国言葉がよそ者に馴染みにくいのは、結果論であって、「わざわざ人工的に操作して、わかりにくい言葉にした」 なんていうわけじゃないのである。薩摩や津軽は、たまたま中央から遠かったから、言葉も一番わかりにくくなったというだけのことである。(ウチナアグチは、もっとわからないけど)

それに、「意識的にわかりにくい言葉を奨励している」 なんてのは、そんなことが漏れたら、わざわざ 「我が藩は危険分子でごわす」 と宣言しているようなもので、あまり利口なやり方ではない。

それでは、どうして鹿児島出身者だけが、そのようなファンタジーを言い出したのか。私は明治政府の創立期にその由来があるのだと想像する。

薩長土肥の出身者が要職を独占した明治政府において、薩摩出身者は、とくにお国言葉がきつかった。それで、負け惜しみみたいに、「わざとわからなくしてあるのだ」 と言い張っていたのが、いつの間にか一人歩きしてしまったんじゃないかと思うのだよ。

東北出身者だって、お国言葉のきつさは決して負けちゃいないのだが、何しろ、明治政府の中枢にもぐり込む破目になるような心配はしなくて済んだから、そんな負け惜しみ的言い訳をする必要がなかったのだ。

失うものを持たない者は、気楽である。

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2007/07/23

東京ガールズコレクションを巡る冒険

一昨日のエントリー、「ファッションとウェブのお話」 の、はてな版 (ココログのリザーブに位置づけてる) が、kumi, the Partygirl のはてぶに載っけてもらえてるのに気付いた。

「東京ガールズコレクションは携帯やPCと連動してるよ」 と、彼女はコメントしてくれている。もっともな指摘だ。

東京ガールズコレクションというのは、とても頭のいい人の考えた企画だと思う。従来のファッション常識からしたら、こう言っちゃ悪いけど、B級のそしりを免れないコンセプトを堂々と表面に押し出して、 ちょっと別の次元で成功しちゃってる。

モデルだって、身長 175センチなんか全然必要ない。だって、フツーの女の子が買う服なんだもの。ショーのために市場には出さない服を特別にデザインするなんて、手間と金ばかりかかる手法は採用しない。だって、売れなきゃしょうがないんだもの。

そして、ターゲットとなるのは、徹底的に日本独特な 「若い女の子」 という市場だ。彼女らをメインターゲットとして、ステージでショーをしてみせるなんてのは、欧米の発想ではちょっとマイナーすぎる。だが、おっとどっこい、日本では最もメジャーなファッション・マーケットなのだ。

だから、東京コレクションは、多少なりとも、あるいは建前だけでも、インターナショナルな市場を志向しているけれど、東京ガールズコレクションは、あっけらかんとドメスティックだ。その独特のドメスティックさゆえに、アジア地域では親和性があって、北京でも開催されたりしているのだが。

東京ガールズコレクションというのは、頭のいい人の企画と書いたが、どんな点がそうなのかというと、徹底して 「雑誌的」 なのである。若い女の子向けのファッション雑誌の雰囲気を、ステージ上に、ウェブ上に移植しているのだ。

雑誌の手法なら、こうした企画の関係者は、すっかり手慣れている。お手の物なのだ。余計な背伸びをしないですむ。で、すっかり自分たちの土俵上で勝負していて、余計なところに手出ししない。だから、破綻しない。

本当に、頭のいいマーケッターの考えたことである。なかなかのものである。

と、ここまでさんざん褒めておいて、なんなのだが、私としては、個人的にこれ以上のシンパシーを表明するのが、とても気恥ずかしい。

というのは、どうせドメスティックなビジネスなんだから、どうでもいいようなことなのだが、「東京ガールズコレクション」 (Tokyo Girls Collection) というネーミングは、ちょっとね、ということなのだ。

どういうことかというと、先月の "「ヤンキー」 が、好きラー!?" というエントリーで、レッドソックスの岡島は 「ヤンキース・キラー」 じゃなく、正しくは 「ヤンキー・キラー」 なのだと書いたのと同様のことなのだね。(英語では名詞を形容詞的に用いるときは単数形になる)

つまり、「東京ガールズコレクション」 (Tokyo Girls Collection) じゃなく、「東京ガールコレクション」 (Tokyo Girl Collection) と言ってもらいたかったのだよ。「ジーンズ・ショップ」 というのも、本当は "jean shop" なんだしさ。

本当に本当に、どうでもいいことだけど、ここにこだわらなかったら、tak-shonai というブロガーの存在意義は、ほとんどなくなっちゃうじゃないか。

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2007/07/22

日本語は祝詞に限る

近頃ワープロ・ソフトも IME も、余計な機能がてんこ盛りで、ちょっと 「破格の用法」 なんかしようとすると、やれ誤用だのなんだのと、余計なお世話をしてくれる。

例えば 「○○の ××の △△の ◇◇の …」 などと、「~の」 を繰り返すと、「≪「の」 の連続≫」 なんてコーションが発せられる。

私は 「和歌ログ」 なんて酔狂なサイトも運営していて、毎日一首の歌を詠むことになっているのだが、日本の歌の場合は、「~の」 の連続なんてのは、ごくフツーにあることで、かえってこれによって調子を整えて趣なんてものを出していることがあるのだ。

「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」 という山部赤人の有名な歌なんて、現代のワープロでは生まれなかったに違いないのだよ。

山部赤人といえば、『万葉集』 第一の歌人といわれていて、件の 「あしびきの …」 を例に取るまでもなく、枕詞、序詞などを使いまくりで、なかなか言霊の幸わうところであるのだ。このあたり、どうも現代の日本語のコンセプトでは計り知れないものがある。

私は昨年の 6月 11日付 「バイリンガル脳というもの」 というエントリーの中で、「トーマスの言うには、英語では哲学は考えられないというのである。哲学はドイツ語かフランス語でなければならないらしい」 と書いている。

トーマスというのは、以前、早稲田の演劇研究室に通っていた頃、同じゼミにいたドイツ人で、英、独、仏、伊、西、日本語を不自由なくこなすヘキサリンガルだった。その彼が、こんなスノッブなことを言い出したのだが、何となくわからないでもないような気がしたのである。

さらに、3年前の 4月には、「広東語では愛は語れない?」 という記事で、ボーイフレンドとデートして、だんだんいい雰囲気になると、自然に広東語から英語に切り替わっているという香港の女性の話を書いた。本当に、広東語では愛は語れないらしいのである。

で、日本語の話になるのだが、今、我々が盛んに書いているようなスタイルの現代日本語というのは、本来の日本語が持っていた豊穣な要素を、かなり失っているような気がするのだ。なにしろ、「~の」 を 3回か 4回連ねただけで、コーションが発せられるぐらいなのだから。

フランス語やドイツ語が哲学を語る言葉だとしたら、日本語は祝詞 (のりと) を奏上する言葉なんだろうと思う。論理的意味よりは、直感的あるいは感性的な言霊の重層的積み上げで、「なにか」 を表現してしまうのだ。

よく神社で奏上される天津祝詞 (あまつのりと) というのは、そんな意味で、世界遺産的な名文である。

高天原にかむつまります
神留坐須 (かむろき) 神漏岐 (かむろみ) のみこともちて
皇親神伊邪那岐乃大神 (すめみおやかむいさなきのおほかみ)
筑紫の日向 (ひむか) の橘のをとの阿波岐原 (あはきはら) に
禊祓 (みそきはらひ) 給ふ時にあれませる
祓戸乃大神 (はらへとのおほかみ) たち
諸々の禍事罪穢 (まかことつみけかれ) を祓ひ給へ清め給へと
申 (まを) すことのよしを
天津神 (あまつかみ)  地津神 (くにつかみ)、
八百万神 (やほよろつのかみ) たちともに
天の斑駒 (あめのふちこま) の耳 振り立てて
きこしめせと、かしこみかしこみもまをす

これを、現代日本語のパラダイムで解釈したら、意味のあることはほとんど何も言っていない。しかし、論理のパラダイム以外の次元で語られる 「意味」 というものが、確実にあるのだ。

「天の斑駒の耳 振り立てて きこしめせ」 なんて、本当にぐっとくるほど素敵なレトリックだなあ。

やっぱり、日本語は祝詞に限るのである。

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2007/07/21

ファッションとウェブのお話

昨年の 5月 12日 「ファッションとウェブは、水と油」 というエントリーを書いた。要するに、ファッションはビジュアルの世界で、ウェブはテキストの世界だと書いたのである。

で、このほど RinRin王国 経由で、「アパレル業界が web に手を出さない理由」 という興味深い記事を見つけた。

この記事は、東京コレクションに参加しているデザイナー・ブランドを中心にして、彼らのウェブサイトがどんなものかを紹介している。

で、まず、驚くべきことに、52のデザイナー・ハウスのうち、公式ウェブサイトがみつかったのは、32しかない。たったの 61.5%。東京コレクションに参加するデザイナーのうち、3人に 1人以上は、ウェブサイトを持たないのである。

ほぼ、3人に 2人がウェブサイトを持っているんだから、そんなに驚くほどのことじゃないといえるかもしれないが、やっぱり、ちょっと変なんである。どんなに変なのかというと、上記の記事から、デザイナー達のウェブサイトに飛んでみればわかる。

