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2009年3月に作成された投稿

2009/03/31

MS オフィスのホームユースって?

昨日はライト・ユーザーには MS オフィスなんて必要ないと書いたが、MS は MS で、ライト・ユーザーにオフィスを使わせるためのマーケティングをしているようなのだ。

家庭での MS オフィス活用のために、MS は 「パワーポイントで年賀状作り」 なんてことを提案している (参照)。

「タレントを使い、Office 製品の家庭における楽しみ方を動画で紹介する特設サイトをつくるなど、企業向けという Office の硬いイメージを壊す考え」 なのだという。ご苦労なことである。

で、その 「Office 製品の家庭における楽しみ方を動画で紹介する特設サイト」 というのを探してみたのだが、簡単には見当たらないのである。MS のサイトの中から Office Online というページに行き、下のメニューから 「家庭で使用される方」 をクリックすると、「家庭で Microsoft Office を利用される方へ」 というページに飛ぶ。

このページの下の方に 「家から学習する」 というメニューがあり、試しに 「Office Online トレーニングを見る」 というのをクリックしてみる。表示されたのは 「Office Online 無償トレーニング コース」 というページで、ようやくここに、いろいろなトレーニング動画を見られるメニューが並んでいる。

試しに、「人気のトレーニング」 として紹介されている 「Access と Excel の使い分け」というのをクリックしてみよう。すると、突然ナレーションが流れ始める。「次へ」 のボタンをクリックすると、やっと動画が始まるが、「家庭で利用される方へ」 という割には、結構小難しい内容だ。

断言するが、業務で MS オフィスを使ったことのない家庭の主婦がこの動画を見ても、半分以上は途中であきらめてしまうだろう。

そして、そのトレーニング動画の 2番目の画面は 「データを複数のテーブルに分類したのがリレーショナル構造」 というもので、これだけでも結構専門的な話になるのに、画面に表示されるのが 「得意先」 と 「受注」 という 2つのテーブルなのである。

「得意先」 と 「受注」 だと!? 何だ、「家庭で利用される方」 向けじゃないじゃん! そもそも、家庭で Access を使う機会なんて、滅多にないだろう。

これらのトレーニング動画は、上述の 「タレントを使い、Office 製品の家庭における楽しみ方を動画で紹介する特設サイト」 とは違うのかもしれない。タレントなんて出てこないし。しかしそれならば、そのせっかく作った 「特設サイト」 って、どこにあるんだ? わけがわからないのである。

というわけで、MS オフィスはあくまでオフィス向けと考えた方が無難なようなのである。そもそも、年賀状を作るためにパワポを買う人なんていない。年賀状を簡単に作りたかったら、日本には昔からそれ用に特化され、かゆいところに手が届くような住所録付きで、値段も手頃なソフトがいくらでもあるのである。

オフィスを家庭で使ってもらうためには、冠婚葬祭などに使えるいろいろなテンプレートを充実させるのが早道のように思われるが、そんなものは、今どきはネットで検索すればいくらでも見つかる。家庭用とか学生のレポート・論文執筆用なら、 OpenOffice.org で十分すぎるぐらいだろう。

MS のホームユース向けマーケティングは、悪あがきのように見えてしょうがない。

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2009/03/30

オフィスセットを巡る冒険

大手メーカーの店頭販売のパソコンを購入すると、大体初めから MS Office 2007 がプレインストールされている。

これ、便利なようだが、実はなかなか中途半端なのである。オフィスセットの Personal 版であることが多いので、Word、Excel、Outlook しか入っていないのだ。

私は昔から、MS オフィスの最廉価版に Outlook が欠かさず入っているのが、不思議でしょうがない。PowerPoint は必要ないけれど、Outlook は必要で重宝しているという人に、私はこれまで会ったことがない。大抵は、OutlookExpress で済ませているか、つい Outlook を使ってはいるけれど、難しすぎて苦労しているという人である。

もっと言えば、MS オフィスの Personal 版で十分という人で、常日頃から Word と Excel の機能を遺憾なく活用しているという人にも、私はこれまで会ったことがない。

Word と Excel を 「使っている」 という人なら、いくらでもいる。しかし彼らの多くは、「Word でなくても、Windows のアクセサリに入っている Wordpad で十分なんじゃないの?」 とか、Excel にしても、「アクセサリの "電卓" に毛の生えた程度の使い方しかしてないんじゃないの?」 と言いたくなる程度のユーザーである。

はっきり言わせてもらうと、MS Office Personal のプレインストールは、ナンセンスである。ライト・ユーザーなら、こんなもの要らない。どうしてもオフィスセットが必要なら、OpenOffice.org などのフリーウェアでも十分すぎるぐらいの機能を提供してもらえるからだ。

一方、ヘビー・ユーザーの場合は Word と Excel だけでは到底足りないので、PowerPoint や Access などをさらに買い足さなければ、仕事にならない。いずれにしても、中途半端なのである。

どうせ中途半端なら、どうして無料の OpenOffice.org のプレインストールが主流にならないのだろうか。どうして、わざわざ値段の高い MS オフィスを入れてしまうのだろうか。これは疑問に思うまでもなく、マイクロソフトの営業戦略なのである。必要でもない人に高いオフィスセットを押しつけ、永遠に使わせ続けようという戦略だ。

ユーザーはもう少し賢くならなければならない。中途半端なオフィスセット抜きの機種を、リーズナブルな価格で購入すればいいのだ。その上でライト・ユーザーならフリーウェアで済ませればいいし、どうしても MS オフィスが必要な パワー・ユーザーなら、初めから Professional 以上のバージョンをインストールすればいい。

こんな状況だから、PC を何度か買い換えた経験をもつヘビー・ユーザーの多くは、店頭で大手メーカーの機種なんか買わなくなる。今どき、初めて PC を買うといった初心者が中途半端なものを買うので、店頭はおもちゃのような機種ばかりになる。

私は PC ユーザーの少なくとも半数以上は、MS オフィスなんかなくても済む層だと思っている。必要でもないソフトに、高い金をかけているのだ。この部分をフリーウェアに置き換えていけば、ビジネスソフトの価格はきちんと見直されて、コストダウンにつながるだろう。

MS のシェアが低下すれば、MS オフィスの価格は上がってしまうという指摘もあるが、上がったら買わなければいいだけの話である。そもそも、MS オフィスにこれ以上の機能が付け加えられたところで、どうせ使いこなせないんだから、もう誰もバージョンアップなんて求めていないのだ。

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2009/03/29

『唯一郎句集』 レビュー #16

『唯一郎句集』 のレビューも、「木鐸」 時代の 7首を終えて、"「前後誌」 時代" と記された句のレビューに入る。

とりあえず問題は、この 「前後誌」 というのがどんな雑誌だったのかということなのだが、これがわけがわからない。いくらググっても、それらしきものは見つからない。

困り果てて、この句集に寄せられた俳句同人、伊藤後槻氏の 「唯一郎を憶ふ」 という追悼文を丹念に読み返していたら、この 「前後誌」 に関する記述が出てきた。こんな風に書いてある。

いつか大雪の正月だったと思ふ。京都から松井千代吉、風間栄二郎の両君が来て天正寺の猩々庵 (私の祖父花笠の庵室) に一週間泊った。県内の俳人が寄逢っての興奮は特別大書すべきものであった。その頃この連中に京の先輩西川雁風呂も加って句録 「前後」 六輯まで出した。

この追悼文にはしょっぱなから 「此稿に年代を附さないのは側近に材料なく且つ記憶朦朧の為却て誤謬を招く故である諒を乞ふ」 とある。ああ、おかげで、後世に読む者にはなかなか大変なことになってしまったわけである。

とはいえ、何も材料がないよりは、思い出話のようなものでもある方がまだ役に立つ。伊藤後槻氏には感謝するほかない。「前後誌」 というのが、いわゆる雑誌ではなく、句会で作成された句録なのだとわかっただけでありがたい。この句会は、唯一郎が 「朝日俳壇」 で認められて頭角を現わして間もなく開かれたもののようだ。

なお、この伊藤後槻氏の義兄が竹内丑松 (号は 「淇洲」) という人で、唯一郎の家系の者だった (唯一郎の伯父に当たるのかなあ。よくわからん)。だから、唯一郎と後槻氏は、縁族ということになるようなのだ。氏の記述によると、前回と前々回にレビューした 「木鐸」 誌は、氏の長兄と淇洲が佐藤古夢氏を編集長として発刊していた月刊誌だという。

で、この竹内淇洲というのがまた大変な人で、寡黙な唯一郎とは正反対の傑人だったようなのだが、詳しくは庄内日報の こちら のページを読んでいただきたい。ここでは淇洲について論じている暇はない。ようやくレビューに入ろう。

遠足の児等の一人が泣き出す春の山々の光しづもり

いくら自由律とはいえ、短歌という方がぴったりくるぐらいの長い句である。「泣き出す」 を 「泣きいだす」 と読めば、下の句の出だしがちょっと字余りになるぐらいのもので、こりゃ、普通に見たら短歌だ。

それでも、「泣き出す」 は 「泣きだす」 で、最初の 「遠足の」 で切らずに続けて読み下すべきなのだろう。それで、自由律の俳句になる。

最後が 「しずもり」 という連用形なので、春の山々の光が 「しづもり」 てあるが故に、遠足の子どもの中に泣き出すものがいるという、倒置法表現とも受け取れる。おもしろい。

養豚の女宗徒しづしづと祈りても胸が重たくなる朝の山焼

これはもう、三十一文字より長い。超自由な自由律である。

同じ山形県でも、牧牛の盛んな内陸とは違って、酒田は昔から養豚の盛んな土地柄である。だから、芋煮会に使う肉も、内陸では牛肉だが、庄内では豚肉だ。

「女宗徒」 とは、浄土真宗の宗徒なのだろうと思う。唯一郎の家の宗旨は真宗で、唯一郎自身も時に阿弥陀経を読誦したという。

朝の山焼きにあたり、養豚の女宗徒が 「しづじづ」 と祈ったのだろう。確かに胸が重たくなるというのがわかる。祈っても、なりわいとして殺生は行なうのである。

敗れし身の春に親しまず谿川を埋めて櫻よ散れ

さあて、これが困った。「敗れし身」 とは一体何なんだ。

いずれにしても、桜の花が早々と散り始めて、その花吹雪の谷川を埋めて流れる光景が、絵のように浮かぶ。その絵のような光景に、「敗者」 のイメージを重ねると、わからないながらも、なぜか 「なるほど」 という気がする。

唯一郎は勝者よりも敗者の方によりシンパシーを感じる人だったようだ。

というわけで、本日はこれぎり。

【平成22年 4月 26日 追記】

その後いろいろ調べていたら、古本屋のサイトで "「前後」 3?6号" というのが見つかった (参照)。「竹内唯一郎 編」 とあるから、間違いないだろう。唯一郎が中心となって、ずっと編集していたのだろう。「3?6号」 とあるように、かなり古くなって判読も難しいような状態で保存されているようだ。

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2009/03/28

『唯一郎句集』 レビュー #15

『唯一郎句集』 のレビューも、今回で 15回目だ。前回に続いて 「木鐸」 時代の句。とはいえ、「木鐸」 時代の句は 7句しかない。

今回は 残りの 4句。これまでずっと、句集の 1ページ分を取り上げてきたが、今回は初めて 2ページ分のレビューとなる。というのは、1ページに 2句しか収められていないから。

本当にもう、こんなに贅沢なページの使い方をするぐらいなら、後世に読む者がもう少しわかりやすいような、解説的な記事を加えてもらいたかったものだ。前回のレビューでもちょっと不満を述べたが、年譜と掲載された雑誌の解説ぐらいは入れてもらいたかったものである。

私は唯一郎の孫にあたるが、私の母は幼い頃に養女に出たので、外孫も外孫、血のつながりはあっても、戸籍上のつながりはない孫である。だから自然、唯一郎の家の、それも大正末期から昭和初期の頃の事情なんて疎い。何とか想像でレビューせざるを得ないのである。

「木鐸」 という雑誌についてググってみると、庄内日報社のサイトの、「郷土の先人・先覚 144」 という特集の 「酒田が生んだ政治家 伊東知也」 というページに、以下のようにある。(参照

酒田で発行していた雑誌 「木鐸 (ぼくたく)」 の明治 43年 2月号に知也の 「鉄道問題所感」 という文が載っている。この文は雑誌 「日本及日本人」 所蔵の分を酒田人を覚醒するため知也が投稿したもの。

ずいぶん昔から続いている雑誌だったらしい。少なくとも明治末期から大正末期に至る 10数年間発行されたことは間違いないようだ。政治と文学中心の硬派のローカル誌だったようだ。そして大正の末には、唯一郎の家で印刷を請け負っていたようなのである。

