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2011年2月に作成された投稿

2011/02/28

入試問題漏洩の解答がお粗末だったわけ

夕べ、例の入試問題漏洩事件のニュースで、Yahoo 質問箱に載った和文英訳の 「解答」 があまりにヒドイので、「かなりお粗末なレベルとしか言いようがない。大した点数になりそうにないから、大勢に影響ないんじゃなかろうか」 と tweet した(参照)。解答要員を配置するなら、もう少し頭のいいヤツを選ばなければ、骨折り損になるだけである。

ところが今日になって twitter 上で、この 「解答」 が 「Google 翻訳」 の自動翻訳のまんまだという tweet があり、どれどれと試してみたら、まさにその通り (参照) なので、笑うというよりがくっと脱力してしまった。

この 「解答もどき」 には、厚かましくも 「直訳すぎたかな?」 なんてコメントがついているが、一体何考えてるんだ、こいつ。直訳にすらなってないよ。

いずれにしても、Google 翻訳の和文英訳結果が、まともに使い物になると信じて疑わない人間が少なからずいることには、驚いてしまう。2年半ほど前、ある業界産地団体の海外向けパンフレットの英語翻訳がヒドすぎると書いたが、これも自動翻訳の結果をそのまま掲載したのだと後日になってわかり、私は唖然としてしまった(参照)。

今回の騒ぎを機に、自動翻訳の結果は、下訳の参考程度にするしかないと、広く知れ渡ってくれると、専門の翻訳業者の仕事が増えることになるかもしれない。

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2011/02/27

「アンチ巨人」 を巡る冒険

またしてもプロ野球シーズンが近づいて、キャンプ情報などがいろいろと伝えられている。プロ野球シーズンに入ってしまうと、夜のラジオはナイター中継ばかりでつまらなくなる。最近はテレビの方では、どのチャンネルも巨人戦ばかりということがなくなったようで、喜ばしいことだが。

ちょっと前まではテレビもラジオも、ほとんど巨人戦の中継ばかりという状態で、春から秋にかけての夜の時間帯は味気ないものだった。ところが世のアンチ巨人は、巨人が負けるのが楽しみなので、野球中継を見たり聞いたりしているようなのである。その辺りが 「アンチ巨人も巨人ファン」 と言われる由縁だ。

私は巨人に反感を覚えはするが、そこまで徹底したアンチ巨人体質ではない。世の 「アンチ巨人」 の心底には、共通した意識というのがあると思う。それは 「俺は、マスコミで垂れ流される情報を盲目的に受け入れるような人間じゃないんだからね」 という、ある種のプライドのようなものではなかろうか。

彼らは、圧倒的な物量で垂れ流される巨人情報を苦々しく思い、意識的に反発しているのである。その点、いわゆる巨人ファンは、マスコミ情報を案外素直に受け入れるタイプが多いように見受けられる。

アンチ巨人は大抵の場合、「巨人が負けさえすれば嬉しい」 という共通の心情をもっている。巨人を負かすのはどのチームでもかまわない。その結果、どこか優勝してもいい。巨人以外の多くのチームに活躍してもらい、力が平準化するのがプロ野球の発展のためには望ましいと思っている。

その辺が、熱狂的巨人ファンよりも、多少アンチ巨人がかっている人の方が付き合いやすいと思ってしまう由縁だ。ただ、「巨人憎し」 が行き過ぎると、それはそれで付き合いにくくなってしまうのだが。

私も前は客観的に、「チーム力を均等化する方が、長い目で見ればプロ野球の発展につながるのに」 と思っていたが、最近はどうでもよくなった。近頃では。サッカー中継の方がおもしろいと思うようになったので、プロ野球があまり盛んになられては困るという気持ちの方が強くなったのだ。

だから今も巨人への反感は覚えるが、いっそ巨人に一極集中しすぎて、そのことでプロ野球が衰退してもかまわないとさえ思っているのである。

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2011/02/26

岡本太郎氏の大芸術家ぶり

今日が岡本太郎氏の生誕 100周年だったそうだ。岡本太郎氏の姿は、一度だけナマで拝見したことがある。あれは昭和 48年頃だったと思う。例の大阪万博の 『太陽の塔』 のイメージがまだ鮮明だった頃のお話だ。

NHK 教育テレビで、何という番組だったか、若者の意識を探るというようなテーマの番組に、大学生 100人のうちの一人として出ることになった。謝礼として 5000円ぐらいもらった憶えがある。当時としてはかなりおいしいバイトだった。

スタジオに 100人の学生が座るひな壇が用意され、そこに座らせられる。ボタンが二つ付いたポケットベルみたいな器具が各自に渡され、質問にイエスだったら 1番、ノーだったら 2番のボタンを押すようにと説明された (ような記憶がある)。我々がボタンを押すたびに、スタジオの電光掲示板にイエスとノーの数が瞬時に表示される。

