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2007年8月に作成された投稿

2007/08/31

社員教育としての日本語検定

"会社が社員教育に「日本語検定」" というニュースによると、この検定の受験者の、6割近くが会社単位での団体受検なんだそうだ。

新入社員研修の一環として受けさせたりするらしい。記事には、福井信用金庫の例があって、ちなみに、信用金庫では 「新入社員」 ではなく 「新入職員」 と称するらしい。

人事部研修課長のコメントとして 「今年度の新入職員 51人全員に受検させました」 とあるのだから、間違いない。「自主的に参加した職員を合わせて合計 109人が挑戦し、88人が合格しました」 と、高らかに述べている。

これを受けて、この記事では、「受検者全体の合格率が 32.7%だった点から考えると、同社職員の成績は胸を張っていい」 と評している。福井信用金庫、偉い! ただ、細かいツッコミだけど、「同社職員」 というのは、ほんのちょっとだけ苦しいかも。

でも、この場合、「同社員」 としたら二重の意味で間違いになるし、「同信用金庫職員」 と書くのもうっとうしいしね。しょうがないかもしれない。いずれにしても、銀行や信用金庫の職員がきちんとした日本語を学ぶのは、とてもいいことだと思う。

以前、私の嫌いな某み○ほ銀行が某第一○業銀行という名前だった頃、その某支店の ATM の設置してある壁に 「明細票はご持参ください」 という下手な手書き文字の貼り紙がしてあった。

そこには、ざっと見ての印象、「いらっしゃいませ」 と言うためが 9割以上、ATM の操作に戸惑っていそうなお客の手伝いをするためが 1割以下という役どころのオジサンが配置されていたので、我ながらちょっと意地悪なことに、「明細票を、どの窓口に持参したらいいんですか?」 と聞いてみた。

ただ、これは完全に意地悪というわけじゃない。天下の某第一○業銀行なんだから、こりゃ、いくら何でも恥ずかしい言葉違いと気付いてもらいたいという親切心だって、多少はあったのである。しかし、ことの次第は、そうは行かなかった。

そのオジサン、「明細票を屑篭にお捨てになりますと、拾われて犯罪に使われたりすることがございますので、ご持参くださいということなんです」 と、ばかていねいに答える。確かに、当時それっぽい犯罪があって話題になっていた。

しかし、私はそんなことを聞いたわけじゃないので、さらに追いつめる。

「だから、どの窓口に持参したらいいのか聞いてるんです」

「はぁ? ですから、ただご持参くださいと…」

「だから、どの窓口に?」

「いえ、ご自宅とか会社まで、ご持参いただきたいんです」

「だったら、『ご持参』 じゃないでしょ。そりゃ 『持って来い』 ということなんだから」

「はぁ…、そうなんですか」

そのオジサン、結局あまりよくわかっていないみたいだったが、翌週にはめでたく、「明細票はお持ち帰りください」 という貼り紙に差し替えられていた。文字も手書きからワープロで印刷したものに替わっていた。

某み○ほ銀行、職員に日本語検定を受けさせてるかなあ。

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2007/08/30

皆で完成させたものは、誰にも使えない

詳細は伏せるが、今日久しぶりで会った中小企業の経営者が、「最近、新しいビジネス・モデルが軌道に乗って、結構利益が上がってるんですよ」 と言う。

彼は以前、某団体の主導した補助金事業のシステム開発に、委員として、私とともに参加していた。

このシステム開発は、小売りセクターと下請生産セクターがコラボレーションして、効率的な商品開発をしながら短サイクルでの供給を実現しようという趣旨のもとに推進されたものだ。

小売りセクターと下請生産セクターが手を組むということは、本来その間に入っているいわゆる 「メーカー」 を抜いてしまうことだ。「問屋抜き」 は、今では珍しいことでもなんでもないが、「メーカー抜き」 は、ちょっと画期的だ。

商品を売るのは小売店で、生産するのはメーカーである。しかし、実際の生産はいわゆるメーカーではなく、下請生産業者であることが多い。いわゆる OEM である。ただ、その下請生産が、まったくの 「言いなり」 の下請けなのか、あるいは、自力の企画からスタートしたものなのかで、実態はかなり異なる。

最近では、メーカーは 「下請けさん」 がイチから企画生産したものを 「拾い買い」 するだけというケースが多い。じゃあ、それは 「メーカー」 じゃなくて、「ブランドを持った問屋」 に過ぎないだろうということになる。だったら、賢い小売りセクターは、名ばかりの 「メーカー」 を中抜きして、下請けの工場さんと直接手を組むことになる。

問題は、以前私と彼が参加していたプロジェクトが、政府からの補助金を得るために、業界から選出された代表による 「開発運営委員会方式」 で推進されていたことだ。この方式だと、結局はいろいろバラバラな意見を反映するため、動きが鈍くなり、成果物もシャープさがなくなる。

私も、そのプロジェクトに参加しながら議論を進めるうちに、「こりゃ、きっと "絵に描いた餅" になっちまうな」 と、思っていた。「こんなの、成功するわけないじゃん」 と確信してしまったのである。

だったら、個別企業がさっさと自分のやりたいようにやってしまう方がいい。今回の成功例は、「ああ、あのプロジェクトのコンセプトを、余計なしがらみなしに、さっさと実現してしまいたい」 という、まったく単純な動機から導かれたものだ。

結論を言ってしまおう。崇高な理念があって、それを実現するために国や地域が音頭を取り、業界の代表が集まって、「業界全体のために」 、ああでもないこうでもないと、議論に議論を重ねて作ったものというのは、大概成功しないのである。

一見、すべてのセクターが活用できる完璧なプログラムのようにみえて、実は、どのセクターにとっても使えないものになってしまっているのだ。

それより、単独で 「えーい、やっちまえ!」 と、勢いで始めたモノの方が、ずっと成功する確率が高い。

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2007/08/29

「違ぇよ!」 だけは許せん!

私は 「若者言葉」 と呼ばれるものには結構理解があるつもりなのだが、自分では決して使わないだろうという言い回しも少なくない。

その筆頭が 「違げぇよ!」 という言い方だ。試しにこのキーワードでググると、1860件もヒットする (参照)。しかし、こればかりは多分、一生使わないだろうと思う。

「違いがわかる」 とか 「違います」 なら、「違げぇがわかる」 「違げぇます」 と音便化させるのにやぶさかではない。「おでぇかん様、そりゃ、違げぇますだ!」 なら、全然許せる。

だが、「違げぇよ!」 は、どうしても日本語の法則からは発しないのである。「違う」 の [au] という二重母音は、[e:] とは音便化しないのだ。どうしても [o:] になるだろう。だから、関西弁の 「違ごぅとる!」 なら、全く問題ない。だが、何度も言うが、「違げぇよ!」 は許せない。

もう一つ、「マジすか!?」 は、他人が使う分には許せないわけじゃないが、自分では使わないだろうという言葉である。「マジかよ!?」 は使う。さらに、「マジに」 や 「マジで」 も使う。しかし、「マジすか!?」 は、生理的に合わない。

それから、「ウソォ!」 という言葉も、かなり抵抗がある。驚くほど意外なことを知らされたときに、「本当!?」 と言うことはある。しかし、「ウソォ!」 とは、私は決して言わない。しかしこれは、既に 40歳ぐらいまでの世代には何の抵抗もないようである。

私は、この言い回しが世に出始めた頃 (多分、25年か 30年ぐらい前だと思う)、これが単に 「本当!?」 の代用品であるとは気付いておらず、自分の言葉に  「ウソォ!」 なんて反応されると、マジに (ほら、使った) ムッと来ていた。

「ウソなんかじゃねぇよ! なんで、こんなことでウソなんか言わなきゃいけねぇんだよ!」 と、いちいち言い返していた。相手は、私がどうしてそんなにムキになったのかわからず、ぽかんとしていた。

今思うと、そこまで直に反応するのはちょっと野暮だったかもしれないが、今でも 「ウソォ!」 と言われると、自分が嘘つき呼ばわりされてるみたいで、ちょっとむかつく。(どさくさ紛れだが、「むかつく」 は、よく使う)

"Very" の意味合いでの 「メッチャ」 はよく使う。「チョー」 だって使わないわけじゃない。しかし、「ギザ」 はさすがに使わない。

「違ぇよ!」 以外は、理屈じゃなくて、かなりの部分、生理的な理由からである。

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2007/08/28

「コミュニケーション英語」 に徹するならば

中教審の答申に沿い、高校英語は現行科目をすべて統合し、「コミュニケーション英語 (仮称)」 という科目になるんだそうだ (参照)。

現行では 「英語」 「オーラル・コミュニケーション」 「リーディング」 など、6科目があるんだそうだ。へぇ、知らんかった。いくら科目数を増やしても、役に立たなかったというわけだな。

日本人の英語力が低いと言われるのは、英語に対するスタンスが定まっていないからである。漠然と、「アメリカ人のように英語をしゃべりたい」 みたいなイメージがあるだけで、じゃあどうするかという具体的な方法論がない。

翻って、インド人の英語に対するスタンスは、立派なものである。とにかく、自己主張ができればいい。ほとんどのインド人の英語はものすごい訛りで、「これが英語か?」 と思うほどだが、彼らは 「自分の英語は変だ」 なんて決して思っていないようなのだ。とにかく、臆せず機関銃のようにまくし立てる。

多くの日本人はそれができない。英語をしゃべるということは、ジャックとベティのようにしゃべれなければならないと思っているものだから、どうせ、できっこないので、しゃべろうともしない。

それでも、フツーの日本人には別になんの不便もない。日本国内でフツーに暮らしている限りは、どうしても英語をしゃべらなければならない機会なんて、1年に 1度もない。

先日、インドから国際電話がかかってきた。衣料品会社の売り込みである。ご多分にもれず、ものすごいインド訛りの英語だ。たった 10分ぐらい相手になるだけで、聞き取りにものすごく疲れた。それでも、彼らは英語によるコミュニケーションには、一応成功したわけだ。

その直後に、今度は香港の見本市会社からの電話がかかった。上海における国際的展示会のプロモーションだ。電話をかけてきた女性は、「私は日本語も少しだけ話せますが、とても下手です。ですから、どなたか英語のできる方がいますか?」 と聞いてきた。

その時、私はインド訛り英語の相手をして疲れ果てた直後だったので、さらに英語を話す気にならず、つい、「英語を話せる人はいませんので、日本語でお願いします」 と言ってしまった。日本語ができるんなら、日本語でしゃべってもらおうじゃないかと思ったのだ。

ところが、それが間違いの元だった。彼女の日本語は想像以上に下手くそで、ほとんど小学生低学年レベルだ。そのレベルでビジネスのことを伝えようとするので、まったく要領を得ないし、こちらの言うことも半分以上理解できないみたいだ。