とりあえず、レビューを始める。

梅の木傍らの普請よ花すぐ散り

梅の木のそばで普請 (工事) があって、そのせいで梅の花がすぐに散ってしまったということのようだ。

梅も工事のどさくさがストレスになって、早々に散ってしまうのだろうか。梅になり代って 「うるさい!」 と不平を述べているような句である。

娶れる友が笑はざりし 梅屋敷塀際

妻を娶った友が、笑顔を見せなかったというおである。梅屋敷の塀際で、その友と逢ったときの話なのだろうか。

普請のストレスで花は早々に散るし、せっかく吉事のあった友は不機嫌だという。梅が咲いても少しも楽しい気分のない、ストレスの多い春のようである。

世の中も大正デモクラシーの時代を過ぎて、次第に昭和初期の動乱の時代に突入する頃だ。

雲雀とまりおちつかず浜ぐみ揺るる

日本最大規模の砂丘の一つ、庄内砂丘に位置する酒田では、海岸近くに行くとずっと砂地が続き、浜グミが生えていた。昔は防砂林としても、松とともに盛んに植えられたらしい。

その浜グミの低木に、ヒバリがとまって揺れているという。

私はグミにヒバリがとまったところなんて見たことがないが、昔は珍しくない光景だったんだろうか。ヒバリはなにしろ、忙しい鳥である。浜グミの枝も落ち着かず揺れる。

「浜ぐみ揺るる」 と、終止形の 「揺る」 ではなく連体形で切れているから、後ろの何かが省略されているのだろう。あからさまに言ってしまうと語弊のあるようなことなのだろうか。余韻がありすぎて気にかかる。

青空見る毎 雲雀籠おもたくなり

昔はヒバリを籠に入れて飼っていたんだろうか。そして、青空を見るのは、誰なのだろうか。

唯一郎自身が見上げるのか。それとも籠の中のヒバリが見上げるのか。私はヒバリが青空を見上げるという方を採りたい。ヒバリが本来飛んで揚がりたい青空を見上げる。

その思いが、籠を重くする。

今日は 4句とも、何か思いを背後に隠したような、ちょっとした重苦しさのある作品である。

本日はこれぎり。

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2009/03/27

街路樹の根元にネギが生えている不思議

大都会では何があっても、何が起こっても不思議じゃないという。確かに、東京の街を歩いていると、大抵のことでは驚かないぐらいに、こちらも慣らされてしまっている。

ただ、それは 「いかにも都会にありそうなこと」 が起きるからだ。そうでない場合は、やっぱり 「???!」 となってしまう。

例えばある朝、神田の街を歩いているとする。その日は燃えるゴミの日で、舗道にはゴミ袋がたくさん置いてある。ゴミ回収車はまだ来ていないようだ。道路の右側のパーキング・メーターが設置してあるのは、別に不思議じゃない。この道は一方通行だからだ。

舗道には間隔をおいてイチョウの木が植えられていて、並木道になっている。イチョウの幹は排気ガスで真っ黒だ。気の毒な限りである。ここまでは、日常の風景だ。ところが、そこにちょっと都会のビジネス街らしからぬ要素が紛れ込んでいる。

ん? あのイチョウの根元にあるのは、一体何だ?

まさか ……

ネギか?

ネギだ!

何と、ビジネス街の並木の根元に、ネギが埋められているのであった。これは一体、どう解釈すべき現象なのだろうか。

私はいろいろ思案した結果、近所の飲食店がネギを仕入れすぎて (あるいはもらいすぎて) 処置に困ってしまい、長持ちさせるために街路樹の根元に埋めてしまったのだと推理した。

街路樹の土の廻りの木でできた囲いが、ネギの部分だけなくなっていることからも、無理矢理ほっくりかえして埋めたんだと想像される。なかなか大変な作業だったろう。そして、これから少しずつ消費して、最後にはなくなってしまうんじゃあるまいか。

もしそうではなく、朽ち果てる一方だったりしたら、また報告したい。

それにしても、本当に都会では何があっても不思議じゃない。

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2009/03/26

ロジカルでない犯罪のロジカルな解釈

秋田連続児童殺害事件で、控訴審判決は第一審の無期懲役を支持する判決を下した。この件に関して、産経ニュースがかなり詳細な長文の記事を載せている (参照)。

全文を読み切るのが疲れるほどの長文なので、ざっとした確認をされたい場合は、時事ドットコムのニュースの方が手短だ (参照)。

産経ニュースがこれほどまでに長文の記事を書いてしまったのは、この理解しにくい事件の裁判過程で複数の視点からの検証を行い、ぎりぎりまともに思えそうな結論として 「無期懲役」 に辿り着かざるをえなかったというプロセスを、できるだけ忠実に追おうとしたからだろう。それほど、「フツー」 に考えては合理的な理解がしにくい事件なのだ。

私はこの事件直後の平成 18年 6月に、「ロジカルな犯罪、ロジカルでない犯罪」 という記事を書いていて、その中で次のように述べている。

世の人は、「どうして、近所の子どもを殺したのか?」 と口にするが、「どうして?」 とフツーに考えては、その疑問は解けない。「とにかく、殺してしまった」 のだ。考えるよりも行為が先に立ったのである。よく考えてしまったら、こんな殺人は実行できない。

(中略)

村上ファンドの件を 「ロジカルな犯罪」 とすれば、秋田の事件は 「ロジカルでない犯罪」 の典型例である。

この秋田の事件は、論理的に突き詰めようとしても、ついに不可能に終わってしまう類のものだ。なにしろ当の畠山鈴香自身が、自分のしたことをよくわかっていないようなのだから。取り調べ段階で自供が二転三転したというのも、自分でもよくわかっていない行為について、場当たり的にヒステリックな取り繕いをしようとしたからである。

不条理小説の代表格のようにいわれるアルベール・カミュの 『異邦人』 では、ムルソーという主人公がふとしたはずみに殺人を犯してしまい、その動機を 「太陽が眩しかったから」 だと言う。

「太陽が眩しかったから」 だなんて、さすがにカミュだけあって、秋田の田舎町の畠山鈴香よりずっとカッコよく、大向こうから 「いよっ、不条理っ!」 と声をかけたくなるほどのレトリックなのだが、よく考えれば、不条理に上も下もない。いろいろな解釈を試みても説明しきれない、わけのわからなさという点では同じである。

この小説はルキノ・ヴィスコンティ監督、マルチェロ・マストロヤンニ主演で映画化されており、私も高校時代に、知る人ぞ知る酒田のグリーンハウスのシネサロンで見た。このグリーンハウスという映画館について語り出したら、それはそれで長文の記事になってしまうので、今日のところは Wikipedeia 記事 にリンクしておくにとどめる。

この映画では、ムルソーが港町で殺人を犯す直前、太陽が画面いっぱいに眩しく輝いてハレーションを起こす (ということだったと記憶する)。映画としては小説そのままの描写なのだが、一方では精一杯の説明的描写でもあったと思う。

ところがこのあたり、原作を知らないで先に映画を見てしまったら、「一体何なんだ? わけわからん」 ということになる。実際、一緒に見た友人はそう言っていた。そうなることがわかっているのだから、ヴィスコンティもどう描写するか、少しだけ悩んだろうなあ。

「百聞は一見にしかず」 なんてことが言われるが、逆に映像では表現しきれないことがある。映像は一見して具体的であるという強みがあるが、その強みの裏返しとして、具体的でない複雑系は、表現しきれないのだ。

そしてこの映画の場合は、その 「表現しきれない、わけのわからなさ」 というコンセプトが伝わればいいのだが、それを単に 「わけわからん」 で済まされてしまっては、どうしようもない。

重要なのは 「わけわからんこと」 を、わからんままに認めるということなのだ。人間の行動というのは、論理的かつ具体的に説明しようとしても、その全貌は説明しきれないものであり、常に説明しきれない多くの要素が残る。そして時に、その 「説明不能さ」 のみが際だってしまうことがあるのである。

私はこの類の事件に関しては、警察も、検事も、弁護士も、裁判官も、みんな気の毒なほど苦労しているのだろうなあと同情してしまう。なにしろ、論理的には説明しきれないことを何とか論理的に解釈して、論理主導の世界である裁判の土俵に上げざるを得ないのだから。

裁判の判決というのは、広大無辺に不条理な人間性の一部分のみを切り取って得られた要素を操作した結論でしかない。このことを思えば、凶悪事件の容疑者に死刑が言い渡されることで遺族の気が済むなんていうのは、幻想に過ぎないと思うのだ。遺族の心の底にだって、論理的に処理しきれない要素がどっさりあるのだから。

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2009/03/25

彼岸過ぎの寒さ

年末年始の頃の暖冬ぶりと、お彼岸前の怒濤の暖かさ (?) からすると、今頃は花見ができるんじゃないかと思っていたのだが、なんとまあ、肌寒い彼岸過ぎである。

「暑さ寒さも彼岸まで」 なんて嘘っぱちだと、毎年 2回思う。近頃の春の彼岸は、それまでの暖かさを裏切っちゃうことが多い。

とはいえ、彼岸を過ぎれば暖かくなるなんていうのは、昔から嘘だった。前世紀までは、ゴールデンウィークを過ぎてからストーブをたくぐらいの寒さになることが、ちょくちょくあったのである。だから、ストーブは 5月半ばになるまではしまえなかった。

ところが、今世紀に入ってからは 5月に入ってストーブが恋しくなるなんてことはなくなった。さすがに温暖化である。ところが、その温暖化のせいで、暖冬傾向が進み、その暖冬の帳尻合わせのように、彼岸過ぎ頃に急に寒の戻りがくることが多くなったような気がする。

その点、秋の彼岸は単純である。ただひたすらに 「残暑、残暑、残暑 ……」 なのだ。昔は秋の彼岸を過ぎれば少しは涼しくなったものだが、最近は 10月の声を聞いてもまだ暑い。

春の彼岸の話に戻るが、この寒さで、インフルエンザがまたぞろ流行りだしているそうだ。一度下火になったインフルエンザがまた急上昇するというのは珍しいという。今年の春はなんだかおかしいので、私も風を引かないように気を付けようと思う。

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2009/03/24

ごめんね、サムライ・ジャパン

昼間から、あちこちのオフィスで歓声が聞こえる。どこでも仕事そっちのけで、WBC 決勝戦の中継に夢中のようだ。

私は 3月 7日付の記事で書いたように、WBC にはほとんど思い入れがないので、「みんな呑気だなあ」 なんて思っていたが、なんと、日本はまた優勝しちゃったようなのだ。

それにしても、日本が決勝に進出したと聞いた時から、「これは一言、謝っとく必要があるな」 とは思っていた。何しろ、私は上述の記事で、「盛り上がってる人は、日本の連続優勝を夢見ているようだが、多分無理だろう。そもそも、前回の日本優勝はできすぎだった」 なんて書いてしまったのだ。

その上、よしゃいいのに、「第 2ラウンドには当然のごとく出場できるだろうが、そこから先はよほど運がよくなければ勝ち上がれないだろう」 なんてことまで書いてしまった。さらに、日本はよくて準決勝止まりだろうといったようなことまで書いている。ああ、書きすぎだった。今さらのように後悔しているのである。

本当にごめんね、サムライ・ジャパン。あなたがたがこんなにまできっちりとした勝負ができるとは、よもや思わなかった。脱帽だ。日本が優勝できたら坊主頭になるとか、逆立ちして神田の街を一周するとか、そんなような悪ノリしすぎたことを書かずにいてよかった。

それにしても、今回の結果を生んだ要因は、日本と韓国における異様なまでの WBC への入れ込み方だという気がする。日本もすごいが、とくに韓国がすごい。野球でこんなにまで熱くなれるのは、世界でもこの二国以外にないんじゃなかろうか。

他の国での注目度なんて、大したことないみたいなのである。米国での試合の中継を見ても、観客席なんかガラガラじゃないか。注目度が今イチな上に、選手の WBC での働きが直接ギャラに反映されるなんてこともないみたいなので、どうもインセンティブ不足のような気がするのである。

そこに行くと、日本と韓国は、なかなか健気なものである。純粋に WBC における優勝の栄誉にあずかろうと、真剣になって勝負している。韓国なんか、グラウンドに国旗を立てるなんてぶっ飛び方をするまでに、チョー・マジになっている。

ああ、私はこの日韓のメンタリティを軽視しすぎていたのである。WBC に関する 「マジさ加減」 が、日本と韓国の両国は飛び抜けて高かったのだ。こんな純粋なモチベーションがあれば、そりゃ、野球ってメンタルなところのあるスポーツだもの、勝ち進んでも不思議じゃない。

恐れ入ってしまったのである。おめでとう、サムライ・ジャパン。かくなる上は、3年前の優勝直後に書いた (参照) ように、日本の誇る 「胴上げ」 という文化を、マジに世界に広めてもらいたいと思うのである。