我々 100人の学生の前には、著名人代表が 確か 3名ぐらい着席された。全員は覚えていないが、その中の岡本太郎氏だけは鮮烈に覚えている。

番組制作者側の意図としては、いろいろな質問をして我々にイエスかノーかで答えさせ、その合間に我々の言いたいことをちょっとずつ言わせることで、当時の若者気質を浮き彫りにすることにあったと思う。

当時は連合赤軍の浅間山荘事件を徒花として、あれだけ盛り上がっていた学生運動がしらけたまま収束に向かい、それに代わって、「神田川」 という歌に象徴されるような四畳半下宿趣味やらカウンターカルチャーやらが、台頭しつつある頃だった。

そうしたキーワードに焦点を当てつつ、ゲストの著名人にもちょっとずつコメントしてもらうということだったのだと思う。それはもう、番組が始まる前から露骨に感じられた。我々学生は、そのダシに使われているのだから、謝礼をもらう以上、その番組制作意図にしっかりと協力しなければならないような雰囲気が漂っていた。

ところが、岡本太郎氏だけは、そんな番組制作者の意図を完全に無視していた。一度マイクを向けられたが百年目、驚くほどの長々とした独演会になってしまったのである。

どんなことをしゃべったのかというと、「今の (もちろん 1970年代のという意味) 若者は型にはまりすぎている」 とかいう批判から始まり、話は弥生文化、縄文文化に飛躍する。今の日本文化は弥生文化の影響下にあるが、本来の源流は縄文文化にあるのであり、若者たちは縄文文化をもう一度見直すべきだというようなことを蕩々と力説された。

なにしろ、相手は大芸術家である。その大演説をさえぎる度胸のあるものは、スタジオには一人もいない。岡本氏は例の燃え上がるような目をカッと見開いて一人で盛り上がり、学生たちはその逆で、目が点になったまま呆然としていた。私としては大芸術家の文化論をバイト代もらって聞いたので、とてもトクしたような気持ちだったが。

いずれにしても、大芸術家は 「空気を読む」 なんてしゃらくさいことには一切無頓着で、日の出るような勢いで自分の姿勢を示した挙げ句、番組をぶちこわしたことなど全く意に介さず、意気揚々とお帰りになったのだった。

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2011/02/25

春一番が吹いた

カーラジオを聞いていたら、関東で午前中に春一番が吹いたと言っていた。朝の天気予報では、春一番の条件には日本海側に低気圧が進んでいるというのがあるので、今日は微妙なところだなんてことだったが、委細かまわず春一番の認定をしてしまったようだ。まあ、このくらいの暖かい風が吹けば、細かいことは言いにくい。

ついでに長期予報まで聞いていると、今年の夏は平年に比べて暑くなると見られるのだそうだ。去年に続いてまた今年も猛暑になるのはかなわんなあと思いながら聞いていると、お天気キャスターの方でもその懸念を察して、「とはいえ、去年のような暑さにはなりません。『日本の夏』 という程度の暑さでしょう」 なんて気休めを言ってくれた。

長期予報というのは当たるより外れる確率の方が高いから、猛暑にはならないことを期待したい。しかし、「去年ほどの暑さにはならない」 という予測の方が外れてしまったら、大変なことである。二年連続であんな規格外の猛暑になってしまったら、人間は世をはかなんでしまう。

何しろ、近頃は天気が極端なのである。今日はやたら暖かくなっているが、つくば辺りでは、明日の夜明けは氷点下になるらしい。体がついていくのがやっとだ。体調を崩さないようにしたいものである。

年度末に近づいて、いろいろな仕事が重なってしまっているので、今日はこのくらいで失礼。

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2011/02/24

radiko って、すぐに機嫌が悪くなる

今年になって 「radiko というサイト」 「radiko を巡る冒険」 と、radiko に関して 2本の記事を書いた。まあ、最初のは、ラジオを持ち歩かなくてもインターネットでラジオが聴けるようになって嬉しいという話で、次のは、radiko  って放送利権が絡んでて、なかなかうっとうしいところがあるという話である。

で、今回は単純に、「radiko って、性能悪いんじゃないの?」 というお話だ。私は PC に向かってデスクワークをしながら、radiko  を聞くことが多い。とくに最近は、radiko のガジェットを入れてしまって、ブラウザを開かなくてもラジオを聞くことができるので、重宝している。

