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2008年3月に作成された投稿

2008/03/31

「ガソリン国会」 にもならなかったのに

1月 27日に 「ガソリン国会で何が悪い?」 という記事を書いたが、実際には 「ガソリン国会」 というほどの突っ込んだ論議もないうちに、期限切れで暫定税率が失効する。

民主党の戦術が珍しく功を奏して、ガソリンは確実に値下げになりそうだが、この先はまだまだうっとうしい話になりそうだ。

新聞の社説は、どれもみな、「政府がこれだけ譲歩したのだから、後は民主党が論議に応じる番」 というトーンで書かれているが、私個人としては、せっかくここまで来たんだから、もう暫定税率なんてものは撤廃してしまった方がいいと思っている。

あんな余計な税金があるから、地方で必要もない道路やどうでもいい施設を造り、それでもなお、「余ったお金をどうして使おうかしら?」 状態で、わけのわからない無駄遣いをしたりして、利権の巣窟になってしまっている。

そもそも環境のためにガソリンを高くしろというなら、その環境を護るために、道路も造るなという議論には、なぜかならないところがおもしろいところだ。人間のかざす理屈は、常に自分だけに都合のいい理屈である。

これからガソリンの値段は下がるだろうが、いったん下がってしまった値段はなかなか上げにくいだろう。無理矢理上げても、景気に悪影響を与えてしまい、他の税収が減ってしまって、「行って来い」 になりかねないじゃないか。

自民党が 「まず暫定税率ありき」 の姿勢のままでは、本当に政権交代が実現しちゃいそうな気がするぞ。私は決して民主党に過度の期待をしているわけじゃないが、政権交代のない社会よりはある社会の方が健全だと思っているので、どんどんやってもらいたいのである。

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2008/03/30

ハードとソフトのエクスタシー

「快感」 と一口に言っても、それには大雑把に 2通りあると思うのだ。まず、「ちょっと苦しいけど快感」 というやつ。

最近のビールの CM を見ると、「うんまぁ~!」 という感覚を表現するのに、サッポロの西田敏行にしろキリンのぐっさんにしろ、眉間にしわを寄せてエクスタシーを表現している。

先日の電車の吊り広告の件でついでに写しておいたのがこれだ。「旨い!」 という快感を表現しているのはわかるが、「くぅ~~っ!」 という苦しさが、そこにほんの少しだけ混じっている。

ここで便宜上、こういう快感を 「ハード・エクスタシー」 と名付けておこう。その代表的なものがセックスの快感だと思うのだが、ここではそうした画像を掲げるのは遠慮して、ビールの旨さのレベルにしておいた。

その一方で、「苦しさのない柔らかな快感」 というのがある。やさしく肩もみなんかしてもらうと、「ほぇ~~」 という感じで、えもいわれぬ気持ちよさに包まれる。これを便宜上、「ソフト・エクスタシー」 と名付けておこう。

「ハード・エクスタシー」 と 「ソフト・エクスタシー」 の関係は、「くぅ~~っ!」 対 「ほぇ~~」 の関係である。

で、この他に快感はないのかと考えてみると、どうも思いつかないのだ。「笑い」 を誘うおもしろさなんて、どっちでもないように思えるが、強いて分類すれば、笑いでさえも、ハードな 「お腹のよじれるような笑い」 と、ソフトな 「癒しの微笑み」 のどっちかに入ってしまうと思う。

人間は、「くぅ~~っ!」 と 「ほぇ~~」 のために生きているような気さえしてしまう。

で、自分のことを考えてみると、若い頃は結構 「ハード・エクスタシー」 を求めていた。何でも疲れるほど突き詰めてガンガンやっていた。ところが、いつの頃からか、「ソフト・エクスタシー」 派に鞍替えしてしまっている自分がいるのである。

年を取ると 「ハード・エクスタシー」 を得るほどの体力がなくなるんだという人がいる。「くぅ~~っ!」 に絶えきれなくなって、どんどん 「ほぇ~~」 方向ににのめり込んでしまうのだという。

「なるほど、一面の真理だと思う。若い頃にツェッペリンやディープパープルをガンガンに聞いていたのに、40歳や 50歳を過ぎて、最近のクラプトンの方がいいなんて言い出す人も多い。

それでも、そういう連中をそれなりの空間に連れ出してハードロックをガンガンに聞かせると、いい年をしたオッサンが驚喜してノリまくる。そして、家路を辿るときには 30年ぐらい若返ったような顔をしている。

人間、いくら歳を取っても、たまには 「くぅ~~っ!」 がないといけないようなのだ。で、私としても、年に何度かは 「ハード・エクスタシー」 で、息を切らせてノリまくる余地を残しておきたいと思っているのである。

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2008/03/29

"プロレス 「暗黒」 の 10年" を過ぎて

"プロレス 「暗黒」 の 10年" という本を一気に読み終えた。著者は元 「週刊ファイト」 編集長の井上譲二という人である。

副題は "検証・「歴史的失速」 はなぜ起きたか" という。ここ 10年で進行した日本のプロレス沈没のプロセスを、現場に最も近い場所にいた者のみが持ち得た視点で辿っている。

まず、念のために確認しておくが、著者は、「週刊ファイト」 の今は亡き 「 I 編集長」 と呼ばれた井上義啓氏とは、苗字は同じでも別人である。I 編集長の頃には、井上譲二氏は 「週刊ファイト」 の米国特派員として、なかなか読み応えのある記事を書いてくれていた。あのタイガー・ジェット・シンの自宅訪問記事を書いたのも、彼だったと思う。

「感覚のプロレス」 というコンセプトを掲げてカリスマ的な 「活字プロレス」 を創出した I 編集長とは違い、その跡を継いだ井上譲二氏は、ある意味ではとても常識的な感覚 (といっても、プロレス村での 「常識」 だが) を週刊ファイトの紙面に持ち込んでいたように思う。

プロレスが好きで好きでたまらないのに、I 編集長ほどに全人生をそれに捧げきるほどの思い入れを前面に出すことができず、むしろ、近くで細部を見過ぎたために、客観的に冷めた目を持たざるを得なかったというような、割り切れない編集スタイルだった。

そしてこれは、プロレス衰退をリアルタイムで見送った男の、哀切に満ちたレクイエムのような本である。

この本の中で、井上譲二氏は、「あの時、もし彼が …… だったら」 とか、「もう少し …… していれば」 とか、「たられば」 論法を少なからず使っている。I 編集長がよく言っていた 「引かれ者の小唄」 そのものの書き方だ。彼自身、多分わかっていながら、止むに止まれず小唄を唄っているのだろう。

今さら言っても、時計が逆回りすることなどないと知りつつ、あの血湧き肉躍るプロレスの魅力を、もう少しだけでいいから味わいたかったと言っているように思える。

ちなみに私自身は、もう大分前からプロレスには見切りを付けていて、今や 「格闘技」 に入れあげている。プロレスが衰退するのは、これはもう、歴史の必然だからしょうがない。

井上譲二氏の悲哀は、閃光のような輝きをもちながら、今では滅びの運命を辿るプロレスというメディアに最適化しすぎた、とても特殊なジャーナリズムを背負っていたものの悲哀だと思う。

プロレス向けに最適化された感性は、「格闘技」 という似て非なるものに入り込めない。目の前で見ても、その本質を伝えられない。そのもどかしさが、この本の底流に見え隠れする。

プロレスの沈滞は、もうこれはどうしようもない。さればとて、プロレスラーが格闘技に打って出ても、通用しないのである。プロレスラーは 「技を受ける」 体になりすぎているので、「技を受けない」 格闘技では、勝てないのだ。

プロレス記者にしてもそうだ。プロレスを書ける記者が格闘技を書けるとは限らない。いや、むしろ書けないのだろう。プロレス論の多くの部分は観客論だが、格闘議論は逆に実践論が重要な部分を占める。道場で受け身すら取ったことのない記者に、それを書けと言っても所詮無理なのだ。

私は、往年の 「週刊ファイト」 のような輝きをもつ格闘技専門誌紙の登場を待つ。しかしそれには、実践的格闘議論を、受け身を取ったことのない読者にもわかるように書ける力量をもった記者が育たなければならない。これは相当にむずかしい課題だ。

ああ、私がもう少し若かったら、それを書いてしまうのに。

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2008/03/28

ライセンス・ブランドの商品というもの

何年使ったんだか見当がつかないぐらい使い古した革の定期入れがボロボロになったので、この度ようやく買い換えた。

上野の丸井では 5,500円ぐらい出さないとまともなのが買えなかったが、その隣の御徒町駅近くの多慶屋では、似たようなのが 1,980円で買えた。探してみるものである。

私は定期入れに Suica だけでなく、運転免許証、健康保険証、歯科医の診察券、地元の図書館のカードなど、クレジットカード以外のカードはなんでもゴチャゴチャたくさん入れているので、薄っぺらいのじゃなく、たくさん入るのでないと困るのだ。

それで散々探したあげく、ようやく気に入ったのが見つかったので購入したのである。これまで使っていたのが、イタリアの某デザイナーのブランドがついていて、新しいのは日本人の某デザイナーの名前がついている。

とはいっても、どうせ、そのデザイナーが直接デザインしたわけがなく、ブランド使用のライセンスを受けた会社が、適当に付けているだけだ。

で、しげしげと見比べて気付いたのだが、この新旧の二つ、デザインと作りがまったく同じなのである。違うのは、エンボスされたブランドネームだけだ。いやはや、道理で気に入るわけである。今まで気に入って使っていたのと、ブランド以外はまったく同じなんだから。

もしかしたら、数年前のイタリアン・ブランドそのままのデザインのお古を、日本のデザイナーのために使い回しているのかもしれない。その程度にしか扱われていない日本の某デザイナーには、気の毒な話である。ライセンス・ビジネスなんていうのは、こうしたテキトーさが付きものである。

近頃では直輸入品が多くなったので、ライセンス・ビジネスは一時ほど多くなくなったが、それでも、靴下とかハンカチとかの小物雑貨は、デザイナーやオートクチュールの名前を付けたライセンス商品が幅をきかせている。

例えば、靴下の場合、その辺のテキトーなボリューム商品とライセンス・ブランドの商品は品質的にはどこも変わらないのである。同じ会社が同じ糸を使って、同じ機械で編んでいるだけだから、変わりようがないのだ。

じゃあどこが違うのかというと、もちろんブランド・ネームが付いていることと、そして、ちょっとだけそれらしい色合いになっているということだけである。さすがに、デザイナー・ネームの付いたライセンス商品は、悪趣味とか薄っぺらとかではなく、それなりの色遣いになっている。

あるいは、デザイナー・ブランドの靴下のまともな色を際立たせるために、ボリューム・ゾーンの靴下はあえて安っぽい、あるいは薄っぺらな、はたまた悪趣味な色を使っているとも言えそうなのである。