なにしろ、2回連続優勝というのは、ちょっとした偉業である。この偉業を為し遂げた国に経緯を表して、そのファンタスティックなお約束的セレモニーである 「ドーアゲ」 を、世界のベースボールが取り入れてもいいのじゃないかと思う。願わくは、ワールド・シリーズの優勝チームの監督が胴上げされるなんてことになったら、さぞ素敵だろうなあ。

【3月 25日 追記】

「侍ジャパン」 を 「サムライ・ジャパン」 と表記した意図を書き落としていた。2度も続けて優勝したのだから、国際語に昇格させた方がいいのではないかという思い入れから、敢えて 「サムライ・ジャパン」 と書かせていただいた。

決してふざけてるんじゃないので、念のため。

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2009/03/23

世間がそれほどググらないのは

駄文ニュース」 からのリンクで 「世間はそれほどググらない」 という記事を見つけた。「なるほどねぇ」 という気のする記事である。

要するに、ものを調べる時に自然にさっさとググってしまうという人は、まだそれほど多くはなく、人に聞いちゃう人が多いということのようなのだ。そうなんだろうなあ、確かに。

上記の記事から、ついうなずいてしまった部分を引用させていただく。これを読んで、「そうそう、そうなのよね」 と思うか、「え、そうなの?」 と思うかが、現状認識の差である。

普段自分の目の前にパソコンがあって
基本的に電源が入っていて
だいたい常にブラウザが立ち上がっていて
デフォルトページに検索窓があるということになると
本当にごく一部の人に限られるかもしれない。

第一、聞いた方が早い。

自分で解決しようとしたら何時間もかかるようなことが
知ってる人に聞いたら5秒で片付くということはよくある。

相手の時間を奪うとか手を煩わせるとか
そういうデメリットはもちろんあるんだけど、
あまり慣れていない人が辛い思いをして検索するより
詳しそうな人に電話する方を取るのは
ごく自然なことじゃないだろうか。

私自身はすぐにググってしまう人である。しかも、一面的な知識にならないように、手を変え品を変えて複数回ググる。そして行き当たったいろいろなページを比較してみて、自分なりに解釈しようとする。

インターネットが一般的でなかった頃は、手持ちの資料がなければ図書館に直行していた。物事を調べるというのは、そういうものだと思っていた。人に聞くなんていう選択肢は、その道の権威が身近にいるのでもない限り、思い浮かばなかった。

確かに人に聞くのは手っ取り早い。しかし、そこにはリスクがある。

まず、人に教えてもらった知識が、本当に正しいかどうかは判断しにくい。その道に相当詳しいと思われている人でも、一つ一つの知識は、かなりバイヤスの入ったものであることが多い。ひどい場合には、専門家のくせにまったく誤った知識をもっていたりする。

仕事で共同作業を進めていると、いろいろなことをいかにもわかった風に言う人がいるが、ちょっと気にかかって後でよく調べてみると、それは完全な思い違いだったり、大分前の常識ではあったが今では否定されていることだったり、単なる言い伝えレベルの知見でしかなかったり、要するに、かなり怪しい知識である場合が多い。

なにしろ世の中には、落語の 「千早振る」 に出てくるご隠居さんレベルの知ったかぶりが多いから、油断がならないのである。

それから、たとえ正しい知識を教えてもらったにしても、楽して得たことというのは、すぐに忘れてしまいやすいのだ。よっぽど勘所を得た知識を要領よく教えてもらうのでもない限り、人に聞いて得た知識は身に付きにくいのである。その意味では、教え方と同様に聞き方も難しいのだ。

そのことを突き詰めれば、要領を得た聞き方をしない限り、きちんとした知識をもっている人でも、要領を得た教え方はできないのである。そして、本当に要領を得た聞き方のできる人というのも、またそれほど多くはない。

ここまで考えると、「世間はそれほどググらない」 というのは、要領を得た聞き方、調べ方のノウハウをもっている人が少ないということの現れなのだとわかる。

「人に聞いた方が早い」 というのは、ちゃんとした人にものを聞けば、ポイントを外して漠然とした聞き方をしても、聞かれた方で、聞いた人が何をわかっていないのか、どのポイントを知ればその漠然とした疑問が解決するのかを、きちんと整理した上で教えてくれるからだったりする。

逆に言えば、当を得た質問ができない人は、正しい答えが得にくい。同様に、きちんとした教え方のできない人は、人にものごとを教えてもほとんど無駄である。

そして、ちゃんと要領よく整理してものを訊ねることのできる人というのは、自分で調べられる人だから、人に聞かなくてもさっさと疑問を解決できるのである。デフォルトでブラウザに検索窓のある人には、そんなタイプが多いような気がする。

ちなみに、私の本宅サイトに "「森」 と 「林」 の 違い" というページがあり、「Yahoo 知恵袋」 からのリンクでやってくる人が結構多い。そのリンク元は、「森と林と木の境界線というかどっかっらどこまでが森でどっからどこまでが林なんですか」 というユーザーの質問へのベストアンサーとして、上記の私のページが紹介されているものだ (参照)。

しかしこんな疑問は、わざわざ 「Yahoo 知恵袋」 に聞くまでもなく、「森/林/違い」 というキーワードでググれば、私のページがトップで表示されるのになあ (参照)。よっぽど自分で調べるのが苦手で、インターネット上でさえも人に聞きたがる人がいるようなのだ。

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2009/03/22

昭和の日常と平成の異分子 - 銚子異聞

昨日、ひょんなことから千葉県の銚子市を訪れた。別に遊びに行ったわけではなく、本当は仕事で茨城県の神栖市に行ったのだが、昼飯を食いに、銚子まで行ったのである。

神栖市の波崎というところから、利根川にかかる銚子大橋を渡れば、そこは銚子市なのであった。

せっかく銚子まで来たのだから、おいしい魚を食べようということになり、神栖市在住の関係者 2人と銚子のなんとかホテルのかんとかレストランで昼食メニューを食べた。お刺身つきで 1,050円。安くておいしい。さすが日本有数の漁港の街である。

で、日本有数の漁港の街とはいうのだが、街全体はどちらかというと、さびれかけたた感じである。聞けば銚子市の人口は 7万人台まで減少しており、千葉県でも人口減少率が第 3位の自治体となっているらしい。

例の市立病院をどうするかの問題で市長のリコールの是非を問う投票が、ほぼ 1週間後の 29日に迫っているというニュースが注目を集めていた (参照) が、実際に銚子市に足を踏み入れてみると、そんなような緊迫したようなイメージはない。どこまでものんびりした地方都市である。

で、せっかく銚子まで来たのだから、犬吠埼を眺めて帰ろうということになり、かの有名な灯台を目指して車で行ったのだが、さすがに 3連休の 2日目、観光客が多い。かの有名な 「ぬれ煎餅」 でも買って帰ろうかと、銚子電鉄の犬吠駅というところに寄ってみると、観光バスで乗り付けた一団が大いに盛り上がっている。

どうやら観光バスで犬吠駅まで来て、ちょうどやってくる銚子電鉄のボロ電車に乗るというのが、その観光ツアーの目玉であるらしい。観光客はわれ先にぬれ煎餅を買い、平成の御代とも思われない小さなホームに出て、電車が来るのを待つ。

しばらくすると、踏切の警報機がものすごく時代がかったカンカンいう音と共に閉まり、向こうから電車がやってきた。すごい。屋根はサビサビで、編成はわずか 1両。申し訳ないが、よくこんなものが動いているなあという感じで、ある意味、その感覚がものすごくしびれる。

その電車がホームに止ると、待っていた観光客がどっと乗り込む。到底乗り切れそうには思われなかったが、必死に詰め込んで、どうやら全員乗れたらしく、おもむろに出発していった。多分、そこまで乗ってきた観光バスがどこかの駅に先回りして待っているのだろう。(この日の和歌日記は、こちら 画像あり)

なんだか、映画でも見ているような感覚なのであった。そこには平成ではなく、明らかに昭和があった。考えてみれば、日本のあちこちに昭和は残っている。そして、昭和は今では、観光の対象となる 「非日常」 なのであった。

さらに言えば、平成の目からみれば 「非日常」 ではあるが、現地の感覚からすれば、しっかりと 「日常」 以外の何物でもないのであり、そこに 「平成の異分子」 が押し寄せているだけなのであった。

銚子の市立病院がどうこうというのは、その昭和の日常の中に否応なく押し寄せる 「平成の異分子」 が巻き起こすギャップというものなのではないかと、そんなような気がしたのであった。

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2009/03/21

『唯一郎句集』 レビュー #14

『唯一郎句集』 レビューも 14回目となった。「朝日俳壇」 時代の句は前回でおしまいで、今回からは 「木鐸」 時代の句となる。

句集にはさも当然のように "「木鐸」 時代" とされる章があるのだが、そもそも 「木鐸」 って何なのか、さっぱり説明がない。何しろ作者の最低限の年譜も記されていないのだから、本当に不親切な追悼句集である。

唯一郎の亡くなったのは終戦の年の昭和 20年で、この句集が上梓されたのは昭和 36年。17回忌を迎えるに当たっての記念出版だったのだろう。つまり、亡くなって 16年も経ってから出版された句集なのである。

句集には、当時の俳句同人が漠然とした記憶に頼って、思い出話みたいなものを寄稿してくれてはいるが、自分たちには当たり前の話でも、それを読む者にはさっぱり要領を得ないことが多い。多分出版された当時でも、その内容はよく通じなかっただろう。

ましてや、それからさらに半世紀近く経ってしまっては、作品の背景をうかがうのは至難の業である。私がこの句集の編纂に携わっていたとしたら、少なくとも唯一郎の年譜と文学史的な解説ぐらいは絶対に入れただろう。

しかし、この句集が上梓された頃、私は小学校 3年生だったのだから、叶わぬ話である。今さら何を言っても遅い。ようやく調べがついたところでは、「木鐸」 とは、当時酒田で出版されていた総合誌だったようだ。結構レベルが高かったらしい。酒田もまんざら捨てたものじゃない。

唯一郎は、その総合誌に句を載せていたもののようだ。その雑誌の印刷は自分の家の家業が印刷屋だから、そこでやっていたものでもあるらしい。とりあえず、レビューを始める。

夕餉にものいはず梅鉢の砂しめり

「梅鉢」 というのだから、庭に植えた木ではなく、盆栽なのだろう。縁側あたりにおいてあったのかもしれない。

夕餉の時になっても、その梅は 「ものいはず」 というのだから、ぱっと咲くようなことはなかったのだろう。遅咲きだったのだろうか。そのあたり、何の縁なのか、我が家の庭の梅も同様である (参照)。

梅の鉢の砂は湿っているという。悲しき梅である。悲しくはあるが、家族の夕餉に付き合い、絶えず水をやってもらえる、人間と切り離せない梅である。それだけに、ますます悲しい。

おとなしと賞めらるるが悲しき梅咲く

遅咲きの悲しき盆栽の梅は、褒めようがないので 「おとなしい」 と言って褒められる。そして悲しげにようやく咲く。

少しペーソスを感じさせる、肩の力の抜けた句である。

青空青空絶へず動くものあり梅咲く

梅の連作の中で、ようやく唯一郎らしいシュールさを感じさせる句が出てきた。「青空青空」 と二度繰り返し、「絶へず動くものあり」 と、ちょっと飛躍した言葉に飛ぶ。

「絶へず動くもの」 とは、青空の中に投影された、自らの心の奥深くに潜むものなのだろう。その動くものが、今度は遅咲きの 「おとなしい」 梅の花の中からポンと音を立てて現われる。

本日はこれぎり。

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2009/03/20

『唯一郎句集』 レビュー #13

『唯一郎句集』 レビューもこれで 13回目ということになる。「朝日俳壇」 時代の句は、今回の 4句でおしまいである。

春の終わりから、夏にかけての句である。この句を作ったとき、唯一郎は多分、まだ 10代である。それだけに、物静かな抑制の中にも若者特有の高ぶりがうかがわれる。

これまでレビューした句の中で、秋から初春にかけての作品には、唯一郎独特の、10代の若者とも思われないような抑制が感じられる。感情をほとばしらせるのをよしとしない態度だ。しかし、今回の句には、ほとばしり出るまでには至らないが、若者の高ぶりが感じられるところがある。

この春はほけたる蒲公英のみ見たり

自由律の俳人、唯一郎にしては珍しく定型じみた句である。とはいえ、五七五 ではなく、やや字余りの 五八五 なのだが。

タンポポの黄色の花ではなく、「ほけたる」 タンポポ、つまり白い綿毛になったもののみを見たというのである。春も終わる頃だろう。じっとりと汗ばむ季節かもしれない。

「ほけたる」 タンポポは、熟れてしまったタンポポである。10代の若者なのに、熟れた花のみを見たという、アンバランスな感覚。そのアンバランスさが、10代の若者である。

