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2010年7月に作成された投稿

2010/07/31

汗が噴出する

週末からまたムチャクチャ暑くなるとの予報だったが、確かに土曜の朝から暑い。何もしなくても汗が噴き出る。

茨城県は、水戸の最高気温が 33度になると予想されている。私が茨城県つくばの地に越してきたのは 28年ほど前だが、当時、水戸はなかなか 30度の真夏日にならないところだった。茨城県の南部が 30度を越しても、水戸は 29度とかで、しぶとくもちこたえていたものだ。

ところが、近頃では平気で 30度越えが連続する。水戸で 33度といったら、県南部は 34度以上、もしかしたら、35度以上の猛暑日になる。今年の夏は、心してかからなければならない。

夏だけではない。冬も暖かい。この土地に引っ越してきた頃は、真冬の夜は毛布と分厚い羽布団のほかに、もう一枚布団をかけないと寒くて眠れなかった。しかし今では、よほど寒い夜に、毛布を一枚プラスすれば十分である。

そして、水道が凍結しなくなった。越してきた頃、寒い夜は寝る前に水道栓を少しだけ開けて水を流しっぱなしにしておかないと、確実に水道が凍って水が出なくなった。そんな心配をしなくてよくなったのは、この 5~6年ぐらいのことだろうか。

地球は確実に温暖化しているようなのである。「暖かくなったら住みやすくていい」 なんて呑気なことを言う人もいるが、夏がこれ以上暑くなったら、住みやすいどころか、命が危ない。

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2010/07/30

無線 LAN と Wi-fi の違い

今日の今日まで、マイクロソフトが無骨に言うところの 「無線 LAN」 てのを、アップルはしゃれて "Wi-fi" と言い、最近では iPhone や iPad の普及につれて "Wi-fi" の方が通りがよくなってきて、そう呼ぶ人の方が多くなってきたのかなあと思っていた。

例えば、iPhone を買った人と、こんな話をすることがある。

「家の中に Wi-fi のルータを置けば、インターネットの接続がぐっと早くなるよ」
「わいふぁいって、何?」
「ちょっと前までは、無線 LAN って言ってたけどね」
「むせんらん? それ、何?」
「ケーブル線で結ばなくても、無線でインターネットに接続できるの」
「ふぅん、わかった。ケータイの速いやつね」
「うぅん、ちょっと違うけど、まあ、そんなようなものと思えばいいよ」

とまあ、一昨日の記事の、「誤審も含めてサッカー、誤解も含めて世の中」 みたいな話になってきたが、しかし、厳密に言うと、 これもまた、ちょっとした誤解なのだそうだ。いやはや、「ケータイの速いやつ」 とは違うというのは当然わかっていたが、無線 LAN と Wi-fi がイコールじゃないとは、ちっとも知らなかった。

正しく言えば、「Wi-fi は無線 LAN に含まれる」 という関係のようなのである。Wi-Fi というのは、"Wi-Fi Alliance" (Wi-fi アライアンス) という団体が認定した無線 LAN のインターフェイス規格で、これがないと相性によってつながったりつながらなかったりしていたのを、確実につなげるようにしたものらしい。

道理で、無線 LAN が世に出始めた頃は 「つながるかつながらないかは、運次第」 なんて言われていたような記憶がある。最近ではそんな心配をする必要もなく、ほぼ確実につながるようになったのは、Wi-fi のおかげだったのか。

それにしても、そんなような事情は全然知らなくてもさくさくっとつながるようになったのは、これぞ進歩というものである。

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2010/07/29

指先と脳の関係

"「く」 の字触り認知症検査" という記事を読んで、ふいにインド人の手づかみ食文化を思い出した。

認知症検査についての詳細は、リンク先の記事を見ていただきたいが、要するに、「く」 の時に曲がった金属の曲がり具合を、目隠しして触っただけで判断できるかどうかで、認知症の早期検査ができるというのである。認知症になると、触っただけでは曲がり具合がよく認識できなくなるらしい。

何の番組だったか忘れたが、前にテレビを見ていて 「外国滞在から帰国し、『自分の国に帰ったんだなあ』 と最も実感したのはどんな時だったか?」 という質問に対し、インド人が 「手づかみで食事したとき」 と答えていたのが、とても印象に残った。このように答えたインド人によると、「手づかみで食べないと、本当の味がわからない」 というのである。

箸やナイフ・フォークで食事をする文化圏で育った者にとっては、これは衝撃的な指摘である。私は一瞬、「インド人は、指先にも味蕾があるのか?」 と思ったほどだ。

いや、いくら何でも指先に味蕾のあるはずがない。指先では味覚は感じられない。しかし、私にはインド人の手づかみ食文化への思い入れが少しだけわかるような気がした。それは、「食べ物のおいしさ」 というのは、純粋な味覚だけによるものではないからである。

日本人でも食べ物を評価するとき、純粋な味覚的要素以外にも、歯ごたえ、のどごし、舌触り、コシ、もっちり感など、どちらかといえば触覚的要素に属するようなことを大切にする。

それだけでなく、料理の温度も重要な要素だ。冷めたスープは興ざめだが、盛りそばなどはきりっとした冷たさがありがたい。さらに、「見た目」 も大切だ。目隠しして食事すると、今自分の食べているのが何なのか判断できず、満足感も得にくいという。とくに日本人は、盛りつけなど、見た目にこだわる。

日本人は 「目で味わう」 なんて言われるぐらいだから、インド人が 「指先で味わう」 ということがあっても、よく考えれば全然驚くほどのことじゃない。指先で食べ物をつまんだときの微妙な感触というのは、料理を味わうときの重要な要素のひとつなんだろう。

そうした微妙な食感までも左右するほどの、繊細な感覚器官だもの、指先の触感を検査することが認知症の早期診断に役立つというのも、「さもありなん」 と思われるのである。それに、ずっと前から 「指先を使うとボケが防止できる」 と言われてきたのも、根拠がないわけじゃないと納得できる。

日頃 PC で作業をする人が、「自分はいつもキーボードを打っているから、ボケ防止になっている」 なんていうことがあるが、そんなことで安心してはいけない。実はキーボードを打鍵する程度の機械的な作業では、脳を活性化させるほどには指先の感覚を使っていないらしい。もっとずっと繊細な作業をしないと、ボケ防止にはならないようなのだ。

その意味では、職人的な手仕事や、手づかみでものを味わうというぐらいの繊細な作業、指の動きが微妙な音に再現される弦楽器の演奏なんかをするのが、脳の活性化にはいいかもしれない。料理もいいらしい。なるほどね。

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2010/07/28

誤審も含めてサッカー、誤解も含めて世の中

テレビかなんかで得た中途半端で怪しい知識 (何とかを食うと痩せるとか、AB型は天才肌だとか、猫が顔をなでると雨が降るとか、どーちゃらこーちゃらするのが洋食のマナーだとか)を、金科玉条のように信じる人がいて、そんな時はまあ、とりたてて害になるわけでもないから、大抵は 「はいはい」 と、そういうことにして収めてしまう。

それから、「○○って、要するにこういうことですか?」 なんて質問を受けて、聞いてみるとその理解はちょっと違うんだけど、でもまあ、そういう筋道でないと理解できないというのなら、それで致命的な支障があるわけでもないし、つい面倒だから、「まあ、おおまかなところはそういう理解で OK です」 なんて言っちゃうことがある。

細かい点をごちゃごちゃあげつらっていたら、せっかく 6~7割ぐらいはわかってもらえたのに、かえって混乱して放り出されてしまうおそれがあるし、フツーはそれで十分だと思うことにしている。

考えてみれば私自身にしても、専門外のところでは (もしかして専門分野においてさえ)、似たような思い違いをしていることがいくらでもあるんだろう。世の中は生半可な理解 (別の言い方をすれば 「ちょっとした誤解」) の集積で動いているというようなところがある。

さっぱりわからなければ、「専門家にお任せ」 で済んでしまうのだが、なまじ中途半端にわかっていて、さらに誤解の部分が大きかったりすると、かなりピンぼけな結論に固執してしまって、にっちもさっちも行かなくなることがある。世の中で困るのはこういうケースで、しかも当人が相当に頑固である場合だ。

人間 「ブレないのがいい」 なんて言われるが、結構な誤解の上に成立した基本姿勢を守り通して 「俺はブレない」 なんて大見得を切られると、周囲は困ってしまう。それでもなんとか周りがカバーしてやっていくことになるが、「あの人が定年でいなくならないうちは、日常業務に余計な作業が入り込んで、疲れてしょうがない」 なんていう老害になってしまう。

というわけで、世の中というのは相当な比率の誤解を含めて動いているのである。「誤審も含めてサッカー」 というようなものだ。「世の中、理屈通りには行かない」 というのは、こういうことにもよる。世の中を動かす人間の数だけ、「理屈」 が存在するのだから。

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2010/07/27

「後の祭り」 を巡る冒険

Twitter で @kunishiro さんが、「後の祭り」 という慣用句への疑問を呈しておられた。「手遅れ」 という意味なら、「後の祭り」 ではなく 「祭りの後」 と言うべきではないかというのである。なるほど、確かにもっともな疑問だ。

しかし、これはやっぱり 「後の祭り」 というのが正しいんじゃないかなと思う。

「後の祭り」 は本来は、本祭の翌日の、お供え物を下げていただきながらの直会 (なおらい) 的な 「後宴」 を指す。フォーマルなことは一通り終わってしまって、後は気楽でインフォーマルな飲み食いの会。いわば 「二次会」 である。

その気楽な雰囲気の中で、遅れてきた奴が、本来は本祭の行事として執り行うべきマジなことをしようとしたら、もろに雰囲気こわしちゃう。例えば、結婚式に出席できなかったやつが、披露宴で新郎新婦に 「もう一度、三三九度をして見せろ」 とか 「指輪の交換して見せろ」 とか言うようなものだ。

