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2009/02/05

自殺の誘惑

今朝、いつののように JR 取手駅に行くと、人身事故のために電車が不通になっている。事故はどうやら発生したばかりのようで、復旧の見通しは不明だという。

振替乗車票というのをもらい、関東鉄道常総線、つくばエクスプレスを乗り継いで、ようやく都心に出ることができた。

事故は三河島駅で、8時 27分に発生したという。鉄道の人身事故で、駅で発生したというのは、たいてい飛び込み自殺だ。稀にプラットフォームから意に反して転落し、電車にはねられたということもあるが、そんな時はニュースになる。しょっちゅう発生しているがニュースにならない 「人身事故」 のほとんどは、自殺のようだ。

近頃、人身事故による電車の遅れが頻繁に発生している。鉄道の人身事故というのは、遺体の後始末や現場検証に時間がかかり、電車が再び動き出すまでには相当待たされることになる。そしてなぜか、その多くは朝の通勤時間帯にかかっていて、通勤客は大迷惑を被る。

迷惑を被った人たちは口々に 「自殺するなら時間を選べよ」 「何もラッシュアワーに飛び込まなくてもいいじゃないか」 と、不満を言い合っている。確かに、ラッシュアワーの電車に飛び込んだり、ビルの屋上から人通りの多い路上に飛び降りたり、自殺する人というのはかなり自分勝手のように見える。

不満を述べる人の言いたいことは、煎じ詰めると、「自殺するなとは言わんから、人迷惑な死に方はやめてくれ」 「死ぬなら死ぬで、もう少し理性的に死ね」 ということになるように思われる。

しかし、自殺にも計画的な自殺と発作的な自殺がある。計画的自殺はまだ 「理性的」 と言えるかもしれないが、発作的自殺となってしまうと、そもそも理性を失った結果である。決して自分勝手というのではなく、他人の都合などは全然みえなくなっているようなのだ。

私は以前ある雑誌の取材で、ノイローゼで何度も自殺しかけたという人の話を聞いたことがある。仕事や人間関係などの悩みが高じて、朝になるとカバンを持って家を出るには出るが、いつもの駅についても、どうしても電車に乗ることができなかったという。

ベンチに座ったまま、いつまでもぼうっとしている。人の流れと電車の行き来を眺めていると、それがとても不思議なもののように感じられ、現実感が失われる。ふらふらと立ち上がり、ホームに入ってきた電車に飛び込もうとした瞬間、はっと我に返って思いとどまったことが何度もあるという。

人間というのは、追いつめられると理性的でいることができなくなるという性質をもっているようだ。自分を失ってしまうのである。そうした性質の生き物に、「同じ死ぬにしても、理性的に死ね」 などと言うのは無駄である。酷である。

バブル崩壊の頃も、「人身事故によるダイヤの乱れ」 というのが頻発した。ようやくそれが少なくなったと思ったら、去年の終わり頃からまたまた増えてきてしまった。「何も死ななくても」 と思うが、追いつめられてしまうと、死ぬ方が楽なような気がして、自殺の誘惑にかられるらしい。

日本人の死因で一番多いのがガンだが、平成 11年度の厚生労働省の資料によると、その 10分の 1 の数の人が、自殺で死んでいる。人口 10万人いると、25人は自殺しているそうだ (参照)。

日本の自殺率が、旧ソ連圏の国々についで多いというのは、有名な話である (参照)。なにしろ、自殺率が米国の 2倍以上、イタリアの 3倍以上なのだ。旧ソ連は社会的にずいぶん混乱をきたしているだろうから、自殺が多いというのはまだわかるような気がするが、日本がそれについで多いというのは、一見不思議な話である。

これは多分、文化的なものだろう。日本人には、死んだらすべてが許されるというメンタリティがある。切腹で済ませるという文化の名残もかなり強く残っているのかもしれない。自殺というもののイメージが、案外甘美なのだ。実際には大変な惨状になるのだが。

自殺抑止には、「自殺した後は大変なことになってしまっていて、決して甘美でもなんでもない」 ということの認識を高めることが、一番効果的かもしれないと思ったりする。しかし、その広報によって気分が悪くなって、救急車を呼ぶ人が増えたりしても困る。

