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2007年11月に作成された投稿

2007/11/30

庄内 On My Mind

昨日の東京の最高気温は 11度ぐらいだったようだ。日が昇ってもあまり暖かくならず、昼前からはむしろどんどん気温が下がってきたような印象で、とにかく風が冷たかった。

朝から空は重苦しい荒涼とした灰色。私にとっては、ああいうのが 「冬空」 のイメージなのだが、関東生まれの人間は違うらしい。

関東に限らず、日本の太平洋側で生まれ育った人にとっての 「冬空」 は、「くっきりと晴れ渡り、冷たく引き締まってきりりとした感じ」 なんだそうだ。日本海側で生まれ育った私にとっては、「冬空」 といえば、関東に 30年以上住んだ今でも、重苦しい灰色の雲が立ちこめているものなのだが。

ところが、昨日は関東の方がどんよりとした重苦しい空になってしまった。ふと思い立って、庄内のリアルタイム映像を配信してくれている 庄内 Cam さんのバナーをクリックしたら、雲一つなく晴れ渡った空を背景に、鳥海山がくっきりと聳えている姿が目に飛び込んできた。

山頂付近は既に白雪に覆われている。やっぱり生まれ育った土地を代表する山というのは特別なもので、ある意味黙示的な存在である。冠雪した姿は、ますます神々しいイメージがある。

ああ、やはり、関東の空と故郷の空は、冬シーズンに限って言えば対照的な関係にあるのだ。関東が晴れれば庄内は地吹雪。たまに関東が曇れば、庄内は束の間の晴天になる。

18歳の春に大学に入って上京した私は、その年の年末がよくよく押し迫るまで、冬になったとは気付かなかった。なにしろ、そんなに寒くないし、空は晴れ渡っているし、大学は紛争が長引いてずっとロックアウトされていて、夏休みからずっと休みが続いているようなもので、いつから冬休みなんだか、はっきりしなかったし。

そして、ふと気付いたら街にはジングルベルが流れ、正月が近かったのである。バイトに明け暮れる生活をしていた私は、妙に驚いてしまった。

「もう、冬だったのか。それにしても、冬なのに、なんでまた、こんなに天気がいいんだ!?」

これが関東の冬だったかと、改めて感動した。からりと明るく、すっきりとした冬。地吹雪の吹きまくる庄内の冬とは大違いである。「こりゃ、やめられん!」 と、私は思った。ここは天国である。吹雪が吹かないだけで、天国なのである。金輪際、庄内になんか帰るものか。

ところが今、私はあの地吹雪が妙に懐かしい。私の心のベースは、やはり庄内にあるようなのだ。冬は荒涼とした空の下、雪が舞い、時としてホワイトアウトしてしまうほどの地吹雪になる、あの庄内が懐かしい。

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2007/11/29

毛皮市場のタヌキとラクーン (アライグマ)

日本毛皮協会というところの出している "「ラクーン」 の表記に関して" というプレスリリースが面白い。かなりすったもんだしたようで、第 2 弾第 3 弾まで出ている。

品質表示ラベルで、タヌキの毛皮の表示を 「ラクーン」 としていいかどうかという問題が、かなり論議を呼んだようなのだ。

最近、とくに女性物のコートの襟や袖口に毛皮をあしらったものが増えている。流行りというのはコワイもので、あまり値段の張らないものでも毛皮のディテールは重要ポイントの一つになっていて、そうした毛皮は、当然ミンクとかテンとかいう高級なものではなく、「ラクーン」 と表示されていることが多い。

「ラクーン」 (raccoon) というのは、辞書で引けばすぐにわかるように、アライグマのことである。で、フツーの日本人は、自分の着ているコートの襟や袖口についているのは、アライグマの毛皮だと思う。しかし、実はそれはアライグマではなく、タヌキの毛皮であることが多い。

日本の品質表示法では、毛皮製品については動物の種類を表示する義務がない。だから、単に 「毛皮」 と表示すればいいということになっている。ところが、そこはそれ、せっかく高級な毛皮を使っているのだからと、普通はミンクとか、シルバーフォックスとか、テンとか、動物の種類まで誇らしげに表示するのが慣習になっている。

しかし、だからといって、タヌキの毛皮に 「タヌキ」 と表示するのでは、ちょっとイメージが悪い。というわけで、流通業界では 「ラクーン」 という表示にしておこうという意向が強かったようなのだ。

元々、タヌキは東アジア特有の動物で、欧米にはいなかったから、英語には 「タヌキ」 に相当する単語がない。だから、しかたなく "raccoon dog"  なんて言っているようなのだ。

世界の毛皮市場の流通においては、1970年代までは日本産タヌキがかなりのシェアを占めていて、業界では "tanuki" が国際語になっていた時代もあったようだ。しかし今では円高と鳥獣保護法の指定により、日本産タヌキの毛皮は、ほとんど姿を消してしまった。

一方、ロシアでは昔からタヌキを "Russian raccoon" の呼称で輸出しており、それを養殖したフィンランドが "Fin raccoon" の名で安定供給し始めた。さらに最近では中国産のシェアが高まり、"Chinese raccoon" として流通している。

そんな状況を背景に、日本の毛皮業界でも、タヌキだろうがアライグマだろうが、両方とも 「ラクーン」 でいいじゃないかということになり、毛皮協会では、上述の方式、つまり 「原産地 + ラクーン」 という表示にしちゃおうということになったようなのである。

ところが、公正取引委員会から、「それでは日本国内の消費者段階で混乱を生じる」 との危惧が表明されたようなのである。確かに、「チャイニーズラクーン」 はタヌキだが、「アメリカンラクーン」 はアライグマであるというのでは、わかりにくい。「要するに、『タヌキ隠し』 じゃん!」 と言われかねない。

そこで、結局は、11月 15日付のプレスリリース第 3 弾で、「タヌキ (チャイニーズラクーン)」 のように、タヌキであることを明記した上で 「何とかラクーン」 の名称を併記するという指導になったようなのだ。なかなか大変なことである。

まあ、この背景には伝統的日本語より横文字の方がなんとなくファッショナブルな感じがするという幻想がある。

「輸入品」 だと中国製の安物だが、「インポート物」 だとイタリア製の高級品みたいなイメージがある。「長靴」 だと調理場のゴム長だが、「ブーツ」 だとオシャレな靴になる。そんなようなことで「タヌキ」 よりは 「ラクーン」の方が歓迎されそうだったのだが、やっぱり 「タヌキはタヌキ」 で落ち着いたようなのである。

キツネは 「フォックス」 という単語があるが、タヌキに正確に相当する英単語が存在しなかったのが、致命傷だった。

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2007/11/28

「ブログ限界論」 の中身の最も単純な一端

4日前の 「ブログ限界論」 についての記事に、alex さんがコメントをしてくれて、さらにご自分のブログでも論じておられる (参照)。

alex さんは、「ブログ限界論」 なるものの実態を、"ブロガーの 「表現意欲と能力」 が、ほぼ一巡した" にすぎないと、極めてシンプルに言い切っておいでだ。なぁるほどね。

alex さんはさらに、"『まだ、書き続ける人』 と 『もう書かない人』 とは、少しの 『差』 があるのではないだろうかとも思う" とも指摘しておられる。これも 「なぁるほど」 である。ただ、私には、その 「少しの差」 というのが 「大きな差」 に思えるのだが。

ブログに限らず、どんなものにでもいえることなのだが、「始めてはみたけれど、じきに息切れする層」 と、「じっくり続ける層」 とが存在する。つまり、「新規参入」 は常にあるのだが、参入した人のすべてが継続するわけじゃない。これはごく当たり前のことである。

そして、ブームと言われた現象の衰退というのは、この 「当たり前のこと」 が、一時的にとても極端な形で現われたに過ぎないのだ。

つまり、ちょっと前、「ブログ・ブーム」 といわれた時にどっと参入した層の、かなりの部分が息切れして、ドロップアウト、あるいはフェイドアウトしてしまった。そして、普通ならばコンスタントにあるべき 「新規参入」 が、ブームといわれた時にかなり前倒しになっていたために、現在のところ、適正規模で続かなくなっているのだ。

つまり、一時的なブームで膨らみすぎていた規模が一気に縮小し、それを補うべき新規参入のソースが枯渇気味なのである。これは、「ブーム」 と称せられる現象のほとんどすべてに当てはまるパターンだろう。

実際に (少なくともアクティブな部分の) 規模が縮小してしまっているのだから、「近頃ブログがつまらなくなったね」 と感じられても仕方ないのである。そして、それをあまり真正直に受け取ってしまうと、「もうブログも終わりだね」 とか、「ブログも限界だね」 とかいう話になってしまいがちだ。

ところが実際には、一時的なバランス失調にすぎないので、「限界論」 なんて大袈裟な言い方をされているのをよそに、ブログそのものは今後も淡々と続くだろう。そもそも、「限界」 のないものなんてこの世にないんだから、あまり大上段に言ってもしかたがない。

そしてその限界の地平すれすれのところで継続の中核となるのは、alex さんの言葉を借りれば、「自分の目や耳に入った世の中の出来事・森羅万象を、かたっぱしから 『ブログ』 にしてしまう」 という (あまりお金にはならない) 技をもったブロガーである。

つまり、どんな素材でも、ちょっとひねってブログにしてしまえる 「独自の視点」 をもっているかどうかということだ。ブログが継続する土俵は、いろんなブロガーのいろんな 「ひねり方」 を楽しむメディアということなんじゃないかなあ。

そういえば私なんか 6年近く前に 「知のヴァーリトゥード」 を立ち上げた時から、「一ひねり」 をサイトの基本コンセプトとして、トップページに標榜し続けてきたことだし。

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2007/11/27

いい BBS サービス見つけた

昨日は一日忙しくて、ネタを仕入れている暇がなかったので、今日のエントリーは小ネタ。無料 BBS サービスで、いいのが見つかったという話である。

それは、本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 で近頃使い始めた 「Hide BBS」 というサービス。スパムに強いのが特徴だ。

近頃は個人サイトというのはブログである場合が多いので、BBS (掲示板) サービスは、あまりニーズがなくなっているような気がする。ブログでは、それぞれのエントリーに対するコメントを付けられる機能がデフォルトでついているから。

しかし、私のようにブログを書いてはいるが、あくまで自分のホームグラウンドは個人のウェブサイトであると固執しているものにとっては、BBS サービスというのは案外重要だったりする。ブログのなかった時代から、BBS はインタラクティブな要素を保障する貴重な機能だったのだ。