そこで、そういう無粋をいうヤツには、「おいおい、今さらそんなこと言っても遅いよ。もう、後の祭りだよ」 なんて言ってたのが、慣用句になったのかなと、私は想像する。

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2010/07/26

借りぐらし古典派

『借りぐらしのアリエッティ』 が大ヒットしているらしいが、私の妻は 「絶対に見ない」 と言っている。妻はこのアニメの原作となっている 『床下の小人たち』 (原題: The Borrowers) を初めとする小人の冒険シリーズの愛読者である。子供の頃から岩波少年文庫で親しんできたという。

「あの挿し絵が自分の中に刷り込まれてるから、いくら宮崎アニメでも、がっかりするに決まってる。だから絶対に見ないの」 と言うのである。前にディズニーの 『くまのプーさん』 を見て、やっぱりがっかりしたので、同じ愚は繰り返さないという。ディズニーでがっかりしたのだから、宮崎アニメでも多分そうなるのだろう。

妻は、一緒に暮らし始めた頃から時々宇宙人だった。何かモノがなくなると、「借りぐらしの小人が持ってっちゃったのね」 と、ごく当たり前に言う。

「はぁ?」
「小人がいるのよ。見えないけど、床下とか、その辺にいるの」

そして、なくしたモノがふと見つかると、「借りぐらしの小人が返してくれたのね」 なんて、これまたフツーに言うのである。

そんなような人だから、自分の中に確実に存在する小人たちのイメージがおかしくなっちゃうのが、耐えきれないらしいのだ。というわけで、妻は借りぐらし古典派に位置づけられることになると思う。

そして、私も多分、『借りぐらしのアリエッティ』 は見ないだろうと思う。私は個人的には、ジブリ作品は 『風の谷のナウシカ』 『となりのトトロ』 の 2本で十分だと思っている。他の作品でみたのは、『天空の城ラピュタ』 と 『紅の豚』 だけだ。その代わり、『ナウシカ』 と 『トトロ』 は何度見たかわからないくらい見た。

恐縮だが、宮崎アニメはとくにメッセージが強烈とか、思想的にすごいとかいうものではない。だったら、『ナウシカ』 と 『トトロ』 でいい気持ちになるだけで十分なのである。この 2つは、掛け値なしにいい気持ちにさせてくれるのだから。

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2010/07/25

夏バテしないように、今から気を付けねば

土日関係なし。今日も朝から日が暮れるまで仕事。

さすがにちょっと疲れてきた。今年の夏は暑すぎる。本当に久しぶりで夏バテしちゃうんじゃないかという気がしてきた。最後に夏バテなんてものをしたのはいつ頃だったのだろうとふと気になって、自分のブログを検索してみたら、3年前に 「もしかして、これって、夏バテというのじゃあるまいか」 なんて思ったというようなことが書いてある (参照)。

3年前の夏といえば、これまたすごい猛暑だった。お盆頃に館林市で 40度以上を記録している。家の中の日陰で風通しのいい廊下でも、壁をさわると熱く感じるほどの熱気だ。気温が体温より高いのだから、触るもの全部が熱いのだ。

ただ、この年の暑さはお盆頃からのことで、7月末にはこんな暑さではなかった。だから、「もしかして夏バテ?」 なんて漠然と思っているうちに、秋風が吹き始めてなんとかなった。しかし今年はこのままの猛暑がお盆過ぎまで続いたら、確実に正真正銘の夏バテになってしまうだろう。どこかで暑さが息切れしてくれないと、大変なことになる。

というわけで、今日はこの辺で失礼。早めに寝ることにする。

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2010/07/24

フランスでは 3秒ルールや 5秒ルールなんてもんじゃない

Lifehacker というサイトで、"落としたモノをすばやく拾って食べる 「3秒ルール」 は本当に大丈夫?" というおもしろい記事を発見した。そういえば、子供の頃は 「食べ物は落としても 3秒以内に拾って食べれば大丈夫」 なんて言って、床に落とした食べ物を平気で食べていたなあ。

元記事 を当たってみると、英語では "five-second rule" (5秒ルール) と言うんだそうだ。さすがに英語圏は、日本より 2秒もおおらかだ。ところが米国のいろいろな大学の研究チームが実験してみたところでは、バクテリアは瞬間的に食い物に乗り移ってしまうから、3秒とか 5秒とかいうのはほとんど意味がないらしい。

ところが、さすがに英語圏の研究レポートである。日本の学者だったら 「落としたものは食べない方がいい」 なんていう当たり障りのない結論で終わりにするところだが、斜め読みしたところでは、メイン大学の学生は 「5秒ルールを行使することは、食物の無駄な廃棄を減らし、免疫システム向上させる」 なんてレポートしている。

ああ、このくらいおおらかでありたいものである。

で、最も重要な結論というのは、「決定的な問題は、拾うまでの時間ではなく、落とした場所」 なんだそうだ。そりゃそうだろう。そして意外なのは、台所の床よりも歩道の方がまだましなんだそうだ。台所の床は、実はバクテリアの宝庫らしい。

とはいえ、土足で家に入り込む米国と、スリッパをはいて、しょっちゅう拭き掃除してる日本とでは、台所の床のバクテリア密度も少しは違うんじゃなかろうかと思うのだが、そのあたりの比較検討は、米国での研究だから当然ながらされていないみたいなのだ。

台所より歩道の方がましというのでふいに思い出したのだが、パリに行ったとき、パリのオバサン連中が買ったばかりのフランスパンを歩道で適当なところに立てかけ、知り合いと夢中で話しているという現場を目撃したのを思い出した。

「パリではフランスパンを道ばたに立てかける」 というのは聞いていたが、「まさかねぇ」 と思っていたのである。ところが、現実に目撃してしまったからには、本当だと認めないわけにいかない。あの、犬のうんこだらけの歩道にパンを直に置いちゃうのだから、フランス人って、本当にうんこ強い。

フランスでは、3秒や 5秒なんてもんじゃないのである。あのうんこ強さは、さすがベルサイユの庭でうんこや小便をしていた国民だと感心してしまったのだった。

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2010/07/23

沖縄の島とうがらしというもの

辛もの好きの私は、近頃 「島とうがらし」 という調味料が欠かせなくなった。ラー油とかなんとかいうのより、辛さに嫌みがなく、すっきりして、しかもしっかりと辛いのである。

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ちいさな瓶のなかに、これまた小さな島とうがらしの実がぎっしりとつまっていて、液体部分は泡盛であるらしい。で、この液体部分のみを、料理にふりかける。私はなんにでもふりかける。みそ汁でも、ラーメンでも、野菜炒めでも、とりあえず適当にドバっとふりかけると、えもいわれぬ辛さが味わえる。

泡盛が少なくなったら、その辺で売ってる安物の泡盛を足せばいい。中の島とうがらしの実がふやけて、色がなくなってしまうまで、かなり長いこと繰り返し使える。なかなかおおざっぱな調味料なのである。

ちなみに、この島とうがらしというのは、島言葉では 「コーレーグス」 というらしい。語源には諸説あって、「高麗草 (こうらいぐさ)」 から来たというのが有力だが、それ以外にも 「高麗胡椒 (こうらいこしょう)」 がなまったとか、「高麗薬 (こうらいぐすり)」 がなまったとか、いろいろなことが言われている。どれもみなもっともらしい。

辛もの好きで、まだ島とうがらしをしらない人は、ぜひ一度試してみるといい。きっと気に入ると思う。

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2010/07/22

「軽症」 ということのリスク

北海道で救急医をしておられる @chirin2 さんが Twitter 上で 「軽症って言葉は、結構人を傷つける」 と tweet しておられる。お医者さんが自らおっしゃるだけに、なかなか含蓄のある言葉である。

それについ脊髄反射してしまって、「重症の人は同情されるし、それが治ったりしたら、一生自慢できる。軽症だと同情されないし、治っても当たり前でしかない。そのせいですかね」 と RT してみた。

ところがそれは考えすぎのようで、@chirin2 さんのお答えは簡単明瞭。「こんなにつらいのに軽症って何だ、って」 ということだった。なるほど。

お医者さんにかかるのが好きな人はそんなに多くないから、実際に病院にかかるのは相当につらいからである。しかも @chorin2 さんは救急医ということだから、我慢できなくて運び込まれたという患者さんも少なくないのだろう。そういう患者さんに向かって 「軽症です」 と、ありのままを言うのは、確かにちょっとむずかしいことなんだろうと思う。

患者さんとしては、つらくてつらくてたまらないのだから、せいぜい 「これはちょっと、エライことですね」 ぐらい言ってもらいたいところなんだろう。そんなところにもってきて、あっさりと 「軽症です」 なんて言われたら、「俺もずいぶん軽く見られたもんだ」 ぐらいの失望感を味わってしまうのかもしれない。

実際のところ、私がもし患者だったら、結構つらくても 「重症」 なんて言われるよりも 「軽症」 と言ってもらう方がずっと安心すると思う。脂汗を流しながらでも、ほっとすると思う。

しかし、そうでない人もいるようなのだ。こんなに苦しんでるんだから、お愛想でもいいから 「これはちょっとやっかいですね」 ぐらいは言ってもらいたいという人もいるみたいなのである。「かなりやっかいだけど、大丈夫、すぐに治りますよ」 というのが、一番のリップサービスなのかもしれない。

お医者さんとしては、そんな矛盾したことは言えないだろうが、患者としては一番喜びそうな発言である。自分の苦しみを最大限認めてくれて、その上で、すぐに治してもらえそうというのだから、最高だ。