で、ちょっとした色合いの違いの靴下を買うために、消費者は約 2倍の金を払うのである。市場とはそういうものなのである。そして、定期入れの場合は、別のデザイナーのネーム入りで、まったく同じ商品が流通したりしているわけだ。市場とはまた、そういうものでもあるのである。

そしてそれらが、安売り店で 1,980円で売られたりしているのである。ジャスコあたりで売られているごくフツーの商品より安いぐらいだ。市場とはまたまた、そういうものでもあるのである。もしかしたら、偽ブランド品かもしれないが、市場とはさらにまた、そういうことでさえもあり得るのである。

私としては強いてデザイナーのブランドのついた品物をもちたいというわけじゃなく、気に入った商品にたまたまこのブランドが付いていたというだけのことなのである。個人的にはブランドなんて邪魔だから、ない方がありがたいぐらいのものなのだが。

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2008/03/27

信心と方便

信心深い人の中には、病気になったりすると 「神様が私に病気を与えて、私の生活習慣の至らないところに気付かせてくれたのだから、ありがたい」 なんて言う人がいる。

そんなことを聞くと、私だって決して信心がないわけじゃないが、「そんなうっとうしいことをする神様なら、いらん!」 と思ってしまう。

「神様が病気を与えてくれて ……」 みたいなことを言うのは、私の単なる印象だが、熱心なクリスチャンに多いような気がする。その敬虔さは尊敬に値するが、自分もそうなろうとまでは思わない。

人間の至らなさに気付かせるために、わざわざ病気にしてしまうというのは、全知全能の神にしては芸がなさすぎる。実際のところは、自分の生活習慣に問題があったから、自然の摂理として、自分で勝手に病気になったというだけの単純なことである。

病気の製造元を神様に帰すのは神様に申し訳がなかろう。神様はきっと 「おいおい、わしはお前を病気にした覚えなんかないぞ」 と言うに違いない。

しかし、この誤解もケース・バイ・ケースである。「自分のこれまでの至らなさに気付かせていただき、既に気付いたのだからありがたいことで、この病気もすぐに治る」 と信じて療養すれば、悲観しながら医者にかかるよりも、ずっと治りが早いだろう。

感謝の心に満ちたポジティブな想念を持つ患者が、悲観的な患者に比べて病気の治りが早い傾向にあるというのは、身近な経験知だけでなく、いくつかの調査でも実証されている。

「神様が病気を与えて ……」 というのは、方便というものである。方便というとなんだか軽く聞こえるが、法華経のなかには 「方便品」 という重要な記述があって、なかなか奥が深いのである。ここで論じると長くなるので、こちら をご覧いただくと、糸口にはなる。

方便というのは人間を究極的真理に導くための門のようなものと思えばいい。ということは、方便は便利だが、それ自体は真理ではないのである。そして、真理ではないが、まんざらでたらめというわけでもない。

古き良き時代には、かなりテキトーな方便でも、要するに 「ありがたい」 とさえ思わせてしまえばこっちのもので、病気もひどくならずに、たいした問題もなくことが済んで、丸く収まっていた。ところが、今の世の中はなかなかうっとうしいことになっている。

「人の至らなさに気付かせるために病気を与える神」 の代理人、あるいはその神そのもののような顔をして、信心をぼろい商売にしてしまう者が後を絶たないのである。何しろ病気というのは信心の入り口みたいなものだから、あそこが痛い、ここが苦しいと言っている人に神懸かり的なことを言えば、イチコロなのだ。

今の世の中に生きる我々は、用心しなければならない。方便は方便として、そのからくりを理解した上で、その方便のいいところを抽出して有効活用するほかない。実はそれこそが方便の肝要で、これができないと、方便が迷信に堕落してしまう。

一応、「ありがたさ」 がいいらしいということはわかる。しかしその一方で、「病気を与える神」 は単なる方便の産物で、下手するとうっとうしいことになるということも理解しなければならい。

となれば、要するに、「ありがたさ」 だけ残して 「病気」 は忘れればいいのである。「病気を与える神」 を否定するあまり、「ありがたさを教える神」 まで否定しては、「羮に懲りて膾を吹く」 ということになる。

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2008/03/26

吊り広告の 「画像を裏切るテキスト」 など

昨日地下鉄の吊り広告を眺めているうちに、「テキストを裏切る画像」 というものがかなり多いということに気付いた。

また、「画像を裏切らないが、意味を裏切るテキスト」 というのも発見した。テキストの矛盾を画像が解決しているのである。さらに、「現実を裏切るテキスト」 というのもあった。

「テキストを裏切る画像」 の中の典型的なものは、読売ウィークリーの広告であった。トップ記事が "東大・京大 「合格力」 「現役力」 ランク" というものだが、表紙の写真があの長嶋一茂氏である。

いや、長嶋一茂氏に含むところは何もない。悪印象を抱いているわけでも、嫌いというわけでもなんでもない。ただ、「東大・京大」とか、「合格力」 とか 「現役力」 とかいうテキストを裏切る要素を、ひしひしと感じたというだけのことである。

ある意味、それはとても見事な裏切り方で、そのそぐわなさ加減が一つの表現として、「なかなかやるな」 とさえ言えるほどのレベルに達しているのではあるが。

そして、その吊り広告のちょっと先に見えたのが、雑誌 「JJ」の吊り広告だ。"ゴシップ・ガールの 「大人・ガーリー」 宣言" とある。これこそ、「画像を裏切らないが、意味を裏切るテキスト」 というものである。

とりあえず、「大人・ガーリー」 って何なんだ?

ちなみに、「ガーリー (girlie または girly)」 とは、「ガール (girl)」 の形容詞ではない。「少女らしい」 という形容詞は、"girlish" である。

「ガーリー」 は、「お嬢ちゃん」 というような意味合いらしい。さらに、形容詞になると 「若い女のヌードを売り物にした」という意味になるようだ。下手すると、「ガーリー」 は 「ガーリッシュ」 よりエロっぽくなる。ただし、アスペクト社の 「Girlie」 という雑誌は 「サブカル系の女の子雑誌」である。

で、要するに、テキストだけでは 「大人・ガーリー」ってよくわからないが、その隣にいるおねえちゃんの写真画像をみれば、「ふぅん、なるほど、こういうのね」とわかることになっている。少なくとも、こういうのを 「大人・ガーリー」 であると言いたいわけなのねということは伝わる。

前述の如く、テキストの矛盾を、画像が解決している。かなり無理矢理な力技ではあるが、画像とはまことにも大したものなのである。

で、最後に、「現実を裏切るテキスト」 の登場だ。某サラ金会社の広告である。

"I am a HERO." とある。ご丁寧にも、「ヒーロー」 がすべて大文字だ。「俺は、(大文字の) ヒーローだ!」 ということなんだろうが、果たして、ヒーローがサラ金から金を借りるんだろうか?

もしかしたら、破天荒なヒーローで、金を借りまくってもヒロイックな活躍をするのかもしれないが、写真はどうみても普通のおにいちゃんである。テキストと、その意味と、画像が、すべて裏切りあっている。なかなか珍しい三すくみ広告である。

こうしてみると、吊り広告というのはなかなか面白いものである。

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2008/03/25

やるじゃないか、E-mobile

先月 26日に 「モバイル・ブロードバンドを始めた」 という記事で、@Nifty Mobile BB 即ち E-mobile を始めたと書いた。

この時、「あとは、私の実家のある山形県庄内地域がカバーされるのを待つばかりなのだが ……」 と、悲観的に書いてしまったが、実はもうそろそろつながっちゃいそうなのだ。

先月、もののはずみというか、単なる勢いというか、あまり深く考えずに @nifty 経由で E-mobile の定額データ通信に乗り換えてしまった。

E-mobile は、当初は三大都市圏しかカバーしておらず、ちょっと郊外に出ると圏外になってしまうというので、敬遠していたのだが、今や、人口比で 50%以上をカバーしているので、案外快適である。

なにしろ、つくばの片田舎の私の自宅でさえカバーされているのだから、B-フレッツが何かの障害でストップしてしまっても、安心だ。それに、常磐線の電車で移動しながらでも、かなり快適につながるので、移動中のブログ更新が楽になった。ありがたいことである。

ただ、カバーエリアが拡大したといっても、大都市圏だけで、あとは地方の県庁所在地をちょこちょこっとカバーしているのみ。とくに山形県なんか、山形市のほんの一部だけで、私の実家のある酒田市なんか、全然ほったらかしにされていたのである。

だから、実家に帰ったときはアナログのダイヤルアップでインターネットにアクセスしなければならないだろうと、覚悟していた。さぞかしストレスがたまるだろうと、うんざりしていたのである。

もしかしたら、b-mobile のプリペイド式 128kbps の端末を申し込んでおかなければならないかと、うっとうしい思案をしていたのだ。E-mobile の 高速さに慣れた身には、さぞ遅く感じられるだろうと。

ところがここだけの話、昨日秋葉原のヨドバシカメラの E-mobile ショップで得た情報によると、今年の 4月には、カバーエリアがどっと拡大して、人口 10万規模の都市がずいぶんカバーエリアに入ってしまうようなのだ。

インターネットの公式サイト (参照) ではまだ公表されていないが、ショップで見せてもらったカバーエリアの地図では、酒田市がきっちりとピンク色に塗りつぶされていた。「これは 4月時点でのカバー予定ですが、もしかしたら、もう既にカバーされてるかもしれませんよ」 なんていうのである。

私は今年の 5月に母の法事で帰郷しなければならないのだが、この時点ではばっちりとモバイル・ブロードバンドができそうなのである。やるじゃないか、E-mobile。

E-mobile の公式サイトで発表されたカバーエリアをみて、「ウチの地域はまだかなあ」 なんてイライラしているよりも、一度ショップに行き、4月の予定カバーエリアを見せてもらって、安心するといい。

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2008/03/24

脳内オーディエンスを育てるには

ちょうど 1週間前に書いた 「脳内オーディエンス」 という記事が、いくつかの個人ニュースサイトで紹介されて、木曜、金曜あたりに、いつもよりちょっとだけアクセスが増えた。

一見マニアックすぎるみたいな感じのテーマだが、結構いいところを突いた話だと思う。ネタ元の漫画家、浦沢直樹氏に感謝である。

ざっと言ってしまえば、浦沢直樹氏は自分の 「脳内オーディエンス」 に向かって漫画を書くと語っていたということである。子どもの頃から、自分の書いた漫画をクラスの 40人に見せるよりも、自分の脳内の 100万人に見せる方が良かったというのだ。

私はこの記事を、「一流というのは、脳内に一流のオーディエンスを持っている人のことを言うようなのだ」 と結んでいる。しかし、たったこれだけで結ぶのは、いかにも舌足らずだという気がする。