物言おだやかに言ひその夜の螢の光り

「物言い」 をおだやかにしたというのだが、それは誰に体して穏やかな物言いをしたのか。次の句でわかるが、女に対してである。「女」 とは、後に妻 (つまり、私の母の実母) になる女性だったろうか。

ホタルの光る夜道、女と共にあるく。大正末期の地方都市だけに、なかなか艶っぽい情景だ。

女と並んで歩く自分の心の内よりもまず、「ホタルが光っている」 と、外の情景を詠むところが、青春である。なかなかいい。

女に螢をつかませ気強くも並び行く

ここで初めて 「女」 が出てくる。夜道で女の手の内にホタルをつかませて、並んで歩くというのである。

「気強くも」 というのがいい。夜道を女と並んで歩くというだけで、思い切りの要った時代である。

その女の手の内にホタルという危うい生き物がいるというのが、またいい。

夏の海を見下ろしてから階段を飛ぶやうに下り

唯一郎が 「飛ぶように」 下ったという階段は、どこの階段なのだろう。初めは自分の家の中の階段かと思ったが、そうではないだろう。昔の酒田の街場の家に、踊り場の窓から海を見下ろせる階段があるとは考えにくい。あっても不思議じゃないが、ちょっと想像できない。

多分、旅先の旅館なのではあるまいかと思うのである。酒田の近くには、湯野浜や温海など、海を見下ろす立地の温泉地がある。その旅館の部屋の窓から、光る海を見下ろし、階段を飛ぶように下りる唯一郎。

抑制のきいたシャイな若者にしては、珍しく華やいだ気分が表現されている。

ただ、海に向かって飛ぶように降りるのではないところが唯一郎らしい。窓から海を見下ろしてから、一呼吸おいて、静かな階段を飛ぶように下りるのである。どこまでも、はじけ飛ばないところがある。

本日はこれぎり。次回からは 「木鐸」 時代の句をレビューする。

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2009/03/19

「エンダイブ」 を巡る冒険

近頃妻が、「エンダイブ」 という野菜に凝って、盛んに食わせてくれる。なんだかしらないが、ちょっとハリのある繊細な葉物野菜で、サラダにして食べると、繊細な苦みがおいしい。

これに、白身の魚の水煮をほぐしたのとか、カツオのたたきなど、いろいろ添えて食べると、なかなかイケルのである。

この新種の野菜を初めて食べさせられた時、「これは、何て言う野菜?」 と聞くと、妻は、「それは 『エンダイブ』 っていうのよ」 と答えた。ふぅん。で、私はさらに訊ねた。

「それって、漢字ではどう書くの?」
「漢字?」
「そう、漢字」
「漢字なんて、あるわけないじゃない。カタカナよ」

それでも私はめげなかった。だって、漢字で表記される植物の多くも、普通はひらがなとかカタカナで通っているってこともあるじゃないか。「檸檬 - レモン」、「蒲公英 - たんぽぽ」、「向日葵 - ひまわり」 とかね。

「本当は、漢字があるんじゃないの?」
「あるわけないじゃないの。エンダイブはエンダイブなんだもの」

というわけで、この時はそれで終わりになったのである。終わりにはなったのであるが、私の頭の中には、これはインド原産の野菜で、原語は梵語か何かで、きっともっともらしい漢字表記があるんじゃあるまいかとかいったような、曖昧な印象が残った。

そしてしばらく経ってから、気になって調べたら、「エンダイブ」 はヨーロッパ原産の野菜であると書いてある (参照)。そして、英語表記は "endive" であるという。

「なんだ、インド原産じゃなかったのか」 と、私は拍子抜けしたような気分になったのであった。

ところで、何で私がエンダイブをインド原産かと思ったのかという原因は、すぐに思いあたった。「閻浮提」 という梵語とごっちゃになったのである。「閻浮提」 の読みは 「えんぶだい」 。ざっとした意味は人の世ということで、お経なんかに出てくる言葉だ。詳しくは、以下の通り (Goo 辞書より引用)

〔梵 Jambudvpa〕四洲(ししゆう)の一。須弥山の南方の海上にあるという島の名。島の中央には閻浮樹(えんぶじゆ)の森林があり、諸仏が出現する島とされた。もとはインドをさしたが、その他の国をもいい、また人間世界・現世をさすようになった。閻浮洲。南閻浮提。南閻浮洲。南瞻部(せんぶ)洲。瞻部洲。瞻部。閻浮。

まあ、鉄筋コンクリートを 「テッコンキンクリート」 なんて言い間違えるような勘違いをしてしまったわけである。お恥ずかしい。

それで、今度は次の問題である。英語表記は "endive"ということだが、字面からすると 「飛び込ませる」 みたいな意味合いが連想される。なんでまた、あの可愛い野菜が 「飛び込ませる」 みたいな話になるんだ?

この疑問もすぐに解消された。元々は英語ではなく、フランス語なのだそうで、読みは 「アンディーヴ」 に近いらしい。なるほど。で、意味合いというと、英語の飛び込みは関係なく、「いろいろ複雑な中に」 みたいなイメージなのかなあ。まあ、葉っぱの形は確かに複雑だしね。

そして、さらにややこしいのは、Wikipedia の以下の表示である。

味はチコリーとよく似ているため混同されることが多い。フランスでは Chicorée (シコレ) ということが多く、単に Endive (アンディーヴ) というと普通はチコリーを指す。アメリカではエンダイブを誤って Chicory と呼ぶこともある。

まあ、とにかく呼称的には面倒な野菜のようなのだ。「閻浮提」 と間違えてもおかしくはなかろう (と開き直っておくことにする)。

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2009/03/18

ウェブサイト構築における 「美乳問題」

いつ頃だっただろうか、ウェブサイト構築において 「美乳問題」 というのが語られたことがあって、そんなのはとっくに忘れていたのだが、今頃になって復活するとは思わなかった。

私が仕事で構築したウェブサイトのある特定のページが、表示されないという問題が持ち上がったのが発端である。

制作したウェブサイトは、Internet Explorer (以下、IE と表記)、Firefox、そして念のため Safari でも表示確認を取るのだが、ある特定のページだけが IE で表示されない。真っ白のままなのに、ウィンドウの下には 「ページが表示されました」 との文字が現れる。

「表示されてねえじゃねえか!」 と、ぶち切れそうになって、ソースを表示させてみると、きちんと読み込んでいる。ソースコードは読み込んでいるのに、画面としてレンダリングされず、真っ白のままなのだ。

他のブラウザーではそんな不具合は生じないので、これは IE のバグに決まっている。大分前に、IE 7 でそんなようなバグが頻繁に生じるという話を聞いたことがあるが、まだ修正されていなかったのだ。だから IE は嫌いなんだ。

レンダリングのミスだから、きちんと読み込ませればいいはずなので、試しに 「表示」 - 「エンコード」 をクリックして 「自動選択」 にチェックを入れたら、あっという間にきちんと表示された。Unicode (UTF-8) で書かれたページなのに、その判断を間違えて他のコードで読もうとし、当然にもそれができないので、真っ白になってしまっていたのである。

文字化けした画面でも何でもいいから、表示さえしてくれれば判断がつくのに、パニックに陥ったみたいに真っ白になってしまうから、うろたえてしまう。困ったものである。

よくわからないが、ソースコードの書き方のどこかに、IE と相性の悪い部分があるに違いないと判断して、普段は DreamWeaver のデザイン画面で制作するのだが、ソースコード表示の画面に切り替え、余計なソースコードを極力省いてリファインしたら、やっとのことで表示されるようになった。

それで、安心してウェブ・サーバにアップロードして公開したのだが、そのサイトを見た人から、やっぱり 「特定のページが表示されない」 との報告があった。ああ、がっかりである。

それで、インターネットで検索してみたら、こんなページ が見つかった。2年半も前に書かれたブログ記事である。要するに IE 7 は、Unicode (UTF-8) で書かれたウェブページのレンダリングを、頻繁に間違えて、Shift JIS で読み込もうとするらしい。そして当然にも読めなくて、真っ白の画面のまま放り出してしまうのだ。困ったものである。

対策として一番簡単なのは、<head> タグの周辺に、Shift JIS では読み込めない漢字 2つを埋めておくといいらしい。そうすれば、さしものお馬鹿な IE 7 も自分の間違いに気付いて、UTF で読み込むことに態度変更するようなのだ。

そして、その Shift JIS では読み込めない漢字 2つは、どんな組み合わせでもいいのだが、なぜか一番ポピュラーなのが 「美乳」 という 2文字らしいのだ。そういえば、何年か前にそんなような記事をどこかで読んだ。その記憶がよみがえってきた。笑い話として読んでいた話が、まさか自分の身にふりかかってこようとは思わなかった。

ただ、真面目なウェブサイトに、表からは見えないソース部分とはいえ、「美乳」 なんて言葉を埋め込むのはちょっとはばかられる。そこで私は、別の漢字 2文字を組み合わせて埋め込んだのだった。これで、少しは不具合が減るだろう。

それにしても、3年近くもバグを放っておく MS には、かなり腹が立つ。今や、UTF での記述はかなり一般的だというのに。

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2009/03/17

『唯一郎句集』 レビュー #12

『唯一郎句集』 に収められた 「朝日俳壇」 時代の句も、終わりに近付いている。今回の 3句、そして後 4句である。

今回の 3句は、春の頃の句である。朝日俳壇に認められてから、翌年の春だろうか。そのあたりは、この句集を読むだけでは、しかとはわからない。

前回の 3句は、どう解釈したらいいのか迷いに迷って、迷宮入りしそうな句だったが、今回の句も負けず劣らずである。何しろシュールな世界なので、一つ一つ煉瓦を積み重ねていくような 「論理」 の産物ではない。煉瓦が空中に浮いていてもおかしくはない世界である。

春山あまりに近く 職人怒りたり

庄内の知では、確かに春の山がものすごく近くに見えるような気がする。冬の間、吹雪の彼方にあった山が、急にすぐそこにあるのがわかる。

厳しい冬が終わり、ようやく楽々と深い呼吸ができる春になると、人はのんびりすると思いきや、職人は怒ったというのである。職人というのは、唯一郎の家業である印刷工場の職人だろうか。その職人が怒った。

春になると、心が高ぶる。冬の間は抑えていたものが急に外に現われる。その感覚が、「春山あまりに近く」 というレトリックで、十分に現わされている。

桑の葉一枚摘み桑の葉かたかりけり

唯一郎の句の、一つの典型的なスタイルである。淡々と即物的な事実のみを語り、その即物的事実が、かえって新鮮な感慨を呼び起こす。

桑の葉を一枚摘むと、その思いがけない固さが指先に伝わった。ただそれだけのことだが、それだけにピンポイントの感動である。

女勞働人淋しき桃花折り

印刷所の女の労働者が、仕事が終わって帰りがけに、ピンクの花のついた小枝をぽきりと折って持ち帰る姿が思い浮かぶ。

ピンクの桃の花だが、桜や梅の花ほどにびっしりと枝につくわけではない。「淋しき桃花」 である。それを折る女も淋しい。

厳しい冬が終わって春が来ても、唯一郎の心は浮き立つわけではない。こうした句を作る唯一郎もまた、淋しい。

本日はこれぎり。

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2009/03/16

茨城のコシヒカリはおいしいらしいが

朝、車で JR 常磐線取手駅近くに借りた駐車場に向かいながらラジオを聞いていると、「茨城県産米銘柄化協議会」 というところの CM が流れる。

茨城県で取れた 「コシヒカリ」 のうまさを訴求し、「銘柄化」 を促進して、消費量を増やそうという狙いらしい。

毎日聞こえてくるものだから、ちょっと気になって調べてみたら、私は見たことがないが、テレビでも CM が流れて、一部では話題になったようなのだ。98 ACC 全日本 CM フェスティバルというので、"茨城のコシヒカリ - いばら 「き」 のコシヒカリ-" のテレビ CM が 「地域秀作」 に入賞している (参照)。いやはや、ずいぶん前からあったのね。

さらにググって見ると、これがきっかけになって、「茨城」 という県名の読み方が 「いばらぎ」 と濁るのではなく、清音の 「いばらき」 であるということが、肝心の茨城のコシヒカリなんかよりずっと話題になったということがあって、「いばらき」 つながりで大阪の茨木市まで話題にのぼっている (参照)。

ずいぶん 「ありがち」 の話題狙いの CM のようで、電通としては、茨城のこしひかりの売れ行きより、CM が話題になってくれる方がありがたかったのだろう。結果オーライということか。