「しまった、英語にしておけばよかった」 と思ったが、今さら 「実は、英語できます」 とも言い出しにくい。変てこな日本語のままでようやく用件を済ませたが、インド訛りの英語を相手にするよりも、さらに疲れた。

この立て続けにかかってきた 2件の国際電話で、私は嫌でも再確認してしまった。好むと好まざるとに関わらず、英語は国際共通語なのである。英語のネイティブスピーカーでないもの同士のコミュニケーションでも、英語は 「便利」 なのだ。

ならば、「便利な道具」 として、必要に応じて使いこなせればいい。どうせ、日本人全体がジャックとベティになんかなれないんだし、また、なる必要もないのだから。

どうしても英語が大好きで、ジャックとベティになりたかったら、それなりの特別な努力をすればいい。逆に、どうしても英語が苦手だったら、"Sorry, I don't speak English." だけを覚えて身をかわしても、この国では致命的な不利益なんてない。

というわけで、中教審の答申のように 「コミュニケーション英語」 に徹しようというなら、それはもう、現場の教師のメンタリティから変えなければならない。「英文学」 じゃなくて、さらに 「英語学」 ですらなくて、なにしろ 「コミュニケーション英語」 なんだから。

小難しいこと言わずに、通じる者の勝ちということで行かなければならない。文法なんてものより、迫力の方が役に立つのだ。

実際には、本当に 「コミュニケーション英語」 を現場で指導できる教師が全国レベルで育つのに、10年かけなければならないんだろうなあと思う。そんなのを待つより、中高生は学校に頼らず、勝手に英語の勉強をする方が手っ取り早いと思うぞ。

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2007/08/27

やっぱり無着成恭先生、すごい!

昨日の朝、車で出かけて、いつものように TBS ラジオを聞いていたら、「子ども電話相談室」 に、なんと、あの無着成恭先生が 15年ぶりに回答者として登場されていた (参照)。

先生は大分は国東半島の寺の住職として籠られ、既に 80歳に近づいておられるが、以前と変わらぬ元気なお声であった。

今回の放送は、無着先生のおられる大分と、永六輔さんの待機する東京のスタジオを結んだ二元中継だった。いつもは多弁の永六輔さんも、今回は無着先生をリスペクトして、とても口数が少なくておいでで、もっぱら無着ワールドが展開された思いがした。

それにしても、子どもの質問に対する無着先生の回答は、すごい。並の大人では、とてもああはいかない。

例えば、「どうして、"失敗は成功の元" なんですか?」 という質問が、小さな男の子から寄せられた。

こうした質問に対して、私なら、「失敗して、どうして失敗したのか考え直してみると、失敗から学ぶことができるよね。そして、次からは同じ間違いをしでかさないように注意するようになって、成功に近づけるかもしれないね」 なんて答え方をするだろうと思う。

ところが、無着先生は、ひと味違うのだ。単に 「失敗から学ぶ」 というようなありきたりの答え方ではなく、まず第一に、「これをしようと、"決心する" ことが大切なんですよ~」 と、あの柔らかな山形弁でおっしゃる。

なるほど、目から鱗である。この 「決心」 があって、初めて失敗から学ぶことができるのだ。「決心」 がなければ、せっかく貴重な失敗をしても、何も学ぶことができない。たとえ学んだとしても、それを次に生かすことができない。

私が何度失敗してもコトを成し遂げられないのは、「決心」 が足りないからかもしれない。うぅむ。無着先生は、子どもの質問に答えながら、大人に対しても鋭い考案を発しておられる。

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2007/08/26

打ち水に水をさすとは水くさい

今年の 「打ち水大作戦」 は、二十四節気の処暑にあたる 8月 23日をもって閉幕したが、 JANJAN で上岡直見さんという方が、この 「打ち水」 に散々水をさしておられる。

打ち水記事ならぬ、水さし記事は、"「戦車に竹槍」 を想い起こす倒錯の 「打ち水大作戦」" と "「打ち水」 より 「昼寝」 にしたら?"

上岡さん、こういう情緒から発した根拠の薄い運動みたいなものはかなりお嫌いのようで、「打ち水大作戦」 は非合理な精神論だとか、トンデモ科学みたいとか、かなりシニカルかつアグレッシブに批判しておいでだ。

私なんか、実際に暑いときは風呂の残り湯やエアコンから出た水で打ち水をしているし、そうすれば、確かに一時的ではあるが、そして、もしかしたら気分の問題の方が大きいのかもしれないが、確かにちょっとだけ暑さが和らげられることを、体験的に知っている。

個人的に打ち水をするのは、なにも大それたことを思っているわけじゃなく、ほんの局所的に、ウチの玄関先だけ、庭先だけ、一時的にでもちょっとだけ涼しくなってくれればありがたいという、それだけのささやかな行為なのである。

別に、竹槍のごときバケツ一杯の水で、真夏の太陽に玉砕攻撃をかけようなんてことは、つゆほども思っちゃいない。

そういうわけだから、「まあ、気分の問題なんだから、いいじゃん」 と思っていて、打ち水大作戦にもおおむね好意的なのである。3年前には、「呼び水人」 登録 (最近は 「打ち水人」 というのね) までしたしね (参照)。

一方、上岡さんは 「実質的な効果のない、精神論的な環境活動が奨励される結果、誤った知識が広まり、実効のある環境対策への関心が妨げられている」 と指摘しておられる。

しかし、打ち水をするフツーの人間は、私を含めて、どうせそこまで厳密なことなんか考えてないと思うがなあ。「打ち水こそ最高の真理」 とばかり信者を洗脳する 「打ち水教」 に入信したというわけでもあるまいし。

逆に、どちらかといえば、「打ち水大作戦」 への参加が、より 「実効のある環境対策への関心」  をトータルな形で呼び覚ます契機になるという効果の方が、少しだけ高いような気もする。

というわけで、あんまりマジにアグレッシブな態度で水をさすのは、ちょっと無粋かなと思ってしまうのだね。

で、今日のエントリーのタイトルは、川柳である。

打ち水に水をさすとは水くさい

まあ、あんまり大袈裟にイベント化してしまうと、かえってエネルギーを使って暑苦しいとかいうのもわかるので、私も最近は 「打ち水人登録」 なんてしてないが、「打ち水」 そのものにまで水をさそうとは思わないのである。

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2007/08/25

"#" は 「シャープ」 じゃないんだって

番号を表すのに 「No, 1」 とか 「No. 2」 とか表記するのは、知る限り、少なくとも英語ではあまり一般的ではない。

手元の Randam House Dictionary を引いても、"no." の意味は、"north" "northan" に続いて、やっと 3番目に "number" とあり、ラテン語の "numero" から来ているとある。

日本人は、"No. 1" が一般的な英語表現だと思っているから平気で使うが、インテリ層の英国人や米国人でも、それが "Number 1" の意味だとは知らない人が多い。だから、日本人の書いたテキストを読んで、「ノゥ ワン?」 なんて素っ頓狂な声を上げたりする。

では、彼らは番号を表すのにどうするのかというと、"#" を使う。「1番」 は "#1" で、「2番」 は "#2" である。以前、外資系の団体に勤務していた頃は、「フツーの英語では、順番を表すのに、"シャープ" を使うんだ」 と、長いこと思っていた。

ところが、ある日、英国人の英語教師に 「"#" は "シャープ" じゃなくて、"hash" とか "number sign" とか言うんだよ」 と教えてもらった。"#" (hash) と "♯" (sharp) は別物なのだそうだ。確かに、番号を表す "#" の場合、横の線が水平だが、シャープの "♯" は、横線が右上がりである。

このことについて、Excite Bit の 8月 22日付に "電話の「#」は“シャープ”ではない" として詳しく載っている。電話の "#"  は、本来は 「井げた (イゲタ)」 というんだそうだ。JIS 規格でも 「シャープ」 の  "♯" とはきちんと区別されていて、「番号記号」 とか 「井げた」 というようだ。それにしても、「井げた」 とはびっくりだ。

件の記事には、「※」 (こめじるし) と "*" (アスタリスク) の違いも説明されていて、しかも、電話機のボタンにあるのは、通常のアスタリスクとも違って、それが90度回転した形だというトリビアまで解説してある。へぇ~、へぇ~、へぇ~!

で、ついでに、この記事にも載っていないことを、私は発見してしまった。

「井げた」 の方は、当然にも "#" "#" と、全角と半角があるが、「シャープ」 の方は全角の "♯" しかないようなのである。これは、英語版 Wikipedia の "Number sign" や "Sharp (music)"の項目に行ってみても以下のように表記されているので、間違いないと思う。

Number Sign
The symbol is similar to the musical symbol sharp (♯).
(この記号は音楽記号のシャープと似ている)

Sharp (music)
... an associated symbol (♯), which looks somewhat like a "#" (number sign).
(使われる記号は、どこかナンバーサインと似ている)

実際には、Sharp の方の項目では、全角の "♯" が間延びして見えることを嫌ってか、わざわざそこだけフォントを変えて、以下のように表現している。

associated symbol (),

で、シャープには全角しかないので、DTM などでは仕方なく、しばしば半角井げたの "#" を代用する。じゃあ、フラット ("♭") の方はどうかというと、こちらも全角しかないので、B の小文字を使っちゃう。確かに似てるし。

そもそも、フラット記号の由来は、B音を低めに取る傾向から来てる (参照) そうだから、まんざらでたらめではない。へぇ~、へぇ~、へぇ~!

