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2008年8月に作成された投稿

2008/08/31

他人の分まで演じてみる

昨日、車で仕事に出かける時に、TBS ラジオの 「土曜ワイド」 を聞いていた。永六輔さんの番組である。

そこに出演した高橋恵子さんの話がおもしろかった。彼女はサルトルの喜劇 「キーン」 に出演するのだが、喜劇に出るのは初めてなんだそうだ。

この芝居は、名優にして人格はハチャメチャだったという英国のシェイクスピア俳優、エドマンド・キーンの人生を描いたもので、キーンを演じるのは市村正親。関根…じゃない、高橋恵子さんは、このキーンが嫉妬に狂うほど夢中になるデンマーク大使夫人、エレナを演じる。

演出は英国人のウィリアム・オルドロイドという人なんだそうだが、この人については、私は何もしらない。ただ、この人の稽古の進め方が、とてもおもしろいんだそうだ。

普通は、役者は自分の役のセリフしかしゃべらないが、オルドロイド氏は、稽古の過程で別の役のセリフをどんどんしゃべらせる。そうすることによって、相手役の気持ちを疑似体験し、それを自分の役作りにフィードバックさせるという手法をとるらしい。

高橋恵子さんは、それがとても新鮮だったという。もしかしたら実人生でも、他人のセリフをしゃべるつもりになれたら、人間同士の関係性がとてもスムーズになるんじゃないかと言っていた。なるほどという気がした。

人生を、芝居を演じるつもりで生きて、時には他人の役割まで試演する余裕があったら、かなり楽しくやっていけるんじゃないかと思う。時には、一番嫌いなヤツの役割まで演じてみたら、大抵のことは自然に許せてしまって、ストレスだって軽くなりそうな気がする。

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2008/08/30

好意経済学

子供服なんてものは、とくに普段着じゃなく 「およそ行き」 的なものは、すり切れたりするずっと前に、サイズが小さくなって着られなくなってしまうものだ。

だから、「お下がり」 なんて当たり前なんである。我が家は娘が 3人いるので、彼女らが子供の頃は、「お下がり」 三昧だった。

そりゃもう、もちろん、「およそ行き」 だけじゃなく、普段着だってどんどん小さくなるから、三姉妹のうち、少なくとも上二人か下二人は、お下がりを着回すことになる。じゃあ、長女だけはいつも新品かといえばそうじゃない。他の家からのお下がりが回ってくる。

お下がりというのは、貰ってもらうとありがたいのである。まだそれほど着古していない、あるいはほとんど新品同様の服を、「小さくなって着られなくなった」 というだけの理由で捨てるのは忍びない。近所で貰ってくれるくれる人があれば、どんどん提供したいのである。

ところが、くれる方は 「貰ってもらうとありがたい」 という意識でも、貰う方はそれを潔しとしない場合がある。なんとなく 「施し」 を受けるのが恥であるという意識の人がいるものなのだ。面倒なメンタリティだが。

だから、くれる方も人を選ぶ。大喜びでこだわりなく貰ってくれるとありがたいから、そういう人にどんどん供給する。逆に、貰ってもうれしくもなさそうな、それどころか半分迷惑そうな顔をされると、金輪際貰ってもらわなくて結構という気になる。喜んで貰ってくれる人はほかにいくらでもいるし。

いつも思うことなのだが、子供服のお下がりに限らず、人の好意というのは、大喜びで受ける人のところに集まる傾向がある。そして、大喜びで好意を受ける人というのは、大喜びで世間にお返ししたがる。

好意というのは、こうして循環して世の中を住みやすくする。好意を受けるのを潔しとしない人のところには、人の好意はなかなか集まらない。それで、周囲がぎくしゃくしてしまう。循環して初めて意味があるということに関しては、経済と同じである。これを 「好意経済学」 と呼んでもいいぐらいだ。

そこへ行くと、私も妻もその辺に関してはノー天気だから、貰うと大喜びする。だから、子供服のお下がりがどんどん集まってきた。おかげで我が家の三姉妹は、結構な着道楽ができたのである。

そして、我が家からもお下がりがどんどん出た。もちろん、お下がりをもらって大喜びしてくれる知り合いがいくらでもいたから、好意の循環はかなりうまく行ったのである。おかげで、私たちはいい雰囲気のなかで好意の循環を促進することができた。ありがたいことである。

願わくは、受け取るに先立って、自分の側から好意の発信をするという、「好意イニシエーター」 の役割を演じたいものなのだが、実際問題として、好意というものは出発点がどこなのかわからないほど、延々と循環しているものなのである。

それならば、自分のところで途切れさせないようにすればいいだけのことだ。途切れさせないためには、なんだかよくわからないけど、イニシエーターになろうというぐらいの心意気があればいいのだと思うのである。

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2008/08/29

東アジアの欧米コンプレックス

昨日の続き。東アジアにおける欧米コンプレックスの話である。中華思想というのは、東アジア限定のお話で、中国はどうも、内弁慶なんじゃないかということでもある。

Adrienne さんのブログに、 「世界システム」 と 「華夷システム」 について触れてた、とても興味深い記事がある (参照)。

このコンセプトは、アメリカの歴史学者イマニュエル・ウォーラステインによって提唱されたものだそうだ。恥ずかしながら私は彼 (Adrienne さんは、ハンドルが女性名だが男である) のブログ記事で初めて知ったので、そこから、少し引用させていただこう。

(世界システム論とは) … 簡単に言うと歴史上見られる周辺国(植民地・属国)の経済的余剰を中央国(宗主国・覇権国家)に移送する仕組みです。もっと簡単に言うと、トランプの「大富豪」における大富豪と奴隷の関係みたいなものです。中央国になれるとお得なのです。

一方、華夷システムは字面を見てお分かりの通り東アジアにかつて存在した中国を中心とする冊封体制のことです。世界システム論によれば華夷システムも世界システムの一つなのですが、ここでは便宜上、世界システムと言えば、産業革命以降のイギリス・第二次世界大戦後のアメリカが覇権を握ってきたところの近代世界システムを指すことにしましょう。

なるほど、「中華思想」 とは、とりもなおさず 「華夷システム」 のことで、すなわち 「東アジアにかつて存在した中国を中心とする冊封体制」 を指すコンセプトであったのだ。これが近代に至り、産業革命を経た西欧のより強い 「世界システム」 によって、蹂躙され尽くしてしまったのである。

中国はかつて周辺国のことを、「東夷、西戎、南蛮、北狄」 と、卑しめた名称で呼んだが、なんと今、英国を 「英国」 (これは日本と同じ)、フランスを 「法国」 (かなりイメージがいい)、米国を 「美国」 (これはすごい!) と呼び習わしているのである。

こうした国の呼称を見ただけでも、周辺に対してはかなり上から目線だが、欧米に対してはものすごくへつらっている感じがする。態度に露骨な差があるのだ。はっきり言わせてもらうが、フツーの日本人の感覚では、そこまで露骨な振る舞いはとてもできないと思う。

日本に対しては、「歴史認識」 だのなんだのと、かなり強烈なことを言ってくるが、阿片戦争なんて、とんでもなく嫌らしいことを仕掛けて、つい最近まで香港を植民地としていた英国に対しては弱腰である。

つまり、欧米中心の近代的な 「世界システム」 には、白旗を上げているのだ。そして、この辺が複雑なところだが、東アジアで最初に 「華夷システム」 に見切りをつけて 「世界システム」 陣営に参加してしまったのが、他ならぬ日本だったということに、中国がかなり錯綜した思いを抱いてしまうのも無理からぬところかもしれない。

「お前、東夷の一番はずれのくせしやがって、何様のつもりじゃ!」 ということになるのかもしれない。とはいえ、「世界システム」 と 「華夷システム」 の合わせ技みたいに、本来ならば欧米にも向けられなければならないことまで全部まとめて叩きつけられる日本としては、堪らんわけなのだが。

ちなみに、東アジアの欧米コンプレックスは、中国のみならず、抜きがたいものがある。

日本では、人名表記を欧米流に、苗字と名前をひっくり返して英文表記する習わしが、明治の頃から一般化してしまった。これなんか考えようによっては、中国、韓国よりひどい欧米追従である。

韓国に関しては既に何度も触れたが、「李明博」 は 「イ・ミョンバク」 であると言い張りながら、英語表記は "Lee Myung-bak" であるというのも、かなり露骨な欧米迎合である。イ・スンヨプのユニフォームの背中に "Lee" とあるのも同様だ。私だったら、背中にあんなにはっきり  "Lee" と書きながら、「"イ" と呼んでくれ」 とは、恥ずかしくてよう言わん。

あるいは、三世ぐらいの中国系米国人が、米国系企業のエグゼクティブとして、中国の現地法人に赴任するとする。先祖の母国に凱旋するわけだから、きっと中国語を習って少しは中国語でのやりとりをするんじゃなかろうかという気がするが、彼らは決してそうしない。

徹頭徹尾、英語で通すのだ。なまじ中国語を習って片言でもしゃべったりしたら、「何だ、俺らと同じじゃん!」 と、妙な親近感を持たれ、ということはすなわち見くびられてしまう。だから、彼らは英語と欧米流のライフスタイルに固執し、見せつける。そうすれば、自然に一目置かれる。

東アジア人の欧米コンプレックスは、本当にいろいろなバリエーションとしてあらわれている。我々としては、無意識のそれを一度きちんと意識化して整理しておかないと、いつまでも心の底の部分で晴れないものが残ってしまうような気がする。

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2008/08/28

東アジアの序列メンタリティ

今月になって、"中国人、韓国人の名前の読み方" "「グルジア」 が 「ジョージア」 であること"という 2つの記事を書き、コメントなどもいただきながら、見えてきたことがある。

それは、東アジア圏内の中国を中心とした序列意識と、東アジアが抱く 「欧米コンプレックス」 という問題だ。

まず、東アジア圏内での、中国を中心とした序列意識である。東アジアでは中華思想というのが、今でも確固としてある。そして中国を家長に例えれば、韓国は長男で、日本が次男というイメージを、少なくとも韓国人は強く持っているようだ。そして、そのあたりのメンタリティに最も疎いのが日本人である。

韓国内では、日本海を 「東海」、東シナ海を 「南海」 と表記しているようだ。そして、"Sea of Japan" (日本海) を "East Sea" (東海) に変えろと、国際社会でしつこくしつこく要求し続け、ちょっとあきれられてもいる。

しかし、「日本海/東海」 問題にはものすごくしつこく執着しても、"East China Sea" (東シナ海) を "South Sea" (南海) に変えろとは、ほとんど言っていないようなのだ。これからどう変わるかは知らないが。

これは、今のところは、家長の中国には逆らわないが、長男として、次男の日本にだけはメンツを潰されたくないというメンタリティなんじゃないかという気がする。いつの時代も、上と下に挟まれた存在というのは、複雑なメンタリティになってしまう。

韓国人は、日本に対しては韓国人名を韓国発音で呼び、カタカナ表記もそれに準ずるように求めているのだが、中国に対してはどうなんだろう。その辺りの情報をもっていないので、どうなってるんだかよくわからない。

中国には表音文字がないから、韓国の発音を表記しようとしたら、別の漢字を使うことになり、ややこしいことになると思うのだが。もしかしたら、家長には家長の読み方で読まれても、仕方がないということになっているのかもしれない。よくわからないけど。

この辺の序列意識というのは、結構根深いものがあるようなのだが、一方の日本人は全然気にしていないところがあるので、韓国人にはちょっとストレスなのかもしれない。何しろ一時は、次男のくせに、長男と家長の家にずかずか上がり込んだと考えてしまうのだろうから。

ただ、こればっかりは、「次男なんだから、だまって親と兄貴の言うこと聞け」 と言われても困るしなあ。

近頃は "Koriginal" 問題というのがあって、韓国人が何でもかんでも 「元々の発祥は韓国」 と言いたがるのが揶揄されている。彼らが、空手や相撲や寿司の発祥が日本じゃなく韓国だと言い出しても、日本人の多くは 「また始まった」 ですましていられるが、「孔子は韓国人」 なんて言われると、中国人は怒ったりする。