しかし近頃、この BBS にスパムコメントがどっと付いてしまうようになったのである。放っておくと、出会い系サイト (多分) に誘導するコメントだらけになってしまって、まともなコメントがどんどん下の方に追いやられてしまう。気付くたびに削除するのだが、ちょっと目を離すとまたまたスパムだらけになる。

さすがに音を上げて、新規 BBS に移行したのだが、何ヶ月も経たないうちに、新しい方の BBS もスパムだらけになってしまった。

そこで、スパムに強い BBS を探しに探して、このほどようやく見つけたのが、Hide BBS である。ご覧になればわかるが (参照)、派手な広告もなく、デザイン面でのカスタマイズもかなり応用が利く。コメント書き込みには、画像認証が必要なので、スパムは付きにくいだろう。

しばらくこの BBS を使い続けてみようと思う。

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2007/11/26

「名言」 の捏造疑惑を巡る冒険

「晴れの日もある」 の記事で、藤子・F・不二雄 「名言」 の捏造疑惑が取り上げられている。(どんな 「名言」 かは、こちら を参照)

要するにクリエーションにおいて、作者の 「体験」 と 「取材」 のそれぞれの重要度に関する話で、藤子氏の発言が本当に捏造かどうかは別として、ちょっと考えさせられる。

漫画とか小説とか、どちらかといえばストーリー・テリング系のクリエーションには、作者の 「人生経験」 が反映され、それがとても重要なポイントになるという指摘は、世間には多い。関連的には、芸能関係でも 「遊びは芸の肥やし」 なんて言われているし。

それに対して、藤子氏の 「名言」 は冷や水を浴びせているのだ。

私なりにその 「名言」 を煎じ詰めてみると、「フツーの人間の体験による 『創造の引き出し』 なんて、たかがしれているのだから、むしろ、引きこもりのオタクが、その独特の感性で (体験ではなく) 「取材」 して創造した作品の方に魅力を感じる」 といったようなことになると思う。

なるほど、なんとなく 「言えてる」 かもしれないという気はする。繰り返すけれど、これが本当に藤子氏の発言なのか、または指摘されているように 「捏造」 なのかは別としてである。

私も、「遊びは芸の肥やし」 系の話は、要するに 「遊び好きの芸人の免罪符」 という部分が大きいと思っている。世の中には 「飲む、打つ、買う」 をしなくても、名人上手といわれた役者や噺家はいくらでもいるし、書斎に閉じこもりがちだったという作家も多い。

その意味では、「読者と同じものしか見ないで何が作家か」 という意見にも頷けるものがある。しかし、よく考えてみれば、「体験か取材か」 という二者択一は、本当はこの議論のキモじゃないのだと気付く。この 2つは、決して対立事項じゃない。

私自身の経験でいえば、気を入れた 「取材」 をすることによってかなりの 「体験」 をすることができる。だが、ベースとなる 「体験」 が希薄だと、「取材」 した事項への 「思い入れ」 (「共感」 「反感」 を含む) も希薄になりがちということも、確かにある。

まあ、当たり障りのない結論としては、「体験も取材もどちらも大切だよね」 ということになるのだが、ちょっとだけ当たり障りのあることを言わせてもらえば、「いくら体験や取材を重ねても、『インスピレーション』 のないやつは、まともなクリエーションができない」 ということになる。

本当に大切なのは、インスピレーションなのだが、それを生かすには、やはりある程度の体験と取材はあった方がいいかもしれない。

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2007/11/25

コピー問題の割り切れない思い

コピー問題について、私は少しだけ割り切れない印象を抱いている。例えば、中国の遊園地で、ディズニーのキャラクターを真似したら、明らかに 「コピー」 として非難される。

これは、オリジナルがとても有名で、市場において圧倒的な優位性を持っているからだ。いわば、「主 ‐ 従」 の関係である。

いわゆるシャネル・スーツを模したデザインも、これにあたる。襟なしジャケットが特徴の女性用スーツの 「シャネル・スーツ」 という名称は、以前は日本では一般名詞に近い形で取り扱われていたが、いつの頃からか、シャネル社が知的所有権を強烈に主張し、「シャネル風スーツ」 でも認められなくなった。

しかし、この 「オリジナル ‐ コピー」 という 「主 ‐ 従」 の関係の成立しない世界では、知的所有権があまり強烈に主張されないことがままある。

例えば、いわゆる 「萌え系美少女」 と称される、一群の女の子の絵がある。私には、あれらの女の子の絵の区別がほとんどつかない。商業的な漫画雑誌に載っているものだけでなく、アマチュアの描く絵でも、大体似通っていて、明確な差別化ポイントがわからない。

マニアックなファンに言わせれば、「何を言ってるんだ、こんなにも違うじゃないか」 ということになるのだろうが、申し訳ないけど、私には 「初音ミク」 と 「鏡音リン」 の差は、今のミッキーマウス1928年の誕生当時のミッキーとの差ぐらいにしか見えないことがある。

音楽では 「ブルース」 というスタイルがある。狭義の 「ブルース」 とは、12小節で、コード進行がほとんど (というか、まったく) 同じである。そればかりか、メロディだってほとんど変わらない別の曲が、いくらでもある。それでも、特定のブルースの作曲者が別のブルースの作曲者を知的所有権侵害で訴えたなんて話は、聞いたことがない。

さらに、いわゆる自己啓発系の 「感動的エピソード」 というのもある。あれらはほとんど大同小異で、自我に拘りすぎていた人物が、ある時にっちもさっちもいかなくなり、ついに 「役に立たないプライド」 みたいなものを捨てて、「感謝」 や 「愛」 の念を強烈に意識したとき、再び人生が開けるというものが多い。

こういうのは昔からあって、「成功哲学」 を説くような本には、同じようなエピソードが何度も繰り返し紹介されている。実話やらフィクションやらわからないものも多くあり、原典への言及なんてまったく無頓着だから、どの話がオリジナルやら、誰が最初に紹介したやらといったことは、ほとんど問題にされない。

これらはいわば、萌え系文化、ポピュラーミュージック、自己啓発系の世界における 「フリーウェア」 のようなものである。これらを誰かが独占しようなどとしたら、とんでもないことになるのは、最近の 「のま猫」 騒動をみても明らかである。

世の中には、コピーが許されない市場と、フリーウェアが大手を振る市場がある。コピーが大きな社会的問題となるのは、次の 2つの場合である。

  • ある特定のオリジナル所有者が大きな既得権を確立している市場で、ゲリラ的なコピーが横行する場合
  • 無名の作者のオリジナルをコピーした作品が、メジャーな市場で商業的成功を収めてしまった場合

要するに、コピーが問題になるのは、ある特定の個人または企業が、独占的利益を得てしまった場合である。逆に、萌え系美少女、ブルース、自己啓発系などは、共通項をもつものの無名性集団としての力を維持する方が (今のところ) 得策なので、フリーウェアのままでいられるのだろう。

コピー天国の中国でも、もっとこうしたフリーウェアを積極的に利用すればいいのにと思ってしまうのだが、どうしても、圧倒的力をもつオリジナルをコバンザメ的に利用する方がいいんだろうなあ。

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2007/11/24

「ブログ限界論」 について考えてみた

「ブログ限界論」 という言葉が目に止まり、ちょっと興味を覚えてクリックしてみたら、RTCカンファレンスが 11月 15日に、このタイトルでイベントを開いているのだった (参照)。

「最近ブログつまらなくないですか?」 との書き出しで告知してある。うん、確かに、最近ブログの熱気が冷めてきてると思う。

シロクマ日報の小林啓倫氏が、このイベントについて、「ブログはつまらなくなった方がいい」 というタイトルでレポートしておられる。小林氏は、ブログの扱うテーマが非常に 「拡散」 していて、一人一人の読者には興味を感じられないものが増えてきているといったことを指摘し、次のように書いている。

逆に 「拡散と浸透」がブログを 「つまらない」 と感じさせるようになった原因であれば、それは喜ぶべきことではないでしょうか。(中略)

もしかしたら、僕らが 「ブログがつまらなくなった」 と感じれば感じるほど、僕らの知らない世界で 「ブログって面白い」 と感じる人が増えているのかも。

小林氏は、ブログは限界に達しているわけではなく、むしろより広範囲に普及しているのではないかと指摘しているのだ。なるほど、それが時として 「ノイズが増えたなあ」 と、うっとうしく感じられたりもするわけだ。

しかし、それとは別の視点もある。GIGAZINE (参照) は、「現在の日本のブログの限界、リアル社会に影響力を与える力が弱い」 という意味での 「限界」 を指摘し、次のように述べている。

現在の日本のブログは現実世界、特に 「政治」 に対して多大な影響を与えるレベルには到達していません。ネットにおける意見発信システムであるはずのブログの質が低くなっている (信頼が低下している) ため、「ネット上でどこかの匿名なやつらが無責任にわめいているだけ」 という扱いを受けるわけです。

まあ、こんなところも確かにあって、私も 「選挙に Web を使わせろ!」 という、ちょっとだけ社会的変革を志向しているようにみえなくもないサブサイトを運営しているが、めちゃくちゃ本気でやるほどには、ブログの力を過大評価しているわけじゃない。

ちなみに、私が 「最近ブログの熱気が冷めてきてる」 と思ってしまうのは、単に、毎日楽しみに巡回していたブログの管理人さんが、ちょっと息切れしつつあるのか、更新が希になってきたりしているせいでもある。案外個人的な印象なのである。

多分、息切れしたブログの数以上に、新しい面白いブログが増えているのだろうが、それらを探し出すのは、なかなか骨が折れる。ブロゴスフィアの規模が今ほどでなかったころは、それほど難しくなかったのだが、今では規模が大きくなりすぎてしまった。

というわけで、シロクマ日報が 「そんな状況でも自分にとって楽しい・自分が読みたいブログが簡単に見つけられるような仕組みが整備されるのが望ましい」 と述べていることに、私は激しく共感する。

この点に関して、GIGAZINE は、さらに次のように突き詰めている。

GIGAZINEは 「情報流通業」 にあたるのではないか?と考えることがあります。見つけた面白い情報をピックアップして記事化して掲載し、より多くの人の目に触れるように、情報を流通させていくわけです。おそらく、この 「面白いもの・価値あるものを効率的に見つけ出す仕組み」 というのは究極的には各個人の細分化された嗜好に特化されたものになっていくため、最終的には一次情報やオリジナルコンテンツの発信を行うところ 「だけ」 が生き残ることになるかもしれず。つまり、オリジナルの情報を提供しないニュースサイトやブログは将来的に 「各個人の嗜好に合わせて面白いものをピックアップするための全自動システム」 に取って代わられて滅びていくのではないか?という予想が可能です。

