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2008年6月に作成された投稿

2008/06/30

ネタ切れなのでお天気ネタ

夕べは月末締めの原稿を、夜中の 2時頃までかかって仕上げ、風呂に入って寝たのは 3時近かった。で、起きたのが 6時半。

この歳になると、睡眠時間が 4時間以下というのはちょっと辛い。それでもよくしたもので、目が覚めて 30分以上経てば、いつもの朝である。健康はありがたい。

で、昨日は狭い範囲内の専門的な仕事に没頭していたので、世の中のごくフツーの情報に接していない。そうなると、この "Today's Crack" の更新をするにもネタがない。ネタがない場合は、お天気の話でもするしかない。

近頃、暑くなったり寒くなったりの繰り返しで、朝出かける前には 「今日は一体、どんな格好をして出たらいいのだろう」 と迷うことになる。それで、テレビを滅多にみない私だが、朝だけは付けっぱなしのテレビをちらちら見ることになる。

天気予報はラジオでもやるから、ラジオを聴けばいいようなものだが、こればかりは、テレビの勝ちだ。テレビは天気図も映し出してくれるし、今日のお天気の最高気温や降水確率なども、画像として放映してくれる。

ラジオでは一瞬聞き逃してしまうと、もうアウトだが、テレビだと聞き逃しても画面を見れば文字が映し出されている。これはありがたい。

で、今日の東京地方は曇りがちで午後から日の差すところもあり、最高気温は 25度だそうだ。この空模様だと、数字以上に蒸し暑くなるような気がするが、朝の出がけはまだ涼しい。こういう日が一番困るのである。

半袖シャツだけで出かけると、通勤電車の狂気の冷房で、凍えるほど寒くなる。あれは、夏だというのにネクタイをして背広を着ているオジサン連中のための設定である。薄着の女の子たちは、唇を紫色にして震えている。私も基本的にスーツなんて着ないから、冷房の効きすぎは迷惑だ。

しかし、とくに凶暴な冷気の当たるスポットというのを近頃では把握しているので、そこを避ければなんとか耐えられる。そして、電車から一歩降りればむっとする蒸し暑さだ。この気温差では、自律神経もおかしくなろうというものだ。

夏なのだから、同じ耐えるのなら寒さではなく、暑さに耐えたいものである。それが自然というものだ。現代人は快適な生活を手に入れたつもりになっているが、その 「快適」 というもののコンセプトが、どうもおかしいような気がしている。

少しは不便に耐えてもいいような気がするがなあ。

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2008/06/29

早メシ早グソ、武士のたしなみ

本宅サイトにある 「赤信号は、本当に皆で渡れば恐くないか?」 というコラムで、「私は一人でメシの食えない人は、はっきり言って苦手である」 と書いている。

本当に、世の中には 「一人メシ」 を食うのがたまらなくわびしいと感じる人が、少なからずいるようなのである。

そりゃ私だって、「メシは一人で食う方が好き」 というわけじゃない。一家団欒の食事や会食は、楽しいと感じる。しかし、私は 「一人メシ」 も全然苦にならないのである。逆に、ウィークデイのごく普通の昼飯に連れ立ってでかけるというのは、あまり好きじゃない。

というのは、私はメシを食うのが早いのである。「早メシ早グソ、武士のたしなみ」 なんて言われるが、私はごく普通の昼飯だったら、まず 3分かけずに食ってしまう。盛りそば程度なら、1分もかからない。時間をかけるだけ無駄だと思っていて、とにかくさっさと済ませてしまいたいのである。

そんなだから、連れだって昼メシ出かけてしまうと、さっさと食い終わって 「それじゃ、お先に」 とも言いにくいので、つい時間をもてあます。とっくに食い終わっているのに席でぐずぐずしているのは、お店に悪いような気がして落ち着かない。

だから、日常の昼メシは大抵一人で済ませるか、あるいは 「こいつは早メシの技を持っている」 と認める人間としか食いたくない。そして逆に、もし私が早メシのできないタイプだったとしても、人を待たせるのが悪いから、やっぱり一人で食うと思う。メシを食うときまで、人にもたれかかりたくはない。

そもそも私は、メシを食うということにそれほどの価値を見いだしていないのかも知れない。そりゃ、おいしいものを食べるのは好きである。しかし、ことさらに美食をしようとは思わない。英国人ほどではないにしろ、必要に迫られて食っているだけというようなところがある。

その分、「ハレとケ」 の区別はしっかりしていて、たまに会食をする機会があったりすると、かなり気合いを入れて食う。しかし、日常の食事はなるべくあっさりと済ませたい。仕事の途中の昼メシなんていうのは、その最たるものである。

近頃、早メシのできる人とできない人の差は、口腔の容積で決まるという話を聞いた。一度に目一杯ほおばって、ワシワシと噛み、一気に飲み下すことのできるのは、口の中の大きな人なんだそうである。なるほど、そうかもしれない。

確かに私は一度にかなりの量をほおばって、しかもしっかりと噛む。多分、顎が丈夫なんだろう。相当にワシワシと噛む。そして一気に飲み下しても胸につかえるなんてことはない。ありがたい遺伝子である。

一方、私の妻の家系は、全員早メシができない。確かに口の中の奥行きがない遺伝子のようなのである。ありがたいことに、妻も 「一人メシ」 が苦にならないタイプだから、あまりいらいらしないで済む。

それでも、たまに妻と外食するときは、私はたくさん話をしながらゆっくり食う人になる。その時だけ、私と妻との口数に、ものすごい差が付く。

それを見て、私がおしゃべりで妻が無口と誤解されると、ちょっと困ってしまうのである。

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2008/06/28

世界とのよき縁結び

今月 16日、例の秋葉原の無差別殺傷事件について、「この類のニュースには触れたいとは思わなくなってしまった」 と書いた。

しかし、近頃ようやく少しは自分なりのことを書けるような気がしてきた。やはり、すぐに反応せずに、少しは寝かせておくことも大事なのかも知れない。

無差別殺傷事件といえば、まず思い起こされるのが、5年前の池田小事件である。その後今年になって、3月の土浦市荒川沖での殺傷事件、今月の秋葉原での事件と続いて、世の中にかなりのインパクトを与えている。

今年に入ってからの事件は、荒川沖の事件の金川真大容疑者がかなりのゲームおたくで、頻繁に秋葉原に通っていたことが伝えられ、今月の秋葉原事件の加藤智大容疑者も、ケータイの掲示板サイトで犯行予告していたとして、「秋葉原的」 な、何らかの傾向が犯罪に関わりがあるかのように論じられている。

しかし、問題なのは 「秋葉原的」 という要素ではない。かつては 「新宿的」 要素が犯罪の温床のように言われていた。要するに、その時々の 「満たされない心」 が、シンボルとしての、ある一定の街に惹かれてしまうということになる。

一昔前は新宿に向いていた 「満たされない心」 が、今は秋葉原に向いているというだけのことだ。

その 「満たされない心」 というものが、無差別殺傷事件につながったわけだが、私は、それは最終的に 「破壊願望」 が外に向いた結果だと思っている。内に向いたら自殺という行為になる。奇しくも今年は、硫化水素による自殺が一種の流行現象のようになったが、根っこは同じ 「破壊願望」 だと思うのだ。

池田小事件の宅間守なんかは、死刑判決が決定するやいなや、「死刑は、殺される刑罰や。6ヶ月過ぎて、何時迄も何時迄も嫌がらせをされる刑罰ではない」 と言って、早急な死刑執行を要求している。見ようによっては、自殺するのが嫌だから、死刑になって他人に殺してもらいたがった事件のように思える。

考えてみれば 「満たされない心」  なんていうのはそれほど珍しいものでもない。たいていの人間は 「満たされない心」 をもっている。その心が 「破壊願望」 になってしまうには、やはりそれなりの条件が必要だ。

それは、化学変化を起こすときの 「触媒」 のようなものである。いつの時代にも、「満たされない心」 が 「破壊願望」 に化学変化を起こすために必要な 「触媒」 というものがある。

我々が問題にしなければならないのは、その因果関係と触媒についてなのだと思う。同じものがすべてのケースで 「悪しき触媒」 として機能するわけではない。ある条件にあてはまると、それが暴走を引き起こす。

仏教では、「因果」 ということを重要視する。今の言葉で言えば 「原因と結果」 ということで、実は非常に論理的な考え方だ。そして、仏教の眼の透徹したところというのは、「原因と結果」 だけでは物事は割り切れないと指摘している点だ。そこには 「縁」 という要素が必要になる。

そこで 「因果」 とともに 「因縁」 ということも重要視される。三つの要素をひっくるめて 「因縁果」 と言ったりもする。「縁」 とは、まさに 「触媒」 である。

世の中の大きな動きをせき止めたりすることは、個人の力では難しい。それならば、せめて自分の周りで 「よき触媒」 として機能するような 「縁」 を、少しずつでいいからこしらえていきたいと思うのである。「世界とのよき縁結び」 である。

私にはそれぐらいしかできないが、それが実は大きな力になると考えるほどのオプティミズムを、まだ捨てたわけではない。

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2008/06/27

衣料品業界からみた中国の裏事情

私のメシのたねであるアパレル業界内の話で恐縮だが、服を着ないで済む人はいないので、身近な問題としてお付き合い願いたい。

最近は日本国内で流通する衣料品の多くが中国製で、そのシェアは 7割を超えたといわれている。この中国製衣料品の品質問題が、業界の頭痛の種なのだ。

中国製品の品質というのは、別に衣料品に限らず問題が多いが、自分の関係する業界内の問題は具体的に耳にするので、やはりインパクトが大きい。ことは技術的な問題ではなく、あの国の人たちの精神構造にあるのではないかと思われるほどだ。

縫製が雑だというクレームは、これはもう、数え上げればきりがない。まともな縫い代が確保されていないので、本来縫い合わされているべき部分が穴になっていたりする。これなんか、縫い代をけちって用尺を節約し、余った生地を他に流用するためとしか思われない。ロットが大きいと、塵も積もればなんとやらで、かなりの量を流用できるだろう。

さらに、ズボンのサイドのステッチが中のポケットを縫い込んでしまっていたり、腕や脚の部分の裏地が中で一回転して通せんぼしていたりするのもある。どうやったら、こんなふうに縫えるのか、不思議になるが、中国の縫製工の賃金は出来高制なので、失敗してもお構いなしにどんどん流してしまうのだろう。

「両側に右袖が付いている」  なんていう例もそれほど珍しくないが、やはり前述の事情で、途中で失敗に気付いても気にしないという事情によると思われる。両方に右袖の付いた服が 1着出荷されたら、当然の結果として、両方に左袖の着いたのも 1着存在するだろう。

ベビー服のカバーオールで、ドットボタン (ホックのようなタイプ) を外そうとして引っ張ったら、凸が凹から抜けず、ボタン自体が生地から外れてしまって、生地の方に穴が残ったなんていうクレームは、ものすごく多い。多分、日本全国で 1日に何百件と起きていることだと思う。