これなんかも、中華思想による序列メンタリティのなせる技だったりするかもしれない。そして、韓国の中にも儒教的束縛から逃れて、「孔子は韓国人」 なんて、親に逆らうようなことを言い出すのが出現し始めているというのも、なかなかおもしろい。

そして次は、東アジア人の欧米コンプレックスである。これは、中国が日本人には 「シナ」 と呼ばれたくないが、"China" という英語表記を平気で公認していることに象徴される。「チャイナ」 はフランス語読みしたら 「シナ」 である。

「中華思想」 というのは、実は東アジア・ローカルで (つまり、「内弁慶」 で)、中国人は欧米人には案外弱いみたいなのだ。

そしてこれは、中国人だけではない、東アジア全体に言えることである (もっと言えば、東アジアだけというわけでもないのだが)。しかし、これは長くなりそうなので、明日にまわすことにする。

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2008/08/27

"Today's Crack" 100万ヒット間近

当ブログ "Today's Crack" の 100万ヒットがいよいよ間近になってきた。今朝、電車の中で確認したら、"990002" となっていて、いよいよ、残り 1万を切った。

多分、遅くても来月の 10日頃までには達成されるだろう。念のため、カウンターは早めに 7ケタ表示に変更しておいた。

このブログは、本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 で 6年以上前から毎日更新していたコラムを、更新のしやすさという理由で、平成 16年 7月から Cocolog に乗り換えさせたものである。だから、私としてはあくまでも、「本宅の離れ」 みたいな意識でいる。

そんなわけなので、本宅の方が 6年以上もやってきてまだ 50万ヒットにもなっていないのに (多分、10月頃には届くだろうけど)、「離れ」 の方が 4年ちょっとで 100万ヒットになるというのは、ちょっと複雑な思いがしている。

ブログというのは Web 2.0 の代表的存在なんだそうだが、確かに、客観的にみればフツーのウェブサイトよりもずっとアクセスされやすいもののようだ。当初は、「こんなのどんどん書き殴ってるだけだから、本宅サイトの中のページの方が定番として残るだろう」 と思っていたんだけど。

確かに、ウチの本宅サイトの中の "「なおざり」 と 「おざなり」" というページなんかは、毎日どんなに少なくとも 40ヒット、多い日は 200ヒットぐらいある。たまにテレビのクイズやバラエティ番組なんかでこの話題が出ると、1,000ヒット以上になる。

というわけで、目立たない個人ブログのトップページよりはずっとアクセスを稼いでいるのだから、捨てたものじゃない。ところが、"Today's Crack" の方はそれよりもずっとすごくて、ときどき著名ニュースサイトで紹介されたりすると、私が目をむいてしまうほどのアクセスが記録される。

テレビ番組がきっかけの集中豪雨的アクセスは、せいぜい 2時間も経てば台風が急速に遠ざかるように収まってしまうが、メジャーなニュースサイトで紹介されると、子サイト、孫サイトに波及して、1週間はアクセス集中が続く傾向がある。

私のブログは、いわゆるニュースサイト好みでない渋めのテーマを取り上げることが多いので、とくに 「はてな」 系の話題には乗りにくい。それでもたまに紹介されたりすると、2,000 や 3,000 どころではないアクセスが来る。この意味で、やはりブログの威力というのは大きいようなのだ。

ウチのように掛け値なしに毎日更新を続けていると、過去ログという財産もかなりなものになるので、検索サイトからのリンクでのアクセスもかなり多い。だから、ブログの記事も十分 「定番」 として残るものだということがわかった。

ただ、私はやはりフツーのサイトもあった方がいいだろうと思っている。私の母校の校歌特集とか、「庄内力」 のサブサイトとかは、ブログにはそぐわない。何でもかんでもブログにすればいいというわけでもないのである。

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2008/08/26

もしかして 「来るな」 と言ってるのかも

花岡信昭氏という人については、過去にも何度か書いていて、こちら を読んでもらえば端的にわかると思うのだが、要するに私は、「花岡さんって、変な人だなあ」 という印象がぬぐいされないでいる。

花岡さん、今回も産経新聞に 「民主党はこれでいいのか」 という論説を書いておられる。

花岡さん、民主党小沢さんの 「独断専横」 的体質と、その関連で、今回は民主党の代表選挙が行われないということを批判したいようなのだ。しかし、つっこみを入れようにも、それ以上何を言いたいんだかよくわからないので、この際、別にいいのである。

私が 「はて?」 と思ったまま、どうしても理解できないのは、そういうことではなく、このネット記事の行末の表記についてである。以下に、そのままコピペしておく。

(客員編集委員 花岡信昭)

 ご意見などは次のブログへどうぞ

 http://hanasan.iza.ne.jp/blog/

うぅむ、彼のブログの URLが、なぜかしらないが、全角で表記してあるのである。それならそれで、裏でリンクを張ってくれればいいのだが、それもなされていない。もしかしたら、縦書きの新聞に、この全角のままで表記するためなんだろうか。

印刷された新聞の方を見ていないから、よくわからないんだけど、それはそれで、かなり読みにくいんじゃなかろうかと思うのだ。

というわけで、「ご意見などは次のブログへどうぞ」 といわれても、そのブログに行くためには、わざわざ自分で、URL を半角で入力しなければならないということになっている。今どき、そんなうっとうしいことは、あまりする気になれない。

花岡さん、言外に 「ブログには来るな」 と言っているような気がする。やっぱり 「変な人だなあ」 と思ってしまうのである。

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2008/08/25

星野ジャパンは、こんなものなのだよ

「金メダル以外はいらない」 との言葉通り、 銅メダルも取れなかった星野ジャパンが、結構なバッシングを浴びている。

個人的には、野球そのものに思い入れがないので、それほどエキサイトしないが、客観的にみれば、出かける前の大言壮語からしたら、叩かれるのも仕方ないなという気がする。

私は星野ジャパンに関しては初めから 「そんなに強かぁないさ」 と言っていた。それに、日本の野球は一昨年の WBC で、ここ数年分の運を使い切っていたのだから、せいぜいこんなものだ。

WBC では、1次リーグと 2次リーグを通じて、3勝 3敗の五分の成績で、とくに韓国には一度も勝てなかったのである。ドミニカとかキューバとかと当たらないのに、6回やって 3回負けているのだ。日本の実力が 「中の上」 か、せいぜい 「上の下」 程度でしかないとは、この時点でわかっていたはずではないか。

それなのに、ラッキーなことに準決勝に進むことができて、韓国とキューバにたまたま連勝しただけで、へんてこなシステムのおかげもあって、「世界一の栄誉」 とやらを手中にしてしまった。この時の 「王ジャパン」 が 「できすぎ」 でなくて何だったのだろう。

逆に韓国なんか、それまで全勝で進んできて、準決勝でそれまで 2勝していた日本に 1度負けただけなのである。7勝 1敗という素晴らしい勝率で決勝に行けなかっただけに、運を使い切っていなかったのだろう。

今回の星野ジャパンは、一昨年のメンバーからメイジャーリーガーがいなくなってしまってるのだから、かなり小粒である。そんなんで、「金メダル以外はいらない」 なんて言うのは、とんでもないリスクを冒してしまってるなあと、私は密かに思っていた。

「3A クラスが主体の米国チームに、星野ジャパンが負けるはずがない」 なんて言う人もいたが、その 3A クラスから 『助っ人』 と称して何人も呼んできて、主軸を打たせてるのが日本のプロ野球なのである。それを考えたら、決してエラソーなことは言えないのだ。

だから、私としては星野バッシングをしようとは思わない。たった一つ言わせてもらうとすれば、「金メダル以外いらない」 なんてことは、言うべきじゃなかったということだ。元々、身の程知らずだったのである。余計なことを言ってしまったために、バッシングも強烈になっているのだ。

まあ、星野さんが余計なことを言いまくったおかげで、あちこちからお金が集まったというのはあるだろうが、女子ソフトボールはお金なんかなくても優勝できたんだしね。

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2008/08/24

ちょっとしたタイプミス

昨日の記事で、「人口11億、金メダル1個の秘密は?―インド」 という Excite ニュースの記事に軽くツッコミを入れさせてもらった。

この記事の 「インドは1990年からオリンピックに参加しているが」 というくだりについてである。いくら何でも、そんな最近のはずないだろうというのは、直観的にわかる。

それに、調べてみればわかることだが、1990年には、オリンピックが開催されていない。それで私は、この記事の元ネタであるシンガポールのストレーツ・タイムズという新聞まで、「東スポ」 みたいなものなんじゃないかと疑ってしまったのだった。

多少気がかりではあったが、この記事を書き終えてすぐに土曜日だというのに仕事で外出してしまい、夜になって帰宅したら、Adrienne さんが、インドのオリンピック初出場の年を調べてコメントしてくれていた。ありがたいことである。

彼のコメントのおかげで、インドのオリンピック初出場の年は、「1990年」 ではなく、「1900年」 であると判明した。単純なタイプミスのようなのだ。で、問題は、このタイプミスをしたのがネタ元のストレーツ・タイムズなのか、「(翻訳・編集/岡田)」 とクレジットにある岡田さんなのかということになる。

検証してみようと、The Straits Time のサイトに行ってみると、少なくともゴシップペーパーなんかじゃないということがわかった。一応、マジメな新聞のようである。(引き合いに出した 「東スポ」 の名誉のために触れておくが、東スポだって東スポなりのマジメさで編集されてはいる)

ところがこのストレーツ・タイムズのサイトでは、残念ながら 1週間前までの記事しか見られないようだ。そのため、問題の 13日の記事は見つからず、確認しようがなかったのである。

そんなわけで、確認できてはいないのだが、私の個人的印象としては、「(翻訳・編集/岡田)」 の岡田さんがタイプミスしちゃったんじゃないかと、密かに疑い始めている今日この頃である。岡田さんにはとっても恐縮だけど。

まあ、こんなイージーミスは私だってよくあることだから、ことさら責めたてようなんて思わないけど、ググってみたところ、今日現在ではこの件に関してツッコミを入れているのが当ブログだけというのが、ちょっと意外だった。

で、岡田さんの知らないところでゴチャゴチャ陰口を言っていると思われるのも不本意なので、Excite ニュースの該当記事にトラバを入れて知らせてあげようとおもったのだが、このサイトは、Excite ブログからのトラバしか受け付けないようなのだ。(商売、商売)

指摘してあげるには、わざわざメールしてあげなければならないようなのだが、一見したところ、メルアドもよくわからないから、しかたなく放っておくことにした。それほど暇じゃないし。

というわけで、今回の教訓は、数字に関して多少のミスタイプをしたところで、大抵の場合、あんまり大変なことにはならずに済むということである。私もよくあることだから、これにはかなり安心した。

要するに、指摘された時点でゴメンナサイと謝れば、大丈夫ということだ。ただ問題は、指摘してもらいやすい環境を用意しておくことである。私のサイトでも数字に限らず間違いがあったら、指摘するのに躊躇しないでいただきたいと、謹んで申し上げる次第である。

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2008/08/23

インド、人口 11億人で金メダル 1個

今月 6日に 「北京で終わってしまったオリンピック」 なんて記事を書いたこともあり、私は今回のオリンピックに関心を示していないのだが、おもしろい記事を一つ見つけた。

人口11億、金メダル1個の秘密は?―インド」 という記事である。うぅむ、確かに、インドとオリンピックは、親和性が薄い気がする。

この記事は、人口が 11億人もいるインドが、今回のオリンピックでは金メダルを 1個しか獲得していないことについて触れたものだ。今回だけでなく、インドはオリンピックではずっと目立たない存在らしい。以下に引用する。

シンガポールの 「ストレーツタイムズ」 紙は 13日、インドは 1990年からオリンピックに参加しているが、今回のオリンピックまで個人での金メダルは獲得できていなかったと指摘し、国のスポーツ振興をはじめ、様々な原因があると報じた。

ちなみに、この記事の 「インドは1990年からオリンピックに参加しているが」 という記述は、「おいおい、ちょっと待てよ」 と言わざるを得ない。シンガポールの  「ストレーツタイムズ」 紙って、「東スポ」 よりすごいと思ってしまう。