で、あれからさらにわかったのは、「脳内オーディエンスは、育てることができる」 ということだ。最初から自分の中に一流オーディエンスを飼っているやつなんて、そんなにはいない。

脳内オーディエンスを育てるには、やはり常にいい情報を与え続けることしかない。いい情報には、もちろん他人による一流の作品も含まれるが、自分でも常に作品を作り続けることだ。そうでないと、自分の脳内オーディエンスが自分用のオーディエンスになってくれない。

自分が自分の脳内オーディエンスを育て、そうして育てられた脳内オーディエンスが、今度は自分を育ててくれる。不思議なフィードバック関係である。

脳内オーディエンスは、自分の中の 「他」 ではあるが、それを認識するのは自分の感覚でしかない。それは、録音した自分の声を聞くようなものだ。録音した自分の声を聞くと、誰でも最初は絶えられないほどの違和感、それも恥ずかしい違和感に襲われる。

それでも自分の声を自分で聞かなければならない。そうでないと、脳内オーディエンスが自分のオーディエンスになってくれない。

たまたま 「録音した自分の声」 を引き合いに出したが、自分の作品、原稿、何でも同じようなものだ。それはまた、写真にも似ているかもしれない。

自分のみた風景は、実は外界そのままではない。脳内で相当な解釈を加えて自分流に作り上げた映像である。自分のみた風景を写真に撮ってみて、そのあまりのイメージの違いに驚くことがある。

人間というのはえてして、自分の印象の方が正しいと思いがちだが、印象というのはかなり勝手な解釈を加えたものだから、実は写真の方が現実に近かったりする。だから、写真というのは、それもいい写真というのは、見れば見るほど新たな発見があるのだ。

人間というのは、自分になったり他者になったりすることができる。自分の中の印象に止まるだけでなく、録音された声を聞いたり、撮影された写真をウォッチすることができる。それは、直接録音しなくても、写真に撮らなくても、メタファーのレベルで可能だ。

時々は 「他者になる」 ことで、人間はどうしようもないエゴイズムから離れることができる。これのできない人は、傲慢な人というしかない。気の毒なことに、脳内にちゃんとしたオーディエンスのいない人である。

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2008/03/23

日付の変わる前に

土日も仕事。日曜の夜 8時過ぎに帰宅して、気絶のような眠り。ふと気付くと、11時半になっている。

ありゃりゃ、"Today's Crack" の更新どころか、風呂にも入っていないじゃないかと、ふらふらと起きあがる。とりあえず、更新だけはしておこうと、PC の前に座る。

とはいえ、もう日付の変わる 10分前だ。ネタなんて、なんの準備もしていないし、何を書いたらいいんだ?

なんて思っていると、このコラムを書き始めた頃のことを思い出す。今のように気取ってまとまったことを書こうなんて意識は、あまりなかった。適当なことを12~3行書き連ねていただけだったような気がする。酒を飲んで酔っぱらったまま、わけのわからんことを書いて、はい、おしまいなんてこともあった。

ふぅむ、そういえば、あの頃は 「コラム」 なんて言っていて、「ブログ」 なんて言葉すら知らなかった。いつの間にか 「ブログ」 を書いているような気がしてしまって、ヘビーなことを書かなきゃみたいな錯覚に陥っていた。

ここらで、意識を変えてみようかな。

というわけで、今日のところはこれでおしまい。そうでないと、日付変わっちゃう。これから、風呂に入ろう。

【後日追記】

このエントリー、寝ぼけ果てていて、この日の更新はちゃんと日付の変わった直後にしてあるのに、していないと勘違いして翌日になる直前に書き込んだもののようです。

おぉ、恥ずかし。削除はしないまでも、本宅の目次には入れないでおきます。

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「亡命政府」 の意味を直視すると

RNN 時事英語辞典 3月 18日付に、「亡命政府」 の英語が出ている。 "Government-in-exile" というのだそうだ (参照)。

「エグザイル」 なら、今の若い子なら誰でも知ってるだろうが、亡命政府のことを 「エグザイルの政府」 (追放中の政府) というなんて、ちょっと意外かもしれない。

日本語では一口に 「亡命」 なんていうが、これ、翻訳にはちょっとやっかいな言葉なのだ。何しろ、英語に 「亡命」 という日本語にきっちりと相当する元があって、それの翻訳語として 「亡命」 という日本語を作ったというわけじゃないらしい。こんなケースでは、英語に翻訳しにくいことが多い。

試しに Goo 辞書の和英辞典で 「亡命」 を引くと、「(a) defection;  《政治的》 political asylum.・~する seek [take] refuge ((in Japan)).  亡命者 a (political) refugee; an exile.」 などと出てくる。少なくとも、defection, asylum, refuge, exile という 4つの言い方がある。

それぞれをさらに英和辞書で引き直すと、次のようになる。

  • defection: n. 亡命; 変節, 脱党[会].
  • asylum: n. 養育院; 〔古〕 精神病院; 収容所; 一時的避難所, 逃げ場所 (refuge); 【法】亡命者保護
  • refuge: n. 避難(所), 保護; 隠れ家, 逃げ場所; 急場の助けとなる物[人,口実](など); (妻が夫の家庭暴力から逃れるための)駆け込み寺(的施設); 〔英〕 (街路の)安全地帯.
  • exile:  vt. 追放する ((from, to)); 流刑にする.  exile oneself (他国に)亡命する. n. 追放, 流刑(の地); 追放人, 流人(るにん); 亡命(者); 放浪者.

要するに、日本語で 「亡命」 というとなんとなくもっともらしい響きがあるが、英語では、「避難」 とか 「追放」 とかとの厳密な区別なんかないみたいなのである。

MSN エンカルタ百科事典でも、次のように述べられている。

英語の refugee は 「亡命者」 とも 「難民」 とも訳されるが、大量の場合を難民とし、単独の場合を亡命としたり、個々の事例における庇護の付与を亡命とするなど、扱いは多様で、移民、難民、亡命のおのおのを画然と区分けすることは困難である。

事実、国連の 「難民の地位に関する条約」 (難民条約) では、上記した政治的、宗教的、人種的迫害により本国をのがれている人々を難民としており、亡命との区別はない。また自然的、経済的理由で流出する人々を条約では難民の規定にいれておらず、その点からも亡命と難民は同一のものと理解される。

ふぅむ、日本語の 「亡命」 というのは、近代において、悲壮感とロマンチシズムにまみれた結果、ちょっとだけかっこいいかもというようなイメージまでついちゃったみたいなのだ。やはり日本は地続きの隣国がないから、「亡命」 とか 「難民」 とかいうのがピンと来ない。

日本人の多くは、財産持って大威張りで逃げるのが 「亡命」 で、食い詰めて逃げるのが 「難民」 だと思っている。現実の 「亡命」 は 「難民」 と区別つかない悲惨なものであるにもかかわらず。

いずれにしても、明治の男は政治的亡命をするぐらいなら腹を切ったし、いくら食い詰めても、日本に残る方がまだ飢え死にしなくて済むから、現実感がない。外国に逃げるのは、せいぜい、やばいことをして高飛びする時ぐらいのものだ。

ちなみに、本来は区別つけられないものを、日本語では区別しちゃってるというのに、「博物館」 と 「美術館」 がある。英語では両方とも "museum" だ。日本語でいうところの 「美術館」 は、"museum of art" なんていうケースが多い。「芸術の博物館」 といったところだ。

それにしても 「亡命政府」 なんていうとちょっと曖昧になってしまい、事態が直視できなかったりするが、より直接的に言えば、ダライ・ラマは 「追放の身の政府」 の代表なんだな。

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2008/03/22

なんで 「新東京タワー」 じゃいけないの?

東武鉄道が新東京タワーの名称公募を開始したというニュース (参照) で、「新東京タワー株式会社」 って、東武鉄道が出資しているのだと、今頃になって初めて知った。

有識者による 「新タワー名称検討委員会」 が選定した 6つの名称案だが、これはまたお約束のように、はなはだ評判が悪い。

そもそもこの種の名称を、「何とか名称検討委員会」 みたいな組織が決定すると、大体において評判が悪く、下手すると誰も使わないということになりがちである。その最たるものは、JR 東日本の 「E電」 だ。

今や、JR の駅構内にさえ 「E電」 という表示は皆無になった。完全に捨て去られたと言っていい。以前にも書いたが、小林亜星氏がもし文化勲章をもらえなかったとしたら、それは一重に 「E電」 という名称を決定した委員会の代表なんか務めた汚点によるだろう。

後楽園ドームの 「ビッグエッグ」 なんかも、あまりにも取って付けたようで、今ではほとんどの人が覚えていない。

さて、今回の新東京タワーの名称案は、以下の通りである。

  • 東京EDOタワー
  • 東京スカイツリー
  • みらいタワー
  • ゆめみやぐら
  • ライジングイーストタワー
  • ライジングタワー

いずれも、なんだかセンス悪いなあという感じの案だ。

「東京スカイツリー」 なんて意味わからんし、想像力でおぎなってやると気持ち悪い。「みらいタワー」 は言うもこっ恥ずかしい。「ゆめみやぐら」 は、都営地下鉄大江戸線につけられた愛称 「ゆめもぐら」 の失敗の轍を踏む悪夢になりそうだ。

「ライジングイーストタワー」 は長すぎてかんじゃいそうだし、「ライジングタワー」 も言いにくい。結局のところは、一番無難な線の 「東京 EDO タワー」 で決まるんだろうなあ。他の 5案がひどすぎるから。

それにしても、なんで 「新東京タワー」 じゃいけないんだろう。会社の名前にまでなっているというのに。

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2008/03/21

チベット騒乱はなかなか難しい

チベット騒乱を、我々はどう捉えたらいいのかわからないでいる。ロイターは、「西側諸国が中国政府の対応を声高に非難する姿勢はさほど見られない」 と伝えている (参照)。

「中国経済の影響力の大きさが暗に示される形になった」 というのだが、これは、我々が中国共産党と同じ穴のムジナという意味だ。

西側社会は原則的に経済的アドバンテージを追う。経済大国となった中国との関係を悪化させたくはない。しかし、そうした姿勢でいる限り、我々は根本的に中国共産党と大差ない地平でのらりくらりしていることになる。

我々は経済的に豊かな暮らしをしたいと思っている。経済的に豊かならば、神や仏は二の次ということだ。それに対して、チベット人は自らの文化であるチベット仏教を守りたいとして、経済発展の方を二の次だと考えている。

とまあ、こう書けばちょっとした美談になりかねないが、現実はそういう話ばかりではないだろう。

騒乱を起こした者の中には、自らの固有の文化を尊重したいというセクターもあるだろうが、その尻馬に乗って漢民族系の商店の打ち壊しに走った群衆には、単に経済格差による欲求不満のはけ口を求めた者も多いだろう。

