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2009/06/06

『唯一郎句集』 レビュー #30

先週はちょっとしたホットトピックがあったため、週末の恒例の 『唯一郎句集』 のレビューをスキップしてしまった。今週は頭を冷やす意味でもきちんとレビューしてみよう。

今日と明日とで、「酒田俳壇」 時代と分類された章を終えるつもりである。何となく内向きの感覚の濃い 1~2年だったと思う。

それは、唯一郎が父を亡くし、密かに思い描いていたであろう 「俳句で身を立てる」 という希望を諦め、家業を継ぐ決心をした時期でもあるからだと思う。大きな夢を諦めたことによる拍子抜けの気分があったのではなかろうか。

しかし、家業を継いでも俳句は作り続けることができる。本格的に中央に登場する野心さえ諦めれば、文芸趣味は捨てずに済む。それに気付いたことで、唯一郎の心はある種の安定を得ることができたのかもしれない。ただ、その安定とは、大きな欠損を包含したものだったようだ。

母が手を焙る我が手をあぶるくらし行こうぞ

近頃では火に手をかざして暖めることを 「あぶる」 とはあまり言わなくなったようだが、庄内弁では今でも普通にそう言う。この句で 「手を焙る」 と言っているのは、おそらく火鉢で手を暖めることである。

寒さの増した冬の日、寡婦となった母が火鉢で手をあぶる。それに向かい合うようにして、唯一郎も自分の手を火鉢にかざす。とりたてて重い会話が交わされたわけではなかろうが、母と子は 「くらし行こうぞ」 という共通の思いを確認し合う。

ただ、暮らして行くことが大切なのだ。夢を追うとか希望を実現するとかいうことよりも、ただひたすら慎ましく、くらして行こうというのである。

歳晩の夜の火鉢を抱き泣けなくなるかな

「歳晩」 とは、年の暮れ、年末のこと。しんしんと寒さを増す庄内の冬、火鉢に手をかざして、行く末を思う。早くに父を亡くして、家業を継ぐことになった身を思う。

本格的に俳句で身を立てることは、既に諦めた。それは決して恨みに思うようなことでもない。ごく自然の思いではある。

泣くほどの悲劇ではない。悲劇ではないが、ただ、そこに大きな欠落感が残ることは否定しようもないことである。

ある時の親鸞はかくもかなしく雪国の炭火ふきけんや

唯一郎の家の宗旨は浄土真宗である。唯一郎も時に仏前で自ら阿弥陀経を読誦した。

親鸞は叡山を降りて法然に師事し、後に越後に流された。越後の冬はさぞ辛かっただろう。そして庄内は越後よりなお北に位置するのである。この庄内で家業の印刷屋を継ぐことを決意した唯一郎は、火鉢の炭火を吹きながら、親鸞の哀しみを想う。

ある別の力によって、今いる境遇に押し込められているような気がする。決して自分が進んで選んだわけではない境遇である。

いつの間にか子をうんで居る夏帽の裏の汗の臭

この句はどう解釈したらいいのだろう。いつの間にか自分が父親となっていることを言っているのだろうか。

自分の人生は、既に普通の家庭人の領域に足を踏み込んでいる。浮き世を忘れて俳句づくりに没頭した頃は、遠い昔のようだ。それはあたかも、冬を迎えてから、夏帽の裏にわずかに残る汗の臭いをかぐようなものだ。

本日はこれぎり

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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