はっきりいって、ほとんどのデザイナーのサイトは、極端にというか、異常に使い勝手が悪い。で、不思議なことに、その作りはとてもよく似ていて、非常に共通した使い勝手の悪さが際立っている。デザイナー・ハウス御用達みたいな感じの、同じ制作会社が作ってるんだろうと創造してしまうほどだ。

多くのトップページは、真っ暗闇の中でなにやらもぞもぞとフラッシュが動いて、ブランドロゴがようやく浮き上がってきたり、動いたりひっくり返ったり、消えたり現われたり、シンボルマークがくるくる廻ったりするだけで、ほとんど意味のない時間を取られてしまう。

で、フラッシュが動き終わっても、きちんとしたメニューが表示されないということが多い。何とか見当を付けてあちこちクリックしてみても、さらに画像 (多くはコレクションのビデオか静止写真) がフラッシュでゆっくりと現われては消えるだけで、とにかく時間がかかる。「さっと見せてくれよ、さっと!」 と言いたくなる。

とにかく、これらのウェブサイトは、「他のサイトになんか目もくれず、じっくりと時間をかけて付き合ってくれる人」 だけを想定して作り込んでいるもののようなのだ。実際には、よっぽどのファン以外は (多分、10人中 7~8人は)、すぐに焦れてウィンドウを閉じてしまうだろう。

はっきり言って、ウェブの世界で常識とされる 「見やすい構成」 とか 「わかりやすい表示」 とか、「ユーザー視線に沿ったインターフェイス」 なんてことは、ことごとく無視されている。ということは、ファッションの世界に馴染んでいない人にとっては、かなり 「異様なサイト」 ということになる。

まあ、あちこちクリックすればなんとか画面が変わるなら、まだいい。中には、トップページのフラッシュが終わると、それだけで他には何のコンテンツもない (もしかしたら、あるのかもしれないが、どうしたら表示されるのか見当もつかない) というサイトもある。一体、何のためにドメイン取得したんだ?

で、私はまた、したり顔に言いたくなってしまうのだ。「ほぉら、だから 1年以上も前に言ったでしょ。『ファッションとウェブは、水と油』 だって」 と。ほんと、そうなんだから。

「アパレル業界が web に手を出さない理由」 という記事では、デザイナーがウェブサイトに関心を示さない理由は、「単純に web にかけられるお金がない」 「ブランドコンセプトであえてweb に力を注いでいない」 「大衆的なイメージをもたれたくない」 という 3点ではないかと言っている。

デザイナーの多くが、金銭的にはそれほど潤沢じゃないことは確かだ。バブル以前なら、いろいろなスポンサーが付いて、どんどん資金を提供してくれたものだが、そんな 「古き良き時代」 はとっくに過ぎ去った。しかし、それでも、デザイナー達は、コレクション (いわゆる 「ファッション・ショー」 ね) には、かなりの金をかけるのである。

ファッション雑誌の片隅に写真で紹介されるために、少なくとも数人のモデルをフィーチャーし、会場、ディレクション、音楽、設備、メイキャップ、ヘアメイク等々に、惜しげもなく投資するのだ。そんな投資に比較したら、今どき、気の利いたウェブサイトを作るぐらいは、お小遣い程度の金額でできる。

でも、それはしない。だったら、やっぱり 「ブランドコンセプトであえてweb に力を注いでいない」 とか、「大衆的なイメージをもたれたくない」 ということなのだろうか。

まあ、この世の中には、ファイブフォックスのように、リクルートサイトしか持たないという大企業もあるぐらいだから、そうであっても不思議じゃないが、中小ブランドなら、ウェブで訴求しても、損はないだろう。

それに、大衆的なイメージを嫌ったようなそぶりを見せても、日本のデザイナー・ブランドの多くは、それほどエスタブリッシュメントに向けたファッションであるというわけでもないし。

というわけで、私はやっぱり、ファッション (とくに、東京コレクション系のデザイナー・ブランド) とウェブは、「馬が合わない」 のだと思っている。親和性に欠けているのだ。

多分、デザイナー側はウェブ制作会社に、ロゴと画像をどっさり渡して、それで素材は提供したものと思っているのだろう。ところが、そこには 「テキスト」 が欠けているのだ。だから、制作会社としては、フラッシュで絵を動かすぐらいしか、できることがない。

雑誌なら、ライターという存在もいるし、また、端から順にページをめくらせさえすれば、何とか伝わるものがある。しかし、ウェブはそう単純じゃない。ファッション・デザイナー達は、ウェブ上で自分を表現するという手法を、ほとんど身につけていないように見える。

多分、服作りのように、みっちりと集中して作り込むということは得意なんだろうが、キャッチボールのように言葉をやりとりするインタラクティブな表現というのは、苦手なんだろう。

ウェブ技術が進化して、ファッションの感性を、ストレスを感じさせることなく表現することが可能になったら、「ファッションとウェブは水と油」 というのは 「過去のお話」 ということになるのかもしれないが。

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2007/07/20

「段ボール肉まん」 を巡る冒険

北京の 「段ボール肉まん」 が報じられた当初は、あほらしすぎる上に、誰が書いても結論的には似たようなものにならざるを得ないテーマなので、全然反応する気になれなかった。

ところが、ここにきて 「あの報道は 『やらせ』 だった」 ということになったとたんに、俄然興味津々になってしまったのだ。

今朝、カーラジオを付けたら 「段ボール肉まん、あれ、ウソだったんだって」 「え、そうだったの? 道理で、いくら何でもおかしいと思ったよ」 なんていうスタジオの会話が流れてきた。うぅむ、それで終わりになってしまうのか。幸せだけど、つまらんなあ。

で、試しに Google ブログ検索であたってみると、この問題にふれたブロガーのうち、「なーんだ、やらせだったのか」 という単純決着派が、ざっくりとした印象で、ほぼ 3割。残りの 7割は、「本当にやらせだったのか?」 「やらせだったという報道の方が、やらせなんじゃないか?」 という、しつこい懐疑派だった。

これまでの総合的な経緯からすれば、「本当にやらせだったのか?」 と疑う方が、自然な受け取り方だと、私は思う。嫌味といえば、かなりイヤミだけど、相手が中国だけに、そう思われても仕方がない十分な実績 (?) もあるし。

で、この問題は、いったいどういうことだったのか。おおまかなストーリーとしては、次のような 3通りの可能性が推定される。

  1. センセーショナルな話題で視聴率を取ろうとしたテレビ局の、単なる暴走。まったくの 「やらせ」 。(確かに、かなりわざとらしい映像 ではあった)
     
  2. まんざら根も葉もないことではなく、「段ボール肉まん」 に近いものが売られているという噂を聞きつけたテレビスタッフが、さんざん取材してみたものの、ついに現場を押さえられなかったので、しかたなく話を膨らませて、「やらせ」 で撮影した。
     
  3. 「段ボール肉まん」 のニュースは、実は 「やらせ」 ではなく実際にあったのだが、オリンピックを控えた中国のイメージに関する対外的な悪影響があまりにも強いと判断されたため、政府筋からの圧力で、「やらせだった」 ということにさせられた。

で、よく考えると、上記の 1. と 2. は、違っているようで実はとても近い。考えようによっては、同じ一つの項目にしてもいいぐらいのものだ。

というのは、テレビ局のスタッフが 「段ボール肉まん」 なんて、かなりぶっ飛んだアイデアをオリジナルで創造することが可能だったのかといえば、それはかなり疑問だ。ほとんど 「やらせ」 だったとしても、どこかで聞きつけた噂話を膨らませたと推理する方が、ずっと自然のように思える。

いずれにしても、「火のないところに煙は立たない」 のである。

そしてさらに、2. と 3. も、ある意味、かなり近いのである。というのは、中国の政府筋にとっては、「段ボール肉まん」 が事実だったのか、それともテレビ局の 「やらせ」 だったのか、あるいは、事実と 「やらせ」 のさじ加減が 6:4 ぐらいだったのかとかいうことは、いわば、どうでもいいことである。

彼らにとって問題なのは、この報道によって拡大された 「中国の悪イメージ」 の方なのだ。だから、何でもいいから、「なかったこと」 にしておかなければならない。

ということは、それが事実だろうが 「やらせ」 だろうが、あるいは (しつこいが) 事実と 「やらせ」 のさじ加減が 6:4 ぐらいだろうが、とにかく、結論として 「100% やらせだった」 ことにしておくというのが、彼らにとって唯一の解決策なのである。

要するに、書面上での結論は 「やらせ」。それでおしまい。現実として、事実であったかどうかということに関しては、関知しない。とにかく 「やらせ」 でしかなかったんだから。

と、こんな風に考えてみると、こうしたこと (食の安全という問題ではなく、「お役所の結論の出し方」 という問題ね) は、中国だけじゃなくて、世界中のビューロクラシー (本来は 「官僚主義」 という意味だが、「お役所仕事」 という意味で考えることも可能) にとって、共通した問題なのだとわかる。

日本だって、ミンチ肉のインチキはミートホープ社だけの問題ということに、表向きは落ち着いていることだし。そして宮崎県では、ビューロクラシーの流儀にカチンと来てる人が県知事になったとたんに、なかったはずの裏金がぼろぼろ出てきちゃったりもしているし。

