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2008/02/04

"Individual" の意味

「個人」 を英語で "individual" という。この単語は、文字通り受け止めれば 「分割不能」 の意味というのは、ご存知の通りだ。

学校ではその語源について、「社会を分割 (divide) していき、これ以上分けられない最小単位に達するのは、"個人" というレベルだから」 と、フツーは教わることになっている。

このことを知ったとき、私はもやもやっとした違和感に襲われた。その違和感の正体が何であるかは、当時は知るよしもなく、「西洋的な考え方としては、そうなるのかなあ」 と、納得しようとした。

で、無節操なことに、そのように一度納得してしまうと、"individual" という単語に関しては、私は西洋人になってしまったのであった。社会を構成する最も重要な要素は、「個人」 であると、疑いもなく思うようになった。

そのように単純素朴に納得していた私の目の前に、ある日、滅茶苦茶エキセントリックな米国人が登場した。30年以上前に知り合った Ron である。彼は "individual" という単語を 「個人」 (each person) と解釈するのは、大きな誤解であると、情熱を込めて主張するのだった。

「"Individual" という言葉の語源を知ってるか?」 と、彼は問いかける。「それはね、divide できないという意味なんだよ」

「うん、わかってるよ。だから、一人一人の人間なんだろ?」 と私は面倒くさそうに言う。

「違う違う、分割できないのは、人類なんだよ。我々は、一つのファミリー以上のものなんだ。だから、一つ (whole) なんだ。結びついてる (united) んだ。So, We are individual. (だから、我々は individual なんだよ)」

"We are individual." を、「我々は (単数形の) 個人なんだ」 と訳すと、ナンセンスになる。彼は、「我々人類は、分割不可能なんだよ」 というニュアンスを訴えたかったんだろうと思う。なかなか興味深いが、それを英語でコミュニケートするというのは、とても疲れた覚えがある。

私は Ron が何か得体の知れない新興宗教にかぶれていて、私を勧誘しているのかと警戒していたから、極力まともに取り合わないようにした。

「それは、我々の考えている君たち西洋人のコンセプトとはかなり違うようだね」

「そりゃ、違うさ。我々は、大きな誤解をしていたんだ」 Ron はあくまでも大まじめに主張する。

後でわかったことだが、彼は新興宗教というよりは、東洋思想にかぶれていて、極端に個人主義に振れてしまった西洋思想からの脱却を図っていたのだった。だから、東洋人でしかも禅坊主の孫であり、なおかつ合気道なんていう 「神秘的武道?」 をやっている tak-shonai という男なら、話が通じると思ったらしい。

ところが間の悪いことに、私は変なカルトはご免だと警戒ばかりしていたので、けんもほろろに軽くあしらってしまった。今から思うと、Ron には申し訳ないことをしてしまったのである。

彼はその後しばらくして、米国に帰ってしまった。おそらく、多くの日本人は不幸なことに東洋の心を忘れてしまっていると嘆きながら。

ふいに、エキセントリックな米国人、Ron のことを思い出してしまったのは、「根元的存在のビヘイビアとしての複数」 という自分の過去ログをたまたま読み返したからである。私は、このエントリーで次のように書いている。

日本人は古来、「2人の人がいる」 とは見ずに、「人が 2人いる」 としてきた。「2人」 を別個の存在ではなく、同じ根元からの派生として見てきたわけである。

そうか、あの時 Ron の言っていたのも、このようなことだったかもしれないと、30年も経ってから思い至ったのである。複数の人間のように見えているのは、単に 「見かけ」 だけであり、根元は分けられない 「一つの存在」 なのだと。

ただ、「一つである根元」 が、その派生する仮の姿としての 「個人」 を現出させているのだとしたら、せっかくの派生なのだから、見かけ上だけでもせいぜい多様性を発揮してみるのも一興ではないかと、私は考えている。

一つの価値観だけで全てを規定するというのは、考え物だ。多元的な価値観を自由に適用してこそ、世界というのは面白いんじゃないか。それに、いくら 「多元的」 でも、根っこの部分が 「一つ」 なら、元々 「素敵な根元的予定調和」 なんだから、喧嘩にもならないしね。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

禅とか剣とか、古来の日本的思想と思うと、アタクシも東洋の心を忘れてしまっているのでしょうか?

 小僧(息子)が「りんご食べたい!」といった場合、いくつ食べたいのか、具体的に『数量』を問います。
 ここで、アタクシが思う『昔人(むかしびと)』精神なら、ハイよと応えて適当な数を剥き、「食べ過ぎるなよ」と出してやるだけのことです。
 力加減に応じた“思いやり”の気持ちです。

 振り返ってみると、小僧に数量を決めさせることで、この先見えない結果の悪い部分(食べ切れないとか…)の責任回避をしている自分を見つけます。


 日常生活で“傍若無人”な振る舞いに遭遇することは、近年枚挙にいとまがありません。
 ほんのちょっと、相手のことを思いやる気持ちを起こさせることが出来れば、『他人をドアボーイ的扱いする』とか、『列の横から割り込む』とか出来ないものと思います。(が、遭遇してしまっている…)


>一つの価値観だけで全てを規定するというのは、考え物だ。

 ホントにねぇ。アタクシは、このセンテンスを『自己中心的考え』を持つ方へのメッセージと捉えます。

 相手があって、初めて自分が機能できることを…。忘れちゃいけません。

投稿: オッチャン | 2008/02/04 13:03

「だから、分割不可能なんですよね。」

 と、最終行に入力するのを忘れてしまいました。

 この一言が肝なのに!!

(失礼いたしました…)

投稿: オッチャン | 2008/02/04 13:06

オッチャン:

私の友人に自衛隊員がいます。結構偉い立場の人です。

彼は、「最近の若い隊員の中にも、礼儀もしつけもなってない奴が多い」 と言います。
「でも、嘆くこともないんですよ。一見、箸にも棒にもひっかかりそうにないやつでも、ちゃんと教えればわかるんです。やつらは、今まで教わってないだけなんですよ」

私は、彼を偉いなあと、感嘆しています。
やつらがわかるまで、しかもわかるように教えてあげられるというのは、よっぽど人間ができてるんです。

そして、「ちゃんと教えてもわからないやつ」 というのは、「よくよくわかりたくない事情」 というのがあるようなので、無理矢理押しつけるよりも、まずその 「事情」 を解決する手伝いをしなければならないみたいです。

投稿: tak | 2008/02/04 13:31

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こんなばかな、こんなばかな! おれは、この字を天柱に書きつけて来たのに、どうして如来の指なんかにあるんだろう。こりゃ『見通し術』でも使ったのかも知れん。まやかしだ、まやかしだ。おれはもう一ぺん行って来... [続きを読む]

受信: 2008/02/04 20:45

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