ダライ・ラマの指摘するように、中国共産党はチベットの貴重な文化 - それは多くの部分をチベット仏教という基盤の上に存在するのだが - を破壊しようとしており、チベット人はそれに対して強い反感を示している。

それは確かだ。どんな民族でも、自分たちの文化をないがしろにされれば、怒りの炎を燃やす。しかし、そうした文化破壊への怒りだけでは、大規模な騒乱にはなりにくい。人々が破壊行動に出るのは、経済的な不満爆発によることの方が圧倒的に多いものだ。

文化破壊は目に見えにくいが、経済格差は一目瞭然だ。人間は嫉妬によって突き動かされる。

世界に 「親中派」 と呼ばれるセクターは多いが、彼らは要するに、近い将来に世界最大の経済大国となることが確実な中国と、いい関係を築いておこうというだけのことである。中国共産党の非民主的な姿勢を支持しているわけじゃない。それだけに、こうした経済最優先の姿勢には、ある種自己嫌悪の情がつきものだ。

ダライ・ラマの高邁な仏教思想は、掛け値なしに尊敬に値する。彼を守るためなら、国際世論も動くだろう。しかし、チベットで騒乱を起こしているすべての人々が、ダライ・ラマの理想主義を仰いでいるという保障はない。

世界の精神主義を掲げるセクターとしても、固有の文化を守りたいんだか、経済格差に腹を立てているんだかわからないチベット人とは、100パーセント安心して手を組めないというところもある。それほどのリスクを負うほどには、思い切りがない。

図式的に言えばチベットと最も近い立場にいるのはイスラム社会なのだろうが、チベット仏教は彼らが唯一絶対の信仰対象とするアッラーではない生き仏を信仰対象とする。この一点だけで、彼らの管轄範囲ではなくなり、共闘できない。

というわけで、チベット問題は、世界がなかなかストレートな行動に出にくい特殊なファクターを、あまりにも多く含んでいる。

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2008/03/20

ATOK はとても使いやすいんだけど

ノート PC を新しく買い換えて、IME を ATOK にした。自宅仕事場のデスクトップは元々 ATOK だが、ノートの方は HD 容量の関係でずっと MS-IME のままだったのである。

やっぱり根がアメリカ人の MS-IME と比べると、ATOK の使い心地はいい。余計な金を払うだけの価値はある。

ただ、それでもうっとうしいところはある。その筆頭は、単語登録した辞書ファイルの扱いにくさだ。

新しい PC に、既存の ATOK 登録単語辞書を移し替えようとすると、いつも戸惑っていらいらしてしまう。MS-IME だったら、DIC ファイルをコピーすればいいだけなのだが、ATOK の場合は手続きがやたら複雑なのだ。

元の PC で、ATOK の 「辞書ユーティリティ」 から登録単語の一覧をテキストファイルで出力し、それを新しい PC に読み込ませなければならない。しかも、読み込ませる際には単に新しい辞書ファイルを指定してやればいいというのではなく、「辞書合併」 なんていうわかりにくい手続きを踏むことになる。

「辞書合併」 なんて言ったって、まっさらの PC なんだからそこに新しい登録単語なんて 1つもない。1つもないところに、これまで使ってきた登録単語辞書を 「合併」 させるのである。なんだかなあ。

ここで躓いてしまって、これまで培ってきた登録単語を新しい PC に移し替えるのを諦めてしまい、最初から手動で登録し始めたという人もいる。さらに、ATOK を放り出して、MS-IME に戻ってしまったという人もいる。

そういえば、私が前のノート PC で ATOK を使わなかったのは、ハードディスク容量の問題もあるけれど、ユーザー辞書を移し替えるのが面倒くさくて、ついずるずると MS-IME を使い続けてしまったということもあるように思う。

ATOK をまっさらの状態から始める人なんて少数派で、多くはずっと使い続けている人なんだから、新しい PC にインストールするときにも、ウィザードで既存の登録単語をサクサクっと読み込んでくれるようにできないかなあ。

ATOK のユーザー辞書管理がもっと簡単になれば、ユーザーももっと増えそうな気がする。

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2008/03/19

比叡山の頂きに至る道

夏目漱石の 『虞美人草』 という小説は、2人の男が京都から比叡山目指して登って行こうとする描写から始まる。

「随分遠いね。元来どこから登るのだ」 と片方が問えば、もう片方が 「どこか己にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」 と答える。

先日比叡山延暦寺に初めて参拝して、この小説の冒頭が、延暦寺そのもののメタファーのように思えてきた。「どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」

今は京都の八瀬と志賀の坂本からケーブルカーで登れるようになっていて、とても楽になったが、漱石の頃には足で歩いて登るしかなかった。なかなかの骨折りである。しかしそれだけに、いくつかある登り口の、どこから登るのも自由だった。

延暦寺は、唐で天台教学、戒律、密教、禅を学んで帰朝した最澄の開いた寺で、当時の最高の学問を学ぶことができた。要するに平安時代の総合大学のようなものだった。それだけに、比叡山からは後の鎌倉仏教の大スターたちが輩出した。

踊り念仏の空也、浄土宗の基礎を築いた源信、京都大原に来迎院を建て、声明を大成した良忍、浄土宗の開祖である法然、その志を継いで浄土真宗を開いた親鸞、禅宗系では、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元。

さらに法華教の日蓮、その他にも、時宗を開いた一遍など、日本仏教のメジャーとして今の世にも大きな影響力を持つ宗派の開祖が輩出している。これほど大きな影響力をもった寺は、他にないだろう。

比叡山に詣でてみると、そこには阿弥陀信仰、法華経信仰、禅のファクターがきちんと存在しているのがわかる。根本中道には、さすがに密教らしい大日如来像があり、さらにその近くに立派な阿弥陀堂がある。

阿弥陀堂だけを見れば、まるで浄土宗系の寺と見まごうばかりだ。私は浄土真宗の家に生まれたせいか、阿弥陀如来像の前だと、いくら座っていても退屈しない。先日は時間がなくてゆったりとしている暇がなく、残念なことだった。

多くのファクターが渾然一体となって、比叡山というエリアを形成している。日本仏教の源みたいなところだ。それだけに、念仏という登り口から登っても、あるいは、法華経、禅という登り口から登っても、確かに比叡山の頂には辿り着けるのだろう。なるほどと思う。

しかしよく考えてみると、山の頂というのは、遠く離れたところからなら明確に眺められるが、いざ山道に入ってみると、視界から外れてしまうのである。山道を登っていると、ただひたすら高きに近付いているという感覚はあるものの、昇り着く頂が何の山だかわからなくなるのだ。

下手したら、とんでもない魔境に行き着いてしまうかもしれない。それだけに、先達は必要なのである。少なくとも信頼の置ける標識がないと、まともな頂には辿り着けない。

わけのわからないカルトには、近付かない方がいいということである。

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2008/03/18

嘘の臨界点

嘘というのは、一度言ったら言い通さなければならない。そして、さらに嘘を重ねて塗り固めなければならない。

チベット問題に関する中国政府の公式アナウンスが、真っ赤な嘘であることはバレバレなのだが、それに固執するために、さらに多くの嘘を言わなければならなくなる。

中国はもはや経済大国である。中身がどんなにゴチャゴチャであろうとも、中国の動向を無視しては世界経済は語れない。それだけに、以前はチベット問題なんて世界の果ての出来事だったが、今では重大問題になってしまった。

中国にとってのチベット問題は、「家庭の事情」 なのだからほっといてくれということなのだろうが、経済大国の中の騒動だけに、そういうわけにもいかない。有名人の家庭問題が、週刊誌の注目記事になるようなものだ。

有名人が体面を取り繕うために、家庭問題を隠そうとして嘘をつけばつくほど、その矛盾は拡大して、臨界点を越えたときに、一気に内部から崩壊してしまう。チベット問題にしても、それと同じような経路を辿るだろう。

誰が見たって別の国である台湾を、自国の一部だと言い張り、貴重な文化をもつチベットをずたずたにしようとする。それもみな、「大国の体面」 を守ろうとするためである。この体制を維持するために、中国はこれからもバレバレの嘘をつき通さなければならない。

それによって得られるアドバンテージよりも、失うものの方がずっと大きいことに、中国は気付いていない。

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2008/03/17

脳内オーディエンス

昨日仕事先からの帰り道、カーラジオを聞いていたら、タレントの伊集院光の番組に漫画家の浦沢直樹さんが出ていた。この人、なかなかおもしろいトークをする人である。

中でも一番興味深かったのは 「脳内オーディエンス」 という言葉だ。彼は自分の脳の中にいる読者のために漫画を描くのだそうだ。

彼が言うには、小学生の頃に漫画を描いている子はクラスに何人もいた。自分で描いた漫画を友達に見せている子供もいたが、そういう子はなぜかプロの表現者にはなっていない。自分はその頃、ほとんど自分のためだけに描いていて、せいぜい気の合う 2~3人にしか見せなかった。

「引き籠もりといえば言えるけど、クラスのせいぜい 40人に見せるよりも、自分の中の100万人に見せる方がよかった」 という。彼はそれを 「脳内オーディエンス」 と表現し、番組ホストの伊集院光もそれにいたく共感した。

伊集院光の言うには、ラジオの生放送で 「あ、今すごく受けてる」 と直感することがあるそうだ。スタジオの中にいて、聴取者の反応が直に伝わるわけでもないのに、とてもリアルに直感する。それは、自分の 「脳内オーディエンス」 に受けていたわけだ。

芸術家と職人の違いが話題になることがある。しかし、芸術家も職人も、オーディエンスに受けようとして作品を作ることに変わりはないようだ。そのオーディエンスが、自分の脳内により多くいるか、ほとんどが市場に 「他」 として存在するかだけが違うのかもしれない。

そして、一流になると芸術家でも職人でも、自分の 「脳内オーディエンス」 の方により忠実であろうとして作品を作るんじゃないかと思う。一流というのは、脳内に一流のオーディエンスを持っている人のことを言うようなのだ。

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2008/03/16

関西はヘビーである

いつも思うのだが、関西の人間は東日本の地理を知らない。いや、決して全ての関西人がというわけじゃないが、多くの関西人は、東日本にあまり興味がなさそうなのだ。

さすがに東京と横浜は知っていても、千葉市になると、もう怪しい。ましてや、宇都宮だの高崎だのになると、かなりあぶない。

しかし、それも無理からぬところだろうと思うのである。何しろ、向こうは 「上方」 である。東京が日本の首都になってから、まだ 150年経っておらず、それまではずっと向こうが日本の中心だったのだ。箱根よりこっちは、「東国」 という名の辺境だったのである。

