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2010/11/06

「アジアでがんを生き延びる」 というイベントがあったようだ

久しぶりで TBS ラジオの 「土曜ワイド 六輔その新世界」 を聞いて、3日前の文化の日に東京駒場の東京大学先端科学技術研究センターで、 「アジアでがんを生き延びる - アジアのくらしと文化とがんと」 というイベントが開かれたことを知った。(チラシはこちら

永さんご自身も、「アジアの多様性が私たちを救う - 民俗誌的考察からみたがんという病」 というパネルディスカッションに、パネラーとして参加された。永さんは最近、すっかり復活されて、こちらが想像力を駆使しなくても何をしゃべっているかわかるようになったので、喜ばしい限りである。ああ、前もって知ってたら、私もこのイベントに行きたかったなあ。残念。

このイベントには朝鮮半島のシャーマンも参加しておられたという。東洋医学や鍼灸などといった、ある程度はアカデミズムにも認められている分野だけでなく、こうした 「まじない」 的分野まで排除することなく、非常に広い視点でこのイベントが運営されたことを、私はとても好ましく感じた。(反対に 「好ましくない」 と感じる方も多いだろうが)

このイベントを主催した 「アジアがんフォーラム」 というのは、Collective Intelligence, Contextual Intelligence, Continuous Intelligence (ざっと訳すことで意味合いが狭められてしまうが、総合的知性、文脈関係的知性、継続的知性) という、3つのインテリジェンスを集め、アジアのいのちの繋がりのなかで 「がん」 を乗り越えることを目指す団体であるらしい。

とくに、純粋医学的な視点でのみでなく、文化的視点まで統合して 「がん」 を乗り越える (「がんと戦う」 などではないところが重要だと、私は感じる) と言っているところが興味深い。下手したら、科学の視点からは 「トンデモ」 と言われかねないが、こうした Collective Intelligence の視点での模索を行うことには、一定の意味があると考える。

私は一昨日の 「理屈通りに行かないのが、世界のありよう」 という記事で、以下のように書いた。

論理というものは、とことん突き詰めれば 「不確実性」 に行き当たらざるを得ない。この不確実性を笠に着て、チョー怪しい試みまで 「科学的」 と言い張る一部のカルトには、私は決して与しないが、注意深く進められるオルタナティブな可能性へのトライアルまで、「科学的でない」 という一言で全否定してしまうのは、かなりもったいないと思う。

そして、こうしたコンセプトからそう遠くないと思われる試みが現実に進行していることを知り、私はとても嬉しくなってしまった。

がんということですぐに思い当たったのは、外科医の土橋重孝先生という方が書かれた 『ガンをつくる心 治す心』 という本である。私は一昨年の暮れにこの本のレビューを書いている (参照)。

おもしろいのは、この本の著者でがん治療のエキスパートでもある土橋先生ご自身が、西洋医学ではがんが 「完治」 することはなく、「5年生存率」 をいかに上げるかに終始しているが、末期の進行ガンが治ってしまうということが現実にあり、「それらのケースはすべて、病院の治療とは別のところで起きている」 としている点である。

長年にわたって 「西洋医学という科学」 の最前線に立って素晴らしい実績を上げておられる医学者が、「本人の心が変わったことで治ったとしか思われない」 として、自ら 「科学的でない」 というメソッドでガンというものを見つめ直しておられるのである。

ストレスががんの要因の一つであるというのは、既に知られたところなので、「本人の心が変わることでがんが治ることがある」 というのは、あり得ないことではない。それどころか、がん治療のエキスパートが現にそれを認めておられる。

心が変わることでがんが治ることがあるのなら、がんに向かい合うには、医学という科学だけではなく、統合的な 「文化」 というものまで援用することにも意味があるだろう。そしてその 「文化」 の中にはシャーマニズムも含まれるから、優先順位は別として、初めからそれを排除する理由はない。むしろ、そこに何らかのヒントが見いだされる可能性すらある。

言うまでもないことだが、言っておかないとことさら誤解する人もいるので、ばからしいと思いつつも念のため言っておくが、私は、病院でシャーマンが護摩を焚いてまじないをすればいいと言っているわけでは決してない。「ありがとう」 と書いたお札を貼った容器に入った水を飲めばいいと言っているわけでもない。

ただ、そうしたたぐいの 「ノイズ」 としかみえないような要素にも、全然 「科学的」 ではないが 「文化的」 な意味ならあるかもしれない、いや多分あるだろう。文化とはある意味、集団的な気の迷いでもある。極端な迷いまで含めて、文化である。注意深さは必要だが、トータルに取り扱うことには何らかの意味がある。

で、こうしたことを書くと、そんなインチキで荒唐無稽な金儲けをするやつがいるのが許せないという批判が決まってあがるのだが、それは、オルタナティブな試みそのものが悪いのではなく、それを悪用するやつが悪いのである。それをごっちゃにしてはいけない。

どんな分野にでも特有のシステムを悪用して理不尽な金儲けをするやつはいる。西洋医学だって、本来要りもしない薬を大量に出して、保険料を無駄遣いしているという非難はある。極端な例だが、命の危険性で言ったら自動車産業の方がずっと危ない。自動車の有用性の方を圧倒的に評価したトレードオフの上に成り立っているだけだ。

ナイフそのものは善くも悪くもない。ニュートラルである。ナイフで人を傷つけるやつが悪い。リスクを認識しつつ、注意深く取り扱えばいいのだ。そんなわけで、非常に注意深く進められるオルタナティブな試みにまで価値がないとは、私には到底言えないのである。

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コメント

医療が病気にとって「救い」であるならば、
まじないや信仰も同じく「救い」でありえるでしょう。
念仏をとなえながら晩年をすごした人に、
「そんなもの何でもない」と言うのは科学ですが、
救いではないでしょう。
(ちゃんとした「科学」なら、そうした精神的要素も
 考慮してくれるでしょうが)

投稿: キセ | 2010/11/06 12:57

キセ さん:

>(ちゃんとした「科学」なら、そうした精神的要素も考慮してくれるでしょうが)

とりあえずは、科学には科学に集中した成果を求めたいと思います。

フツーは科学だなんて思われていない分野にまで単純科学視点で割り込むのは……、おっとこれ以上は言わないでおきましょう。

科学でもなんでもないことに「科学みたいな隠れ蓑」を着せている人がいるからこそ、そういうことが起きるので。

投稿: tak | 2010/11/06 14:18

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