そもそも 1990年にはオリンピックが開催されていないし、それを考えると、「今回のオリンピックまで個人での金メダルは獲得できていなかった」 というのも、まともに信用してはならないという気がする。詳しく調べている暇なんてないので、これ以上は突っ込まないけど。

この記事のクレジットには 「(翻訳・編集/岡田)」 とあるので、「岡田さん、その辺のウラ取りぐらい、しっかり頼むぜ」 と言いたいが、それを別としても、確かにインド人がオリンピックで活躍したという印象は全然ない。

人口数百万人という国でも、金メダルを結構取っているのに、11億人も人がいるインドが、そんなにも国際スポーツ界で活躍していないというのは、ちょっとびっくりだが、まったく意外かといえば、それほどでもない。

私はインド人の知り合いが多いというわけではないが、それでも、付き合いがないわけじゃない。私が 「枝豆は熟してない大豆である」 ということを知ったのは、インド人のおかげである。

あるインド人と枝豆をつまみながらビールを飲んでいたときに、「ところで、この  『エダマメ』 って、一体なんなんだ?」 と実にしつこく聞かれ、仕方なく英語では何というのかを調べようと和英辞書を引いたら、 "immatured soy beans" (未熟な大豆) とあった。その時まで、私は枝豆が大豆であるとは知らなかったのである。

話が横道にそれたようだが、決してそうではない。彼らは、「エダマメ」 って何だ? と、一見どうでもよさそうなことを、しつこくしつこく聞いてくるほどに、知的好奇心はものすごく豊富だという印象がある。しかし、そのくせ、スポーツへの関心はものすごく低い。

上述の記事でも書いてあるように、「インドでは肉体よりも精神が重視されており、肉体は精神が一時的に宿るものだと見なされている」 という文化的背景もあるだろう。

ヨガなんかで空中浮遊すると豪語したり、土中に何日間も生き埋めになってみせたり、サーベルを呑み込んだりと、かなりエキセントリックな芸当をしてみせるくせに、100メートルを 10秒足らずで走ったり、鉄棒でまわったりひねったりしてみせるなんてことには、ほとんど興味を示さないようなのだ。

今回の金メダル獲得種目にしても、男子射撃エアライフルという、どちらかといえば体力よりも精神的集中力の方が要求されそうな競技である。獲物を追っかけて撃つなんていう競技だったら、無理だったろう。

オリンピックのメダル獲得数に血道を上げるよりも、そんなことは横目で見ながら悠然と構えるというスタイルもあるのである。

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2008/08/22

"Speedo" の正しい読み方

外国の固有名詞の読み方が難しいことについては、近頃 "中国人、韓国人の名前の読み方" と "「グルジア」 が 「ジョージア」 であること"の 2つの記事で触れた。

この分野で、恥ずかしながらつい最近になって知ったのは、あのレイザーレーサーで注目の "Speedo" の正しい読み方である。

私は昔からずっと、このブランドは 「スピードゥ」 だと思ってきた。「ドゥ」 の部分は、「ドゥ・スポーツ」 の 「ドゥ」 、「イエス・アイ・ドゥ」 の 「ドゥ」 である。くどいようだが、「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ」 の 「ドゥ」 である。

英国の会社の "Speedo" というロゴを 30年以上も前に初めてみた時から、それ以外にどう読んだらいいのだと、 何の疑いも抱かなかった。これは "speed" と "do" をくっつけた造語で、まさにそこにこそ意味があるのだろうと、勝手に解釈してきたのである。

ところがよく調べてみると、これは造語なんかではなく、"speedo" という単語が元々あったのである。オンラインの英英辞書 Merriam-Webster に行ってみると、普通名詞としてちゃんと載っているではないか (参照)。もっとも、中世に使われた古語のようで、日本人の私が知らなかったのは無理もないのだが。

ただ、古語ではあるが、「速度計」 を意味する "speedometer" ("speedmeter" ではない) という単語に、今でも名残をとどめている。ちなみに、この発音は 「スピードメーター」 ではなく、「スピーミタ」 に近い (参照) が、そう表記すると、日本人は誰も理解してくれない。

また、その筋 (バイクとか) では、省略して単に "Speedo" というだけで速度計のことを意味するようでもある。ふぅむ、何となく競泳水着のブランドに使うというイメージがわかってきたぞ。

そして、上述の Merriam-Webster のページでスピーカーマークのボタンをクリックして、ネイティブの発音を聞いてみると (ああ、便利な世の中になったものだ)、"speedo" の英国での発音は、「スピードゥ」 ではなく 「スピードウ」 に近い。(最後の 「ウ」 が大きい)

"Speed" と "do" の合成語というわけじゃないのだから、当然にも最後の "o" は英語の定石通り、「オウ」 と二重母音で発音するのである。よって最後は 「ドウ」 であって、「ドゥ」 ではない。

となると、日本語表記する場合は世間の常識通り、「スピード」 でいいんだろうなあ。例えば "potato" だって、二重母音を省略して 「ポテト」 と表記することだし。ああ、密かにではあるが、30年以上も 「スピードゥ」 なんて言ってきた自分が恥ずかしい。

というわけで、当の Speedo が、日本語サイトで 「スピードインターナショナル」 と自称しているわけが、ようやくわかったのである。Jaguar Japan  がやや日本に迎合して、自ら 「ジャガー」 と表記している (参照) のとはわけが違うのだ。

自動車評論家の徳大寺有恒氏はあの通りペダンチックな方だから、昔から、「"ジャガー" ではなく "ジャグワ" と呼ぶべし」 と主張されているようだが。

ちなみに、我が先輩、alex さんは、Vietnam を 「ベトナム」 ではなく 「ヴィエトナム」 と呼びたいとおっしゃっている。さすがに、商社に勤務されて初めての海外赴任地だけに、大きな思い入れがおありのようなのだ (参照)。

しかし、その alex さんにして、「ヴィエトナム」 では検索サイトで引っかかりにくいなどの事情を勘案して、近頃では心ならずも 「ベトナム」 の表記を受け入れておられる (参照)。ああ、多勢に無勢とは悲しいことである。

そういえば、私の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 なども、「ヴァーリトゥード」 のキーワードでググると 3番目に表示される (前はトップだったのに) が、その画面の上の方には 「もしかして: バーリトゥード」 なんていう余計なお世話が表示される (参照)。それを見るたび、私はむっときて 「ヴァーリトゥードだよ!」 と心の中でつぶやくのである。

ああ、 「スピードゥ」 も、自分の心の中だけにとどめておいてよかった。知ったかぶりをして 「スピードゥと呼ぶべし」 なんてブログに書いたりしたら、とんだ恥をかくところだった。

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2008/08/21

蚊を、手を汚さずに確実に仕留める方法

実はこの夏、蚊の対策に関する非常に有益と思われる知識を二つ得た。身体に止まって今まさに血を吸っている蚊のつぶし方と、その際に手を汚さなくても済むやり方である。

いくつになっても新しい知識を得ることはできるものだ。死ぬまで勉強とは、よくぞ言ったものである。

考えてもみてもらいたい。自分の腕とか脚とかに止まって、今まさに血を吸いつつある蚊ほど憎らしいものはない。少々の血ぐらいはくれてやってもいいという気はするが、その時に、あの痒みの元となる物質を残さないで行ってもらいたいのだ。あの痒さゆえに、蚊は憎らしいのである。おっと、それから伝染病の媒体になるということもあるし。

ところが、あの蚊というのはとても敏捷な生き物で、叩きつぶそうとしてもなかなか容易ではない、こちらの気配を察して、あっという間に飛んで逃げてしまうのだ。この蚊を逃がさずに、確実に仕留める方法がある。

それは、蚊を叩く動作に入る前に、蚊の止まっているあたりにぐっと力を込めて、筋肉を硬直させることなんだそうだ。すると、蚊が逃げようと思っても、固まった筋肉だか変形した皮膚だかに圧迫されて、突き刺した針が抜けなくなるらしい。

「ぬ、抜けん!」 と、蚊があせっている間に、余裕たっぷりに叩きつぶせばいい。まずこれが、「蚊の対策に関する有益な知識その 1」 である。

次に 「その 2」 に移る。「その 1」 のメソッドで、余裕をもって叩きつぶすことはできるが、普通に叩いたのでは、自分の手が汚れてしまう。これは避けたい。そこで、「叩きつぶす」 というのではない叩き方があることを学ばねばならない。

それは、手に丸い柔らかいものを持ったような形にして、手のひらと蚊との間に空間を作って叩くことなのだそうだ。イメージで言えば、「ペチッ」 ではなく 「バホッ」 である。そうすると、「バホッ」 とやられた蚊は、急激な気圧変化によって、一瞬にして気絶してしまうのだそうだ。

その気絶した蚊をおもむろにつまみ上げ、捨てるなり窓の外に逃がすなりすればいい。手が汚れないだけでなく、無益な殺生をしなくても済む。

なかなか有益な知識である。そう思うのは、きっと私だけではないだろう。しかし、この話には続きがある。せっかくこの有益な知識を得たにもかかわらず、この夏、私はその知識をきちんと生かしたことが、まだ 1度もないのである。

寝ぼけているときに、耳のそばで 「プーン」 という蚊の羽音が聞こえ、むっとしていると、そのうちに、左腕に止まった気配がする。なにやら血を吸い始めたようなむずがゆい感覚を覚える。

そこで、筋肉に力を込めて、丸めた右の手のひらで 「バホッ」 とやってしまえばいいのだが、それを咄嗟には思い出さないのだ。ついそのまま手のひらで 「ペチッ」 とやってしまい、叩いたのは自分の腕だけで、まんまと逃げられてしまう。「プーン」 といういまいましい羽音は、まだまだ続く。

さらに、先日は自宅の玄関先の白い壁紙に止まった蚊を、つい条件反射で 「ペチッ」 とやってしまい、仕留めたのはいいが、壁紙を汚してしまった。汚してしまってから、「ああ、『バホッ』 とやるんだった」 と後悔したが、もう遅い。

このように、いくら有益な情報でも、頭の中の知識としてとどまっているうちは役に立たないのである。訓練によって習得し、それを身体化のレベルまで高めなければ、「論語読みの論語知らず」 と同じことになる。

「わかってはいたんだけど、ついやっちゃった」 という経験は、人生でいくらでもある。それは、実は 「わかっていた」 というわけではなかったのだ。「知っている」 のと 「わかっている」 のとは違うのである。

大きく言えば、日本のバブル崩壊だって、米国のサブプライムローン問題だって、そんなようなものなのだと思うのである。人間、「わかっちゃいるけど、止められない」 という、深い業を持っているようだが、実はそれは、「本当にはわかってない」 からなのだ。

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2008/08/20

天気への敏感さ

8月 15日の記事 「庄内の豪雨」 に、庄内在住の伊藤さんが付けてくれたレスによると、天気予報を日本で一番気にする県民は、山形県民なんだそうだ。

要出展」 ではあるけれど、なんとなく 「さもありなん」 という気もする。山形県生まれの私自身、確かに天気予報をすごく気にするし。

山形県は農業県である。最近は兼業農家ばかりで、じいちゃんは百姓だがとうちゃんはサラリーマンという家も多いが、基本的には米の作柄で県内の景気が大きく左右される。それだけに、天気は大きな関心事だ。

それに、私の生まれた庄内地方は日本有数の (というか、トップの) 地吹雪地帯なので、冬の天気予報にはほぼ全員聞き耳を立てる。夜中から地吹雪になることを知らずに、何の対策も取らずに寝てしまったら、翌朝は動きが取れなくなる。何しろ車社会だから。

そういうわけで、ただでさえ天気予報に敏感な土地で生まれ育ち、若い頃には盛んに山登りをし、売上げが天候に大きく左右されるアパレル業界関連の仕事に就いたので、天気には人一倍敏感にならざるを得なかった。

さらにまた、30歳前に引っ越した土地がなんと洪水地域で、今は改善されたが、ちょっと前までは大雨が降ると必ず道路が冠水した。夜中に大雨になると知ったら、寝る前にしっかりと車を避難させておかなければならなかった。何しろ、ここも車社会なので。