役人が 「そんなことは、なかったんだ」 と言っても、本当になかったのかどうかは、とても怪しい。そして、「あったんだ」 と言うのも、同様にとても怪しい。

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2007/07/19

真紀子さん、相変わらずだなあ

田中真紀子さんが、新潟県三条市の集会で、またまた悪口雑言以外に何の内容もない講演をされたそうだ。やれやれ。

ZAKZAK の見出しは [「自民は廃棄」 … 田中真紀子、震災地・新潟で大毒舌 - 安倍は政治家でなく “お世辞家”]  (参照)。このおばさん、相変わらずだなあ。

記事から少し引用させていただくと、「結局、1時間半の持ち時間中、真紀子氏は毒舌を吐きまくり」 「正直、やや食傷気味になりそうなぐらいキツイ政権批判の連発だった」 そうだが、参加者の多くが 「面白かった」 「素晴らしい」 と笑顔で会場を後にしたそうだ。やれやれ。

それだけ、自民党は逆風なんだろうなあ。

今回の地震に関しては、「私も (科技庁長官時代の) 1995年に阪神大震災に遭遇しました。そのとき、政府は 『避難所のトイレと水が最優先事項』 と学習したはずなのに、まったく変わっていません」 と、政府の対応のマズさを批判したそうだ。

学習したことがすべてスイスイと実現されるなら、誰も苦労はしない。実際は、自衛隊が必死に仮設トイレを運び、給水車も稼働しているし、ペットボトル入りの水に関しては、倉庫に収まらないほど集まっているそうだ。それでもなかなか運用がうまくいかないから、大地震というのは大変なのだ。

そんなに言うのなら、自分で率先してトイレと水を持ってくればいいだろう。地元のことでもあるし。しかし彼女の仕事は、役に立つことをやるよりも、外から文句を言うことだから、あまり期待してはいけない。

「首相は政治家ではなく、官僚や周囲を取り繕うのが得意な “お世辞家”」 と言ったり、再登板説が浮上している小泉氏についても、「アイツは任侠 (にんきょう) です。みなさん、任侠って知っていますか? ヤクザと一緒で怖いんですよ。必要なくなったらバッサリ切り捨てる」 と言ってみたり、これじゃ、せいぜいオバサン同士の井戸端会議レベルだ。

ちょっと最近、言葉センスまで鈍っているようだ。「投票用紙には 『モリ』 (新潟選挙区の民主党候補、森裕子氏のこと) と書いてくださいね。『ザル』 じゃありませんよ」 と締めくくったそうだが、これなんか、オヤジギャグじゃないか。

それから、この講演会では、安倍首相をさんざんこき下ろしたようだ。これも、彼女のお約束事項である。

東大時代に首相の家庭教師を務めた自民党衆院議員から聞いたとして、「(首相は) 本当に勉強嫌いで、頭が悪かったそうです。彼は 『あれだけ教えれば、どんなにバカでも慶応くらいは入れたはず』 といまだに悔やんでいます」と真偽不明の話を暴露。

おいおい、「東大時代に首相の家庭教師を務めた自民党衆院議員」 というのは平沢勝栄氏のことだろう。有名な話だ。そんなこと言って、大丈夫なのかなあ。それに、これじゃ成蹊大学出身者からも怒られそうだぞ。政治家としては問題発言だと思うがなあ。自分だって、せいぜいワセダ商学部だったくせに。

今回の選挙は民主党に入れようと思っていたのだが、こんなニュースをみると、それも嫌になったりしてしまう。やれやれ。

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2007/07/18

Vista で分水嶺を越えた MS

私が Windows Vista について無茶苦茶言うのを聞いた後輩が、「確かに Vista は問題ありすぎです。Windows Me の運命を辿るかもしれない」 と言い出した。

この後輩は、自作 PC を何台も作っている、いわば パソコン大好き人間である。その彼が、「Vista はヤバイ」 と言うのである。

彼が指摘する Vista の最大の問題点は、「重すぎ」 ということだ。「CPU が Core Duo で、RAM は 2GB 以上ないと、ストレスを感じないで動かすことはできません。これだけのスペックのハードウェアで XP を走らせたら、どれだけ速くて快適か」 と言うのだ。

確かに、どんなにハードウェアが進化しても、OS が肥大化してスネをかじっていては、PC はいつまでたっても速くならないというのは、常々私の指摘するところである。

以前は、快適なユーザーインターフェイスを実現することがハードウェア進化のインセンティブだったが、今は、せっかく進化したハードの快適な動作を阻害するために、ソフトが足を引っ張っているのである。

彼の指摘する 「問題点その 2」 は、「Visita では動かないソフトが多いし、ドライバーも対応していないのが多い」 ということだ。私はそこまでは確認していないが、彼はかなり不満を抱いている様子である。

そして、ここから先は私の意見である。

「問題点その 3」 は、ユーザーインターフェイスの大幅な変更だ。一応、「Windows PC なら任せて」 と任じてきた私が、Vista の画面の前で凍りつき、さらに、Office 2007 で悪戦苦闘したというのは、先日も書いた (参照)。

Windows 95 以来、12年間も慣れ親しんだユーザーインターフェイスが、何の断りもなくずたずたにされているのである。ドッグイヤーといわれるパソコンの世界で、12年間と言えば、感覚的にはほとんど 「天地開闢 (かいびゃく) 以来」 みたいなものである。

まあ、確かに 「慣れれば大丈夫」 ということなのかもしれない。車の運転と違って、多少戸惑ってあちこち変なところをつついても、衝突して死ぬなんてことはないから、ゆっくり慣れればいいと、Vista 好きは言う。

しかし、何のためにそんな余計な労力を割かなければならないのだ。ユーザーインターフェイスの変更なんて、誰が要求したというのだ。

そう。誰も要求していないことを、MS は押しつけているのである。これが、「問題点その 4」 であり、根本的な問題でもあるが故に、「問題点そのゼロ」 と言ってもいいぐらいのものだ。

ほとんどすべての市場で、「ユーザー・オリエンティッド」 (ユーザー主導) のマーケティングが主流とされる中で、MSだけが、ユーザーがとくに望んでもいないことを押しつけてくるのである。

これまで、多くのユーザーはその押しつけを拒めなかった。MS の押しつけを拒んで、オルタナティブを選択しようとしても、なかなかハードルが高かったのである。Linax を選択しようとしても、Windows で実現される環境と同等の環境が得られるとは思えなかった。

しかし、これからはそうではない。Windows から離れても、十分やって行けそうなところまで状況は進化しつつあるように思える。

次に買い換える PC は、私の場合、多分まだ Windows マシンだろう。できれば店頭で売られるあてがいぶちの Vista ではなく、 BTO で、OS は XP と指定したいが、当分後のことになるだろうから、Vista しか選択肢がなくなっているかもしれない。そうなったら、仕方なく Vista を使ってしまうだろう。

しかし、その後は多分、Windows を選択するメリットは、他の OS を選択するメリットの中に埋没してしまっているだろう。そして、MS Office は既にそうなっている。

私はページ数の多い報告書を書くときに、かなりややこしいアウトライン機能などを使い倒したり、簡易 DTP 的にやたらと重箱の隅的な機能を使ってしまうことがあるので、Word は当分の間、使い続けるだろう (一太郎は嫌いだし)。

しかし、スプレッドシートなら、そんなにややこしい関数は使わないので、Excel を使い続ける理由は既にない。プレゼン・ソフトも、PowerPoint との互換さえ取れれば、外の何でも構わない。だから、値段の安いオフィスセット (Star Suite とか) と、(2003 以前の) Word 単体の組み合わせでも、十分いける。そして、そのうち、Word すら必要なくなるだろう。

MS は、「別に、Windows じゃなくても」 とか 「MS Office じゃなくても」 と、ユーザーに思わせてしまう分水嶺を、既に確実に越えてしまっていると思う。

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2007/07/17

「写真論」 の入り口

私がぼちぼちと私的な写真を撮り始めたのは、5年前にデジカメを購入してからのことである。それ以前は、写真を撮るということに、ほとんど興味がなかった。

それまでは、写真を撮る人の気持ちがわからなかった。だから、私は結構海外旅行をしているのだが、証拠写真が極端に少ない。

ところが、変われば変わるものである。デジカメというものを購入してみると、写真を撮るということが、それまでとは比較にならないほど 「手軽」 なものになった。何しろ、フィルムが要らない。現像に出す必要もない。データ保存が楽にできる。無精な私にとって、デジカメは福音だった。

というわけで、私は今では、常にコンパクト・デジカメを持ち歩き、おもしろい光景があれば、パシャリと気軽に撮影し、毎日 「和歌ログ」 なる和歌と写真のサイトを更新するようになってしまった。

私の写真なんていうのは、まったくの素人の遊び程度のものだが、それでも、これだけ毎日写真を撮り続けていると、それなりに 「写真論」 というものを意識するようになる。もちろん、フォトグラファーとしての写真論ではないから、とても抽象的なものだが。

写真論というのは、突き詰めれば、「どのような状況に出会うか」 ということだ。目の前にないものは撮影できないからだ。そして、「出会う」 ということは、「どのような心の準備をしているか」 ということでもある。

心の準備をしていなければ、目の前に現出したことにすら 「出会う」 ことができない。「見えているはず」 のことにすら、「出会う」 ことができないのだ。英語で、「見る」 も 「会う」 も、さらに 「わかる」 も "see" という単語で表現するというのは、かなり象徴的なことである。

