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2009/05/15

「文系/理系」 という幻想

私はいつも自分のことを、「純粋文系」 で 「理系白痴」 だと言っている。一昨日の記事でも、「純粋文系」 として 「エラソーな理系」 に脊髄反射してしまった。

しかし、本当は自分でも、「文系」 「理系」 の区別なんて言うのは、かなりの部分で幻想に過ぎないと気付いている。

本質的には幻想に過ぎないとわかっていながら、皮相的な日常生活ではそれを踏まえるとちょっと便利というか、話が手っ取り早いので、つい多用してしまうということが多い。いや、多いというよりも、むしろそんなことばかりのような気がする。

便利だからと多用しているうちに、それは単なる方便にすぎないということを忘れて、あたかも厳然とした本質のように勘違いしてしまう。よほど注意しなければならない。

私の妹の夫は、中学校時代の国語の試験で、「この時の主人公はどんな気持ちだったか」 という設問に 「そんなことは、当人に聞かないとわからない」 と答えたほど、強者の理系だ。彼は 「理系の答えは誰が考えても一つだから信頼に足る。考える人によって答えの違う文系の学問なんて、わけがわからない」 と言う。

それに対して、私の体内に 「純粋文系」 の血を注ぎ込んだ私の父は、「誰が考えても同じなら、あえて俺がやる必要がないから、楽なものだ。そんなつまらんことは他人に任せて、俺は独自のことを考える」 と言う。私も大体同じような考えである。血は争えないものだ。

しかし、ちょっと深く考えると、「理系の学問は誰が考えても答えが一つ」 なんていうのは幻想だとわかる。理系の世界でも学者によっていろいろな説があって、盛んに論争が行われているではないか。

公明正大な論争で収まるならまだいいが、ちょっと裏をのぞくと、学者、研究者同士の足の引っ張り合いが日常茶飯事で、正しい者が勝つのではなく、声が大きくて政治力のある者が勝つなんていう、まことに理系の世界とも思われないことをいくらでも見聞きする。

私は複数の理系学者、研究者からそんなような悩みを打ち明けられた経験がある。彼らの中には、人間関係のストレスで神経症的になっている者さえある。それで、そのあたりは、「理系も文系も似たようなもんだなあ」 という印象を拭いきれないのである。申し訳ないけど。

まあ、こんな皮相的な話はおいといても、直接的な因果関係における不合理のみを取り上げて、理系が文系を批判するというケースは世の中にいくらでもある。

一昨日の記事のコメントで、蝠樂亭さんがおっしゃっているように、文系が情緒で 「エコ」 と思ってやっていることの中には、かなり多くの見当違いがある。それは本当のことで、文系の私がみても、「同じ金を使うなら、もっと考えろよ」 と言いたくなるようなケースが多い。これらは活動プロセスの中で柔軟に修正していかなければならない。

ただ、あきらかに見当違いで悪影響の方が大きいという場合は別として、「ちょっとした的はずれ」 みたいに見えることも、回り回って役に立っているということもある。少しぐらい見当違いでも、全体的なエコ意識を高める雰囲気作りには十分貢献しているということもある。

あるいは、もしかしてきっちり計算してみると、現段階ではエコ的にも逆効果の方が大きいかもしれないが、それを継続することによって技術が進歩して、ゆくゆくはきちんとした効果が上がると思われることもある。

なにしろ、世界は複雑系なので、直接的な因果関係だけの合理性を追うだけでは、本当のことは見えてこない。そして検討範囲を広げてしまえば、数値は曖昧にならざるを得ない。そうなると、突き詰めれば文系も理系もないのである。

私はいつも、「人間の歴史とは、限りなく多くのうんざりするような要素がとぐろを巻くようにからまりあって、こけつまろびつ進むもの」 と言っている。とことん合理的なことなんて、あり得ない。「めげずに試行錯誤しつつ、ちょっとずつでも改良していけたらいいね」 という世界なのだ。

理系の理想は、アイデアとしては唱えられても、現実の運用段階で必ずノイズが入りまくって、結局は実現しきれないのだ。悪いけど。まあ、理系だけじゃなく、経済学者のいうことも同じようなものなのだが。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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コメント