そのうえ、私は 「和歌ログ」 なんていう酔狂なサイトももっていて、毎日一首の和歌を詠んでいる。和歌なんてものは、しょっちゅう自然現象を詠む。それを文字にして残すのだから、天気に超敏感な身体になってしまったのである。

関東の人と話をしていると、天気への関心が低いことに驚くことがある。たとえば、「今年も暑いけど、去年に比べりゃ、まだマシですよね」 なんて言うと、大抵 「え、そうですかね?」 なんて返事が返ってくる。昨年は東京でも 35度以上の猛暑日が続き、熊谷と多治見では 40度超が記録されたことを、すっかり忘れているみたいなのだ。

気象庁の記録を調べればわかるが、去年の 8月は東京で猛暑日になったことが 7回あり、そのうち 6回は 20日までに記録されている (参照)。ところが、今年は 20日現在でまだ 1回だけだ (参照)。8月 15日も暑かったようだが、惜しくも (?) 34.9度だったしね。

というわけで、今年の夏は去年に比べれば、ずっとマシなのだが、少なからぬ関東人はノー天気に 「今年の夏は、特別暑いねえ」 なんて言っている。天気に恵まれた土地に育っている証拠である。

名古屋、大阪、京都の人は、最高気温が 32~34度程度ですむ東京をうらやましがっている。昨年 40度超を二度記録した岐阜県多治見市のデータをみると、今月に入ってから猛暑日でなかったのは 1日しかない (参照)。まことに気の毒なことである。

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2008/08/19

雷と PC と、マーフィの法則

今頃の季節になると、私が 2年前に書いた 「落雷でパソコンが死んだ」 という記事へのアクセスが妙に増える。過去 30日間で 415件、1日平均だと約 14件ということになる。

検索キーワードで最も多いのは、「落雷 パソコン」 というもので、これでググると、何と私の記事がトップランクになっている (参照)。

この夏も、あちこちで落雷被害が報じられる。「ウチのパソコン、大丈夫かなあ」 なんて不安になった人が 「落雷 パソコン」 というキーワードでググってみると、落雷でパソコンが死んでしまった tak-shonai という哀れな男のブログ記事に、すぐに行き当たるというわけだ。

「どんなことになっているのか」 とクリックしてみると、tak-shonai という男は、いつもは家を空けるときは必ず PC の電源を抜く習慣なのに、その時に限って、つなぎっぱなしのまま、3日間も留守にしてしまったというのである。その間に自宅の至近距離に雷が落ち、その余波で電源ユニットと LAN カードが焼けてしまったということがわかるのである。

それに、この時は、PC だけでなく、ブロードバンド・ルーターも、電話も FAX も、風呂を沸かすボイラーもやられてしまったということがわかるのだ。

さらに、この記事では触れていないが、ビデオもステレオも、エアコン室外機も、浄化槽のモーターも、いろいろなものがやられてしまっていて、これらの復旧には、約百万円近い大金が一度に必要になってしまった。このうち、火災保険で半分近くは戻ってきたが、それでも 50万円ほどの散財だったのである。

もし、私のブログ記事を読んだ人が、自分も落雷でパソコンやら、なんやらかんやらをやられてしまったという人なら、「ああ、この不運は自分だけではない」 と、少しは慰めに感じてくれるだろう。そして、幸運にも落雷被害に遭ったわけではないという人も、「おぉ、この季節に外出するときは、少なくとも PC の電源は抜いておこう」 と、心に刻むことだろう。

と、私の記事も少しは世の中の役に立っているんじゃないかと、無理矢理にでも考えて、少しは自分を納得させようとしている今日この頃なのである。

しかし、油断をしてはならない。私のブログ記事を読んで、外出時には PC の電源を抜いておこうと決めた人も、絶対にそれを忘れるときがある。そして、忘れたときに限って、大きな雷がやってくるのだ。世の中、そういうものなのである。

これぞまさに、マーフィーの法則そのものだ。やばいことは、一番やばいタイミングでやらかしてしまうものなのである。そして、その法則を乗り越えるには、嫌なことはさっさと忘れてしまえる楽天性を身につけるしかない。明日は明日の風が吹くのだ。

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2008/08/18

「オールナイトチョメチョメ」 の宣伝

今、8月 18日の午後 10時。常磐線快速電車で帰宅途中である。今日の更新は済ませたものと思いこんでいたが、それは昨日の分を日付の変わる前にギリギリ間に合わせただけだったことに気付いた。

てことは、今日はまだ更新してないってことだ。いやはや、驚いた。

どうも、世間がお盆休みに入って以後、休みのような、そうじゃないような中途半端な状態で、しかも、仙台、大阪、酒田と 3カ所にとんぼ返りで行ったり来たりしたため、頭の中がぼやけている。それに時間感覚がずれてしまって、更新が遅れがちだ。

今日も今日とて、今、電車の中で更新がまだだったことに気付かなければ、帰宅してからそのまま寝てしまうところだった。危ない、危ない。せっかくここまで続けてきた連続更新が途切れるところだったじゃないか。

とはいえ、今日は頭の中がぼうっとして、ネタが思いつかない。3カ所とんぼ返りというスケジュールは、さすがにきつすぎた。若い頃だったらなんてことはなかったが、やはり、50代後半になると、こんなのは身体にこたえる。こんな夏は、もうごめんである。

で、何かネタがないかと思うと、あったじゃないか。明後日の水曜日、「倉庫の二階」 の 「オールナイトチョメチョメ」 が催される。私はどういう行きがかりか、6月、7月と、連続してお江戸両国亭に通ってしまったのである。

終わってからのネタにしてもよかったかもしれないが、もしかして 「自分も行ってみようか」 なんて気を起こす物好きな人も、いないとも限らない。それなら、前々日に宣伝しておいてもいいかもしれない。

そうだ。それならば、「物好きたちよ。水曜日に両国で会いましょう」 と呼びかけておこう。と言っても、宣伝料なんか請求しないから、村田席亭には安心して貰いたい。

「オールナイトチョメチョメってなに?」 という人は、上記のリンクを辿って貰いたい。なにしろ、説明するのが難しいイベントだから。ここでは詳しく書かない。とにかく、眠いのだ。

ところで、上記のリンク先に、

開場:19時30分(開始:19時)

とあるけれど、開場は 18時30分の間違いだと思うがなあ。席亭も相当眠いみたい。しっかりしておくれ! あるいは、最初の 30分間は観客無しの巌流島決戦なのか。

【8月 19日 追記】

席亭にメールで知らせてあげたので、

開始:19時30分(開場:19時)

に訂正された。よかった、よかった。(「開場」 と 「開始」 が入れ替わってたのね)

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2008/08/17

「グルジア」 が 「ジョージア」 であること

今月 12日の 「中国人、韓国人の名前の読み方」 という記事で、アルファベット表記の文化圏では、お互いに自国語流で読むのが当然とという 「相互主義」 について触れた。

で、最近話題の 「グルジア共和国」 だが、表記は "Georgia" なので、英語文化圏内では、当然のごとく 「ジョージア」 と読む。

1989年にニューヨークに出張したとき、ホテルに帰ってテレビをみると、何やら大砲でドンパチやっている映像が映し出され、アナウンサーが 「ジョージア」 がどうやらこうやらと、早口でまくしたてている。

私はアメリカのジョージア州が内戦でもおっ始めたのかと仰天してしまったが、よく聞いているうちに、当時のソビエト連邦内の紛争だとわかった。それで、「へぇ、ソ連にもジョージアがあるのね」 なんて思っていたが、帰国して日本語の新聞をみると、それは 「グルジア」 と表記してある。

今では 南オセチア紛争 と呼ばれる当時の 「グルジア紛争」 のニュースだった。そんなわけで、私は 20年近く前から、「グルジア」 は英語で 「ジョージア」 だと知ってしまっていて、それは、日本の 「中国地方の子守歌」 が、決して 「チャイニーズ・ララバイ」 ではないのと同じようなものだと理解していたのである。

固有名詞の読み方というのは、本当に面倒くさいものなのである。アルファベット表記の文化圏の中でなら、お互いに自国語流の読み方で全然構わないのに、日本は漢字と仮名の国なので、単純な 「相互主義」 にあずかれる範囲が極端に狭い。

従って、現地読みの発音をカタカナで表記しなければならないということになる。つまり、英米人なら 「ジョージア」 で済ませるところを、現地の発音をなぞって 「グルジア」 と表記しなければならない。

で、この 「グルジア」 問題、さらに複雑なのだ。Wikipedia (参照) によると、グルジアの本来の国名は、グルジア語では საქართველო と表記するんだそうだ。申し訳ないが、なんと読むのかさっぱりわからない。これをラテン文字に転写すると Sakartvelo になるんだという。以下、Wikipedia からの引用である。

サカルトヴェロは、「カルトヴェリ人(グルジア人)の国」という意味で、カルトヴェリは古代ギリシャ人の記録にもあらわれる古代からの民族名カルトゥリから来ている。

日本語名の「グルジア」はロシア語名Грузияにもとづき、英語名の Georgia と同じく、キリスト教国であるグルジアの守護聖人、聖ゲオルギウスの名に由来すると言われる。

つまり、グルジアという国の国号は、グルジア語の発音をそのまま日本語にすると 「サカルトヴェロ」 って感じになるのだが、日本では英語表記のグルジア語読み発音を採用して、「グルジア」 と呼び習わしているという、ちょっと複雑なことになっているのである。

これって、日本の国名の発音は、本来のアルファベット表記では "Nippon" なのだが、世界中のほとんどの国でそれは採用されず、"Japan" という英語表記に近いものを、それぞれの国流に、 「ジャポン」 とか 「ヤパン」 とか言っているようなものである。

なんで "Nippon" でなく "Japan" なのかというと、大昔にマルコポーロが東方見聞録を書いた当時の、「日本」 という漢字の中国語読みが、「ジパング」 に近いような発音だったらしく、それを聞いたマルコ・ポーロがいい加減に "Zipang" と記してしまったためである。

たったこれだけのために、マルコ・ポーロ以後の西欧社会では、日本の国名は 「ジパング」 のバリエーションになってしまった。いつの時代も、「相互主義」 とはいえ、その時代で影響力の強い言語になびいてしまうのは、仕方のないことである。

だから、「サカルトヴェロ」 も、「日本」 が当時のモンゴル帝国での読み方に引きずられて 「ジパング」 になった如く、ロシア語に大幅に引きずられて 「グルジア」 になってしまっているようなのだ。ああ、面倒くさい。

で、中国も国際的には "China" という表記を公認していて、それはまた西欧では 「チャイナ」 と読まれたり 「シナ」 と読まれたりしている。ところが、日本人が 「シナ」 と言ってしまうと、それは蔑称ということになってしまったりするのも、本当に面倒くさいのである。

中国人、韓国人の名前の読み方」 の記事でも触れたが、私は 「李明博」 の英語表記は "Lee Myung-bak" なのに、どうして日本人には 「イ・ミョンバク」 でなきゃいけないのか、 納得できる説明をしてもらったことがない。

アメリカ人には 「リー」 と読ませて平気なのに、なぜか日本人には 「李」 を 「リ」 と読ませたくないようなのだ。そして、「盧武鉉」 の英語表記は "Roh Moo-hyun"なのに、日本人には 「ノ・ムヒョン」 と読ませて 「ロ・ムヒョン」 ではダメというのも、同様に納得のいく説明をされたことがない。

そして、日本人が 「シナ」 と言うと語弊があるということにも、心の底ではちょっと納得がいっていないのである。だったら、アヘン戦争をしかけた英国人にも 「チャイナ」 と言わせず、越南 (ヴィエトナム) を横取りしたフランス人にも 「シノワ」 と言わせない方がいいんじゃないかとかね。

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2008/08/16

晩夏から真夏に逆戻り

秋の気配すら感じられ始めた庄内から、ほぼ 8時間のドライブの後、日付が変わった直後に、ようやくつくばの地に戻り付いた。

気絶の如き眠りから覚めると、「曇りのち雨」 という天気予報はあっけらかんと裏切られていて、朝から真夏の太陽が照りつけている。ああ、晩夏と真夏の違いは大きい。

昨日の庄内の最高気温は 29度と、ついに真夏日にならずに済んだ。あの豪雨で、地面が相当に冷やされてしまったようだ。今年の夏は、去年のような暴力的な暑さにはならずに済んでいるようだ。