いや、「重宝している」 ではなく、「重宝すると思った」 の方が正しい。実際にやってみると、radiko  って、すぐに機嫌が悪くなる。かなり頻繁に受信できなくなってしまうのだ。番組を聞いていると、突然音声が聞こえなくなる。ガジェットをみると、再生ボタン (右向きの三角印のあるやつ) が点滅している。

どうやら、電波、いや電波じゃない、何て言ったらいいんだ? 要するに、インターネットの放送信号が受信できなくなると、radiko って突然ぷつんと放送が切れてしまうのだ。これって、かなりのストレスである。別にインターネットの通信状態が悪いわけではないのだが。

受信が切れるのは 1~2秒の短時間だったり、延々と続くこともある。延々と続く場合は、一度受信を切って改めてアクセスするので、最長ではどのくらいになるかわからない。これじゃ、「電波障害のある地域でも、インターネットで快適にラジオが聴ける」 なんていう謳い文句はニセ物ということになる。

これって、やっぱり受信地域を特定するためにわけのわからないシステムをかましたりしているから、時々おかしくなってしまうのだろうか。単純にやってもらいたいものだなあ。

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2011/02/23

半角カナを巡る冒険

Twitter で @kmiyazawa さんが、Apple 系で半角カナの入力がしにくいことについて、「半角カナって重視すべきなんですか?」 と疑問を投げかけていらした (参照)。私も同様に 「半角カナってそんなに必要なのかなあ」 と、不思議に思った。

それで、この tweet の源を追いかけてみたら、@higuhigu さんの 「超今さらなんだけど、iPhoneって半角カナ使えないの?」 という tweet に行き当たった (参照)。この方は補足的に、次のようにも tweet しておいでだ。(参照

昨晩飲みに行ったときにiPhoneで半角カナは使えないのか?と聞いたところ、必要か?と聞かれたので「(キリッ」とか半角で入力できないじゃん!と答えて、そこですか。。と言われたhiguhiguが通りますよ。

なるほど、私としては iPhone で半角カナが使えないことで困ったことは一度もないが、半角カナがスパッと入力できないと、特殊な事情には応えられないのだとわかった。確かに、「(キリッ)」 なんていうのは、半角でないと今イチ雰囲気が出ないと、こだわる人もいるのだろう。

ただ、私としてはそこまでこだわろうとも思わない。全角の 「(キリッ)」 でも別にいいんじゃないかと思うし、そもそも、メールでも tweet でも、そうしたレトリックはあまり使わないから、どっちでもいい。

半角カナというのは、元々はコンピュータ黎明期、カタカナしか受け付けなかった頃に、ファイルサイズ節約のために多用されたのではないかと思う。その頃の空気を引きずっている MS 系は、どうしても半角カナにつれない扱いをすることができないみたいなのだ。それで、半角カナを使うのは Windows ユーザーと思ってもいいとさえいわれている。

今は、記憶媒体の容量が飛躍的に大きくなったし、全角カナを半角にしたところで、ファイルサイズの縮小はたかが知れている。こうなったら、使う意味はあまりないだろうと思う。「(キリッ)」 とか、画面の小さいケータイとかの特殊な需要を除けば、単に昔のデータとの互換性のために残してあると言ってもいいかもしれない。

普通のテキストに半角カナが混在していると、個人的にはかなり違和感を覚える。私は日本語のテキストの中でも英数文字は原則として半角を使うことにしているが、カタカナを半角で使おうとは思わない。それは英文テキストで全角英文字と半角英文字を混在させないのと同じことだと思う。

単に見た目の統一感だけではなく、後である単語を検索しようとしたとき、下手に半角で入力してしまったために検索にひっかからないなんてことが生じたら、仕事の効率にも関わる。それを考えれば、全角で統一するのが自然だろう。

私が例外的に半角カナを使うのは、データベースの中の人名や会社名の読み仮名の項目だ。これだけは昔から自動的に半角カナに設定している。これをすべて全角で入力してしまったためにファイルサイズが膨らんで、ギリギリでフロッピーディスクに保存できなくなったなんて経験をした人もいるはずだ。

最近ではファイルサイズの問題はないが、単にふりがな入力欄の横幅をムダに大きくしないために、半角の設定にしているのである。

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2011/02/22

アイデア醸造には、「寝かしておく」 ことが必要

昨年末頃から、私にしては 「大ネタ」 で書くことが多かったので、最近は少々頭の中が疲れてしまっている。さらに近頃いろいろと年度末の仕事が重なってしまっているので、大きなことを考えている暇がないという状態でもある。Twitter  への書込みすら減っている。

そんなこんなで、どうもブログの更新がおっくうになってしまっている。この状態を過ぎれば、今頭の中にバラバラに存在していて脈絡がつかない状態になっているいろいろなファクターが少しずつリンクし始めて、少しはまともな考えになっていきそうな気がするが、まだその段階に至っていない。

