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2010/09/13

法律論とはうっとうしいもの

例の 「押尾薬物事件」 裁判の 6日目、弁護側は薬物中毒に詳しい専門家の証人を立てて、押尾被告がもし救急車を呼んでいたとしても、救命可能性はきわめて低かったし、被害者に心臓マッサージを施しているということは、評価されるとして、「保護責任者遺棄致死」 の罪状は免れると主張しているようだ。

法律解釈というのは、なかなか大変なものである。フツーの常識なら、一緒の部屋にいた者がドラッグのせいで重篤な異変を現わした時に、救急車も呼ばずに素人の心臓マッサージ程度で済ませていたら、それは 「見殺し」 にしたに等しいと思われても仕方がないのだが、罪に問うためには、救急車を呼べば助かったはずということを証明しなければならないらしい。

つまり、同じ見殺しに等しい行為をしても、助かるはずのものだったら有罪になるし、どうせ助からないなら無罪になるということで、罪になるかならないかは条件次第ということだ。しかし、助かるか助からないかなんて、そのとき居合わせた素人には容易にはわからないのだから、同じ無責任な行動でも運次第で有罪になったり無罪になったりする。

裁かれるのは行動そのものではなく、事件発生時点の当事者には知りようがなかったところの、「助かるか、助からないか」 という条件がくっついて、初めて裁かれるみたいな、妙なことになる。法律論というのは、なかなか不条理なものである。

常識的には、どうせ助からなくても、遺体を放りっぱなしにしたというだけでも十分に 「ヤバイんじゃねえの?」 ということになるのだが、それはこの際、問題にならないらしい。常識と法律とは、時としてかなりかけはなれたものになってしまうようなのだ。そんなこと知ってはいたが、やっぱり割り切れないところがある。

しかし、救急車を呼んでもどうせ助からなかったということを、もし認めるとしたら、押尾被告は、「そんな危険なドラッグを飲ませた」 ということで、「過失殺人」、下手すると 「未必の故意の殺人」 ということになりかねないではないか。つまり、このロジックは諸刃の剣である。

そして、例えそのドラッグは押尾被告が調達したものでなく、被害者が自ら持ち込んだもので、つまり、「自分のもってきたドラッグを飲んで勝手に死んだ」 というストーリーが認められたとしても、その場に居合わせて一緒に服用した押尾被告は、「救いようのない馬鹿野郎」 ということになるだろう。

押尾サイドの戦略が功を奏して、たとえ無罪を勝ち取ったとしても、この 「救いようのない馬鹿野郎」 という汚名を晴らすのは、なかなか容易なことではない。彼がそのくらいの覚悟で公判に臨んでいるのだということを、心の底では期待する。そうでないとしたら、こう言っちゃ何だが、馬鹿野郎以下である。

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