そう思いながらテレビのニュースで天気情報をみると、名古屋より西では、猛暑日を下回ることが珍しいようで、やはりめちゃくちゃな暑さである。ほとんど毎日、向こうでは東京の最高気温を 3度ぐらいは上回っているようなのだ。気の毒な限りである。

日本は狭いようでいて、実は案外広い。庄内と大阪では、夏の気温が 5度も違うのだ。庄内ではアブラゼミの声しか聞えなかったが、今朝はミンミンゼミやヒグラシの声も混じっている。自然界のバリエーションの幅からして違っている。

こんなに気候が違うと、真夏に関西に出張してどっと疲れるのも道理である。そして、関東人が関西に出張して感じるしんどいほどの暑さを、庄内から関東に戻ってきた私が、今まさに感じているのである。

というわけで、今日はこれから仕事をこなさなければならないので、短めにて失礼。

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2008/08/15

庄内の豪雨

昨日の庄内地方の天気予報は、「曇りのち雨」 というものだった。昼過ぎから雨になるはずだったのである。

ところが実際には、朝から断続的に激しい雨が降り、昼前に行った墓参りでも、やはり雨に降られた。どうやら、予報より半日前倒しになったみたいなのである。

雨が半日前倒しになった分、夕方からは落ち着いてしまって、6時から始まった高校時代の同窓会には傘も差さずに出かけられた。そして二次会で夜中までなだれ込み、日付の変わる頃に実家に戻って風呂に入り、浴槽の中で 1時間ほど寝込んでしまってから、ぐだぐだになって布団に潜り込んだ。

そして朝まで正体なく寝込み、小鳥とアブラゼミの鳴き声でさわやかに目を覚ました。昨日までの天気予報では今日は一日雨のはずだったが、朝に確認すると、雨のち曇りになっている。半日前倒しがそのまま継続である。

ところが、実際には午前中にも雨なんか降らず、もう全然大丈夫。まとめて 1日分前倒しになってしまったようなのだ。

ところが、ローカルニュースを見て呆然である。昨夜、私がさんざん飲んだくれ、二次会でカラオケ歌いまくり、風呂で眠りこけ、布団にもどってぐずぐずになっている間に、庄内地方の南半分は、大変な豪雨に襲われていたようなのだ。

庄内町などでは 半日で 400ミリ以上という記録的な豪雨になり、山形道の鶴岡 IC は閉鎖され、あちこちで床下浸水という事態になっている。テレビでは 76歳のお年寄りが 「今まで生きてきて、こんなすごい雨は見たことなかった」 と、呆然と語っている。

いやはや、そんな大変なことになっていたとは、全然知らんかった。だって、酒田は全然平気だったんだから。晴れ男の私が傘も差さずにふらふら歩いていたからだろうか。

庄内というところは、冬の地吹雪を別とすれば、気候には案外恵まれたところである。夏はそれほどバカ暑くなるということもなく、冬だって凍えるほどの寒さにはならない。台風だって、たまに来てもそうとう疲れてしまっていて、たいていは温帯低気圧直前だし、過ごしやすい土地である。

ただ、よその人からみると、「よくもまあ、あんな地吹雪に吹かれながら 『気候に恵まれている』 なんて言えるなあ」 ということになる。まあ、そのへんが、庄内人の楽天的なところで、私なんか、庄内に生まれてよかったと、今でも思っている由縁である。

それにしても、南庄内在住の同窓生、夜中に帰宅して、ずいぶん焦りまくったんじゃあるまいか。ご苦労さんでした。

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2008/08/14

お盆の 「帰省ラッシュ」 レポート

思えば 30数年間、意識して避けてきた、お盆の 13日に帰郷して、15日に U ターンするというスケジュールを、今年は余儀なくされた。

こんなスケジュールでは、単に渋滞の中でいらいらするためだけに、貴重な時間を使うようなものだ。私は何が嫌いって、人混みに埋もれることほど嫌いなことはないのである。

できれば、昨日は夜明け前に出発したいところだったが、前日に大阪に出張し、夜中に帰り着いたので、睡眠不足は避けたい。そこで、あえて朝の 9時頃に発つことにした。

ニュースを聞けば、東北方面は、東北道が西那須野を先頭に 55キロの渋滞と告げている。それなら、なるべく一般道の抜け道を通って北上し、福島県に入ってから東北道に乗っからなければ、のろのろ走るためだけに高速料金を払うことになる。

というわけで、つくばの地から国道 294号線を延々と北上することに決めた。走り出すと、普段よりは車の数が多いものの、渋滞もなくすいすいと走れる。3時間ほどで福島県に入り、国道 4号に入ってすぐに、矢吹 IC で東北道に乗る。

高速道に乗ってみると、思いの外渋滞していない。普段よりはずっと混雑しているが、時速 80キロ以下に落ちることはほとんどない。さすがに、福島県に入ると、高速道に流入するより降りる車の方がずっと多いらしく、渋滞は楽になる。

それでも、福島トンネルの手前でびっくりするほどの渋滞になる。これはいつものことで、トンネル手前でびびってスピードを落とす車が多いので、それがつもり重なって、しなくてもいいい渋滞を引き起こすのだ。だから、トンネルを抜けてしばらくすると、すぐに普通のスピードに戻る。

そんなわけで、10時間ぐらいかかるかと覚悟していた運転は、8時間足らずで済んだ。ガソリン価格の値上げで、車での帰郷が減ったことも、渋滞を減らしているのだろう。喜んでいいのか、悲しんでいいのか。

今日は親戚回りと墓参りをして、夕方からは高校時代の同級会である。明日はもう U ターンだが、来るとき同様、しっかりと渋滞回避策を練って、ストレスなく帰ろうと思う。

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2008/08/13

抗菌防臭柔道着というもの

オリンピック代表の柔道選手が着用している柔道着には、銀素材が練り込んであるんだそうだ。さぞかし高く付くんだろうなあ。

何のために銀なんか練り込むのかといういうと、抗菌機能を付加するためなんだそうだ。ふぅむ、汗かいてほったらかしにしても、臭くなったりしないようになのかなあ。 (参照

格闘技の選手といえば、むんむんムレムレの中で大汗かいて稽古して、ものすごく汗くさくなってるなんていうイメージがあるかもしれないが、それは昔の話だ。今の格闘技の選手は、とっても清潔になっている。

とくに、寝技などで互いに密着することの多い柔道やレスリングは、相手に不快な思いをさせないように、気を遣う選手が多い。プロレスラーなんか、試合前には香水やオーデコロンなんかを使ったりすることもあるらしい。

ただ、柔道着を清潔に保つのはやっぱり大変だ。試合の前にはそりゃ、きちんと洗うだろうが、稽古するたびに洗うとは限らない。夏場なんて、ちょっと洗濯を欠かしてしまうと、やっぱり汗くさくなってしまう。

私は 30代半ばまで合気道を習っていた。合気道というのは、基本的には柔道着を着て、その上に有段者になると袴をつける。柔道よりは重装備になってしまう。それだけに、夏場はどうしても汗くさくなりがちだ。

ある夏の日の夕刻、いつものように道場で稽古に励んでいると、どうも臭い。かなり臭い。

「しまった、道着 (「どうぎ」 と読んでね) の洗濯を忘れてたよ。この臭い、俺の道着のせいかなあ」 なんて気になってしまって、受け身を取るたびに道着の袖を鼻に近づけて、クンクンやってみるのだが、どうもそれほど臭いわけじゃない。

「俺のせいじゃないみたい」 と、少し安心する。それにしても、この臭いは一体誰の道着のせいなんだ?

ふと気付くと、道場で稽古しているほぼ全員が、やっぱり臭いが気になるらしく、自分の道着の袖の臭いを確かめたりしている。そして、「俺じゃないみたい、それにしても ……?」 と、怪訝な顔つきになる。

そのうちに、誰かが窓の外を指さして、「何だよ~、この臭い、あのせいだよ~!」 と素っ頓狂な声を上げた。何事かと、全員窓の外をみると、隣のアパートの住人が、ドアの前に七輪を出して団扇でバタバタやりながら、何かを焼いている。そこから、強烈な臭いがする。

よくみると、金網の上に魚の干物らしきものが乗っている。あぁ、あれが音に聞く 「くさや」 というものか。なるほど、この強烈な臭いでは、台所のガスコンロで焼いたりしたら、臭いが消えるまで屋根の下で暮らせなくなる。外に七輪持ち出して焼くしかない。

というわけで、あの臭さは、洗濯し忘れた自分の道着のせいではないとわかって、一同ほっとしたのだが、その日は誰言うともなく、全員が道着を持ち帰って洗濯したのであった。

あの頃から、銀素材を練り込んだ道着があれば、くさやの臭いごときであんなに取り乱したりせずに済んだだろうに。

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2008/08/12

中国人、韓国人の名前の読み方

「心の琴線」 というサイトの管理人さんが、「なんで中国人選手を音読みするんだろう……。普通に中国語で読めばいいのに」 と疑問を呈しておいでだ (参照)。

「それとも場内放送で日本人選手を中国語読みで紹介されることへの対抗か?」 とも書いていらっしゃる。ふむふむ。

これ、単純に考えればごく単純な話だが、複雑化させてしまうと、どこまでも複雑になってしまうという、やっかいなテーマである。

まず、単純に考えると、「相互主義」 という考え方がある。普通には、「お互いに、自国語流で読んじゃいましょう」 ということだ。しかし、文字そのものの文化が異なってしまうと、「自国流の読み方」 もへったくれもないから、「お互いに本来の発音に沿って表記しましょう」 ということしかなくなる。これも 「相互主義」 である。

「貴国の人の名前は、貴国語流に読ませていただきますが、我が国の人の名前は、貴国の読み方で構いません」 という土下座主義とか 「我が国の人の名前は、オリジナルの発音で読め。ただし、そっちの国の人の名前は、我が国流の読み方で読むけど」 という高ピー主義みたいなことは、普通はないようなのだ。

例えば "agnès b" というフランスのデザイナー・ブランドを、アメリカ人が英語式に 「アグネス・ビー」 と発音しても、パリの 「アニエス・べー」 本社から抗議されるなんてことはない。

そして 往年のハリウッド女優 "Katharine Hepburn" (日本では 「キャサリン・ヘップバーン」 という怪しい読みになっているが) を、フランス人が 「カトリーヌ・エブルン」 みたいに発音しても問題ない。こうした行き方が、いわゆる普通の 「相互主義」 である。

アルファベット表記が基本の欧米では、これが当然である。あまりにも当然すぎるから、ことさらに 「相互主義」 なんていうほどのものでもない。それぞれが自己流の 「訛り」 で発音しているぐらいの認識なのだろう。

なにしろ、イエス・キリストだって、国によって 「ジーザス」 だったり 「イエズス」 だったり 「ヘス」 だったり 「ジェズュ」 だったりするのだから、「ヨハネ」 が 「ジョン」 、「ペテロ」 が 「ピーター」 になるぐらいで気にしていたら、聖書も読めない。

東アジアでは、日本と中国は、「お互いに自国流の読み方で読んじゃいましょう」 という欧米文化圏内のような相互主義が慣習化しているので、あまり問題はない。これ、同じ漢字文化圏内なのだから当然である。

中国側にしてみれば、同じ漢字でも北京語と広東語では読み方が違うのだから、日本語式の読み方だって、その延長みたいに思っているのかもしれない。欧米で同じ人が 「シーザー」 だったり 「カエザル」 だったりしても、気にしないようなものである。

ところが、対韓国・北朝鮮だとそうはいかない。まるで異文化間の相互主義みたいなことになっている。これは韓国や北朝鮮側からの 「日本式の読み方でなく、ちゃんとしたオリジナルの読み方しろ」 という圧力がきつかったという経緯によると思う。

とくに朝鮮半島の人が 「自分の名前を日本式に読まれたのは侮辱だ」 みたいなことで、日本のマスコミを訴えたりすることがあったものだから、日本側がことさらにナーバスになったということもある。