ただ、そんなに前からずいぶん金をかけた CM を展開しているくせに、茨城県産米銘柄化協議会というところは、ウェブサイトで訴求するということはちっとも考えていないようで、いくらググっても、この程度 のサイトしか見つからない。「やっぱり茨城は茨城」 と言われても仕方がないかもしれない。

それに、最近流れているラジオ CM は、かわいい子どもの声で 「たくさん食べると、作った人も喜んでくれるよね」 と言うのである。要するに、茨城県産米銘柄化協議会という団体は、「たくさん食って、俺たちを喜ばせてもらいたいぞ」 と、ずいぶん厚かましいことを言っているのである。

「消費者を喜ばせたい」 という CM はいくらでもあるが、「生産者を喜ばせろ」 と言わんばかりの CM を聞いたのは、明らかにジョーク的なものを除けば、これが初めてである。「なんだかなあ」 という気がするのである。

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2009/03/15

合成皮革の寿命は 3~4年と覚悟すべし

全国クリーニング生活衛生同業組合連合会は今年 1月にクリーニング綜合研究所が鑑定した事故衣料 38件の分析結果を発表した。

いわゆる 「クリーニング事故」、つまり、クリーニング屋さんに出した衣料品で、何らかの問題が発生したケースについて分析し、その結果をまとめたものである。

その中でちょっと注目したいのが 「経時劣化」 による事故が 3件あったということだ。時が経つにつれて品物が劣化したことによるクリーニング事故ということである。この 3件はいずれも、ポリウレタン・コーティングを施された品物の事故だ。

ポリウレタン・コーティングといっても、素人にはピンとこないだろうが、要するに、合成皮革のことである。布の表面に、一見レザーにみえるようにポリウレタン・コーティングしたものだ。人造レザーなんていわれることもある。

このポリウレタン・コーティングは、3~4年経つと 「経時劣化」 (「経年劣化」 といわれることもある) という現象が生じる。まず空気中の水分と反応して加水分解が進み、表面がぬるぬるした感じになる。この段階でクリーニングしたら、確実にコーティングがひび割れてボロボロになってしまう。

クリーニングしなくても、自然に表面のひび割れが進んで、コーティングが剥がれてしまうのだ。これはポリウレタンという物質の性質で、避けられないことなのである。つまり、合成皮革の寿命は 3~4年ということなのだ。

大抵の合成皮革製品には、その旨が注意書き表示として付いているはずなのだが、消費者はそんな表示には頓着しない。それに、店としても売れさえすればいいと思っているから、売る際に 「寿命は 3~4年ですよ」 なんてことは、聞かれない限り白状しない。さらに、元々そんな知識のない販売員も多い。

だから消費者はそんなことは知らずに購入してしまい、3~4年経って表面が剥がれてしまってからクレームをつけることになる。そして、「合成皮革はそういうものなんです」 と説明しても、多くは 「そんなこと言ったって、安い買い物じゃないんだから」 と、納得しない。

そこで、「いや、それは、合成皮革ですから、『安い買い物』 なんです」 なんて言おうものなら、火に油をそそぐことになる。

本物のレザーと比較したら 10分の 1程度の値段のものが多いのだから、本当に 「安い買い物」 以外の何物でもない。長く着られる物が欲しかったら本物のレザーを買えばいいだけのことなのだが、それを言ったら喧嘩になる。

合成皮革の衣料品を買ったら、どんどん着倒して早めにモトを取ってしまえばいいのだが、中には見た目にごまかされて 「よそ行き」 なんて思ってしまい、「3年で 2~3回しか着てないのに」 と泣きつく人もいる。

そんなことで泣きつかれても、メーカーもクリーニング店も、困ってしまうのである。その品物を買った時点で、「本物のレザーじゃないから、こんなに安いのよね」 と思ってくれないのは、想定外なのだ。

ただ、メーカーとしても痛し痒しなのは、「安いものですから、3年しかもちませんよ」 というのは、あまり大きく表示したり、大きな声で言ったりはしにくいことである。正直に言いすぎると売れなくなってしまうからと、あまり伝わらないように言うから、後でクレームを受けて困るのである。

というわけで、この問題はメーカーの説明不足と消費者の無知の合わせ技であり、もう本当に付き合いきれないお話なのである。私としては、今さら衣料品に合成皮革なんて悪趣味なものは使うべきじゃないと思っている。そんなものを使うから、後で馬鹿馬鹿しい問題を起こすのだ。

【2016年 1月 23日 追記】

この記事に関するコメントの受付は終了しました。消費者相談のようなコメント (しかも説明が不十分)を持ち込まれても、こちらとしては対応のしようがないので。

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2009/03/14

春の嵐がすごい

いやはや、今日は仕事に追いまくられてしまっているので、備忘録程度の更新である。確定申告が終わっても、まだまだやることに追いまくられている。

昨夜から大嵐になっている。雨は大したことはないが、風がすごい。南風なので、ちっとも寒くはないが。

「春二番」 だそうである。それも生やさしいものじゃない。家が揺れるほどの、台風並みの風だ。

心配なのは、我が家の庭の梅である。この梅は有名な遅咲きで、近所の梅があらかた散ってしまってからようやく満開に近くなる。そして、今がちょうどその時なのだ。せっかく満開間近になった梅が、この強風で散ってしまってはたまらない。

実は、昨年がそうだったのだ。昨年は、遅咲き傾向にさらに拍車がかかり、三月末になって桜が咲き始めてからようやく満開に近付いていたのだった。それが、4月 1日の嵐で散り散りに散ってしまい、ついに本当の満開の姿を見ることなく終わってしまったのである。その時のことは、和歌ログにも書いてある (参照)。

今年もその繰り返しになると、2年連続で満開の姿を見ないということになる。それは避けたいというのが人情である。今確認したら、花びらはまだしっかりとくっついている。何とか絶えてもらいたいものである。

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2009/03/13

「アラカン」 と生活リズムの変化

ご存じの方はとっくにご存じのように、私はブログを 2つやっていて、どちらもきちんと毎日更新している。

この "Today's Crack" の他に 「和歌ログ」 という酔狂な文芸ブログをやっていて、三十一文字と写真と日記テキストと、三十一文字の英訳バージョンというのを載せている。

この 2つのブログを 4年以上、さらに、ココログに移る前の自分のウェブサイト内での期間を入れれば 5年以上、掛け値なしに毎日更新している。しかも  "Today's Crack" の方は、「ほぼ毎日更新」 を含めれば、7年以上になるのだから、我ながらエライものである。

ただ、これだけ長くやっていると、自分自身の体調の変化というものに否応なしに気付いてしまう。いや、決して体調が悪くなったというわけじゃない。体調が悪かったら、そもそも 2つのブログの毎日更新なんてできるわけがない。私はすこぶる健康なのである。

ただ、更新のタイミングに自分の年齢が現れてしまっているなあと、最近しみじみ感じてしまうのだ。

ちょっと前までは、 "Today's Crack" は日付が変わる前後にテキストを作成して、真夜中 (ほとんどは 1時頃) に公開していた。毎日毎日、夜中近くまでパソコンに向かって仕事をし、それが一段落したあたりでブログのテキストを書き、公開したら風呂に入り、夜中の 1時過ぎにベッドに潜り込む。

睡眠時間は 4時間から 5時間弱。決してそれで十分というわけではないが、電車での移動中に居眠りなんかして補えば、何とかなっていた。

しかし、近頃 50代の半ばを過ぎてしまってからは、それでは足りなくなってしまった。夜中の 12時近くになってまでパソコンに向かっていると、ふと気付くと眠ってしまっているということがよくある、というか、しょっちゅうなのである。

というわけで、近頃では夜中近くまで仕事をしてしまったら、さっさとパソコンを閉じて、風呂に入って寝てしまうことにした。そんなこんなで、日付が変わった直後の更新というのは、稀になってしまったのである。

といっても、体力が落ちて睡眠時間が急に長くなったというわけじゃない。早く寝る分、目覚めるのも早くなった。12時過ぎに寝れば、6時には起きてしまう。睡眠時間は平均して 5時間半ぐらい。残念ながら相変わらず 6時間には達していない。

早起きになったからといって、年寄りじみてきたのだとは、自分では思いたくない。実際、これで眠くないと言えば嘘になるのだ。朝はしっかりと眠いのである。完全に寝ぼけているのである。しかし 6時に目覚めて二度寝してしまうと、今度は 7時を過ぎても起きられなくなってしまうから、起き出さざるを得ないというだけなのだ。

6時に起きたからといっても、朝の時間はメディテーションをしたりしてゆったりと過ごしたいもので、バタバタとパソコンを起動させてブログの更新をする気にはなれない。そんなこんなで、更新は移動の電車内とか、仕事中のちょっとした隙間時間なんかにしてしまうことになる。

そんな風にあわただしくテキストを書くものだから、すぐに公開する気になれない。一応、後でゆっくり全体を読み直してからアップロードする。すると、どうしても公開は昼過ぎとか、夕方とか、夜とかになってしまうことが多い。

毎日更新を始めた頃は、 "Today's Crack" を夜中に、「和歌ログ」 を昼に更新するという作業を、死ぬまで続けるものだと思っていたが、5年も経てば生活のリズムというのも変わってしまうものなのである。

そういえば、40歳前後のことを 「アラフォー」、還暦前後のことを 「アラカン」 というなんてことを、前に書いた。私も次のオリンピックの年には還暦だから、「アラカン」 なのかもしれない。「へぇ~」 なんて、人ごとのように思ってしまうが、時間というものは否応なしに経ってしまうものだ。

こうなったら少し時間をかけて、夜は 11時前にベッドに入り、朝は 4時半頃に起きて、メディテーションとブログの更新を済ませてから、一日の仕事を始めるという 「年寄りパターン」 に移行したいと思っている。

ああ、何と健康的な生活だろう。そんなことをしてしまったら、ただでさえ健康なのに、ずっと 「年寄り」 のままで長生きしすぎてしまうんじゃあるまいか。

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2009/03/12

モバイル通信の日進月歩

日曜日に nifty から "「@nifty Mobile BB」新プラン提供開始と、プラン変更受付開始のお知らせ" というメールが届いた。

「定額いちねんプラン、二段階定額いちねんプラン」 という割引サービスが始まったという。どのくらい割引になるのかと、指定された ウェブページに飛んで調べてみた。

「@nifty Mobile BB」 というのは、nifty が E-Mobile との提携で提供している無線でのインターネット接続サービスで、年がら年中あちこちに出歩いて仕事をしている私には、必要不可欠といっていいものになっている。

E-Mobile との直接契約と月額料金がほとんど変わらず、ハードウェアであるデータカードがレンタルなので初期費用が安いことと、月々の料金を @nifty がプロバイダ料と合わせて一括請求してくれるので、面倒のないのがメリットだ。

で、新料金プランは、「定額いちねんプラン」 というのが、毎月定額 4,830円、「二段階定額いちねんプラン」 が、15,000パケットまで 1,260円、それ以上は従量制になり、71,250パケット以上になると上限 5,985円止まりとなる。ヘビーユーザーの私は、当然 「定額いちねんプラン」 を選択する以外にない。

@nifty Mobile BB の場合、これ以外に接続用データカードのレンタル料、525円 (私の場合 D01NE タイプのままなので) がかかり、合計で 5,355円となる。で、これまでの料金はレンタル料込みで 5,502円。なんだ、たったの 147円しか安くならないんじゃないか。

これっぽっちの割引で、契約 1年目に契約解除すると 12,600円の解除料金が発生し、 2年目以降は 6,300円となるのだそうだ (いすれも税込)。割引額がちっぽけな割に、解除料金がけっこう高い。

それによく見ると、これまでの定額プランは廃止されて、新規に申し込む人は、新しい 2つのプランのどちらかを選択するしかないということになっている。これでは、サービスだかなんだか、わかりゃしないのである。

契約は毎年自動的に延長され、契約解除料を発生させずに契約を打ち切るには、契約切れの 1ヶ月以内に通告する必要がある。うっかりして、その 1日前に通告したりすると、解除料を請求されてしまう。なかなかうっとうしいところがある。

これって多分、近頃話題の モバイル WiMAX への乗り換えを防ぐための囲い込み策という意味合いが大きいんだろうなあと想像してしまう。下り最大 40Mbps という超高速モバイル通信サービスだ。私の 3月 6日の記事にコメントしてくれた きっしー さんによると、「つながる場所ならチョー快適 (ただし、まだ都内および近辺しかエリアに入っていない)」 だそうだ。

なるほど、これぐらいの高速なら、体感的には光ファイバーとあまり変わらないだろう。E-Mobile だって ADSL ぐらいの速さは出るが、光ファイバーに慣れてしまうと遅く感じて、ちょっとストレスではある。その前の PHS 接続による 128Kbps なんていうのと比べれば天国みたいなものだが、人間は贅沢を覚えると際限がない。

