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2009/07/15

梅雨明けを巡る冒険

一昨日の夕刻に涼しい北海道から帰ってきて、羽田に降り立ったらあまりの暑さと湿度に驚いたが、関東甲信越は昨日で梅雨明けしてしまったのだそうだ。

私は今年の梅雨は長引くと思っていたので、この梅雨明け宣言にはちょっと虚をつかれたような心持ちになってしまっている。

私はもう一つの道楽ブログ 「和歌ログ」 で、先月の 19日にこんなことを書いている。(参照

今は水の季節である。旧暦でいうとまだ五月であり、それ故に梅雨は 「五月雨」 という。 今年は閏五月があり、つまり旧暦五月が二月連続する。梅雨が長引くんじゃなかろうかと思う。

今年は閏五月が入るぐらいなので、先月までは新暦と旧暦の差が詰まっていた。旧暦 5月が早く来たので (旧暦からみれば、新暦の進行がとろかったので)、梅雨入りが早く見えたのも道理である。そして、その 1週間後に次のように書いている。(参照

(旧暦では) 今日は二度目の五月の四日だ。梅雨 (五月雨) の月が二ヶ月にわたるのだから、休み休みやらないと、息切れしてしまうのだろう。あと二十日間ぐらい五月が続くから、普通の暦ではうまい具合に来月の半ば頃に梅雨明けしてくれるだろう。

つまり、今年はちょっと早めに梅雨入りしたので、時々中休みしながら、旧暦閏五月の終わりかける新暦 7月半ば頃に梅雨明けするだろうと書いている。

閏月があると天気まで変わるのかという人もいるが、旧暦というのはかなり厳密に計算してあって、閏月も単に適当にはさみこまれているわけではない。詳しくはどうなっているのかわからないが、冬場に閏月があるとその年は厳冬で、夏場に閏月があると猛暑だったりするからおもしろい。

で、ご覧の通り、今年の梅雨も書いたとおりの結果なので、文句ないのである。文句ないのだが、「梅雨が長引くだろう」 と書いた手前、本当のところは、旧暦 6月 1日にあたる 7月 22日頃に梅雨明け宣言になってくれるのが一番気分がいいのだ。1週間分の忸怩たるものがある。

天気にわがままを言ってもしょうがないのだが、今年は梅雨入りが少し早かったので、まあ、決して短くはなかったとしても、要するに 「長引く」 というほどではなかったのが、ちょっと心残りなのだ。

と、こんなとりとめもないことを思っていたら、今日の朝の TBS ラジオでお天気キャスターの森田正光さんが、少し心強くなるようなことをおっしゃっていた。

西の方の気象台のこの分野の担当者は、「関東は先走ったな」 と思っているに違いないというのである。週末からまた少しは雨が降りそうなので、その後に梅雨明け宣言してもおかしくないだろうということなのだ。

確かに、今回の梅雨明けは、沖縄と南九州の梅雨が明けてから、西日本をすっ飛ばして関東甲信越が先行している。全国的には、梅雨前線の影響からはまだ抜けきっておらず、梅雨が明けたというのは、本州では関東甲信越に限った話なのだそうだ。

ふぅん、ということは、私の思いこみは、旧暦時代の都があった関西を含む全国レベルの視点では、まだ生きているというわけね。これで、少しは胸のつかえが降りたような気がする。

ただ、もっと根本的なことを言ってしまうと、何月何日をもって 「梅雨入りした」 だの 「梅雨が明けた」 だのと区切ってしまうというのは、おかしいといえばおかしい。相手は自然のことなのだから、いつの間にか雨っぽい季節になって、気付いた時には真夏に移行していたというのが本当のところだろう。

その意味では、「脳死をもって人の死とする」 というのに馴染めないのと同じだ。本当のことを言えば、人は徐々に死に至るのである。時代劇で悪漢に切られた娘が主人公に抱きかかえられ、思いのたけを言い終わった瞬間に、「はい、今死にました」 とわからせるために、がくっとなっちゃうというような、人間の都合に立脚した 「様式的」 なものじゃない。

「ご臨終」 の宣言は、遺族に納得させるためのものであって、本当の生物学的な死は、デジタルに区切られるようなものではないはずだ。「法律的な死」 の宣言が下されても、まだ心臓が動き、触れば暖かい人間の遺族は、「この人死んだから、臓器をください」 と言われても、「わかりました。じゃあ、さっさと取り出して」 とは応えにくいだろう。

梅雨入り宣言が出された翌日に、すぐに梅雨の中休みになってしまっても、「まだ梅雨じゃねえじゃねえか!」 で済むが、脳死の問題はそれよりずっとつらいものがある。

毒を食らわば皿まで・・・本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」へもどうぞ

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自然・環境」カテゴリの記事

コメント

福島は梅雨明けはまだですが、今日は午前中で既に35度と猛暑日です。
そもそも、桜の開花日にしても梅雨入り梅雨明けにしても、自然の線引きにこれほどこだわる民族って、日本以外にあんまりいないんじゃないですかね。

脳死の問題については、本当に厳しいですね。
私は、身近な親族の経験から、長い間意識も戻らない人の看護というのが、非常につらいものという思いがありまして、何となく、看護する側の気持ちに区切りをつけるという点では、脳死の定義というのは意味があるのかなと思います。
それでも、実際にそれを使うかどうかの段になると迷いに迷ってしまうんでしょうね。