いずれにしても、人間は 「病気自慢」 ということをする種族だから、自分の病気が軽くみられるのは、自分自身が軽く見られたような気がしてしまうのかもしれない。さらに、自分がは重病でないと気が済まないという人もいる。私の祖母のように (参照)。

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2010/07/21

日本が世界に誇るフリーウェア

東スポ創刊 50周年讃歌 「東スポワルツ」 を書いた なぎら健壱先生ほどではないが、私は東スポのファンである。プロレスごっこでブレーンバスターの受け身を取れる私であるから、東スポは 40年以上の付き合いなのである。

JR の電車に乗ると、読み終えた新聞は網棚の上に置かずに、持って降りてゴミ箱に入れてくれるようにという車内アナウンスが流れることがある。私はこれを 「余計なお世話」 と思っている。

車内に放置された空き缶やペットボトルは進んで拾ってゴミ箱に捨てる私であるが、東スポはゴミ箱に直行なんてさせない。断固として網棚に放置する。すると、長くても 10分以内に知らんオッサンがグワシと手を伸ばしてその東スポをつかみ取り、堂々と広げて読み始める。

そこには、もはや所有権などというというコンセプトの消滅した、美しき原始共同社会が現出するのである。

このように回し読みが前提と化している新聞を、どうして自分一人が読み終えただけでゴミ箱なんかに捨てられようか。東スポは、飲み終えれば単なる空き缶と化す缶コーヒーとはわけが違うのである。一度 130円で購入されたからには、少なくとも 3~4人の読者を経なければ、ゴミにしてはならないのだ。

同じようなことがビニール傘にも言える。急な雨が降ってきたためにコンビニで買ったビニール傘は、雨が止んだら出先に忘れてくるべきものなのだ。それも、ついうっかり忘れるのではなく、意識的に忘れてくるのである。だって、雨が止んでるのにあんなもの持ち帰るのはうっとうしいではないか。

そして、忘れた先の傘立てに放置された持ち主不明のビニール傘は、次の雨降りの機会に、誰がさして帰ってもかまわないのである。ビニール傘は天下の回りものなのだ。

言い方を変えれば、読み終えた東スポと雨上がりのビニール傘は、日本が世界に誇るフリーウェアなのである。

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2010/07/20

格差社会における 「死亡率」 というもの

ちょっと古いネタで恐縮だが、Twitter で @foloinfo さんの tweet から辿って、「格差社会 高まるストレス 高所得者も死亡率増加」 (2009年 11月 24日  読売新聞) という記事を知った。山梨大の近藤尚己助教らによるデータ分析で明らかになったことという。

初めは 「高所得者の死亡率増加」 と読み違えてしまって、「あくせく金儲けする方が、ストレスが増大して短命になるんだろうか?」 なんて思ったが、よく読むと、「格差社会では所得に関係なく死亡する危険性が高まる」 という研究レポートを紹介する記事なのだった。問題は 「所得の多い少ない」 ではなく、「格差社会そのもの」 だというのである。

記事の内容をここで詳しく紹介するのもうっとうしいので、興味のある方は上記のリンクを辿っていただきたい。もしかして元記事が削除されてしまっても、魚拓を取っておいたので、こちら で見ることができる。

細かい話はおいといて、近藤尚己助教らが明らかにしたかったことは、煎じ詰めれば、「格差社会においては、ストレス増大によって、所得に関係なく死亡する危険性が高まる」 ということのようなのだ。

もっと親切にいうと、「少しでも健康にいいといわれるライフスタイルを実現し、病気になっても高額医療費を支払って寿命を延ばすためには、金持ちになる方がいいと思われがちだが、実際は格差社会においては、金持ちだろうが貧乏だろうが、等しく短命になってしまうみたいだよ」 ということのようなのである。

これをもっと推し進めて言えば、「長生きするために金持ちになりたい」 というモチベーションはあっさりと否定されたことになり、「長生きしたかったら、格差社会のストレスからフリーにおなりなさい」 ということになる。そんなことを言われても、「はい、そうしましょう」 というほど簡単なことではないが。

とはいえ、人間の 「死亡率」 というのは、長い目で見れば等しく 100%で、遅かれ早かれ誰でも必ず死ぬのだから、「それがどうした?」 と言われれば、「べ、別に……」 と答えるしかないような気もする。

それをふまえた上で、人間の価値観というのは 「どうせ死ぬんだから、どんどん儲けて太く短く生きてやる系」 と、「同じ死ぬなら、あまりあくせくせずにのんびり生きたい系」 の 2系統に大別されてしまうのだろう。

ストレスが短命の原因という論理に沿えば、のんびり派の方が確実に長生きできるんだろうが、あまりのんびりしすぎると格差社会においては底辺に沈んでしまい、まともなものも食えなくなるから、やっぱり長生きできないということになるんだろう。

精神的にストレスフリーになると、この娑婆においては肉体的なストレスが増大しがちになる。あちら立てればこちらが立たずである。

というわけで、確実に一番長生きできそうなのは、金儲けの上手な亭主をもった女性ということになりそうだ。これなら大したストレスもなく、いいものを食ってスポーツジムに通い、病気になってもいい医者にかかれる。

で、私の考えを述べる段になったのだが、私としては 「別に長生きなんかしなくてもいいもんね」 と思っている。生かされている間はしっかり生きて、お迎えが来たら、じたばたせずに死ぬだけだ。ただ、こういう考えだとストレスがないので、ひょっとしたら長生きしてしまうんじゃないかという気もする。

【追記】

人口学でいう  「死亡率」 とは、日本では 1年間に人口 10万人あたり何人死んだかで出す数字のようだ。このデータ分析では、膨大な計算をしたのだろうと思われる。

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2010/07/19

人それぞれのこだわり

少なからぬ人がやってるけど、自分は生まれてから一度もしたことがないし、これからも多分しないままで死んでいくだろうということ。

  • ゴルフ
    全然性に合わない。せっかく自然 (ぽい) ところに出てるのに、あんな神経すり減らすようなゲームをしたら、いらいらしてしょうがないと思う。必死に植林する人がいる一方で、わざわざ森林を切り払って除草剤使い放題で芝生にしちゃうというのも、自分の倫理観に合わないし。
  • 賭け麻雀
    ギャンブル、好きじゃないし、麻雀のルール、覚えられないし。
  • いじめ
    弱い立場にある者を寄ってたかっていじめるというのは、生理的にできない。
  • 新聞や本のページをめくるときに、指を舐める
    これも生理的にできない。ピッタリ重なって開けにくいゴミ袋の口を開けるときも、指先にちょっと水をつけたりする。唾をつけるってのはできない。

多くの人が日常生活でフツーにやっていて、自分もやらないわけじゃないけど、多少の 「罪の意識」 が伴ってしまうこと。

  • 蚊を叩きつぶす
    自分の体に止まって、今まさに血を吸っている蚊を叩きつぶすのにも、ちょっとだけ 「ごめんね」 と思う。飛んでいる蚊を叩きつぶすのは、罪の意識が邪魔してしまって、とても下手っぴである。
  • 肉を食う
    焼き肉とかバーベキューを、お付き合いは別として、自らの意志で選択して食うということはない。普段、多少の肉は食うけど、ビフテキとかトンカツとか、肉中心のメニューを食うときは、ちょっと複雑な気持ちになる。鶏肉と魚は平気。

すすんでやる人はあまり多くないけど、個人的には、これだけはやらないと気が済まないこと。

  • 電車で席を譲る
    自分が席に座っている近くで年寄りに立っていられるのは、「日本の恥」 ぐらいに思っているので、脊髄反射的に譲ってしまう。
  • トイレのスリッパを揃える
    旅館などのトイレでスリッパが乱雑になっていると、きちんと揃えずにはいられない。

人間って、人それぞれのこだわりというものがあるようなのだ。

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2010/07/18

保存した資料/素材を 「自分のもの」 と勘違いすることについて

例の件で、最終的なご報告。

市議のパクリ記事の話を某有力地方紙にたれこんだ人があり、その地方紙はさっそく市議に取材して、7月 17日付の小さな記事として掲載した。その紙面の写真を撮影してくれた方があり、おかげで私は遠く離れたつくばの地でその記事を読むことができた。

念のために書いておくが、紙面の写真を撮影してくれた方は、地方紙へのタレコミをした人とは全然別人である。たまたまその地方紙を購読していて、記事を見つけられたのである。

私の住むつくば辺りでは、その地方紙を入手するのが困難で、しかもその地方紙の無料閲覧ウェブサイトはすべての記事をアップロードしているわけでもなく、当然ながらそんな小さな記事は載っていない。この方が写真を撮ってくれなかったら、大きな図書館まで足を運ばなければならないところだった。本当に感謝である。

記事では、市議の昨年 10月 15日付のブログ記事の内容と構成が、茨城県の男性 (私のこと) の 「ブログに載せたもの」 と同じということになっている。細かいことを言えば、内容と構成が同じなのは 「ブログに載せたもの」 ではなく、私のウェブサイトの中の記事 (参照) なのだが、新聞記事では細部の不正確はよくあることなので、まあいい。

この記事には、問題の市議さんのコメントが次のように紹介されている。(冒頭に出てくる 「男性」 というのは、私のこと)

「(男性の考えは) 運動の参考になると思って保存し、選挙スタッフに読ませようと自分の文体にして載せた。私の意見として受け止められるとは考えなかった」

なんだか典型的によくある言い訳である。典型的すぎて、私としてはますますむっときてしまった。

選挙カーの連呼に関する私の考えというのは、とくにオリジナルなものでもなんでもない。同じことを考えている人は、世の中にくさるほどいる。オリジナルなのは、その考えを表現した私の記事である。そこには、私自身による構成というものがある。

私の考えに共感したのなら、その共感した内容を、自分なりに構成した文章で表現すればよかったのである。「だ・である」 調を 「です・ます」 調に変えただけで、「自分の文体」 にしたとは、「よく言うよ」 ってなもんである。自分なりの文章が書けなければ、私の記事にリンクを張ればいいだけだ。