なるほど、インターネットやブログの世界の変化や栄枯盛衰は激しいので、そんな 「全自動システム」 が登場しないとも限らない。

しかし現時点では、各個人の志向に合わせてメニューを提示してくれるようなプログラムを使ってみても、「お前、俺の好みってものを、誤解しているんじゃないか?」 とか 「てめぇ、俺を見くびってるな!」 とか言いたくなってしまうのだよね。

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2007/11/23

食い物の好き嫌いは 「記憶」 に左右される

今月 17日に、「味覚データベース」 ということを書いた (参照)。人間は、食い慣れたものの味はよくわかるが、食い慣れないものの旨い不味いは、わかりにくいという話である。

つまり、人間は食べ物を味わうにも、「味覚データベース」、つまり、「味の記憶」 に頼って味わっているようなのだ。

以前に似たようなことを書いた覚えがあって、自分のサイトの中を検索してみたら、「味覚の衰え」 という文章が見つかった。約 5年前に書かれている。「今日の一撃」 の更新にココログを使い始める前のことである。

私はこの文章の中で、"人間は 60歳になると味覚を感じる器官の 「味蕾」 が、20歳の頃の半分に減ってしまう" という説を紹介して、次のように述べている。

それを感じるのは、とても微妙な味わいのものを食べた時だ。「この食べ物は、このような味がするはずだ」 という、いわば 「味の記憶」 が働いて、それを確認しようとするのだが、その通りの味覚が得られていないような気がするのである。

私は既に 5年前に、自らの味覚の衰えを自覚してしまっていたもののようなのだ。5年前にそんなことなのだから、今となってはもっと味蕾が減って、味覚はさらに衰えているに違いない。

しかし、だからといって 「食の楽しみ」 が減っているわけでは決してない。それは、若い頃から食べ続けてきたことによる 「味覚データベース」 が、純粋味覚の衰えをカバーしてあまりあるほどに充実しているからだと思う。まさに、人は味の記憶力で食べ物を楽しんでいるのだ。

味蕾の数の減少で、純粋味覚は衰えているのだろうが、その分、他の要素には敏感になっている気がする。他の要素とは、5年前にも書いているが、「硬さ、柔らかさ、ねばり、あっさり感、喉ごし、舌触り、コシ」 などの食感だ。トータルな 「味」 は、味蕾で認識する純粋味覚だけではないのである。

私はどちらかというと、しっかりした 「歯応え」 を重視するタイプのようだ。いかそうめんの 「ぷりぷり・しこしこ感」 とか、よくできたそばの 「エッジ感」 とかは、えもいわれぬ満足感を与えてくれる要素である。

しかしその分、「舌の上でとろける感じ」 は、あまりぴんと来ない。大トロや極上霜降り牛肉などは、別に嫌いというわけではないが、あまりありがたいとも思わない。対費用効果があまりよろしくないから、自分の金で食おうとは、決して思わない。

これなんかも、実は、人間は記憶力で味わっていることの証明のような気がする。

高校時代に亡くなった祖母は、非常に病弱な人だった。晩年はとくに消化器官が弱まり、固いものは何も食えなかったのである。私は中学時代、共働きだった両親の代わりに、祖母のために、とにかく柔らかい料理をつくってあげていた。

まるで糊のようなおかゆ、箸ですくえば解けるほど柔らかいうどん、煮くずれかけた魚などである。そのくらい柔らかくないと、祖母は口にできなかったのだ。そしてこの記憶が、私の食感の好みを決定づけたような気がする。

あの時の記憶がちょっとしたトラウマとして残ったようで、私は、「病人じゃあるまいし、おかゆなんか食えるか」 とか 「舌の上でとろけるのがありがたかったら、縁日の綿菓子でも食ってろ」 とか、ちょっと極端なことを言い出す人になってしまったのである。

食い物の好き嫌いというのは、純粋な味覚とか食感とかいうよりも、「記憶」 に左右されている場合が多いのだと思う。ちょっとしたトラウマ的記憶に結びついた食べ物というのは、「そんなもの喜んで食べたら、自分のアイデンティティが損なわれる」 みたいな気になってしまうのだ。

その 「記憶」 が、潜在意識の中に埋もれていて意識化されていないほど、自分の意志ではコントロールできず、どうしても食べられないとか、食べても戻してしまうとか、ちょっと病的なことになったりするんじゃあるまいか。

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2007/11/22

「お友達と同じ服が欲しいの」 という女性

洋服の売り場とかブティックに、「お友達の着てるのをみて、あんまり素敵だから同じものが欲しくて」 と、品番指定で買いに来る女性というのが少なからずいる。

中には、わざわざ自分でアパレル・メーカーに在庫確認の電話をしてくる女性までいる。それはそれは、大した執念なのである。

私は、そんなことは夢にも思わないが、世の中には 「お友達と同じ服が欲しい」 と、本気で思ってしまう女性というのが、少なくないようなのである。

そういう女性は、「まぁ、その服、素敵! どこで買ったの? いくらしたの?」 と聞きまくり、果ては、洋服の裏側に縫い込まれたケアラベルまで点検して、メーカーと品番まで手帳に控えてしまうようなのだ。

これって、私には本当に信じられない行為なのだ。その理由を以下に挙げてみよう。

  1. まず第一に、友達と同じ服を着るということを、ちょっと恥ずかしいと思わないのだろうか?
  2. さらに、友達には似合っても、自分には似合わないということもあるということを、想定しないのだろうか?
  3. そしてまた、自分は友達と同じ服を着ることに抵抗がなくても、その友達の方が、同じ服を着られることに抵抗があるかもしれないということを、想定しないのだろうか?

一番問題なのは、友達というのが、「知人に同じ服を着られることに抵抗があるけれど、頼まれたら断り切れない性格」 だったりする場合である。

「まぁ、その服、素敵ね!」 と言われるのは、何の問題もない。しかし、同じ服を買うためにケアラベルに印字された品番まで控えさせてと頼まれたら、心中おだやかではないだろう。放っておいたら、自分と同じ服を着て、嬉々として街を行く女性が、身近に存在するということになってしまう。それって、普通、やだよね。

定番的なブレザーとかセーターとかなら、まだ抵抗はないが、そんな品物ならわざわざ品番まで聞かなくても、普通に探せばすぐに見つかる。ちょっと変わったデザインだから、問題なのである。

だから、本当はどこで買ったかとか、ましてやメーカーや品番なんてことまでは教えたくないのだが、そんなことを言い出す女性というのは、基本的に図々しいから、断ったらどんなしっぺ返しがあるかしれない。

聞かれた方は、実はいやいやながらだが、表面上は喜んで、品番をメモさせてあげ、買った店まで教えてあげる。そして次の瞬間、店、果てはメーカーの在庫まで切れてしまっていることを、密かに、しかし強烈に祈るだろう。

そして幸か不幸か、同じ服の在庫があり、友人が嬉々としてそれを買い求め、その日のうちから、それを着て外出するようになってしまったら、悲劇である。いやいやながら教えてあげた女性は、先に買ったお気に入りの洋服を、もはや身につける気がしなくなってしまうだろう。気の毒に。

というわけで、私は 「お友達と同じ服が欲しくて」 なんてノー天気なことを言い出すタイプの女性とは、あまりお近づきになりたくないと思う。こうした類の女性にとって大事なのは 「自分の都合」 だけで、「相手の都合」 なんてことは、どうでもいいようなのである。

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2007/11/21

ミシュランガイド 東京版ねえ

「ミシュランガイド」 初の東京版が話題になっている。東京の星付きレストランは、1都市としては世界最多の 150店だそうだ (参照)。

東京という都市の規模と、日本料理、寿司などを含むありとあらゆる種類のレストランの集積を思えば、そのくらいの数はあっても当然だろうが、どうせ、私にはあまり縁がない。

「どうせ縁がない」 と思いつつ、紹介されたレストランの名前を追っていると、1つ星の付いた 117店のうちに行ったことのある店を 3店も発見して、我ながら驚いた。蕎麦屋 2店に、フランス料理屋 1店である。長く生きていると、それくらいのことはあるみたいなのだ。

3店のうち、蕎麦屋 2店は自分の金で食ったが、フランス料理は以前の会社の金である。自分の金で食った蕎麦は大層おいしく、満足したが、会社の金で食ったフランス料理は、あまり印象に残っていない。だから私はメシは自分の金で食うべきだと、常日頃から思っているのである。

実は、1つ星のフランス料理屋で過ごした 1時間余りは、私にとっては今でも 「無駄な時間を過ごしてしまった」 と悔やまれる時間である。それは料理が不味かったということではなく、その食事の間に、優雅な料理にふさわしい会話がちっとも弾まなかったからだ。要するに、あまり楽しい顔ぶれじゃなかったのである。

私は、旨い酒と旨い料理は、楽しい会話、談論風発と切り離しては考えられない。ただしんねりむっつりと、「さすが旨いね」 「すごい、おいしいね」 なんて、べたべたに即物的でふくらみのないことばかり言い合いながらメシを食っても、全然つまらないじゃないか。

メシというのは、気の合う仲間と、目の前の料理から飛んだ話題で盛り上がりながら食うのが、一番旨いのである。だから、3つ星だろうが 1つ星だろうが、大衆酒場だろうが、まともに料理してありさえすれば、ランク付けに頓着するなんてことは、それほど意味のあることとは思えないのだ。

話のふくらまない顔ぶれと 3つ星レストランで、接待費でメシを食うよりは、1人で静かに想像力をふくらませながら、無印のめし屋で自前で食う方がずっとましだ。

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2007/11/20

大連立待望論は、案外根強い

本当は平均的自民党よりずっと右寄りなのに、今の自民党には空席がないので、仕方なく民主党に籍を置いている人というのは、中央にも地方にもいくらでもいる。

そんな 「民主党内隠れ自民党」 みたいな人にとっては、「大連立」 というのは、実は大歓迎の話だったりするようなのだ。

こっそりやった党首会談で持ち出された 「大連立構想」 は脊髄反射でぶち壊しちゃった民主党だが、その実、「幹部のバカども、なんで実現させなかったんだ」 と、陰で悔やんでいる民主党員は、かなりの数に上るようなのである。

彼ら民主党内右派は、党内左派、つまり旧社会党系の存在がうっとうしくてたまらないらしい。こんな奴らと身内付き合いするよりは、自民党の中の右派の方が、ずっと話が合うと思っているみたいなのだ。「衆参のねじれ現象」 なんかより、こっちのねじれの方がややこしい。

大阪市長選では民主推薦の平松氏が勝ったが、党内右派は、「あの伏魔殿みたいな大阪市役所の中で、自治労を喜ばせるのはたまらん」 と感じている。「せいぜい中道右派の姿勢を崩さないでもらいたい」 というところだろう。

大連立のどさくさで、自民と民主の右派同士が手を組み、自民のリベラル派を追い出して、民主党内左派とくっつかせてしまいたいというのは、多分、彼らの本音なんじゃないかと思う。そしてその方が、有権者にとってもわかりやすい 「すっきりした構図」 になりそうだ。

一度つぶれてしまった話なので、急には蒸し返されたりしないだろうが、政治の底流としてずっと後に引きそうな気がする。ただ、政治の世界というのはどう転んでも、どうせ 「すっきりした構図」 なんてものは実現されないんだと、私は思うのだが。

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2007/11/19

ケータイ料金は、あざとい!