写真を撮るということは、あまたの光景の中からフレームで切り取って 「選択」 するということだ。だから、「出会う」 ということは、「選択」 でもある。選び取らなければ、出会っていないのである。

だから、写真はその人の人生を現わす。その人が何を選択したかということは、その人がどのような人生を生きたかということと同じだからだ。

「写真はノスタルジックなメディアだ」 と言ったのは、スーザン・ソンタグだったと思う。なるほど、写真の中の光景は、「過去」 に違いないのだから、ノスタルジックであることの条件は、基本的に備えている。子供の頃の白黒写真なんていうのは、ノスタルジアそのものだ。

その上でさらに、「過去」 の光景に再び、あるいは何度でも出会い直すことができる。そして、一度 「選択」 して出会ったことに、さらに新たなことを発見する。撮影時には気付かなかったことを、新たに具体的に発見できる。重層的ノスタルジアである。「ノスタルジアの入れ子」 のようなものだ。

この入れ子のようなノスタルジアを意識すると、単なる郷愁を越えて、人生に新しい意味を付け加えることができる。

我が友、「飯豊の空の下から」 の mikio さんが、写真について書いている (参照)。自分が写真というものにまがりなりにも触れあっていなかったら、彼のこの日のエントリーは、私にはさっぱりわからないものだったに違いないと思う。

そしてもう一つ、毎日写真をながめにアクセスするサイトに、「萌野の短歌日記」 がある。「和歌ログ」 同様、写真と和歌による構成だが、こちらの写真は、私の素人写真とはわけが違っていて、見応えがある。

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2007/07/16

「ハンドル投げ」 をめぐる冒険

「ハンドル投げ」 という言葉をご存知だろうか? 初めて聞いたときは、私の頭の中にも 「?」 の文字が 50個ぐらい渦巻いた。

ある時カーラジオを付けたら、たまたま競輪の中継で、ゴール直前のクライマックスにさしかかっている。そしてゴールの瞬間、アナウンサーが 「ハンドル投げー!」 と叫んだのだ。

その瞬間、私は勝った選手が嬉しさのあまり、自転車のハンドルを引っこ抜いて観客席にぶん投げてしまったのかと思ったが、いくらなんでもそれは違うようだ。そんなに簡単に引っこ抜けるハンドルでは、危なくてしょうがない。じゃあ、一体何なのだ?

競輪ファン以外の者で 「ハンドル投げ」 なんて言葉を知っているものはほとんどいないだろうが、アナウンサーはお構いなしで、この業界用語の説明なんて一言もしてくれない。考えてみると、スポーツ中継のほとんどは、特殊な用語の説明なんて全然しないのである。

思えば、私は野球中継を聞いていても、「チェンジアップ」 の何たるかを知らなかった。競馬中継を聞いていても 「こずみ」 の何たるかを知らなかった。しかし、なんとなく当たらずとも遠からずという感じで想像することはできる。

「チェンジアップ」 は、普通のストレートボールとは目先を変えた変化球なんだろうし、「脚に 『こずみ』 が出ている」 と聞けば、何となく違和感があるのだろうなとはイメージできる。そして、今日、上記でリンクするために調べてみたら、ほぼ想像していたとおりの意味だった。

しかし 「ハンドル投げ」 に至っては、いくら何でも表現がぶっ飛び過ぎで、わけがわからない。で、家に帰るまで、この 「ハンドル投げ」 とは何ぞやということが、頭の片隅にひっかかって離れない。私は言葉関係には案外しつこいのである。

インターネットで調べると、「ゴール前にハンドルを両手で突き出すこと。若干だが前に伸びるため、接戦時には有効的だがタイミングが難しい」 という解説が見つかった (参照)。なんだ、「投げる」 んじゃなくて、「突き出す」 んじゃないか。

しかし、本当にハンドルを両手で突き出したところで、伸びが期待できるんだろうか? 自転車がゴムのように伸びるわけじゃあるまいし。

しかし、私は理数系はからきしだから、確かな根拠があって言うんじゃないが、多分、本当に伸びるんだろうと思う。

ハンドルを突き出すような動作をすると、自転車の前輪の斜め上から前方下に向かうベクトルがかかる。このベクトルが前輪の中心を越えるとき、前進方向の加速力に変換されても不思議はない。自転車は後輪駆動で動くが、瞬間的に前輪の方にも駆動力がかかったような形になるんじゃなかろうか。

車輪の回転と上下のベクトルというのは、これとは少し違うが、自動車を運転していても実感することがある。路面に盛り上がりやコブがある時、それを越えた瞬間に、わずかにアクセルをふかしてやると、バウンドを感じないでスムーズに進行することができる。

コブを越えて、車体が一瞬沈みかける瞬間、アクセルをふかすと、前輪 (最近の車の多くは前輪駆動なので) のトルクが上がり、それで上から下に向かうベクトルが地面に伝わるので、沈み込むベクトルと相殺して、バウンドしないで済むのだ。

これとやや共通した力学で、多分自転車もわずかに伸びを見せるんだろうが、それでも、この 「ハンドル投げ」 というテクニックは、微妙である。ゴールラインを越えてしまってからハンドルを突き出しても意味がないし、あまり手前でやると、体が伸びきってしまうので、一瞬後には減速してしまう。

プロのテクニックというのは、なかなかスゴイものである。

ところで、私は言葉としての 「ハンドル投げ」 は、やはり 「あんまり」 だと思う。「ハンドル突き出し」 とか「ハンドル押し」 とか言う方が正確だろうと思うが、語感があまりよろしくないというなら、せいぜい 「ハンドル・プッシュ」 とか 「ハンドル・チャージ」 (「取扱手数料」 (handling charge) みたいだけど) とか言えばいいのに (完全に和製英語だけど)。

英語では自転車のハンドルは "handlebar" なんだけど、この際、固いことは言わない。

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2007/07/15

「ドンブリ勘定」 のメリット

我が家のある地域も、ついに下水道が通ることになり、昨日降りしきる雨の中、下水道工事と受益者負担 (つまり 「お金」 のことね) の説明会に出席してきた。

まあ、我が家が下水道を利用するためには、ざっとみて、40万~50万円のお金がかかるということがわかった次第。

ごく普通の説明の後、お約束の質疑応答になったわけだが、なかなか細かいことを言う人がいておもしろかった。

下水道料金は上水道の使用量とイコールにして算出するという説明に対し、ある人は、「庭の木に水をまいた分は、地中にしみ込むので、下水道には通らない。それでも、上水道とイコールなのか」 と食い下がっていた。

それに対しての回答は、「植木屋さんなど、大量に水道水を散布する仕事は別として、普通の家では庭にまく水の量の比率は微々たるものなので、上水道とイコールと計算させてもらっている」 とのことだった。植木屋さんなどは、木に散布する水は別メーターにしているらしい。

質問者はそれでも納得いかず、庭にまく分を別メーターにしたいが、そのメーターの費用は誰がもつのかと聞く。回答は自己負担であるとのこと。それだと、多分、別メーターのコスト回収には何年かかかるだろう。

さらに、その理屈を突き詰めたら、上水道のメーターとは別に、下水道に流れ込む水量を計るメーターも設置しなければならないという理屈になる。

もしかしたら、ジュースや牛乳など、上水道以外からもたらされた水分や、他で接種したビールなどの水分が小便になって出て、それを勘定に入れると、下水道には恒久的に上水道で使用した以上の量が流れ込んでいるかもしれない。わからないけど。

そうなったら、やぶ蛇である。いや、多分やぶ蛇にはならず、上水道と下水道の使用量は、ほとんどの場合、ほぼイコールになるんだろうと想像する。そのように想像して、結果不都合がなければ、それで十分である。

「細かいことを言い出したら切りがないので、とりあえず、ドンブリ勘定で」 という運用は、ある意味、生活の知恵である。正確さを求めるに越したことはないが、それに要するコストと気苦労は、往々にして、ドンブリ勘定で曖昧になった不利益分を越えてしまうのである。

だったら、適当なところで納得してしまいましょうということだ。「適当」 は便利なコンセプトである。

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2007/07/14

「送りバンド」 と 「キャスティングボード」

近頃、夕方過ぎに車で帰宅するときに、カーラジオのスイッチを入れると、ほとんど野球中継である。で、聞くともなしに聞いていて気にかかるのは、「送りバンド」 という発音だ。

プロの解説者のくせに、「送りバント」 を 「送りバンド」 というおっさん (誰とはいわないが) が、やたらと多いのだ。

この 「バント (bunt)」 を 「バンド (band)」 と言い間違える人はかなり多くて、朝日新聞のサイトまでが、昨年の甲子園野球の関連記事で 「バンド対策に集中」 なんて見出しをアップしている。主催者のくせにね (参照 : もし削除されていたら、証拠のスクリーンショットもあるので、こちら へ)。

それで、ちょっと物好き心を起こして、「送りバンド」 のキーワードでググってみたら、「誤字追放委員会」 というサイトがトップにランクされていた。件の 「送りバンド」 は、このサイトの第 18回というページにある。

このサイトのおもしろいのは、「誤字指数」 という数値を公表していることだ。例えば 「送りバンド/送りバント」 で言えば、Google の検索結果は、794 対 26,700 になるそうで、794/(794+26,700) で、誤字指数は 3%となる。