今回の件に限らず、パクリ行為では、元ネタを 「参考になると思って保存」 あるいは 「記憶の片隅に」 とどめ、次に 「それを自分なりに解釈した」 つもりで、実は細部をほんの少し改変しただけで発表するというパターンが目立つ。

これこそが問題の根元みたいな気がする。以前、某アイドル・タレントの盗作問題でも、似たような言い訳がされていたような記憶がある。

こうしたケースでは、元ネタを保存、あるいは記憶の片隅にとどめた時点で、その人にとっては単に 「元の人格から離れた単なる資料/素材」 になってしまうみたいなのだ。そして次の段階で、それを 「自分のもの」 と勘違いする。あるいは少なくとも、勝手に二次使用することに抵抗がなくなる。

このプロセスには、かなりの 「無神経さ」 と 「あつかましさ」 が必要だ。政治家として知的所有権に関する無神経さというのは問題だが、「あつかましさ」 というのは、ある意味、うってつけの要素なのかもしれない。

【追記】

私の 16日付の記事で、

全然わかってないみたいなのである。懲りない人のようなのである。私は、できることならばこの市議さんにダメージを与えたくなかったのだが、ここまで来るとさすがに呆れてしまった。政治家としてヤバすぎるだろう。「もう、どうなっても知らんわ」 と思うまでになってしまったのである。

と書いたが、その後、先方の市議さんはやっとことの重大さに気付いたようで、18日付でお詫びのエントリーを書き、さらに、「オリジナリティの検証のため」 と称して、以前の記事を全部削除したようだ。

私の忠告がようやく身に浸みたようなのである。

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2010/07/17

英語の冠詞 "a" と "an" を巡る冒険

英語では不自然な発音を避けるために、母音の前の冠詞は "an" で通してるのに、日本人のおそらく 8割以上は、"an apple" を 「アン アップル」、あるいはせいぜいよくて 「アン ナポー」 などと、かなり窮屈に発音しちゃう。ネイティブで英語を話すアメリカ人のほとんどは、そんな器用な発音はできず、フツーは 「アナポー」 みたいになる。

日本語には 「リエゾン」 という概念がないからだという人もいるが、それは正確ではない。日本人も 「因縁」 は 「いんえん」 と言わずに、「いんねん」 とリエゾンする。歌舞伎の 『勧進帳』 でも、「額に戴く兜巾 (ときん) は如何に」 を、「ときんないかに」 と発音する。やっぱり日本人も、リエゾンする方が楽なのだ。

これって、「慣れ」 の問題なのだと思う。ただ、一口に 「慣れ」 と言っても、原理を頭で理解しておくと身に付きやすいということはある。

英語教育で言えば、「実は、元々は "an" しかなかった」 ときちんと教えれば、少しは理解しやすいんじゃないかと思う。ほかのヨーロッパ語の冠詞を考えれば、「なるほどね」 と納得するだろう。英語の "a" は、"un" だの "une" だの "ein" だの "eines" だのに比べると、究極的な短縮形だ。

元々は "an" ("one" の弱音) だったのだが、子音の前でもいちいち "an"  と言うのがうっとうしいので、さくっと省略して "a" になったのである。中学生の時にそう聞いたことがあって、ただ生半可なうろ覚えで書くとエライことなので、さっき Wisdom 辞書で確認したら、間違ってなかった。

今の英語教育だと、冠詞は "a" が基本で、母音の前でわざわざ "an" に変化させるなんていう面倒な手続きを踏むのだと、日本人のほとんどが思っているはずだ。これだと身に付くはずがない。本当は母音の前で面倒になるのではなく、子音の前で楽になっているのだ。

この辺りをきちっと理解すれば、ひいては乗り物に乗っても 「うぃ るっく ふぉあわーど とぅ しーいんぐ ゆう あげん」 なんて、へんてこりんなアナウンスを聞かなくて済むのだが。

それにしても、英語以外のヨーロッパ語の冠詞って、英語と比べると、ホンのちょっと長いだけなのに、気が遠くなるほど面倒くさい印象がある。英語みたいにさくっと省略しなかったからで、さらに男性形と女性形なんていう面倒な変化がある。

このあたりのシンプルさは、英語が世界共通語になる大きな武器になったんだろうと、実感で思う。そのかわり、「ニュアンス」 という宝をかなり切り捨ててもいると思うが。

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2010/07/16

パクリの顛末

例のパクリ市議の顛末を報告したい。この件が、鳥海山を庄内とは反対側から見る県の、結構名を知られた地方紙の編集部の知るところとなり、記者が市議にことの次第を取材したようだ。

「自分のブログに盗作記事を掲載した市議が、元記事を書いた茨城の男性 (つまり、私のことね) の抗議により、記事を削除し謝罪した」 という事実関係をごくあっさりとレポートする記事は、明日付で載るらしい。

発端からこれまでの推移は、私のブログを順を追って読んで頂ければわかる。

  1. 某市議さんに、記事をパクられてしまった
  2. 某市議さんに、記事をパクられてしまった その 2
  3. パクリはほとんど常習犯である

私としては、この問題でことさらに騒ぎ立てる意志はなく、この市議さんにメールで

  1. パクリ記事の削除
  2. 私のブログへの謝罪コメント (匿名でも OK)
  3. 匿名謝罪の場合は、メールでその旨を通知してもらう (確認のため)

という 3点を求めた。この時点での私のスタンスは、「抗議」 をするというよりは、「きちんと筋を通してくれれば、あなたの実名は晒さないし、ことさらな追求もしないから、よろしくね」 という、いわば 「けりを付けるための手続き」 という感じのものだったことは、上記の 2番目の記事を読んでもらえればわかると思う。

そして、私の求めの初めの 2点は実行された。上記の 1番目の記事のコメント欄に匿名で書かれた謝罪コメントは、たった 2行のごくあっさりしたものだが、それに対して 「誠意が足りない」 なんてイチャモンをつけたら、まるでその筋の世界の人みたいなので、まあ、OK ということにした。きっと、謝るの苦手な人なんだろうね。

ところが 3番目の条件として、匿名謝罪の場合には「○○名義で謝罪を入れた」 との直接メールを送ってくれるように求めたのだが、これは未だ実行されていない。どうやら、先方は謝るのが苦手なだけでなく、詰めの甘い人でもあるようなのだ。

とりあえず、謝罪コメントのメールアドレス(ブログ上では非表示) が当人のものだったので、私としては精一杯好意的に、当人直接の謝罪と判断したが、細かいことを言えば、明確に確認できたわけではない (第三者の 「なりすまし」 だってあり得るし) ので、突っぱねることだってできたのである。

というわけでこちらの要求は、とくに困難というわけでもない (かなりモタモタやっても、30分足らずで終わるだろう) のに、不完全にしか満たされておらず、厳密には 「示談成立」 とはいかない。しかし私としては、「面倒だから、もういい」 というわけで、これ以上追求しないことにした。

ただ、私個人が 「もういい」 と言っても、相手の地位が地位だけに、話が一人歩きしてしまって、パクリ市議さんを突き止め (ググれば案外簡単にわかるし)、地方紙に 「情報提供」 までした人がいたのである (それが誰かは、Twitter をたどればわかる)。私の本意ではないが、こればかりは、止めるわけにも行かない。

で、明日付の新聞には多分、相手の実名入りで記事が載ってしまうのだろうが、それは仕方がない。結果としては自業自得というものだ。

こうなったらぶっちゃけ書いちゃうが、私が心配しているのは、その市議さん、私の記事をパクったもの以外でも、あちこちのウェブ上のテキストから、かなり長い無断引用を繰り返し、いかにも自分の文章のようにあつらえているところだ。さらに、詩をまるごと転載したり、画像の無断掲載と思われたりというケースも目立つ。

私は上記の 3番目の記事 (12日付) で、"この記事を読んで 「ヤバ!」 と思った人は、身に覚えのあるアブナイ記事を速攻で削除しておく方がいい" と、さりげなく自己防衛しておくように示唆したつもりなのである。そしてご親切なことに、先方のブログのコメント欄に、この記事を読んで検討してもらいたいというようなことまで書いてあげているのである。

ところが先方はそれを全く意に介さないどころか、逆に反発するかのように、15日付で、画像の無断掲載と思われる記事なんて載せている。

全然わかってないみたいなのである。懲りない人のようなのである。私は、できることならばこの市議さんにダメージを与えたくなかったのだが、ここまで来るとさすがに呆れてしまった。政治家としてヤバすぎるだろう。「もう、どうなっても知らんわ」 と思うまでになってしまったのである。

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2010/07/15

梅雨前線直下の晴れ男体験 その 2

九州で夜明け前からの仕事を終えたところである。

天気予報では夜中から昼頃までずっと、ベタに雨マークがついて、大雨警報まで出ていたが、実際には曇り時々雨で、雨が降ったのは車での移動中だけ。つまり、全然濡れずに済んだ。予定外の野外撮影までできて、それには青空まで写っていた。梅雨明け前の大雨の時期に撮った写真とは、誰も気付かないだろう。

博多に戻る特急列車も時刻通りの運行で、博多に着いたら道路は完全に乾いていた。朝方の追い山は雨の中で行われたそうだが、あれはどうせ、汗だくのところに水までぶっかけられるのだから、多少の雨は OK だったろう。博多の街は、祭りの後のけだるさを漂わせている。