ちなみに、件の Excite Bit の記事の末尾には以下のような注意点があって、とても好感をもってしまった。

このことを知ったとはいえ、人に説明することがあったら、電話機の 「シャープ」 と 「米印」 って言ってあげてください。
あと、電話機のトラブルか何かでサポートセンターにかけることがあったら、優しく教えてくれたお姉さんたちに、「それはシャープじゃなくて井げたのことを指してるんですよね」 なんて指摘はしないであげてください。

しかるべし。ましてや 「ナンバーサインのことですよね」 なんて言ったら、メチャクチャ嫌味なやつになってしまうから、金輪際使わないように。

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2007/08/24

関西人の気持ちがわかった

昨夜は、知らないうちに気絶のような眠りに陥っていたため、久しぶりで、当日昼近くになってからの更新。

昨日は久しぶりにしのぎやすく感じたが、それでも東京は 30度の真夏日だったらしい。30度でしのぎやすく感じるようになってしまった我が身の健康な順応性が、むしろ切ない。

昨日は、「予報では月末まで真夏日が続くなんて言ってたけど、ありがたいことに途切れちゃったじゃん」 なんて思っていた。28~29度ぐらいに感じていたのである。しかし、それは体の錯覚だったのだ。28~29度でも、普通の年なら十分暑いのに。

先週末からツクツクホウシが鳴き始めて、夏もようやく終盤だなと思っていたのだが、その鳴き声が一向に増えない。既に羽化してしまった先行的なツクツクホウシは、真夏の暑さがいつまでも衰えないので、「しまった、フライングしちまったかな」 なんて思ってるかもしれない。

『吾輩は猫である』 に、「皮を脱いで、肉を脱いで骨だけで涼みたいものだと英吉利 (イギリス) のシドニー・スミスとか云う人が苦しがった」 という話が紹介されている。イギリスの暑さ程度ならそれでもいいが、日本でそんなことをしたら、暑さが直接骨身にしみて死ぬ思いだろう。

思い起こせば、私は 今年 6月 5日に 「今の夏は、小雨で猛暑になりそう」 というエントリーを書いている。この時期に出された気象庁の 3ヶ月予報を、なぜか珍しく信じる気になって、暑い夏を覚悟したのだった。いくら覚悟したと言っても、これほどまでとは思わなかったのだが。

このエントリーには、KEICOCO さんから 「この夏は冷夏になりそうな気がしています」 というコメントが寄せられた。そして、ご存知のように、6月は多少暑い日が続きもしたのだが、梅雨入り後は天気がぐずつき、梅雨明けはメチャクチャ遅れたのである。

で、私は 7月下旬にはすっかり自信がなくなってしまって、「こりゃ、6月 5日のエントリーは、空振りだったな」 と思ってしまったのだ。KEICOCO さんの鋭い予感に、脱帽してしまったのである。

ただ、「そういえば」 と思って、そのエントリーを読み返すと、私は負け惜しみ的に次のようなレスをつけている。

まあ、夏も 3ヶ月ありますから、前半は比較的涼しくて、後半に猛烈な残暑なんてこともあるかもしれませんね。

この冬が、前半暖冬で、立春を過ぎてから「寒の戻り」が激しかったということもありましたから、油断がなりません。

そして、結果はその通りになってしまい、梅雨明け以後は文字通りの 「記録的な暑さ」 である。こんなにも極端な形で、「両方の予感、当たり」 で痛み分けになるとは、思わなかった。

この立秋以後の猛暑は、今年の立春後の 「寒の戻り」 の猛烈な夏バージョンだったようなのだ。「暑の戻り」 なんて言葉はないけれど。

昨年までの 2~3年、夏は西日本が強烈な暑さで、天気予報をみても、大阪方面は関東より 2度ぐらい高い気温になることが多かった。関西方面の人のブログでも、毎日のように 「暑い、暑い」 という記述が目立って、「なんとまあ、気の毒な」 と、同情していたのである。

そして、今年の 8月に至って、多くの関西のブロガーが毎日 「暑い、暑い」 とこぼしていたことに、心の底から共感を覚えたのであった。

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2007/08/23

「自分の中の他者」 を持つこと

物事を理解するというのは、ある意味、自分の中の他者に、いかにわかりやすく説明できるようになるかということなんじゃないかと思う。

ややこしくて難解なことは、まずそのとっかかりだけでもいいから、なんとかシンプルに説明しようとしているうちに、全貌がよりよく理解できてしまったりすることがある。

そういう意味では、何かの説明会などで、自分の言葉を使わずに、既によく知られた公式的なテキストの繰り返ししかできないやつがいると、「こいつ、本当はよくわかってないな」 なんて思ったりする。

要するに、単なる仕事として 「私は説明しました」 というアリバイを作るためにのみそこにいて、本当に理解してもらおうなんてことは、決して思ってないんじゃないかと疑ってしまうのだ。ということは、そいつもしっかりとは納得してないんじゃないかという気がする。

実際、そうした型どおり過ぎる説明を聞いても、あまり納得したような気がしないのである。で、「何かご質問は?」 なんてことを言われても、「こいつに質問しても、あんまり意味ないな」 なんて思ってしまうのだ。それよりも、さっさと締めてもらって、早く帰りたいという思いが先に立つ。

そして、帰ってから改めて自分で調べてみたりする。そのうちに、「何だ、要するにこういうことか!」 と納得する。「こんなこと、5分もあれば説明できるぞ」 なんてね。

「アリバイ作り」 のオッサンが 30分かけて説明することを、「自分の中の他者」 に 5分で説明できるようになって、初めて 「少しは理解した」 と言えるんだと、私なんかは思っている。

で、ちょっと話は逸れてしまうのだが、「自分の中の他者」 がいないと、とんでもないことになってしまうという実例がある。"「中学生と性交渉」 告白大学生 内定取り消し、退学の危機" というお話だ。

このニュースの当事者である大学生は、鉄道のキセル行為をしようとしたことや、中学生と性行為をしたことや、医師の診断書を偽造して大学の授業を欠席しようとしたことや、大学のテストでカンニングをしようとしたことや、腐った卵を自宅隣のアパートの郵便受けに突っ込んだことなどを、mixi に書き込んでいたという。

この大学生、自分の中に 「他者」 がいないんだな。「俺様」 しか。

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2007/08/22

衣料品のホルムアルデヒド騒動

ニュージーランドのテレビ局の調査で、中国製衣料品に大量のホルムアルデヒドが含まれていたと報道された (参照) とたん、私の関係するアパレル関連団体には、不安を感じた消費者からの問い合わせが殺到している。

もっとも、「ウチの服は大丈夫?」 なんて聞かれても、実際には答えようがないのだが。

ホルムアルデヒドというのは、シックハウス症候群の原因にもなり、多くの都市建築の内部なら、(新築直後などはとくに) 空気中に漂っていても不思議ではない化学物質である。また、瞬間接着剤を使ったりしたら、周囲の空気は一時的にかなり高濃度になったりする。

衣料品では生地にハリをもたせたり、しわを防ぐ加工をしたり、つまり見かけをよくするためにホルムアルデヒドを使う場合が多く、また染料にも含まれることがあるので、大人の服は多少なりともホルムアルデヒドを含むことが多い。

しかし日本ではベビー服の場合、少しのホルマリンも検出されてはならないという規定があるので、ビニール袋に入れて販売している。そうしないと、近くに陳列してある大人用の衣類から空気を介してホルムアルデヒドを吸着し、「少しも検出されてはならない」 という規定に違反してしまう懼れがあるのだ。

ただ、消費者がそれを購入して、引っ越したばかりの新建材の家で袋から出したとたんに、多少のホルムアルデヒドを吸着してしまったり、大人の着ている服から移ったりする可能性があるので、要するに、「売ってから先のことまでは責任もてん」 という程度のことなのだが。

というわけで、ほんの少しのホルムアルデヒドなら、過敏な体質の人を別として、体調を崩すほどのことにはなりにくい。ただし、報道されたように 「WHO 基準の 900倍に当たる濃度」 となると、話は別だ。

何しろ、ホルムアルデヒドというのは、容易に他に移染してしまう (つまり、飛んでしまう) 性質があるので、計測時点でそんなに高濃度だったら、出荷時点ではどんなにホルムアルデヒドまみれだったか、知れたものではない。

ちょっと見の見た目を取り繕うために、よっぽどメチャクチャ使い放題に使わないと、そんなに高濃度にはならないんじゃなかろうか。この目でみたわけじゃないから、よくわからんけど、中国の縫製工場の従業員、頭痛くなったり吐き気したりしないだろうか。

で、日本の消費者もかなり不安になっているわけだが、手持ちの、あるいはこれから買おうとする衣料品がホルムアルデヒドまみれかどうかは、ちょっと臭いをかいでみればわかるはずだ。

刺激臭があって、目や鼻の粘膜にしみたりしたら、ホルムアルデヒド濃度が高いおそれがある。そうでなくても、そうした製品は避けたほうがいい。

そして、刺激臭がなくても心配な場合は、着用前に水洗いすることをお薦めする (ドライクリーニング指定の場合を除く)。あくまでも一般論だが、ホルムアルデヒドは水に溶けやすいので、大部分を除去することが出来るはずだ。

もし水洗いしても刺激臭がとれないような場合は、他の原因が考えられる。そこから先は、私の手に負えない。

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2007/08/21

確かに 「安い中国は高くつく」 だろうが

フィナンシャル・タイムズが、「安い中国は高くつく」 というリチャード・マグレガー氏の署名記事で、「世界が払うべき中国のコストは、今後必ず上昇する」 と指摘している。

中国の様々な問題解決に要するコストを、中国製品を輸入する先進国が応分に負担すべきではないかという主張だ。

マクレガー氏は "「安い中国製」 を可能にしているのは、ずさん (あるいは有名無実) な環境基準だったり、投資誘致の競争を勝ち抜くために各地域が拠出する資金や様々なインセンティブだったりする" としている。

しかし今では、"付加価値の低い商品を作っている企業にかつて与えられていた低金利融資や投資誘因が、どんどん引き揚げられている" として、安い製品を作る中国の中小民間企業の存立基盤が危うくなりつつあると指摘している。

そして、この記事の終盤で、マクレガー氏は以下のように主張する。

しかし中国の人口問題のおかげで、アメリカのウォルマートの棚には安い商品が並び、それでアメリカの消費者がハッピーでいられるというのなら、問題解決のコストはそれなりに分担するべきではないだろうか? ます第一歩として、中国が排出する温室効果ガスの一部は、中国製品を買う人たちが住む国が排出したものとして、カウントしたらどうだろうか。

「カウントする」 ということは、その分の金を負担するということだ。つまり、中国の安い製品を買いたいのなら、中国が安い製品を問題なく供給し続けられるように、環境対策コストを応分に負担すべきだということである。一見すると、とても美しい主張のように思われる。

しかし、ことはそう簡単には進まないだろう。

品質が多少悪くても、それに目をつむれるぐらい安いからこそ、中国製品は世界で受け入れられているのである。品質が悪い上に、環境対策費までバイヤー負担になって上乗せされるとしたら、中国製品を輸入し続ける意味があるだろうか。

日本では、ただでさえ国内製造業の空洞化が問題視されている。環境対策費を上乗せされた品質に問題のある製品を、わざわざ海の向こうから輸入するぐらいなら、国内の安定した品質の製品を仕入れようという動きが、少なからず強まるだろう。

それに、中国製品を買うのは外国ばかりではない。中国国内でだって消費されるのである。だったら、中国自身が環境対策費を最も積極的に負担すべきということになる。なんといっても、中国の環境悪化で最も被害が大きいのは中国自身なのだし。

それに、こうしたことはあまり言いたくはないが、そこまでフェアに中国を信頼していいのだろうかという疑問も残る。

仮にバイヤー側が 「我々は貴国の環境対策費を負担する用意があるから、そのコストを上乗せした価格をオファーしてくれても、これまで通りの買い付けを保障する」 なんて申し出たとしても、中国側が労せず手にした余剰利益を、きちんと環境対策に振り向けるとは、私には信じられないのである。申し訳ないけど。