先日、比叡山参詣のために、米原から琵琶湖を半周した。近畿の一番東側である。それでも、何だか馴染みのある地名がごろごろしている。そこらじゅう、日本史で習った歴史的地名なのだ。

だから、関西というところは、初めて訪れてもなんとなく基礎知識はあったりする。そこがどんなところか、おぼろげながら知っていたりするのだ。源氏物語や徒然草や方丈記や太平記に出てくる地名だらけなのだから、東北生まれの私なんぞは、完璧に 「お上りさん」 である。

こんなところで暮らしていたら、山形と秋田のどっちが北にあるのかなんて、どうでもいいような気がするのも当然である。我々がバルト三国を北から順に言えと言われて、ぐっと詰まってしまうようなものだ。

京都人の中には、天皇陛下の本来のお住まいは京都御所で、今はたまたま江戸の別荘でお暮らしになられているだけやと主張する強者がいる。彼らにとっては、その背後にはすぐに蝦夷地という飛び地があり、そこに行く廊下が東北だということのようなのである。

そのくせ、関西人にとっての九州は、割と身近な土地のようなのだ。これは、九州出身者が関西にかなり多いことによると思われる。さらに言えば、日本書紀の昔から、北九州と畿内とはかなり密接な関係にあった。邪馬台国が北九州だったという説が有力だし。

とにかく、東北の片田舎生まれの私は、関西を訪れるたびに、その歴史の重さに圧倒されるのである。さらに、その風土の中に潜む万葉の昔からの業の深さにも、鳥肌経つ思いがすることもある。

その点東北人は、精神的にはとても身軽である。

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2008/03/15

ノート PC を更新

さんざん悪口を言ってきた Vista を使うことになってしまった。昨日の記事で書いたように、これまで使っていた Let's Note がおシャカになり、新機種に買い換えたためである。

出張のついでに寄った比叡山延暦寺の参拝を昼過ぎで切り上げ、大急ぎで帰ってきて、秋葉原のヨドバシカメラに立ち寄った。

モバイル PC として持ち歩くためのものなので、やはりこれまで使って慣れ親しんできた Let's Note の最新機種を選ぶ。CF-W7 という機種で、CPU はインテルの Core Duo 1.2GHz、HD は 80GB である。RAM は標準で 1GB のところを、2GB に増設した。

それでも、MS オフィスは抵抗して、2007 ではなく、2003 である。デスクトップで使っているバージョンで、自分の PC 2台までならインストールできるので、これにした。2007 は、インターフェイスがずいぶん違っているようなので、面倒だ。

それにしても、新しい PC を自分用に設定するのは、一仕事である。家を引っ越すようなものなので、当然といえば当然だ。

帰宅してからずっとかかりっきりだが、オフィスと Norton 360 を入れて、データを移し替えているうちに眠くなってしまった。昨日は比叡山の山歩きをしたのだから、これまた当然である。

明日は朝から出かけなければならない仕事がある。設定作業は、下手したら明後日までかかりそうだ。ふぅ。

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2008/03/14

Let's Note は寿命が来たらしい

昨日、いつも持ち歩いているモバイル・ノートの調子がおかしいと書いたが、その不具合はいよいよ高じてしまい、全然まともに起動しなくなってしまった。

奇蹟のように、たまたまうまく起動してもノートンのセキュリティソフトが全然動かないのだ。これでは危なくてメールも受け取れない。

OS もところどころ壊れているみたいだが、Windows に自己診断させてみると、RAM がいかれている可能性が高いという。それならばと、増設した RAM を取り外して起動させようとしたが、今度はうんともすんとも言わない。どうやら、いかれてしまったのは、本体付属の方の RAM のようだ。

というわけで、私がこれまで愛用してきた Let's Note も、寿命がきてしまったのである。たとえ RAM や OS がいかれなくても、ハードディスクの容量不足で、近頃難儀していたのだ。HDD を交換しようともしたが、規格の合うのがなくて諦めていたのである。

私は、自宅の仕事場では Dell のデスクトップを使っているが、仕事柄出歩く必要があり、外出先ではずっと Let's Note を使ってきた。一日の使用時間を比較したら、もしかしたら、デスクトップよりも長時間動かしているかもしれない。

このマシンは、平成 15年 12月に購入した。だから、4年と 4ヶ月間使ったことになる。思えば、私はこれまで、大体 4年以内で PC を買い換えてきたから、これはこれまでで一番付き合いの長い PC だと思う。

この 4年と 4ヶ月の間、国内では、北は岩手県盛岡市から南は沖縄県那覇市まで、この Let's Note をどこにでも連れ歩いた。、最も遠くでは、ニューヨークまで連れて行った。それだけに愛着のあるマシンだが、仕方がない。パソコンとは、いつか壊れるものである。

今日はこれから出張だが、PC を持たない出張なんて、10数年振りである。旅先でのブログ更新は、多分できないだろう。この Today's Crack は、土曜日の分は帰宅してすぐに更新できるが、和歌ログは、2日分まとめて更新せざるを得ない。

土曜日の比叡山めぐりは早めに切り上げて、夕方のうちに東京に着き、新しいノートパソコンを買って帰るつもりである。ああ、生きていくとは、金のかかることである。

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2008/03/13

XP を SP2 にしたけれど

いつも持ち歩いているモバイルノートの具合が、近頃おかしいのである。起動しようとすると何度もブルースクリーンになり、なかなか通常のデスクトップにたどり着かない。

3度か 4度繰り返すとようやく普通に立ち上がり、「システムは深刻なエラーから回復しました」 なんて表示が現れる。

この不具合は、OS を Windows XP の SP2 (Service Pack 2) にしてからだ。近頃、モバイル・ブロードバンドを始めるために E-Mobile を使い始めたのだが、このデータ通信デバイスが、Windows XP の場合は SP2 以後のバージョンでないと作動しない仕様なのである。(もしかしたら、建前だけかもしれないが)

私のモバイル・ノート、"Let's Note" は、Winsows XP が SP2 になる以前のバージョンである。で、SP2 が世の中に出てきて、バージョンアップを勧められたが、私は頑としてそれを拒んできた。

私はマイクロソフトをそこまで信用していないのである。Windows を途中でバージョンアップなんかしたら、具合が悪くなるに決まっている。それは過去の経験から学んでいるので、確信に近いものがある。それに、セキュリティはノートン博士に任せてるし。

ところが、E-Mobile の仕様のために、このほど嫌々ながら SP2 にバージョンアップしてしまったのだ。SP2 をダウンロードしてインストールするだけで、2時間近くかかった。それも、インストール完了の表示が出る直前に、フリーズしてしまった。

再起動したら、「マイコンピュータ」 の表示が SP2 になっていたので、OK だと思って使い始めたのだが、それからやたらと起動に手間がかかるようになった。そして、近頃、起動の途中で何度もブルースクリーンになるのだ。何度チェックディスクをかけても修復されない。あのインストール完了寸前のフリーズが、後々になって糸を引いてるのかなあ。

実は、このエントリーの更新も出先でノートパソコンを使ってやっているのだが、とにかくまともに起動するまで手間がかかる。うららかな春の陽気のせいで、途中で眠りそうになってしまう。

というわけで、私の 「Windows を途中でバージョンアップしたら、具合が悪くなるに決まってる」 という私の確信は、さらに補強されてしまったのだ。

これはもう、Windows の再インストールをするか、SP2 へのバージョンアップをやり直すしかないのだろうか。PC というのは、めちゃくちゃ便利なツールだが、ちょっと間違うとめちゃくちゃ面倒なことになる。

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2008/03/12

確定申告をサボったら国の思うツボ?

今年は 3月 15日が土曜日なので、確定申告の提出期限が 17日なのだが、私は 14日から出張なので、あせりまくりである。

毎度ながら、この類の書類作成は苦手で、今年もできるだけ後回しにし続けてきたのだが、ついに尻に火がつき、昨日は他の予定を何も入れない日にして、ようやく書き終えた。

確定申告といえば、3月 6日付の産経新聞コラム 「断」 に、劇作家 (という肩書きでいいのかなあ?) の伊藤えん魔氏が 「申告しないと損かも !?」 という一文を寄せていて、これがなかなか面白い (参照)。

芸能人といえども、まともに食えているのは一握りで、その辺の劇団に所属する役者のほとんどは、食うや食わずである。それで、座長の伊藤えん魔氏が 「確定申告に行け」 と発破をかけても、次のような反応だという。

「ぜ、税金まで払う金はないです!」
「年金もらうまで死ぬから大丈夫」
「行くと捕まる」 (意味不明)

貧乏役者たちのこの 「うざい、怖い、眠い」 で済ませがちな反応を、伊藤氏は 「金のない奴ほど申告の意味を知らない」 と嘆く。

実は伊藤氏も若い頃は似たようなもので、「確定申告の暇があったらバイト入れちゃう」 手合いだったらしい。しかしある日、「裕福なニート友達」 が確定申告で税金が戻ってきたと話すのを聞き、確定申告は貧乏人ほど得する制度と知ったのだという。

そのニート友達によると、「領収書集めに 1日。用紙記入に 1日。税務署で 1日。これで約 10万円の還付。日給 3万のバイトだぁ。あはは」 ということだったのだそうだ。これは、無名俳優のギャラの 3倍以上だそうである。

こんなに素晴らしい制度である確定申告を、全然利用しない人間が多い。しかも、それは貧乏人ほど多い。それは、この制度がわかりにくいためだと伊藤氏は言う。

税金や確定申告の意味について国税庁に問い合わせると、担当官が懇切ていねいに教えてくれる。国税庁のウェブサイトにも、詳細な説明が載っている。しかし、いくら詳しく聞いても調べても、結局のところ、「よくわからん」 のである。

よくわからんものは、嫌なのである。怖ろしいのである。敬して遠ざけておきたいのである。それは、人として当たり前のことなのである。ところがよく考えると、それは国税庁の思うツボなのではなかろうか。

貧乏人ほど収入はガラス張りだ。バイト代にしても、前もって真っ正直に源泉徴収されているものばかりで、それ以外に自分から申告して、「もっと税金取ってください」 と言わなきゃいけないような収入なんて、幸か不幸か、ほとんどないのである。

サラリーマン収入だけで食っている人は別として、自由業的貧乏人のほとんどは、税金を納めすぎている。確定申告の書類を作るのは本当にうっとうしい作業だが、大抵の場合は、申告すればそれが戻ってくるのだ。

というわけで、貧乏人がこぞって確定申告をするようになると、還付金は確実に増える。しかし、彼らが申告をサボってくれれば、税金を還付しなくて済む。つまり、あんまり真面目に確定申告をされると、国の収入が減るのである。