とにかく人ごとじゃないのである。私自身は最も自殺しにくいタイプの人間だと自己認識しているが、知り合いには、ようやく自殺の誘惑にかられる状況から脱したが、一時は本当に心配だったのが複数いる。

そのうちの一人は、「自殺するにも金がいるので、死ねなかった」 と言っている。ああ、彼がその時に理性を失っていなくて、本当によかった。失っていたら、電車に飛び込んでいたかもしれない。

そう簡単に死ななくて済むような社会的仕組み作りが必要だと、心から思う今日この頃である。そうした仕組みができても、どうしても死にたいという人はやはり死ぬだろうが、少なくとも、発作的に死ぬ人の数は減らすことができるだろう。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

イラク戦争だって、2003年から今までで合計で数万人殺されただけだと言うのに、日本の自殺者の数には驚かされます。日本は毎年国内でイラク戦争以上の内戦をしているようなものですね。

投稿: naruo | 2009/02/05 15:08

実は、私の職場の近くでもつい最近飛び降り自殺があったところで、実にタイムリーな話題でした。
 日本人のメンタリティとしては、葉隠に代表されるように、自殺することに対する精神的な敷居というのは低いんでしょうか?
司馬遼太郎先生の「関ヶ原」の石田三成は、関ヶ原での敗戦以降も最後まで打倒家康のため、泥まみれになりながらも逃亡を続け、捕縛され福島正成に馬鹿にされようとも死なないことを恥じない、その姿にシンパシーを覚える私も自殺とは縁がないようです。(笑)
 安倍元首相が言い出した「再チャレンジ」はもはや死語になりつつありますが、今こそ再チャレンジ可能な社会(個人に対して過度に責任を負わせない社会)が必要なのかもしれません。

投稿: 雪山男 | 2009/02/05 16:16

naruo さん:

>日本は毎年国内でイラク戦争以上の内戦をしているようなものですね。

平成10年以後は、毎年 3万人以上自殺していますね。
この10年では、32~33万人に達するはずです。

すごいですね。

投稿: tak | 2009/02/05 20:33

雪山男 さん:

>日本人のメンタリティとしては、葉隠に代表されるように、自殺することに対する精神的な敷居というのは低いんでしょうか?

死を美化しすぎのような気もします。

先の大戦中にも、「靖国で会おう」 なんて、戦死を前提にしたようなものの言い方が、美しいもののように思われていたのも、そもそもおかしなところです。

「生きて帰って会おう」 でなきゃね。

投稿: tak | 2009/02/05 20:37

どうも。久しぶりに書き込みます。食い入るように読みました。
自殺者が理性を失っての行動というのは、激しく理解できるんです。私が過去に、有楽町駅のホームから「フッ」と電車に吸い込まれるというか、「さて、死の」みたいな瞬間があったんです。でもすぐに「あ、あぶない、何やってんだオレは・・」と我に返ったために、今もこうして生きているわけですが。

発作的な自殺、減らせるといいなあ。

投稿: コロスケ | 2009/02/05 20:39

私さえ居なければ、あの人達が困らない。そんな気持ちで生きてます。迷惑でしょうか。

投稿: ゆかり野 | 2009/02/05 21:35

この日本の習慣ともいえる自殺、本当に残念な事ですね。この経済危機が又自殺者を増やす事でしょうね。社会の構造的な問題点もあると言えるのではないでしょうか。イタリアの自殺の少なさは宗教が大きな妨げになるという事です。彼等はまだまだ宗教心は深く、生活のあちこちにあります。自分の命を自分のものと思っては行けないのがカソリックです、あなたの命はキリストがあなたに与えたものなのですよ。という訳でイタリアではもし死ぬのなら、、、死んだら、、、等という話しをする事さえも禁句に近いですね。それに、この辺が個人主義の明確な差ではないかと考えられますね。

投稿: jeienne | 2009/02/05 21:48

こんにちは。
とても興味深い話題ですね。

日本の自殺が何故減らないか・・
日本人には「切腹」という文化があり、自分の死を美化する精神があるというのは私も以前から考えていたので、そうそうそれです、と思いました。