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2007/08/20

蝉の鳴き声に関するレビュー

シズル感たっぷりのアブラゼミの鳴き声がピークを越え、変わってツクツクホウシの鳴き声が目立ってきた。夏も終盤である。

「アブラゼミ」 の名の語源は、油炒めの音のような鳴き声からきていて、英語の "sizzle" も 「熱でジュージューいう音」 の意味。アブラゼミがシズル感たっぷりなのは道理だ。

できることなら、アブラゼミを "summer sizzler (サマー・シズラー)"、ツクツクホウシを "summer closer (サマー・クローザー)" と名付けたいほどだ。"Summer Sizzler" といえば、アメリカン・プロレスの夏シリーズの定番的名称だが (参照)。

蝉の鳴き声をテーマにして、私は記憶に残る限り、これまで 2つのエントリーを書いている。「セミの鳴き声というトラウマ 」 と、「ツクツクホウシの修練」 である。どちらも、我ながらなかなかの趣だと思っている。

前者は、蝉の鳴き声に関するトラウマの話である。我が故郷の庄内にはミンミンゼミがいなくて、「ジージー」 と鳴くアブラゼミが主流だった。ところが、どんな本を読んでも、蝉の鳴き声は 「ミーンミーン」 と表記されている。

幼い私は蝉の種類の違いとは知らず、洗練された都会人の耳には 「ミーンミーン」 と聞こえるはずの鳴き声が、どうしても 「ジージー」 としか聞こえないというのが不思議だった。自分の耳の、いかにも田舎者じみた不風流さを呪っていたのである。

後になって、ちゃんと自分の耳にも、紛れもなく 「ミーンミーン」 と聞こえる別種類の蝉が存在すると知るのだが、このトラウマの痕跡は、今も心の隅のどこかに残っているような気がしている。

そして、後者のツクツクホウシの鳴き声に関する印象から発したエントリーには、次のように記している。

ツクツクホウシは、「オウシ、ツクツクツク・・・オウシ、ツクツクツク・・・」 と、何度か繰り返すと、根気が続かなくなり、「ツクツク・・・ピーギョーピーギョー」 と、ウヤムヤに帰してしまうのである。

ツクツクホウシは、蝉の中では最も複雑な鳴き方をすると言っていいと思うのだが、悲しいことに、その鳴き方を完成段階にまで高めることができないのである。

それは、鳴き始めてたった一週間で命が尽きてしまうため、ウグイスのような時間をかけた修練ができないからだと、私は以前から信じている。ツクツクホウシがもし半年生きるとしたら、見事な洗練を獲得して、翌年の早春には延々と 「オウシ、ツクツクツク・・・」 を繰り返すだろうと思うのだ。

我が家の次女は、子どもの頃、「ツクツクホウシって、いつも、『くそ、またカンじまった!』 なんて、悔しがってるのかなあ」 と言っていた。うむ、向上心のあるツクツクホウシなら、悔しがってるかもしれんぞ。

なお、ツクツクホウシの鳴き声について、夏目漱石は 『吾輩は猫である』 の中で、次のように記している。(以下、引用)

これもついでだから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究上少なからざる関係があると思う。

私の耳には、前述のように  「オウシ、ツクツクツク・・・」 と聞こえるのである。和歌ログの昨日のエントリーは、次の歌である。

鳴き方を研ぎ澄ます間もなく死ぬるつくつくほふしの夏ははかなし

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2007/08/19

「白い恋人」 への素朴な疑問

賞味期限改ざんで大問題になっている 「白い恋人」 (参照) だが、一連のニュースをみていると、素朴な疑問に行き当たるのだ。

10年も前から賞味期限を引き延ばしていながら、これまで何の問題もなかったのだから、結局、引き延ばした方の賞味期限で OK だったんじゃない? ということだ。

フジサンケイ・ビジネスの記事は、次のように伝えている。

石水社長は記者会見で、賞味期限の引き伸ばしが恒常的に行われた背景について 「1996年に包装用フィルムを新しい素材に変更したのを契機に、商品の保存性が飛躍的に伸び、6カ月は大丈夫と判断したため」 と述べた。

ふ~ん、だったら、私なら、正式な手続きを踏んで社内規定を改訂し、賞味期限を 4ヶ月から 6ヶ月に延長しちゃうところだ。実際、長期間にわたって消費者からの苦情は伝えられていないし、ずっと人気商品の地位を確保していたのだから、それでも OK だったんじゃないかなあ。

ちょっと調べてみただけだから、実際のところはよくわからないけれど、賞味期限というのは、「社内規定」 に沿って表示されていたもののようだ。とくに法的に期限が指定されているというわけではないようにみえる。

だったら、きちんと社内規定を改定して、堂々と賞味期限を引き延ばせばよかったのにと、素人考えでは思ってしまうわけなのだ。

あるいは、法的な手続きが煩雑で、面倒くさかったんだろうか? それでも、10年以上もコソコソとやるよりは、一時的には面倒でも、きちんと改定してしまった方がよかったんじゃなかろうか。それを怠ったツケが、一挙に吹き出してるんだから、

ただし、アイスクリームから食中毒の原因となる菌を検出しながら隠ぺいしたというのは、いただけない。やっぱり、コソコソやっちゃう体質というのは問題なのだ。

雪印といい、ミートホープといい、今回の 「白い恋人」 といい、作り手の方の都合で独断に陥るのが、北海道メンタリティというものなのかと思わせられるような事件が続いている。北海道が好きな私としては、他の企業の頑張りで、そうでないというところを見せてもらいたいもんだ。

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2007/08/18

「グリーティングカード」 への複雑な思い

インターネットの世界には、「グリーティングカード」 というサービスがあり、楽天Yahoo のものが有名だ。

「○○さんからグリーティングカードが届いています」 というメールが届き、そのカードを見るには、メール中のリンクをクリックする必要がある。これがちょっとしたスリルなのだ。

まあ、大抵の場合、通知されたカードの差出人はよく知った友人、知人の名前になっているし、それに、通知メールの差出人も楽天や Yahoo の担当部署のようなので、多少の不安は打ち消しながら、リンクをクリックすることになる。

すると、なんのことはない。紛れもなく、友人や知人からの親しみを込めたグリーティングカードであり、その多くは、フラッシュなどを使ってとても凝った作りになっているので、ちゃんと楽しめたりもする。結果オーライである。

ところが中には、英語メールがほとんどだが、「○○からグリーティングメールが来てるから、下のリンクをクリックしてみて」 なんて、変てこなお知らせ (?) メールがあったりする。

最近届いたのは、「あなたの伯父さんから」 という、以下の文面のものだった。

Good day.
Your Uncle has sent you Greeting ecard from all-yours.net.
Click on your card's direct www address below:

(リンク省略)

Copyright (c) 1998-2007 all-yours.net All Rights Reserved

All -Yours Net というのは、米国ではポピュラーなグリーティングカード・サービスらしいので、「ん?」 なんて、一瞬思ってしまったりする。

しかし、私の伯父は (叔父も含め) 今や 80歳を過ぎた 2人しか生き残っておらず、そのうちの 1人は、インターネットとは全然縁がない。年寄りには珍しくインターネットをするもう一人の伯父は、英語は大の苦手で、わざわざ異国のサービスを利用して残暑見舞いをくれるとは思われない。

以前届いたのは、別のサービスを騙って、「あなたのお母さんから」 というものだったが、私の母は、その頃、まだ生きてはいたが、ずっと寝たきりで自力では寝返りもうてなかったのだ。

それに、こうした通知メールの差出人のアドレスは、All -Yours Net などのサービスとは全然無関係だったりする。というわけで、こんな危ないリンクは、決してクリックしないのである。

こうした類のものは、すぐに 「怪しい」 とわかるのだが、例えば、Yahoo ジャパンのグリーティングカード・サービスを名乗って、もっともらしいお知らせが届いたりしたら、これはちょっと危ない。"@yahoo.co.jp" のアドレスなんて、誰でも 5分もあれば取得できるし。

というわけで、「○○さんから、グリーティングカードが届いています」 というお知らせメールが届くたびに、私は、気持ちの 8割以上は嬉しいんだけれど、残りの 2割足らずの部分では、不安になってしまったりもするのである。だから近頃私は、自分からこうしたサービスを利用する気にはなれない。

ましてや、最近は、グリーティングカード・スパムで、ワームが拡散しているという情報 (参照) もある。ちょっと警戒しておきたいと思っているわけである。

(あ、私にグリーティングカードをくれた方、決して迷惑だなんて言ってるわけじゃないから、気にしないでね)

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2007/08/17

「学ランの封印」 という 「教育の一環」

宇治山田商の応援団が、「戦争を想起させる」 という投書がきっかけで、甲子園で学ラン を "封印" したというニュース (参照) に、ブロゴスフィアでは 「過剰反応だ」 との批判が優勢を占めているようだ。

私なんか元々学生服が嫌いだから、直接的には、批判もへったくれもないのだが。

個人的なことを言わせてもらえば、中学高校時代には、制服として押しつけられていた学生服が嫌いでしょうがなかった。何しろ着た切り雀だから不潔だし、暑いし、首廻りが窮屈だし、耐え難いほど嫌だった。

それに、「戦争を想起させる」 とまでは直接的には思わなかったけれど、「このデザインって、発想のオリジナルは結局 "軍服" だもんなあ」 とは、常に意識していた。学生服をみて軍服の系譜をまったく意識しないというのは、感覚麻痺しているんじゃないかと思う。

ブレザーにしても、スウェットシャツにしても、トレンチコートにしても、元々は軍服が起源だという議論もあるが、学生服のデザインは、イメージ的にも飛び抜けて軍服的だ。とくに、あのシンボリックな 「詰め襟」 が旧日本海軍的でないというなら、一体何なのだ。

日の丸に批判的で、「君が代」 は別に歌わなくてもいいなんて言っていた日教組や高教組の教師たちが、軍国的デザインの系譜をまともに引く学生服にはちっとも疑問を呈しないのが、私には不思議でしょうがなかった。

結局、彼らもご都合主義なのだね。政治的には左がかった振る舞いをしても、生徒を管理するには、(軍服じみたデザインには目をつむって) 制服を押しつけるのが手っ取り早いと思っていたわけだ。

とまあ、ここまでは、私の個人的好みに沿ったお話である。で、応援団がたった一通の投書をきっかけにして、「伝統」 にまで昇華されていた学ランを "封印" したというのは、一般論としては、ちょっと 「異常な」 反応だったんじゃないかと思う。個人的にはどうでもいいけど。