そうか、ネットの世界ではたったの 3%という間違いを、プロ野球選手上がりの解説者は、全国放送の電波に乗せて恥ずかしげもなく犯し続けているわけだ。気の毒に、誰も指摘してあげられないんだろうなあ。

ところが、このサイトをみると、誤字指数 67%という圧倒的な数字を誇る間違いがある。それは 「キャスティングボート/キャスティングボード」 である (参照)。正しいのは、もちろん、「キャスティングボート (casting vote)」 だ。

「Cast (投じる、配役する)」 決め手の 「vote (票)」 だから、「キャスティングボート」 なのだが、どうも、元の意味なんてまるで無頓着に、「キャスティングボードを握る」 なんて書いてしまう人が多いようなのだ。

悪いことに、「きゃすてぃんぐぼーど」 で変換キーを叩いても、元々は 2つの英単語の組み合わせの複合語なものだから、素直に変換されてしまうのが痛恨なのだね。

で、実際の 「キャスティングボード」 の検索結果をみると、上位には "「キャスティングボード」 は誤記" とか、"間違い" とか指摘したページが多いので、ちょっと安心するのだが、それでも、大まじめに 「○○党がキャスティングボードを握る」 なんて書いている人がかなり多い。

ちなみに、まともな英語で "casting board" というと、「配役を記した掲示板」 だったり、「投げ矢かなにかの的」 (占いとかで使うのかなあ) だったりするようだ。
 

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2007/07/13

伝統的な 「会社帰りの飲み会」 の悲劇

朝日新聞によると 、若者を中心に 「酒離れ」 が進行しているんだそうだ。ビール主要 5社の今年上半期のビール関連飲料出荷量が、過去最低になったという (参照)。

そういえば、私もビールはあまり飲まなくなった。今年は缶ビールで 10本飲んでいないと思う。(どうか私を 「若者」 と言っておくれ)

記事を読む限り、確かにビール類の消費は徐々に減っているようだ。しかし、それをもって 「酒離れ」 と言っていいのかどうか。酒全体のデータがなければ、「ビール離れ」 なのか 「酒離れ」 なのかわかるまいと思い、探してみたら、こんなページ が見つかった。

日本酒造組合中央会の 「酒類消費数量の推移」 という統計である。これによると、確かに、平成 6年から 16年の間の 10年間で、酒類消費はかなり減っているということがわかる。主要なカテゴリーで増えているのは、焼酎だけだ。

いわゆる 「ビール類」 ということでは、本物のビールの激減を、発泡酒が補ってまだ足りないということのようなのだ。

しかし、これを 「酒離れ」 と言っていいのかどうか。ちょっと疑問だ。もしかしたら 「飲み会離れ」 なんじゃないか。

「会社帰りの飲み会」 という文化が衰退しているだけなんじゃないかと言う気がする。会社の同僚、上司と部下というメンバーによる飲み会というのが、急速に減ってきているのじゃなかろうか。

「最近の若い社員は、飲み会に付き合わない」 とよく言われるようになった。しかしそれは、若い社員ばかりじゃない。私も会社帰りの飲み会は嫌いである。大嫌いである。サラリーマン時代には、できるだけ付き合わないようにしていた。

なんで勤務時間が終わってまで、代わり映えのしないメンバーで酒を飲まなければならないのだ。そんな連中と飲んでも、せいぜい仕事の愚痴か、逆に上司の自慢話を聞かされて、うんざりするだけだ。

「一緒に酒を飲んで、初めてお互いがわかりあえる」 と言って、酒を強要する人種がいる。私は酒に酔って初めてわかるようなことなど、わからなくていいと思っている。そんなことは、実は酒なんて飲まなくても大抵見当がつくし、わかったところでどうしようもないことだ。

そんな連中と下劣なレベルでの共犯意識をシェアして、いったいどうなるというのだ。

今だから言うが、私は 「会社帰りの飲み会」 に付き合わなくて済むように、サラリーマン時代は 「酒を飲めない体質」 を装ったりもしていた。気のおけない友人同士の飲み会では、しっかりと飲んでいたのだけれど。

で、統計をちょっとみればわかることだが、消費減少の目立つ酒というのは、伝統的な 「会社帰りの飲み会」 での定番なのだ。ビール、ウィスキー、日本酒等々。

ところが、家に帰ってからの晩酌の定番、発泡酒、焼酎などは伸びているじゃないか。また、日本酒でも全体としては減っているが、一部の吟醸酒への注目は高まっている。「宮仕えの酒」 は減っているが、「私的な酒」 は、決して減っちゃいないのだ。

普通の考え方では、景気が回復すれば酒類の消費も増えるはずなのだが、どうやらそうなっていない。つまり、大きな声じゃ言わないが、「会社の同僚、上司なんかと飲みたくない」 という意識が、統計数値としても表れてきているということなんじゃあるまいか。

飲み会で強要されないから、自然に飲む量も 「無理のない適量」 に抑えられる。お酒のメーカーも、この方向での商品開発に向いているようだし。

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2007/07/12

うぅむ、にっくきアレチウリ

多摩川の中下流域で、河川敷に帰化植物の アレチウリ が急激に繁殖して、ヨシ原のヨシに絡みつき、数万羽のツバメがねぐらを奪われているというニュース (参照) を目にした。

うぅむ、にっくきアレチウリ。府中四谷の河川敷では、一昨年 2万羽いたツバメが、昨年は 50羽しか確認できなかったというではないか。

そういえば、私が取手駅近くに借りている駐車場の周辺でも、アレチウリが大増殖している。上の写真は、坂の道端の草に絡み付いて、そのチクチクザラザラした感触の蔓を、まるでエイリアンの如くに道路の真ん中あたりまで伸ばし、次の寄生先を探ろうとしている光景である。

そして、下の写真は何だと思われるだろうか?

実は上の写真の右手に続く杉林の一本の杉の姿なのだ。アレチウリが杉の木にびっしりと絡み付いて、まるで、「アレチウリの大木」 のような様相になってしまっている。

こんなにまで絡み付かれては、杉の木はさぞうっとうしくて堪らないだろう。濡れ落ち葉の比じゃない。まことに気の毒な話である。

この植物が 「アレチウリ」 という名の帰化植物だとは、件のニュースで初めて知ったのである。何でも、北アメリカ大陸が原産らしい。

実は、この話は昨日付の 「和歌ログ」  (参照) でも触れていて、私はその中で次のように書いている。

つい、アメリカに絡みつかれて身動きが取れなくなっている日本を見ているような気がするが、このメタファーはあまりにもステロタイプ過ぎて気恥ずかしいから、敢えて否定しておこう。

(否定して、かえって意味が強まってしまったりして)

そしてめずらしく、こんなふうな気張った歌を詠んでしまった。

アメリカの棘ある蔓に覆はるる杉に見るまじ祖国日本

否定したせいで意味が強まってしまったのは、どうやら確実なようだ。まあ、あまり政治的な深い意味は込めてないのだが。(政治、嫌いだし)

ちなみに、「アレチウリ」 (荒地瓜) は和名で、英語名は "star cucumber" というそうだ。「星のキュウリ」 である。多分、花の形が星に似てる (参照) からそういうのだろうが、私の感覚では、アレチウリを 「スター」 だなんて言いたくないなあ。

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2007/07/11

在 NY 日本人の 「英語の間違い経験」

Cube New York というサイトに、"在 NY 日本人が語る 「英語の間違い経験」" というのが紹介されている。

目立つのは、やはりご多分に漏れず "L" と "R"、"S" と "TH" の発音の間違い、聞き違いだが、中には、私も 「へぇ、知らなかった!」 と思うような話もあって、興味深い。

日本人は "L" と "R" の区別がつかないというのは、かなり有名な話で、アメリカン・ジョークにもよく取り上げられる。最新作の一つは、ジョージ・ブッシュが小泉さんに 「最近、選挙のことが悩みだ」 とこぼしたら、日本からバイアグラが送られてきたというものだ。(わかる人はわかると思うので、あえて説明はしない)

紹介したサイトを読んで、この年になって初めて知ったのは、"boyfriend" と "girlfriend" の使い分け、そして、"French kiss" の違いである。

日本語の 「ボーイフレンド」 「ガールフレンド」 は、単に 「男友達」 「女友達」 のことだったりするが、英語ではより親密な 「恋人」 に近い意味になるから、使い方に注意しなければならないというのは、近頃かなり知られた常識である。しかしニューヨークでは、ことはそう簡単にはいかないようなのだ。

女性がいうところの "boyfriend" は、確かに 「恋人」 だが、"girlfriend" というと、単に 「女友達」 ということらしい。ここで紹介された在ニューヨーク日本人女性は、初めのうちはそれを知らず、「さすがにニューヨークはレズビアンが多いなぁと感心していた」 というのである。確かに、私もそう誤解してしまいそうだ。

しかし、「逆もまた真なり」 とはいかず、男は恋人のことを "girlfriend" というけれど、同性の友達のことを "boyfriend" とは決して言わない。うむ、確かにそうだ。男が "my boyfriend" なんて紹介したら、それは確実にホモセクシャルだろう。

言葉というのはニュアンスで成立している部分が大きいから、単純な理屈通りにはいかないのである。

それから "French kiss" である。日本で 「フレンチ・キス」 といったら、それはもう舌を絡め合う濃厚なキスということになるが、ニューヨークでは、ほんの挨拶程度の軽~いキスのことをいうらしい。「所変われば品変わる」 である。