私個人としては、「イエス・キリスト」 を英米人が 「ジーザス・クライスト」 と言っても神を冒涜したことにならないのと同様に、韓国・北朝鮮の人の名前を日本語式で読んだとしても別に 「侮辱」 したことにはならないと思っている。相手の国でどう読むかなんて、個別に教えてもらわなければわからないんだし。

ところが向こうに言わせると、「我々は日本人の名前をちゃんと日本式に発音してやってんだから、日本人もそうしろ」 ということのようなのだ。

これ、向こうが近頃、漢字教育を止めちゃったせいで、漢字が読めなくなっているという事情が大きいのだと思う。日本人の名前を漢字で示されても、伝統的な朝鮮式の読み方すらできなくなっているのだから、本来の発音に沿ってハングル表記するしかない。つまり、漢字文化圏内の相互主義が成立しなくなったのだ。

私としては、漢字文化圏とアルファベット文化圏のそれぞれの内部では、「お互いに自分流の読み方しちゃいましょう」 ということでいいんじゃないかと思っている。だが、対韓国・北朝鮮は例外だ。漢字文化圏内であるようで、実はそうでもないという変則的な事情がそうさせている。

それにしても納得がいかないのは、韓国人は 「李」 という名前を、どうして日本には 「イ」 と読むように強要するのに、英語表記は "Lee" でよしとしているのかということである。

韓国大統領 「李明博」 は、日本人には 「イ・ミョンバク」 と読ませたいらしいが、英語表記は "Lee Myung-bak" である。ならば、どうして日本人が 「リ」 と読むと怒られちゃうのか、不思議である。野球の 「イ・スンヨプ」 選手も、ユニフォームの背中にはしっかり "Lee" と書いてあるし。

先代の大統領 「盧武鉉」 も、日本人には 「ノ・ムヒョン」 と読ませておいて、英語表記は "Roh Moo-hyun" である。欧米人が 「ロー」 と読む分にはいいが、日本人が日本式に 「ロ」 と読むのはいけないようなのだ。

何だか、妙なところで意地悪されてるような気がするのである。

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2008/08/11

政治家の言葉センス

「消費者がやかましい」 発言の太田農水相をかばうわけじゃないが、少なからぬフツーのサラリーマンだって、業界側の立場では、「消費者うぜぇ」 なんて思っていたりする。

ただ太田さん、言葉に無神経すぎるみたいなので、言葉が商売道具の政治家には向かないんじゃなかろうかということだ。

太田誠一という名前は、どこかで聞いたことがあると思って、Wikipedia を検索してみたら、例のスーフリ事件で、「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい」 みたいな発言をしちゃった人だった。ああ、やっぱり、言葉センスなさすぎだ。

「元気」 といえば、4年前に小学生の少女が同級生をカッターナイフで斬りつけて死亡させた、いわゆる 「長崎少女殺人事件」 でも、 「元気な女性が多くなってきたということですかな」 なんてピント外れを言っちゃった井上喜一防災担当大臣 (当時) の例もある。

悲しいかな、言葉センスのない政治家は、一人や二人じゃないようなのだ。

「消費者がやかましい」 問題に戻るが、私の関係するアパレル業界でも、「3着セットで 1,000円で買った Tシャツの裾の縫い目の糸の端がちょっと出ている」 と言って、執拗に商品交換を要求するような消費者がいくらでもいる。そのくらいのことは、クレームをつけるまでもなく、自分で糸の端をちょいと切り取ればいいだけなのに。

世の中では 「モンスター・ペアレント」 が問題になっているが、「モンスター・コンシューマー」 もいる。

ごく一部ではあるが、そうした 「やかましい」 以上の極端な人も存在するので、第一次、第二次産業でメシを食っている人は、自分の業界側にスタンスをおいてしまうと、正直なところ 「消費者、うぜぇ」 と思ってしまうことが少なくない。

だが、フツーの神経さえもっていれば、たとえ 「消費者、うぜぇ」 と思ったとしても、オフィシャルな場でそんなことは決して言わない。言えるわけがない。ところが政治家だと、「一つの弾み」 (参照)で、ついぽろっと言ってしまうのである。気楽というか、エラソーというか。

決して必要以上に責めるわけじゃないけれど、「たった一つの弾みでこんなことを言うんじゃ、あぶなくて政治をまかせられんな」 と感じてしまうのも無理もないことだろう。

お願いだから、ごくフツーのレベルまででいいから、言葉センス (「常識」 といってもいい) を磨いてもらいたいと思うのだ。

僭越ながら教えてあげるけれど、こういう場合は 「日本の成熟した消費者の皆さんは、品質に関しては、おそらく世界最高水準の卓越した目をお持ちですから ……」 なんて言い換えるのが、世の中の常套手段なのだよ。

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2008/08/10

近頃、夏は過ぎても秋が来ない

これはもう、昔からのことだけれど、夏ほど早く過ぎ去ってしまう季節はない。あれほど楽しみにして、あれもやろう、これもやろうと計画していた夏休みは、あっという間に過ぎ去る。

やろうとしていたことの半分もできないうちに、だんだんと日の暮れるのが早くなり、祭りの後のような虚脱感におそわれたりする。

今年もいつの間にか立秋が過ぎ、昨日なんか、確かに気温は高かったけれど、日中でもちょっとさわやかにさえ感じられる風が吹き、日が暮れてからはしのぎやすくなってしまった。暑いことは暑いが、40度超を連発した昨年の夏とは、ちょっと違うような気がする。

ところで、今年のお盆休みは強行軍である。遊んでいる暇がない。

今日は一家で早朝に仙台に発って、義母 (妻の母) の 17回忌に出席する。義父は 80歳を越えてしっかり元気だ。妻が死んだら夫もだいたい 4~5年以内に死ぬと言われる世の中で、妻の 17回忌法要を営む夫というのは、なかなか珍しい。

法事から夜中に帰ってきて、明日は自宅にこもって、一日中デスクワーク。明後日は大阪に日帰り出張。13日から 15日までは、妻と酒田に行く。酒田でも結構スケジュールが詰まっている。16、17日は土日だが、デスクワークに追われる。

18日からは、いわゆる 「夏モード」 は終わり、完全に通常業務になる。そしてその頃には、かなり夜が長くなってきて、何となくけだるい感覚が漂ったりするわけだ。そうこうしているうちに、心機一転、「実りの秋」 に突入することになる。

ところが、ところがである。近頃は、この頃になっても、「秋」 という季節に向かうような気がしないのだ。とにかく、いつまでもだらだらと暑いのである。いわゆる 「夏モード」 が終わっても、10月の声を聞くまではひたすら残暑に耐えるのだ。

ハイテンションの 「夏モード」 はすっかり終わっているのに、しっとり感の 「秋モード」 に入れない。「祭りの後モード」 が、だらだらと 1ヶ月半ぐらい続いてしまう。心の区切りがつかず、夏バテ感を背負いながら 「秋はまだか」 と呟く期間が、やたら長くなってしまった。

これって、日本人の伝統的な 「春夏秋冬文化」 の盲点みたいなところなのである。そりゃあ、これまでだってこうした時期というのはなくはなかったが、あっという間に過ぎ去っていた。ところが、近頃はこれがやたらと長い。

この中途半端な季節感が長引いてしまうのは、温暖化で避けられないところなんだろうが、その過ごし方を、日本人はまだ明確に意識化したことがない。新しい心の区切りのつけ方を 「文化」 として確立する必要があるような気がする。

私はしょっちゅう、 「はぁはぁ、秋はまだか」 なんて言いつつ適当に発散しているから、大丈夫なんだけど、中途半端なままで、ただうっとうしさを抱え込んでいると、なんだか 「うつ」 が増えてしまいそうな気がするのである。

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2008/08/09

またパクられてしまった

嫌なことではあるが、インターネットの世界には、パクリということがかなり蔓延しているようなのだ。

3年ほど前にも 「牧師」 を自称する人物が私のサイトからパクった記事をブログに載せているのを発見して、かなりのストレスを感じてしまったことがある (参照 1参照 2)。

今度の 「サーザの独り言 - CURURU」 というサイトは、私のサイトからパクリまくりである。困ったものである。このサイトの 8月 8日 00:12 のエントリーは、一挙 4本の記事を載せているが、すべて、元は私がブログで書いたものである。

「北京で終わってしまったオリンピック」 (私の今年 8月 6日の記事)
「ツクツクホウシの修練」 (同 2004年 8月 4日の記事)
「蝉の鳴き声に関するレビュー」 (同年 8月 20日の記事)
「セミの鳴き声というトラウマ」 (同年 9月 9日の記事)

じっくり読み比べるまでもなく、すべて見事なパクリである。第一、執拗に使用している画像も、私のサイトから無断拝借している。こちら をご覧の上、画像の坊やの顔あたりをクリックしてご覧いただきたい。

まあ、画像の方は私もありものを写しただけだから大したことじゃないと言ってあげてもいいが、テキストの方は、これをパクリと言わずして、何をパクリと言ったらいいのだ。

前述の 「牧師」 も、「あまりにもいい記事なので、引用させていただきました」 なんて、言い訳にならない言い訳をしていたが、引用元を隠して、引用であることを明示せずコピペしちゃうのを、日本語では 「盗作」 「パクリ」 というのである。

パクリはこれだけではない。もっとある。その前日のエントリー (参照) は、私の本宅サイト 内から 3本パクリ。

「ディスプレイを、もっとずっと低い位置に置きたい」 は、 こちら の記事。
「まともなデザインのマウスに出会った」 は、同様に こちら
「『ユビキタス』 はありがたい」 は こちら

この 3本のうち、前の 2本は、写真までまんまパクっている。さらに、これだけでもないのである。その前日は、以下の通り。

「死刑制度では旗幟鮮明じゃない私」 (私の今年 8月 4日の記事)、
「死刑で罪は償えるのか」 (同  2007年 9月 23日の記事)、
「死刑の 『目的』」 (同年同月 26日の記事)、
「死刑をめぐる煩悶」 (同年同月 28日の記事)。

そのまた前日のエントリーはこんな感じ。

「学生が読むなら留年覚悟の 50冊」 (私の今年 7月 15日の記事)、
「映画の字幕と知的レベル」 (今年 5月 12日の記事)、
「夏バテを乗り切る呼吸法」 (同  8月 4日の記事)。

そしてまたまた ……、ああ、これ以上挙げるのは、もう疲れた。上述しただけで、4日間で 14本のパクリだが、その前にも、ほとんど毎日、私のサイトからパクってくれている。一体、何が気に入ったものやら。

と、ここまで書き終えて先方を確認したら、また今日もさっそくパくられていて 5日間で 17本に増えていた。(その前にもパクリまくりだから、何本パクられたか、数え切れない)

そして、これだけパクるのだから、さぞかし他の記事も…… と思い、ググってみたら、案の定、毎日アップされてる語源関係の記事は、「語源由来辞典」 というサイトからのパクリまくりとわかった。

さらに、"パロディー「買ってはいけない」" というサイトからもパクリまくり。もっと他のサイトからもパクってるかもしれないが、何しろ、私自身のサイトからのパクリもどのくらいあるか数え切れないほどなので、他のサイトからのパクリまで全部追ってる暇がない。

彼のブログのプロフィル欄に 「ウソもつき通せば真実」 なんて、いけしゃあしゃあと書いてあるのも、ここまでくると洒落で済まなくなって、むっとくる。

とはいえ、私としては、彼のブログの冒頭できっちりと 「パクリまくりでした。ごめんなさい」 と懺悔して、パクリ記事をすべて削除するなら、事を荒立てるつもりはない。しかし、「語源由来辞典」 さんは、以下のように明示してある (参照)。

語源由来辞典では閲覧以外の目的で利用することは禁止し、下記条件を満たさないデータの二次利用をされた方にはデータ使用料をいただいております。

さぞかし高い金額の請求書が届くだろう。知~らないよ、知らないよ。

最後に付け足し。CURURU というサービスは、マナー知らずの子どもが一杯な上に、運営会社の管理もゆるゆるで、どうやら悪質サイトの巣窟となっているようなのだ (参照)。もしかしたら、この 「サーザの独り言」 の管理人も、子どもなのかもしれないが、だからといって、放っておくわけにもいかないしね。

まあ、今日のこの記事もきっと読むだろうから、一応これをもって警告としておこう。なお、道義上、上記の 「語源由来辞典」 「買ってはいけない」 の管理人さんにも、メールで知らせておくことにする。

【8月 11日 追記】

この問題については、ご覧のようにコメント欄に当人から詫びが入って、該当記事が削除されているようなので、これにて一件落着。

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2008/08/08

「何かを選択する」 とは?