元々、伝統的スタイルの応援団という組織は、善かれ悪しかれ 「軍隊的」 なイメージに多少は共通したニュアンスを感じさせるところがないとは言えないんだし (と、無用のツッコミを警戒して、まわりくどい言い方をする)、本来のコンセプトによく合致したユニフォームであり、彼らがそれを着用するのは、とても自然なことだと思う。

それを "封印" するというのは、彼らにとってはとても複雑な思いだろう。もうちょっと、まともな議論があってもよかったんじゃなかろうかとも思うが、なし崩し的に建前のみを押しつけるいうのが、高野連のいつものやり方だ。これが 「教育の一環」 の中身である。

というわけで、応援団が学ランを着ようが着まいが、私にとってはどうでもいいことで、「好きにすれば?」 程度に思っているのだが、最終的に気に入らないのは、高野連と、そして朝日新聞なのである。

坊主頭を強制する高野連と、反日の丸の朝日新聞が、あれだけ仲良くやれるというのは、要するに、金に群がっているだけの話だ。天下の朝日も、ドル箱を前にしては、自らの主催イベントで日の丸を高く掲げるというダブル・スタンダードを、恥ずかしげもなく採用するのである。

こうした 「ねじれ現象」 の上に微妙に乗っかるという構造があるので、高校野球は 「建前」 のみで、事なかれ主義に走らざるを得ないのだね。今回は、高野連が 「朝日的」 な要素にちょっとだけ気を遣いすぎたということなのかもしれない。

まあ、どちらもせいぜい長生きしてくださいよということだ。

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2007/08/16

がんばって、疲れをとるぞ!

暑い。暑すぎ。そして、いくら何でも、その暑さが続きすぎ。もうバテバテ。申し訳ないが、まともなことを書こうという気にならない。

ここ 3~4年、夏になると西日本の暑さが凄くて、東日本より確実に 2度ぐらい上の気温を示していた。しかし、この夏は、東と北もすごい。昨日の館林は 40.2度だったというし。

去年までは、「大阪の暑さはすごいらしいね」 なんて、人ごとのように言っていたが、今年は、東京都内に行っても、つくばの自宅で仕事をしていても暑い。先日は庄内の田舎に逃げたつもりだったのに、庄内も暑かった。もう、どこに行っても暑いのである。

私はあまり夏バテというのをしたことがないのだが、昨日あたり、ふと 「もしかして、これって、夏バテというのじゃあるまいか」 などと思ってしまった。ちょっとぐったり気味なのである。

今年の春あたりから、なんとなくズルズルとプチ忙しくて、別に寝る暇もないというわけじゃないのだが、振り返ってみると、全然休みが取れてないという、なんとなく、「いつも疲れがたまってるのよね」 状態が続いていた。それで、このお盆休みが希望の灯火だったのである。

お盆休みは、前半に田舎に行って、つくばに戻ってきたら、とにかく何にもしないで休もうと思っていたのだ。ところが、この暑さでは、何にもしなくても疲れちゃうじゃないか。エアコンを効かせれば効かせたで、外に出た時に、あまりの気温差に目眩がするし。

この暑さは、今日までがピークだという。週末は少しは気温が下がると、天気予報は言っている。ああ、そうであってもらいたい。裏切らないで欲しい。

実は 18日からまた仕事で、車を飛ばして栃木県まで行かなければならない。それまでには、何とかがんばって、たまった疲れを取ろうと思う。疲れを取るためにがんばるというのも、ちょっとおかしな気がするのだが、がんばらないと、この疲れ、残っちゃいそうな気がするので。

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2007/08/15

日本なら 「銘菓」 になるだろう、ニセ卵

中国で 「ニセ卵」 が出回っているとのニュース (参照) を聞いた時は、いくら何でも 「段ボール肉まん」 以上のガセネタだと思った。

卵のニセ物なんて、作るのはとても難しいだろうし、本物よりコストがかかるニセ物なんて、作っても意味がない。ところが、さすが中国である。どうやら本当のことらしいのだ。

昔、母親が 「自然というのはスゴイ」 というのを聞いた。その論拠は、「だって、卵なんて、人間が作ろうとしてもできないのに、自然は簡単に作ってしまう」 というのである。「自然はスゴイ」 というのを、「神様はスゴイ」 と言い換えている人もいる。

まあ、ことほど左様に、卵は自然の創造の傑作とまでいえるようなもので、人間が同じ物を作ろうとしてもできないものであると、私なんか幼い頃から刷り込まれていた。だから、「ニセ卵」 なんて、ガセネタに違いないと、つい思いこんだのである。

ところが、どうやらあったようなのである。こちら を参照していただきたい。卵の殻までついたきちんとした 「完成品」 の画像がないので、100%信じるには至らないが、少なくとも、殻の 「中身」 までは作られている。あとは、殻となる原料で覆って、乾かすか何かすればいいのかもしれない。

これをみるに、中国という国で 「ニセ卵」 なるものが存在する余地があるのは、ひとえに、ゆるゆるの品質基準というか、大ざっぱさというか、テキトーというか、とにかく、メンタリティが違うことによるものとしか思われない。

日本なら、「これのどこが卵だよ !?」 と言われるに決まっているような代物を、「卵」 として流通させるという思い切りの良さ。そして、消費者の方も、薄々 (というか、確実に) ニセ物と知りながら、それでも 「卵」 として認めてしまっているという大らかさ。大したものである。

どこからどうみても、本物の卵とは思われないものを、バターとマーガリンほどの区別もせずに、「超安い卵」 ぐらいの感覚で使っているのかもしれない。これで、体に有害でさえなければ、めでたしめでたしということなのだが。

日本だったら、無害な原料を使って、「銘菓」 として売り出してもおかしくないだろう。それを試みて、中国から 「知的所有権侵害」 で訴えられるという快挙を、誰かやってみてくれないかなあ。

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2007/08/14

「季節予報」 を 3回唱える

昔、生ものを食う前に 「天気予報、天気予報、天気予報」 と、三度唱えるまじないがあった。その心は 「当たらない」 ということである。

最近は、明日や明後日の天気予報はとてもよく当たるようになったが、季節予報はまだ難しいようだ。気象庁が 8月の気温を低めに予報修正したとたんに、この暑さである。

梅雨入り前は、ラニーニャ現象の影響で、この夏は 「小雨で猛暑」 との予報だったのを、覚えておられる方も多いだろう。ところが、実際には梅雨明けが遅れに遅れて、案外しのぎやすい日が続いた。

そこで、気象庁も考えを改めたらしく、先月の 25日に発表した 8~10月の 3か月予報で、8月の気温については、「高めか平年並み」 から 「平年並み」 に修正された。

一説によると、元々、気象庁のスーパーコンピュータの計算では、平年並み予想だったのだが、ラニーニャ要素を重視して手動で修正した結果が 「小雨で猛暑」 という予報だったようだ。それで、なんだ、やっぱりコンピュータの方が正しかったじゃないかといことになったらしい。

ところが、梅雨明けした途端にやたら暑くなってしまって、とくに北日本では記録的な暑さになっている。手動による修正が、後になってからだんだんと正しさを発揮し始めてしまったようなのだ。世の中はまったく皮肉なものである。

実は 12日まで、酒田と仙台に滞在していて、関東と比べたら少しはしのぎやすいだろうと期待していたが、すっかり裏切られ、大変な暑さだった。

東北でも内陸は、例年かなりの暑さになるのだが、酒田や仙台は、暑くてもせいぜい 32度程度のことが多い。しかし、今年は平気で 34度とか 35度になっている。フェーン現象を除いたら、異例のことだ。

で、気象庁も 8月 10日発表の 1ヶ月予報では、日本の大部分で、平年より気温の高い確率が 50%以上と塗り替えられている。これなんか、予報というよりはなんとなく 「後出しジャンケン」 じみたもののような気がするのだが、まあしょうがない。

それに、9月以降の残暑は厳しくなるという予報なのだが、これだって、当たるのだかどうだか甚だ怪しいものである。なにしろ、1ヶ月以上先の予報は当たらないことの方が多いという実績が、しっかりとあるのだから。

これからは、生ものを食うときには、「季節予報、季節予報、季節予報」 と、3回繰り返すといいかもしれない。

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2007/08/13

酒との付き合いの変化

私の父は 78歳だが、30年近く歯科医以外の医者にかかったことがない。元々医者嫌いということもあるのだが、そもそも、医者にかかるほどの病気にならないのだ。

これは、父が酒を飲まないということと関係があるんじゃないかと思うようになった。大酒飲みは、やはり体をこわしやすいようだ。

田舎に帰ると、父の同年代の友人がばたばたと死んだり、病気になって動けなくなったりという噂を聞く。そこへいくと、私の父は元気である。何しろ医者嫌いだから、何十年も健康診断というものを受けたことがないのだが、血圧も胃腸も腎臓も肝臓も、具合が悪そうには全然見えない。

「俺の葬式は、つつましいものになると思うよ。多分、友人関係は全滅していて、親戚でも甥っ子、姪っ子の代より下だけが参列するということになってしまうだろうから」 と父は言う。なるほど、多分そうだろうと思う。

「あんなに元気そうだったのに」 という人が、急に死んだり、倒れてしまったりということがある。そうした人は、大抵酒好きだという印象がある。ある時期まで、豪快に酒を飲んで陽気に振る舞っていた人が、急に体をこわしてしまうというのを、よく聞く。

酒は百薬の長といって、少しずつなら体にいいらしいが、あまり大量に飲むというのは、やはり体にダメージを与えるのだろうと思う。

ところで、近頃、私と酒との関係もかなり大きく変化した。以前は 「週に一度の休肝日」 なんて、不可能だと思っていたのだが、最近は週の半分は、一滴の酒も飲まないようになった。仕事をしながら、いつの間にかばったりと寝てしまい、翌朝になって初めて、「ああ、昨日は全然酒を飲まなかったなあ」 と気付いたりする。

そうなると、酒も弱くなる。元々親父の体質が遺伝しているのだから、酒には強いわけじゃない。鍛えて飲めるようになっていただけのことだ。日常的に車を運転して移動する機会が増えたこともあり、飲む量が急に減ってしまったのだから、体質的にもどんどん弱くなる。

近頃は、一人で蕎麦屋に入っても酒を頼みにくい。たった 1合の酒で顔が真っ赤になるからだ。2人で徳利 2本注文して、5勺ぐらいこちらが飲み、相手に 1合 5勺引き受けてもらうのがちょうどいいぐらいになってしまった。大変な変化である。

World Drinking Map というサイトがある。世界の国の飲酒の年齢制限を色別に示したものだ。ざっとみると、日本のように 20歳以上で初めて酒が飲めるというのは少数派で、18歳以上というのがかなり多い。フランスやイタリアは 16歳以上だ。

アメリカは清教徒的な伝統が強く、21歳以上となっていて、先進国の中では最も厳しい。しかし、法律上の年齢制限がどうあろうとも、低年齢のうちに酒を飲み始めるという傾向はどこの国でも共通しているらしく、若くして飲み始めた人ほどアル中になりやすいという調査結果もある。

となると、体質的に酒が飲めないというのは、無理に酒を我慢しなくてもいいので、メンタル面も含めて、健康管理上、案外楽なことなのかもしれない。

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2007/08/12

学習塾に通わせるのはコスト効率が悪い?