投稿: 雪山男 | 2009/07/15 12:47

臓器移植法改正A’案が「移植に限り人の死」とする内容で成立しましたね
私は「法律としては」、これでいいと思います

ただ、法律は法律として、個人的には、人の死の判定基準や、臓器移植という方法そのものの妥当性については、複雑な思いがあります


投稿: alex99 | 2009/07/15 15:36

雪山男 さん:

>そもそも、桜の開花日にしても梅雨入り梅雨明けにしても、自然の線引きにこれほどこだわる民族って、日本以外にあんまりいないんじゃないですかね。

長期間にわたる気候変化の統計をとるための単なる目安なので、単年でそれほどの意味があるってわけじゃないんですけどね。

>私は、身近な親族の経験から、長い間意識も戻らない人の看護というのが、非常につらいものという思いがありまして、何となく、看護する側の気持ちに区切りをつけるという点では、脳死の定義というのは意味があるのかなと思います。

う~ん、意識が戻らずに寝たきりという状態と、脳死というのは、また別なのかもしれませんが、確かに看護は辛いですね。

ただ、脳死判定の時点で、「もう諦めた」そしてほぼイコールで 「やっと開放された」 ということになるということはあるでしょうね。

本当に 「死」 というのは大変なイベントです。人は誰でも必ず、そのイベントを主催するわけですけどね。

投稿: tak | 2009/07/15 15:59

alex さん:

>私は「法律としては」、これでいいと思います

>ただ、法律は法律として、個人的には、人の死の判定基準や、臓器移植という方法そのものの妥当性については、複雑な思いがあります

私は、臓器移植ということについてまだ明確な考えをもっていません。

自分自身は、人の使い古しを使ってまで長生きしようとは、決して思いません。

ただ、生まれて間もない子どもが、臓器移植をしないと生きられないというケースについては、非常に複雑な思いがあります。

あくまでも個人的な考えですが、「臓器移植をしなければ生きられない」 とは言っても、「臓器移植さえすれば、必ず長生きできる」 というわけではないということを、人々はあまりにも軽視していると思います。

非常に乱暴な考えかも知れませんが、「どうせ必ず死ぬんだから、早いか遅いかの違いに過ぎない」 と思っています。

というわけで、私は臓器移植ということにも積極的支持をしたいとは思いません。

しかし、「死んだら臓器をあげる」 という人がいて、「死んだ人から臓器をもらってでも生き延びたい (生き延びさせたい)」 と思っている人がいる以上、まったく否定するつもりもありません。

私は輸血や透析まで否定するエホバの証人じゃないので、「やりたいんならどうぞ」 ということです。

ただし、「そんなに金かけてでも生き延びたいか?」 というのが本心です。

ちなみに、臓器移植って、金かかりそうですよね。

投稿: tak | 2009/07/15 16:15

>自分自身は、人の使い古しを使ってまで長生きしようとは、決して思いません。

>しかし、「死んだら臓器をあげる」 という人がいて、「死んだ人から臓器をもらってでも生き延びたい (生き延びさせたい)」 と思っている人がいる以上、まったく否定するつもりもありません。

同感ですね。ただ、自分の場合は否定しないというよりは、望んでいる人たちに対してきちんと環境を整えてあげるべきだと思っていたので、今回の法案にはおおむね賛成です。

脳死判定で間違わない体制と基準を確立するとともに、遺族に対して不適切な圧力がかかることのないようにしていくことが大事なんじゃないでしょうか。

海外ではずさんな判定のせいで、脳死でない人から間違って臓器を取り出しそうになった例もあるようですが、本当にしゃれになりません…。

投稿: ぐすたふ | 2009/07/15 19:06

tak-shonai さんの禅宗的死生観はよく理解できます

ただ、一般的に自分の幼い子の命が風前の灯で、臓器移植さえすれば生き延びれるとなれば、親達がそれを望むのは当然だと思います

投稿: alex99 | 2009/07/15 22:35

ぐすたふ さん:

>脳死判定で間違わない体制と基準を確立するとともに、遺族に対して不適切な圧力がかかることのないようにしていくことが大事なんじゃないでしょうか。

本文にも書いたとおり、私は臓器移植に関して、「死んだら臓器をあげる」 「死んだ人から臓器をもらいたい」 という人がいるということに関しては、否定はしません。
「どうぞご勝手に」 というスタンスです。

ですから、きちんとした形で行われるように環境を整えなければならないということに関しては、まったく同感です。

投稿: tak | 2009/07/16 20:47

alex さん:

>ただ、一般的に自分の幼い子の命が風前の灯で、臓器移植さえすれば生き延びれるとなれば、親達がそれを望むのは当然だと思います

わかります。ただ、望まないとしても決して不人情じゃないという合意形成も必要だと思います。

投稿: tak | 2009/07/16 20:50

何だかコメント欄が真面目な展開になっているところで恐縮ですが、関東地方は梅雨が戻ってきてしまいました(涙)

投稿: 山辺響 | 2009/07/23 11:33

山辺響 さん:

>何だかコメント欄が真面目な展開になっているところで恐縮ですが、関東地方は梅雨が戻ってきてしまいました(涙)

夏の季語に 「戻り梅雨」というのがありますが、森田さんの 「関東梅雨明けフライング説」 は信憑性を帯びてきましたね。

閏五月問題からして、私も満足です。
(普段は晴れ男のくせに ^^;)

投稿: tak | 2009/07/23 12:51

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