なんのかのと言っても、アイデアというのはある程度の期間、「寝かせておく」 ことが必要なのだと思う。それがないと、人の話の受け売りにしかならない。私のブログで人の話の受け売りを読んでもつまらないだろうから、人をつまらながらせるようなマネはしたくないのである。

思えば昨年の春までは、週末は 「唯一郎句集レビュー」 をしていた。1週間 7日間のうち、2日間はこれでいけたので、残りの 5日間分のアイデアさえ考えていればよかった。1年以上にわたってこのサイクルに慣れてしまったので、1週間に 7日分のアイデアをひねり出すのが苦痛になってしまったのかもしれない。

あるいは、「時事ネタ」 重視が過ぎているのかもしれない。実は最近、時事ネタでどうこう言う気力が失せつつあるのだ。昨日の記事でも書いたことだが、何を言ってもこの国は変わらない。政権交代してもかえっておかしくなってしまっている。しらけてしまうのである。これは 「無力感」 というのとは少し違うのだが。

まあ、もう少ししたら頭の中にリンクがびしびし張りまくられて、おもしろいアイデアが醸造されるだろうと、自分でも期待している。

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2011/02/21

世界と日本の歩調の違い

中東・北アフリカで、反独裁政府の運動が次々に拡大している。チュニジアに端を発し、エジプトで拡大し、あとは燎原の火の如く広がる一方だ。

この動き、日本から見ている限りではその本質が今イチよく見えない。チュニジア、エジプトのは明らかに反独裁政府の運動だったと思うのだが、イランの動きは、反原理主義という側面があるようだ。反独裁で民主化に向かうのか、イスラム原理主義に向かうのかが見えず、一度イスラム原理主義を通過して、より自由を求める動きになるのか、そのあたりがよくわからない。

いずれにしても、世界は新しいステージに向かっているのは確かなようなのである。世界はこんなにもアクティブに動いているのに、日本は一体何なのだという人もいる。エジプトで独裁政府が倒れようとしているときに、日本では相撲の八百長の話で持ちきりというのは、あまりといえばあんまりだと言うのである。

日本だって危機に瀕しているというのに、日本人は全然分かっていないと言うのである。これほどまでにどうしようもない世の中になってしまっているのに、どうして日本人の若者はデモをしないのかと言うのである。

うぅむ、日本では、何をしてもどうにも変わらないと、日本の若者たちは見切りを付けているのかもしれない。下手に動いても徒労感が残るばかりというのは、案外経験として知ってしまっている。

日本はしょっちゅう首相が変わる。こんなに政権トップがめまぐるしく変わる国は、少なくとも先進国の中ではチョー珍しいだろう。トップがこんなにもころころ変わっては、継続性のある統治は不可能とすら思われるのに、どうせ首相なんて大したことはしなくて、国の運営はほとんど官僚任せだから、大した支障もなくやれてしまっている。

日本国は政府が動かしているのではなく、官僚が動かしているのだ。ボロボロの政府がこれだけころころ変わっても支障なく動いているという事実が、それを証明している。ほとんど 「無政府状態」 なのに、下手に危機感を煽って動いても、誰も付いてこないのだから、動くだけばからしいと思っている。

官僚は半分は保身と既得権擁護のために動き、残りの半分の力で国を動かそうとするから、ダイナミックな変革なんか起きるわけがない。だから、世界の動きからは必然的に二歩も三歩も遅れる。これはそういうシステムなんだから当たり前である。

百歩ぐらい遅れてどうしようもなくなった時、この国もようやくまともに動き始めるのだろう。

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2011/02/20

スマートフォンでのアクセスが少なく集計されるわけ

昨日、「世の中の PC のほぼ半分はまだ Windows XP のようなのだ」 という記事で、「ブームと言われて久しいが、スマートフォンでインターネットを見るというのは、まだまだそれほど多くないようだ」 と書いた。

これは、このブログへのアクセス解析をのぞいてみたところ、OS 別の集計では  iPhone (iOS) が 2.3%、Android に至っては、コンマ以下の 0.8%しかなかったので、そのように結論づけたのである。ところが、よく考えるとそれは早まった考えのようだ。

そう気付いたのと同時に、HIROKAZU さんから 「私は iPhone で拝読していますが、RSS なのでカウントされてないと思います」 というコメントが入った。やっぱり、そうだったんだ。

iPhone など、スマートフォンでこのブログにアクセスすると、PC 用の画面とスマートファン用の画面の、どちらでも見ることができるが、どちらかといえばスマートフォン用に最適化された画面の方が読みやすいので、多くはそちらを選択されているのだろう。例えば、昨日の記事は、スマートフォン表示では こんな具合 になる。