私の知り合いは、「子供を学習塾に通わせるのは、対費用効果の視点で考えると、コスト効率がはなはだ悪い」 と主張する。

親は少しでも偏差値の高い大学に子供を入学させようと必死なのだが、偏差値がたかだか 2~3ポイント高い大学を出たところで、就職に決定的に有利というわけじゃない。

「東大とか京大とか、早慶とか、上智とか、六大学とかなら、少しは就職に有利なんだろうけど、その他のちょっといい大学を出たからって、必ずしも一流企業に就職できるってわけじゃないし、三流大学を出ても、世間で成功してるやつだって、いくらでもいるんだし」 と、彼は言うのである。

「だったら、偏差値がちょっとばかり高い大学に入学させるためだけに、月に何万円も子供に投資するなんていうのは、馬鹿馬鹿しい。他のことに金を使って、子供をのびのびと育てるほうが、ずっといい」

なるほど、その主張にはほとんど同意せざるを得ない。ちょっとだけ反論するとしたら、私なんか、一応ワセダの、しかも大学院を出ているけど、一流企業なんて、全然縁のない暮らしをしてきたということだけだ。

そしてまた、学習塾に子供を通わせる親のすべてが、子供を一流大学に入れて、そして一流企業に就職させようと、明確に意識しているのだろうか。それもちょっとだけ疑問だ。

かなり多くの親は、ただ自分自身の漠然とした安心のためにだけ、子供を塾に通わせているだけなんじゃあるまいか。マジに子供の偏差値を上げたいというなら、もう少し塾の選択をしてもいいと思うのだが、多くは、単に手近な塾に通わせているだけだ。

月にたった数万円の出費で、ある程度の安心感を得られるのなら、それはもしかしたら、精神衛生上かなり安い投資かもしれない。子供の将来は、全然別問題として。

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2007/08/11

言うまいと思えど今日の・・・

"You might tow my doc, you know, at soccer now." ・・・・・・ 「サッカーで、あなたは、わかってるね、私のドクターをロープで引っ張るかもしれない」 という意味か?

いやいや、単に、「言うまいと思えど今日の暑さかな」 と聞こえるというだけのことである。ああ、とにかく熱い。

10日から酒田に来ているが、暑いのである。

今週は関東もやたら暑い。木曜日まで、最高気温が 33度とか 34度なんて日が続いていたのである。それで、酒田に逃げれば少しは楽になると思っていたのだ。せいぜい 30度とか、高くても 32度とかで済むと期待していたのである。

ところが、来てみて驚いた。酒田も暑いのである。いきなり熱帯夜に迎えられて、今日なんて、平気で 34度になり、明日は 36度になるという予報が出ている。こんなんでは、酒田に逃げてきた意味がない。

それに、酒田の 34度というのは、すごいのである。なまじ空気が澄んできれいなものだから、太陽の光が無茶苦茶すごい。紫外線が肌を刺すのである。何もしなくても、汗がぽたりぽたりと落ちるのだ。

明日は朝のうちに酒田を発って、仙台の妻の実家に行く。車で移動しているうちはエアコンを効かせるからいいが、親戚の家を何軒か廻り、墓参りをするうちに、ああ、どんなに汗をかくだろう。

東北は、旧盆を過ぎれば少しはしのぎやすくなる。しかし、その頃には、私は残暑の厳しい関東に戻るのだ。

ああ、来年の夏は、絶対に高原に逃げる。少なくとも標高 800メートルぐらいの高原に逃げる。母の介護の必要がなくなって、一周忌も過ぎるのだから、自由な時間が取れる。久しぶりでキャンプをする。満天の星の夜空を眺める。絶対にそうするぞ。

ああ、それにしても暑い。

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2007/08/10

涼しい格好させろよ

民主党の西岡武夫参院議院運営委員長が、何を思ってか、参院本会議でのクールビズを廃止し、ネクタイ着用を義務付けたいと言い出しているそうな。(参照

勘弁しておくれよ。ただでさえ地球温暖化で、暑くてしょうがないのに、これ以上暑苦しい格好を強制してどうなるのだよ。

これで、民主党への支持が数パーセント減ったな。現に私が、「もう、しばらく民主党には投票するもんか」 と思ってしまった。

確かに、気にはなっていた。自民党議員の多くが、似合うか似合わないかは別として、ノーネクタイ姿で通しているのに、民主党議員はほとんどがネクタイ着用なのだ。

そもそも、ネクタイをしなければ失礼だなんて思うメンタリティをなんとかしたいと思うのである。世の中では、とくに営業職の男たちが金科玉条のごとく、一年中ネクタイをしているが、私なんか、暑い夏のさなかに、顔を真っ赤にして汗水たらしながら、ジャケット、ネクタイで訪ねてくる営業マンを見るたびに、不愉快になってしまう。

「悪いけど、あんたの顔を見てるだけで、こっちまで暑苦しくなるから、ウチにくるときは、ジャケット脱いで、ネクタイ外して、少しは涼しげな様子で来てよ」 なんて言うと、先方は流れる汗を拭きながら、「どちらも tak さんのような方だと、こちらも楽なんですがね」 なんていう。

なんで、どちらも私のように考えられないのか、こっちの方が不思議だ。商売相手にわざわざ暑苦しい格好を強いるようなサディズムは、少なくとも私は持ち合わせていない。暑苦しさを我慢するために用いられるエネルギー (冷房と、人間のストレスの両面) を、別の方向に生かしたいものだと、どうして思えないのか。

まあ、どうしてもネクタイをしてジャケットを着たいという人には、別にクールビズを強制したいとは思わない。しかしどうして、その逆は、したがる人がいるのだろうか。

で、最後に付け加えるが、ネクタイを外してだらしなく見えるような人は、ネクタイをしていたって、それほど高貴に見えるわけじゃない。

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2007/08/09

トイレ友達とメール友達

日経 BP に、「爆発的広がりを見せるソーシャル・メディア (前編): 中身の無いコミュニケーションがなぜ若者に広がっているのか?」 という小林雅一氏の興味深い論考がある。

Twitter」 や 「リアルタイム日記」 などのツールで、どうでもいいお話の交換をしあう風潮についての考察だ。

私は似たような現象として、若い女の子たちが、どうでもいい内容のケータイ・メールを頻繁に交換し合うのを、一時は不思議に思っていた。しかし小林氏によると、最近は女子高校生の間で、メールの交換は減りつつあるという。

それに取って代って、種々の 「リアルタイム日記」 サービスの利用が増えつつあるらしく、そのファクターは、ブームプランニング・コーディネーター、相川麻子氏のコメントとして、以下のように説明されている。

メールは送られると返さねばならない煩わしさがある。これに対しリアルタイム日記は,自分が言いたいことを言って,見たい人だけ見てくれればいいので気が楽だ。といっても一方的な自己表現ではなく,日記を読んだ人がレスポンスを書き込むこともできる。そこに一言書いてあることのうち,気になったものを翌日の学校で話題にしたり,あるいはヘコんでいたら 『大丈夫?』 という電話をかけたり,そういうきっかけにもなってるようだ。

要するに、これって、「女の子ツール」 なんだなと思う。私が高校生の頃のいにしえの話でいえば、「トイレ友達」 みたいなもんだ。

女の子って、休み時間になると、「トイレ行こう」 なんて、ごく自然に誘い合って、連れ立ってトイレに行くという、私からみると、摩訶不思議な存在だった。で、たまにそういう 「トイレ友達文化」 に馴染まない子がいると、その子は、ちょっと一風変わった存在になりかねないのだった。

あれって、学校のトイレへの往復という超日常を共有し合うことによって、「つながり感」 をもつという文化だったんじゃあるまいかと思うのだ。大切なのは 「つながり感」 であって、それさえ確保できれば、そのための手段や内容は問わない。当時は休み時間に連れ立ってトイレに行くというのが、最も有効なツールだったのだ。

そうしたメンタリティが、近頃ではケータイという便利すぎるツールを得てしまったために、「頻繁なメール交換」 という 「行きすぎ」 にまでたどり着いたんだとみている。

マンモスが牙が大きくなりすぎて滅んだように、進化というのは不便なエクストリームに至っても止められない。それで、「頻繁なメール交換」 が、いくらうっとうしくても、なんとなく強制されたようにレスを付け合うということになっているんだと思っていた。

で、このリアルタイム日記というのは、それをちょっとだけ緩和することのできるツールになるのかもしれない。あるいは、進化のベクトルが邪魔して、そうはならないかもしれないけれど、できれば楽になるといいね。

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2007/08/08

転生を許可制にしようとするおとぎ話

3日連続の中国ネタで恐縮だが、そのすごさに、あまりにも感動してしまったもので、つい取り上げてしまう。

例の 「転生」 の許可制導入ってやつである (参照)。すごい。ここまで露骨に政治が宗教を蹂躙する試みは、少なくとも近代史では類をみないんじゃあるまいか。

宗教はとくに我が国では、ややもすると因習的、前近代的なものとして、否定的な見方をされがちなのだが、メンタリティが近代に至っていないレジームでは、脱因習的、革新的なファクターとして機能することができる。

中国においては、歴史上、黄巾の乱、紅巾の乱、太平天国の乱など、宗教結社がレジーム・チェンジの重要な役割を果たしたことが幾度もあった。それだけに、現在の中国共産党も、気功集団など、宗教的な結社の動きに異常なまでに神経をとがらせるのは、歴代王朝の皇帝たちと変わりない。

それは、中国の体制が 「共産党政権という名前の王朝支配」 であることを示していると、私なんぞは思っている。戦闘の舞台が、現実の国土から共産党内部の権力争いという、少しバーチャルなものに移行しただけの違いだ。

そんなだから、チベット仏教の指導者の輪廻転生という、メタフィジカルなコンセプトに、「許可制」 なんぞというおとぎ話を言い出して、まったく恥じないのである。

ちなみに宗教は、近代的なレジームにおいては、ポスト・モダニズムのファクターたり得ることもある。以前、オウム真理教の中にそれを期待して、こけてしまった学者もいて、なかなか難しい課題なのだが、単なる因習と切って捨てるには、もったいないものなのである。

