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2007/11/16

「自分探しの旅」 の効果

最近よくみかける 「自分探しの旅」 という言い回しには、「ニートの甘え」 というシニカル派から 「新しい自分の可能性を見つけられる」 という肯定派まで、いろいろな反応がある。

反応がいろいろというだけでなく、この言葉を使う方の意識も、まさに反応のバラエティ同様、ピンからキリまでのようなのだ。

確かに、ニートの甘えとしか言いようのない 「漠然とした一人旅」 から、「明確な目的を持った修行の旅」、さらに、実際の旅行というわけではなく、メタファーとしての人生修行など、さまざまな意味合いで 「自分探しの旅」 という言葉は使われているようだ。

しかし、ここで注目したいのは 「自分探し」 というレトリックである。文字通りに解釈すれば、自分探しの旅に出る者は、「自分というものがどこか他にある」 と、漠然とだろうが、思っているようなのだ。つまり、「今ここにある自分」 は、「本当の自分」 ではないという前提があるわけだ。

好意的に解釈すれば、これまで育ってきた自分というのは、周囲の環境という鋳型にはめられて、否応なく今の姿になってしまっているが、本当はもっと違う自分というのがあるはずだという考えは、わからないでもない。

そして、「本当の自分」 を手探りするために、周囲の環境をまったく変えてみるというのは、確かに一つの方策ではある。認識というのは、関係性の中で確立するものだから。周囲とのまったく新しい関係性に積極的に順応しようとすれば、自分の新しい可能性が、いやでも引き出される。

だから、「自分探し」 というちょっと甘えたレトリックは、ちょっと気に入らないところがあるけれど、私はその試みをむやみに否定しようとは思わない。

近頃、若者が海外旅行に出かけなくなったという。言葉の通じない海外で嫌な思いをするよりは、勝手の知れた国内で、温泉にでもつかってまったりする方がいいという。想定内のことだけを求め、それ以外のことは拒否する。

そうした 「内向き」 すぎる姿勢よりは、少しは 「自分探し」 と言って、まったく新しい経験をするために、海外にでも出かける方が、気概があると言えるかも知れない。もっとも、日本語だけで足りる 「買い物ツァー」 では、どうしようもないけれど。

ただ、単に周囲の環境を変えただけでは、小手先的な新しい対応をひねり出すというだけに終わりがちだ。その場合、基本的な自分というのは、別段何も変わっちゃいないので、元の環境に帰ったら元の自分に戻るだけということもある。

根本的なことを言えば、「自分」 というものは、決してどこか他にあるのではない。私は、「青い鳥」 という童話を思い出す。幸せの青い鳥を探して長い旅を続けた挙句、それは戻った自分の家にいたという寓話だ。

道元禅師の言葉に、次のようなことがある。

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

仏の道を習うというのは、自己を習うことだというのである。別の言い方をすれば、「真理を究めるということは、自己を究めるということだ」 ということになり、つまり、それは 「自分探し」 ということにも通じるのだろうが、道元禅師は、そのためには、別に旅になんか出なくても、ただ心を空しくして座ればいいと説いている。

そして、「自己をならふは自己をわするるなり」 とあるように、「自分」 なんていうものにこだわっているうちは、本当のことは見つからないとも説いている。「心身脱落」 したところに、「万法に証せらるる」 という仏性 (すべての法則に即した真理) が現れる。ああ、難しいなあ。

最後に 「自分探しの旅」 の話に戻れば、チルチル、ミチルが、長い旅を経てようやく自宅に青い鳥を発見したように、旅を経験することによって、それまで見えなかったものが見えてくるという効果は、確かにある。それは言い切れる。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

自分探しの旅というと、サッカーの中田英寿が各地をまわって自分を探していたようですね。
おまけにモンゴルで朝青龍のサッカーに付き合って、謝罪していましたが。

おっしゃるように、ハードなひとり旅をすると多少人生観が少しは変わるかも知れませんが、人間というものは、人間というものの脳内メカニズムと言うものを考えても、それほど簡単に、一気に変わるものでは無いと思っています。

私は仕事とは言え、しょうれいの地、というか、僻地をドサ回り?する人生でしたが、自分の引き出しは増えたとは思いますが、全くそれまでの自分とは別の自分を見つけたわけでもありません。
ただ、一般の方よりは異文化や危険を数多く経験した結果、徐々に自分が変質したかも知れないとは思います。

やはり「心身脱落」しなければ、別の自分を探し当てる(作り上げる)事はできないでしょうが、それが果たしていいことなのか?(笑)
今は、このまま人間くさい喜怒哀楽の中で人生の終焉を迎えてもいいような気がしています。

投稿: alex99 | 2007/11/16 22:41

alex さん:

alex さんの人生の引き出しはかなりたくさんあるんでしょうね。(それに、度胸も据わるし)

私も、「心身脱落」してしまったら、蓮のうてなに座っているだけで、さぞかし退屈なことだろうと思っていましたが、脱落したらしたで、なかなか楽しそうということを知りました。(以下参照)

http://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2007/06/post_25bc.html

この境地に辿り着くと、ますます人間くさくなるようなんですが、なかなか難しいみたいです。

投稿: tak | 2007/11/17 08:03

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