上のリンクから PC で飛んでみると、多分横長のウィンドウに表示されるだろうが、ウィンドウの横幅を狭めて縦長にしてみると、スマートフォンで見ているのとほぼ同じような感じになる。もちろん、スマートフォンでも横にしてみれば横長で表示されるのだが。

問題は、このスマートフォン表示の場合、私の使っている NINJA TOOLS のアクセス分析にかからないということだ。つまりこのアクセス分析では、スマートフォンからのアクセス比率は、実際よりかなり過小に計算されていることが確実だということになる。

それはアクセスカウンターにしても同様だ。普段、このブログはウィークデイで 1500 以上のアクセスがある (週末は減る傾向がある) と表示されるのだが、スマートフォンからのアクセスでこのカウンターにかからないものが、かなりあるので、本当はもっと多くのアクセスがあると思っていいだろう。

ふと思いついて、ココログ純正のアクセス分析をのぞいてみたら、Windows XP でのアクセスは、過去 1ヶ月で 45.8%しかないとわかった。私の使っている 「忍者ツール」 での結果とは、5%近くの差がある。この 5%の差が、実はスマートフォンでのアクセスをカウントしているかしていないかによる差なのかもしねない。

ココログ純正の分析では、iOS は特定されないようで、その代わり、「判別不能」 というのが 6.6%に達している。この中の多くが iOS なんだろう。

おもしろいことに、Windows XP でのアクセスは、昨日 (土曜)は 42.0%、今日 (日曜) にいたってはまだ午後 5時段階のデータだが、35.1%と、ずいぶん少なくなっている。これは、会社の PC からのアクセスが減って、相対的にスマートフォンの比率が高くなっているからと思われる。ちなみに、日曜日の 「判別不能」 は 11.3%に増えている。

つまり、会社のデスクに向かっているのでなければ、家庭で PC を開いてインターネットにアクセスするという比率は、徐々にだが確実に減ってきているのだとみられる。今後、iPad などの情報端末が普及するにつれて、この傾向はさらに顕著になるだろう。

そうなると、私のブログのアクセスカウンターは、実態よりずっと低い数字を示すことになるんだろう。そのうち、なんとかしなきゃ。

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2011/02/19

世の中の PC のほぼ半分はまだ Windows XP のようなのだ

何気なくアクセス解析の OS 解析をのぞいてみると、私のサイトにアクセスしてくる人のほぼ半分 (50.4%) が、今でも Windows XP を使っているということがわかった。これを 「まだそんなものなのか」 と取るか、「いやいや、そんなものだろう」 と取るかは、微妙なところである。

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次いで Windows 7 が 19.4%、Windows Vista が 16.8%。この 3つを合わせて 86.6%と圧倒的多数を占める。さらに Windows 2000、Windows Server 2003、Windows 98、Windows ME を足せば、88.2%となる。マイクロソフト、さすがのものである。

それにしても、Windows XP がまだ半分を越しているというのは、個人的な印象としてはちょっとした驚きだ。市場における Windows のバージョンアップは、まだまだ進んでいないようなのである。要するに、本体の買い換えが進んでいないのだろう。ガンガン使い倒さなければ、ハードとしての XP マシンはまだもつということだ。

ちなみに iPhone (iOS) は 2.3%だ。もうちょっと多いかと思ったが、まだまだこんなものだったのか。こちらは iPhone と iPod Touch、iPad の 3機種が含まれるだろうが、この 3つのデバイスを合わせても 3% に満たないというのは、これまた驚きだ。

Android に至っては、コンマ以下の 0.8%。ブームと言われて久しいが、スマートフォンでインターネットを見るというのは、まだまだそれほど多くないようだ。確かに、スマートフォンはウェブページを見るには画面サイズが小さすぎる。これで長時間やったら、目がしょぼしょぼになってしまうだろう。

ただ、今後 iPad などの画面が大きめの情報端末が普及したら、Windows 系のシェアはどんどん減っていくのではないかと思う。Windows 系のシェアが 80%を切ったら、「PC の時代の終わり」 が現実味を帯びてくる。

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2011/02/18

ヨドバシカメラの店員は、当然のごとく客の進路妨害をする

大した問題じゃないんだけど、あまりにも度々のことなのでちょっとむかついて、ここに書いちゃうことにする。

以前 "「謝るツボ」 と 「パーソナルエリア」" という記事で書いたように、私はパーソナルエリアが日本人としては広い方のようで、人混みに無理矢理分け入るようなことは苦手なのだ。だから狭い通路などでは、幸か不幸か、自然に相手に道を譲ることが身に付いてしまっている。