ケータイの料金システムって、本当にわかりにくい。とくに最近は、 「ファミ割 」 だの 「ひとりでも割」 だの、果ては 「誰でも割」 だの、派手な半額割引の乱発だ。

「だったら、初めからすっきりと、基本料金を半額にしろよ」 と思っていたら、案の定、公取からきついお達しがあったようだ。(参照

だいたい、どこの業界でも、こんなにあざとい 「割引」 プロモーションをしたら、公取にお灸を据えられるに決まっているのだ。今回のケースは、例えば、最初の値段を不当に高いレベルにしておいて、そこから 「30%オフ」 だの 「50%オフ」 だのと、派手な宣伝をするというのに、よく似ている。

ちょっと昔のスーパーのチラシの、「半期に一度の大バーゲン、"特別企画商品" が全品 5割引き!」 なんていう宣伝チラシによくあった手である。

こんなのは 「割引」 じゃなく、元々この値段でちゃんとやれるのに、最初の料金設定を不当に高く設定しておいて、「割引」 を謳っているんじゃないかという疑いを抱かせるに十分というか、もろにそうとしか思われないじゃないか。

そもそも、ケータイの料金設定のコンセプトというのは、本体をめちゃくちゃ安く売りつけて、あとでやたらと高い月々の料金をふっかけて回収するというのが見え見えで、かなり不愉快に感じていた。

インクジェットプリンターの本体を安く売り、あとでやたらと高いインク・カートリッジを押しつけて回収するというのと、そっくりの魂胆である。

ケータイの本体なんて、通話とメールさえできればいいから、せいぜい 1万円台にしておいて月々の料金はもっとずっと安くしてくれる方が、フツーのユーザーにとってはずっとありがたい。

それから、パケット定額の場合、PC につないでインターネット接続するのは定額扱いに含まれず、別料金になるというのは、ますますあざといなあと思うのである。このあざとさによって、逆に (私のような) 潜在的ユーザーをつかめないでいると思うぞ。

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2007/11/18

花より団子?

ピカソの絵をもっと抽象化したような現代美術を、「どこがいいのか、さっぱりわからん」 と公言しても、ほとんど問題ないが、最高級牛肉を 「どこがうまいのか、さっぱりわからん」 と公言すると、世間から憐れまれたりする。

やっぱり 「美」 より 「食」 の方が、世間の優先順位は上なのかなあ。

私は個人的には、あちこちの高級レストランや料亭で美食の限りを尽くしているようなオッサンが、現代美術について 「あんなもの、さっぱりわからん」 と臆面もなく言い切るのを聞くと、その方が哀れなような感慨にとらわれるがなあ。

私は旅行先では、食事には金をかけなくても、その土地の美術館や名所旧跡には是非足を運びたいと思っている類の人間である。ところが、仕事関係でグループ旅行をすると、ほとんどの人は、空き時間には美術館よりも、その土地の名物料理を食いたがるのだ。

「それよりも、○○美術館 (あるいは △△記念館、▼▼神社でもいい) に行きましょうよ」 なんて誘うと、一緒に行った人は、明らかに退屈そうなのだが、誘った私に遠慮してか、それをあからさまには言い出せないようで、困ってしまってい るようなのがわかったりする。

だから、私は仕事上のグループ旅行をしても、用件が済んだらさっさと単独行動に移ってしまうことが多い。tak-shonai は、食事や飲み会には、あまり付き合いたがらない人と思われているフシがある。

で、話は今月 15日付の 「若者の車離れ、酒離れ、野球離れ」 に戻る。このエントリーに、山辺響さんから "車・酒・野球は、いずれも「コミュニケーションの道具」だったのではないでしょうか" というコメントがついた。「なるほど」 である。

この視点からすると、行った先での名物料理は、無難なコミュニケーション・ツールである。行った先での美術館の展示とか、神社仏閣なんてものより、汎用性のある道具であることには違いない。

しかし、私の個人的な思い入れとしては、その程度の汎用性のある道具より、せっかく旅をしたからには、専門性の高い道具を仕入れて帰りたいと思ってしまうわけなのだ。まあ、これは好きずきの問題だから、押しつけようとは思わないけれど。

ただし、現代美術がわからないくせに、高級牛肉がわからんという人間についてとやかく言うような押しつけは止めてもらいたいなあ。もしかして、比内鶏とブロイラーの区別もつかないかもしれないくせに。

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2007/11/17

食べ物の偽装問題にはシニカルな私

船場吉兆の消費期限や産地の偽装がばれて、大変なイメージダウンの 「吉兆」 というブランドだが、蕎麦屋の 「藪 (やぶ)」 ほどじゃないにしても、暖簾分けやらなんやらで、どこに行っても 「吉兆」 という店がある。

いくら高級店でも、これだけ拡大してしまったら、そりゃあ、何かあるさ。

高級料理店なんぞにあまり縁のない私だが、一度だけ 「吉兆」 という名の店で食事をしたことがある。以前勤めていた会社で上司と一緒に米国に出張したとき、マンハッタンの 「吉兆」 という店で接待を受けたのである。上司と一緒でなかったら、こんな店には連れて行ってもらえなかっただろうが。

で、その時の印象だが、サービスはさすがに行き届いているけれど、料理は 「フツーにおいしい」 程度のものだった。やたらと高い値段だったようだが、それは料理に払った値段ではなく、「吉兆」 というブランドに払った値段だったと思う。会社の金でなかったら、誰も行かない。

しかし、世の中にはブランドと値段でだまされる人がいくらでもいる。消費者の味覚なんて、はっきり言って当てにならないのである。いくら高級料理といっても、ブラインドテストをしたら、ほとんどの人はさっぱりわからないのだ。

エビアンとヴォルヴィックとクリスタルガイザーの違いとか、北海道産と信州産の蕎麦粉の違いならきちんとわかる私でも、比内鶏とブロイラーの違いなんて、多分わからない。それは、普段、比内鶏なんて食いつけてないから、味覚のデータベースにないからだ。

「ウチの主人は料理にうるさくて、お米はコシヒカリしか食べないんですよ」 なんていう話をよく聞くが、それは、毎日コシヒカリのご飯を食べているから、体内の味覚データベースにしっかり記録されているからだ。ほかの米を使ったご飯を食べさせられると、「ん? ちょっと違うな」 とわかる (かもしれない) だけの話である。

だから、コシヒカリしか食べないご主人が、料理全般にグルメというわけでは決してない。多分、殆どの人は比内鶏とブロイラーの区別はつかないだろう。逆に、お米は何でも構わなくても、地鶏しか食ったことのない人は、ブロイラーを食わされたら、「何だ、こりゃ?」 と思うかもしれない。

高級料理店というのは、一般人の味覚データベースにない料理を、「おいしい」 という幻想付きで、高い値段で食わせる店なのだと、私は思っている。

その幻想が通用しない者にとっては、A 5 ランクの最高級牛肉でも、「ちょっとミステリアスなものを口に入れちゃった」 ぐらいの感慨しかわかないというのは、今年 9月 14日のエントリーに書いたとおりである。

だから、一連の食べ物関連の問題については、そりゃ、偽装は悪いことには違いない (「詐欺」 という立派な犯罪だしね) けれど、私個人としては、正面切って攻め込む気にはなれないのだよね。私が責めなくても、それについては世の中の大勢が責めるから、いいのである。

赤福だの白い恋人だの、比内鶏だの、但馬牛の何とか漬けだのは、どうせ、1年に 1度も食わないから、個人的にはあんまり実害ないし。牛乳の賞味期限だって頓着してないし。

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2007/11/16

「自分探しの旅」 の効果

最近よくみかける 「自分探しの旅」 という言い回しには、「ニートの甘え」 というシニカル派から 「新しい自分の可能性を見つけられる」 という肯定派まで、いろいろな反応がある。

反応がいろいろというだけでなく、この言葉を使う方の意識も、まさに反応のバラエティ同様、ピンからキリまでのようなのだ。

確かに、ニートの甘えとしか言いようのない 「漠然とした一人旅」 から、「明確な目的を持った修行の旅」、さらに、実際の旅行というわけではなく、メタファーとしての人生修行など、さまざまな意味合いで 「自分探しの旅」 という言葉は使われているようだ。

しかし、ここで注目したいのは 「自分探し」 というレトリックである。文字通りに解釈すれば、自分探しの旅に出る者は、「自分というものがどこか他にある」 と、漠然とだろうが、思っているようなのだ。つまり、「今ここにある自分」 は、「本当の自分」 ではないという前提があるわけだ。

好意的に解釈すれば、これまで育ってきた自分というのは、周囲の環境という鋳型にはめられて、否応なく今の姿になってしまっているが、本当はもっと違う自分というのがあるはずだという考えは、わからないでもない。

そして、「本当の自分」 を手探りするために、周囲の環境をまったく変えてみるというのは、確かに一つの方策ではある。認識というのは、関係性の中で確立するものだから。周囲とのまったく新しい関係性に積極的に順応しようとすれば、自分の新しい可能性が、いやでも引き出される。

だから、「自分探し」 というちょっと甘えたレトリックは、ちょっと気に入らないところがあるけれど、私はその試みをむやみに否定しようとは思わない。

近頃、若者が海外旅行に出かけなくなったという。言葉の通じない海外で嫌な思いをするよりは、勝手の知れた国内で、温泉にでもつかってまったりする方がいいという。想定内のことだけを求め、それ以外のことは拒否する。

そうした 「内向き」 すぎる姿勢よりは、少しは 「自分探し」 と言って、まったく新しい経験をするために、海外にでも出かける方が、気概があると言えるかも知れない。もっとも、日本語だけで足りる 「買い物ツァー」 では、どうしようもないけれど。