これなんか、以前は生地が弱いのと、若いお母さんの取り扱いが荒いせいだと思っていたのだが、よく調べると、ボタン取り付けの際にきちんと位置決めのコマを使わずにテキトーに付けるので、中心線が合わず、外そうとすると無理な力がかかってしまうためのようだ。

全国の若いお父さん、お母さんは、ベビー服のドットボタンを外すときは、くれぐれも慎重に一つずつ外してもらいたい。そうでないと、生地に穴が開くから。それから、直接肌に触れる服を着せる前には、念のため一度洗濯しておく方がいい。以前に書いたこんな問題も気になるので。

ドットボタンだけでなく、普通のボタンもかなりいい加減に付けるので、外出から帰ったら 5個のボタンのうち、3個が消えていたなんてのも珍しくない。中国製の衣料品を買って、ボタンの取り付けが甘いと思ったら、自分で補強しておくことをお奨めする。

さらに問題なのは、企業ぐるみの不正としか思われないケースだ。

近頃、ドライクリーニング指定の衣料品を、洗濯屋さんが指定通りにドライクリーニングしたら、色落ちしてしまい、一緒に洗った他の服まで染まってしまったという例が多く報告されている。

これを調査してみると、日本のメーカーは仕様書で染料による染色を指示しているのに、中国側が勝手に顔料で染めてしまっているというのが原因ということが多い。顔料で染めたものをどっとドライクリーニングしてしまったら、これはやばい。

これは、顔料の方がずっと安いという事情による。勝手に安く上げてしまい、工賃の差額を横領してしまうのだ。それではやばいというので、日本側が必要量の染料を確保して送りつけてやると、敵もさるもの、その染料を他に転売してまで、安い顔料を買ったりする。

彼らはどうも、顧客との長期的信頼関係を築いておこうなんていう意識がないようなのだ。儲けられるうちに、手段を選ばず儲けておこうということらしい。これに関しては、中国人自身が、今の共産党独裁体制が長くは続かないと感じているためと指摘する人もいる。

こうした事情を知っていると、四川大地震で救援物資を軍が横流ししていると聞いても、全然驚かない。むしろ、そうなるものと初めからわかっているので、四川の被災者には気の毒だが、具体的な行動を起こす気になれないでいるのである。

まあ、日本においても食品偽装や耐震強度偽装の問題があって、五十歩百歩かもしれないが、少なくとも、衣料品のほとんどが国産という時代 (つい 15年前には、中国製なんて探してもなかなか見つからなかった) には、こんな問題はほとんどなかった。むしろ 「過剰品質」 なんて言われていたものだ。

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2008/06/26

季節意識と 「らしさ」

ちょっと前までは、"Today's Crack" の更新は、日付が変わった直後あたりだった。夜中に更新作業をし、12時過ぎにアップロードして寝るのが日課だったように思う。

ところが、近頃それが遅れに遅れている。朝のうちに更新できればいい方で、夜になることも度々だ。

どうも近頃、若い頃ほど遅くまで起きているのが辛くなったのである。以前はこなさなければならない作業を終えるのが夜中の 12時になっても、それからブログの更新作業を済ませてから眠りについていた。

ところが、近頃は仕事のけりの付くのが夜の 10時半ぐらいを過ぎてしまうと、もう風呂に入って眠ってしまいたくなるのである。それで、朝の電車の中で更新というスタイルに移行してしまっていた。

さらに、一昨日までの信州旅行である。日曜日に車で出発したのが朝の 6時だったので、朝の更新もできなかった。で、いっそのこと、夕方過ぎにその日の旅日記をアップしようと思ったのである。

それが 3日間続き、旅から帰ったら朝の更新に戻ろうと思っていたのだが、昨日もいろいろやることがたまっていたせいで、夕方過ぎになってしまった。「これではいかん」 と、今日は朝の電車の中で作業している。

で、本題だが、今日は寒い。かなりまともな梅雨寒である。最高気温は 19度と予想されている。季節が一気に 2ヶ月以上戻ってしまったような天気だ。昨日までは半袖ポロシャツ 1枚だったが、今日は T-シャツの肌着、長袖シャツ、ジャケットと、3枚重ね着している。それでも涼しいぐらいだ。

ところが、電車の中を見渡すと、半袖シャツだけで、肩をすくめて震えている人が結構いたりする。朝の出がけに、この寒さに気付かなかったんだろうか?

私はここで、「日本は世界で唯一四季のある国であるという誤解」 というのを思い出した。唯一とまではいかなくても、日本ほどはっきりした四季のある国は珍しいと思っている人はかなり多い。

実際には、中緯度にある国ならほとんどはっきりした四季があるのだが、日本人の四季意識というのは、確かに際だって高いと思う。それだから、夏至も過ぎたことだし、寒いはずがないなんていう思いこみで、朝に半袖シャツだけで出かけてしまったりするのかもしれない。

日本人の四季意識の高さは、有史以来の文化に支えられていると思う。農業が生活の基盤だけに季節ごとの仕事がほぼ定まっている。そして四季それぞれの祭りをし、和歌で四季折々の風物を読み込む。

俳句なんていうことになると、季語を歳時記としてルール化し、五七五の中に季節を織り込まなければならないなんてことになっている。その日がたまたま暑かろうが涼しかろうが、はたまた寒かろうが、夏は夏ということになっている。

春は春らしいのが一番いい。そして同様に、夏は夏らしく、秋は秋らしく、冬は冬らしいのが好まれる。我々はどうやら、自らの季節意識に縛られているようなのである。そして我々を縛るのは季節意識だけではなく、男らしさとか女らしさとか、若者は若者らしくとか、野球選手は野球選手らしくとか、そんなレベルにまで広がっている。

「らしさ」 というのは、なかなかのくせ者である。私はそれを一概に否定しないが、一応わかった上で、ちょっとだけ外すのがおもしろい生き方だと思っているのである。

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2008/06/25

「酒離れ」 の事情

若者の酒離れ→女性“登板” 開発・販促の主役に」 という記事が目を引いた。酒をがばがば飲む男が減ったので、女性にちまちま飲んでもらおうということのようなのだ。

最近、本当に酒離れが進んでいるらしい。かくいう私も最近酒を飲まなくなって、酒代は若い頃の 2割以下に減っていると思う。

私は、体質的にそれほどの量の酒は飲めない。前はそれでも大分鍛えたから相当飲めたが、近頃はまた酒量が減ってきて、ちょっと飲むといい機嫌になる体質に戻った。とはいえ、酒そのものは嫌いではなく、どちらかと言えば好きな方だ。美味しい酒をちびちび飲んで楽しみたい口である。

だが、世の中では迂闊に 「酒が好き」 なんて言えないのである。「酒が好き」 なんて聞くと、待ってましたとばかり大酒に付き合わせたがるオッサンが多いからだ。私は酒は好きだが、酒にだらしのない人は嫌いなのである。

「ちょっと小一時間」 とか言うので、仕方なく付き合っても、それで済むなんて事はまずない。2時間、3時間になる。コンスタントに飲み続けて 1時間を越したら、まともな話になんてなるはずがないのである。付き合いきれないじゃないか。

だから、いっそのこと、「私は酒は一滴も飲めません」 ということにしてしまいたいのだが、今さらそんな白々しいことを言っても、私が飲めないわけじゃないことはみんな知ってるので、そういうわけにも行かない。

だが、若い連中、とくに新入社員は、「酒は嫌い」 とか 「体質的に飲めない」 とか公言してしまう方が楽なので、そういうことにしているのが案外多いと思う。

実際には親しい友達とはちびちび飲んでたり、あるいはカクテルにはめちゃくちゃウンチクがあったりしちゃうのかもしれないが、今の世の中、表向きには 「一滴も飲めません」 ということにしてしまう方がずっと楽だ。大酒飲みに延々と付き合わされずに済むからである。

「社内の飲みニケーションは付き合いとして重要で、社会的なことを学ぶ機会になる」 なんていう人も多いが、それも人によりけりだ。確かに上手に飲み食いしながらいろいろなことを教えてくれる先輩もいないではないが、80%は、一人で酒を飲むのがわびしいので、人を巻き添えにしたがるだけのオッサンである。

さらに良くないのは、一緒に大酒を飲んで妙な共犯関係を構築しておきたいという意識のオッサンである。そんな人とは、距離を取って付き合う方がいい。そうでないといつの間にか、周囲からは芳しくない派閥の一員と目されてしまっていたりする。

一緒に酒を飲むことで、社内の非公式な情報や世の中のアヤを知ることができるなんていう向きもある。しかしそんなことは、ちょっとアンテナを研ぎすまして意識的になることで、酒なんて飲まなくても知ることができる。

私の見るところでは、酒で神経が鈍感になってしまうために、気付くべきところに気付かないで失敗してしまうことの方がずっと多い。

私の場合、近頃では 「車を運転して帰宅しなければならないので」 といえば、大酒には付き合わなくてもすむようになった。ありがたいことである。酔っぱらい運転への罰則強化は、思わぬ効果をもたらしている。

というわけで、「若者の酒離れ」 という現象には裏があると思うのである。だから、だらしなく延々と飲む酒は売れなくなるだろうが、ちょこっと楽しむ酒は、ちょこっと売れるだろう。お酒のメーカーとしては、大量に飲んでもらわないと儲からないだろうが。

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2008/06/24

信州旅日記 3

2泊 3日の信州の旅が終わった。2日目の夜から 3日目は仕事とはいえ、ほぼ 2日間は行きたいところに自由に行けるというスケジュールが取れたのは、ありがたかった。

1泊 2日の出張のついでに、大急ぎでどこかに立ち寄るなんていうのとは違い、少しは 「旅をした」 という実感がもてる。

今回の旅は、長野県の北部から中部といったらいいのだろうか、軽井沢から小諸、そして長野市、戸隠、妙高から、塩尻、松本というルートだった。

天気がよかったらビーナスラインも辿りたかったのだが、あの辺りは若い頃に徒歩でさんざん行ったから、いいとしよう。

今日は、木曾街道の宿場町、奈良井宿の街並みをながめた。

この写真がそうだが、休日は観光客でごったがえすらしい。今日は平日なのでとても落ち着いて見ることができた。とはいえ、仕事がらみでの立ち寄りなので、堪能するほどにはゆっくりできなかったのが残念だが。

いずれにしても、晴れ男のジンクス通り、屋外を廻る仕事の日にはしっかりと晴れてくれたというのがありがたい。

仕事が少し早く終わったので、帰りに松本まで脚を伸ばして、松本城を見学した。写真もたっぷり撮ったのだが、なぜか全然保存されていないのが残念である。一体どうしちゃったんだろう。

最後の立ち寄り先での写真がないのは痛恨だが、今回の旅はなかなかいい旅だった。地元の人とも、それにひょんな事から外国の人間とも触れあえたし、うまいそばはたっぷり食べたし。