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2007/08/07

「チャイナフリー」 を巡る冒険

日本産の米が中国に輸出され、現地価格が通常の中国産米の 30倍もするが、富裕層を中心に大好評とのニュース (参照) を聞いて、「あぁ、今度は偽日本米が出回るのか」 と、脊髄反射的に心配になった。

ところが、状況はそれ以上で、偽日本米は、既に出回っていたというのである。

「ひとめぼれ」 「こしひかり」 「秋田小町」 などが、既に中国市場で第三者によって商標登録されていて、中国で本物のこしひかりを売る際には、ブランドを隠さざるを得ないというのは聞いていた。

そして、勝手にブランド登録されているだけでなく、"北京のスーパーマーケットなどでは既に 「こしひかり」 と書かれた中国産コメが流通" (参照) しているという。「そのうち偽日本米が出てくるだろう」 ではなく、既に出回っていたというのだから、なかなかやるものである。

米だけでなく、そのうちリンゴもサクランボもマンゴーも、日本のブランドを称した偽物が出回るだろう。いや、多分、もう既に出回っているに違いない。

で、こんな状況に加えて、本当は食えないものまで食わされるというリスクまであるというわけで、「チャイナフリー」 というのが食品市場のキーワードになりつつある。発端は米国の健康食品会社が始めたことのようだ (参照)。

「何とかフリー」 というのは、"duty-free" が免税で、"smoke-free" が禁煙というのと同様、「○○を免れる」 というような意味合いである。だから、"China-free" は、中国製の素材とか原料を含まないということを訴求しているわけだ。(だから 「リンクフリー」 というのは、本来は間違い英語)

で、その 「チャイナフリー」 という表示が世界中にはやり始めていて、秋葉原あたりのちょっと怪しいショップにまで波及しているというのがおもしろい (参照)。

この様子では、そのうち "China-free" の偽ラベルが出回るに違いない。日本のスーパーでも、既に 「国産うなぎ」 がやたら多すぎる気がするし。(本当は、日本のうなぎの 80%が中国産のはずなのに)

まごまごしているうちに、中国の国内市場が、「没包含中国」 なんて表示された商品だらけにならないとも限らないぞ。マジで。

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2007/08/06

偽カシミヤセーターのお話

カシミヤ製品の虚偽表示が問題になっている。またしても、中国製である (参照)。

近頃、ずいぶん安い値段のカシミヤ・セーターが出回っているなあとは思っていた。しかし、よく考えれば、1万円以下でカシミヤ 100%のセーターができるわけない。それは、自ら 「偽者です」 と公言しているようなものだ。

「いくらなんでも、安すぎ。虚偽表示に決まってるじゃないか」 というと、「いや、あれは、カシミヤはカシミヤでも、紡績の際に床に落ちた、カシミヤのクズ繊維を使っているので、カシミヤであることには間違いないんだ」 なんて言い訳をする人もいた。

馬鹿を言っちゃいけない。「クズ繊維を使ったカシミヤ 100%糸」 なんてものは、矛盾なのである。それ自体、 「真っ赤なウソ」 と公言しているようなものだ。

床に落ちるようなクズ繊維ということは、「紡績にかからなかった」 ということだ。繊維長が短すぎて、いくら縒り合わせても糸になりようがないということである。つまり、「クズ繊維」 は、合繊などと混紡しないとまともな糸にならない。要するに、値段のものすごく安いカシミヤ 100% の商品なんて、あり得ないということだ。

毛製品検査協会に提出されたものは、特別に作った検査用のサンプルだったらしい。なかなかやるもんだ。こうなったら、中国製の製品は抜き打ち検査をするしかない。

そもそも、安いセーターを買いたかったら、初めからカシミヤ 100%なんていう選択肢はないと割り切らなければならない。あり得ない商品を信じて仕入れてしまったというのは、ちょっと問題だと思う。

詐欺にひっかかるメンタリティには、「うますぎる話にまんまと乗っかる」 という共通点がある。「うますぎる話」 なんてないんだといくら言われても、乗っちゃう人は乗っちゃうのである。

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2007/08/05

「倉庫の二階」 って、ご存知?

昨日、車の移動の途中聞いていた TBS ラジオ土曜ワイドで、不思議な寄席の話が出てきた。「倉庫の二階」 というのである。

村田スプリング製作所というところの若旦那が、自社の倉庫の 2階を寄席にして、毎月興業を継続しているらしいのである。今月 19日は寒空はだかの芸がみられるらしい。

この 「倉庫の二階」 は、東武線越谷のちょっと先、大袋駅から 「歩って 15分」 のところにあるらしい。ところが、うつぼさんという方のブログの証言によると、「早足なら 10分足らず」 という。席亭はよっぽどのんびりしているらしい。物件を実際より遠く言うオーナーは、初めてみた。

ちなみに、東武線を大袋駅よりもうちょっと先に行くと、「クレヨンしんちゃん」 の国際的ヒットのおかげで、スペインでは東京の次に有名な日本の都市となったという春日部市がある。

Wikipedia での紹介をみると、「倉庫の二階」 では、テレビではまず見られないであろう芸人の、貴重な芸に触れることができるようだ。春乃ピーチク師匠の戦争を語る漫談会なんてものもある。これだけの貴重な興業を続けている席亭は、ただ者ではない。

ラジオのゲストに出ていた寒空はだかによると、席亭はよく越谷駅前で興業の宣伝のためにビラ配りをするらしい。ところが、「おもしろい話の聞ける会です」 なんて言って普通に配ったのでは、なかなか受け取ってもらえない。

そこで、ビラを裏返しにして、白紙の方を上にし、「紙で~す」 と言って配る方が、ずっと効率よく受け取ってもらえたりするそうで、そのあたりからして、なかなか興味が湧いてきてしまうのだ。

私は、たまぁ~に、テレビでお笑いを見ることがあるのだが、その多くは、「これのどこがおもしろいんだ?」 と言いたくなるような芸である。そうなる理由は、わかっている。近頃のいわゆる 「若手芸人」 のお笑いは、テレビに最適化されてしまっていて、要するに、最初の 「つかみ」 だけで成り立っているようなところがある。

ところが、私はあまりテレビを見ないので、テレビ的感性が養われていない。だから、どうしてもつまらなく感じてしまうのである。

「テレビに最適化された芸」 というのは、今時の芸人でいえば、友近と青木さやかを比べればわかる。青木さやかの芸は、すぐれてテレビ的である。だから、友近よりもポピュラーであるらしい。だが、私は青木の芸はつまらなく思える。友近の方がおもしろい。

友近のは、テレビで一瞬にして受ける芸ではなく、割と、じっくり付き合わなければならない芸風である。しかし、そんなことをテレビで要求したら、すぐにチャンネルを変えられてしまいかねない。だから、彼女の芸は、今どきのテレビ的ではない。

そして、友近よりもっとテレビ的でないお笑いがみられるという点において、この 「倉庫の二階」 は注目しなければならない気がしてきた。

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2007/08/04

大人は子どもを通してしか夏が見えない

去年同様、今年も梅雨明けが遅くて、しかも、関東は梅雨が明けても、いわゆる 「梅雨明け十日」 といわれる、からりとした晴天が続かない。なんとなくぐずぐずしている。

それに、今年は 6月が暑くて、7月には台風が来ちゃったから、もうこれからは 「残暑」 じゃないかなんてことを言う人までいる。

確かに、近頃、夏にしらけるのである。いかにも夏らしい夏に遭遇していない気がする。あの、入道雲がもくもくと湧いて、青空に太陽が白いほどに輝き、セミが鳴き、海に波が光る夏はどこに行ったのだ。3000メートルの稜線を、乾いた風に吹かれながら辿る、あの夏は。

と、近頃、いつの間にかなし崩し的に秋になってしまっているという、ちょっと味気ない夏を不満に思っていたのだが、ふと思い当たったことがある。近頃、夏が夏らしくないのは、周りに子どもがいないからではないかと気付いたのだ。

真っ黒に日焼けし、麦わら帽子をかぶり、アイスクリームを舐め、庭のビニールプールではしゃぎ、虫取り網を振り回す子どもが、めっきり減ってしまったのである。そうか。あの光景がないと、夏は夏じゃないのだ。

そういえば、私自身、もっとも夏らしい夏を過ごしたのは、子供の頃である。長いけれどあっという間に終わる、一年のメインイベントの夏休み。朝起きて、昼ご飯にたどり着くまで、まず気が遠くなるほど、永遠に近い時間感覚。そして、夕方までに昼寝をしても、まだ明るい。さらに、夜も長い。

翌朝目覚めれば、またしても、圧倒的な青空。気絶しそうな青空。黙っていても流れ落ちる汗を、走り回って何十倍にもして流す。そして、ばったりと寝る。これこそが、夏なのである。夏の醍醐味なのである。

そう、大人には自分自身の夏がない。周囲の夏休みの子どもたちを通して、「あの夏」 を追体験するだけの存在なのだ。その追体験をさせてくれるメディアとしての子どもたちが、これほどまでに減ってしまっては、もはや日本にまともな夏はないのである。

いやはや、子どもって、うるさいけど、必要な存在なのだ。

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2007/08/03

やっぱり変だよ、公職選挙法

"「連呼」 って、やっぱり迷信だと思う" という今年 4月のエントリーに、ho さんという方から、実際の選挙運動に関わった経験から、貴重な現場的指摘をいただいた。

選挙運動における連呼は、当選するための最も効率的な手法であるらしく、さらに、一部では歓迎すらされているらしい。

ho さんの指摘によると、選挙運動における連呼の意義というのは、"とにかく 「○○が○○選挙区で出馬してる」 という事実を知らせることがひとつ。もうひとつは、「この地域にわざわざ出向いてお願いにきた」 という印象付け" ということだそうだ。

それを一応認めるとしよう。しかし、「○○が○○選挙区で出馬してる」 とい事実は、あちこちに貼られているポスターをみればわかることなので、「連呼は是非必要」 ということの理由にはならない。

選挙カーに実際乗ってみると、「家から飛び出してきて手を振るような方がいっぱいいる」 という事実に驚かされるという。だが、「家から飛び出してきて手を振る」 ような人は、元々積極的な支持者なのだろうから、出馬の事実をわざわざ知らせるにも及ばないだろう。

この場合は、「この地域にわざわざ出向いてお願いにきた」 ということを、支持者に印象付けるという意味があるのだろう。中には 「俺んとこの地区に挨拶がねぇじゃねぇか」 と、ご機嫌を損ねる選挙民もいるらしいから、それを避けるための 「ご挨拶の既成事実作り」 である。