ただ、単に周囲の環境を変えただけでは、小手先的な新しい対応をひねり出すというだけに終わりがちだ。その場合、基本的な自分というのは、別段何も変わっちゃいないので、元の環境に帰ったら元の自分に戻るだけということもある。

根本的なことを言えば、「自分」 というものは、決してどこか他にあるのではない。私は、「青い鳥」 という童話を思い出す。幸せの青い鳥を探して長い旅を続けた挙句、それは戻った自分の家にいたという寓話だ。

道元禅師の言葉に、次のようなことがある。

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

仏の道を習うというのは、自己を習うことだというのである。別の言い方をすれば、「真理を究めるということは、自己を究めるということだ」 ということになり、つまり、それは 「自分探し」 ということにも通じるのだろうが、道元禅師は、そのためには、別に旅になんか出なくても、ただ心を空しくして座ればいいと説いている。

そして、「自己をならふは自己をわするるなり」 とあるように、「自分」 なんていうものにこだわっているうちは、本当のことは見つからないとも説いている。「心身脱落」 したところに、「万法に証せらるる」 という仏性 (すべての法則に即した真理) が現れる。ああ、難しいなあ。

最後に 「自分探しの旅」 の話に戻れば、チルチル、ミチルが、長い旅を経てようやく自宅に青い鳥を発見したように、旅を経験することによって、それまで見えなかったものが見えてくるという効果は、確かにある。それは言い切れる。

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2007/11/15

若者の車離れ、酒離れ、野球離れ

先だっての自動車ショーの前に、「若者の車離れ」 が話題になった。そればかりではない。若者の 「酒離れ」 も言われて久しいし、野球にも興味がなくなっているらしい。

「車に関心がなくて、酒も飲まず、野球も見ないんじゃ、一体、何を楽しみに生きてるんだ?」 とは、おっさんの呟きである。

多くのおっさんにとっては、本当に不思議なことらしい。車、酒、野球というのは、男なら誰でも夢中になっていいはずなのに、何でまた、今の若い連中は、そんなに面白みのないことになっていられるんだ?

私は年齢的には十分におっさんで、決して若ぶっているわけではないのだが、近頃、車にも酒にも野球にも、かなり冷淡である。

車には必要に迫られて毎日乗っているが、選択の基準は燃費がよくて故障が少なければいいぐらいにしか思っていない。今の日本の小型車は、たいてい燃費がよくて故障が少ないから、結局 「どれでも大差ない」 ということになってしまう。

運転がとりたてて好きというわけでもないので、「人の運転する車の助手席に乗っているのが一番楽」 なんて、不精なことを本気で思っている

酒もあまり飲まなくなってしまった。そりゃ、旨い酒を少しだけ飲むのは好きだが、「大いに飲み交わして談論風発」 なんていうのは、年に数回あれば十分で、それ以上の付き合いは、うっとうしい。

野球に至っては、野球シーズンになると、どこのラジオ局も同じ巨人戦の中継ばかりになるので、ラジオ好きの私はつまらないことこの上ない。ポストシーズンは、ラジオが楽しくなるので、大歓迎だ。

ただ、いわゆる 「若者の車離れ、酒離れ、野球離れ」 には、ちょっと疑問がないではない。彼らは、「車一般」 「酒一般」 「野球一般」 に興味を失っているだけなのではないか。

もっと言えば、「車にステータスを求めること」 「高級酒を飲んで自己満足すること、あるいは、どうでもいい酒で酔っ払うこと」、そして 「巨人の野球」 に興味を失っているだけなのではないか。

本当に必要な車ならちゃんと吟味して購入するし、好きな酒の銘柄にはひそかにこだわるし、巨人以外のチームの試合を実際に球場に足を運んで観戦したりもする。

さらに言ってしまえば、車と酒と野球以外にも楽しみはいくらでもあるから、わざわざそんなものへの興味をおおっぴらに表明して、おっさんたちの輪の中に引っ張り込まれるなんていう自爆行為はごめんだと思っているのである。彼らは、自分をおっさんとは差別化しておきたいのだ。

個人的には、最後に挙げた要素が一番大きいと思っている。

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2007/11/14

ラニーニャと地球温暖化

関東甲信越地方のこの冬の季節予報 (11、12、1月) によると、気温が平年並みとなる確率と、平年より高くなる確率がいずれも 40%で、合計 80%になっている (参照)。

平年より低くなる確率は、20%。つまり、平年並みか暖冬になる確率が高く、厳冬になる確率は、とても低いということだ。

今年の夏はめちゃくちゃ暑かったが、これは、ラニーニャ現象の影響によるものとされている。で、ラニーニャの発生した年の冬は、厳冬になる傾向があるといわれる。近いところでは、一昨年の冬がそうだった。私の田舎はすっぽりと雪に埋まった。

しかし、今年はラニーニャが終息したという話は聞かないのに、厳冬予想になっていない。これは、寒気の供給元となっている北極圏の寒気団が、今年は例年に比べて弱いため、厳冬の予報は出しにくいからだと言われている。

確かに、北極圏の氷がすごい勢いで解け始めていて、ホッキョクグマのサバイバルが大変というニュースを聞くにつけ、地球温暖化をしみじみと感じてしまう。つまり、いくらラニーニャでも、寒気の供給元がしゃんとしてくれないと、厳冬にはなりにくいということのようなのだ。

もし、今年の冬が暖冬になったら、地球温暖化は、ラニーニャを無視してしまうほどの勢いで進行しているのだと、危機感をもたなければならないだろう。逆に、ラニーニャの年らしい厳冬になったら、ほんの少しだけほっとしていいのかもしれない。

と、こう言ってからそっと付け加えるのだが、気象庁の 3ヶ月予報というのは、実のところ、あまり当たらない。過去の成績をみると、当たった確率は 50%に達していないのだ。ということは、要するにはずれる確率の方が高いということだ。

で、私は寒い冬になってもたじろがないように、今から覚悟だけは決めておこうと思うのである。

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2007/11/13

トイレで水を流さない子供

トイレで水を流さない子供が増えているという。その理由は、便座から立ち上がれば、自動的に水が流れるトイレが増えていることらしい (参照)。便利すぎるのも考え物だ。

一方では、オシッコの音を消すために、何度も水を流す女性も多いし、疑似の水洗音を流す仕掛けすらあるというのに。

そういえば、私も一時、男子トイレの小便器で、よく水を流し忘れそうになったことがある。オフィスのトイレの小便器がセンサー付きになり、オシッコをしてその場を離れさえすれば自動的に水が流れるようになってから、それに慣れすぎて、自動水洗でないトイレで水を流し忘れそうになるのだ。

さすがに、家庭用の腰掛け式ではそんなことはないが、駅などのトイレでは、実際に何度かは流し忘れたかもしれないという気がする。はなはだ申し訳ないことである。

そんなことを思ううちに、タクシーの自動ドアのことを思い出した。海外のタクシー・ドライバーの間では、日本人旅行者はタクシーを降りてドアも閉めずに立ち去ってしまうと、はなはだ評判がよろしくないのである。実際に、ドアを開け放したまま立ち去ろうとして、ドライバーに大声で注意されている日本人を見かけたことがある。

これなんか、日本のタクシーのドアが、世にも珍しい自動ドアであることによるものだ。私なんか逆に、日本のタクシーから降りて、ついドアを手で閉めようとして、しょっちゅう怒られる。

思えば、日本という国は自動ドアがものすごく多い。だから、自動でないスイングドアで、後から来る人のためにちょっと手でおさえてあげるという、欧米では一般的なマナーが普及していない。自分が通るとすぐに手を離すから、後から続こうとするものは、戻ってきたドアではっ飛ばされそうになる。

日本では伝統的にスライドドア (いわゆる引き戸) が多かったから、スイングドアのマナーは、あまり身に付いていない。身体化される前に自動ドアが普及してしまったものだから、マナーを知らずに育ってしまったのである。

ああ、やっぱり、無駄に便利すぎるのは考え物である。ちょっと手間がかかるぐらいの方が、人を思いやるという心が育ちそうな気がする。

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2007/11/12

暑がりと寒がり

オッサンは暑がりで、若い女性は寒がりというイメージがある。夏のオフィスで、脂ぎったオッサンが、ワイシャツを汗でぐっしょり濡らしながら、冷房を 「強」 にすると、OL は青ざめてカーディガンを羽織り、膝掛けをたぐり寄せる。

電車の 「弱冷房車」 も、圧倒的に女性の乗客が多い。

私は最近、かなりダイエットに気を付けないとウェストサイズがすぐに大きくなってしまうのだが、決して 「脂ぎった」 オッサンというわけではないと自分では信じている。それでも、電車の中では、「もしかして、俺って、かなり暑がり?」 なんて思ってしまう。

近頃、ようやく秋が深まってきた。私も、11月になってから、やっと春夏物の一重仕立てのジャケットから、総裏仕立ての秋冬物ジャケットにチェンジした。10月一杯は、秋冬物のジャケットなんて、着る気になれなかった。

何しろ、この地球温暖化である。11月の声を聞くまでは、秋の格好で街を歩いたりすると、すぐに汗をかく。電車に乗れば暑苦しい。ましてや、コートを着るなんて、とんでもない。

ところが、先週の土曜日は何となく冷え込んだような気がしたので、この秋初めてコートを着込んで外出した。ところが、すぐにそれは失敗だったと気付いた。肌寒さを感じたのは、朝のうちだけで、その朝のうちでも、電車に乗ると暑すぎる。

なまじちょっと冷え込んだものだから、電車内は早くも暖房が入っている。そのうえ、私の乗った京王線は、東京競馬と東京ヴェルディのサッカーの試合があって、かなり混み合っている。こんなに混んだ車内で暖房を効かせるのは、ちょっとした暴力だ。

窓は水滴で曇っていて、外の景色なんて見えない。周囲を見回すと皆、額と鼻の頭に玉の汗をかいて、じっと耐えている。あぁ、ついに極端な冷房で凍える夏が遠ざかり、むっとするような暖房で大汗をかく冬が来つつあるのだと実感した。まったく、電車のエアコンはパラドックスの極みである。

一泊して日曜日に帰宅するときには、電車はそれほどの混雑ではなかった。それでも、うっすらと暖房が入っていて、ちっとも寒くないから、コートは脱いで手に持っていた。結局、二日間で実際にコートを着たのは、初日の朝、駅までの道を歩くときだけで、後はずっと手に持って歩くだけだった。