さあ、明日からはまた日常の仕事に戻ることになる。

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2008/06/23

信州旅日記 2

今日は長野県内に大雨洪水警報が出てしまって、いかに私が晴れ男でも、こればっかりはどうしようもなかった。雨の中の、戸隠神社と諏訪大社の巡礼である。

とくに戸隠神社は戸隠高原、つまり下界から見たら雨雲の中にあるので、もう土砂降りなんてものじゃなかった。

それでも、中社はしっかりと傘をさして参拝できた。この分なら、奥社も行ってしまおうかと思い、駐車場に車を止めて、徒歩 30分という参道を歩き始める。

しかしそのうちに、雨は本降りから土砂降りと化し、さらに豪雨となる。山の中の参道はまたたく間に濁流みたいになってくる。

「ここで遭難しちゃったら、カッコ悪いな」 と思い、諦めて引き返した。ズボンはびしょ濡れである。

しかたがないので、野尻湖方面に降りて行き、ナウマン象博物館と一茶記念館に立ち寄る。小林一茶という俳人は、洒脱な俳句を残しているが、実生活では弟と親の遺産争いでなかなか大変だったようなのである。

一茶記念館のロビーのテレビゲームで、俳諧クイズというのに挑戦し、5問全問正解したので、「たくみょう」 の名を登録しておいた。上には上がいるもので、私より短時間で全問正解した人が 8人もいて、私はベスト 9 にようやく入っていた。

戸隠高原の道を引き返す途中で、米国からやってきた学生のアイザック君が雨の中で親指を立てているのを発見。長野市内まで乗せてあげる。彼はこの 5月に日本にやってきて、1年かけて北海道から九州までヒッチハイクするんだそうだ。

途中、戸隠そばをおごってあげたら、そばを食うのは初めてだということだが、美味しいと気に入っていた。うむ、そばの好きなアメリカ人が増えると、私もうれしい。「音をさせていいんだからね」 というと、おずおずながら、ちゃんと音をさせてすすっていたし。

日本を 1年がかりで旅行するというほどだから、彼は、昔なら 「ヘンな外人」 と言われたタイプの人間である。ヨガとか座禅が大好きなんだそうだ。だったら、京都に行く前に永平寺に寄りなさいと勧めておいた。

長野市内でアイザック君をおろし、諏訪大社に向かう。来年の春まで、大きなリュックを背負って街道でヒッチハイクしてる若い外国人がいたら、アイザック君かも知れないので、乗っけてあげてもらいたい。

で、諏訪大社の話だが、一口に諏訪大社と言っても、何と諏訪湖の北と南に、4カ所のお社があるので、全部巡るのは大変だ。上社と下社があるというのは知っていたが、上社に前宮と本宮、下社に春宮と秋宮があるというのは、恥ずかしながらここに来て初めて知った。

上社本宮は、入り口の鳥居を潜った先が拝殿という、普通の日本の神社のスタイルではない。拝殿に向かって横っちょから入る。折口信夫博士が 「日本の最も古い社の形式を残している」 と解説している。

神社は神の領域であって、参拝する人間は別にゲストってわけじゃなく、いわばご相伴にあずかるだけだから、正面からではなく、ご用聞きが勝手口から入るみたいに、横っちょから入るんだそうだ。なるほどね。

時代が下るにつれて、参拝客がご用聞き待遇からゲスト待遇になって、正面から入るようになったんだそうである。

上社前宮は、なかなかひなびたお社でいいムードである。ここで近所のおばあちゃんと親しくなってしまって、話に花が咲いた。このおばあちゃん、毎日急坂を登って参拝するんだそうだ。足腰が鍛えられているので、若く見える。87歳と聞いてたまげた。

このあたりから、さしもの雨も止んできて、私の晴れ男ぶりが遅ればせながら効いてきた。下社の春宮と秋宮は、傘は要らないぐらいの小降りになっていた。

明日は今回の信州旅行の本当の目的である取材の仕事に入るが、屋外での撮影は、どううやら OK になりそうである。「曇り時々晴れ」 という予報だ。つい一昨日までは 「曇り時々雨」 という予報だったが、「私の出張はまず大丈夫」 と思っていた通りである。

遊びの日程部分では降っても、仕事になると晴れるのである。私は、本当は真面目人間の晴れ男なのである。

(ちなみに、写真は諏訪大社上社本宮)

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2008/06/22

信州旅日記 1

今朝つくばの地を発って、二百二十キロの道のりをドライブし、信州までやってきた。さっき善光寺の参拝を終えて、ホテルの部屋に入ったところである。

今日は梅雨前線が活発化して、車で移動中にはかなり雨が降ったが、大変よくしたもので、立ち寄り先ではぴたりと止む。

この、いくら降っても止んでもらいたいところではぴたりと止むというのは、私にはよくあるケースで、私の晴れ男ぶりというのは、かなりしぶといものがある。

ほら、これが証拠写真。善光寺参拝の人、誰も傘を差してないでしょ。

信州は若い頃に何度か来たが、軽井沢というところには一度も足跡を記していないことに気づき、ふとした気まぐれで、群馬と長野の県境を越えてから、まず軽井沢に立ち寄った。

途中の道はなかなか景色がいい。空が晴れていれば、さらに絶景だろう。しかし、軽井沢は、まあ、そこは何というか、信州の原宿といった感じで、別におもしろくもないので、早々に引き上げた。

小諸に向かう途中、「きこり」 というそば屋に寄って、田舎そばに二八のお変わり付きを食べた。なかなか立派なそばだった。おすすめしておく。

それから小諸の懐古園に立ち寄り、善光寺さんには三時頃に到着。「遠くとも一度は詣れ善光寺」 なんていうが、まさにその通りで、なかなかいい雰囲気の寺である。ちなみに、これには 「救い給うは弥陀の本願」 という下の句が付いて、道歌なのだというのを初めて知った。

お戒壇巡り」 というのもちゃんとやって、秘仏の御本尊様と結縁を果たした。これは往生の際にお迎えに来ていただけるという約束をいただいたことになるらしい。まあ、私は別に往生しなくても既に極楽蜻蛉だけどね。

これから、夕食を食べに出かける。せっかくの信州だから、夜もそば料理にしようと思っている。

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2008/06/21

鳩山法相のエキセントリックな怒り

鳩山法相が、アサヒに 「死に神」 呼ばわりされたことに、ひどくご立腹のようだ。確かに、公務を遂行しただけの人を捕まえて、全国紙のコラムで 「死に神」 とはひどい。

ただ、それに対する鳩山法相の抗議というか、反論というか、それがちょっとエキセントリックで、やっぱりこの人らしい。

時事ドットコムによると、鳩山さんは 「斎戒沐浴して (死刑囚に関する) 記録を読む心境は穏やかではないが、社会正義実現のためにやらざるを得ないという思いでやってきた」 と述べられたそうだ (参照)。斎戒沐浴とは、なかなか大時代的で驚いた。

ちょっとした揚げ足とりをさせてもらうと、私としては娑婆のゴタゴタを去って穏やかな気持ちになるために斎戒沐浴をするんだと思っていたが、それでも心境が穏やかにならないというのでは、鳩山さん、あんまり意味のないことをしているようだ。

揚げ足とりでなく、正真正銘わけがわからないのは、「彼ら (死刑囚) は 死に神に連れて行かれたのか。違うだろう。執行された方に対する侮辱で、軽率な記事に抗議したい」 という発言である。

「死に神に連れて行かれた」 と言ってしまうと、死刑を執行された人間に対する侮辱になるのだそうだ。そうかなあ。私が死に神だったら、「俺が死刑囚を連れて行って、なんで侮辱になるんだ !?」 と、名誉毀損で怒るところである。死に神がいるとすれば、それこそまさに、粛々と公務を執行しているだけのことだ。

「死に神」 呼ばわりされたことに対する怒りなら、「公務を執行しただけの大臣に対して、『死に神』 とは何だ!」 とフツーに怒ればいいのに、「彼らは死に神に連れて行かれたんじゃない」 なんて、エキセントリックなレトリックで、机を叩いて怒ってみせるというのは、まあ、この人らしいということなんだろうなあ。

さすが、「友人の友人がアルカイダ」 とか 「秘書時代はペンタゴンにご馳走になってた」 とか、エキセントリック発言の名手であると、ちょっと感じ入ってしまったのである。

記事を書いた記者たちも、法相の発言にまともなストーリーが通らないことに、少しは戸惑ったんじゃないかと思う。とはいえ、とくにサンケイなんか、怨敵のアサヒ叩きのためにしっかり書いたんだろうが、それでも発言に関しては、「まあ、言ったとおりに書いとくか」 ってな感じだったと思う。

私の記者経験に照らしてみても、エライ人の子供じみた発言の取り扱いって、ちょっと困ってしまうことがある。

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2008/06/20

自己嫌悪と感傷と、土壌改善

産経新聞の一面、題字横に、「朝の詩」 というのがあって、読者の作ったらしい詩のようなものが載せられている。

少し前の 「朝の詩」 の中で気になるフレーズを見つけた。「自己嫌悪はいい/いけないのは感傷だ」 とかいうものだったと思う。私は 「なんだ、そりゃ?」 と驚いた。

私自身の感覚としては、自己嫌悪しているやつに、付き合っておもしろいやつはいないと思っている。そりゃ、ナルシシズムの強すぎるのも付き合いきれないが。人間、基本的に自分が嫌いでは具合が悪かろう。

そして、時にはちょっとした感傷に浸ることもいいじゃないかと思うのである。感傷は人生の潤滑剤だ。レイモンド・チャンドラー作のあのハードボイルドな探偵フィリップ・マーロウだって、根は案外センチメンタリストである。

ところが、この 「朝の詩」 の作者は、私の感覚とはまったく逆のことを言っているのである。言わんとすることは、感傷なんかに浸っていないでがんばれということらしい。自己嫌悪すれば、嫌悪しなくてすむ自分になるようがんばれるという文脈のようなのだ。ほほう、そういう考え方もあるのか。

これを読んだ直後に、例の秋葉原の事件があった。そして加藤智大容疑者に関する記事を読むと、こいつはどうも、「自己嫌悪」 というのをあまりしていないようだ。どちらかというと、悪感傷に浸っている。

彼のロジックでは、悪いのは自分ではなく、親と世の中である。そして、たまたま不細工な容姿に生まれついたせいで彼女ができないとか、職場で不当な扱いを受けるとかの不運にしか見舞われない自分が不憫でならないという、妙な感傷を抱いているようなのだ。

なるほど、「自己嫌悪はよくて、感傷はいけない」 という論理にも、一理あるかもしれないと思った次第なのである。しかし、よく考えると、問題は少し別のところにある。どれがよくてどれがよくないという問題ではなく、変な言い方かも知れないが、要するに 「運用次第」 なのである。