ところが、私がよく行く秋葉原のヨドバシカメラの店員は、このあたりのマナーが全然できていないのだ。

私は、秋葉原にある某オフィスに関係があってしょっちゅう行くのだが、ついでに開店直後のヨドバシカメラで買い物をすることがよくある。開店直後のこの店は、阿鼻叫喚の様相である。例の 「♪まーるい緑の山手線」 のテーマソングがガンガン流れ、店員は 「いらっしゃいませー!」 と大声でわめきちらす。うるさくてたまらない。

その大声でわめき散らす店員の中で、案内係のお姉ちゃんだけがやたらとわざとらしい微笑をたたえて、ロボットのような会釈をスローモーションで無意味に繰り返すのが、ものすごく異様だ。とにかく、漫画よりすごい有様なのである。

そしてこの 「いらっしゃいませー!」 の阿鼻叫喚が終わると、この店の店員は接客業の基本をあっという間にどこかに置き忘れてしまうようなのである。最初に 「いらっしゃいませー!」 とわめきちらしさえすれば、免罪符を獲得したような気になるらしく、それから先は、とたんに傍若無人になる。

客の進路を塞がないというのは、接客業の基本である。ほとんどの店では、客が狭い通路を歩いていたら、店員は道を開けて待つように教育されている。ところがヨドバシの店員は、それができていない。一度や二度ではなく、この店に行くたびに、店員による進路妨害という仕打ちにあうのだ。

この店の店員は、急に横から出てきて、わざわざこちらの歩いている直前で立ち止まるので、危うくぶつかりそうになる。ところが、店員の方はぶつかりそうになったことに気付いていない。こちらを見ていないからだ。立ち止まって何をしているのかというと、陳列された商品を拭いたりしている。彼らは品物を見て、客を全然見ていないのである。

問題はそれにとどまらない。こちらの直前で立ち止まって道をふさぐだけでは気が済まないらしく、アキバのヨドバシ店員は、さらなる積極策に出る。

狭い通路を突進してきて、客に道を譲らせるのである。彼らは、客は店員に道を譲るのが当然と思っているらしく、「済みません」 の挨拶もない。一度など、周りに客がいて道を譲りようがないので、こちらは 5歩以上後ずさりして道を譲ったが、その店員は一言の挨拶もなく、さも当然のような顔をして疾風の如く立ち去った。私はあっけにとられて見送った。

いやしくもサービス業の店でこんなことをするのは、アキバのヨドバシ以外では見たことがない。アキバ以外の店舗でもそんなものなのかしらん。

こうしたことが稀な例なら、こちらも心の中で 「困ったもんだ」 と呟くだけで済ませたいところだが、あまりにも度々のことなので、ついこうして書いてしまったわけである。私はお店に直接電話して 「改めた方がいいよ」 なんて言ってあげるほどには親切じゃないので、後はヨドバシの関係者がたまたまこれを読んで反省するかどうかの問題である。

念のために言うのだが、私はことさらていねいな接客を求めているわけじゃない。単に、客の進路妨害をするな、客に 5歩以上も後ずさりさせるほど極端に道を譲らせて、さも当然のような顔をするな、この 2点のみを求めているのである。

それから、できることなら、店内をもう少し静かな環境にしてもらいたいのだが、これをヨドバシに言っても無理だろうな。

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2011/02/17

「おばんざい」 を巡る冒険

昨日は京都の洛南を廻ったが、あちこちで 「おばんざい」 の看板を目にした。「おばんざい」 というのは、「晩のおかず」 のことかと漠然と思っていたが、それはどうやら誤りで、漢字で書くと 「お番菜」 ということらしい (参照 1参照 2)。

「番」 は 「番茶」 の 「番」 と同じ意味合いで、粗末な日常のものという意味らしい。Goo 辞書にも、次のようにある。(参照

《番号を付けて多数備えておくものの意から》 名詞の上に付いて複合語をつくり、当番の人の用いるもの、また粗末なものの意を表す。「―傘」 「―茶」 「―槍(やり)」

つまり 「おばんざい」 とは、日常的で粗末なおかずのことのようなのだ。だがそれにしては、ずいぶんもっともらしく 「おばんざい」 を供する店がありすぎるではないか。どうしてまた、日常のおかずを、結構な値段で食わせてもらわなければならないのだ。

それに、「お抹茶」 とは言っても 「お番茶」 とはあまり言わない。「お番傘」 とはさらに言わない。「おばんざい」 だけ、どうして特別扱いで 「お」 が付かなければならないのだ。「万歳」 と区別するためか?