となると、「出馬の事実のお知らせ」 と 「ご挨拶の既成事実作り」 程度のことに、あれだけうるさくがなり立てているのである。

ho さんは、さらにこう指摘されている。(以下引用部分、改行調整させていただいた)

選挙カーで大声連呼した場合と、何もやらなかった場合、もしくは徒歩や自転車だけにした場合とでは、地元の反響や得票数として差があきらかに出てるんじゃないでしょうか。これは現場の人間にしか見えてこないデータなんだと思います。

深夜にうっとおしいほど連続で繰り返されるCMあるでしょう? 我々は「うっとおしい!逆効果だろ!」って思うけど、実際はあれで無意識に商品名がスリこまれて実際に購入する人がたくさんいるわけです。

印象に残る人 0、嫌悪感を抱く人 0 よりは、印象に残る人 5、嫌悪感を抱く人 5 の、広告宣伝のほうが成功なわけです。

うぅむ。まさにこの辺りが最も重要なポイントなのだろう。連呼は、功罪相半ばする必要悪なのだということだ。

とりあえず、選挙カーの連呼を深夜の CM に譬えるのは、半分正解で、半分的はずれだと指摘しておこう。深夜の CM は、気に入らなかったらスイッチを切るか、ボリュームを落とせばいいのだが、選挙カーの連呼は圧倒的な垂れ流しで、こちらのコントロール下にないからだ。

ただ、嫌悪感を抱かれても、印象に残る人がいれば、それで成功という指摘は、結果論として正しいのだと思う。しかし、それを認めるにしても、「それのベースとなる公職選挙法って、やっぱり変だよね」 と言いたくなるではないか。

現実問題として、選挙カーの連呼が最もうるさく感じられるのは、市区町村議会議員の選挙である。このレベルの選挙というのは、選挙区の隅々、路地裏にいたるまで選挙カーが巡回するからだ。

で、こうした選挙における当選ラインというのは、せいぜい数百票から数千票ということが多い。

人口約 22万 8千人の長野県松本市の、今年 4月に行われた市会議員選挙結果を例にとってみよう。同市の有権者数は、約 16万人で、投票した人は約 8万 7千人。投票率は 54.46% だった (参照)。

で、当選した 34人の最高得票は 4640.448票 (見間違わないでもらいた。4千6百40票である。票数の案分の結果、小数点以下もあるようだ) で、最低は 1261票。次点は、1061.924票 (これも案分あり) だった。

つまり、市会議員選挙では、人口比 1%程度の票を獲得すれば余裕で当選で、0.5%程度の票でも、うまくいけば当選できるということだ。

この数字をベースとして、人口 22万人の都市で、たった 1%足らずの 2000票を獲得するために、選挙カーでがなり立てるのかと、私は言いたいのである。しかも、その 2000票のうちの果たして何票が、実際に選挙カーの連呼効果による票なのか。

2000票のうち、最大限に好意的に見積もって、10%の 200票が、単純に 「連呼してもらったから、投票してあげよう」 という (信じがたい) 動機によるものだとする (多分、そんな多くはないだろうが)。

そうだとすると、たった、200票のために、22万人の街に騒音をまき散らすのかということになる。立候補者当人と関係者の間では、200票は大きいのだろうが、考えてもみるがいいい。それは人口比たった 0.1%以下なのである。

それだけのために、22万人の街全体に騒音をまき散らし、ウグイス嬢の人件費と、選挙カーのガソリン代と、その他諸々に金を使うのである。政治は金がかかるというが、無駄遣いも多いのである。

そんな、うるさくて効率の悪いこと、止めようよと、私は言いたいだけなのだ。今どき、「出馬のお知らせ」 と 「挨拶の印象付け」 程度のことなら、もっと静かに、低コストで、楽にできるだろうよと。

ところが、それをできなくしているのが、現行の公職選挙法のようなのだ。この公職選挙法がある限り、「連呼」 という馬鹿馬鹿しい行為が、「最も効果的」 な選挙運動ということになるのだろう。「他の候補者もやるから、自分もやらないわけにいかない」 ということもあるだろうし。

当ブログの、この問題の関連記事一覧 (だんだん核心に迫っているかも)

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2007/08/02

コンサルタントはそんなに酷くはないが

「傍目八目 (おかめ -)」 とは、囲碁を傍から見ると、八目先まで読めるということだ。往々にして、当事者という立場には、先が読めなくなるというハンデがつきもののようなのだ。

それ故に、客観的な立場にある外部のアドバイザーというのは、とても重要になる。しかし、これが 「コンサルタント」 となると、どうか?

「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」 というブログに、 「コンサルタントの危ない流儀」 という本について触れた、「そろそろコンサルタントについて一言いっておくか」 というとても興味深いエントリーがある。

この本は、「集金マシーンの赤裸々な内幕を語る」 という副題が付いているぐらいだから、結構な内幕暴露本のようだが、上述エントリーの、Dain さんによる紹介を読むと、なんとなく薄々感じていたことが、「やっぱりそうなんだよねぇ」 と得心されるといった内容のようだ。

Dain さんは、「最初にハッキリ言っておく、コンサルタントは、こんなに酷くない」 と言いつつ、「しかし、コンサルタントの手口は、著者の暴露するとおり」 ともおっしゃるわけである。その気持ちもよくわかる。

そして、なおおもしろいことに、このエントリーには 「コンサルを使いこなせないのは大抵の場合は客の側に問題があります。自分にコンサルを使うスキルがないことすら知らないヤツは、コンサルに騙されて当然です」 という、かなりワイルドなコメントまでついていて、物議を醸しかけている。

私自身は、安易にコンサルタントを使う経営者のメンタリティは、安易に子供を学習塾に通わせる親とほとんど変わらないと思っている。

本当に 「デキる子」 は、学習塾のメソッドよりもずっと自分に適した学習法をもっていて、「いい成績」 をとっている。そして、申し訳ない言い方だが、「デキない子」 は、いくら学習塾に通っても、期待通りのはかばかしい成績は上げられない。それと同じことだ。優秀な経営者は、コンサルタントの言うことを参考にしても、盲信はしない。

ただ、Dain さん同様、私としても 「コンサルタントは、こんなに酷くない」 とは思っている。多くのコンサルタントの指摘することは、概ね妥当なことが多いからである。問題なのは、その指導が、基本的には 「学習塾メソッド」 と大差ないことだ。

「こうすれば、業績が上がる」 というメソッドは、その通りにやれば本当に有効なものであるだろうけれど、大抵は 「その通り」 に実行することがとても困難なことであり、それが実行できない場合は、クライアントの責任に帰されがちなのだ。

実際には、いくら傍から八目先まで 「こうしろ」 と言われても、当事者としては 「うるせぇなあ」 ぐらいにしか思えないことが多いのだ。現場の末端になるほど、その傾向は強い。

そしてまた、コンサルタント自身も 「コンサルティングという仕事の当事者」 であるため、さらに傍の立場にある者から 「そんな言い方をしても、現場では通じないよ」 と指摘されても、それを受け入れにくいだろうし。

そして、多くの医者と同じで、コンサルタントも 「セカンドオピニオン」 なんてものはうっとうしく思うだろうし。さらにまた、クライアントにしても、ただでさえ高いコンサルタントを二人も雇おうなんて、そもそも思わないし。

なかなか難しいものである。そして、「コンサルタントはこんなに酷くない」 というのは概ね事実だけれど、中には、「いくら権威あるメソッドとはいえ、そんなに強引な適用をしたら、絶対に失敗するだろう」 と思われるようなことを平気でする人もいると、ちょっとだけ指摘しておきたい。

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2007/08/01

梅雨は明けても

昨夜は日付が変わる前に、ばったりと気絶の如き眠りに陥ってしまって、5時前に目が覚めると、つくばの地は一面霧に包まれていた。

その霧は、時が経つにつれて晴れてきて、6時前には夏の太陽の輝くのが見えた。朝霧の日は晴れるというが、まさにその通り。今日こそは景気よく梅雨明け宣言が出されるだろう。

梅雨明け宣言が私の誕生日 (7月 26日) 以後に持ち越される年というのは、それほど多くないような印象があるが、昨年の誕生日に気になって調べたところ (参照)、それは、6年に 1度の割だった。16.7%である。

この数字を多いとみるか、少ないとみるかは、人それぞれだろう。私としては、「そんなに多かったのか」 と、意外な気がした。自分の誕生日は、俗に言う 「梅雨明け十日」 という、もっとも天候の安定した時期のまっただ中と思っていたからである。

それに、私は基本的に晴れ男だから、自分の誕生日が雨にたたられたという記憶はそれほどない。たとえ梅雨明けが遅れたとしても、私の誕生日だけは晴れるということが圧倒的に多い。一昨年の誕生日のように、台風が来るなんていうのは、珍しい。

で、何が言いたいのかというと、関東は、2年続けて私の誕生日以降の梅雨明けになっているということである。16.7%でしかない確率の現象が、2年連続するというのは、これはさらに珍しいことに違いない。「近頃、天気がおかしい」 というのは、誰しも感じていることだろうが、事実、やっぱりおかしいのである。

周囲で、夏風邪をひいている人が多い。あちこちで、鼻声や咳が聞こえる。体がだるいと嘆く人も多い。少なくともここ数年のうちでは、一番夏風邪のはやっている夏である。かくいう私も、本当に久しぶりで本格的な風邪をひいて、まだすっかり治っているというわけじゃない。ずいぶん長引く風邪である。

ところで、TBS ラジオの 「アクセス」 という番組に、聴取者からの意見を募る 「バトルトーク」 コーナーがある。7月 30日のテーマは、「自民党は惨敗。でも、安倍総理は「続投」を強調。今回の参議院選挙の結果で、日本の政治は変わると思いますか?」 というものだったが、聴取者からの回答は、「変わる」 が 170票、「そうは思わない」 が 112票、その他が 81票だった。

この種の設問では、私はいつも違和感を抱く。この日のものにしても、「状況は時々刻々と変化しているのだから、変わらないわけがないじゃないか」 というのが、フツーの答えだろうと思う。

そして、私としては、時々刻々の変化の中でも、今回の参院選の結果はとくに大きな変化だと思っている。少なくとも、今後の大きな変化に確実につながるステップだと思う。

多分、「そうは思わない」 と答えた人の多くは、「自分が希望するようなドラスティックな変化は起きない」 という意味合いで言っているのだろう。しかし、そんなことを言ったら、日本の政治なんて、ずっとそうなんである。政治なんて、そんなに都合よくガラリと変わるものじゃない。となると、(いつものことだが) 設問自体がナンセンスなのだ。

梅雨明け宣言が遅れているように、日本の状況も閉塞感が漂っている。天気のように、霧が晴れれば日本晴れというようなことになりそうにないのが、残念だ。

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