そんなわけで、国は 「確定申告は 3月 15日まで」 (今年は 17日までだが) なんて、おざなりの CM を繰り返すだけで、「申告すると、フツーは結構なお金が戻るぞ」 ということを、あまり声高には言わない。

私なんかも、原稿料なんかは有無を言わせず 10%を税金としてもぎ取られているので、きちんと申告すると、5月に車の税金を払っても、まだ一晩では飲みきれないほどお釣りが来るほどの金が戻ってくる。それで、ひぃひぃ言いながらも、「これも仕事」 と割り切って、申告書類を書くのである。

ああ、それでもよく考えれば、つくづく因果なことである。

もし、源泉徴収なんてことはせずに、国民全員が確定申告で税金を払うことにし、申告した者とその扶養家族だけが公民権を行使できるなんていう制度にしたら、世の中どんな風に変わるだろうなんて、思うことがある。

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2008/03/11

日本人は羊を数えても眠れない

本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 のアクセス分析を眺めていたら、「なぜ、日本人は羊を数えても眠れない?」 へのアクセスが、昨日から妙に増えているのに気付いた。

リンク元を調べると 「じわじわ来てるエントリー」 という、いわゆる 「個人ニュースサイト」 ともちょっとおもむきの違う粋なサイトである。

このサイトのコンセプトが、なかなか洒落ている。"そこそこのブクマ数を集めながらも、集中的にブクマされたことがないために 「人気エントリー」 に上がってきていない Web ページをお届けします" というのである。

で、問題の 「なぜ、日本人は羊を数えても眠れない?」 というページだが、43人のはてぶユーザーにブックマークされているということがわかった。確かに、「そこそこのブクマ数」 なのだろうが、何しろこれはブログのエントリーではなく、ウェブサイトの中の 1ページなので、集中的なブクマは得にくい十字架を背負っていたのである。

そんなわけで、まさに 「じわじわ来てる」 というにふさわしい位置づけにあるのだろう。もしこれが、ブログの最近のエントリーだったりしたら、かなりのブックマークをもらえる自信があるぞ。

で、試しに、改めてブログのエントリーとして紹介してみようと思う。といっても、一度みっちりと書いたことなので、あっさりとしたダイジェスト版にならざるを得ない。詳しい話は、上述のオリジナル・ページに飛ぶ方がいいだろう。

要するに、眠れない夜は羊を数えるといいなんていう説があるが、これは実は、日本人には逆効果なのだというお話である。

世界の五大陸ではお馴染みで、ちょっと田舎に行けばそこら中にいる羊だが、どういうわけか、日本ではとてもレアな動物なのである。だから、日本人は羊に馴染みがない。下手すると、プードルと区別がつかないほど (参照) 馴染みがないのである。

馴染みのない動物を想像して、しかも、それを一匹ずつ数えようなんてするから、ますます脳が刺激されて、目が冴えてしまうのである。

そもそも、羊という動物に馴染んでいる民族は、羊を一匹ずつ数えるなんてうっとうしいことはしたくないのである。なにしろ、ごちゃっと群れをなしている退屈な動物だとわかっているから。日本人はそれがわからないから、律儀に数えて目が冴える。

で、日本人が眠くなるためには、羊を数えるのではダメで、別のものを数えなければならない。その別のものを数えたら、確かに眠くなったという複数のコメントが、はてなブックマークにも寄せられている。

その 「別のもの」 が何かというのは、ここで明かしてしまうのは芸がなさすぎだろう。知りたかったら、せっかくだから上述のオリジナルページに飛んでいただきたいのである。

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2008/03/10

DM という名の、勝手に増えるゴミ

最近勤めをリタイアした知人がいる。定年後に嘱託でさらに 5年ほど勤務し、このほどめでたく完全に勤めをやめた。

ところが、共働きだった彼の妻は、まだ年が若いため勤務を続けていて、「今、ウチの家計は私の稼ぎでもってます」 なんて言っている。亭主の方は 「家庭の主夫」 をしている。

その知人は、家父長的な考えは薄く、家庭的にはかなりリベラルな人である。だから、彼の妻が勤めに行っている間、なんの抵抗もなく家事にいそしんで、新しい生活をけっこう楽しんでいるようだ。

彼と久しぶりにあったら、「いやあ、家事というのは、いくらでもやることがあって、お金というのは、どこにも出かけなくてもどんどん消えていくものだねえ」 と、しみじみ言っていた。さらに 「頼みもしない DM がどんどん届いて、自分が出したわけでもないゴミがどんどん増えるんだよ」 という。

まさに、家事というのは際限のないもので、金にしても、どこにも出かけなくても確実に消えてゆく。しかしその不条理感は、まだ納得できる範囲のものである。納得できないのは、頼みもしないのに送りつけられた DM という名のゴミの処理である。

インターネットのスパム・メールは、多くはメーラーが自動的にどんどん処理してくれて、処理し切れなかった残りも、手動で消してしまえば、物理的なゴミにはならない。

しかし、印刷された紙というメディアで送りつけられた DM は、小さいながら一定の空間を占有し、さらに重さをもったゴミになる。多くの人は、興味のない DM は開封もせずに即座にゴミ箱に捨ててしまうだろう。そして、「燃えるゴミの日」 に出す袋がずっしりと重くなる。

しかし、我が家はそれでは済まないのである。私の妻は相当なエコ派であり、私にしてもフツーの人よりはちょっとだけエコに気を使っている。だから、届いた DM は開封し、折りたたまれたパンフレットや広告を開いて、新聞のチラシなどの箱に保存しておき、リサイクルに出すことにしている。

この作業をちょっとサボると、DM が山のようにたまり、一度にこなそうとすると面倒なことになる。一瞥もしない広告を取り出すために、カッターで封筒を開け、三つ折の紙を伸ばして何枚も重ねていくという作業を、延々と続けなければならない。

しかも、それは我が家では私の役割なのである。妻は、「どれが必要で、どれが不要な郵便物なのか、あなたが自分でちゃんと判断してね」 というのである。まあ確かに、DM のほとんどは私宛だし、必要な郵便を捨てられるよりはましなのかもしれない。

しかし、1~2割は妻宛の DM だってあるし、そもそも判断するも何も、届く DM のほとんどすべては不要に決まっているのである。もしたまに、まんざら不要でないものが混じっていたとしても、それを捨ててしまったことで決定的なダメージをこうむるものなんて、一つもない。

DM に対する反応は、100通送ってもほんの 2~3通だという。つまり、たった 2~3%のために、DM の業者は 97~98%の 「必要なムダ」 をしていて、そのおかげで私なんぞはうんざりするほどの余計な作業を強いられてしまうのだ。

届く E-メールのほとんどがスパムである状況と、郵送の DM というのは、ほとんど変わらない。ならば、同じ送ってよこすのなら、紙の郵便でなく、E-メールにしてもらえば、迷惑には違いないが、紙は節約できるし、捨てるにも楽なのにと思ったりする。

しかし、「私宛の DM はすべて E-メールにしてね」 とアドレスを公開してしまったら、一日に何千通というスパムが届くだろう。それはそれで、毎日何通かの DM が届くよりうっとうしいかもしれない。

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2008/03/09

「二の矢」 を受けないために

仏教に 「二の矢を受けず」 という言葉がある。自分の心を整えて、様々な感情に執着しなくて済むようにということだ。

いい感情にしろ悪感情にしろ、それにいつまでもこだわっていると、ますます増幅して執着のタネになる。それを、「第二の毒矢」 に譬え、それを受けないようにするというのだ。

これについては、臨済宗妙心寺派大本山妙心寺のウェブサイトに、次のようにわかりやすく解説されているので、引用させていただく (引用元はこちら)。

雑阿含経の第十七に、『箭経』と名づけられた短いお経がある。

……お釈迦さまが弟子達に尋ねられた。
「人は誰でも、美しいものに出会えば楽しいと思い、痛い目にあえば苦しいと感じるだろう。それでは、仏教を学んだ人とそうでない人との差はどこにあるだろうか?」
 弟子達は教えていただきたいと懇願した。
 そのお答えの要点は 「第二の毒箭 (毒矢) を受けない」 ということだった。

「仏教を知らぬ人達は、楽しい事に出逢うとそれに執着し、『もっと欲しい』 と “貪(むさぼ)り” の念をおこす。同様に、苦に出逢うと “瞋(いか)り” の感情にとらわれてしまう。そうして、いよいよ混迷していくのだ。

 けれども、仏教を学んだ人は、外界の刺激でいろいろな感覚は触発されるが、いたずらに感情を増幅させられることがない。それを、身受を受けても心受を受けずともいう。そこのところを、第一の矢は受けても第二の矢は受けないと表現したのだ」 ……と。

こんな話を持ち出したのは、例の花岡信昭氏の "「反基地」 勢力が叫ぶいかがわしさ" という記事に対するてんやわんやの反応をながめるうちに、なんとなくうんざりしてきてしまったからだ。

花岡氏の記事に対しては、私もそれなりに一言あったので、2月 17日に 「当たり前でない状況での当たり前」 というエントリーを書いた。そして、自分としてはそれで一応のけりをつけたつもりになっていた。

ところが、花岡氏のブログには、いろいろなコメントが殺到し、例えば、3月 1日付のエントリーをみても、賛否両論でかなり賑やかな状況だ。このような状況で花岡氏は昨日、 「気分を害された方に・・・ご容赦のほど」 というエントリーをあげている。

内容は、自分の記事で気分を害した人に対するお詫びでは決してない。自分の記事に対する 「読むに耐えない」 コメントで気分を害した人に、自分のブログはコメントをすべて受け入れて表示する方針なので、その旨、理解してもらいたいとアナウンスしているのだ。

そして、それに対して勘違いも甚だしいとばかりにますます否定的コメントがついているのは、ご想像の通りである。

花岡氏のちょっとセンスの悪い記事で、私まで 「そりゃ、言い方、変だろう!」 と思ったのは事実で、これはいわば 「一の矢」 を受けたのである。その気分の悪さを中和するために、私は前述の 「当たり前でない状況での当たり前」 を書いた。

その上で、私は直接議論をしかける気にはなれなかった。「悪鈍感力」 の豊富な人には、何を言っても、こちらが二の矢、三の矢、四の矢を受けるだけである。「言論の自由」 を自分の側にだけ適用し、反論の多くを 「悪口雑言、誹謗中傷」 の類に帰してしまうクセのある人には、注意が必要なのだ。

まあ、確かに、「感情的な悪口雑言、誹謗中傷」 も多いようだけどね。

とまあ、そういうわけで、ここでこうしてちょっとした注意事項を書いているわけだが、知らぬところで陰口をたたいていると思われるのも嫌なので、礼を尽くす意味で、トラバだけは送っておくことにする。