「ほんのフレンチ・キスだから」 というのを、目を丸くして 「No !!!」 と断ってしまって、後でバツが悪くなったという話が紹介されている。そりゃ、知らなきゃあせるだろうなあ。

じゃあ、本場のフランスでは、"French kiss" はどんな意味になるのだろうと、一瞬だけ考えたが、アメリカに "American coffee" がないのと同じで、フランスには "French kiss" はないのだろうと思い当たった。日本には 「日本茶」 があるのになあ。

それから、この話の関連で、単にハグして 「チュッ」 と音だけさせるのを、「ハグ & エア・キス」 というのも、初めて知った。

言葉というのは、実際に使われている現場に入り込まないと、なかなか本当が理解が得られないものである。

(上述のジョージ・ブッシュと小泉さんのジョーク、わからなかった人は、こちらこちら をクリックすればわかるはず)

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2007/07/10

男の家庭料理

最近、何かと忙しくて疲れがたまっているようで、昨夜も日付が変わる頃に、ほとんど気絶するようにばったりと眠ってしまっていた。

というわけで、日付が変わった直後の更新は今日もならず。夜中や朝イチでチェックしてくださる常連さんには申し訳ないが、「毎日更新」 だけはちゃんと続けるので、よろしく。

「忙しい」 といっても、忙しさの種類がちょっと違うが、最近、周囲に妻の介護をする男が増えている。平均的には女のほうが男より長生きだが、それでも、妻の方が先立つというケースだってないわけじゃない。身近な例では、妻の親や私の親の場合もそうだった。

私の母は今年の 5月に亡くなったばかりだが、父はそれまで 7年間も妻の介護を続けたのである。一口に 7年というが、それはそれは大変なことである。寝返りすら自力ではできない者の介護をすると、まとまった自分の時間などというのは、1日中ほとんど取れない。

老齢の妻の介護をする夫の共通した悩みのひとつは、食事の世話である。それまで台所になんか立ったことのない男にとっては、なおさらだ。なにしろ相手は病人だから、スーパーの惣菜を食べさすわけにもいかない。病人にも食べやすい献立を考え、自力で素材を買い、料理しなければならない。

そうなると、家庭料理に慣れない男のやることとて、つい手がかかりすぎるのである。料理の作り方なんていう本を買うにしても、男が選ぶのは、なぜか手の込んだしっかりした料理を作らせたがる本が多い。

レシピを読むと、材料はニンジン 1/2本とか、サラダオイル小さじ 1杯とか、赤味噌 30g とか、やたらと話が細かかったりする。「適量」 とか 「お好みで」 なんてことはあまり書いてない。そして、几帳面な男ほどしっかりとマニュアル通りに作りたがる傾向が強く、それで疲れてしまったりするのである。

「料理なんて、もうちょっと手抜きでいいんじゃないの?」 と言うと、「その手抜きの仕方がわかるようになれば、一人前なんだけどね」 なんて返事が返ってくる。気の毒に、それまでは料理が 「非日常」 だったために、ちゃちゃっと手軽に作ることができないのだ。

「男子厨房に入るべし」 なんて言って、やたらと気張った 「男の料理」 というのを推奨する向きもあるが、あれらの多くは、せいぜい半月に 1度でいい類の料理である。毎日そんな気合の入りすぎたものを食わされたら、家族はかえって気苦労である。

その辺、私なんか中学生の頃から、共稼ぎの両親の代わりに病気がちの祖母の夕飯を適当に作ったりしてたから、「日常的お手軽料理」 には慣れている。学生時代にアパート暮らしをしていた頃も、料理に手間なんかかけたくなかったから、ありあわせでちょこちょこっと作っていた。

男もフツーの家庭料理を作れるようになっておかなければならない。そうでないと、「妻に先立たれた男は 5年しか生きない」 なんてことになってしまう。まあ、妻のほうが長生きしてくれる方が、確かにずっと楽なのだが。(妻にとってはどうだかわからないけど)

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2007/07/09

トンデモ県会議員と庄内ナショナリズム

私の郷里である山形県の最近の話題といえば、村山隆 という県会議員である。

この人、飲酒運転で摘発され、議員辞職勧告決議まで採択されたのだが、頑として辞めないばかりか、厚顔無恥というか厚かましいというか (同じか)、堂々と本会議への出席を続けているらしい (参照)。

先日、母の納骨式で酒田に帰ったら、近所の人たちがしきりに憤慨しているので、何かと思ったら、この村山隆というトンデモ県会議員の話題だったのである。そのようなローカルなお話は、関東で暮らしている分にはさっぱり伝わってこないので、初めて聞いて、私としても呆れてしまった。

「でって、まず、つらつけね議員だのぅ」
(日本語訳: 本当にまったく、図々しい議員だねぇ)

「このしぇづだば、公務員だって酒酔て運転しぇば、辞めねばねでばのぅ」
(同: 近頃は、公務員だって酒に酔って運転したら辞めなければならないのにねぇ)

「あんだやろ、庄内選出でなぐていがったちゃ」
(あんな野郎、庄内の選出でなくて、よかったよ)

「おぅおぅ、あれだば、内陸だもの。庄内さだば、あんだ馬鹿だやろ、いねでば」
(おぅおぅ、あれは内陸だもの。庄内には、あんな馬鹿野郎はいないって)

とまあ、こんな調子で、口を極めて村山某を非難しつつ、一方で庄内ナショナリズムを謳歌する庄内人たちであった。山形県でも海に面した平野を中心とした庄内地方と、最上川流域の盆地に連なる内陸地方とは、気質がかなり違うのだ。

とにかく、この内陸選出の村山隆という議員、何を言われても意に介さず、本会議に出席し、堂々と質問したがり、マイペースそのもののようなのだ。このくらい図々しくなると、なかなか大したものである。以下、毎日新聞の記事からちょこっと引用。

(行財政改革・危機管理対策特別委員会の) 委員会の席上で伊藤委員長は、改めて村山県議に退席を求めた。黙ったまま要請を拒んだ村山県議に、委員の鈴木正法県議が 「特別委員会は安心安全について話し、交通安全も所管する。飲酒運転で摘発された人が審議に参加するのはいかがなものか」 と発言した。その後、委員会は約10分間中断した。

委員会終了後、村山県議は 「スピード違反をした委員は委員会に入れないのか」 と、開き直りともとれる発言で不快感を表した。

何でも、議員というのは辞職勧告を受けても、辞職するしないは本人の決断に任せるしかないらしい。「あんた、クビ!」 というわけにはいかないもののようなのだ。選んだのは住民なので、住民の方からリコールの動きが出ないことにはしょうがないというのである。

となると、恥ずかしいのは選んだ選挙区の住民である。それでもって、庄内ナショナリズムはますます高まる一方なのである。

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2007/07/08

Vista と Office 2007、めっちゃ使いづれぇ!

昨日、初めて Windows Vista と Office 2007 を操作する機会に恵まれた (というより 「襲われた」 という方がしっくりくるけど)。

知人の Vista を搭載したノート PC で、Word 2007 で作成したドキュメントを、旧バージョンのファイル形式にして USB メモリに保存するという作業を手伝ったのだ。

そもそも、どうして Word 2007 で作成したドキュメントをそのままで保存すると不都合なのかというと、それを、Windows XP で、Office 2003 以下のバージョンを使っている相手の USB スティックに保存して渡さなければならないということになったからだ。

前にも書いたことだが、Office 2007 のデフォルトで保存したデータは、そのままでは旧バージョンのオフィスソフトでは開けないのである (参照)。

MS も、まったく余計なことをしてくれたものだ。おかげで、一斉に Office 2007 を導入した企業では、「データ保存はデフォルト形式ではなく、旧バージョンで行うように設定すること」 という通達が廻り、それを理解できないユーザーが多いために、大混乱を生じたりしているらしい。

というわけで、件の知人もそのあたりの知識が乏しくてさっぱりわからないために、私の出番になったわけである。

ところが、メニューバーから 「ファイル」 - 「名前を付けて保存」 をクリックし、旧バージョンでの保存を指定してやればいいものと、軽い気持ちで画面に向かった私は、その場で固まってしまったのである。

「メニューバーがないじゃないか!」

念のため書いておくが、メニューバーとは、画面の上の方にある、「ファイル 編集 表示 挿入 書式 ……」 などの文字の並ぶ、あの最も使用頻度の高いバーである。

これまで 10年以上も慣れ親しんだ Windows アプリケーションのユーザー・インターフェイスの基本のキホンが、Office 2007 では何の断りもなくメチャクチャに変わっているのである。一体何が悲しくて、こんな馬鹿な所業をしなければならないのだ。

自動車でアクセルとブレーキの操作法が急に変わってしまったりしたら、命がいくつあっても足りないぞ。

さんざんあちこちクリックしまくって、左上の丸いボタンを押すとメニューが表示されるとわかったのだが、これじゃ、クリックの回数が 1度増えて、かえって面倒になっただけじゃないか。

さらに、USB スティックに旧バージョン形式のファイルを保存しようとするのだが、目的のドライブが見つかりにくい。一度 「マイドキュメント」 に保存して、リムーバブル・ディスクにコピーしようとしても、なにしろユーザーインターフェイスがすっかり変わっているので、「マイコンピュータ」 というアイコンがみつかりにくく、難儀する。