例えば、「お金そのもの」 は、ニュートラルである。いいものでも悪いものでもない。それは 「金にきれいか、きたないか」 という人間次第の要因で、よくも悪くもなる。そして、世の中のほとんどは、そんなようなものである。

「上手な自己嫌悪」 というものがあるかどうかしらないが、もしそれをすれば、「朝の詩」 の作者の言わんとするように、自分が好きになれるように努力できるかもしれないし、うまく感傷的になれば、人に優しくもなれるかもしれない。

根っこの部分でポジティブな方向を向いているか、ネガティブな方向を向いているかの違いだろう。

加藤智大容疑者は、根っこの部分でネガティブな方を向いてしまったみたいなのである。それを修正するには、土壌 (つまり、周囲の心配りかな?) から改善しなければならなかったんだろうが、それに気付いてくれる人が身近にいなかったのだろう。こういうのは、いたちごっこになりやすい。

ここまで考えて、今、一応幸せと感じていられる人は、自分の周囲の土壌改善に少しだけ気を配ってあげられるといいなあと、遅ればせながら気付いた。七面倒くさい議論で時間つぶしするよりも、その方がずっと役に立つだろう。

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2008/06/19

チョメチョメ 4 レポート

倉庫の二階主催、「席亭と吉幸のオールナイトチョメチョメ 4」 に行った帰り、夜の電車の中でこの記事を書いている。まあ、翌日分の予定稿というわけだ。

実はこのところ、休みが全然取れていないので、できれば早めに帰って寝たかったのだが、やっぱり行ってしまったのである。

4月の 「チョメチョメ 3」 についての記事で、「6月 18日に両国で会いましょう」 なんて書いてしまったのを、実はちょっとだけ後悔していたのだ。もう本当に、近頃全然休んでなくて、今日こそは早く帰宅して寝ようなんて誘惑に、負けそうになっていたのである。

ところが、朝一番で自分のブログの更新をして、コメント欄にざっと目を通すと、村田席亭さんからのありがたいコメントがあったのである。"「両国亭で会いましょう」 と歌いながら、今回もお待ちしております" なんて書いてある。

ありゃりゃ、こうなると私は断り切れなくなってしまう。席亭さん、あれでなかなか営業上手なのかしらん。

それに、ようちゃん 2号さんからのコメントまである。"ここで読ませてもらって、手帳に予定を入れて楽しみにしていました" とある。ああ、ここまできたら、絶対にスルーできない。今週末は車で信州にでかけるというのに、寝不足はついに解消できそうにないのである。

というわけで、午後 7時 20分頃に両国亭に着いてみると、今回は妙にお客が多い。「ツばなれ」 なんてもんじゃない。20人近くはいる。前回の倍とまではいかないが、確実に増えていて、吉幸さんも席亭さんもずいぶんご機嫌である。

ところが、席亭さん、途中からえらく辛そうな感じになってくる。聞けば、前夜 15分ぐらいしか寝ていないという。おお、私以上に寝不足じゃないか。若いからいいけど。

で、なんだか 「落ちそうで落ちない超低空飛行」 みたいな、妙なおもしろさが持続するという、「これぞチョメチョメの真骨頂」 とでも言えそうな 90分になった。こういうおもしろさ、実は私は好きである。こちらも疲れによる変な高揚状態 (超低空高揚状態?) なので、ちょっとしたことに反応して吹き出してしまう。

それに、帰りにようちゃん 2号さんにもお会いできて一緒の電車で帰れたし、なかなかいい夜を過ごせたのであった。こうなったら、8月 20日の 「ちょめちょめ 5」 にも行っちゃおうと思う。関東一円で、お笑いの好きな人もぜひどうぞ。残暑の両国で会いましょう。

ここからは翌日の追記。

チョメチョメ 4 では、吉幸さんが 「"すべからく" という言葉はあぶないから、"おしなべて" というべきだと教わった」 と、妙に 「おしなべて」 を連発しておいでだった。そういえば、これについては、私も 3年以上前に書いているので、おひまならこちらをみてね。

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2008/06/18

熱中症対策は 「我慢しないこと」 らしい

取手駅に向かう道すがら、カーラジオで気象予報士の森田正光さんが熱中症について解説するのを聞いた。

熱中症にかかるのは、男の方が圧倒的に多いんだそうだ。東京消防庁の熱中症患者の搬送データによると、毎年、男がほぼ 70%を占めるらしい。(参照

こう聞くと、男の方が暑い日向で肉体労働をする機会が多いとか、いくらクールビズが普及しても、男の方が圧倒的に暑苦しい格好を強いられるからとか、いろいろな社会的条件を思い浮かべてしまうが、そもそも肉体構造的に、男女には体温調節機能の差があるんだそうだ。

筋肉活動は体温を上昇させる結果をもたらすが、男は女より 10%程度筋肉量が多いので、体温が上がりやすいという。さらに、外界温と体温との緩衝材になる体脂肪が男の方が少ないので、体温が変化しやすいということになっている。

そうであったか! 夏になると真っ赤な顔して汗だくになり、扇子をパタパタさせながら 「暑い暑い」 とわめきちらすのは圧倒的にオッサンに多いとは思っていたが、それは無理からぬことだったのである。オッサンの存在が暑苦しいのは、仕方がないのだ。

ただ、森田さんはこうした肉体的条件のほかに、精神的な 「限界耐性」 ということに触れておいでだ。人間が肉体的なつらさを我慢する限度というものにも、男女差があるらしい。

出典は不明だが、森田さんによると、平均的に女は限界の 50%ぐらいで 「あたし、もうダメ」 と感じ、一方、男は 70%ぐらいまで我慢してしまうらしい。つまり、男の方が体力の限界近くまでがんばってしまう傾向があるというのだ。

熱中症で病院に運ばれるケースをみると、オッサンがジョギング、ゴルフの最中に倒れてしまったというのが、圧倒的に多いらしい。ああ、悲しいかな、男というのはジョギングだのゴルフだのでも、しなくてもいい我慢をしてがんばってしまうもののようなのである。

熱中症予防には、とにもかくにも水分を補給することと言われるが、それ以前に、下手に我慢してがんばりすぎないことが、最も重要のようなのだ。私なんか、普段はいい加減なくせに、妙なところでがんばっちゃうところがあるので、気を付けようと思う。

もっとも、がんばらなくても熱中症になってしまう例もあるらしい。夏の暑い中で寝ているうちに、いつの間にか発汗で脱水症状になっているのに、当人は眠っているのでそれに気付かないで、熱中症になってしまったなんてこともあるというのだ。

がんばらなきゃいいと言っても、寝てばっかりもいけないのである。

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2008/06/17

気持ちの悪い日本語

私は 「気になってならない」 というブログのファンで、よく巡回する。そこには 「日本語を読み書きするときにおかすマチガイを中心にした読み物」 という副題がついている。

変な日本語に遭遇すると、本当に気になってならなくなる。ああいう日本語を使う人は、自分で気持ち悪くならないのだろうか。

日常的によく見かけるのは、「だ、である」 と 「です、ます」 の混在である。これは、まったく混在させてはならないというわけではない。意識的にまぜてしまう場合だっていくらでもある。しかし、明らかに無意識にやられると、読む方は気になってならない。

センテンスがだらだらと長く続いているうちに、いつの間にか主語と述語が一致しなくなっている場合もよく見かける。これは、文章をよく書く人もたまにやらかしてしまうことなので、注意が必要だ。これを予防するには、センテンスを短めにして、ハードボイルドな文体にしてしまうのが一番である。

受動態と能動態のごちゃ混ぜも気になるところだ。元々日本語は自他の区別が曖昧な傾向があるので、無意識のうちにこれをやってしまいがちだが、必要があって英文に翻訳する場合など、事情を知らない人が機械的に直訳してしまうと、意味がまったく逆になってしまったりする。

それから、対になる構造を強調する場合、読み方で、その 「対」 の部分をさらりと読み流して、他の部分にアクセントを置くというのも、とても気になる。私だったら、そんな読み方をしたら気持ち悪くてどうしようもなくなる。

ちょっと前から気になってならないラジオ CM がある。コスモ石油の 「あいさつはなくとも、生きてゆけるけど、あるとしあわせ。」 というものだ。

あいさつというものが、「なくても別にいいけど、あるともっといい」 という構造である。つまり、「ある」 と 「ない」 の 「対」 が重要なのだ。ところが、CM のナレーションの 「あいさつはなくとも」 という部分は、「なくとも」 がさらりと流されてしまっている。ごくフツーの 「あいさつがない」 のバリエーションだ。(急に文語体なのも気になるといえばなるし)

微妙なところだが、私ならもう少しだけ 「なくとも」 の部分にアクセントを置きたいものだと思う。そうでないと、気持ち悪さが残る。このナレーションで、ディレクターはよく NG にしなかったものである。

最近の CM は、猫なで声がはやりのようなので、雰囲気としてのホンワカ志向に意識が行きすぎて、ロジックの方がおろそかになってしまったんだろうか。ロジックはロジックとして、雰囲気の犠牲になってはならないと思うのだが。

ちなみに、上記の 「あいさつはなくとも、生きてゆけるけど、あるとしあわせ。」 という記述は、コスモ石油のサイトからそのままコピペしたものだが、よくみると、もともと読点 (「、」)の位置がおかしい。

この読点だと、あのナレーションになるのも無理からぬところかもしれない。厳密にいえば、あいさつなしで生きていった上で、唐突に 「あるとしあわせ」 ということになる。意地悪な人なら、「何があると幸せなの?」 とツッコむかもしれない。

私なら、「あいさつは、なくても生きていけるけど、あるとしあわせ」 と、「あいさつは」 の下に 「なくても……」 と 「あると……」 を対照的な並列関係で記述したいところである。(さらに、「なくても」、「生きていける」 と、フツーの口語体にしておいた)

コスモ石油の CM は、好感度調査で上位にランクされるそうで、 「血液と葉緑素」 篇なんて、私もちょっと感動してしまった。それだけに、「ひと言のあいさつ」 篇はちょっと残念である。

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2008/06/16

歩行者天国中止の意味

秋葉原の歩行者天国が、例の事件の影響で 「当分の間」 中止になった。この 「当分の間」 というのが、なかなかのくせ者である。

歩行者天国を中止にするだけの十分な理由、つまり、歩行者天国のデメリットが大きいなら、恒久的にやめてしまえばいい。しかしそうではないのは、ビミョーなところだからだろう。

歩行者天国は、休日の秋葉原の集客に少しは貢献していたのだろう。しかし、集まるのはオタクが多いから、セレブとか小金持ちオバサンのように金を使いまくってくれるわけじゃない。売上げ増加に貢献してきたかといえば、それはかなり疑問だ。

さらに、歩行者天国で変てこなパフォーマンスをする連中も多くなってきていたので、公序良俗を乱すととして反対してきた人も結構いる。お膝元の千代田区議会議員にもいる (参照) ぐらいだから、一定の勢力ではあるのだろう。