自殺したら周りの人が自分に注目してもらえたりもしますから、寂しい人なんかには甘美かもしれません。
でも死んでしまってからでは、注目されても遅いですよね。

だから、日頃から人と人の「声かけ」を大事にしたいです。
最近連絡とってない人にもメールなどしてみようと思いました。
些細なサインを見逃したくないですね。

投稿: シロ | 2009/02/05 23:03

コロスケ さん:

>でもすぐに「あ、あぶない、何やってんだオレは・・」と我に返ったために、今もこうして生きているわけですが。

我に返るのが、死ぬより早くて本当によかったですね。

>発作的な自殺、減らせるといいなあ。

本当にそう思います。

投稿: tak | 2009/02/05 23:31

ゆかり野 さん:

>私さえ居なければ、あの人達が困らない。そんな気持ちで生きてます。迷惑でしょうか。

あなたがいなくなっても、誰も喜びません。

世にはばかるような憎まれっ子の方が、案外愛されたりしています。
多少は困り者で、人様の世話になる方が、世話してくれた人様の功徳になります。

迷惑かけたり、世話になったりした人様にいつか恩返しができればいいのですから、少なくともその日までは、図々しく生きましょう。

投稿: tak | 2009/02/05 23:36

jeienne さん:

>自分の命を自分のものと思っては行けないのがカソリックです

私はカソリックではないけれど、自分の命を自分のものと思う気持ちが、年とともに薄らいできています。

命は授かりもの、というか、ユニバーサルな 「いのち」 を、自分のエゴで傷つけてしまっては、宇宙全体が傷つくという気がするのです。

投稿: tak | 2009/02/05 23:40

シロ さん:

>自殺したら周りの人が自分に注目してもらえたりもしますから、寂しい人なんかには甘美かもしれません。

死んだりせずとも、自分を親身になって気にかけてくれる人がいるんだということがわかるのは、うれしいものだと思います。

>だから、日頃から人と人の「声かけ」を大事にしたいです。
>最近連絡とってない人にもメールなどしてみようと思いました。

そうですね。

人間同士、つながることなんかできないと思っている人がいますが、本来つながっている絆を、切ることの方ができないんだという気がします。

投稿: tak | 2009/02/05 23:45

takさん

宗教教義の抑止力という点では、キリスト教の他にイスラム教にもあるそうですね。
(もちろん私は切支丹でも回教徒でもないので知識の受け売りの部分が大です。)

蛇足ながら、自爆テロは彼等にとっては自殺では無い様です。
(色々な意味で困ったものですが。)

キリスト教での自殺禁止は当初からの(聖書に基づいた)ものではなく、殉教者の続出への対応として後天的に醸成された概念であるとされています。が、自殺イコール罪の概念は広く浸透していますし、それが幼少期より叩き込まれていれば『三つ子の魂~』状況ですから効果絶大なのも頷けるというものですね。

ロシアはギリシャ正教の流れを汲むキリスト教(ロシア正教)エリアであり、加えてイスラム教も盛んであるはずですが、それでいながら自殺者が多いというのは矛盾を感じる部分もありますが・・・生死というのは極めてパーソナルな部分ですからひとくくりには出来ないということでしょうか。それとも共産圏時代に宗教否定がなされた影響なのか・・・

閑話休題で。

私は、生殺与奪というのは神とか、天の領域という考えを持っています。
(私自身は宗教上の神様は全く崇めておりませんので、天の方がしっくり来ます)

私自身、自殺を考えた事が無かったと云えば嘘になる側の人間ですが、その際も『何時か放っておいても召されるのだからわざわざ自分で手を下すことはない』と考えておりました。多少は理性(というより、脳内物質とその受容体かもしれません)が残っていたみたいです。
しかし抑鬱状態のまま、無気力かつ徒に時を過ごしていた事もありました。遠い昔の話ですが。

発作的な自殺の場合、抑鬱状態に起因するものは多かろうと推察されますから、その程度によってはカウンセリングにとどまらずに医師に掛かったうえで薬剤投与を含めた適切な治療を受ける必要がありますね。安定した思考/精神状態になる(戻る)ためにも。
しかし、不謹慎な物言いで恐縮ですが当の本人は決してマトモな状態にはないですから、それをケアできるのは先ずは周囲の人間(関係)でしかないのですね。