私としても モバイル WiMAX にはかなり魅力を感じてしまうのだが、いかんせん、まだサービスエリアが狭すぎる。私は地方出張がけっこうあるので、少なくとも人口 10万人近い都市ではつながってもらいたい。E-Mobile が今、ようやくそのレベルに達しつつあるので、しばらくは手放せない。

ただ、モバイル WiMAX も積極的にサービスエリア拡大を行う方針で、2009年度末には政令指定都市と全国主要都市をカバーする計画のようだ (参照)。ところがそれでも、私の故郷である山形県庄内エリアはカバーされないようで、個人的な選択肢に入れるには、もう少し待たなければならない。

しかし、思い起こせば E-Mobile だってサービス開始時点では、今の モバイル WiMAX とちょぼちょぼのエリアしかカバーしていなかった。ところが 3年もかからないでふと気付いた時には、うちの田舎がカバーされていたのである。だから、モバイル WiMAX のサービスエリアだって、順調にいけばどんどん広がるだろう。

そしてその間にも E-Mobile は、先発の強みによるシェア拡大と囲い込みを行いつつ、サービスエリアの広さという優位性を確保するために、さらにどんどん基地局を増設していくはずだ。まるで追いかけっこという状態になる。

それでも日本の広さには限界があるので、ある時点で モバイル WiMAX のサービスエリアが、E-Mobile と遜色がないレベルまで追いついてしまうことが予想される。ドッグイヤーの世界の栄枯盛衰はめまぐるしい。そうなったら、私も迷わず モバイル WiMAX に乗り換えるだろう。

ただ、その場合は @nifty Mobile BB の契約期間に十分注意して乗り換えなければならない。何しろ、月額わずか 147円の割引に惹かれて、つい 「定額いちねんプラン」 というのに申し込んでしまったので、これを間違えると多額の契約解除料金が請求されてしまう。

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2009/03/11

スギ花粉の飛散はピークを過ぎたらしい

私はスギ花粉症もちなのだが、近頃だいぶ症状が軽くなってきて、花粉飛散量の少ない年は、治ってしまったかと思うほどだ。

ところが昨年は、さすがに飛散量が多くて辛い思いをし、初めて花粉対策マスクをした。今年は大丈夫かと思っていたのだが、昨年ほどではないけれど、少し症状が出ている。

今朝、車で JR 常磐線取手駅近くに借りている駐車場に向かいながらラジオを聞いていると、気象予報士の森田正光さんが 「花粉症の人にとっての朗報」 を伝えていた。今年のスギ花粉飛散は、既にピークを越えたのだそうだ。

スギ花粉の飛散は、年初からの最高気温の積算が 400度を超えると本格化するらしいというのは前から聞いていたが、それが 700度になるとピークに達するんだそうだ。そして今年は、どの地域のデータかは聞き漏らしたが、最高気温の積算が 750度ぐらいになっているので、既にピークは越えているというのである。

森田さんによると、既に花粉の 60~70%は飛んでしまっているので、残りは 30~40%。あと 1週間ぐらいで、スギ花粉の飛散は終わりそうだというのだ。嬉しいニュースである。もっとも、その次にはヒノキ花粉の季節が続くのだが、ヒノキはスギほど多くないので、花粉の飛散も少なく、スギ花粉症ほどには目立たない。

ちなみに私のスギ花粉症の症状が最もひどかった 1990年代は、2月後半から症状が出始めて、ゴールデンウィークが始まる頃にようやく収まったというような記憶がある。ところが今年は、症状のひどい人は 1月後半に入ると赤い目をしてマスクがはなせなくなっていた。

私も建国記念の日あたりから少し、「ありゃ? 来てるかな?」 というような気がして、2月末からはティッシュペーパーの消費量が急上昇してしまっていた。ということは、年初からの最高気温の積算が、20年近く前と比較すると、400度に達するのも 700度に達するのも格段に早まってしまったということなのだろう。

桜の開花も、前世紀末に比べると、10年で 5~6日早まっているそうだ。さらに、前は開花してから 1週間で満開になったのに、今は 5日間で満開になってしまうというのである。だから、お花見の時期が 4月初めから 3月の終わりにずれてしまっている。

温暖化というのはよっぽど進んでしまっているようなのだ。おかげで、新入社員が入社早々、お花見の場所取りさせられることが減っているそうだが。

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2009/03/10

小沢さん、さっさと辞めなきゃ

民主党の小沢代表が、「政権交代のためには衆院選で勝利を得なければならない。今後の行動の基準はその点に物差しを置いて判断したい」 と、党本部の記者会見で述べたと報じられた。(参照

現時点での辞任は否定しているが、その可能性を自ら認めたと受けとめられている。

私は遅かれ速かれ、小沢氏は代表を辞任しなければならない状況に追い込まれるとみている。だったら最初から虚勢を張らず、辞任しておけばよかったのだ。私は 3月 5日の記事でも書いているとおり、昨年 6月に、西松建設の外為法違反容疑が明るみに出た時点で、小沢氏は健康問題などの適当な理由で辞めておけばよかったのだと思っている。

私はちょっと前までは、「政策理念的には、小沢一郎という人にはある程度共感している」 と書いていた。「というか、彼のいう 『普通の国家』 という理念には、総論的には反対することが難しいという、それだけのことなのかもしれないが」 という但し書き付きでだが (参照)。

ところが最近は、彼の言うことに総論的に賛成することもできなくなってきていたのである。野党第一党のトップとして、いくら自民党の政策への対案的なことを言わなきゃならないにしても、あまりにも現実無視で言うだけ言ってみる的なことが多すぎるようになってきた。

単に、国会運営面で与党の思惑の邪魔をするためにだけ妙な反対論をブチ上げるとか、数合わせをするために、政策的には一致するはずもない連中と表面的に手を結ぶとか、嫌らしいマキャベリズムに終始するようになった。

私は、政権交代は是非とも必要と思っているが、小沢氏が首相になることには全く期待していなかった。むしろ、あんな人が首相になったら、結果の良し悪しは別にして、せっかく小泉さんがわかりやすくした日本の政治を、またぞろわけのわからない密室型に戻してしまうに違いないと思っていた。

小沢氏について、私が過去に書いたことを、以下に再録してみよう。

2006/04/09 の記事

(小沢氏は) 実は 「大物」 なんかじゃなく、田中派から竹下派に続く歴史の中で、じいさんたちに可愛がられて、楽屋裏の重要ポストをあてがわれ、背後のじいさんたち (とくに金丸さん) の威光で、強引に物事を進めた経験があるというだけのことなんじゃあるまいか。

あの頃の世の中は、政治の世界に限らず、実力者といわれるじいさんのお気に入りになれば、大抵のことはできたのである。「お前の好きなようにやってみな。何かあったら、わしが出てって口きいてやるから」 ってなもんだ。

こうした構造があって、周囲としても、下手に逆らうとややこしいじいさんが出てきてやっかいなことになるとわかっているから、逆らわなかったのである。

2007/11/05 の記事

この人、影で隠然たる力をふるうタイプで、昔から表舞台に立たせてしまうとろくなことがない。ちょっと権力欲をくすぐって揺さぶりをかけるだけで、すぐに自爆する。すぐに自爆するとわかっている人を自爆させるために揺さぶりをかけるのは、案外簡単なことなのだ。

と、これまで書いたことだけで、小沢氏については既に言い尽くしているような気がする。彼は天然記念物みたいな、最も古いタイプの政治家であり、しかも若い頃に重要ポストに就きすぎたため、「ややこしいじいさん」 という後ろ盾のない世界では、やりたいことを実現させる方法論をもっていないようなのだ。

今回も自爆した上に、開き直って、雪印や船場吉兆と変わらない、最も下手なリスク・マネジメントの典型を演じてしまっている。どうせ辞任しなければならないのだから、さっさと責任をとって辞めればいいのである。その方が、今後の政局もずっとすっきりする。

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2009/03/09

とく、ほどく、ほぐす

似たような意味合いで、「とく」 「ほどく」 「ほぐす」 という 3つの動詞がある。漢字表記では同じ 「解」 の字が使われ、「解く」 「解く」 「解す」 になる。前の 2つは区別がつかない。

今は 「とく」 と読ませる 「解く」 のみが一般的で、他は平仮名で 「ほどく」 「ほぐす」 と書くのが主流のようだ。

どうして急にこんな些細なことを持ち出したのかというと、昨日付の 「唯一郎句集」 レビュー #11 で、「蚕棚の風呂敷はほぐされざる毎日」 という句 (自由律なので、五七五の定型ではない) をレビューしたからだ。

「蚕棚に置かれた風呂敷がずっとほぐされない」 という句である。現代の読者の多くは、風呂敷という主語に 「ほぐす」 という動詞を用いる言い回しに、少し違和感を覚えてしまうかもしれない。ややもすると、風呂敷の生地をずたずたに細かく引き裂いてしまうことと受け取られても不思議がない。

しかし、酒田では風呂敷の結び目をほどくことを 「ほぐす」 というのである。唯一郎は私の母の実父で、酒田で生まれて酒田で死んだ人だから、ごく自然に 「ほぐされざる」 と表現したのだろう。これはあながち方言というほどではないが、日本語の標準的用法からは少しだけずれているような気が、酒田出身の私でもしてしまう。

ちなみに、Goo 辞書 (三省堂 『大辞林』 がベース) では、次のように解説してある。(参照

ほぐす 【▽解す】 (動サ五[四])

(1) もつれて固まった状態を、といてもとへもどす。結ばれたり織られたりしているものをさばいて分ける。

「魚の身を―・す」
「織り糸を―・す」

補足説明 「ほぐれる」に対する他動詞

(2) 緊張・疲労・怒りなどを、おだやかな状態へもどす。

「気分を―・す」
「旅のつかれを―・す」
「肩のこりを―・す」

可能動詞 ほぐせる

私にとって 「ほぐす」 という動詞が一番ぴったりくるのは、上記の用例にもあるように、「魚の身をほぐす」 という言い方だ。独身時代、さばの水煮の缶詰を開けて皿にがばっと移し、それからおもむろに箸でほぐしにかかったものである。

ほぐさないと、あっという間に口の中に収まってしまうが、ほぐすことによって、おかずとしての存在感が増す。私はこれを称して 「増やす」 とも言っていた。量は増えないが、食べ心地が増すのである。

さて、風呂敷を 「ほぐす」 という言い方に戻る。上記の用例に「結ばれたり織られたりしているものをさばいて分ける」 とあるのだから、風呂敷の結び目をほどくことを 「ほぐす」 と言っても、標準語としても問題はない。

だが、「ほぐす」 は、やっぱり魚の身をガシガシほぐしたり、肩凝りをほぐしたりという言い方が一般的だろう。私は風呂敷という主語に 「ほぐす」 という動詞を使われると、なんとなく特別な感じがする。郷愁を覚えてしまう。

同じく酒田出身の吉野弘という詩人が、「ほぐす」 という詩を書いているということは、昨日付の記事でも少し触れた。自分のブログで著作権侵害をするのは憚られるので、他人のふんどしを使ってしまう。こちら に飛べば、詩の全文が読める。

詩の冒頭を引用する。

小包みの紐の結び目をほぐしながら
思ってみる
―― 結ぶときより、ほぐすとき
すこしの辛抱が要るようだと

そして、人と人との愛欲のきづなを 「ほぐす」 ときにも、「多くのつらい時を費やす」 と、酒田生まれの詩人は言う。

この詩においては、キーワードとなる動詞はやはり、「ほどく」 ではなく 「ほぐす」 でなければならない。単に 「ほどく」 だけではなく、その後のケアまで含めた意味合いの言葉でなければ、十分なメタファーが成立しないからだ。

それにしても、庄内弁というのは本当に、硬さを 「ほぐす」 言葉だなあ。

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2009/03/08

『唯一郎句集』 レビュー #11

「唯一郎句集」 のレビューも、これで 11回目になる。今回の 3句は、「朝日俳壇」 時代のものだが、季節、年代、ともにわからない。なんだかごっちゃになってしまっている。

追悼句集を作るにあたって、どうしてもう少し系統立ててまとめてくれなかったものかなあと、残念に思ってしまう。

なにしろ句帳をもたず、俳句は作り捨てみたいな人だったので、没後 17年経てから残した句をまとめようとしても、なかなか大変だったのだろう。

この句集には、若き唯一郎を見出した、当時の 「朝日俳壇」 の選者、中塚一碧桜の未亡人の他、酒田にいた 2人の俳句同人が、唯一郎との関わりについてそれぞれの思い出を寄稿してくれているが、古いこととて、3人とも年代を明確にした書き方はしてくれていない。

いずれも文学研究家というわけではなく、選者の未亡人と風流人ということなので、系統だった論文的なものにならないのは仕方ない。ただそのおかげで、さらに時代が下ってからレビューしようという孫にとっては、なかなか難儀なことになっている。なにしろ、まともな資料が全然ないのだから。