こうした 「方向者天国反対派」 は、恒久的な廃止を求めているのだろうが、そうはならずに、「当分の間、中止」 となっているのは、やはり歩行者天国が秋葉原の 「顔」 となって、一定のプロモーション効果を発揮してきたからだろう。

ただ、その 「プロモーション効果」 というのは、ものすごく 「気分の問題」 というのがある。それだけに、例の事件で 「秋葉原コワイ」 「ホコ天コワイ」 というイメージが生々しいうちは、止めといた方がいいだろうと、これまた 「気分の問題」 的なものが、「当分の間」 の背景にある。

それに、最も大きいのは、歩行者天国を管理する都公安委員会の立場である。あれだけの事件が起きて何もせずにいたというのでは、ちょっと聞こえが悪いので、一応、「それなりの対処はしましたよ」 というアリバイ作りのためにも、中止決定をしないわけにはいかなかったのだろう。

つまり、都公安委員会と地元の都合がなんとなく一致したための 「クールダウン」 期間と思えばいい。

しかし、都公安委員会といういかめしいお役所の決定である以上、歩行者天国歓迎派が今後再開を求めるためには、公安委員会を納得させるだけのもっともらしい条件を付けて意思表示をしなければならないだろう。

その 「もっともらしい条件」 のさじ加減次第では、秋葉原を中心とする 「オタク文化」 の、今後の発展が左右されかねない。今の秋葉原のかなりの部分は 「オタク文化」 に依存しているのだから、これをつぶしてしまうような形での歩行者天国再開では、あまり意味がない。

私自身はオタクじゃないから、どうでもいいようなことだけれど、つぶしてしまうのはもったいないような気もする。それに、オタク文化は既に、これだけのベクトルをもってしまったのだから、発信のためのステージを用意しておいてあげないと、妙にアングラ的でダークな方向に沈殿してしまいかねない。

それって、かえって危ないんじゃなかろうか。校則が厳しくて、何でも禁止という学校ほど、実際には乱れているというのと同じである。

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2008/06/15

一周忌の翌年が三回忌という不思議

母が亡くなったのが昨年の 5月 10日で、早いもので、先月一周忌をした。そして、来年の 5月は三回忌になる。

母の法事に限らず、昔から不思議に思っていたのが、「なんでまた、一周忌の翌年が三回忌なんだ?」 ということである。本当に、いくつになってもわからないことってあるものだ。

いくつになってもわからないのは、わかろうとしないからである。わかろうとしないのは、疑問にすら思わないからである。疑問にすら思わないのは、思考が怠惰だからだ。ああ、反省である。

そりゃ、不思議には思っていたのである。不思議には思っていたが、まあ、世の中そういうものなんだと、これまでずるずると、調べようともせずに来てしまった。そんなことって、案外あると思う。

で、この 「一周忌の翌年が三回忌」 というのも、この年になってようやく、「単なる不思議」 から 「まともな疑問」 に昇華して、初めてインターネットで調べてみたのである。自分の母親という最も近い親族のケースなので、その気になったのだ。

調べてみれば、何のことはない。単純な話なのであった。一周忌は 「満」 で数え、三回忌は 「数え」 で数えるのというのである。なるほど、だから、「一周忌」 と 「三回忌」 で、呼び方が微妙に違っているわけだ。

「一周忌」 というのは、「死んでから一周年」 ということで、「三回忌」 は、死んだ時が既に 「一回目の忌日」 だから、二年後は 「三回忌」 ということになるわけだ。

三回忌以後の年忌法要は、五回忌、七回忌、十三回忌、二十三回忌、二十七回忌と続き、普通は三十三回忌で年忌止めとして、打ち止めになる場合が多いらしい。三十三回忌といったら、あと三十一年後だから、私だって米寿に近い。生きてるかどうか、知れたものじゃない。

まれには五十回忌をする場合もあるらしいが、そりゃ、孫の世代に任せるしかない。よっぽど偉大なじいさんかばあさんでないと、そこまではやってもらえないだろう。私としては、親の法要はやってあげたい気がするが、自分が死んだら、そこまで引きずってもらわなくてもいい。

時々思い出したようにセレモニーをするよりも、普段から親しく語りかけるように線香をあげて供養することの方が大切だとも思う。

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2008/06/14

一生地震に遭わずにいるのが難しいなら

今や宮城県民は、日本一大地震の経験豊富な人たちになってしまった。この 10年間に、宮城県内で震度 5以上を記録した地震は、数え切れないほどある。

その中でも、今日の地震は震源が浅いところにあったため、被害が大きくなってしまったようだ。本当に気の毒なことである。

私は茨城県南西部に住んでいるが、ここも知る人ぞ知る地震の巣窟である。震度 4程度の地震なら、日常茶飯事だ。そのかわり、いわゆる大地震は少なく、震度 5以上の地震というのは、30年前にここに引っ越してきてから、5年前の 2月に一度あっただけである (参照)。

つくば周辺の地震には、もう慣れっこになってしまった。ほとんどが直下型なので、突然ズーンと突き上げがあり、かなり強い縦揺れになる。しかし、それ以上強い揺れというのはこない。だから、「突然のズーン!」 だと、かえって安心する。

怖いのは、しばらくカタカタと初期微動が続いた時である。その後におもむろに 「ゆっさゆっさ」 と大きな横揺れがくる。その横揺れが大したことがない場合でも、それはどこかほかの地域で大地震があったということだから、「震源地が実家の方なんじゃあるまいか」 と、すぐに心配になる。

今回の地震はまさにそれで、テレビを付けたら震源は岩手と宮城の県境に近いところで、最大震度は 6強、仙台市宮城野区でも震度 5強を記録したという。仙台市宮城野区といえば、妻の実家のあるところである。

こういう場合、すぐに電話をかけたいのはやまやまだが、ぐっとこらえる。テレビのニュースを見る限りでは、仙台市の被害はそれほど大きくないようだし、それに下手に回線を使ってしまうと、より緊急を要する通話の妨げになってしまう。

夜になってから、満を持して妻が電話をしたら、被害はないとのことだったので、安心した。それでも、ニュースを聞いていると、各地で被害が次から次に拡大している。余震も続いているようなので、震源近くの人はまだまだ安心して寝られないだろう。

地震国日本に住んでいる以上、誰でも大地震に遭遇する可能性がある。私は小学校 6年の時に新潟地震に遭っている。その時は折しも廊下に立たされている時だったというのは、先月の四川大地震のときに告白した (参照)。

地震に遭わずに一生を終えるというのがむずかしいなら、せめて、大地震の時にはすぐに危険回避できるところにいたいものである。おんぼろ木造校舎の廊下に立たされているときに大地震に遭遇したりすると、本当に死ぬ思いになる。

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2008/06/13

副都心線というのが開通するんだって

40歳前まで、繊維の業界紙記者をしていた頃は、東京中に出向いて取材するのが仕事だったから、地下鉄路線図がすべて頭の中に入っていた。

目的地に行くのに、何線の何両目に乗って、どこの駅でどう乗り換えればいいのか、すべてわかっていた。

今でも昔取った杵柄で、銀座線、丸ノ内線、日比谷線、東西線、千代田線、そして都営地下鉄の浅草線、三田線、新宿線といった路線なら、すいすいと利用できる。しかし、それより新しい路線になると、さっぱりわからない。

有楽町線と半蔵門線は、当時ほんの短い区間で営業開始したばかりで、ほとんど使い物にならなかったので、あまり利用しなかったし、ましてや、南北線や都営地下鉄の大江戸線なんて、影ぐらいはあったのかもしれないが、少なくとも形はなかった。

さらに、明日は東京メトロの副都心線というのが開通するんだそうだ。埼玉の和光市から、池袋、西早稲田を通り、新宿三丁目、明治神宮前を経て渋谷に行くらしい。ああ、私が大学時代にこの路線があったら、どんなに便利だったろうか。

昭和 46年、上京してワセダに通い始めた頃は、東京の地下鉄はほとんど大手町と銀座と霞ヶ関を中心にして伸びていた。丸ノ内線なんか、池袋から大手町、銀座を通って新宿に行く。

要するに、郊外から都心に通勤するためとか、都心のオフィスの連中が、山手線で遠回りせずに、池袋、新宿、渋谷に行くためという発想だったのである。山手線の西側で自由に行き来するためのものではなかった。

だから、ワセダから新宿だの渋谷だのに行くのは、結構面倒くさかった。東西線で高田馬場に出て、山手線に乗り換えなければならない。滅多には行かなかったけれど、六本木に行くときなんか、はるばる茅場町まで行って日比谷線に乗り換えるという、実に馬鹿馬鹿しい経路を辿らなければならなかった。

あの当時と比べると、東京の街の構造が変わってしまったのだと思う。都庁が新宿に移転したのが決定的な契機となったんだろうが、比重が山手線の東からかなり西に移ってしまった。

おかげで、今は山手線の西側を移動するときなんか、ケータイの路線案内で検索すると、思いも寄らなかった近道のルートが表示される。しかし、そんな路線はあまり乗ったことがないから、私なんか、まるでお上りさんである。

道理で、近頃のワセダの学生が妙に都会的すぎると思ったよ。

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2008/06/12

ブログの更新について

ほぼ 1年半ぐらい前に 「ウェブサイトの寿命」 という記事を書いた。個人サイトの寿命は大体 4年ぐらいで、それを過ぎると更新が滞りがちになったり、消滅してしまったりするという説があることを紹介したものだ。

私のサイトはありがたいことに、6年半近く続いていて、毎日更新も 5年半以上になる。

5年半以上の毎日更新というのは、掛け値なしの毎日更新ということで、「ほぼ毎日更新」 ということなら、もう 6年 4ヶ月ぐらいになる。これだけ続けていると、もう更新作業が体にしみついてしまって、更新しないと落ち着かなくなる。

とはいいながら、近頃、ネタをひねり出すのにちょっとだけ苦労することが、以前より多くなってしまった。いや、書けないということはないのである。書こうと思えば書くことはいくらでもある。しかし、自分の中に妙なフィルターができてしまっている気がするのだ。

これだけ長く更新を続けていると、傾向が固まってしまう。ちょっとしたニュースを取り上げて、それに関する論評的なことを書こうとしても、大体これまで書いてきたことと同じような角度から、同じようなことを言ってしまいがちになる。

だから、ブログでの論評に最適なニュースがあっても、「ああ、これについて触れても、新鮮味がないな」 と、自分で先に見限ってしまう。秋葉原の無差別事件は、ネットで大変な話題だが、私はこの類のニュースには触れたいとは思わなくなってしまった。

いつも同じようなことを書いても、別に何も悪いことはない。かの山本夏彦氏などは、コラムの達人と謳われながら、よく読めばいつも大体同じようなことしか書かなかった。読者はその同じようなことを読むのを楽しみにしていたのである。