昨夜は自由が丘のライブハウス 「マルディグラ」 で、岩崎はじめさん (以後: はじめちゃん) のライブを聴いてきた。

高校の先輩にして旧い友の古田勘一さん (以後:勘ちゃん) がゲスト出演した。はじめちゃんがプロとしてのキャリアを積むきっかけになったのが、勘ちゃんのバンドだった。

70年代初頭、勘ちゃんのバンド 「複葉機」 に、当時高校を出たばかりぐらい (だったと思う) の若いはじめちゃんがピアニストとして参加し、渋谷の今はなきジャンジャンなどに出演していた。その後、勘ちゃんは南正人のアルバムなどに参加、強烈なスライドギターで知る人ぞ知る存在となる。

その後、勘ちゃんは音楽活動を続けながらも、ペンキ職人として一本立ちして、今は 「親方」 になっている。勘ちゃんに従兄弟のはじめちゃんを紹介した H 氏は私の大学時代の同級生で、今はテレビ番組のプロデューサーだ。

H 氏の妻は、私の高校までの同級生。そして高校時代に彼女の 「トイレ友達」 だったのが、勘ちゃんの妻。人間の縁というのは、まことにまことに不思議なものである。

昨夜は勘ちゃんの歌を30年ぶりぐらいに聞いて、時間というものは心次第で変幻自在なものだと、つくづく感じた。70年代なんて、遠い昔のようだが、実はすぐそこにある。もしかしたら、去年や一昨年なんかよりずっと近い。下手したら、「ついさっき」 よりも近い。

年を取ってボケが入ると、ついさっきのことを忘れて、子供の頃の思い出話を始めたりするらしいが、なるほど道理である。私も近頃、いい具合にボケて来ているようだ。

ところで、勘ちゃんの歌を聞いているうちに、私もついまた歌いたくなってしまった。私もその昔は、シンガーソングライターだったことがあるのである。私が歌を止めるきっかけというか、数奇な運命については、こちら に書いてある。

今では、ギターの弦を押さえる左手の指先はすっかり柔らかくなってしまったし、昔の持ち歌の歌詞すら忘れかけてしまっている。人に聞かせられるような歌を、また歌えるようになるには、練習や準備だけで 1年はかかるだろう。 今の私にそれだけの時間的余裕はない。

人生とは 「選択」 の繰り返しである。そして、「何かを選択するとは、ほかの何かを諦めること」 と、以前の私は少しほろ苦い思いで信じていた。しかし、今は違う。

「何かを選択する」 ということは、「他の何かを、他の誰かにやってもらうこと」 だと、今頃ようやくわかったのである。私の代わりに道を極めてくれる人がいる。一緒に楽しめる。ありがたいことである。

ちなみに、勘ちゃんのギター 1本での 「一人ビートルズ」 はすごい。是非シリーズ化して、CD にしてもらいたいと願っている。

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2008/08/07

「二の矢」 を受けない河野さん

松本サリン事件の被害者、河野澄子さんが8月 5日、事件後ついに一度も意識を回復することなく、亡くなったと報道された。

その夫で、事件後ずさんな操作とマスコミの思いこみで犯人扱いされた河野義行さんは、ただ 「ありがとう」 の言葉のみを発し、恨みがましいことは一切口にしていない。

彼のオフィシャル・サイトのトップページには、自身の著書 『命あるかぎり』 (第三文明社・刊) の中から、次のような言葉が記されている。

私は、麻原被告も、オウム真理教の実行犯の人たちも、恨んでいない。恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、限りある自分の人生を無意味にしたくないのである。

彼のこのような潔い宗教的とまでいえる態度は、一部には反感もあるようだが、一般には感動的なものとして受け入れられている。凶悪犯罪被害者の遺族として、どちらがいいとか悪いとかではなく、光市母子殺人事件の被害者遺族、本村洋さんとは対照的な存在といっていいだろう。

たまたま、つい最近も死刑ということに書いた (参照) 私としては、このことについて触れないわけにはいかなくなったような気がする。私は死刑について、上記のエントリーで、次のように書いている。

私は決して死刑廃止論者ではないが、積極的に死刑を求めるわけではなく、それはたとえ自分が被害者家族の立場に立ったとしても変わらない

それに先だって昨年秋に 「死刑で罪は償えるのか」 という記事を書いたときには、「自分が被害者なら、やはり加害者を死刑にしたい」 というトーンのコメントが多く寄せられた。そして私は、「それでも死刑は望まないだろう」 というようなレスを書いた。

そして今、河野さんのコメントを読んで、「そうか、私も妙に客観的すぎる言い方をするより、河野さんのようにはっきりと言い切るべきだったのか」 と、密かに思っている。まあ、こうして書いちゃったから、既に 「密かに」 ではなくなってしまったが。

だから私は、河野さんにとても共感するが、あえて賞賛しようとまでは思わない。私にとっては、それが 「当然の態度」 だからだ。当然のように当然の態度でいられるというのは、素晴らしいことではあるが。

何度も繰り返すが、私は被害者遺族が執拗に加害者の死刑を要求することの方にこそ、非常に強い違和感を覚える。断っておくが、これは前述の光市の本村さんの一連の発言が 「恨む」 という想念から発したのかどうかは、まったく別としての話である。

仏教に 「二の矢を受けず」 という言葉があり、それは、自分の心を整えて、様々な感情に執着しなくて済むようにするということだ。私もそれについて、発端は別件だが今年の春に書いている (参照)。

「恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、限りある自分の人生を無意味にしたくない」 というのは、至言である。河野さんは、「二の矢」 を受けることをよしとしない生き方を選択されたのだ。

私が 「もし自分が凶悪犯罪被害者の遺族だったとしても、ことさらに死刑を要求するようなことはしたくない」 というのも、つきつめれば、「二の矢」 を受けたくないからなのである。そんなものを受けて、残りの人生を落とし込めたくないのだ。

河野さんが選択されたように、亡くなったものへの感謝のうちに生きて、それによって世の中にポジティブな発信をすることの方が、尊いと思うのである。

最後に、河野澄子さんのご冥福を祈りたい。

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2008/08/06

北京で終わってしまったオリンピック

どういうわけだか、北京オリンピックの開幕は 8月 4日と思いこんでいたので、5日のスポーツ紙トップが 「山本昌 200勝達成」 だったことに、狐につままれた気がした。

まあ、4日開幕と思ってるくせに、全然テレビを見てないというのも変かもしれないが、今回のオリンピック、あまり関心を持てないのだ。

テレビかラジオが 「北京オリンピック開幕は 8月 8日」 と言った 「ようか」 を 「よっか」 と聞き違えてしまったとしか思えないのだが、それにしても、4日になっても世の中がそんなような雰囲気じゃないことに、少しも疑問を抱かなかったというのは、我ながら間が抜けている。まあ、ことほど左様に無関心なのだ。

考えてみれば、私がオリンピックの開会式をリアルタイムでテレビで見たなんていうのは、44年前の東京オリンピックだけだ。だから、オリンピックの開会式中継を見ないのは毎度のことで、それが今回の北京オリンピックに私がことさらに無関心であるという証明にはならない。

ここまで考えて、ようやく気が付いた。私は北京オリンピックに 「無関心」 というよりは、むしろ 「冷淡」 でいたいと思っているようなのである。

同じ 「見る気がしない」 という態度でも、我が家の末娘などは全然テンションが違う。彼女は自分の好きなバレーボールだけは何が何でも見たがるが、オリンピックそのものには元々関心が薄い。だから、前回のオリンピックの開催地がアテネだったということすら、すっかり忘れている。

オリンピックというイベントに日本で一番強い思い入れを持っているのは、もしかしたら、私の年代なのかもしれない。それは、小学校 6年という一番多感なときに、あの東京オリンピックが開かれたからといっていい。

あの年の少し前から、日本は高度成長が始まり、オリンピックの年になってようやく、大抵の家で白黒テレビが見られるようになった。高度成長とテレビと東京オリンピックは、記憶の中でワンセットなのである。

あの年は、カレーライスのありがたみが急に薄れてしまった年である。それまでは誕生日でもなければ食えなかったのが、ふと気が付くと、普通に夕食で食えるようになっていた。我が家の茶の間に初めて登場したテレビの中でも、カレーライスは普通の夕食だった。

日曜日の夕方には、しゃぼん玉ホリデーで植木等の 「お呼びでない?」 に笑い転げ、秋にはオリンピック開会式を見ながら、心から興奮していた。そして、「これからの時代、とりあえずは英語だ!」 と思った。可愛いものである。

その後、時差のせいで実況が見られなかったり、貧乏学生時代にテレビが買えなかったり、仕事に追いまくられてオリンピック開会式どころではなかったりしながら、あっという間に 44年が経ち、10回分の夏期オリンピックの開会式を見損なったが、「オリンピックは特別のもの」 という意識は、心の奥底で変わらなかったように思う。

ずっと前からその商業主義やヨーロッパ至上主義には反発を感じていたが、私の心の中のオリンピックは辛うじて持ちこたえていた。それはとりもなおさず、あの東京オリンピックの残像だった。

ところが今年になって、私の中で 40年間持ちこたえてきた幻想が、すっかり崩壊してしまったのである。それは賞味期限が来たというより、図らずも東京から数えて 11回目の北京の特殊性が、何かの決定的な引き金を引いてしまったようなのだ。

だから悪いけど、次の次のオリンピックの東京誘致なんてことも 「勝手にやれば?」 ってなものだ。かわいさ余って憎さ百倍なのである。

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2008/08/05

@nifty の Vippies 廃止に伴い…

本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 トップページのデザインをマイナーチェンジした。@nifty の Vippies 廃止に伴う措置である。

Vippies というのは、@nifty の中で 「特にステキで魅力的なサイトを作っていらっしゃる方」 (参照) なんだそうで、私はプレミアムの王冠一つ付きで紹介されている(参照)。

で、せっかく認定されているので、私はこれまで、トップページの右上に Vippies のバナー付きで、その名誉を自慢げ (?) におおっぴらにしていたのである。ところが、この Vippies というシステム、あまり役に立っていなかった。このおかげでアクセスが増えるなんてことは、ほとんどなかったのである。

その間の事情については、一昨年の 1月末に書いている (参照)。「思わず引き込まれるネタの宝庫!(V)」 なんていう過分な紹介のされ方なのだが、そのおかげで目立ってアクセスが増えるなんてことは、全然なかった。

この記事の中で私は、「@nifty さん、このページ、ほとんど影響力ないぜ。もう少し、やり方を考えた方がいいと思うがな」 と書いているが、先方でもそのジレンマは重々感じていたようで、「やり方を考える」 どころか、思いっきり廃止してしまうということになってしまったようなのだ。

既に、新規受付と人気ランキングの表示は今年 6月で終了してしまっていて、過去のピックアップの表示も 9月30日で終了するとの予定が公表されている (参照)。要するに、@nifty としては、もう 「終わった企画」 ということのようなのである。

私としては当初、過去のピックアップの表示が終了する 9月 30日までは、仁義を守って当サイトの Vippies バナーも残しておくべきかなあと思ったのだが、それも馬鹿馬鹿しいような気がしてきたのである。

どうせ終わった企画だもの。いつまでもこちらで律儀に表示していることもなかろう。9月 30日を期してホームページのデザイン変更するというのも、こっちの都合だってあるし、うっとうしい。それならば、さっさと見切りをつけることにしたのだ。

というわけで、新しいデザインでは、これまで Vippies バナー のあったところに、別宅サイトの 「和歌ログ」 のバナーを移動させた。そしてところてん式に、「庄内力養成委員会」 と 母校の校歌のページへのリンクバナーを上に上げた。

