『唯一郎句集』 レビュー #37
『唯一郎句集』 の 「群像」 時代の句のレビューを続ける。「群像」 というのが何なのか、まだわからない。このままずっとわからないかもしれない。
今回の 3句は、夏の句が 1句、冬の句が 2句である。並び方はずいぶん前後があるような気がするが、仕方がない。
もしかしたら、この句集に収められた句の並び方は、時系列的にみると、かなり大雑把なのではないかとも思う。何しろ、唯一郎は句帳をもたなかった人で、ほとんどの句が読み捨てであり、周囲の人間が記録しておいたものをまとめたものなので、こうなるのももっともなことなのかもしれない。
そこにいくと、私の 「和歌ログ」 などは、整理しやすいことこの上ない。問題は後世に残す意味があるかどうかということで、そのあたりは自信がないのだけれど。
さて、レビューを始めよう。
そうびの鉢は母に持たして夏雲の真下に並び
「そうび」 というのは 「薔薇」 のことだろう。俳句の世界では夏の季語として用いられる。度々指摘するが、唯一郎は自由律の句人なのに、時としてわざとでもあるかのように、古い言い方の季語を好んで用いる。
薔薇の鉢を母に持たせて、夏雲の下を歩いている様子である。唯一郎は時々母への親愛の情を句にしている。孝行息子であったと伝えられる。
冬の川波夜をこめて瀬の夫婦ら祭りす
この句の 「瀬」 というのは、暫定的な表記である。句集では、この字の 「へん」 の部分は 「牙」 という字に見えないこともない。「雅」 という字のへんである。
ところが、「牙」 と 「頼」 を組み合わせた漢字というのはワープロで変換できないし、手元の漢和辞典で探しても見当たらない。仕方がないので、とりあえずは 「瀬」 ということにしておく。
庄内の冬は、風が厳しい。冬の川波の立つ瀬で、夫婦らが夜通し祭りをするというのである。どんな祭りだからは、全然わからない。
庄内の冬の祭りといえば、黒森歌舞伎と黒川能が思い出される。黒森歌舞伎は日中に演じられるが、黒川能は、2月 1日の王祗祭で夜通し演じられる。もしかしたら、このことを句にしたのかもしれないが、よくわからない。
いずれにしても、田舎の純朴な冬の夜祭りの情景を句にしたものだろう。自らの感傷から距離を置いて、客観的な風景として人間を読み込む手法が、目立ってきている。
大寒の壁をじつと見つめて居る冷ややかな傷心
自らの感傷から離れた風景描写のような句を読む一方で、やはり唯一郎らしい感傷的な句も消えてしまったわけではない。
庄内の冬は寒い。大寒の壁は多分、白壁であったろう。それは氷のように冷たい。それをじっと見つめていると、自分の心まで冷え冷えとしていることに気付く。
ところどころに生活の染みが浮いていても、それら全てが氷の冷たさであるというのが、また哀しい。
本日はこれぎり。
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