浪曲の広沢虎三は、いつだって 『森の石松』 しか演らなかった。客は広沢虎三の 『森の石松』 を聞くのを楽しみにしていたのである。

しかし、私は山本夏彦氏や広沢虎三の名人芸の域に達していないのである。だから、同じようなことを書くと、自分でつまらなくなる。かといって、自分自身がそれほど不断の成長を遂げているわけでもないから、ネタ探しに苦労することになる。

というわけで、4年を待たずして更新がおろそかになったりするブロガーの気持ちが、最近少しはわかるようになってきた。私も最近は、前より更新が楽々できるということがなくなってきた。

で、毎日更新を維持するためにというわけでは決してなく、自分自身の成長のために、まず自分自身が変わっていく必要があると、今更ながらまったく青臭いことを思っているわけなのだ。

これまで書き連ねたことは、その時々の自分の表現ではあったが、その蓄積は、自分自身を拘束する。いつの間にか縛られている。そこから変わるということは、自分自身の作ってきたものを少なからず裏切るということだ。

しかし、しょうがないではないか。そうでもしなければ、おもしろくないのだから。それに、裏切る対象は、表面的な自分であり、根本的な自分はそんなに変わりはしない。だったら、あっけらかんと裏切ってしまう方がいい。

他人を裏切るのは心苦しいが、昔の自分を裏切るんだから、誰にも迷惑はかからないだろうし。とはいいながら、やっぱりその裏切り行為ってのは、ちょっと辛いところがあるわけで、少しは産みの苦しみみたいなものが伴うのは、仕方のないところだ。

とまあ、最近はそんなことを考えている。実はこの記事は、朝の 9時前に書き上がっていたのだが、公開するのがなんだか照れくさくて、夕方過ぎまで寝かせてしまった

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2008/06/11

「お徳用」 は、どうして 「お得用」 じゃない?

この前の日曜日、車を運転しながら TBS ラジオの 「子ども電話相談室」 を聞いていると、おもしろい質問があった。

「どうして 『お徳用』 の 『とく』 の字は、『得する』 の 『得』 じゃないんですか?」 というものだ。なるほど、そう言えば不思議である。これだから、子どもには油断できない。

普通に考えれば、「お得」 な商品なのだから 「お得用」 でいいような気がする。しかし、商品のパッケージに 「お得用」 と表示されてしまうと、買う方は、それを選ぶのがなんとなくさもしいような気がしてしまう。

「お徳用」 の表記を 「お得用」 に変えたら、多分売上げが落ちでしまうんじゃなかろうかと思う。それで 「お徳用」 という表記にして、客をおだてているのだろう。つまり、ほとんど気分の問題である。

ネットで検索してみても、似たような見解が多い。それにストレートに考察しても、「徳」 の字には 「人徳」 といったような精神的な意味合いの他に、「利益」 という意味もあるから、厳密に言っても間違いというわけじゃない。

何しろ、漢字は中国でできたものだから、彼の地の価値観がうかがわれることが多い。あの国は、新年の挨拶に 「新年快楽、恭喜発財」 なんていうぐらいのものだから、かなり物質的なコンセプトが大好きなようなのである。チョー俗的なのだ。

まあ、そんなことで中国的価値観と日本的価値観が曖昧にごっちゃになって、「お徳用」 という表記が一般的になっているというのが、正解だろう。

ちなみに、私はこの質問で 「月極」 という表記を連想してしまった。最近は 「つきぎめ」 と読めなくて 「げっきょく」 という会社の経営する全国チェーンの駐車場と思っている若い人もいるそうで、その誤解を避けるために 「月決」 という表記も増えているようだが。

これも 「極」 という字に 「決めごと、約束」 という意味があるとのことで、「月極」 でいいんだそうだ。これなんかも、なんとなくモロコシ的価値観が無意識に混じっているような気がする。

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2008/06/10

福田首相の曲がったネクタイ

いささか旧聞で、しかもどうでもいいといえば本当にどうでもいいことなので、触れないでいたが、あまり誰も触れないので、ここは私が触れなければならないのかと思い、おずおずとだが、書いてみることにする。

何かといえば、欧州訪問を終えて 5日に帰国した福田首相のネクタイの曲がり方である。

羽田空港に着陸した専用機のタラップに姿を現した福田首相のネクタイが、かなり曲がっていたのである。わが家では、「福田さん、もっとちゃんとネクタイしないとだめじゃん」 と話題になった。

ネットで検索したら、毎日新聞のサイトにその時の写真を添えた記事が見つかった (参照)。この記事の写真では、撮影角度のせいかあまり目立たないが、当日のテレビニュースではかなり曲がり方が目立っていた。

福田さん、「スーツの方が "かりゆし" より肩が凝らない」 (参照) なんていうぐらいなら、ちゃんと気を付けてもらいたいものだ。なお、毎日新聞の記事は、放っておけばすぐに消えてしまうのが確実なので、不本意ながら魚拓を取っておいた (参照)。

で、ネクタイの曲がり方なんていうのは、実はどうでもいいことなのである。私はネクタイなんか年に 20回もしないので、別に締め方に特別なウンチクをもっているわけでもなんでもないし。

ただ、私が気にかかったのは、総理の周辺には、ネクタイの曲がりに気を配ってくれる側近がいないんだねという、そのことなのだ。

欧州歴訪を終えて着陸した飛行機のタラップに姿を現せば、新聞やテレビのカメラが一斉に首相の姿を捉えるのはわかりきっている。それなのに、誰も首相のネクタイの曲がりを直してあげようとしなかったのは、一体どういうことなのだろう。

気の利いたスタッフが一人でもいれば、飛行機の出口に向かう首相の姿をさっとチェックし、小声で 「首相、ネクタイが曲がってます」 と注意してあげるぐらいのことはするだろう。あるいは、さりげなく直してあげてもいいかもしれない。

私みたいに妙なところで重箱の隅をつつくのが好きなやつも少なくないから、首相側近というのは、ネクタイ一つとはいえ、きちんと気を配っていなければならないのである。少なくとも、米国大統領だったら、あんな姿で飛行機のタラップには現れない。

ところが、同行スタッフの誰一人として、首相のネクタイに気を配ったりはしなかったのである。福田さん、よっぽど人望がないんだろうか。あるいは、既に見放されてるんだろうかなどと、おずおずながら思ってしまったりするのである。

あのネクタイの曲がり方は、いろんなことを象徴しているように思えてしまったのだ。

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2008/06/09

Duck! は、「伏せろ!」

英語で "duck" といえば、もちろん 「アヒル」 のことだが、他に同音異義語として、「ひょいと水にもぐる、身をかわす、伏せる」 とか 「ズック」 とかいう意味がある。

「水にもぐる」 という動詞は、アヒルの動作からきたものだろうが、"duck!" と大声で言うと、それは 「伏せろ!」 ということになる。

昔、米国の都市のセキュリティが今より全然どうしようもなかった頃、つまり、大都市がかなり危険だった頃、私は仕事で初めてニューヨークに行った。

宿泊していたホテルのロビーで銃撃事件があり、「パンパン!」 とおもちゃのピストルのような音がしたと思ったら、オッサンが血を流し、目をむいてくたばっていたというぐらいの時代である。

そんな時代だから、出発する前に 「安全にはくれぐれも気を付けろ」 と、いろいろな人からアドバイスをもらった。その中に 「"Duck!" という声が聞こえたら、とりあえず伏せろ。そうしないと、流れ弾に当たってしまうことがある」 という忠告があった。かなりリアリティのある忠告である。

当時は今よりずっと若かったので、流れ弾ごときに当たって死ぬのは嫌だと思ったから、Duck!" の声で条件反射的に伏せることができるように、頭の中で何度かシミュレーションしてみた。そのせいで、"Duck!" という言葉にはかなり敏感になってしまったのである。

日本の街で突然、"Duck!" の文字が現れることがある。しかも、大きな赤文字である。それは 「ダック引越センター」 という会社のトラックなのだが、なにしろ "Duck" の後にエクスクラメーションマークまで付いているので、人騒がせだ。

私はあの大きな赤文字を見るたびに、銃で撃たれて目をむいてぶっ倒れていたニューヨークのオッサンを思い出してしまい、心中穏やかではいられなくなってしまうのである。

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2008/06/08

幻の銀玉水

環境省はこのほど 「平成の名水百選」 を選定、発表した。これは 1985年に選定した 「名水百選」 に加え、7月の 「洞爺湖サミット」 に合わせ、特に水環境の保全活動が行われている点を主眼に選んだという。(参照

このニュースに惹かれた私は、詳しい情報を見ようと、環境省のサイトに飛んだ。

まず、環境省公式サイトのトップページの一番上にある検索欄で、「名水百選」 をキーワードにすると、政府関係の検索サイト 「電子政府の総合窓口 - ホームページ検索」 という機能で 「環境省 名水百選」 というページがトップに表示された。

ところが、さっそくそこに行ってみると、あろうことか、いきなり、「名水百選は移転しました。http://mizu.nies.go.jp/meisui/ (水環境総合情報サイト内)」 と表示される。

そこで、リンクをクリックして指定されたページに行ってみると、今度は 「2008年4月1日より、本サイトはサーバ移転しました。新しいページはhttp://www2.env.go.jp/water/mizu-site/ です」 ときた。

その新しいページへは 5秒以内に自動的に飛ぶように JavaScropt か何かで設定されているからいいけど、だったら、初めから一番新しいページにリンクしてくれよと言いたくもなろうものである。ぷんぷん。

で、やっと表示されたページは 「水環境総合情報サイト」 というページで、実はまだ、目指す 「名水百選」 のページではない。まったくもう、疲れるなあ。ここで左側のメニューから 「名水百選」 のボタンをクリックすると、ようやく 「環境省選定 名水百選」 というページに辿り着く。

しかし、なんだかおかしい。よくみると、そこはまだ 1985年に選定された 「昭和の名水百選」 のページなのであった。

で、改めて検索してみると、環境省のサイトには、平成の名水百選関連のページは、「新・名水百選の選定」 で表示される選定経過を広報するページしかないようなのだ。つまり、このほど賑々しく発表された 「平成の名水百選」 の最終結果のページは、本日現在、まだないということなのである。

おいおい、段取り悪いなあ。さすが、お役所仕事である。だが、それはまあいい。どうせそのうち (忘れた頃に)、新しいページが作られるだろうから、それまで待てばいい。くさるものでもあるまいし。

で、ようやく本題に入ろう。

私がこれまでで一番おいしいと思った水は、昭和の名水百選にも平成の名水百選にも見当たらない。それも仕方のないところである。それは、一日かけて辿り着いた登山口を早朝に出発し、夕方頃、へとへとになって辿り着く山の稜線にあるのだ。

誰もが簡単にありつけるというものではないから、お役所の 「名水百選」 なんてものには、極めて選ばれにくいのである。

それは山形県の秘境、朝日連峰の稜線に湧く 「銀玉水」 (「ぎんぎょくすい」 と読む) という水である。私はこの水を 20代の半ばに口に含んだ。それはそれはもう、とろけるほどの甘露だった。あんな極楽浄土に遊ぶような心地になる水を飲んだのは、後にも先にも一度きりである。

