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2007/07/22

日本語は祝詞に限る

近頃ワープロ・ソフトも IME も、余計な機能がてんこ盛りで、ちょっと 「破格の用法」 なんかしようとすると、やれ誤用だのなんだのと、余計なお世話をしてくれる。

例えば 「○○の ××の △△の ◇◇の …」 などと、「~の」 を繰り返すと、「≪「の」 の連続≫」 なんてコーションが発せられる。

私は 「和歌ログ」 なんて酔狂なサイトも運営していて、毎日一首の歌を詠むことになっているのだが、日本の歌の場合は、「~の」 の連続なんてのは、ごくフツーにあることで、かえってこれによって調子を整えて趣なんてものを出していることがあるのだ。

「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」 という山部赤人の有名な歌なんて、現代のワープロでは生まれなかったに違いないのだよ。

山部赤人といえば、『万葉集』 第一の歌人といわれていて、件の 「あしびきの …」 を例に取るまでもなく、枕詞、序詞などを使いまくりで、なかなか言霊の幸わうところであるのだ。このあたり、どうも現代の日本語のコンセプトでは計り知れないものがある。

私は昨年の 6月 11日付 「バイリンガル脳というもの」 というエントリーの中で、「トーマスの言うには、英語では哲学は考えられないというのである。哲学はドイツ語かフランス語でなければならないらしい」 と書いている。

トーマスというのは、以前、早稲田の演劇研究室に通っていた頃、同じゼミにいたドイツ人で、英、独、仏、伊、西、日本語を不自由なくこなすヘキサリンガルだった。その彼が、こんなスノッブなことを言い出したのだが、何となくわからないでもないような気がしたのである。

さらに、3年前の 4月には、「広東語では愛は語れない?」 という記事で、ボーイフレンドとデートして、だんだんいい雰囲気になると、自然に広東語から英語に切り替わっているという香港の女性の話を書いた。本当に、広東語では愛は語れないらしいのである。

で、日本語の話になるのだが、今、我々が盛んに書いているようなスタイルの現代日本語というのは、本来の日本語が持っていた豊穣な要素を、かなり失っているような気がするのだ。なにしろ、「~の」 を 3回か 4回連ねただけで、コーションが発せられるぐらいなのだから。

フランス語やドイツ語が哲学を語る言葉だとしたら、日本語は祝詞 (のりと) を奏上する言葉なんだろうと思う。論理的意味よりは、直感的あるいは感性的な言霊の重層的積み上げで、「なにか」 を表現してしまうのだ。

よく神社で奏上される天津祝詞 (あまつのりと) というのは、そんな意味で、世界遺産的な名文である。

高天原にかむつまります
神留坐須 (かむろき) 神漏岐 (かむろみ) のみこともちて
皇親神伊邪那岐乃大神 (すめみおやかむいさなきのおほかみ)
筑紫の日向 (ひむか) の橘のをとの阿波岐原 (あはきはら) に
禊祓 (みそきはらひ) 給ふ時にあれませる
祓戸乃大神 (はらへとのおほかみ) たち
諸々の禍事罪穢 (まかことつみけかれ) を祓ひ給へ清め給へと
申 (まを) すことのよしを
天津神 (あまつかみ)  地津神 (くにつかみ)、
八百万神 (やほよろつのかみ) たちともに
天の斑駒 (あめのふちこま) の耳 振り立てて
きこしめせと、かしこみかしこみもまをす

これを、現代日本語のパラダイムで解釈したら、意味のあることはほとんど何も言っていない。しかし、論理のパラダイム以外の次元で語られる 「意味」 というものが、確実にあるのだ。

「天の斑駒の耳 振り立てて きこしめせ」 なんて、本当にぐっとくるほど素敵なレトリックだなあ。

やっぱり、日本語は祝詞に限るのである。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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