ところが、帰りの電車の中で見回すと、周囲の女性は、ほとんどマフラーを巻き、ウールやダウンのコートを着ている。よく暑くないもんである。私が暑がりなのか、周囲の女性が寒がりなのか。

実際問題として、私は別にそんなに極端な暑がりというわけじゃない。周りには、私がうっとうしくなるぐらいの暑がりのオッサンがいくらでもいる。それでも、私は電車で乗り合わせた女性たちのような厚着はできない。

などと思っていると、途中駅から女子高生の一団が乗ってきた。日曜だというのに、皆制服を着ている。何か学校の行事でもあったんだろうか。

彼女らは制服のブレザーの下にテキトーなシャツとベストを着ているだけで、スカートは、最近の女子高生にありがちな超ミニである。股下 3センチぐらいといっても大袈裟じゃない。それに、当然のごとく 「生足」 である。ほとんど風呂上がりみたいなものである。

周囲のマフラーを巻いてコートを着た女性たちと同じ種族とは、到底思われない。そして彼女らは、真冬になってもこのまま超ミニに生足なのである。なんともはや、我慢強いことである。

女性というのは、高校を卒業すると急に寒がりになるのだろうか。それとも、高校時代のあんな格好がたたって、年若くして冷え性体質になってしまうのだろうか。それとも、単に暑さ寒さを我慢してでも、ファッション雑誌と同じ格好がしたいのか。

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2007/11/11

ちょっと言いにくい店名

忙しくてまともなことを考えている暇もないので、今日はとってもくだらないネタである。どのくらいくだらないのかというと、下ネタである。

東京千代田区内のとある通りに、小さなハンコ屋さんがある。どうってことのない佇まいだが、看板を見るとちょっと驚く。いや、気づかない人は気づかないかもしれないが。

わけあって正確な店名は秘すが、看板には 「○○堂印舗」 とある。まあ、目で見ただけでは、とくにどうってことはない。だが、発音しようとすると、ちょっとたじろぐ。

多分、「いんほ」 とは読まないと思う。「本舗」 を 「ほんぽ」 と読むのだから、これも 「いんぽ」 だと思うのだ。ちなみに、この部分、カタカナではなくひらがな表記にしているのは、私の慎みというものである。

電話がかかってきたときの受け答えは、いったいどうしているのだろう。「はい、○○堂いんぽでございます」 と、フルネームを言っているのだろうか。いやいや、それはあまりにも抵抗があるので、多分、「○○堂でございます」 に抑えているのだと思う。

なかなか大変なことである。

ところが、ふと思い立って 「印舗」 のキーワードでググってみたら、なんと 36,400件もヒットしてしまった。うわぁ、これって、かなり一般的な呼称のようなのだ。それも、結構老舗が多いみたいで、由緒ある店名らしいのだ。つべこべ言っては申し訳ないかもしれない。

とはいえ、なんの脈絡もなく "「やっちゃった」感を隠せない団体、企業ロゴ8選" というエントリーがあるのを思い出してしまったのは、きっと、私の方が不純なのである。きっとそうなのである。

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2007/11/10

ホィールクリックで、新しいタブが開くなんて

知ってる人はとっくに知っていて、「何を今さら」 と言われそうだが、タブ・ブラウザでリンク部分をホィールクリックすると、リンク先が新しいタブで開くという機能を、つい最近知った。

これまでは、ホィールでスクロールしているといつの間にか新しいタブが開いていることがあり、そのわけがわからなかったのである。

最近のマウスには、ほとんどホィールが付いていて、縦スクロールがとても楽になった。人差し指の指先で回すだけでなく、ホィールをクリックすれば、後はマウスをちょっと動かすだけで、一気呵成にスクロールができてしまう。ゆっくり動かせば、文字を読む速さでスクロールされるので、長いテキストを読むときなどはとても便利だ。

そして、スクロールを止める時には、もう一度ホィールクリックをする。すると、そこでスクロールはピタリと止まる。この操作に慣れると、もうホィールのないマウスには戻れない。

ところが、ウェブをブラウジングしながらこの操作をしていると、いつの間にか、新しいタブで別のページがいくつも開かれていることがある。私は、これがどうしてだかわからなかった。もしかしてウィルスにやられてしまったのかとも思ったほどである。

ところが、最近になってようやく気付いたのだ。スクロールを止めようとして、たまたまそのページのリンク部分の上でホィールクリックしてしまうと、そのリンク先が新しいタブで開くのだ。

IE 6 までのタブ機能のないブラウザを使っている人には、何のことだかわからない人もあるだろうけれど、一度、Firefox か IE 7 を使ってみれば、なるほどとわかるだろう。

で、ちょっとググって見たら、中にはこのホィールクリックで新しいタブの開くのを、うっとうしいと思っている人もいるようだが、わかってみると、とても便利な機能だと気に入ってしまった。

リンク設定には、同一ウィンドウで新しいページが開く場合と、別ウィンドウで開く場合がある。どちらも私にはうっとうしい。同一ウィンドウで開かれると、前のページを参照したい場合などは、いちいち戻らなければならないし、別ウィンドウが開く設定では、下手すると際限なくたくさんのウィンドウが開いてしまう。

リンクを開く場合は、同一ウィンドウ内に新しいタブで開くというのが、一番便利だと思う。

それだけに最近では、リンクを開くのは左クリックではなく、ホィールクリックして、新しいタブに表示させるのが、私なりのデフォルトになりつつある。使える技なので、まだこの機能に気付いていない方は、是非試してみることをオススメする。

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2007/11/09

密室の風通しをよくしようってわけね

福田首相が 8日付のメールマガジンで、「建前抜きで本音の話し合いを行う場があってもいい」 と、例の 「党首会談」 というスタイルを積極的に評価しているそうだ (参照)。

ああ、つまり、国会での論戦は 「建前ばかりで本音で語られないから、不毛だ」 と首相自ら認めちゃったわけなのだね。

国会論戦が建前ばかりでかったるいのは、ちょっと国会中継をながめれば誰でもわかることだけれど、改めて首相の口からそれを言われると、「おやおや」 と思ってしまう。

これまでは、「本音の話し合い」 なんていうのは、そんなに公言しないものだった。それが前提だった。そして国会の表舞台と密室の裏舞台が、自然にリンクして、それなりにうまく機能していたのだった。

しかし、こうした 「密室政治」 がもう成立しない状況になってしまったのだ。今回の 「大連立」 問題にしても、裏舞台の登場人物があっという間にわかってしまった。福田さんも小沢さんも、むしろ 「乗せられただけ」 という図式が、簡単に暴露されてしまった。

ならば、これまで密室だったもののの扉をちょっとだけ開けて、公開性を高めてしまっちゃどうだというのが、福田さんの言ってることなんじゃあるまいか。それによって、ややこしいじじいたちが陰に回って余計なことをする舞台を、少しは縮小しちゃおうと。

福田さんの言うことを、それこそ 「建前論」 の耳で聞くと、「国会の場で本音の論戦をするのが、民主主義というものではないか」 ということになるが、現実論としては、「密室の風通しをよくしましょう」 ということで、半歩前進みたいなことになるのだろう。

つまり、今回の 「大連立」 のプロセスには、首相の本音としても、ちょっとだけむっとした部分もあるんじゃなかろうかということだ。

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2007/11/08

何もしないのは、失敗するよりまずい

一部では 「小沢を手玉に取った福田総理はスゴイ」 というトーンで語られている (こちらとか) が、果たしてそうなのかなあ。

結果論で言えば、今回の騒動は、いまだに密室のやり取りで進む政治の世界のいやらしさを浮き彫りにしただけで、福田さんの影なんて、むしろ薄くなっちゃってる。

民主党は確かにガタガタになったけれど、広告効果で言えば、かなりの得もしている。この何日も、政権党の何倍もの量の活字になったのだから。スキャンダルを糧としてのし上がるタレントもいるのだもの、長い目で見れば、プラスに働かないとも限らない。

それに、例の 「大連立」 のオファーを脊髄反射的にぶち壊しちゃったせいで、びっくりするほどの大騒動になった民主党としても、多少は感じるところがあっただろう。もう少ししたたかに、のらりくらりして見せる必要も学んだんじゃあるまいか。

少しも学ばず、まだがたがた言っている旧社会党系は仕方ないけど。

どうも、読売系のフライングを起点として、いろいろな裏の事情が垣間見えてきたような気がする。プロ野球の 1リーグ制推進と同じレベルで政治を考えているみたいなじいさんとか、最近は言うこと為すこと、ことごとく的外ればかりになってしまっている大勲位とか。

で、どうも福田さんという総理大臣は、今回の一連の騒動の中では、あまり主導的な役割を果たしていないんじゃあるまいかという気がする。実際、あれからずっと黙りこくったままだし。根は案外おしゃべりなのに。

大きな得点もしない代わりに失点もない人と言われているが、確かに、今回の騒動でも、福田さん自身は、目立って得点も失点もしていない。しかし、何にもしないということは、立ち止まっているよりも、もっとまずいということになるようなのだ。今の時代は。

結局、政治に対する不信は、野党よりも与党の方に、静かにではあるが、より大きく跳ね返ることになるだろうからね。

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2007/11/07

西友とウォルマート

米国のウォルマートが、西友を完全子会社化して、経営再建するんだそうだ。ふぅん、無理だと思うがなあ。

西友というのは、郊外の駅前の、それほど大きくもない店舗で、ちまちまっとした日用品を売るという業態だ。どでかい店舗のウォルマートとは、コンセプトが違いすぎる。

私はウォルマートみたいなお店は、決して嫌いじゃない。日本で言えば、スーパーマーケットとホームセンターとしまむらが、でっかい規模で合体しちゃったようなイメージで、とにかく、安い値段で何でもある。高級品はないが、決して粗悪品というわけじゃない。

お店のサービスだって、決して悪くない。サービスカウンターに行けば、うっとうしそうな顔もせずに、結構いろいろな希望を聞いてくれる。これって、米国のサービス業の中ではなかなかイケてる部類である。

しかし、これは米国の郊外の、だだっ広い土地に千台以上も停まれる駐車場を用意して、体育館の何十倍もありそうな店舗を建てるというビジネスモデルで可能になることだ。お客は車で乗り付けて、リヤカーみたいなショッピングカート一杯の買い物をする。

徒歩かママチャリでやってきて、せいぜいレジ袋 2つぐらいの買い物をして帰るという西友のお客とは、全然違う。こんなちまちましたマーケットに、メガストアのコンセプトで対応してもうまくいくわけがない。

ウォルマートが本国のビジネスモデルをそのまま適用して日本でも成功するためには、車で来るしかないようなど田舎に、でっかい店舗をつくらなければならない。ということは、既存の西友店舗という資産は、役に立たないことになる。

そして、郊外にでっかい店舗をつくろうとすると、そんなところには大抵、既にジャスコのでっかい店が建ってしまっている。

ジャスコに対抗するためには、値段を安くしてやたらと効率のいい店作りをしなければならないだろうが、そうすると、とってもがさつなイメージになるだろう。そして、日本でそうした店作りをすると、一時のダイエーとか、カルフールのように、お客に支持されないのだ。

ウォルマート的なお店が嫌いじゃない私でも、実際問題として、一度買い物したら、それから 3ヶ月は行かなくてもいい気がするだろうと思う。

さらに一番心配なのは、西友の従業員のモチベーション低下である。これまでの企業文化みたいなものを全否定されて、わけのわからん米国流を押しつけられたら、やる気なくすだろう。パートのおばちゃんなんか、とくにそんなところがある。店の雰囲気が暗くかったるくなるのは確実だ。

ということは、ウォルマートが日本で成功するのは、なかなか大変なことだと思われる。日本における 「格差社会」 がもっともっと進行してしまってからなら、やりようもあるかもしれないけれど。

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2007/11/06

ディマンド・アーティキュレーションって何?