それに、このノート PC、何をしようとしても 3呼吸か 4呼吸ぐらい動作が遅れるという重さだ。確認してみると、メモリーを 256MB しか積んでいない。こんなのありか? 信じられん! XP でも 1呼吸半ぐらいおくれるスペックで、Vista なんか重くて動かせないじゃないか。

「古いマシンの OS をバージョンアップしたんじゃないの?」 と聞いても、なにやら要領を得ない。どうもそのあたり、人任せにしてしまっていて、自分ではさっぱり理解していないらしい。

メモリーを 1GB 以上に増設するか (スペック的にそれが可能かどうかわからないが)、Windows XP にバージョンダウンするか (それでも、快適な速さにはならないだろうけど)、どちらかにすることを勧めたが、それが理解してもらえたかどうかも疑問だ。

しかし、そもそもの話、世の中の PC ユーザーの圧倒的多くはこの程度のレベルなのである。そして、この程度のレベルのユーザーは、XP だろうが、Vista だろうが、どっちでもいいのである。

いや、せっかく XP で慣れて、ようやく少しは他人に頼らず使えるようになったのに、ユーザー・インターフェイスが変わったせいで、またしても面倒な初心者レベルに落っこちてしまい、周囲に面倒を掛けっぱなしになってしまったのである。まったく迷惑千万な話である。

というわけで、私は今回の Windows Vista に関しては、ほとんど 100% 否定的なのである。

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2007/07/07

ツッコみたくはないが、「美しい国」

「美しい国」 という安倍首相の謳い文句にツッコミを入れようとは、敢えて思わなかった。

というのは、キャッチフレーズとしては小学生並の低レベルで、個人的にはツッコミ甲斐なさすぎだし、またそれ故にか、あちこちで低レベルなツッコミが頻発していて、その同じ土俵に上がるのは気恥ずかしかったからだ。

あなたが広告代理店のスタッフで、ある新創刊雑誌の宣伝を担当したとする。そして、あなたのプレゼンで最初に提案され、雑誌の売れ行きを左右するであろうキャッチコピーが、「美しい雑誌」 なんてものだとしたら、どうなるか。その場のシラけようが目に見える。

「美しい雑誌」 のどこが悪いのかと言われれば、そりゃあ、どこも悪くない。しかし、どこも悪くなさすぎであるが故に、それは、何も言ってないのと同じなのである。キャッチフレーズとしての意味がないのだ。「美しい国」 も同じことである。

何も言ってないのと同じ言葉に、当初はつい好意的に脊髄反射してしまった人たちもいる。それは、彼らにとって 「美しい国」 というのが、ほとんど 「業界用語」 だからである。特定の世界では、まさに美しいシンボルであったりするのだろう。

しかし、広範なプロモーションに業界用語を使うことの危険性に、安倍さんは気付いていなかったようだ。確かにそうした使い方で成功する例も少なくないが、このケースでは、「美しい」 なんていう何の変哲もない形容詞が素材だもの。初めから無理というものだ。

安倍さんという人、内閣官房長官時代はそれなりに冴えていたところもあり、それ故に、昨年秋には圧倒的人気で地滑り的に自民党総裁選挙に勝利したわけだが、首相になったとたんに、この程度のことになってしまった。

内閣官房長官なんて、わけのわからない呼称だから曖昧なのだが、その仕事は要するに 「広報担当」 である。与えられた言葉で訴求するのと、自分の言葉でやっていくのとは全然違うことのようなのは、なかなか教訓的である。

で、ここまで来て、誤解のないように確認しておくが、私は安倍首相のいう 「美しい国」 というビジョンそのものに真っ向から批判的というわけでは、決してない。だって、確かに 「美しいこと」 を言っているのだもの。ただ、それは 「単に当たり前のこと」 (または 「芸のないこと」) ともいえるが。

その上で、彼の言葉センス、プロモーション・センスでは、あまり多くは望めそうにないと感じているのである。

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2007/07/06

日本人の寿命と 「がんの 2015年問題」

私と妻の遺伝子的共通点 (と言っていいのかな?) は、どちらも母親の方が早く亡くなり、父親の方は元気で存命中ということだ。

というわけで、滅多に取り越し苦労をしない私だが、この問題ばかりは、自分の方が長生きして取り残されたりしたら嫌だなあなんて、ちょっと心配になったりしている。

で、先日妻に、「俺たちって、どっちも男の方が長生きする血筋みたいだけど、あなたは、がんばって長生きしてよね」 と頼んでみた。まあ、頼んでみたところで宿命はそんなに簡単に変わるわけではないのだろうが、それは人情というものである。

すると、妻は極めてノー天気に言い放った。

「あぁ、それなら大丈夫。私って、生命線がものすごく長いから」

どれどれと見せてもらうと、なるほど長い。掌の人差し指の下からぐんぐん伸びて、手首のあたり、脈を取るところの近くまでしっかりと刻まれている。なるほど、これなら大丈夫かもしれない。

私は手相に詳しいわけでもなんでもないけれど、少しだけ安心したような気持ちになったのである。これもまた、人情というものである。

しかし問題はそれからだ。それならばと、改めて自分の掌を眺めて、ひっくり返りそうになった。私の生命線は、長いどころではないのである。何だか知らないが、果てしないのである。

人差し指の下から大河の如く延々と伸びて、手首の当たりで親指の方向に向きを変え、さらに伸びている。あれあれと思いながら掌をひっくり返すと、親指の下を通って、手の甲まで伸び、薬指の下あたりまで続いている。

「おいおい、俺って、一体いつまで生きるんだ !?」

我ながら末恐ろしくなってしまったのである。そんなにまで長生きしなくてもいい。慎ましい私としては、現在の男の平均寿命ぐらいで十分だ。

しかし、いわゆる 「平均寿命」 というのは、生まれたばかりの赤ん坊があと何年生きられるかということらしく、もうすぐ 55歳の誕生日を迎えようというときに、病気らしい病気もなくぴんぴんしている私のような者は、もっと長生きする確率が高いらしい。

で、最近知った 「がんの 2015年問題」 というお話である。現在でも、統計で見ると 「日本人の 2人に 1人ががんになり、3人に 1人ががんで亡くなる」 というのは、まぎれもない事実らしい。そして、日本人の高齢化に伴い、2015年には 「日本人の 3人に 2人ががんになり、2人に 1人ががんで亡くなる時代」 になるというのだ。

ふーん、最近出席したお葬式で、死因として聞かされたほとんどが 「がん」 ということなので、なるほどという気がするわけである。うちの母みたいに 「自然に心臓が止まった」 なんていうのは、滅多に聞かないし。

これはもう、「がんにでもならないと、なかなか死ねない」  時代が来るというふうに解釈した方がいいのではなかろうか。がんという病気がないと、日本は圧倒的に年寄りばかりの国になってしまう。下手すると、あまり長く生きすぎないために、がんが福音にならないとも限らない。

こうなったら、あまりがんを治す研究なんかしないで、がんになったらそれほど苦しまずに、さっさとあの世に行ける研究をしてもらう方がいいのかもしれない。

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2007/07/05

「自費出版」 ビジネスを巡る冒険

「自費出版」 ビジネスが詐欺にあたるんじゃないかというお話が、一部で話題になっている。滋賀県の元大学教授らが、「書店への営業活動がほとんど行われていない」 として、訴訟をおこしているのだ (参照)。

訴訟というのは少しナイーブすぎる気もするが、確かに微妙な話ではある。

記事によると、出版を請け負った新風舎は、出版された書籍が 「全国 800の書店で販売される」 などということををうたい文句にしていたが、実際には書店への営業活動をほとんど行わず、一部の書店でしか販売されなかったという。そのため、原告側は 「書店に陳列されない可能性を故意に告げず、詐欺にあたる」 としている。

しかし、原告が支払ったお金は、約 195万円~約 99万円と報道されていて、それを読むと、私なんか、それっぽっちの金で本当に全国 800の書店で販売されると期待したんだとしたら、かえって虫が良すぎるという気がしてしまうがなあ。

もし私が新風舎と 「自費出版」 (実際には 「共同出版」 とかいいう名目らしいが) の契約を結ぶとして、「全国 800の書店に云々」 というセールストークをされたとしても、当然のごとく、「でも、それはあり得ないよね。はいはい、そんなことはわかってますよ」 と納得するだろう。

いわばそれは 「阿吽の呼吸」 みたいなもので、一応、「ありえないほどうまくいったら、その可能性だって皆無というわけじゃない」 (われながら、変なレトリックだが) というお話を、両者が 「言わずもがな」 の了承事項とするわけだ。

普通の場合は、それで済んできたんだろう。まあ、自費出版をするほどの本好きなら、そのくらいはわかっているはずだと。しかし、それが通じない世の中になったのである。元々、なんでもかんでも 「なあなあ」 で話が進むのは、出版界の悪しき因習といえば言えるわけだし。

それに、全国の書店で販売されるなんて幻想を抱かなければ、街の小さな印刷屋に頼んだ方がずっと安上がりだろう。親戚に印刷屋がいたら、頼み込めばかなり格安でできると思う。

私の知り合いにも自費出版をした人が何人かいるが、一般の書店で売れるなんてことは初めから期待しておらず、ひたすら親戚・知人・友人・関係者に贈呈しまくりである。私なんか、悪いと思ってお金を出して買ったけど。