ふぅむ、こうしてみると、あのオレンジ色の派手な Vippies バナー がなくなったおかげで、ページ全体のムードが落ち着いた感じがする。しかるべし、しかるべし。ちなみに、和歌ログの方も Vippies に認定されていた (参照) ので、バナーを表示していたのだが、削除しておいた。

これまでは、たいして役にも立たない Vippies 認定が逆に足かせになっていたが、これからは、独自ドメインへの移転も射程に入れた検討をしてもいいかもしれないと思うようになった。どうなるかわからないけど。

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2008/08/04

夏バテを乗り切る呼吸法

知り合いに 「気」 というものを習っている人がいて、彼は頼まれれば、他人の肩凝りだのギックリ腰などを治してあげたりしている。実際に治るから不思議である。

彼が言うには、夏バテする人は呼吸が浅くなっているのだそうだ。なるほど確かに、暑くて堪らないときは、私も呼吸が浅い。

「気」 なんてものに肩入れすると、ただでさえ私は 「水伝」 のシンパと疑われているフシがあるのに、さらにまた疑似科学の盲目的ビリーバーと思われかねないので、かなり危ないのだが、それでも、実際に役に立つのだからしょうがない。

私は若い頃に合気道をやっていたこともあり、一応 「気」 というものを認めてそのメソッドに沿っていろいろなことを行うと、確かにうまくいくことを知っている。「科学的かどうか」 はおいといても、「役に立つ」 ということは、体験的にしっかりと認めている。

多分、「気」 の効果の多くは科学的にも解明できるのだろうが、それだとやたらと小難しくなるので、一般的には 「気」 のコンセプトで説明する方が手っ取り早い。科学的に理解することが目的ではなく、役に立てることが目的なので、途中は端折っていいとこ取りする方が効率的だ。

ただ、自分で 「気功」 みたいなものをしっかり学ぶつもりがあるかということになると、私は 「気」 ですべてが解決するとまで信じているわけじゃないので、そこまで入れ込むつもりはない。極めた人のノウハウと技術を使わせていただくのみだ。

「夏バテする人は呼吸が浅くなっている」 というのは、なかなか重要な指摘である。試しに、「あぁ、俺って夏バテ気味かも」 と思う人は、自分の呼吸を意識してみるがいい。確かに表面的で浅い呼吸になっているから。

それに気付いたら、すぐに深い腹式呼吸に切り替えてみればいい。ゆっくり、深く呼吸するのだ。

しかし、真夏の直射日光のもとでやると危ない。そうしたところは、気温が体温より高くなっているだろうから、息を吸うたびに身体の中からさらに暖めてしまう。多分、夏に呼吸が浅くなるのは、身体が自然にそれを避けているのだろう。ただ、それがくせになって、ずっと浅い呼吸のままだと、そりゃバテる。

涼しい日陰で深い腹式呼吸をすると、それまでの夏バテ感が、確かに軽減する。それはやってみればわかる。やってみれば簡単なことを、やらずにごちゃごちゃ言うのは、少なくとも私の流儀じゃない。

「そんなのは気のせい」 という人もいるが、私はそれを否定しない。文字通り、「気」 のせいである。立派なものである。気のせいだろうとなんだろうと、少しは楽になれるなら、その方がありがたい。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」 と言うが、これは瞑想によって呼吸が整えられると、夏バテなんかしないという意味なのだと解釈することもできる。それに、これをやると夏バテしないだけじゃなくて、心にもいい。

腹式呼吸というのは、慣れないとなんだか難しいものである。それは意識しすぎるからいけない。簡便法は、「息を吐く時だけ、腹筋を意識してゆっくりと吐く」 というものだ。吸うときは、あまり難しいことを考えずに、鼻からゆっくりたっぷり息を吸えばいい。吐くときだけ、腹筋で調節してゆっくりやるのである。

ただし、涼しいところでね。そして、瞑想的呼吸法で夏バテが治ったからといって、怪しげな宗教に入れ込まないようにね。

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2008/08/03

死刑制度では旗幟鮮明じゃない私

内閣改造で法務大臣になったばかりの保岡さんが、記者会見で終身刑について、「希望のない残酷な刑は日本の文化になじまない」 と否定的な考えを示したという (参照)。

「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」 と、死刑制度維持の考えなのだそうだ。

死刑問題については、過去に何度か書いているが、私は基本的にはニュートラルな立場だ。だが意識的に中立的というのではなく、態度を決めかねていて、なんとも言いようがないというのが本当のところである。

「死刑制度を廃止せよ」 との主張には、私は懐疑的である。ヨーロッパ諸国が死刑廃止しているから、日本もそうすべきだというような、なんだかわけのわからない議論には、軽々しくは乗りたくない。

だからといって、死刑制度が是非とも必要と思っているわけでもない。さらにもう少しテンションを下げて、死刑を必要悪とみているわけでもない。要するに判断がついていないので、結論的なことは何も言えないという立場である。

死刑廃止を求める主張がある一方で、死刑を積極的に求める被害者家族の会みたいなものもあって、先日のアサヒ素粒子の 「死に神」 問題に関しては、この会が私には違和感を覚えるようなロジックの抗議を行った。(この記事の最下段参照)

このあたりの問題に関して私は、自分がたとえ殺人被害者の家族であったとしても、声高に死刑を求めるようなことはしたくないという考えを表明している。以下にその参照記事へのリンクを列挙する。

死刑で罪は償えるのか死刑の 「目的」死刑をめぐる煩悶

整理してみると、私は決して死刑廃止論者ではないが、積極的に死刑を求めるわけではなく、それはたとえ自分が被害者家族の立場に立ったとしても変わらないということになる。それは、お前が実際にそうした立場に立ったことがないから言えるのだと批判されそうだが、それに対しては、上記の 3番目の記事で答えている。

今回の保岡法相のコメントでひっかかるのは、「日本は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」 という部分だ。「潔く死をもって償う」 というのは幻想であって、実際のところは一概には言えない。あくまでも個別の死刑囚のパーソナリティによる。

池田小殺人事件の宅間某のように、「おぉ、俺は死にたいんじゃ、さっさと死刑にしてくれ」 と開き直るものがいると指摘するだけで、保岡氏の論理は取って付けただけのものとわかるだろう。

自分で自分をコントロールできず、自殺すらできない者が、国家の手で強制的に処刑してくれることを期待して凶悪事件を起こすという可能性すらある。こうしたケースでは、保岡氏が終身刑についていう 「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような」 「希望のない残酷な刑」 を採用することが、図らずも凶悪事件の抑止効果となるかもしれない。

というわけで、私は相変わらず死刑という制度に関してはフラフラした立場である。早急に態度を旗幟鮮明にしすぎない方がいいと思っている。

【死に神問題】 解説
矢継ぎ早に 「死刑執行の命令」 を出した鳩山邦夫法相 (当時) を、朝日新聞がコラムで 「死に神」 と揶揄したところ、「全国犯罪被害者の会」 (あすの会) は 「被害者遺族も 『死に神』 ということになり、我々に対する侮辱でもある」 と抗議した。

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2008/08/02

赤塚漫画よ、永遠なれ

水戸で一日仕事をして、夜遅く家路につき、日付が変わる前に当ブログの更新をしてしまおうと、国道沿いのスタバに寄った。

和歌ログ の更新を終えてちょっとニュースをのぞくと、赤塚不二夫さんが死去したという見出しが目に入った。ああ、ついに逝ってしまったのか。ふと力が抜けた。

私が最初に触れた漫画は、毎日新聞に連載されていた「フクちゃん」 だった。その後、ロボット三等兵の前谷惟光や、山根赤鬼青鬼を経て、ついに、小学校高学年の頃に、「少年サンデー」 に連載されていた 「おそ松くん」 にたどり着いた。

私にとっての漫画は、ここまでである。ここから先には、「ちびまるこちゃん」 ぐらいしかないのである。

「おそ松くん」 は素晴らしかった。当時、イヤミの 「シェー」 が正しくできない子は、恥ずかしい存在だった。単なるギャグ漫画だけでなく、「ひみつのアッコちゃん」 もそれなりによかったし、さらに、「天才バカボン」 「もーれつア太郎」 に連なるキャラは、ひとつの世界を作り上げていた。

ひとつの世界であるだけに、すべての作品のキャラが集まって登場しても、ちっとも違和感などない。れれれのオジサンや目玉のおまわりさんは、どの漫画のキャラでもいいのである。それだけでなく、当時の少年たちの共有財産だった。

私が今でも 「黒っぽい漫画」、すなわち、アミやベタを多用した画風の漫画になじめないのは、ひたすら、赤塚漫画になじみすぎたためである。そう、赤塚漫画は、絵に白いところが多いのだ。とてもあっさりしているのである。

そう、赤塚漫画で育った少年たちは、くどいのはイヤなのである。赤塚さん、本当に、くどいところなく、あっさりと逝ってくれたものだ。合掌。

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2008/08/01

オフィシャル・パンフレットの英訳

ある衣料品産地の団体がかなり昔に出した日中英、三カ国語のパンフレットの英語が、翻訳のあまりのひどさのために、わけのわからない文章 (ともいえない?) になっている。

私は中国語はわからないのでなんとも言えないが、この分だと、中国語の方も眉に唾して読まなければならない気がする。

例えば、以下のような英文がある。

Apparel manufacturer has gone from the project and design of clothes to production and sales.

直訳して日本語に戻すと、まあ、こんな異様な文章になるだろう。

衣料品製造業者は、事業計画と衣服のデザインから、生産と販売に行ってしまった。

(訳注: だから、衣料品製造業者は、今は事業計画と衣服のデザインというところにはいない)

なんでこんなになってしまったのかと、日本語の原文をみると、こんな文章だ。

アパレルメーカーは、服の企画・デザインから、生産、販売まで行っています。

ははあ、わかった、この翻訳をしたやつは、「行っています」 を 「おこなっています」 ではなく 「いっています」 と読んでしまったのだ。それで "has gone" になってしまったのである。

それにしても、どうするとこの文脈で 「いっています」 という読み方になってしまうのだ? そもそも、団体からの発注なのだから、主語を単数形にしてしまうというのもひどい。翻訳以前に、日本語を読む段階で頭が悪すぎる。

こんな翻訳で、よく翻訳料を取ったものである。そして、発注側の誰もまともなチェックをせずに、印刷して世の中に出し、今に至るまで誰にも翻訳のひどさを指摘されなかったというのも、夢のようなお話である。

ただ、私もこれに類した翻訳の仕事を少なからずしたことがあるので、言えるのだが、地方の団体とかお役所のオフィシャル・パンフレットみたいなものを英語に翻訳する作業というのは、本当にやりにくいのである。

というのは、元の日本語からして、まともな意味のあることを言っていないのだ。セレモニーのお約束的ご挨拶のような言わずもがなのことを、回りくどい言い回しでくどくどうだうだと書き連ね、ひたすら字数をかせいでいるだけなのである。

日本語でうだうだと 5~6行書いてあることを、シンプルな英文にしてしまうと、たった 1行で済んでしまうなんていうようなのばかりなのだ。それではあんまりだからと、少し引き延ばすと、自分で読むのも恥ずかしいようなひどい英文になる。

というわけで、私は、そいつが本当に意味のあることを言っているのか、あるいは自分でもよくわかっていないで、単に体裁を取り繕おうとしているか、はたまた適当にごまかして逃げを打っているだけなのかを即座に判断するには、英語に翻訳してみればいいと思っている。

英語というのは日本語に比べて、かなり機能性に特化したところがあるので、意味のないことを言おうとすると、多分私の英語力の限界によるのだろうけれど、すっきりとしたまともな文章にならなくなって、そのナンセンスさが浮き彫りになる。

だから、日本語のオフィシャルな文章を英語にするには、ほとんどの場合、かなり意訳してあげないといけない。元の日本語を書いたやつよりよく現場を知っていなければ、まともな翻訳なんてできなかったりする。

だから、よくもののわかった上手な翻訳者の訳した英文は、日本人の私が読んでも、元のうだうだ回りくどいだけの日本語の文章よりずっと理解しやすいのである。

【追記】

冒頭に紹介したヒドすぎる翻訳は、実はネット上の無料自動翻訳サービスを使ったのだと、後日わかった。それを聞いて、私はもう怒る気にもならなかった。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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