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2008/03/08

YKK 神話

私はいわゆる高級ブランドにはまったく興味がないが、きちんとした理由があって信頼しているブランドというのは、いくつもある。

例えば、YKK である。アパレル業界では、ファスナーのトラブルに関するクレームが案外多いが、私なんか 「ちゃんと YKK のファスナーを使わないからだよ」 なんて言っている。

ファスナーのクレームで一番多いのは、引っ張ったらつまみが取れてしまったというものだ。次に多いのは、馬鹿になってしまって、閉じても反対の方からポロポロ開いてきてしまうというもの。さらに、すべりが悪くて、開閉が大変だというクレームもある。

YKK は世界シェア 45%を占めるというだけあって、こうしたトラブルは皆無ではないが、非常に少ない。何しろ、アメリカのアウトドアウェアのカタログをみると、"YKK zipper" を使用しているというのが、重要なアピールポイントになっているほどだ。

気候条件の厳しい高山などで、ファスナーの具合が悪くなったりしたら、下手すると命に関わる。命に関わらないまでも、寒さにかじかんだ指先で調子の悪くなったファスナーを無理矢理に開閉するというのは、かなりのストレスだ。

あるいは、寝袋のファスナーを開閉するときに、生地を噛んでしまって動かなくなったりしたら、本当にもう泣きたくなってしまう。だから、アウトドアウェアや寝袋に YKK のファスナーが使ってあるというのは、それだけで信頼される製品ということになる。

普通のアパレル製品の場合でも、YKK ファスナーでトラブルを生じたという報告はかなり少ない。簡単につまみが取れたり、馬鹿になってすぐにポロポロ開いてくるというのは、こう言っちゃなんだが、中国製などの安物に多い。

しかし、最近になって、取っ手に 「YKK」 の文字があるのに、すぐに壊れてしまったという報告が出てきた。「おかしいなあ」 と思っていたら、そのほとんどは、「偽 YKK」 のようなのだ。あらゆる一流ブランドと同様に、YKK にも偽物が出現し、しかもどんどん増加しているようなのである。

偽物の多い日本のブランドには HONDA、YAMAHA、SONY などが挙げられるが、もしかして一番多いのは YKK なんじゃなかろうかと思うほどだ。

面白いのは、かの 「ルイ・ヴィトン」 である。よく 「YKK のファスナーのついたヴィトンは偽物」 なんて言われるが、これは、半分本当で、半分ウソなのだ。

本当のことを言えば、本物のヴィトンが使っているファスナーも、実はれっきとした YKK の製品なのだ。ところが、さすがヴィトンで、自社製品に他のブランドが混じり込むのは許せないようで、「YKK」 の文字の入らない特注の YKK ファスナーを使っているのである。

ところが偽物のヴィトンは、偽物をいかにも高級らしく見せるために、YKK の刻印のついた本物の YKK ファスナーを使うなんていう、あざといというか、回りくどいというか、ちょっとあわれな手段を講じているらしい。

YKK は、その信頼性のなせる技というか、本物のヴィトンにも、偽物のヴィトンにも使われているわけだ。偽物の世界にも、いろいろ複雑な事情があるようなのだ。

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2008/03/07

紙でーす! 紙 配ってまーす!

昨日、"Today's Crack" のアクセス分析を見ていたら、"Tokyo Short Sight" というブログの、昨年 8月 22日付記事からのリンクがあった。半年以上前の記事である。

どんな記事かと思い、行ってみると、その記事についた今年 3月 5日付のコメントから、私のブログにリンクされているのだった。

件のブログの、日本語にすれば 「東京近視眼」 というタイトルが、まず面白い。そして、そのエントリーのタイトルがまた、「#233白紙」 という超シンプルなものである。なかなかの技である。

内容はリンク先に飛んでいただければわかるが、要するに、新越谷の駅前で 「紙でーす! 紙 配ってまーす! どうぞ、紙でーす!」」 と声を張り上げながら白紙を配っている、わけのわからない男がいて、まるで都市伝説のようだったというのである。

そして、この半年以上前の記事に、一昨日になって急にコメントがついた。しかも、その白紙を配っていた当人からである。「それ、私じゃないですかね」 というコメントの中で、種明かしとして、私の昨年 8月 5日の記事にリンクしてあるのだ。

私の記事は、TBS ラジオの 「土曜ワイド」 で紹介されていた 「倉庫の二階」 という寄席を紹介したものである。その中で、この寄席の席亭は、駅前で寄席の案内のビラ配りをするとき、「紙で~す」 と声を張り上げるということに触れているのだ。その方が配布効率がいいらしい。

"Tokyo Short Sight" の半年以上前に書かれた記事が、どこでどう伝わったか知らないが、3月になって席亭自身の目にとまり、自ら正体を明かす段になって、私のエントリーにリンクしてくれたという回りくどいストーリーから、ブログの世界というのは、どこでどう回ってどう帰ってくるかわからない、奇怪千万なものだと知られる。

さらになによりも、「倉庫の二階」 の席亭が私のブログを読んでくれたということが判明し、まことにかたじけない思いがしたので、当方も感謝のコメントを書かせていただいたという次第である。さらに、席亭には私のエントリーにまでご挨拶をいただいた。

ここまでくれば、私も、ぜひとも倉庫の二階主宰の寄席に行かなければならないところだが、悲しいことに、これまでのところ、どうもスケジュールが合わなくて、一度も行ってないのだ。

くらえ!倉庫の二階ホームページ[魔法のiらんど]」 というホームページで今後の予定を見ると、4月 16日に両国亭で 「席亭と吉幸のオールナイトチョメチョメ3」 というイベントがあるようで、これなら行けそうだ。興味のある方は、リンク先を見てもらいたいのである。

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2008/03/06

来週は比叡山に行こう

突然だが、今年は比叡山と高野山に行こうと思う。とりあえず、来週は福井に出張するので、帰りに新幹線を米原で途中下車し、大津から比叡山に寄ろうと思っている。

高野山に行く予定はまだ立っていないが、是非とも今年中に行きたい。できれば、一泊して熊野路を辿りたいと思っている。

私は結構な神社仏閣好きなのだが、この年になるまで、まだ比叡山延暦寺と、高野山金剛峰寺には行っていないのである。これは痛恨なのだ。

来週、仕事で福井に行く。おりよく金曜日に出かけることになった。福井とくれば、永平寺である。実は、私の父方の祖父は曹洞宗の坊主で、若い頃に長年にわたって永平寺で修行していた。だから私は永平寺には特別の思い入れがある。

そんなわけで、初めは一泊して翌日の土曜日には永平寺の参拝をしようと思っていた。しかし、考えてみれば、永平寺には 5年前に行っている。ならば、今回は延暦寺にしようと思い立ったのだ。

5年前に永平寺に参拝したのは、2月 15日だった。長い回廊を通って本堂に行くと、何やら法要が営まれている。それも並の法要ではない。大変厳かである。後ろの方に座って、「一体、どなたの法要だろうか」 と思いながら右側の壁をみると、「涅槃会」 と書かれた紙が貼ってあった。

「涅槃会」 とは、釈迦入滅の法要で、つまり、お釈迦様の亡くなった日である。自分が初めて永平寺に参拝した日が、お釈迦様の命日に当たるとは、その時、初めて気が付いた。偶然とはいえ、お釈迦様の命日に、永平寺の本堂でご焼香させていただけたというのは、誠にかたじけないことである。

まあ、そんなことがあったので、永平寺は今回はパスさせていただいて、せっかくだから比叡山に行こうと思ったわけである。思えば、永平寺を開いた道元禅師も、比叡山で学んだ。それだけではない。親鸞も日蓮も、比叡山出身である。

父方の祖父は曹洞宗の坊主だが、父は婿養子に入ったので、我が家は浄土真宗の家である。で、またその本家は、神道の家である。さらに、私の実家の祖父は、なぜだか知らないが、日蓮宗系 (某学会ではない) のお経を毎朝読んでいた。なんだか私は宗教のよろず屋みたいな育ち方をしているのだ。

話は戻るが、浄土真宗を開いた親鸞も、曹洞宗の道元も、法華経の日蓮も、みな比叡山で学んだというのは、これは大変なことなのである。仏教界の大物養成所みたいなところである。これは何としても実際に足を運んで、その空気を吸ってみなければならないのである。

というわけで、近々、比叡山行脚のレポートを書くことになりそうなので、乞うご期待である。

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2008/03/05

KONISHIKI さんのガストリック・バイパス

昨日から "Today's Crack" に、「ガストリック・バイパス」 というキーワードで検索したアクセスが目立っている。

KONISHIKI さんが病的肥満解消のため、ハワイでガストリック・バイパス手術を受けた (参照) ようだが、自分がそれについて書いた覚えはないので、驚いてしまった。

しかし、人間とは恐ろしいもので、自分のブログのサイト内検索をしてみたら、ちゃんと触れているのである。しかも 1年半以上も前に。

問題のエントリーは、一昨年 8月 19日付の、"「マンガ」 が英語として認知された" というもので、出だしはこんなふうになっている。

Cube New York に 「メリアム・ウェブスターズ・カレッジエイト辞書 2006年版に加わった新語リスト」 という記事がある。

今回、新たに同辞書に加わった約 100語のうち 21語が紹介されている。今さらながら "Google" が初登場し、 "manga" (マンガ) なんていう日本発の外来語もある。

で、この21語について触れた中に、「Gastric Bypass / ガストリック・バイパス (過度の肥満解消の外科手術。胃のサイズを小さくし、小腸とつなぐバイパス手術。セレブの間で静かな流行らしい)」 という記述がある。自分で書いてすっかり忘れていた。

ここに紹介された 21語は、ウェブスターが厳選した 100語のうちから、さらに Cube New Nork が選んだだけあって、ほとんどは米国で定着して、今でも (多分) 使われている言葉である。

中でも、米国でのガストリック・バイパス手術の増加はかなりなもののようで、ひょんなことから日本でも話題になるとは、1年半前には思わなかった。

この記事を書いた時、ガストリック・バイパスは 「セレブの間で静かな流行」 とあるが、その手術跡はどうやって隠すんだろうと、ちらっと気になった覚えがある。セレブだけに、肌を露出する機会はけっこう多いだろうし。

今回、その疑問が解けた。ガストリック・バイパスは大きく切開するような野蛮なことはしないのである。「腹腔鏡手術」というメソッドによるもので、手術跡は 5ミリから 1センチで済むらしい。そのかわり、かなり高度なテクニックを要するらしいのだ。

それにしても、そんな高度な手術なら、費用もかなり高額に違いない。さらに、これは こちら からの孫引きだが、Agency for health care Research and Quality の調査では、手術後 6ヶ月以内に 10人のうち 4人が合併症を起こし、死亡率も 100 ~ 200人に 1人の割合という。なかなか気軽に踏み切れるものではないようなのだ。