自費出版の、おそらく 90%はそんなものだと思う。さらに 9.9%は、仕事や義理に絡めて関係者に押し売りするというパターンで、残り 0.1% (いや、多分もっとずっと低い数字) が、奇跡的に一部の書店で売れるというぐらいのものじゃないかなあ。

だったら、インターネットで毎日ブログを公開する方が、ずっと安上がりで効果的というものだ。

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2007/07/04

真宗、禅宗、神道に馴染んじゃってるので

私の実家の宗旨は浄土真宗である。本家は神道の家なのだが、祖父の代に分家してから真宗の檀家になったもののようだ。

だから、母の葬儀は真宗の寺の坊さんに来てもらって執り行った。しかし、婿養子の父は禅宗 (曹洞宗) の寺の出なので、真宗の雰囲気には少し違和感があるようなのだ。

浄土真宗のお経は浄土三部教 (無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経) が中心で、その他に 「正信偈」 というのと 「和讃」 というのがある。この和讃の念仏は、ちょっとおもしろい節がついていて、お経と芸能の中間点にあるんじゃないかと思うほどだ。

念仏和讃は、こちら で聞くことができる。「南無阿弥陀仏」 というのを、「なぁーあーむぅーーあぁーあーみーだぁーあーぶぅー」 みたいな感じで、節をつけて歌うように唱える。なるほど、念仏踊りが歌舞伎のルーツのひとつであるというのもうなずける。

私なんか、卒論と修士論文のテーマが歌舞伎だったぐらいなので、こういうの、かなり好きだな。

そりゃ、曹洞宗にも声明という歌に近いのもあるが、一体に地味でシンプルな読経が多い。それに慣れ親しんだ父の耳には、念仏和讃は芸能的雰囲気が強すぎる感じがしても仕方がなかろう。

それに、浄土真宗では 「般若心経」 をあげないというのも、父にとっては違和感の根元みたいなことのようなのだ。なにしろ、禅宗ではなにかというと般若心経なのだから、それを無視されるというのは、「ちょっと待てよ」 という気持ちになるかもしれない。

「なぁーあーむぅーーあぁーあーみーだぁーあーぶぅー」 を延々とやるぐらいなら、般若心経をちゃちゃっと読んでもらいたいと思うのも、無理もなかろうと思う。だから、父には 「俺がこっそり般若心経を読んであげるから、安心して死んでいいよ」 と言ってある。真宗の旦那寺の和尚さんには内緒だが。

いずれにしても、私は実家の真宗、父の実家の曹洞宗、本家の神道と、3つの宗旨の雰囲気に子供の頃から馴染んでいるので、ほとんどこだわりというのがない。大切なのは違いをあげつらうことじゃなくて、「信心」 なんだと思っている。

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2007/07/03

エステ美顔術って、すごいかも

母の納骨式から、500km 近い道のりを運転して帰ってきたので、ちょっと疲れている。それで、今日はまったくくだらないお話である。

何の話かというと、帰郷の際に通りかかる某町のヘアサロンについてである。「エステ美顔術」 「ヘアーサロン」 と表示された看板の絵を見ると、「すごいなあ」 と思ってしまうのだ。

で、今回はちょっと車を停めて、ちょこちょこっと、デジカメに収めてしまったのである。

看板には、「男性 女性 エステ美顔術 ¥2000」 とあり、その横に女性 (と思うのだが) の顔の絵がある。

遠くから見ると、ディズニーアニメ 「101匹わんちゃん大行進」 の、クルーエラ・ディーブル かと見まごうのだが、さらに近づくと、それよりもずっと哀愁に満ちたオバサンの顔だとわかる。(いや、ひげのそり跡のようなものがあるので、もしかしたらオジサンかも… 悩む)

問題は、この巨大な哀愁顔を見せられて、「エステ美顔術 ¥2000」 の内容理解にブレが生じないかどうかである。あるいは、単にヘアーサロンの方のお客になるにしても、こんな風な髪型を望むお客がいるかどうか。

さらにまた、ちょっと不思議な気がするのは、その下の看板である。写真には収まりきれなかったが、「カットのみ 22分仕上げ 1500円」 と表示されている。

「20分仕上げ」 というなら、「大体 20分ぐらいで仕上げてくれるんだろう」 と推量するにやぶさかではないが、「22分仕上げ」 と、ここまで詳細な数字を挙げられると、逆に、何とも言いようのない不思議な感覚に襲われる。よほど腕がよくて、22分きっかりでヘアカットを仕上げるのだろうか。

このお店のお客になるには、ちょっとした勇気が必要な気がするが、あるいは、地元では有名な、達者な店なのかもしれないので、うかつなこともいえない (もう言っちゃってるかもしれないが)。

とても悩んでしまう看板である。願わくは、腕の達者な店であってもらいたい。

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2007/07/02

些細な些細な仏道修行

『無門関』 第七則に 「趙州洗鉢」 というのがある。日常の作務の中に仏道の本質はあるというふうな解説がなされている。

要するに、「仏道をお示しください」 と問いかけた新参の僧に、趙州和尚が 「飯を食ったら、その器を洗っときなさい」 と言ったという、それだけの話なのだが。

ことの次第はこんな問答だったようなのである。

 新参僧  「どうぞ仏道修行のおさしずを。」
 趙州   「粥 (朝食) は食ったか?」
 新参僧  「はい、いただきました。」
 趙州   「そうか、それなら、鉢を洗いなさい。」

で、この新参僧は気付くところがあったというわけだ。

これに対して、『無門関』 をまとめた無門和尚は、「趙州はパックリと口を開いて、何もかも見せている。しかしこの新参僧は、本当に悟ったのか」 と論評している。わけわからんお話だが。

これを読んで、私はこの新参僧の 「浅い気付き」 にも追いつかないほどの 「些細な気付き」 というものをなまじ得てしまったものだから、飯を食ったらさっさと食器を洗うことを自分に課している。外食の時は洗い場に入っていくわけにもいかないから、せめて洗いやすいように、きれいに食べることを心がけている。

で、無門和尚がいうには、「飯を食ったら食器を洗うということは、仏道修行の肝心を口をぱっくり開けてさらけ出したほどに、あらいざらい示してしまったのだ」 ということなので、いくら 「些細な気付き」 でも、私はその 「仏道修行の肝心」 を実践させてもらっているのだと、信じることにしている。

自分自身の気付きは些細でも、「肝心」 とやらを続けてさえいれば、そのうちなんとかなるだろう。余計なことを考えているよりも、実践と継続だ。この程度で仏道修行している気になるのだから、楽といえば楽なものだ。

ちょっとだけ気をつけているのは、単なる義務とか惰性としてやるんじゃなく、「洗わせてもらってる」 という意識を保つぐらいかな。これがなかなか難しくって、どうもうまくいかないのだけどね。

母の納骨式が終わったばかりのせいで、ちょっとだけ殊勝なことを書かせてもらった。悪しからず。

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2007/07/01

自民党、参院選ではかなりやばい

今度の参院選で、自民党はただでさえ苦しい戦いが予想されているのに、現職防衛相の 「原爆投下しょうがない」 発言で、ますます立場が悪くなっている。

それをまともにたしなめられない幹事長と首相の、ぬるーい擁護発言が追い討ちをかけて、自民党惨敗はもう決定的だ。

久間さんという人は以前から、なんだか単なる気まぐれなんじゃないかと疑いたくなるほど、立場の定まらないいろいろな発言をして物議を醸すので、「変な人!」 なんて思っていたが、今回のは 「変な人」 では済まない。

もっとも、ご自身は 「原爆投下を是認したわけじゃない」 と、以下のように釈明しているらしい。(参照

「ソ連の意図を見抜けなかった日本の判断ミスだと言いたかった。そのために、私の (選挙区である) 長崎は悲惨な目にあった。原爆を是認したわけではない」

しかし問題は、後になってこんな取ってつけたような釈明をしなければならないような、下手なレトリックに満ちた不用意発言をしてしまうということなのだ。そうでなくても、参院選では自民党苦戦と言われているのがわかってるくせに。そして、先の 「産む機械」 発言をみても、後追いの言い訳は役に立たないとわかってるくせに。

確かに、歴史認識というのは複雑な要素が絡まりあっているので、一筋縄ではいかない。だから、単眼的視点で他の発言をむやみに否定するのは考え物である。私は 3日前のエントリーで、「人間の所業というのは、常に合理的でまっすぐな一本道というわけではない」 と述べている。戦争というのは、まさにそんなものだ。

だからといって、こんな隙だらけのレトリックに付き合わなければならないなんていう理屈にはならない。政治家というのは、どうしてこんなにも言語表現のつたない人が多いんだろう。

先の 「イラク戦争は間違いだった」 発言では、その後に 「閣僚は他国にどういう形で伝わるかも計算した上で言わなくてはならない。(ブッシュ大統領の) 教書演説が発表された日に、そう言ったこと自体が配慮に欠けていた。反省している」 と、久間氏当人が述べている。

しかし、「参院選にどう影響するかも計算した上で言わなければならない」 ということまでは、ちっとも思いが至らなかったようだ。

で、そうした思いが至らないのは中川幹事長や安部首相まで同様のようで、ぬるい擁護発言に終始している。参院選まで 1ヶ月切ってるというのに。今の自民党、かなり頭悪い状況になっているんじゃあるまいか。

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