私の場合は自己の抑鬱原因を理解していた事と、脳内物質(ノルアドレナリンとかセロトニンとか)の件も知識として持っていましたので、医者には掛からず「オレのアタマの中は今イカレポンチなんだあ」と認めながら耐え難い現実に直面しておりました。

#辛いものは理屈抜きで辛い(辛かった)ですから。

「死んでも何も変わらないが、生きてれば変わるものもある。」
良く云われる言葉ですが、私も実感しています。生きてて良かったなァ、と。
世の中、嫌な事も嫌な奴も多いけど、嬉しい事も好人物も同じくらいあります/いらっしゃいますからネ。

これまたありきたりな表現ですが、生きる糧は自分を必要とする存在の大きさ/重さなんでしょうね。判りやすいところでは伴侶や子女となりましょうが、それこそ人それぞれとなりましょうか・・・

投稿: 貿易風 | 2009/02/06 01:00


自殺するときの心理状態は
(1) 視野狭窄となり悲観的な様相しか見えなくなる
(2) 自分が自殺することで、同情してもらえると思う
(3) 誰かへの恨みがあって、自殺によって相手を困らせることで報復する

だいたい、こんなものではないでしょうか?

私の場合、失恋した時などに相手の女性を困らせようとたびたび思ったのですが、自殺までにはおよびませんでした
今からでは遅いですよね

投稿: alex99 | 2009/02/06 05:52

貿易風 さん:

>(前略)自殺イコール罪の概念は広く浸透していますし、それが幼少期より叩き込まれていれば『三つ子の魂~』状況ですから効果絶大なのも頷けるというものですね。

日本には、自殺は罪であるとの考え方はありませんね。
むしろ、殉教的なコンセプトとともに、罪を犯した場合のもっとも潔い清算手段と思われているフシもあります。

>私自身、自殺を考えた事が無かったと云えば嘘になる側の人間ですが、その際も『何時か放っておいても召されるのだからわざわざ自分で手を下すことはない』と考えておりました。

大変な時期がおありだったようですね。

ただ、死なない人はこの世に一人としてありませんから、それまでは生きていればいいですね。
その間になんとかなると信じるしかないです。

>生きる糧は自分を必要とする存在の大きさ/重さなんでしょうね。

私も、本当にそう思います。
肉体的に死んでしまってからも、思い出して力にしてくれる人があるうちは、「存在」としての人は死んでいないと思うほどです。

投稿: tak | 2009/02/06 11:16

alex さん:

>自殺するときの心理状態は
>(1) 視野狭窄となり悲観的な様相しか見えなくなる
>(2) 自分が自殺することで、同情してもらえると思う
>(3) 誰かへの恨みがあって、自殺によって相手を困らせることで報復する

これで言えてますね。

>私の場合、失恋した時などに相手の女性を困らせようとたびたび思ったのですが、自殺までにはおよびませんでした
>今からでは遅いですよね

もう、失恋しないでください。
恋愛したら、必ず実らせてください。

決して遅くはありません (^o^)

投稿: tak | 2009/02/06 11:20

今更で当たり前ですが、私も。

「おまえが死んだら、俺は、悲しい。」そういってくれる人がいるうちは、死なないですむのでしょうね。

また、
男が泣けない、泣きづらい社会ってのも、遠因にあるのだと思います。

感情を表に出しづらいから、色々なものが積もり積もって最悪の形になる、そういうことが多いのかも知れません。

投稿: 山姥 | 2010/03/30 10:03

山姥 さん:

>「おまえが死んだら、俺は、悲しい。」そういってくれる人がいるうちは、死なないですむのでしょうね。

そう言ってくれる人がたくさんいる人は幸せですが、誰にでも、一人以上はいるはずだと私は思ってます。
不幸なのは、それを知らないで死んでしまうことです。

>男が泣けない、泣きづらい社会ってのも、遠因にあるのだと思います。

時々泣くってのは、必要ですね。
最近、私は涙もろいです。
(大抵は感動の涙ですが)

投稿: tak | 2010/03/30 12:01

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