それにしても、さすがに疲れた。帰りの機内では爆睡しそうである。今日はこの程度で失礼。

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2010/07/14

梅雨前線直下の晴れ男体験

仕事で九州の佐世保に来ている。夜に佐世保に入り、明日一日仕事の予定だ。

14:00 羽田空港発の便で福岡空港に入り、それから特急で佐世保に入るのが 19時頃の予定だった。明日は夜明け前から仕事に入るから、今日は余裕をもったスケジュールである。ところが、福岡空港から地下鉄で博多駅に着くと、何だか様子がおかしい。聞いてみると、大雨の影響でダイヤがボロボロだという。

佐世保行き特急の運行状況を訪ねると、「見通しが全然立っていない」 という。私より半日先乗りしているスタッフのケータイに電話したら、「ヒドイですよ。僕なんか 3時間以上待って、ようやく特急に乗れました。疲れました」 と、泣きが入っている。

いやはや、まいった。今日中に佐世保に入れるだろうか。

実は飛行機に乗る前、羽田空港に向かっている間、Twitter でさんざん自分の晴れ男振りを tweet したばかりである。

いわく、前の会社では、野外イベントが企画されたら、必ず名目だけでも企画実行委員会に登録された (私が関係すると、天気の心配がないので) とか、ある時なんぞは、超大型台風が私の仕事のために前夜のうちに突然進路を変更して他に行ってくれたとか、さんざん書き込んだのである。まあ、実話なんだからしかたがない。

ところが、さんざんそれを吹聴したその日に、大雨で自分の乗る特急が動かないというのでは、赤っ恥ではないか。さて、どうしよう。

仕方がないから、持久戦を覚悟して、まずは腹ごしらえをした。駅構内の回転寿司屋で、7皿も食べた。昔は 10皿以上平気で食べたが、最近は 7皿も食えば腹が一杯になる。さすが博多である。東京で食うよりずっと旨い。

そうこうしているうちに、指定席を取っていた特急の運行の見込みがついたと、場内アナウンスがあった。電光掲示板をみると、「10分遅れ」 と出ている。「なんだ、そんなもんか」 と、一瞬、拍子抜けである。3時間以上の遅れを覚悟していたのに、そんなもんか。

特急に乗って窓から外を見ていると、道路はたっぷりと濡れていて、あちこち冠水しているところもある。川は河川敷が完全に水没している。時々どっと土砂降りになる。いやはや、九州はこのところ、大変だったんだなあ。

結局、49分遅れで博多駅を出て、48分遅れで佐世保に着いた。こんなものなら、全然 OK である。十分に想定内である。今、ホテルの部屋に入って、ほっとしてこの記事を書いている。「晴れ男の私が来たから、ダイヤの乱れが小さくなっていたのさ」 と、この際だから、どさくさまぎれに言っておこう。

それにしても、明日は博多で山傘のメインイベント、追い山だが、雨にたたられそうだ。負けずにがんばってもらおう。私はどうせ見られないが。

そのうち、ちゃんと天気のいいときに見物に来たいものである。

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2010/07/13

声の大きさによる遠回り

昨日の朝の上野駅の常磐線ホーム、階段を昇れば山手線などのホームに行けて、 昇らずに直進すれば新幹線ホームに行けるという案内標識を指さしながら、新幹線ホームに行くには階段を昇るべきか否か、大声で議論しているオバサン 3人連れがいた。

誰がどうみても、新幹線に行くには階段を昇るべきではないのだが、どうやら何か余計なツボにはまりこんでしまっているらしい。

Cr100713

2人は案内の通りに直進すればいいと言っているのだが、一番声の大きなオバサンが、「前に行ったときも階段を昇って行ったから、間違いない。階段を昇らないと、ややこしくて必ず迷う」 と主張している。やれやれ、階段を昇る方がずっとややこしいのに。

上野駅の新幹線ホームは地下にあるから、わざわざ階段を昇るのが正解であるわけがない。一番声の大きなオバサンの経験というのは、客観的にみれば単に 「メチャクチャな遠回り」 をしただけということなのだが、声の大きさというのは客観的事実を上回る圧倒的な強さをもつ。とくにオバサン同士の会話においては、その傾向が強い。

初めのうちは 「案内通りに行けばいいんじゃないの?」 と言っていた 2人も、「そっかぁ、不親切な案内で、かえってわからなくなることも、よくあるよね」 なんて、妙な納得をして、階段を昇ることに同意しかけている。

最後まで見届けたわけじゃないので、その後にどうなったのか知らないが、あの様子では階段を昇ってしまったに違いない。そして、声の大きさに負けた 2人もこれからずっと、上野駅から新幹線に乗るとき、「案内が不親切のよ、階段昇らないと、迷子になっちゃうらしいわよ」 と言って、遠回りをし続けるのだろう。

不憫なことである。「階段昇らずに行く方が、ずっと近いですよ」 と一声かけてあげなかった自分が、ほんのちょっぴりだけだけど、悔やまれる。

いやしかし、もしかしたら、私が声をかけてて誤った思い込みを正してあげたおかげで、あの声の大きなオバサンが 1日中不機嫌になり、残る 2人が嫌な思いをしてしまうことになったかもしれない。私の経験則の教えるところでは、ああいうタイプはそうしたケースで、「友達の前で恥をかかされた」 なんて思ってしまうようなところがある。

そこまで考えると、オバサン 3人の旅行の平安を護るためには、余計なお世話をしないでよかった。多少遠回りをしても、新幹線ホームには多分たどり着けたのだろうし。

世の中というのは、本当にビミョーでむずかしいものなのだ。

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2010/07/12

パクリはほとんど常習犯である

我ながら人の悪いことかもしれないが、この記事はあくまでも一般論とお断りしておいて書く。

ブログを読んでいて、「あれ、この人のこの記事、パクリじゃん!」 と気付いたら、その人の他の記事もパクリじゃないかと疑ってみるのは、あながち無礼とか不自然なこととかいうわけじゃない。

そして、私の経験則から言うと、ブログで他人の記事をパクるような人というのは、たいてい常習犯である。決して 「ふと魔が差して」 とか 「つい、出来心で」 なんてもんじゃない。つまり、元々知的所有権ということに関する認識がグダグダなのである。

パクリ記事を 1本発見したら、そのブロガーの他の記事の中から任意の 1行ぐらいをコピーし、それをキーワードにしてググってみるといい。たいていすぐに、パクリの元記事が検索される。「なるほど、この記事のてにをはをちょこっと変えて、自分の記事にしちゃったわけね」 と、あっさりわかってしまう。

私は過去に、パクリ記事オンパレードのブログを 2つ、結果として閉鎖に追い込んでしまったことがある (参照 1参照 2)。自分の記事がパクられているのを発見し、相手に警告を送るうちに、先方の他の記事もほとんど全部パクリだったことが判明し、あっという間にトンズラされてしまったのだ。

ブログを閉鎖してトンズラすれば済むという、その辺の兄ちゃん姉ちゃんならまだしも、ある程度の責任ある立場にある人で、この記事を読んで 「ヤバ!」 と思った人は、身に覚えのあるアブナイ記事を速攻で削除しておく方がいい。自分のブログの記事の半分以上を削除しなければならないとしてもだ。

そうしないと、例えば選挙の時、対立候補からの攻撃材料にされちゃったりしても知らない。

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2010/07/11

某市議さんに、記事をパクられてしまった その 2

昨日の 「某市議さんに、記事をパクられてしまった」 という記事の続報である。

私としては、鬼の首でも取ったように先方をなじるつもりはないし、先方のブログをよく読んでみると、人柄としてはなかなか良さそうな市議さんなのである。ただ、私の記事のパクリだけでなく、いろいろなところからの長々とした転載らしい記述や、お気に入りの詩人の詩をまるごと写したりという行為も目立つ。

知的所有権ということに無頓着な人なのかもしれないが、それでは政治家として失格だ。この件に限っては、「秘書が、秘書が」 と言ってもらいたいぐらいの気持ちだが、まあ、ブログのゴーストライターをさせるために秘書を雇う余裕のある市議なんて、あまり聞いたことがないしなあ。

というわけで、あまり大ごとにするのも気分が悪いので、誠実な謝罪さえあれば、この件については、なかったことにしてしまいたいのだ。たまたま発見してしまったからには、黙って見過ごすわけにもいかないから、けりをつけるために謝罪ぐらいの要求はしても罰はあたらないだろう。

というわけで、その旨を伝えようと、先方のブログにコメントの形でコーションを入れたのだが、先方は全然気付いてくれないみたいなのだ。なにしろ、先方のブログはコメントの表示に当事者の承認が必要というシステムなので、管理画面をきちんとみてくれないと、コメントが入っていることにすら気付かないようなのである。

間違って表示されても相手を傷つけないように、ずいぶん遠回しな表現をしてしまったので、もしかしたら意が伝わらずに、スパムコメントだとでも思われてるのかなあ。

いずれにしても手をこまねいているわけにわけにも行かないので、ググりまくったところ、ようやく先方のメルアドが判明した。そこで昨夜、以下のようなメールを入れた。

ようやく貴殿のメールアドレスを発見しましたので、直接メールを差し上げます。

貴殿のブログの昨年 ●月●日の記事 「●●●●●●●●●」 (* この部分、伏せ字) は、どう客観的に見ても、私のサイトの "選挙カーの 「連呼」 は 「迷信」 から生じているらしい" という記事の盗作と判断せざるを得ません。

このことについては、貴殿の名を伏せて、既に私のブログで書いておりますので、ご覧ください。

http://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2010/07/post-2b58.html

つきましては、上記記事のコメント欄における謝罪と、貴殿のブログの該当記事の削除を求めます。

なお謝罪は、貴殿の今後の誠実な政治活動継続を妨げないため、匿名でも結構です。
ただし匿名の場合は、貴殿本人と確認するため、「○○という名前で謝罪を入れた」 という旨を、私宛に直接メールでお知らせください。