登山者が列をなして昇るようなポピュラーな山ではない。ただでさえ山懐の深い東北の、熊とカモシカの住処でしかない難所中の難所である。稜線の途中のコブも、脇をまいたりせずに、いちいち忠実にピークを越えて進む、とにかく人をへとへとにさせるためだけにあるようなコースである。

20代半ばの私は、合気道という武道をきっちりとやっていたから、体力にはかなり自信があった。普通の登山コースなら、その辺のにいちゃんが 5時間かかって歩くコースを 2時間半でぶっとばす脚力があった。その私が、「もう勘弁してくれ」 と弱音を吐くほどの難コースなのであった。

その難コースの夕方近く、もう目眩がするほどへとへとになったあたりに、かの 「銀玉水」 はある。もともと甘露なのか、体がめちゃくちゃに水を求めているから、どんな水でも甘露に感じられるのか、多分、その両方なのだと思うが、とにかく五臓六腑にしみわたる旨さなのである。

こんな旨い水を大量に持って帰りたいと思うのだが、そんな大量に持ち運んだら、途中でばてて遭難してしまう。だから、しかたなく水筒に一杯で我慢するのである。

ちなみに、もう少し進んで、大朝日岳直下の小屋付近にテントを張ったが、付近に水場はない。そこから歩いてしばらく行ったところに、今度は 「金玉水」 (くれぐれも 「きんぎょくすい」 と読んでもらいたい) という湧き水がある。

金玉水も旨いが、圧倒的に銀玉水の方が旨い。しかし、もう遅い。テントを張って思い切り飲めるのは、金玉水でしかない。銀玉水はかくして、幻の水と化すのである。

そして、50代半ばを過ぎた今、あの銀玉水を飲むために、もう一度死ぬ思いをする覚悟があるかといえば、残念ながら私にはないのである。悲しいことである。ああ、あの水筒一杯の銀玉水が、今そばにあったら、どんなに幸せなことだろうと思う。

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2008/06/07

免罪符としての taspo

私はタバコを吸わないのでどうでもいい話だが、自動販売機でタバコを買うのに、taspo という IC カードが必要になるのだそうだ。

で、前々から気になっていたのだが、この "taspo" なる名称は、一体どういう意味で、どういう由来なのだろうか。これが、実はよくわからないのである。

JT のサイトで調べてみても、このカードの正式名称が "taspo" と、アルファベット小文字で表記されるという以上のことはわからない。こういう話が好きそうな Wikipedia でも、少なくとも今日の朝の段階では、名前の由来についての言及はない。 (参照)。

あの JR 系の IC カードだって、まあ、日本語の雰囲気重視の遊び的要素が強いにしても、以下のような、もっともらしく思われなくもない由来が提示されている。

JR 東日本  SUICA   Super Urban Intelligent CArd
JR 西日本  ICOCA    IC Operating CArd
JR 東海    TOICA    Tokai Ic CArd
JR 北海道   KITACA   JR北(キタ)海道のICカード
JR 九州    SUGOCA  Smart Urban GOing CArd

私鉄の "PASMO" にしても、"「PASSNET」 の 「PAS」 と、「もっと」 の意味を表す 「MORE」 の頭文字 「MO」 をとって名づけられました」 (参照) という、ちょっと苦しいが、まあ、わからないでもない説明がされている。

ところが、JT の taspo には、何の説明もないのである。巷では 「タバコを買うときのパスポート」 なんてこともいわれているが、そりゃ、こじつけすぎて、苦しいなんてもんじゃない。それに、JT はそれに対して何のオーソライズもしていない。わけわからんのである。

この曖昧さは、名称だけの話ではない。運用全般にわたってすっきりしたところがなく、実効性だってかなり疑問である。カードを作る会社が儲かるだけだ。

案の定、世の中では taspo の貸し借りが、かなり一般的に行われているようなのである。母親が未成年の息子に貸したり、自販機に誰でも利用できるように備え付けたりする例が報道されていて、それらは言語道断としても、自販機を管理する店舗が客に一時的に貸すのは、かなりおおっぴらのようだ。

このシステムを先行導入した種子島では、未成年者の喫煙が一時的には減ったが、その後、逆に増加しているという報告もある (参照)。何らかの方法で taspo を入手してしまえば、あとはノーチェックでタバコが買えてしまうので、根本的な対策にならないようなのだ。

タバコの吸いたいやつは、どんな手を使ってでも taspo を手に入れてしまうのだ。蛇の道は蛇というものである。

本気で未成年者の喫煙を防止したいのであれば、自動販売機でタバコを売るなんてことは止めて、すべて対面販売にしてしまえばいい。要するに JT は、タバコの販売を減らしたくないので、taspo を免罪符にしているだけなのではなかろうか。本気とは思えない。

単なる免罪符なので、まともな由来も説明できない、いい加減な名称にしているのだとしか、私には思われないのである。

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2008/06/06

「足なり直角靴下」 着用レポート

先月 30日の記事で無印良品のコンセプトについて触れた際に、「足なり直角靴下」 についてちょっとだけ言及した。

早速ネットで注文したところ、今月初めに届いたのだが、それっきり着用レポートをするのを忘れていた。端的に言えば、「便りのないのはよい便り」 の類だということである。

商品が届いて、早速履いてみての第一印象は、「おっ、いい感じ」 というものだった。普通の靴下をはくと、かかとの部分に少々のプレッシャーを感じるが、これにはない。かかとが解放されている感じがする。

それは当然の話だ。普通の靴下が、足首から上と下でほぼ 120度の角度で編まれているのに対して、これはほぼ直角になっているのだから。しかも、かかとの部分が少しはみ出すぐらいの余裕がある。

だが、「いい感じ」 との印象は着用直後だけで、あとはすっかり忘れてしまっていた。履いている靴下を意識することなんて、全然ない。しかし、「意識しなくて済む」 ということは、実はなかなかのことであると、しばらくして気付いた。

人間、具合の悪いところがあると、そこに意識が集中する。歯が痛ければ歯が否応なく意識され、腹具合が悪ければ、腹ばかり気にかかる。意識されないというのは、とりもなおさず 「快適」 ということなのだと思い当たった。

なるほど、普通の靴下をはいていると、下手するとはいているうちにねじれたりしてしまうことがある。そこまで行かなくても、時々ずり下がってきた足首部分をたくし上げたりするのはしょっちゅうだ。

しかし、この 「足なり直角靴下」 は、そんなことは皆無である。もしかしたら、まだ新しくてリブ部分がしっかりしているからというだけのことかもしれないが、どうもそれだけでもなさそうな実感がある。

足首とかかとのラインを基準にして、足とすねのフィット具合がとても自然なのだ。自然なので余計なストレスがかからず、妙な引っ張り方をされないので、ずれないのだと思う。

従来の靴下が 120度の角度で編まれているのは、靴下を生産する編機の都合によるものらしい。靴下というのは編機が一つずつ編み上げていき、編み終わると、下にポトリと落とす仕掛けになっている。私は繊維業界の人間なので、それはお馴染みの光景だ。

しかしこの編機の都合で、直角というのは量産に不向きだったのだ。そりゃ、120度のゆるやかなカーブの方が、機械にとってはありがたいことだろう。90度にして、しかもかかと部分をふっくらと仕上げるなんていうのは、迷惑千万だ。

我々の足は、これまで機械の都合で履きにくい靴下を押しつけられていたのである。

というわけで、私はこの 「足なり直角靴下」 が大変気に入ってしまったのである。これからも履き続けようと思っている。それどころか、世の中のすべての靴下が直角になればいいのにと思うほどだが、多分、そうは決してならないだろう。

工業化社会というのは、革新的なようでいて実はなかなか保守的なものだというのは、私が PC のデザインについて時々触れている通りである(参照)。

そしてさらに、世の中というのは、いつも合理的な選択をするものでもないということも、私は経験則からして嫌というほどよく知っている。それは昨日の記事でも触れた通りである。

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2008/06/05

お国のやり方は、おいといて

大阪府の橋下知事が職員との対話集会で、「国が考えていることは全然都道府県のためになっていない」 と批判したそうだ。(参照

「官僚が霞が関で現場を知らずに考えても、政策立案できない」 と、なかなかまっとうなことをおっしゃったようなのである。はっきり言って、まったくその通りだと思う。

お国が新政策だの新規事業だの改革だのと大げさに言い立てる場合、そのベースとなる理論武装は、まあ、どっかの学者とか大手コンサル会社とかのブレーンがまとめた筋書きである場合が多い。

で、その筋書きというのは、学者とかコンサル会社とかがまとめたものだけあって、メジャーな論理で一貫している。で、ストーリーの最大公約数は、「従来の因習的な手法は限界に達しているので、新たなメソッドに沿った運営を大胆に取り入れなければならない」 というようなところに落ち着くことになっている。

言われてみればその通りの、「正しい」 筋書きの提案なのである。この正しさについて行けないものは、「負け組」 になるのも仕方がない。どうして、みな 「勝ち組」 になる選択をしないのか不思議になるほど、まったくもって 「ご無理ごもっとも」 なのである。

ところが世の中というのは、いつも 「正しい選択」 をするとは限らないのだ。考えてみれば、今の勝ち組は、たまたま 「正しい選択」 をしたから、「勝ち組」 たり得ているのである。

だが、過去に 「誤った選択」 をしたか、あるいは何も選択せずに成り行きだけでやってきたために 「負け組」 になっている 「その他大勢」 に、「お前ら、そんなことだからダメなんだ。ちゃんと正しい選択をすれば、もっといい目が見られるんだ」 とけしかけても、それは無理な相談なのだ。

「正しい選択」 とやらができるほどの能力と資力があれば、とっくにやっている。それができないからこそ、苦労を重ねているのだ。

ある中小企業の社長は言う。「お国の主催する経営セミナーなんかに出ても、『お前ら、これを理解しろ。理解できないやつは、滅びる』 と説かれ、『ああ、だから俺んとこはうだつが上がらないのだ』 ということがわかるだけで、帰り道はますます絶望的になるんですよ」

うんうん、その気持ち、よくわかる。

今、地方が不況にあえいでいるのは、中央が 「正しい選択」 やらをして、「勝ち組」 と化し、地方を 「その他大勢」 に落とし込める構造になっているからである。中央を 「大手企業」、地方を 「中小企業」 と言い換えても、ほとんどそっくりそのまま通じる。

だから、お国が中央の論理で立案した政策が、地方の役に立つことはほとんどないのだ。そうした構造から脱却する道は、「道州制」 どころか、ちゃんとした 「連邦制」 に移行することだと思うのだが、それはいつのことになるやら、見当がつかない。

なにしろ、世の中はいつも 「正しい選択」 をするわけじゃないから。とりあえず、連邦制になると中央のお役人はメシの種が減るから、まともに取り組むわけがないし、役人がまともに取り組まなければ、国は決して動かない。