新しい術語が気になってしまっている。このほど参加することになった業界関連の調査委員会の基礎資料に、「ディマンド・アーティキュレーション」 という言葉があるのだ。

一体、こりゃ何だ? "Articulation" は辞書を引けば、「関節、音節、連結、滑舌」 などということだ。「需要の関節」 って何だ?

もう、本当に、こうしたマーケティングとかソシオロジーとかいう話になると、時としてわけのわからない新語を偉そうに使いたがる人がいて、私なんか戸惑ってしまったりする。

さらに、それがしばらくすると通俗マーケッターたちの間で広まっちゃって、知ったかぶりで使いまくるやつなんかが出てきて、それでもよく聞いてみると、よくわからないまま、雰囲気だけで使ってるのがばれちゃったりして、そういうのって、あんまり好きじゃないんだよなあ。

というわけで私としては、新語が出てきたら、そのきちんとした意味合いはおさえておきたいと思ってしまうのだ。どこやらの通俗マーケッターと一緒にはされたくないからね。

この言葉は、芝浦工業大学大学院工学マネジメント研究科長の児玉文雄さんが提唱されたのだそうだ。彼の専門分野は、「新産業創出過程と技術開発過程との複雑多岐にわたる相互作用の関係構造を科学的に解明するための分析」 なんだそうだ (参照)。

ふぅむ、ずいぶんややこしいが、新しい産業と技術開発との関係を、複雑系の視点をも援用して分析するというようなことなんだろうな。それで、「アーティキュレーション」 なんていう、漠然とした意味でも使える便利な単語をもってきたんだろう。

元々、"articulation" というのは、解剖学では 「関節」、音声学では 「音節」 を意味していて、そこから広がって、滑舌をはっきり発音して、理路整然たる表現をするというような意味合いをももつ。まあ、そんなようなイメージと思っていればいいだろう。

で、「ディマンド・アーティキュレーション」 ということになると、中小企業基盤整備機構の資料 (参照) では、次のように説明されている。

「ディマンド・アーティキュレーション(需要表現)」 とは
児玉文雄によって提唱されたモデルで、アーティキュレーションとは、分析と統合という相反する 2つの意味を内包している。
ディマンド・アーティキュレーションとは、「潜在需要を統合し製品概念を形成する行為」 と 「製品概念を要素技術の開発項目へ分解する行為」 との2つの行為の 「動学的相互作用」 を指す。

ほほう、この場合は、「製品概念を要素技術の開発項目に分解する」 という分析的行為と、「潜在需要を統合し製品概念を形成する」 という統合的行為を、うまく絡み合わせて行うってことなのだね。

といっても、抽象的でよくわからんから、具体化するには、何か一つのキーワードを設定し、それを呼び水的に活用して、分析と統合をうまい具合に転がしていくということになりそうだ。

もんのすご~く単純な例でいえば、「お伊勢参りのおみやげ物」 っていう需要がありそうだぜってなことに着目する。おみやげ物だから、なんてったって、手軽でうまいものがいいだろう。

そして、伊勢参りってのは、村の中から毎年交代で代参する (江戸時代では、そういうことだったのだよ) のだから、帰ったら、自分の属する共同体に簡単に分配できるものがいいよねってなことになる。だったら、まんじゅうとか餅がいい。煎餅は雰囲気じゃないよね。

これがまず 「製品概念の形成」だ。

よし、それらしい姿と味の餅っぽいのを作っちゃえということで、原料の選定とか、洗練された作り方、そして何よりも 「伊勢神宮」 らしい雰囲気を醸し出す販売手法などをつきつめるということになる。これが 「要素技術の開発項目に分解」 ってなことだろう。

これらがうまく動的に転がって一体化すると、ヒット商品になる。

で、「赤福」 というのは、なかなかの成功をおさめたというわけだ。しかし、「動学的相互作用」 の過程で、「余り物の再利用」 なんていう、一見効率的な要素技術まで採用しちゃったがために、コンプライアンスの重視という新しい需要に反してしまい、その成功もおじゃんになってしまった。

うむ、あまりにも単純化が過ぎるとは思うが、とりあえずはディマンド・アーティキュレーション理解の、最初の糸口が見えてきたような気がするぞ。

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2007/11/05

小沢さん、またやっちゃったね

昨日とは別の視点から、今回の 「大連立」 騒動を解釈してみる。「小沢一郎論」 という視点での解釈で、要するに、「あぁ、小沢さん、またやっちゃったね」 ということなのだが。

これ、昨年 4月に彼が民主党代表に就任した際の 「小沢一郎って、本当に大物?」 という記事で、基本的には書き尽くしている。

この人、影で隠然たる力をふるうタイプで、昔から表舞台に立たせてしまうとろくなことがない。ちょっと権力欲をくすぐって揺さぶりをかけるだけで、すぐに自爆する。すぐに自爆するとわかっている人を自爆させるために揺さぶりをかけるのは、案外簡単なことなのだ。

私は昨年 4月の記事で、次のように書いた。

(小沢氏は) 実は 「大物」 なんかじゃなく、田中派から竹下派に続く歴史の中で、じいさんたちに可愛がられて、楽屋裏の重要ポストをあてがわれ、背後のじいさんたち (とくに金丸さん) の威光で、強引に物事を進めた経験があるというだけのことなんじゃあるまいか。

あの頃の世の中は、政治の世界に限らず、実力者といわれるじいさんのお気に入りになれば、大抵のことはできたのである。「お前の好きなようにやってみな。何かあったら、わしが出てって口きいてやるから」 ってなもんだ。

こうした構造があって、周囲としても、下手に逆らうとややこしいじいさんが出てきてやっかいなことになるとわかっているから、逆らわなかったのである。

つまり、小沢さんは天然記念物みたいな、最も古いタイプの政治家なのだと思う。そして、「ややこしいじいさん」 たちがほとんどあの世に行ってしまった今、彼の手法は通用しないのだ。決定的なのは、コミュニケーション能力の欠如である。

今月 3日付の、日本シリーズでの例の投手交代を論じた記事に、ammnant さんという方から、「今お騒がせ中の小沢さんの喋り方見てると、岩手と秋田出身だからか、落合監督の喋りと似てるな〜って思うことがあります」 というコメントがついた。言われてみると、確かにそんな気がする。

ご両人とも北東北の出自ということのほかに、エロキューション (話術、雄弁術) に信頼をおいていない (要するに、口べたということに開き直っている) というキャラが、強烈に似ているのかもしれない。

しかし、野球の世界では口べたでも結果さえ残せばある程度認められるだろうが、政治の世界でエロキューションがないというのは、実は致命傷なのだ。小沢さんの一番よかった頃までは、どういうわけかこの国では、それでもっていたのだが。

で、またちょっと視点を変えてしまうのだが、民主党の直対応にも困ったものだという気がするのである。町村信孝官房長官が記者団に対して 「ずいぶん早く (民主党は拒否を) 決めましたね」 と語ったのは、実は痛烈な皮肉である。

かなり前からわかっていたことだけれど、民主党にはいい意味での 「タヌキ親父」 がいないのだ。

今回の件に関しても、小沢氏が持ち帰った 「大連立」 提案に対して、「どうしたものか」 「国民の信も問わなければ」 などと、どうでもいいことを呟きながら、いかにも困ったように、あるいは義憤にかられたようにのらりくらりしていれば、「悪者は、密室でとんでもない話をもちかけた福田首相」 ということにしてしまえたかもしれないのに。

今回の騒動は、小沢氏の自爆であると同時に、民主党の自爆でもある。

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2007/11/04

大連立に 「はぁ?」 以外のことを言ってみる

「はぁ?」 の一言しか出なかった 「大連立」 のニュースだが、ちょっと深読みしてみると、決して 「政界のトンデモ」 とばかりも言えないんじゃなかろうかという気がしてきた。

私だって、最初は 「二大政党制を求めて小選挙区制を作ったのは、小沢さん、あんたじゃないか!」 と、単純に思ったのだよ。

そして前回の参院選で、民主党がようやく二大政党の一翼としての格好がつくんじゃなかろうかと思われ始めた矢先に、このニュースである。これじゃ、受け入れられるわけがない。まともに考えれば、それは誰だってわかる。

しかし、よく考えてみると、自民党と民主党の二大政党制が実現したとして、我々は選挙で何を基準に投票の判断をすればいいのかということが、さっぱりわからないのである。両党とも、右から左へ広がる大変なバラエティで、キーとなるコンセプトが見えないじゃないか。

これは誰もが指摘することだけれど、民主党の右は自民党の左よりずっと右で、自民党の左は民主党の右よりずっと左という、「ねじれ現象」 が明白なのである。アメリカの共和党と民主党だって、それは多少はあるけれど、日本の場合は度が過ぎる。これでは自民党も民主党も、内心は党内運営というか、調整が大変だろう。

だったら、右は右同士、左は左同士でくっついてくれる方が、政治家としても国民としても、ずっとわかりやすいのだ。元々、政党ってそうしたもんだろうよ。

ところが現状は、その時々の政争で勝ったものが中枢を占め、負けたものが追い出され、うまく立ち回ったものが、主義主張を棚上げしてまで要職に食い込むといったことを、戦後 60年以上も繰り返してきた結果としかいいようがない。

