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2009/04/11

『唯一郎句集』 レビュー #18

『唯一郎句集』 レビューの 18回目にして、「前後誌」 時代の後期に入る。「前後誌」 というのは、酒田の同人が句会を開いた際の 「句録」 であるとは、前々回述べたとおり。

今回取り上げる 4句は、秋の季節の句である。大正末期の庄内の秋である。手を伸ばせばすぐそこに自然の秋がある。

しかし、唯一郎が題材とする自然は、自然そのものを詠嘆的に詠むのではない。そこには人の営みが反映されている。しかも、その人の営みは 「哀しさ」 に満ちている。過酷とかいうのではない。しかし、人生の底流としての 「哀しさ」 である。

さっそくレビューに移ろう。

秋に入る山々の嶺よ砂を掘れば芋あらはるる

彼岸を過ぎれば庄内は秋になる。今のような温暖化の世の中ではなかったから、秋の気配ははっきりとしていただろう。空気が澄んでくるので、山々の稜線もくっきりとしてくる。

関東平野しか知らない人は、平野というのは広いものだと思っているが、日本の普通の平野はそれほど広くない。庄内平野も、海に面する西側を除けば、三方は山だ。その山々の存在感が迫ってくる。

そして、その足許の砂を掘れば芋が現れる。酒田は砂丘のど真ん中に開けた港町だから、砂地が多い。だから土ではなく砂なのである。さらさらとした砂を堀り、その砂がやや湿り気を帯び始めたあたりに、芋の連なりが現れる。

清涼たる稜線と、土中の芋。このコントラストを、映画のモンタージュのようにさっと表現してしまうのが、唯一郎の句である。

梅の木の青苔も秋陽をうけている女が出て来る

古い梅の木には青苔の生えていることが多い。だから、庭にそうした梅のある家も、昔から続く古い家である。

その家から女が一人出てくる。小津安二郎の映画に出てきそうな情景だ。この 「女」 がどういう女であるかは、まったく説明がない。まったくの他人かもしれないし、もしかしたら恋人かもしれない。

その辺りはまったくわからないというのがいい。この句に登場する 「女」 は、強いて単なる風景の中に収められている。それ以上の意味は、求めたくても求めないのがいいだろう。

うろくづおよぎすぐ秋川の一つところ

「うろくず」 とは、魚のうろこのことで、転じて魚そのもののこともそう呼ぶ。

若山牧水に 「瀬々走るやまめうぐひのうろくづの美しき頃の山ざくら花」 という歌がある。謡曲の 『放生会』 には 「うろくづの 生けるを放つ川波に 月も動くや秋の水」 という下りがある。

現代ではあまり馴染みのない古めかしい言葉だが、どうやら、魚は魚でも川魚というイメージだ。この句も、秋の川の情景である。

秋の川とはいえ、唯一郎の視点は川全体ではない。あるポイントを凝視している。泳ぎすぎる魚の影が時折ちらりと見える  「ひとつところ」  である。

魚影がちらりと過ぎる瞬間に、その 「ひとつところ」 に時間が凝縮される。この秋のこと。あるいは生まれてから今までのこと。さらに、これからの人生。そしてまた、営々と続く歴史。ありとあらゆる時間が凝縮される。

その 「ひとつところ」 にいる自分である。

茄子の実の小さくなりしかなしきひもじさ

秋が深まると、茄子の実も小さなものしかならなくなる。その時分のナス畑は、ちょっと淋しい。

「かなしきひもじさ」 と詠まれているが、飢えていたわけではない。それでも 「ひもじさ」 という言葉を使いたくなるような、生理的なまでの哀しみを感じたのは、常に体の中にある感慨が、情景の中にふと浮かび上がったからだろう。

今回はこれぎり。

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