我々は、あまりお国のいうことに一喜一憂しないで、ぼちぼちやっていくしかないのである。

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2008/06/04

テンキーで 「コンマ」 を入力する - その 2

4月 26日に "テンキーで 「コンマ」 を入力する" という記事を書いた。「秀 caps」 というフリーソフトを使うと、「ピリオド」 を 2度打ちするだけで 「コンマ」 に変換されるのである。

エクセルを使う分には、コンマの手打ちなんか必要ないが、テキストとして数字を入力する場合には、テンキーでコンマも入力したい。

というわけで、私はさっそく自分の PC に 「秀 caps」 をインストールし、Word や HTML の文書にややこしい数字を連続して入力しなければならない時など、大変に重宝していたのである。

ところが実は、あれから頬かむりをして内緒にしていたことがある。デスクトップのテンキー付きキーボードでは、このソフトはとても便利に機能してくれるのだが、ノート PC の外付けテンキーでは、なぜか機能してくれないのだ。

このソフトを開発した秀まるおさんのサイトのサポートページでも、「USB 外付けテンキー上のピリオド 2回でコンマ入力したいのですが・・・」 という質問に対する回答は、以下のようにそっけない。

現状の「設定・特別・テンキー上のピリオド2回でコンマ入力」を使ってコンマ入力できないのなら、僕としては対応できないと思います。

そもそも、USB接続テンキーを使うのなら、最初からコンマキー付きの物を使った方がいいと思いますけど。

これを読んでから、私としてはその 「コンマキー付き」 のテンキーを探していたのだが、なかなか見つからず、諦めていたのである。ところが、ある日偶然に、まるで福音のように解決策が見つかった。

USB テンキーを PC に接続すると、テンキー側の設定が自動的に "Num Lock" になる。これで、接続した外付けテンキーが使用できるようになる。ところが見たところ、PC 側の設定は "Num Lock" になっていないのである。だから、外付けテンキーを 使いながらでも、ノート PC の方のキーボードは通常通りに使える。

しかしこのままだと、ピリオドの 2度打ちでは、コンマが入力できない。そのせいで、私は 1ヶ月以上悩んでいたのである。ところが、PC 側の設定も  "Num Lock" にしてしまうと、あ~ら不思議、ちゃんと、ピリオドの 2度打ちでコンマに変換されたのである。

ということは、コンマ付きの数字を延々と入力する必要がある場合は、PC 側も   "Num Lock" にすればいいというだけの話なのであった。さすがの開発者の 秀まるおさんも、それには気付いていらっしゃらなかったようだ。なにしろ、ご自分ではこの機能は使ってないらしいので。

というわけで、私の 1ヶ月あまりの悩みはここできれいに解決されたので、同様の不便を感じておいでの方のために、ご報告する次第である。

なお、この解決策は私の手持ちの ノート PC (Panasonic の Let's Note CF-W7) ではうまくいったことだが、すべての PC に適用されるかどうかは、実証していないのでわからない。でも、多分大丈夫だと思うけど。

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2008/06/03

タッチ・スクリーンにため息

今年 3月にノート PC を買い換えた際に、成り行きで私も Windows Vista ユーザーになってしまったのだが、メリットはほとんど感じない。メモリを 2GB も積んでるのに、それほどサクサク動くわけでもないし。

Aero なんて話題ばかり先行して、実際には全然便利ってわけじゃなく、使い道ないし。

この分だと、自宅で使っているデスクトップの XP マシンも、あと 5年は現役で使えそうだと思っていたところ、マイクロソフトが次期 Windows のデモを行ったという記事にでくわした。コードネームは Windows 7 で、売り物は、「タッチスクリーン」 なんだそうだ。

タッチスクリーンなんて、銀行の ATM とか、JR の切符販売機とかのものだと思っていたのに、何が悲しくて PC でそんな機能を付け加えなければいけないんだか。まあ、デモ動画が見つかったので、以下をご覧いただきたい。

Video: Multi-Touch in Windows 7

デモを見ただけでは、「これの一体どこが便利なんだ?」 と言いたくなるではないか。それに、私は PC に向かう仕事を長時間するので、ただでさえ肩こりに悩まされるのに、ディスプレイまで手を伸ばすなんて、うっとうしすぎだ。ブロゴスフィアの反応をみても 「これはエロゲ用か」 なんて揶揄されてるし。

ビル・ゲイツは 「脱マウス革命」 とやらを宣言しているらしいが、こんなもんだったら、私はタッチスクリーンなんて使わないで、相変わらずマウスを使い続けようと思う。となると、タッチスクリーン機能の分だけ、余計なコストとシステムの重さを引き受けなければならず、かなり馬鹿馬鹿しい気がしてしまうわけである。

もしタッチスクリーンを本格的に採用するなら、キーボードの代わりにバーチャルキーボードを表示したタッチスクリーンを置き、その上に半透明のデスク トップを表示して手元ですべての操作ができるようにしてもらいたい。そして本来のスクリーンは別個に用意することだ。でも、これを実現するには、結構なコ ストだろうなあ。

世の中のフツーの PC ユーザーとしては、256MBのメモリでサクサク動く OS を開発してくれる方が、ずっとありがたいと思うがなあ。

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2008/06/02

減反見直し? 大豆と小麦?

世界的な食糧不足傾向に関連して、町村官房長官が 「コメの減反政策見直し」 を言い出すと、とたんに、加藤さんが 「全く逆で、大豆や小麦を作らなければ」 と応酬した。

私は農政に関しては、まったく素人だけれど、いろんな見方があるものだなあと感心してしまう。正解ってどこにあるのだろう。

正解は多分、「やってみなけりゃわからない」 ということだと思う。どちらかが完全に正しくて他方が完全に誤りということは、世の中にはほとんどない。それに、お二人の選挙区の事情だって、それぞれあることだろうし。

町村さんは北海道、加藤さんは、私の故郷、山形県庄内である。北海道は大規模な農業経営が多いから、コメが多少値崩れしたところで量で勝負できるだろう。逆に庄内の農家は、手間暇かけたコメ作りをしているので、値崩れしたら死活問題だ。

こうなると、それぞれの地元の都合でモノを言ってるだけなんじゃないかと、勘ぐりたくもなろうというものである。

正攻法で考えても、減反政策を撤廃してコメを増産し、食糧不足の国に輸出するなんて言うが、日本の高いコメを買える 「食糧不足の国」 って、それほどあるのだろうか? 中国の富裕層は日本のブランド米がお好きだそうだが、それは特殊な例だろう。

それとも、政府が高い価格で買い上げて、一括して安く輸出するなんていう慈善事業をするつもりだろうか。そのための外郭団体を作って、またまた役人の天下り先を確保しようなんていうのだろうか。

逆に、大豆や小麦の生産を急に増やして国内の自給率を高めようとしても、贅沢な日本の市場で受け入れられるだけの品質のものを、一朝一夕に作れるのだろうか。これも疑問である。

実際には、両面作戦でぼちぼち様子を見ながら進んでいくしかないのだろう。日本全国を一律に考えてどうこういうから、まとまる話もまとまらなくなる。中央集権的制度の悪いところだ。各地域でより現実的な方策をとればいい。それしかないじゃないか。

農政に関しては、昔からお国がああだこうだと、余計な口を出しすぎみたいなところがある。おかげで、お国と農協の言いなりで、あまりまともにモノを考えない農家が大量生産された。

全体が 「右向け右!」 で動いてもろくな事にならないというのは、歴史が証明していると思うがなあ。

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2008/06/01

外国人も日本人も日本をもっと知るために

ぱるぷんてにゅーすの 「外国人が日本に来る前に知っておくべき 10 のこと」 という記事がおもしろい。元ネタは "10 Japanese Customs You Must Know Before a Trip to Japan" という記事のようだ。

こんなにもまともに、つまり偏見なく簡潔に日本の習慣を紹介した記事は珍しい。

まず、最初の 「敬い」 という項目は、"目上の人には必ず 「さん」 や 「様」 を必ずつけましょう" と締めくくられている。まあ、「様」 はやりすぎにしても、日本人の名前を呼ぶときに 「さん」 をつけるというちょっとしたレシピは、外国人にとってかなり有効だ。

日本人の渡辺さんが米国から来日したスミス氏と、英語で会話するにしても、 「ミスター・ワァタナァビィ」 なんて呼ばれるより、同じ 「ワァタナァビィ」 でも 「ワァタナァビィさん」 なんて呼んでもらえると、とても気分がよくなって親密な気になったりする。そうすれば当然、スミス氏は日本滞在中に不愉快な思いをする確率が減る。

「箸」 という項目では、「私たちが箸を流暢に使うと日本人は驚きます。ぜひあなたの箸使いで日本人を驚かせてみましょう」 とある。まあ、今どきは日本食が世界中でポピュラーになっているので、箸を上手に使える欧米人が珍しくないことぐらい、日本人だって知っているのだが、この 「箸使い」 がコミュニケーション・ツールとなるのは事実なので、どんどんやってもらいたいものである。

「玄関」 の項目では、日本では多くの場合、玄関で靴を脱ぐ習慣があることを紹介している。この習慣は世界でも珍しいことなので、きちんと把握しておく必要があるが、「多くの日本人は念のためを考えて常にスリッパを持ち歩いています」 というのは、ちょっと誤解じゃないかなあ。

「殺菌済みマスク」 の項目では、多くの日本人がマスクをして街を歩いていることに驚いてはいけないということが書いてある。確かに、欧米人はあまりマスクをしない。誰かと会うときにマスクなんてしていると、下手すると 「お前とは口をききたくない」 というサインなんじゃないかと思われかねないので、注意が必要だ。

ただ、日本人がマスクをするのは、「風邪ごときでは休めない職場にいるからなのです」 とあるが、まあ、それも確かにあるにはあるだろうけど、ほとんどの場合は、花粉症対策なんだということを付け加えておいてもらいたかったなあ。

「入浴」 というのは、かなり重要な項目だ。多くの外国人は、日本式の風呂にかなり面食らう。公衆浴場なんて、相当にうろたえる。

私の友人のユダヤ人は、日本に留学して最初にホームステイした先で、「あなたは客人だから」 と最初に風呂に入れてもらった際に、ガイドブックに書いてあった通り、浴槽の外で体を洗い、ゆったりとお湯に浸かってリラックスできた。あまりにもきちんと事前に学んだ通りにできたので、すっかり満足して、風呂の栓を抜いて出てきてしまった。

だから、この記事にも、「プライベートなバスルームでも、勝手にバスタブのプラグを抜いてはならない。それは家主の特権である」 という注意書きをつけておいてもらいたかったところである。

まあ、ちょっとした誤解や不足はあるにしろ、この記事はなかなかよくできていて、外国人が日本を知るためだけでなく、フツーの日本人が自らの文化がいかに珍しいものであるかを確認するためにも、かなり役に立ちそうだ。

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