とりあえず、いつもの如く、想像力にのみ頼ったレビューを再開する。もしかしたら、今回の句は唯一郎が妻を娶る頃の句なのかもしれない。

蚕飼ひ夜はしみじみと言ひけり

庄内の養蚕について、私はほとんど知識がない。明治維新以後に庄内藩士たちが開墾した松ケ岡というところで盛んに行なわれていたと聞いているが、酒田の街中で蚕が飼われていたのかどうかなんて、全然知らない。

多分この句は自宅で作られたものではなく、養蚕が行なわれていた山里を訪ねた際に作られたのだと思う。唯一郎は松ケ岡のある松山の女性を娶ったので、妻の実家を訊ねた時のことなのかもしれない。

ということは、この句に出てくる 「蚕飼ひ」 は、「蚕を飼って」 ということではなく、「牛飼い」 とかいうのと同様に、「蚕を飼う人」 ということだろう。その蚕飼いが、夜になってしみじみと言ったというのである。何をしみじみ言ったのかは、唯一郎のいつものスタイルで、全然つまびらかにされない。

ただ、庄内の山里で蚕を飼う老人 (多分老人なのだろう) が、しみじみと何かを語った。そのしみじみさ加減が、この句の命だろう。話の中身は想像するしかない。

ひそかに蚕室に入ればわが命いみぢく

これはまだわかりやすい。蚕室にひそかに入った唯一郎は、桑の葉をカリカリと食い続ける蚕たちに囲まれて、自分自身のいのちについて、強烈なインスピレーションをもってしまったのだろう。

薄暗い蚕室で、小さな命たちが強烈な波動を発しつつ生きている。それらのいのちと、自分自身のいのちの境目がわからなくなる。わからないからこそ、その境目を無理に見出そうとする。

そのために、ますます自分自身のいのちは 「いみぢきもの」 となる。

蚕棚の風呂敷はほぐされざる毎日

ああ、この句には困ってしまう。蚕棚に置かれた風呂敷包みって、一体何なのだ。ほぐされずに置きっぱなしになっているというのは、一体どういうことなのだ。

もしかしたら、「ああ、そうそう、昔の蚕棚には、何だか知らないけど、風呂敷包みが置かれていたものだねぇ」 なんていう人が出てきてくれたら、レビューしやすいのだが、そんなことは到底期待できない。

とにかく、風呂敷に何か包まれているのである。養蚕に使う道具か何かだろうか。しかし、その風呂敷包みは長らく開かれたことがない。多分風呂敷の柄も色褪せているのだろう。

ちなみに、風呂敷などの結び目をほどくことを、酒田では 「ほぐす」 という。方言というほどでもないが、普通は 「ほどく」 というところだろう。そういえば、酒田出身の詩人、吉野弘に 「ほぐす」 というタイトルの作品がある (参照)。

確かにこの場合、「ほどかれざる」 というより 「ほぐされざる」 という方が、謎っぽくていい。セピア色の疑問も緊張も、ほぐされないまま残る。

色褪せた風呂敷包みが長らく置かれたままの蚕棚。その中で蚕は刻々と育ち、繭を作って糸になる。そして翌年もまた同じ繰り返し。何も変わらず、時だけが静かに流れる。

風呂敷が 「ほぐされる」 ことは、これからもない。ただ棚に置かれたまま。

本日はこれぎり。

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2009/03/07

WBC には感情移入しにくい私

WBC がいつの間にか始まってしまっている。私は野球というスポーツに、なぜか感情移入しにくいタイプのようで、今回も申し訳ないが、我ながらシニカルな態度である。

盛り上がってる人は、日本の連続優勝を夢見ているようだが、多分無理だろう。そもそも、前回の日本優勝はできすぎだったと思う。

「サムライ・ジャパン」 はそれほど強いチームじゃない。初戦で中国を相手に、ようやく勝っているようなチームである。第 2ラウンドには当然のごとく出場できるだろうが、そこから先はよほど運がよくなければ勝ち上がれないだろう。

そもそも、3年前だって 「瓢箪から駒」 みたいな幸運で準決勝に勝ち上がったのである。(参照 1参照 2)それまでの第 1ラウンド、第 2ラウンドのリーグ戦における日本チームの戦績は 6戦して 3勝 3敗。勝率は 5割でしかなかったのだ。

準決勝に勝ち上がった他の 3チームは、韓国 6勝 0敗、ドミニカ 5勝 1敗、キューバ 4勝 2敗。日本は、「何でここにいるの?」 と言われてもおかしくない、お恥ずかしい戦績でたまたま勝ち上がったのである。

そんなチームが最終トーナメントで幸運にも続けて 2勝できたために、優勝してしまった。そもそも、この時の準決勝というのがおかしい。私は 3年前の記事 (上記の 参照 2) で、次のように批判的に書いている。

フツーの常識だったら、準決勝は、2つのリーグ戦組の 1位と 2位が対戦することになるのだろうが、今大会では、そうした常識は無視され、同一組の上位 2チームの対戦となっている。これだったら、トーナメントの準決勝というより、リーグ戦の 2つの組のプレーオフで、勝った方が決勝進出という方がわかりやすい。

この妙なシステム (参照) のおかげで、第 1、第 2ラウンドで勝率 10割だった韓国は、準決勝で初めて日本に 1敗したために、決勝に出られなかった。私は韓国贔屓というわけじゃないが、この時ばかりはつくづく気の毒に思ったものである。

今回は少しシステムが変わったみたいで、第 1、第 2 ラウンドは、リーグ戦方式ではなく、ダブルエリミネーション方式になって (参照)、2回負けるまでは敗者復活戦に出ることができる。

つまり、勝率 5割でも、うまい具合に勝ったり負けたりすれば、準決勝まではいける。圧倒的な強さがあるわけではない日本には、少しありがたいシステムだろう。

だが準決勝は、異なった組の 1位と 2位が戦うという、ようやく世間の常識通りのシステムが採用されている。これで、余計な 「まぎれ」 的要素が入り込む余地が、少しは減った。日本はせいぜいここまで止まりという気がする。

とはいえ、野球というのはちょっとした成り行きの変化で勝負がひっくりかえるスポーツである。なにしろ、日本のプロ野球だって、優勝チームは 10回やって 6回勝ったわけじゃなく、最下位チームだって 10回やれば 4回ぐらいは勝てるのである。

今回も、いろいろ思いがけない要素 (前回のヘボ審判、ボブ君みたいな) がちりばめられれば、少しはおもしろくなるだろう。しかし順当な結果の積み重ねみたいなことになれば、野球ファンの方々には甚だ恐縮だが、サムライ・ジャパンは途中で討ち死にするだろうと、書いておくことにする。

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2009/03/06

ネット・ブックに期待

レノボが 4万円を切る価格で、バッテリー駆動 6時間以上のネットブックを発表した (参照)。OS は Windows XP Home Edition。

スペックを見ると、モバイル用途でなくても、ごくフツーのライト・ユーザーだったら、これで十分じゃないかと思う。4~5年前のデスクトップに劣らないんじゃあるまいか。

近頃、低価格のネットブックがずいぶんフィーチャーされている。私はヘビー・ユーザーだから、次回購入の選択肢には入らないけれど、ライトユーザーには十分オススメである。自宅のデスクトップで使うなら、あり合わせの古いディスプレイにつなげば画面の小ささも問題じゃなくなるし。

もはや PC はビジネス・マシンではなく、コモディティ商品である。家庭に 1台どころか、個人に 1台という時代だ。個人に 1台となると、MS Office なんて高いソフトはいらない。互換のオフィスセットでも贅沢すぎるぐらいのものだ。

我が家の娘たちの PC の使い方を見ていると、ワープロやスプレッドシートを起動させることなんて滅多にない。ウェブ・メールを使っているから、メーラーだって要らない。単に情報収集とネット・オークションのための道具である。

事務系のややこしい仕事を自宅に持ち込むのでもない限り、こんなもんで十分なのだ。それでも、走らせようと思えば、Word だって Excel だってちゃんと走るのだし。

私は、このネット・ブックの市場が広がることを期待している。そうすれば、Windows XP クラスの OS の寿命が延びる。Vista なんて無用の長物だ。それどころか、ネットブック向けに特化した XP より軽い OS が進化する可能性だってある。

こうした安い情報機器が進化して、本当に誰もが気軽にケータイの小さすぎる画面でなく、まともに情報が読み取れる画面でインターネットができるようになれば、コミュニケーションはとても楽になる。

ちょうどタイミングよく、世界はデフレである。Windows が重厚長大方向に無駄な進化をし続けてきたのは、米国経済がずっとバブルだったからだと、私は思っている。多くの人が身の丈以上の無駄な投資を、PC の世界ではしてきたのだ。

経済環境ががらりと変わった今、ネット・ブックが普及すれば、ヘビー・ユーザーとライト・ユーザーが同じモデルを使うという、まるで全員がトヨタのクラウンに乗っているような無駄で馬鹿馬鹿しい PC 市場が、まともな状態に変わっていくだろうと思う。

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2009/03/05

検察も無粋なことをしたものだ

西松建設の違法献金問題に関して、小沢民主党はギリギリのギャンブルに出たようだ。これはものすごくハイリスクの対応である。

私は 2月 18日付の記事で、民主党は少しはリスクマネジメントについて認識が進んでいるかもしれないと書いたが、どうも買いかぶりだったようだ。

昨夜、小沢氏の記者会見の模様をニュースで聞いて、そのあまりの 「一点突破」 ぶりにかなりの危なっかしさを感じたが、今朝になって、案の定、検察サイドからいろいろな情報がリークされているのを聞いて、ますますその感を深くした。

検察側は否定しているが、彼らが非常に政治的な動きをするのは昔から知れたことである。それぐらいは覚悟しておかなければならない。昨年 6月、西松建設の外為法違反容疑が明るみに出た時点で、小沢一郎ともあろうものが、そのぐらい、わからなかったわけがない。

それがわかった時点で、小沢氏は健康問題とか当たり障りのない理由で、代表の座を降りておけばよかったのだ。それができなかったのは、自民党がガタガタなので総選挙をすれば確実に勝てそうだというアグレッシブな雰囲気が、彼のディフェンス感覚を鈍らせたためだろう。

野心が邪魔したのである。昔からこの人、攻めると強いが守りは下手だ。さらに言えば、田中角栄、金丸信と続いた金銭疑惑の系譜を彼もしっかり受け継いでいたわけで、これはもう、「宿業」 なんじゃあるまいかとまで思ってしまう。

まあ、政治家がいろいろなところからいろいろなトンネルを通して献金を受け取っているのは、今回のケースに限らないことだろうが、西松 - 小沢 というラインは、ちょっと目立ちすぎだったのかもしれない。日本という国は、ちょっとだけならお咎めなしだが、調子に乗りすぎると捕まる。スピード違反と同じである。

これで総選挙になっても、有権者としては積極的に投票したいという気になる政党がなくなってしまったわけで、情けないことである。検察も無粋なことをしたものだ。

この 「検察も無粋なことをしたものだ」 という感覚が日本中で共有され、とくにマスコミがそのへんのことを臭わせたりすると、政権交代の芽は消えずに済むだろうが、どうなるかなあ。

ちなみに私は、積極的には自民党支持でも民主党支持でもなく、いわば 「政権交代がないとろくなことにならない」 という考えの支持者である。だから、選挙では時々ヒヨる。

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2009/03/04

またしても、エスカレーターの乗り方を論じる

2月 28日の 「エスカレーターの乗り方から政治をみる」 という記事に、予想以上の反応があって多くのコメントがついている。

私の意図はタイトル通り、そこから日本の政治の状況をみるということだったのだが、「エスカレーターの乗り方そのもの」 に対する反応も多い。なかなかの難問のようなのだ。

エスカレーターの乗り方というのは、それぞれに自己主張があって、しかもそれぞれがその自己主張を通すと、全体の効率的流れや安全性に支障をきたしてしまう。これが一番の難しいところで、それをどう解決するかがポイントだ。

私は個人的には、「なんで、エスカレーターだからといって、みんなわざわざ止まってしまうんだろう?」 と疑問に思っている。「それまでデフォルトで歩いてきてるんだから、エスカレーターだからといって、わざわざ止まる必要ないじゃん」 というのが私の立場である。これは、暴論かもしれないが、あくまで個人的な感慨なのでお許しいただきたい。

私がエスカレーターで止まらないもう一つの大きな理由は、あのごちゃっとした中に埋没して自由に動けないという状況が、大嫌いだからである。「どうしてみんな、わざわざ人混みの中に埋没したまま、じっと止まっていられるんだろう?」 と思ってしまうのである。私なんか、そのままではわなわなしてしまうので、とにかく早く脱出したいのだ。