これにより、貴殿の誠意さえ示していただければ、それ以上の追求をするつもりはありません。
地元と日本のために引き続きご尽力ください。

ただし、私のブログで 「参院選後まで待つ」 と書いておりますので、7月 12日までに謝罪がない場合は、貴殿の実名を含む詳細を、ブログに書かざるを得ません。

以上、よろしくお願いいたします。

先方がメールを開かないということも考えられるので、念のため、先方のブログの最新記事に、「盗作に関する重要メールを入れたから読んでくれ」 というようなコメントも入れた。手は尽くしたつもりである。

ということなので、目下のところ謝罪待ちである。そういうわけで、読者の中に先方を特定できた方がいても、どうかご静観ください。もし 12日までに謝罪がなかったら、そのときは、私自身が断固たる手段を講じるので。

【追記】

今朝 8時過ぎに確認したところ、先方の問題の記事は削除されていた。どうやら、気付いてくれてはいるみたいである。しかし、依然としてなんの連絡もない。(先方は削除しても、当方には証拠としてバックアップとスクリーンショットが残っている)

【追記 2】

本日 10:26 付で、先方から記事を削除したとのメールが入ったが、それ以上のアクションはまだない。私としては、記事の削除だけでなく、私のブログ記事のコメント欄における謝罪を求めているので、チャラにする条件はまだ半分しか満たされていない。

【追記 3】

10:40 付で、「五十雀」 さんから謝罪のコメントが入った。しかし、それが本当に本人であるかは、メールが到着していないので、未確認。

【追記 4】

本人からの確認メールはまだ届いていないが、謝罪コメントに添えられたメルアドが本人のものなので、ほぼ間違いないと思う。それでも紛れをなくすために、一応本人からのメールも欲しいところだが、ま、いいかな。

【追記 5】

本人確認のメールはまだ来ないけど、もういいかげん面倒だから、ま、いいかということで、これで終了。

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2010/07/10

某市議さんに、記事をパクられてしまった

ウェブというところは、パクリがつきものの世界のようで、私も過去に、ひどいパクリをされたことが 2度 (参照 1参照 2)、そのほか細かい話を言ったら数え切れないほどある。もしかしたら、私が気付いていないパクリが、まだまだあるかもしれない。

昨日たまたま気付いたのは、"選挙カーの 「連呼」 は 「迷信」 から生じているらしい" という私の記事がパクられているということだ。これは何度もアップデートして、かなり手塩にかけたおかげで、今では知る人ぞ知るというまでになった記事である。不用意にパクったら遅かれ早かれバレる。しかもこともあろうに、パクったのは某大政党所属の某市議さんである。

パクリ記事は、昨年秋にご自分が立候補した市議選直前のブログ (hatena) のエントリーである。そしてパクった 10日後に、次点と 2票差というギリギリ僅差で、めでたく初当選されている。この情報は、ご当人のブログで知った。

パクリ記事は 「だ・である調」 を 「です・ます調」 に変えるなど、細部は加工してあるが、文章の内容や構成はあからさまに私の記事そのものだ。証拠物件はスクリーンショットも含めてちゃんと保存しておいた。

パクリ記事を発見した直後に私は、Twitter にその旨を 2度にわたって tweet しておいた。(参照 3参照 4) 2番目のは、参院選後まで当人から何らかの挨拶がなかったら、詳細をさらすという予告である。何しろ、相手の市議さんも Twitter をやっておいで (ID も把握している) だから、うまく気付いてくれれば、すぐに自分のこととわかる。

パクった相手の名前や URL をすぐに出さなかったのは、相手が某大政党所属なので、参院選期間中は穏便にしておこうという、私としての最大限の気遣いからである。(実際には、地方都市の一市議のしたことなんか、国政選挙にはほとんど影響ないだろうが)

それでも、ここまでヒントがあると、ググれば見つかる。このブログにも時々コメントをくださる山辺響さんもすぐに見つけられたようで、「明らかにパクリですね。別に参院選まで待つ必要はないのでは……」 と tweet してくださった。(参照

でも、まあ、一度 「参院選後」 と言ってしまったので、それは守ろうと思う。一応、先方の該当記事のコメント欄に、ごくあっさりと遠回しにコーションを書き込んでおいたので、それに気付いて欲しいものである。

ちなみにこのコメントの表示は承認待ち状態で、まだ表示されていない。多分承認されないだろうが、相手に通じればいいので、それはいい。また、何かの間違いで表示されてしまっても、事情を知らない者にはなんのことかわからないような、遠回しなコメントにしておいた (何で、パクられた方がここまで気を遣わなければならんのだ)。

ただ、先方の市議さんは、熱心に毎日のようにブログ更新をしている割には、自分の過去記事へのコメントなんかあまり頓着していないようで、まだなんの連絡もない。このエントリーでトラバでもかけてみようかしらんと思ったが、先方はトラバを受け付けていないようなのだ。

困ったものである。タイムリミットが迫っている。

【追記】

先方の該当記事に、この記事へのリンク付きでコメントを入れておいた。表示は承認待ちで、当然ながら承認されないだろうが、これでいくら何でも通じるだろう。それでも何の詫びも言ってこなかったら、先方がよほどぼうっとしすぎということになるので、遠慮なく詳細をさらす。基本的に、こっちはむっときてるのだ。

【追記 2】

ことの顛末を、11日付で書いたので、よろしく (参照

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2010/07/09

「国歌/国家」 のミス変換

ワールドカップ・ネタで、スペインの国歌には歌詞がないというのがあって、そのことに関する tweet が、スペインが決勝進出を決めた七夕の翌日の Twitter にあふれた。しかし、それをよくみると、「国歌」 をミス変換して 「国家」 としているのがやたらに目立つ。「スペイン国家には歌詞がない」 としている人が、ものすごく多いのである。

これはとてもありがちな変換ミスで、私もたまにやってしまわないわけじゃない。しかしそれだけに、この件に関する文書をタイプするときにはいつも気を付ける習慣が身に付いて、最近は滅多に間違わない。ましてやウェブに上げるなど、外部に出す文書を作成するときには、ことさらしっかり気を付ける。

しかし試しに "国家斉唱" というキーワードでググって見ると、こんなにたくさん のミス変換が出てくる。中にはこの記事のように、ミス変換を指摘する必要があってあえてそう表記したものもあるだろうが、ざっと見たところ、それは少ない。

動画検索以外ではトップに出てくる JanJan ニュースの記事は、「国旗掲揚・国家斉唱は憂慮すべきこと?」 という見出しで、"「国のシンボル」 に礼を尽くすのが憂慮すべきことか。逆の方こそ、憂慮すべきことではないだろうか" という要約が付いている。

この記事、本文ではきちんと 「国歌斉唱」 と表記されているので、多分見出しを付ける編集スタッフがチョンボしたのだろう。ああ、筆者の丸山弘子さんが気の毒である。

「国歌/国家」 の変換でチョンボが続出するのは、「ここ、気を付けないとヤバイぞ」 という経験則が不足しているからである。そしてそうした経験則が不足するのは、国家とか国歌とかをまともに考えて文書化した経験がほとんどないからである。

こうしたことをまともに考えて書いたテキストで、「国歌/国家」 のチョンボなんかしてしまったら物笑いの種だから、まともに考えた人ほど、この件に関するミス変換は少ない。チョンボが多いのは、このことをまともに考えたことのある人が少ないということである。

ミス変換が多い言葉は、ほかにも 「週間/週刊」 「表記/標記」 など数々あるけれど、「国歌/国家」 というのは、チョンボすると妙な揚げ足取りされるリスクが格段に大きいので、格別に注意しなければならない。

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2010/07/08

蚊を巡る冒険

夏になったが、我が家の周囲の蚊が激減しているような気がする。寝ていても、耳のそばでうなりを上げる羽音が聞こえない。

28年前にこのつくばの地に移転してきたときは、あまりの蚊の多さに仰天した。とくに我が家の裏は川の土手に面していて、その土手際は葦が背丈より高く生い茂っていたから、蚊の巣窟だった。そこから我が家めがけて蚊の大群が押し寄せてきた。

越してくる前は東京杉並区の西荻窪というところに住んでいて、会社から帰ってから近くの (といっても 2キロ以上あったはずだが) 善福寺公園までジョギングで往復していた。ところが、このつくばの地で暗くなってからジョギングなんぞしようものなら、蚊を吸い込んでしまって口の中が蚊だらけになるので止めた。

蚊が少し減ったのは、散々苦労して裏の土手際を耕して、葦が生えないようにしてからだ。葦の地下茎をすっかり取っ払うのに、2年かかった。3年目からは普通の雑草しか生えなくなったから、蚊の住処も減ったようだ。しかし、それでも夜になると、我が家に押し寄せる蚊が根絶されたわけではない。

ところが、昨年にこの辺りの下水道工事が完成し、我が家もついに下水道を引いた。そうなると、地域内に蚊の幼虫であるボウフラのわくドブとか側溝とかいうものがなくなったのである。これで本当に蚊が減った。これなら夜にジョギングできそうだ。

若い頃は蚊に対して、「血ぐらい少しはくれてやるから、かゆくするのは止めてくれ」 と思っていた。蚊というのは子孫を残すために人間の血を吸うことが必要らしいので、だったら少しぐらい吸わせてやらないでもないから、あのかゆみの元になる物質をこちらに残していくのだけは勘弁してくれと念願していたのだ。

しかし、それは間違いだと気付いた。蚊が血を吸った後に、かゆみの元になる物質を残していってくれなかったら、人間は蚊に対して無頓着になってしまう。寝ているうちに蚊の大群に血を吸われまくっても、かゆくなかったら気付かない。失血死まではしないだろうが、目が覚めたら貧血になっていたなんてことがあるかもしれない。

