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2008/08/30

好意経済学

子供服なんてものは、とくに普段着じゃなく 「およそ行き」 的なものは、すり切れたりするずっと前に、サイズが小さくなって着られなくなってしまうものだ。

だから、「お下がり」 なんて当たり前なんである。我が家は娘が 3人いるので、彼女らが子供の頃は、「お下がり」 三昧だった。

そりゃもう、もちろん、「およそ行き」 だけじゃなく、普段着だってどんどん小さくなるから、三姉妹のうち、少なくとも上二人か下二人は、お下がりを着回すことになる。じゃあ、長女だけはいつも新品かといえばそうじゃない。他の家からのお下がりが回ってくる。

お下がりというのは、貰ってもらうとありがたいのである。まだそれほど着古していない、あるいはほとんど新品同様の服を、「小さくなって着られなくなった」 というだけの理由で捨てるのは忍びない。近所で貰ってくれるくれる人があれば、どんどん提供したいのである。

ところが、くれる方は 「貰ってもらうとありがたい」 という意識でも、貰う方はそれを潔しとしない場合がある。なんとなく 「施し」 を受けるのが恥であるという意識の人がいるものなのだ。面倒なメンタリティだが。

だから、くれる方も人を選ぶ。大喜びでこだわりなく貰ってくれるとありがたいから、そういう人にどんどん供給する。逆に、貰ってもうれしくもなさそうな、それどころか半分迷惑そうな顔をされると、金輪際貰ってもらわなくて結構という気になる。喜んで貰ってくれる人はほかにいくらでもいるし。

いつも思うことなのだが、子供服のお下がりに限らず、人の好意というのは、大喜びで受ける人のところに集まる傾向がある。そして、大喜びで好意を受ける人というのは、大喜びで世間にお返ししたがる。

好意というのは、こうして循環して世の中を住みやすくする。好意を受けるのを潔しとしない人のところには、人の好意はなかなか集まらない。それで、周囲がぎくしゃくしてしまう。循環して初めて意味があるということに関しては、経済と同じである。これを 「好意経済学」 と呼んでもいいぐらいだ。

そこへ行くと、私も妻もその辺に関してはノー天気だから、貰うと大喜びする。だから、子供服のお下がりがどんどん集まってきた。おかげで我が家の三姉妹は、結構な着道楽ができたのである。

そして、我が家からもお下がりがどんどん出た。もちろん、お下がりをもらって大喜びしてくれる知り合いがいくらでもいたから、好意の循環はかなりうまく行ったのである。おかげで、私たちはいい雰囲気のなかで好意の循環を促進することができた。ありがたいことである。

願わくは、受け取るに先立って、自分の側から好意の発信をするという、「好意イニシエーター」 の役割を演じたいものなのだが、実際問題として、好意というものは出発点がどこなのかわからないほど、延々と循環しているものなのである。

それならば、自分のところで途切れさせないようにすればいいだけのことだ。途切れさせないためには、なんだかよくわからないけど、イニシエーターになろうというぐらいの心意気があればいいのだと思うのである。

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