とはいえ、私とて歩くのが大変で疲れるという人がいることはちゃんと理解している。また、2月 28日の記事のコメントでヒロさんがコメントしてくれたように、「エスカレーターは 『乗り物』 と思っていて、乗り物だから止まって乗るのが当然」 と思っている人がいても、それは全然構わないのである。

ただ、そうした人たちは、ちゃんと片側で止まっていてくれればいいのである。ステップの両側を塞いで、急いでいる人や、歩くというデフォルトをくずしたくない人や、人混みに埋没しているとわなわなしてしまうタイプの人の邪魔をして欲しくないという、それだけの話なのだ。

ここまでくると、「どっち側に止まって乗るか」 が問題になる。大阪は国際スタンダードで右側に止まるが、関東は左側に止まる。この違いに関して、私は大分前に考察している (参照) が、改めてここに書いてみたい。

心理学者によると、人間は自然の状態では左へ左へと進む傾向があるというのである。映画館なども、左側の席から早く埋まる傾向がある。つまり、左側に行くのが自然なのだ。

そう考えると、東京では 「エスカレーターでは立ち止まるのが当然」 と思われているので、堂々と左側で静止する、さらに言えば、歩いて昇る 「無礼者」 なぞに気をつかうことなく、平気で一杯に立ちふさがってしまうのである。

ところが、大阪ではエスカレーターで立ち止まる方が 「異常なのんびり屋」 ということになってしまうので、「大阪的正常」 である 「いらち」 は、自然に堂々と左側を歩いて昇る。のんびり屋は 「正常な "いらち"」 に気を使って、不自然な方の右側で小さくなって止まっている。

まあ、普通の解釈は大阪万博の際に、どっと訪れる外国人に違和感を生じさせないために国際スタンダードを奨励したということになっているようなのだが、お上の言うことなんて素直に聞きたくない浪花の世界のことだから、私の解釈もかなり当たっているんじゃないかと思っている。

私はエスカレーターの乗り方に関しては、圧倒的に大阪人に共感するものであると、ここで明確に態度表明をしておこう。

ただ、問題は関東では 「のんびり屋」 が多いので、偽浜っこさんがコメントで指摘してくれているように、右側はガラガラなのに、左側に乗る人がエスカレーターの手前で列を作って待つという状況が生じることである。横浜ではとくによく見られる現象のようだが、搬送効率的にみれば、これは確かに具合が悪い。

ただ私は個人的には、左側に止まって乗るためにちょっと待ってまで、急ぐ人のために右側を空けるというのは、美しいマナーだと思っている。どうせエスカレーターは、センサー付きでもない限り常に動いているのだから、搬送効率は少し落ちても、エネルギー効率が損なわれるわけではない。

つまり、一定時間内に大量の人をはけさせなければならないという、切羽詰まった状況でもない限り、大した不具合はない。本当に切羽詰まった状態なら、言われなくても全員歩いて昇るだろうし。

待つのがいやなら、空いた右側を歩いて昇ればいいだけの話で、その選択を妨げる要素はまったくないのに、左側で待つというのは、無意識的ではあるかもしれないが、その状況に甘んじるという美しいマナーの表明である。それはそれでいいじゃないかと思うのだ。そのくらいにマナーが徹底されれば、当然事故も少ないだろうし。

前にも書いたように、一番危ないのは、ステップのどちらにいるべきかにまったく無頓着な大勢ののんびり屋の間隙をぬって、急ぎたい人が強引に駆け上るという状況なのだ。どうしても急ぎたい人のためのレーンがきちんと確保されていれば、事故は減る。

全員ぼうっとして両側を塞ぐべきか、きちんと意識的にレーン分けするかは、これはもう、思想とか人生観とかの違いと言っていい。その調整をいかに図るかが、マナーというものである。

「エスカレーターは止まって乗るためのものだから、歩きたかったら階段を昇れ」 なんていう人もいるが、それは私の主張以上の暴論だと言わせていただく。マナーが徹底されれば、私のようにエスカレーターからなるべく早めに脱出したいと思っている人間は、さっさと右側を歩いて昇れるのである。まことにありがたいことである。

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2009/03/03

『唯一郎句集』 レビュー #10

『唯一郎句集』 レビューもこれで 10回目になった。「朝日俳壇」 時代の新進気鋭自由律俳句作家としての句が続く。

前回の春から初夏にかけての句から、多分夏から秋にかけての句に続く。なにぶん自由律の句だから、季節に関してはあまり明確ではないが、多分そうだろうということである。

この頃の句はもう、かなりすごいことになっている。当時の読者にはものすごく斬新に受け止められただろう。天才的と言ってもいい。シュールすぎてそのレビューはなかなか大変だが、乗りかかった舟である。とりあえず始めよう。

野茨の前に投げ出したものの夕陽いちめん

前回のレビューでも、山王祭の帰り道に野茨が咲いている光景があったが、今回も多分、その辺りの風景だろう。

夏の夕方、まだ日射しは強く、赤い。夕焼けになっているのかもしれない。その強烈な夕陽の中で、野茨の前に何かを投げ出したのである。一体何を投げ出したのか。

癇癪を起こして鞄の中身を投げ出してしまったのか。俳句を書き留めた紙を投げ出したのか。いずれにしても、投げ出されたものは夕陽の中に散らばったまま動かない。

それを見ながら、野茨の前で立ちつくす唯一郎。唯一郎は投げ出された物からも見上げられている。

醜い女教師の朝寝よ枕辺の団扇よ

かなり辛辣な句だ。暑苦しい雰囲気が漂う。この句に詠まれた女教師は気の毒である。多分、唯一郎はこの女教師が嫌いだったのだろう。

夏休みの頃だろうか。醜い女教師の朝寝。枕辺には団扇が放り出されている。唯一郎の句には珍しく、即物的で自然主義的ですらある。

黒い襟巻の伯母が鰊の煙の中にて叫び

この 「黒い襟巻の伯母」 のことも、少なくとも好きではなかったのだろうと思われる。あまり美しい描写ではない。

ここに詠まれた 「鰊」 は、多分乾物の身欠ニシンだったろう。生のニシンなら 「春告げ魚」 の別名のごとく、春に登場するはずだが、句集に掲載された順番から推測するに、晩夏から秋にかけてのことのようだからだ。

身欠きニシンを焼いているのは、庭に出された七輪だろう。家の中で焼いたら、油っぽい煙が籠って大変なことになる。その立ち上る煙の中に、黒い襟巻をした伯母が現われ、何かを叫んだ。

あまりの煙にむせそうになって叫んだのか、何か他のことに叫んだのか、何も説明はない。ただ油っぽい煙の中で、黒い襟巻の伯母が叫んだのである。こうして句に詠まれた伯母も、気の毒である。

鰊食った児がひとりあそびの石投げ

文字通り読めばそれっきりの句だが、それにとどまらない何かを感じさせる。

焼いたニシンを食うのは、多分夕食だ。秋の日暮れは日増しに早まる。一人遊びの石投げといえば、それは川原である。川に向かって石を投げ、水面をジャンプさせたりする。

近くを流れる新井田川 (にいだがわ) の土手から、川面に石を投げる。何度も投げる。石は二~三回川面を跳ねる。流れは間もなく日本海に注ぐ。その彼方には、真っ赤な夕陽。

淋しい一人遊びの背景は、意外なほどに雄大なのかもしれない。子どもは小さな点のようなシルエットになり、夕陽に溶け込む。

本日はこれぎり。

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2009/03/02

【業務連絡】

2月 25日から 3月 2日まで、インターネット接続のしにくいところに出張します。

この間、ブログの方は自動更新されますが、コメントへのレスは、帰宅後にまとめて行いますので、よろしくお願いいたします。

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『唯一郎句集』 レビュー #9

9回目の 『唯一郎句集』 レビューである。「朝日俳壇」 時代の句は、まだまだ続く。今回は本格的な春から初夏にかけての句だ。

5月頃のに作られた句だと思う。ここに詠み込まれているのは、酒田の一番大きな祭礼、山王祭の光景のようだからだ。ずいぶん歴史のある祭りなので、大正の頃も盛んに行なわれていたのだろう。

山車や神楽、縁日で賑わっていたのだろうが、人付き合いが苦手でふさぎがちなところのあった唯一郎は、手放しで祭りの中に溶け込んで楽しむことはなかったようだ。どこか他人事のように眺めている。

皿廻し 皿が春雨に濡れながらの午後

多分、山王祭の大道芸の様子だろう。山王祭の頃はお天気が長くは続かず、よく春雨が降る。雨の中で皿廻しが皿を廻している。

別に祭りの喧噪を嫌うでもなく、一応、街に祭り見物に出かけている。しかしその喧噪の中に溶け込んで一緒になって浮かれ楽しむわけでもない。皿廻しの皿が雨に濡れるのを、遠くを見るようにただ眺めている。喧噪も遠くから聞こえるようだ。

俺と一緒に映った顔よ 春雨の床屋の鏡

3回目のレビューにも、床屋の鏡の句が出てきた。唯一郎は床屋の鏡の中で、自分自身の姿よりもむしろその背後に映るものに注目する人だったようだ。

山王祭とて、さっぱりと散髪するために床屋に行ったのだろう。「俺と一緒に映った顔」 というのは誰だったのかは語られない。床屋のあるじだったのか、その後ろで順番待ちをしている客だったのか。それとも、春雨の降る店の外からのぞき込む人の顔だったのか。

鏡の中に一緒にはいても、なかなか親密に心を通わせることができない。

若い神楽師が何か淋しくて祭の街中

山王祭は今では 「酒田祭り」 なんていうしょうもない名称に変わってしまっている。400年も続く由緒ある祭りの名前を、いくら 「酒田大火からの復興を祝って」 とはいいながら、簡単に変えてしまうというのが、古いものや伝統を大事にしない酒田の人の困ったところである。

現在の祭りでも延年の舞や神楽が奉納されるが、大正時代にも近郷近在の神楽が奉納されたものだろう。唯一郎の目には、その神楽を奉納する若い神楽師が、何か淋しげに映った。

祭りの只中の異邦人と、祭りに溶け込めない異邦人の、触れあうことのない触れ合い。

歸りの野茨の道にて口なしとなるが悲しく

祭りの帰り道のことだろうか。今では日枝神社のある日和山と、唯一郎の家のある浜町は街並みとしてすっかりつながっているが、当時は途中の寺町を越える辺りは街並みが途切れていたのだろうか。どうやら道端にノイバラの咲くところがあったようだ。

そのノイバラが途中でクチナシに変わる。どちらも白い花で似てはいるが、クチナシの方は庭木として栽培されていることが多い。祭りの街中からはずれ、さらに歩いてまた自分の街に近付きつつある。

祭りを存分に楽しんだわけでもないが、その雰囲気から離れて日常に戻るちょっとした物憂さ。日常に戻るまでには、「死人に口なし」 の連想から、「ちょっとした死」 を経過しているのかもしれない。

本日はこれぎり。

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2009/03/01

天然繊維と静電気

ある肌着メーカーに、消費者から不可解なクレームが寄せられた。シルク 100%と表示された肌着を着ているのに、静電気で悩まされているというのである。

その消費者は、「天然繊維は静電気が起きない」 とテレビ番組で聞いたので、きっと虚偽表示に違いないと言うのである。

こういうクレームというのは、メーカーとしては本当に困ってしまうのである。まず、「天然繊維は静電気が起きない」 というのは、どのテレビ番組で聞いたんだか知らないが、そっちの方こそ 「虚偽」 である。

確かに天然繊維は合成繊維に比べて静電気を生じさせにくいが、「静電気が起きない」 というわけじゃない。乾燥したウールはポリエステルと同じくらいの静電気を生じさせることがあるし、シルクもその半分ぐらいだが、静電気を起こす。コットンはかなりましだが、それでも皆無というわけじゃない。

だから、静電気が起きるからといって、「シルク 100%」 の表示がウソだというのは、濡れ衣 (濡れ絹 ?) である。

それと、もう一つ、こっちの方がより重要なポイントだと思うのだが、その消費者は、「シルク 100%」 と表示された肌着だけで、あちこち歩き回っているわけではあるまいと思うのである。多分 (というか、そうでないと困るのだが)、肌着の上にいろいろな服を重ねているはずだ。

肌着の上に着ている服は、たとえウールやコットンなどの天然繊維でできていても、裏地はポリエステルという場合がとても多い。そうなると、湿度の低い状態では静電気が起きて当然なのである。

それなのに、どうして 「静電気に悩まされるから、『シルク 100%』 というのは虚偽表示に違いない」 という結論に短絡するのか、理解に苦しむのである。世の中というのは、思いこんでしまったら、その他の考えは浮かばないという人が、案外多いようなのだ。

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