これはもしかしたら、伝統的な 「おばんざい」 は、今日ではもはや 「日常的な粗末なおかず」 というものではなくなってしまったためなのではあるまいか。

前述の Wikipedia のページには、「海に遠い盆地の京都では、寺も多く、漬物、乾物、精進料理を取り入れたおかずが発展し、よそとは違ったものがある」 とある。また、「京野菜」 と称される伝統的野菜も使われていた。悲しいことにこれらは、現代では 「日常のおかず」 とは言えなくなってしまっている。

つまり、本来的には 「粗末な日常のおかず」 であった 「おばんざい」 は、今では、わざわざ 「おばんざい」 の店にでも行かなければなかなか食べられない 「非日常的なおかず」 になってしまったようなのである。

ここまで考えて私は、マクドナルドが日本に上陸したとき、銀座に第一号店を出して、「貧乏人のファーストフード」 ではなく、「アメリカのお洒落な食べ物」 としてプロモーションしたことを思い出した。

珍しいものであれば、どんなものでもお洒落になってしまうのである。

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2011/02/16

洛南を廻る

仕事で神戸に来ている。仕事自体は明日なのだが、朝から入ってしまうので、前泊というわけだ。好都合なことに、今日は何の予定も入っていなかったから、朝から出て昼に京都で途中下車し、半日洛南を見物した。

初めは伏見稲荷とその周辺を廻ってみるつもりだったのだが、新幹線の中で急に思い立って醍醐寺に行きたくなった。豊臣秀吉が 「醍醐の花見」 をしたことで知られる桜の名所である。道順を調べているうちに、小野小町ゆかりの寺、随心院が近くにあると知り、話のタネに寄ってみることにした。さらに勧修寺も近いので、ものはついでと寄ることにした。

勧修寺は真言宗山階派の大本山。池のある庭がきれいだった。睡蓮の咲く頃はさぞ見事だろう。そこから歩いて10分ちょっと。随心院は 「小野小町ゆかり」 なんて言うから観光色の強いところかと思ったが、それほどではなく、結構落ち着いたいいお寺さんだった。ここも真言宗で善通寺派の大本山。

そこからさらに 10分ちょっと歩いて、醍醐寺。ここは真言宗醍醐派の総本山。今日は真言宗の大本山ばかり 3カ所も廻ってしまった。ここに着いたときには既に 3時を過ぎていて、醍醐三宝院の庭園を見る時間がなくなってしまっていた。

この醍醐寺、なかなかのもので、私はすっかり気に入ってしまったのである。霊宝館に展示された仏像は重要文化財のオンパレードで、国宝の五重塔、庭園もまた見事。本堂では 「五大力さんの法要」 が行われていたので、私もちゃっかりと混じって座っていた。ああ、今日は般若心経を何度聞いたことか。(写真は醍醐寺)

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ここで 4時を回ってしまったので、伏見稲荷はもう時間的に無理かとも思ったが、iPhone で路線を調べてみると、1時間以内に着きそうなのである。それに関東より日没が遅いから、何とか暗くならないうちにたどり着けるかと、行ってしまうことにした。

5時過ぎに着いてみると、さすがに関西である。十分明るい。有名な千本鳥居もくぐることができた。なかなかのお稲荷さんである。

それにしても、京都というところは何度来ても、初めて見る世界遺産を訪ねることができる。奥が深すぎるところである。

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2011/02/15

「方便」 を巡る冒険

前首相は余計なことばかり言い、現首相は初めの大風呂敷をだんだん小さく折りたたんでいく姿しか見せられない。民主党支持というわけでもないのに、前の総選挙で民主党に投票した私が馬鹿だった。こればかりは懺悔するしかない。本当に申し訳ないことである。

鳩山さんの 「辺野古基地・方便発言」 (参照) が、あちこちから大顰蹙をかっている。

そもそも、自民党政権時代に成立していた日米合意を勝手にご破算にするようなことを言い出した舌の根も乾かないうちに、「よく勉強したら、やっぱり辺野古しかなかった」 なんて、恥ずかしげもなく言い放ち、沖縄県民をいたずらに持ち上げたり落っことしたりしたのは、ご自身である。今回の発言は、恥の上塗りだ。

とはいいながら、私はこの 「辺野古基地・方便発言」 に関しては、別の思いを抱いている。それは 「方便」 という言葉が、零落し尽くしてしまっていることへの哀しみのような思いだ。

今回の鳩山発言で、「方便」 というのは 「相手を言いくるめるための、作り話」 というような意味に受け止められている。いわゆる 「嘘も方便」 というような場合のうちでも最悪の意味合いである。それで社民党の福島さんなんか、「私は方便でクビになったのか」 と激怒しているという。

ところが、「方便」 という言葉の本来の意味合いは、それほど悪いものじゃない。それどころか、かなりありがたいものであったりする。Wikipedia には、次のようにある。(参照