「理系の学問は誰が考えても答えが一つ」
 大学学部くらいまでなら成り立つと思います。大体確実にわかってることしか、おっかなくて教えられません。
意見の大きく分かれることを教えると、後になって実は間違いでした、ということもありえるので。
 研究室に所属するようになると学者によって意見の分かれるようなことや、未発見の現象を扱うようになります。
理系の醍醐味はこの辺にあります。誰が考えても同じになるようなことなんかわざわざやるのはアホらしい。

まあ、それはおいといて。

「理系の学問は誰が考えても答えが一つ」
 理系というか、科学の信念みたいなものかもしれません。科学は誤り訂正機能を持ったシステムだからです。大体以下のような仕組みで、誤った仮説や不十分な仮説は訂正されます。

1.Aさんが仮説を思いつく。

2.Bさんの実験結果がそれを支持する。

3.Aさんの説が主流になる。AさんとBさんは学会の大物になる

4.CさんがAさんの説に疑問を持つ

5.DさんがBさんの実験の精度を上げると、Bさんの実験とは違う結果になった。AさんとBさんが反論する。

6.Eさんの行った実験もDさんの結果を支持する。AさんとBさんも内心は自分の説が間違いだったことに気づくが、後には引けない。

7.すったもんだの結果、Cさんの説が主流になる。C.D.Eさんが学会の大物になる。

8.FさんがCさんの説に疑問を持つ。

 5.6.7あたりの過程で捏造データが出てきたり、面子の潰れることになる大物が抵抗したり、いろいろ楽しいことが起きますが、最終的にはより確からしい説に落ち着きます。時間はかかりますが。下手したら大物が死ぬまで(笑)
 ともかく、こうやってどんどん仮説の精度を上げていけば、漸近的にたった一つの真理に近づいていくのだろう、というのが科学の考え方です。

投稿: 私も理系かな | 2009/05/15 23:00

途中で送信しちゃいました。

ともかく、こうやってどんどん仮説の精度を上げていけば、漸近的にたった一つの真理に近づいていくのだろう、というのが科学の考え方です。

>私はいつも、「人間の歴史とは、限りなく多くのうんざり>するような要素がとぐろを巻くようにからまりあって、こ>けつまろびつ進むもの」 と言っている。とことん合理的>なことなんて、あり得ない。「めげずに試行錯誤しつつ、>ちょっとずつでも改良していけたらいいね」 という世界>なのだ。

  そういうわけで、まさに理系もこのような考え方なのです。ちょっとずつの進化と改良ですね。所詮人間の集団ですし。

投稿: 私も理系かな | 2009/05/15 23:05

理系とは何?と言うことについて。

私自身は自分は理系だと自覚しているのですが、どこがどう理系なのかと言うことを考えてみると、その一番肝になる部分は「疑問を”解く”ことに興味を持つ」ことではないかと思います。逆に言えば、すでに解かれた疑問には(それを利用して新たな疑問を解くことに利用する以外では)興味ないということ。
得られた結果は役に立てて欲しいけれど、自分の興味は次の疑問に移っていると言う感じです。

では、文系とは?というと良く解らない(^^;)
でも、研究によって得られた成果(理系の人はすでに興味を失った)を役立てるのは彼らの方が長けている(で、結局お金は文系の人のもとに行く)

そういう風に考えればお互い補完し合う関係という風に考えられます。

投稿: 蝠樂亭 | 2009/05/15 23:32

私も理系かな さん:

>6.Eさんの行った実験もDさんの結果を支持する。AさんとBさんも内心は自分の説が間違いだったことに気づくが、後には引けない。

このあたりが、とてもおもしろいところだと思います。
科学者が科学者になりきれないところで。

>ともかく、こうやってどんどん仮説の精度を上げていけば、漸近的にたった一つの真理に近づいていくのだろう、というのが科学の考え方です。

「俺が正しい」 と主張する人が多くいて、人の数ほど主義主張があるのが文系みたいですが、それでも、大きな視点でみると、科学の考え方とそれほど大きな違いがあるわけでもない進み方をしていると思いますよ。

本当に、それほど対立的なほどの違いなんてないのでしょうね。

投稿: tak | 2009/05/16 18:18

蝠樂亭 さん:

>でも、研究によって得られた成果(理系の人はすでに興味を失った)を役立てるのは彼らの方が長けている(で、結局お金は文系の人のもとに行く)

文系は文系で、「結局お金は理系の人のもとに行く」 と思っているところがあります (^o^)

投稿: tak | 2009/05/16 18:20

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