しかし、考えてみれば、セレブだからお金には困らないだろうし、100 ~ 200人に1人死ぬというリスクも、そのまま病的に太り続けて生活習慣病で死ぬリスクに比べれば、まだ低いのかもしれない。肥満で死ぬか、手術で死ぬかといえば、手術で痩せて死ぬほうがましということなのだろう。

それにしても、こんなことまでしないと解消しない肥満というのも、なかなか大変だと思いやられるのである。

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2008/03/04

「業績不振を天候要因に帰すな」 と言うが

アパレル業界では 「業績不振を天候要因に帰すな」 とよく言われる。天候が味方してくれなくても、企画とマーケティング努力で売り上げは伸びるのだという叱咤である。

しかし、そんなきれい事を言っても、やはり衣料品の売れ行きはお天気に大きく左右される。これはどうしようもない事実である。

ハイファッションを買い続けないとストレスになってしまうという、ファッション・マニアックは、ある一定の比率で存在する。こうした消費者は、魅力的な商品さえ提供されれば、暑かろうが寒かろうが、どんどん買ってくれる。寒波到来前に、汗をかきながらダウン・コートを着てくれる。

しかし普通の消費者は、暖冬だったら 3年前に買ったコートをもう 1年着ちゃおうと思うのである。夏が暑すぎたら、夏用のジャケットなんか何着も揃える気になれないのである。アパレルもエアコンもビールも、お天気商売なのだ。

それに、今回のようにかなり寒い冬になっても、本格的に寒くなったのが 1月の中旬以後だったりすると、その頃は既にバーゲンのシーズンになっているので、いくらコートが売れても在庫処分の世界であって、まともな利益にはならない。

アパレル業界が儲かるには、梅雨明けが早くて 7月初めからどっと暑くなり、旧盆が過ぎたら急に秋めいてきて、晩秋からぐっと冷え込み、立春を過ぎたらさっさと春の陽気になってくれればいい。要するに、季節の移り変わりが早め早めになってくれればいいのだ。

ところが、最近は逆で、梅雨明けがいつなのかうやむやのうちにやっと夏になり、そのくせ、秋の彼岸を過ぎてもだらだらと残暑が続く。短い秋が過ぎて暖冬かと思っていると、立春過ぎに急に寒くなる。ようやく春が来ても天候不順で菜種梅雨が長く、そのうちにまた暑い夏になる。

これでは、アパレル業界としては、まともな値段で勝負する期間がない。ようやくそのシーズンにふさわしい天候になった時には、バーゲン・シーズンなのである。当然にも、フツーの消費者はバーゲンになってから服を買う。

とまあ、このように天候要因に大きく影響される業界でメシを食っているせいか、気象予報士試験を受けたら、そりゃあ落ちるだろうが、私は素人としてはお天気ネタには結構強い方である。

いつの年が酷暑で、いつが暖冬だったかなんてことはしっかり頭に入っていて、「よくそんなこと憶えてるね」 なんて言われるが、それは仕事柄なのである。しかし、よく考えてみれば仕事柄だけではなく、これまで暮らしてきた環境のせいでもあるようだ。

高校まで暮らした山形県の庄内地方は、音に聞く地吹雪地帯である。人間が普通に暮らしているところとしては、世界最凶のブリザード地帯といわれることもある。そんなだから、天気には敏感で、天気図の読み方も子供の頃からいつの間にかわかるようになっていた。

学生時代にはよく山登りをして、観天望気なんていう技も身に付けた。さらに、30歳前に引っ越してきた今の家が、なんと洪水地帯に建っていたのである。

引っ越して 1週間目の日曜日に台風が来て、目の前の道路が冠水し、外に出られなくなった。さらに 2年後には床下浸水なんて被害まで経験し、当時勤めていた会社から 「罹災手当」 として 1万円が支給された。伊勢湾台風以来、25年ぶりの支出項目だったそうだ。

というわけで、私はつい最近まで台風が近づくたびに、天気図とにらめっこしながら眠れない夜を過ごしていたのである。

ところが、最近になって近所に遊水地ができ、我が家の裏の川も拡幅工事で川幅が 2倍になった。地域の排水設備もようやく整えられて、なまじの台風では道路冠水なんてしなくなった。引っ越してきてから 30年。長いようで短い期間だが、治水対策だけは確実に進んだ。

おかげで、近頃は台風が近づいても少しは安心して眠ることができるようになって、浸水の心配は忘れ、業界の売れ行きだけを気にかけていればいいようになったのである。ありがたいことだが、一方では地球温暖化なんていう、より大きな心配の種が持ち上がっている。

やはり天候要因というのは大きいのである。

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2008/03/03

中国は貧しい親戚をたくさん抱えた成金

今年は閏年で 2月が 29日まであって、月末の原稿締め切りがいつもの年の 2月より 1日余裕があり、ちょっと助かった。

で、まだまだ先のことのような気がしていた北京オリンピックまで、ふと気付けば、とっくに半年を切っている。本当に大丈夫かなあなんて、つい思ってしまうのである。

今回のオリンピックに関しては、代表選考に惜しくも漏れてしまった選手も、いつものオリンピックよりほんの少しだけ悔しい思いが小さいんじゃないかなんて、ノー天気な想像をしてしまう。「ああ、北京に行かずに済んだ。4年後のロンドン目指して、またがんばればいいや」 とかね。

3年半ほど前、TBS ラジオの朝の番組で、中国に対する印象のアンケートをとったことがあり、結果は 「好き」 より 「嫌い」 がやや多い程度だった (参照)。しかし今、同じことをしたら、「嫌い」 が断然上回るだろう。近頃いろいろあって、中国のイメージはかなり落っこちてしまった。

思えば気の毒なことである。中国というのは、いわば貧しい親戚をたくさん抱えた成金のおやじのようなものだ。所詮成金だし、しかも、大勢の貧しい親戚までそこそこ食わせてやらなければならないので、エレガントな振る舞いはあまり期待できない。

さらに、その貧しい親戚がいつ歯向かってくるかしれないのである。内輪揉めの要素が多すぎて、対外的にエレガントに見える振る舞いをしている余裕なんてさらさらない。

日本で流通している衣料品の 70%以上が中国製だと言われ、一説には 80%以上だとも言われる。最近、中国製品の信用度ががた落ちなので、中国製の服は着たくないと言う人が増えているが、中国製衣料品を選択肢から除外すると高級品ばかりになって、金がかかってしょうがないのである。

というわけで、中国はアパレル業界にとって重要な国なので、アパレル業界でメシを食っている私も、一度は視察に行くようにあちこちで勧められるのだが、私はなんだかんだ言って渋っている。時間が経てば経つほど、行きたくない気持ちが強くなる。

中国内でぶら下がっている貧しい親戚たちが少しは豊かになれば、状況は変わるのだろうけれど、そうなると、今度は安価な労働力というアドバンテージが失われるから、生産市場としての地位が低下してしまい、視察に行く意味も薄れるだろう。

というわけで、あまり先にならないうちに、一度は行かなければならないんだろうが、やっぱり行きたくないなあ。

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2008/03/02

「左褄を取る」 ということ

昨日、車を運転しながら TBS ラジオの 「土曜ワイド」 を聞いていたら、永六輔さんが 「つじつまを合わせる」 という言葉の語源について触れていた。

「つじつま」 は漢字では 「辻褄」 と書く。これが和裁の用語から来ているとは、恥ずかしながら初めて知った。

まず、後ろの方の 「褄」 は常識問題の部類で、着物の裾の左右両端の部分である。そして、「辻」 はその字の如く、道が十文字に交わるところだが、和裁でも縫い目の十文字に交わるところを言うらしい。これは全然知らなかった。

で、「辻褄が合う」 とは、縫い目の交差部分、着物の裾の部分の処理がきちんと合うということで、ひいては物事の道理や筋道がきちんと合うことまでを意味するようになったもののようだ。改めてインターネットで調べてみても、そのように説明されている。(参照

で、これを受けて永六輔さんが、着物の裾を引きずらないようにちょいと手でつまんでもつ場合、芸者さんは左手でつまみ、その姿が粋なので 「左褄を取る」 という言葉もあるというようなことをおっしゃった。

すると、この番組のアシスタント、TBS アナウンサーの外山惠理さんが、何を思ってか 「私も左褄を取るようにします」 と口走った。この人、慶応大文学部卒のインテリだが、時々ぶっ飛び発言をする面白い人である。それを聞いた永さん、思わずこけそうになり、苦笑しながら 「それは止めといた方がいい」 となだめていた。

昔はよく使われた言葉で、今はほとんど死語になっているということに関しては、先月 28日に書いた 「ザッハリッヒ」 と双璧かもしれないが、「左褄を取る」 とは 「芸者になる」 こと自体を意味するのである。

外山アナウンサー、アナウンサー名鑑では 1975年生まれということで、「左褄を取る」 の意味を知らなかったのも無理からぬところだが、まあ、そんなでは、芸者になるのは確かに止めといた方がいいだろう。

ちなみに、今の着物の着こなしは、普通は裾なんか引きずらないから左でも右でも 「褄を取る」 必要はない。左褄を取らなければならないのは、ちょっと非日常的な、裾を引きずる着こなしだからである。歌舞伎ではお馴染みだけど。

ネットで画像を探してみたら、あるところにはあるもので、ドンピシャリの写真が見つかった (参照)。このページの説明にもあるが、「左褄を取る」 とは 「芸は売っても身は売らぬ」 という心意気を示すものでもあったようである。

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2008/03/01

餃子に関する福田発言

「毒入り餃子事件」 で、中国公安省の 「中国内での毒物混入の可能性は低い」 という発表に対し、福田首相が 「中国は非常に前向き」 と語ったというのが話題だ。(参照

ソフィスティケイディッドな国に対してならば、とても上手な言葉のプレッシャーになる発言だと思うが、相手が相手だからなあ。

この発言は、どうみてもマイナスに働くとしか思われない。国内的には 「いくら親中派といっても、ひどすぎる」 という印象が既に支配的だし、もしかしたら裏があるんじゃないかなどと勘ぐられ、支持率をますます下げる要因として働くだろう。

一方、中国側はこの発言を文字通りに都合良く受け取って、居直る可能性が高くなる。

中国という国は、自らはいろいろ遠回しな (とは言っても、ちょっと考えればかなり露骨な) 要求をするが、相手からの遠回しな要求は無視する傾向が強い。低姿勢は見くびられるだけで、多少強気で単刀直入に言う方が効果的だ。

道理よりも声の大きさがものを言うぐらいに考えた方がいい。いい悪いの問題ではなく、そういう体質の相手に対してはそれなりの戦術で接しなければならないという、単に外交上のテクニックだと思うのだが。

この問題に関してこれ以上語るのは気が滅入るので、このぐらいにしておく。

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