かゆくなるからこそ、血を吸われまいと思うのだ。とすれば、それもまた福音である。蚊の方でも、貴重な血の供給源である人間がちゃんと健康で生き残ってくれるように、吸い過ぎたらぴしゃりと叩きつぶしてくれるように、かゆみの元になる成分を残すのだ。個の命と引き替えに種の命を獲得するのである。

世界はかくまでも微妙なバランスでできているのだ。

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2010/07/07

貴重な虚弱児経験

唐突だが、子供には次の 3タイプがある。

  1. 遠足の前日も運動会の前日も、てるてる坊主をぶら下げるようなタイプ
  2. 遠足の日は晴れて欲しいが、運動会の前日には雨乞いするようなタイプ
  3. どっちも雨が降って欲しいなあと、密かに思うタイプ

どういうわけか、遠足は降って運動会は晴れて欲しいと願うタイプの子には、未だに会ったことがない。

実は私は小学生の頃は虚弱タイプで、すぐにおなかを壊して寝込んでしまうような子だった。だから、遠足には辛うじて行きたかったが、運動会は雨で中止になってもらいたかった。上記の 2番目のタイプである。ところが私は昔から晴れ男なので、遠足も運動会も中止になったことがない。

そうこうしているうちに、中学校に入ったとたんに急に丈夫になり、運動会を楽しみにするタイプに急変してしまった。200メートル走でゴールのテープを切るときに女の子たちに一番アピールする姿勢を練習するような、アホな子になってしまったのである。

クラス対抗リレーでは、4~5番手でやってくる第一走者からバトンを受け取るやいなや、見事にごぼう抜きして、トップで第三走者にバトンを渡す第二走者というポジションにこだわった。ほかのクラスは第二走者にあまり速いやつを持ってこないので、カーブで次々に抜いていくのは、なかなかかっこよく目立つのである。

成人してからも、シコシコ音楽とか芝居とかやる一方で、合気道の道場に通ってガンガンに武道の人をやっていた。あの頃は喧嘩をしてもあまり負ける気がしなかったから、米国が一番ヤバイ時代だった 1980年代にも、出張先のニューヨークで平気でどこでも一人ででかけていた。

というわけで私は、運動嫌いの子の気持ちも、体育会系の気持ちも、どちらもよくわかる。そして、どちらもわかってありがたいと思う。もし自分が昔から体が丈夫だったら、運動会の前日に密かに雨乞いをするような子供の気持ちなど、思いやることができなかっただろう。

今の自分があるのは、学校を休んで頭痛と吐き気にぼうっとしながら、NHK ラジオの 「昼の憩い」 を聞くともなしに聞くというような経験を何度もしたればこそである。どんな哀しいことでも、無駄な経験というのはないのだと思う。

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2010/07/06

サッカーに回ってくる人材について

帰化植物のセイタカアワダチソウが、日本の風土に定着するうちに、背が低くなってしまったらしい。そういえば、バブルの頃、地上げされた土地にどっと生えたセイタカアワダチソウは憎らしくなるほど背が高かったが、近頃はそんなに我が物顔に跋扈していないし、生えていても少しは慎ましくなっているような気がする。

友達の在日ブラジル人に、「日本に来たとき、木が小さいと思わなかった?」 と聞くと、我が意を得たりというように、「思った、思った!」 と答えた。「まるで箱庭みたいと思ったよ」 という。さすがに日系人だけに、箱庭という文化を知っているのがうれしい。

我々日本人は逆に、大陸に旅行すると木が大きいと感じる。日本の木々が繊細で風流な様子で生えているのに対し、大陸の木々はまるで腕ずくのように、力任せに生えている。

動物も植物も、どうやら大陸で育つと体が大きくなるらしい。日本人が小柄なのは島国で育っている以上、仕方のないことのようだ。

なぜこんなことを言っているかというと、今回の FIFA ワールドカップでの日本チームを見た印象からである。日本チームの選手は、平均的に小柄である。フィジカルが弱いから、パワープレイになるとすぐに負ける。プレスをかけられて押しまくられる。

岡田監督が当初の理想とした細かなパスを通しまくってゴールに迫るサッカーができなかったのは、日本選手がフィジカルに劣るので、どうしてもプレスに負けてしまい、思うようなパスを通せないからだ。

しかし、今年は本田やトゥーリオのような、フィジカルでも負けない選手が育っているということも見逃してはならない。これは日本のサッカーにおける期待の星である。

昔は、フィジカルと運動能力に優れた子は、まず野球という種目に流れた。サッカーには二番手の子しか回ってこなかったのだ。プロ野球の選手と J リーガーの体格を比べてみればわかる。プロ野球の選手は平均してがっちりしている。尻周りなんて、J リーガーの比じゃない。

ところが、近頃ようやく、フィジカルでも運動能力でも一番優れた子がサッカーをやるような風潮になってきたような気がする。これまでは、いわば 「超二流」 の人材がサッカーをやっていたが、最近はようやく 「一流」 の素質がサッカーに来るようになった。

それを考えると、日本のサッカーもこれからは少しは世界に比して戦うための土台ができてくるかもしれない。

それから、余計なことだが、最近の大相撲が外国人の天下になっているのは、日本の体力のある子が相撲の世界に行かなくなったからである。親としたって、自分のかわいい子をあんなわけのわからない世界に放り込もうとは思わない。

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2010/07/05

iPad でプリントアウトができないということについて

一昨日の記事で私は 「PC の時代の終わり」 が現実感を伴ってきたと書き、古~い母艦 PC が一家に 1台あれば、あとは個人が iPad (あるいはそれに類したデバイス) をもつことで、ホームユースにおけるたいていの用は足りると書いた。「PC は 1人 1台の時代」 というのは、確実に過ぎ去った。

ところが今朝になって、「iPad はプリントアウトができないので、使い物にならない」 という指摘があることを知った。なるほど。そりゃそのくらいできるに越したことはないが、一方で iPad のようなデバイスでプリントアウトできないということが、それほど致命的なことかなあと、疑問に思った。

そもそも、iPad を使う目的の一つは、ペーパーレスを実現することだったはずである。ペーパーレスにしたその一方で、プリントアウトできないと鬼の首でも取ったように言うのは、反則スレスレという気がする。

プリントアウトする必要があるのは、ほとんどの場合、PC をそのまま持ち歩くのが困難だからである。だからデータの持ち歩き用に、紙の形で小出ししなければならないのだ。ところが iPad なら、紙の形にしたら何十ページにもなってしまうような文書でも、そのまま持ち歩ける。

ということは、フツーに使う限りは、そもそもプリントアウトする必要がない。プリントアウトするだけ紙とインクの無駄と思うべきなのだ。「この文書を誰かに手渡したい」 という場合でも、メールで送ればいい。受け取った側が iPad なら、そのまま持ち歩けばいいし、重い PC しかなくて、どうしても紙の形にしたいなら、そこで初めてプリントアウトすればいい。

ホームユースで掛け値なしにプリントアウトする必要があるのは、年賀状や暑中見舞いなどの 「はがき印刷」 である。こればかりは、紙に印刷しないでは用が済まない。年賀状メールなんていうのもあるが、まだまだ実際のはがきの形をしたもので送るというニーズは高い。

実際のところ、私はどうしてもプリントアウトしなければならないというのは、このケース以外に思いつかない。しかし、この程度のニーズなら、家にある古い PC で十分である。私には年賀状印刷を iPad でやろうなんて発想がない。

そんな時間のかかるつまらない単純作業は時代物の PC とプリンターに任せて、その間、iPad でウェブ・ブラウジングをしている方がいい。そのためにも、「母艦主義」 というのは案外合理的なのかもしれない。

それから 「いくら軽いといっても、iPad を持ち歩くのはイヤ」 というなら、iPhone に転送すればいい。私は既にこの手で、どこに出張するにも資料や地図などの紙の束を持ち歩かなくてもいいようにしている。

余談だが、iPad でどうしても緊急にプリントアウトしなければならなくなった時の裏技が紹介されていた。iPad の画面そのものを、コピーしちゃうのである。いつでもどこでも、コンビニに飛び込めばいいのだ (参照)。でも、これで本当にコピーできるのかなあ。それだけが大いに心配だ。眉に唾をつけたくなるほど心配だ。

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2010/07/04

永遠の逃げ水を追うネット通信

基地局免許取得数、ついに UQ WiMAX がイー・モバイルを追い抜く」 という Gigazine のタイトルをみて、「おぉ、私もついに E-Mobile から WiMax に乗り換える時が来たのか」 と思ったが、サービスエリアの広さでは、まだまだ E-Mobile の方が圧倒的に優位にあるようだ。

私が最近購入した Panasonic の CF-S9 は初めから WiMax 内蔵なので、その時期が来たら単に WiMax との新規契約をして、E-Mobile との契約を打ち切ればいいだけのことだ。ところが、私がちょくちょく訪問する先というのは、ようやく E-Mobile にカバーされたばかりというところも多いので、まだまだ乗り換えるわけにもいかない。

とくに、私の実家は 80歳を過ぎた父が一人暮らしをしているので、今さら 「光ファイバー引いてみない?」 なんていうわけにもいかず、帰郷したときには E-Mobile でつなぎっぱなしにするしかない。WiMax は、山形県ではまだ、山形市の一部をカバーし始めたばかりのようで、比較検討する対象にすらならない。

WiMax がカバーエリアを広げれば広げるほど、E-Mobile の方でも先行者利益を駆使してさらにエリア拡大に走るだろうから、しばらくは、WiMax にとっては 「逃げ水」 を追うような状態が続くだろう。

飽和点に達して、WiMax がようやく追いついた頃には、また新たな通信メソッドが登場しているかもしれないので、私としては、ようやく乗り換えた WiMax を使いながら、いつまた新手に乗り換えるべきか、ちらちら横目を使い続けることになるのだろう。