そのせいで、もう、自民党の同じ派閥の中でも右から左までいるという、わけのわからん状態になってしまったのだ。このままの状態で 「二大政党制」 なんかに突入したとしても、実際はこうした 「わけわからん状態」 がますます入り組んでしまって、時々の勢いとか、雰囲気とかで選ぶという馬鹿馬鹿しいことになるだろう。

政権交代が、単に 「目先を変える」 という意味合いしかなくなったら、それは自民党内部の派閥抗争と大して違わないレベルのお話に矮小化されてしまう。

今回の 「大連立提案」 は、こうした状況を一度整理してガラガラポンし、政界再編成を模索する動きにつながるものだという深読みが、あちこちでなされている。ふぅむ、なるほど。本当にサクサクっとそうなってくれれば、国民としてはとってもわかりやすいよね。

しかし困ったことに、そうしたわかりやすい状況にたどり着く前に、密室での党首会談とか根回しとか、なんだとかかんだとか、とってもわかりにくい因習的手法が、この国では不可欠なのだよ。こうしたプロセスの段階で、まず拒否反応が示される。今回みたいに。

とくに、今は自民、民主両党の代表が、調整型と豪腕型の両極端ではあるが、言ってみれば密室における従来型手法の権化みたいなお二人なので、こんな反感をかってしまったのだと思うのだ。

ただ、政界再編成のニーズは根底にあるので、この動きは形を変えて何度も出てくることになるんだろうな。ウソでも 100回繰り返せば本当になるというから、いつか実現しちゃうのかもしれない。

とりあえず、今は 「わかりにくいことはダメ」 という流れになっているのだということを、政治家たちに深く認識してもらわないと、何も進まない。小泉政権の最大の教訓は、「(一見) わかりやすく打ち出しさえすれば、圧倒的支持を得られる」 ということだったのだから。

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2007/11/03

問題の投手交代について

中日が日本一になったのを、私は翌日の朝刊で知ったのだが、落合監督が完全試合目前の投手を交代させたことで、野球ファンはものすごく熱くなっているようなのだ。

「日本一になったんなら、それで結果オーライじゃん」 ということでは済まないらしい。野球ファンというのも、なかなか大変だ。

一方は、「日本シリーズで完全試合達成というドラマに巡り会う、夢のような機会をぶち壊した」 として、落合監督を 「空気読めない」 と罵倒し、他方は 「これでもし、9回で逆転を許して、札幌に舞台を移したら、またしても日本一を逃していたかもしれないではないか」 と、結果の雄弁さを支持する。

はっきり言って、私には不毛な論争にしか思えない。現実に雄弁な結果論と、それを遙かに上回る可能性だって大きかったように思われる仮定の話の対決だからだ。それはそれで結構な結果が出てしまってからのことで、それだけに、どちらにも言い分がある。

もう一つの対決ポイントは、「勝ちさえすればいいのか」 という視点と 「負けたらどうしてくれる」 という視点のギャップだ。これはどちらかというと、野球論から逸脱して、人生論の領域にオーバーラップする。とはいえ、「好きずき」 というレベルの人生論だが。

このへんで、とくに野球ファンというわけでも何でもない私の感想を書かせていただこう。

それは、中日というチーム、結構いいムードで戦ったのだなということだ。監督がどんな采配を振おうとも、選手はそれに文句を言わないという暗黙の了解というか、慎ましい信頼感があったように思える。

エースの川上が初戦でダルビッシュとの投手戦に投げ負けようと、監督の意識としては 「想定内」 だった (つまり、半分は 「捨てゲーム」 と位置づけていた) ようで、そして、それが見え見えでも、川上はプライドがどうしたこうしたといった反抗的態度に出ていない。

それに、問題の第 5戦で、「空気読めない」 投手交代をされても、山井投手は 「自分は一杯一杯だったから、最後は岩瀬さんに投げてもらいたかった」 などとコメントをしている。なんと素敵なフォローイング・アップだろう。

山井投手が本当に自ら 「替わってください」 と言ったのかどうかなんて、そんなのは、わからない。本当は最後まで投げたかったのかもしれない。いや、きっと投げたかっただろう。それでも、そんなことはおくびにも出さずに、模範解答的に殊勝なコメントを発する。

それはもちろん、53年振りの日本一という結果が、全てを許してしまうという雰囲気にもよるのだろうが、そうしたコメントを出させる、ある種のチーム内の信頼感というのが、あるいは瞬間風速的にだったのかもしれないが、少なくとも、あの夜にはあったのだろう。

私は、投手交代そのものを云々するよりも、むしろチーム内でそれを許した、目に見えない信頼感というものを評価しておきたい。

それに、10年後のプロ野球回顧談の中では、「日本シリーズで完全試合を達成した山井」 というエピソードよりも、「完全試合目前の投手を代えてまで、勝利にこだわった落合監督」 というエピソードの方が、是非は別としても、より大きく心を動かすバリューを持つだろうという気もする。

落合監督は 「記憶に残るよりも、結果がすべて」 とコメントしているようだが (参照)、実際にはそれによって、さらに記憶にも残ってしまうことになったと、私は思う。

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2007/11/02

鳩山さんの 「世間話」

鳩山法相の相次ぐイレギュラー発言が、ネットで話題だ。「友人の友人がアルカイダ」 とか、「秘書時代はペンタゴンにご馳走になってた」 とか、なかなか面白い人である。

国際的なセキュリティや情報収集の重要さを強調したいあまりの発言と、私は受け取っているのだが、それにしてもなあ。

「アルカイダ」 発言の真意は、改正出入国管理・難民認定法の施行に関連して、日本に入国する 16歳以上の外国人の指紋採取義務づけの重要性を強調することだったらしい。さらに、「秘書時代云々」 は、ペンタゴンは、首相秘書を毎月接待して情報収集していたのだから、その手法を日本も見習えということのようだ。

要するに、日本はもっと安全保障やそれに関する情報収集に力を入れなければならないという主張を、彼なりの 「具体性」 をもって強調しているのだと思う。これだけ具体的なことを言えば、説得力があるだろうと。

うむ、確かに、好意的に見れば、ちょっとだけ 「具体的」 だ。なるほど、日本はセキュリティに関してのほほんとしすぎている。それを認めるにやぶさかではない。

しかし、日本がこの問題でのほほんとしすぎているというのは、それはずっと前からの 「常識」 みたいなもので、なにも、鳩山さんの 「個人的体験」 を持ち出してもらわなくても、わかっていることである。

元々わかっていることに、より 「説得力」 を付け加えるために、自身の 「具体的」 な体験を話されたのだろうが、この 「具体的」 体験というもの自体が、なにぶん 「世間話」 的なものであるために、かえって 「怪しさ」 を醸し出してしまうという逆効果を生んでしまった。

それどころか、自分が米国のスパイだったことを言外に認めるという結果にまでなった。うなぎや天ぷらぐらいで、首相の私設秘書から話が聞けるのだから、ペンタゴンにとってはずいぶん安上がりな情報収集だったろう。

ちなみに、日本の政治家の秘書の中には、うなぎや天ぷら程度で外国に情報を提供するものがいたということで、多分、今でもいるんだろう。最近は、本場の中華料理が主流かもしれないが。

「説得力」 を増すための 「具体的」 な話が 「世間話」 レベルのものであっても、それが元々 「世間話の一環」 として語られるならば、とても話が膨らんで面白いことになったりする。そういうの、私なんか大好きなのだが、それが政治の場で語られるに相応しいものかどうかは、ちょっと立ち止まって考えてみなければならない。

政治に世間話を持ち込むのは、大衆的共感を得るのになかなか効果的な場合があったりもする。しかし、それもネタによりけりだ。

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2007/11/01

落語と手話と夢之助

三笑亭夢之助が島根県の敬老会で、手話通訳は気が散るとしつこく発言したというニュース (参照) には、ちょっと考えさせられた。

確かに、落語に手話通訳で接して、そのおもしろさが理解できるかといえば、私もかなり疑問だと思う。当の手話通訳者だって、多分苦労しただろうと、思いやられる。

もう本当に、差別主義のレッテルを貼られるんじゃないかと、びくびくもので書いちゃうけど、落語会に手話通訳を、それも舞台の上の、噺家の気になる位置に立たせるというのは、ちょっと問題なんじゃななかろうか。確かに、落語の雰囲気を壊してしまうと思う。

落語に手話通訳を付けさえすれば福祉なのだというのは、主催者側の勘違いだと思う。例えば、一般論として、演劇の舞台に手話通訳を付けるだろうか? 歌舞伎や文楽の舞台に手話通訳を上げるだろうか? 少なくとも、手話以外の方策がベターだろう。

それを考えたら、敬老会の行事という要素を勘案したとしても、落語に手話というのは、ちょっとだけ乱暴な話だと思う。私は基本的に、役人の味方ではなく芸人の味方である。

落語は話芸であると同時に、身振り手振りの芸でもある。話芸の神髄は手話では通じないだろうし、身振り手振りの妙味も、すぐそばで手話をやられては、確かに 「気が散る」 ことになるだろう。

私がこのイベントの主催者なら、多分、手話通訳はつけない。もし強い要望があって付けることになった場合は、事前に演者側と十分な打ち合わせをする。それはこうした舞台演芸をプロモートする場合の常識だと思う。

なんの打ち合わせもなく、いきなり当然のごとく手話通訳が出てきて演者の前で手話を始めたら、そりゃ、無神経というものである。落語家としては、相当な違和感をもつだろう。それは自然なことだ。

と、ここまで書いて、話のトーンは突然翻ってしまうのだが、夢之助には、もうちょっと芸人らしい粋な反応の仕方をしてもらいたかったと思うのである。

噺の開始後 5分ほどで、彼は 「落語は話し言葉でするもので、手話に変えられるものではない」 と発言したという。それ自体は、確かに正論ではある。しかし、一個の正論がすべての場にふさわしい主張たり得るかといえば、そうではない。そこに気付かないのは、修行不足というものである。

「この会場は聞こえる方が大半ですよね」 だの、「気が散りますよね」 だの、繰り返してアピールしたとのことだが、こういうのって、申し訳ないけど、夢之助の 「悪いクセ」 だと思う。この人、客いじりをさせると、時として理に走りすぎて、あくどくなったりするところがある。

当人がなまじ自分の芸に対してこだわりのようなものを持っているだけに、下手すると嫌味というか、傲慢さを感じさせることになりかねない。こう言っちゃなんだけど、噺家の中には、誰とは言わないが、そのあたりで勘違いしている人もいないわけじゃない。

こんな時、いくらむっと来たとしても、もっと洒落っぽく、粋にやんわりと対応できるようになれば、芸人としても本物なんだろうと思うのだが。

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