この世界、永遠の逃げ水を追う宿命のようなのだ。

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2010/07/03

「PC の時代の終わり」 が現実感をもってきた

先月 28日に 「色あせつつある Microsoft の時代」 という記事を書きながら、「もう少し革新的なことを書いたことがあるような気がするなあ」 と思っていたのだが、今朝ふと 「PC の時代は 2015年で終わり?」 というのを書いたことを思い出した。3年半も前のことである。

この記事を書いた発端は、この頃新装なった月刊アスキーの、電車内の吊り広告にそう書かれていたことだ。残念ながら、このときは広告のキャッチコピーを印象にとどめただけで、雑誌の記事は読んでいない。「ふぅん」 と思っただけで、あまり現実感を伴っていなかったためだろう。

ところが、3年ちょっと経って、にわかに 「PC の時代の終わり」 が現実感をもってきたのである。ああ、あのときちゃんと雑誌を買って記事を読んでおくんだったと思ったが、まあ、別にいい。まさか 3年半前に iPad の登場が明確に予言されていたわけでもないだろうし。

ちょっと前までは、「パソコンぐらいできなきゃね」 と、定年をすぎたオッサンが街のパソコン・スクールに通ったりするのがニュースになっていたが、もうそんな必要はない。ホーム・ユースならば、iPad で十分である。元々 PC は、ビジネス・ユースにしてもオーバースペックなんだから。

うちの娘たちを見ていても、「職場では Windows マシンを使っていても、家ではインターネットとデジタル写真の整理と iPod の同期ぐらいしかしないのに、それぞれが専用の PC 持つなんてもったいないよなあ」 という気がしていた。今後は母艦になる PC が一台あれば、あとはそれぞれが iPad (iPhone でも iPod Touch でもいいけど) を持てばいい。

母艦は最低限のサーバみたいなものだから、別に最新型でなくても、iPad の同期ができればいい。手元にある PC を何年でも使い続ければいいのである。そのうちに母艦さえもクラウドの中に吸収されるだろうから、あせって買い換えなんかする必要はない。

そうなると、少なくともホームユースでの PC は、ほとんど使命を果たし終えたということになるだろう。

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2010/07/02

アルハラをめぐる冒険

Twitter 上の発言をきっかけに、はてぶ (「はてなブックマーク」 が正しいのかな?) 上で、アルハラ (酒に関するハラスメント) についての論議が盛り上がったようだ。

きっかけは、@shsetu さんという方の新入社員歓迎だかなんだかの飲み会に関する嫌悪発言のオンパレードに、酒嫌い、あるいは飲み会嫌いによる同感のレスが続いたところに、@akcanon さんが次のような tweet をかましたことのようである。(参照

飲めない事をただ強調するんじゃなくてキチンと理由まで説明すべきだと思うな。学生じゃなくて社会人だし、職場のコミュニケーションて大切なことだよ。お金貰ってるから仕事だけしてればいいってもんじゃないよ。

これについて、Twitter 上というよりは、はてぶ上で火がついたようだ。「飲めない理由」 なんて 「体質」 よりほかにないし、それをいちいち説明しろというのは理不尽である。それで @akcanon さんはかなり叩かれたようで、きちんと反省し、いちいち詫びを入れておいでだ。(詫びのうちのひとつが、こちら

@shsetu さんは本当に酒に弱い体質のようで、これまでにも飲み会で飲酒を強要され、具合悪くなったことが何度もあるようだ。とすれば、「飲まさずにはおかん」 みたいな雰囲気の飲み会はたまらんと思う気持ちはよくわかるし、それに対して 「飲めない理由を説明しろ」 みたいな言い方されたら、そりゃむっとくるだろう。

この間の事情について、ululun さんのブックマーク のおかげで、kanose さんという方が Togetter でうまくまとめてくれている (参照) のを読むことができた。

これを読むにつけ、世の中には職場の飲み会が楽しみで楽しみで、しかも 「飲めない」 と言っている部下に無理矢理飲ませるのを無情の楽しみにしているやつらがいる一方で、当然ながら、それが苦痛で苦痛でしょうがない人間というのがかなり存在しているとわかる。

私は一昨年の 6月に 「酒離れの事情」 というエントリーで、近頃の若者には、たとえ酒が好きでも、職場の飲み会は嫌いという風潮があると書いている。ましてや、酒を受け付けない体質だったら、職場の飲み会は苦痛のほかの何物でもないということが多いだろう。

かくいう私も、そんなに飲み会したかったら、飲みたい者だけで行けばいいという考えである。職場で必要な情報 (仕事には直接関係ないけれど、共有しておく方がいいという情報も含めて) なら、職場で語ればいい。職場で語れないような裏情報をうかつに共有してしまうと、妙なオッサンと妙な共犯関係が構築されてしまって、うっとうしいのである。

「職場では語れないことを飲み会で語り合う」 なんてビミョーなことが大好きな人は、こうした 「妙な共犯関係」 を構築しておきたい人だ。非公式な共犯関係を構築することが必要な場合も、時にはないわけじゃないが、そんなにしょっちゅう望みもしない共犯関係に引きずり込まれるのは、たまったもんじゃないのである。

飲み会にマメに顔を出しておく方が、出世のためにプラスになるという人もいる。しかし、出世の代償がおもしろくもない飲み会にしょっちゅう付き合うなんてことなら、出世なんてしなくて、もっと有意義なことに時間を使いたいという価値観があるということに、飲み会大好き人間は気付かない。

彼らは、飲み会で楽しめて、その上に出世ができるのなら、こんなにいいことはないと思っている。なんという価値観の乖離だろう。今時こうした種族がリードする会社は、ロクなものじゃないと思っていい。

誤解のないように最後に断っておくが、私は気の合う者同士の飲み会なら大好きである。しかし、そこに嫌らしい上下関係とか利害関係とかいうややこしい要素が入り込むと、とたんに嫌になる。酒のつきあいの仕方で左右されるなんていう仕事は、したくないものである。そんな仕事にしがみつかなくても、メシは食えるので。

さらに、たとえ上下関係や利害関係がなくても、全然話の合わない人と飲むというだけでも私なんか、かなり苦痛に思ってしまう。私の飲み会の間口は、かなり狭い。せっかくの飲み会ならうまい酒を飲みたいし、うまい酒になるかどうかは、一緒に飲む相手によるのである。

楽しい飲み会なら、たとえ酒が飲めない体質でも、酒を飲めるやつと同じ会費を払ってウーロン茶オンリーでいいから、喜んで参加したいと思うだろう。

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2010/07/01

複雑なことを単純化して考える以上の賢さ

複雑なことを上手に単純化できるということは、一つの才能である。複雑なことを人に説明するときに、単純モデルに還元してわかりやすく説明できる人は、頭のいい人である。フツーは複雑なままだらだらと説明するから、説明しているつもりでますますわかりにくくしている。

思考方法もそれと同じことが言える。複雑なものごとをできるだけシンプルなモデルに還元して考えることができれば、結論が出やすい。シンプル化しないと、堂々巡りに陥るだけである。

最近 Twitter で Retweet されまくっている発言に、次のようなものがある。(参照

バカなやつは単純なことを複雑に考える。普通のやつは複雑なことを複雑に考える。賢いやつは複雑なことを単純に考える。複雑に考えるというのは一見頭のいい人のすることのように思えるが、実はまったく逆で単に無駄な回り道。賢い人は単純な姿に変えて核心だけを残すことができる。

これには、私もおおむね賛成である。というより、「複雑に考える」 というのは、「単純モデルに還元できない」 という時点で、実際は 「思考停止」 に陥っているということだ。つまり、実質的には 「考えてなんかいない」 のである。

しかし、ここで忘れてはならないこともある。最近何度も書いていることだが、複雑系を単純モデルに還元する過程で、切り捨ててしまう要素というのがかなりあるということだ。

思考における単純化モデルというのは、実際のケースそのままの状態を反映していない。あまり重要でないと思われるいろいろな要素を切り捨ててしまった 「思考のためのモデル」 にすぎない。だから、思考モデルを使って思考した結論が、実際のケースにそのまま無条件に当てはまるわけではない。

実際のケースは複雑系だから、シンプル化された思考モデルの結論を裏切るかもしれない要素を、いろいろと含んでいるものなのだ。少なくとも、実社会とか世間とかいうものはノイズに満ちているから、「世の中、理屈通りには行かない」 ということになるのは当然なのである。

ところが中途半端に利口な人は、「理屈通りに行かない世の中の方が悪い」 と考えてしまう。自分の論理の不完全さには、まったく無自覚のままで。正直に言うが、私自身にしても、昔はそんなところがあった。

つまり私の言いたいのは、「賢い人は複雑なことを単純に考えるが、もっと賢い人は、単純化した過程で切り捨ててしまったファクターがあるということに、きちんと自覚的である」 、つまり、「論理思考の結論の不完全さに自覚的である」 ということだ。

「今回心ならずも対象外にしてしまった要素については、いつかしかるべきタイミングで、きっと考慮させてもらうからね」 と思えるのが、本当に賢い人である。

誤解を避けるために言っておくが、私は単純化モデルによる論理思考を否定しているわけではない。モデル思考は、前頭葉における機能の限界に規定された状況下では、最善策と言っていいだろう。しかし、万能のメソッドではないということを自覚して、謙虚に思考しなければならないのだ。

私自身は個別の案件については十分にかどうかはわからないけれど、論理的な対応をしているつもりである。しかし、最終的には直感の方を重視する。それでうまくいくことの方が、実は多い。考えに考えた上での直観 (インスピレーション) は、理屈を超えてはいるけど、決して理不尽なものじゃない。

参照: 人間の脳はデュアルタスクが限度なので
    人間の脳は三等分すら苦手なので
    論理思考の限界
    論理思考の限界 その2

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