方便(ほうべん)には、次の意味がある。

  1. 仏教で、悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。
  2. 仏教以外の物事について導く・説明するための手法のこと。真実でないが有益な説明等を意味する場合もある。「嘘も方便」という慣用句ではこちらの意味で使用されている。

元々は仏教用語であって、upaya (ウパーヤ) というサンスクリット語の漢訳が 「方便」 という言葉になった。

法華経には 「方便品 (ほうべんぼん)」 という章があり、釈尊が法華経以前に説いた教えは、衆生を悟りに導くための仮の教えであったと説かれる。それまでは修行し、悟って仏になると説いたが、人間は本来仏なのだというのが、真実の教えだというのである。

初めから究極的な教えを説いてしまうと、衆生はちんぷんかんぷんでわからないから、当初は入門的な見地から、修行することの重要性を説いたのだというのである。これが、悟りに導くための 「方便」 である。直接的に山の頂上に導くロッククライミング的な最短ルートではないが、登りやすい初心者ルートを、釈尊はとりあえず用意したことになる。

つまり、「方便」 とは本来、真実そのものではないにしろ、それはそれなりにありがたいものなのだ。決して 「でたらめ」 ではないのである。

この見地から鳩山さんの発言を無理矢理に解釈するならば、「辺野古しか選択肢がないとわかったが、自分の前の発言もあるので、何とか県民を納得させる理屈が必要になり、在沖縄海兵隊の抑止力という 『方便』 を使った。つまり、真実そのものではないにしろ、まんざらでたらめというわけでもない論理だったのだ」 ということになるだろう。

それを野党や多くのマスコミは、「でたらめで沖縄県民を欺いた」 とする論調で、「万死に値する」 などと批判している。まあ、確かに鳩山さんの発言は政治家としてあまりにも軽はずみすぎるとは思うが、私は 「方便」 という言葉を一方的に 「嘘っぱち」 呼ばわりする論調には、なんとなくもの悲しさを感じてしまうのだよね。

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2011/02/14

「次にすること」 という ToDo 管理アプリ

私は自分の仕事の管理は一貫してカレンダー (最近は iPhone の中にあるもの) に予定を書き込むという形でやってきた。これまでは、それで混乱するということはあまりなかった。世の中には ToDo 管理アプリケーションというものがあるとは知っていたが、そんなものを使うまでもないと、高をくくっていた。

しかし、近頃になって高をくくることができないほどに仕事が錯綜してきてしまった。全然別系統の仕事を、少しずつ細切れにしながらうまく調整をとりつつ進めないと、どうしようもなくなるという状況になってきたのである。

ここ数ヶ月は頭の中で 「何日までにアレをこなして、その間にコレを進めておいて、そのために、ナニを申し込んでおいて ……」 などと計算しつつこなしてきたが、もはやこのやり方だと、ポカが出てしまいそうなのである。

幸いにもこれまでは致命的なチョンボはしていないが、それでも締め切り直前になってちっとも着手していない仕事があることに気付いたり、出張にいくための切符とホテルの手配をギリギリまで忘れていたりと、結構綱渡り的にこなすことが増えてしまった。それを避けるために、頭の中だけで計算するのは、かなりのストレスになってしまう。

それで、試しに 「次にすること」 という名前の iPhone アプリを使ってみることにした。タイトル同様に直観的でわかりやすい操作感が、ToDo アプリ初心者には向いているのではないかと思ったからである。

このアプリ、使い始めてまだ数日しか経たないが、もう手放せないものになってしまった。仕事のスケジュールを適当にどんどん入力していくと、毎朝 iPhone の画面を眺めるたびに、まさに 「次にすること」 が簡単明瞭に表示されるのである。

運悪くその日のうちにこなしきれなかったら、次の日に持ちこして表示される。つまりちょっとせかしてくれるのである。おかげで、この週末は頭の中がゴチャゴチャになるぐらい仕事がたまっていたのだが、iPhone に表示されるままに単純にこなしていくだけで、いつの間にか片づいてしまった。

これがないと 「さて、何から手を付けようか」 なんて考えているうちに時間が経ってしまうのだが、余計なことを考えず、表示された順に淡々とこなしていくだけで、なんとなく仕事が消化されていくのである。

頭の中でごちゃっと錯綜してひとかたまりになっていた仕事、つまり 「あせり、ストレスの元」 がきちんと分割され、順々にこなせばいいように、クールに視覚的に表示されるのがありがたい。 まあ、そのようにきちんと分割して入力したのは自分自身なのだが、自ずとそのように入力しやすいというのが、ToDo ソフトの利点だろう。

そして一つ一つの仕事を片付ける度に 「予定済み」 のカテゴリーから 「完了」 にドラッグ・アンド・ドロップするのが小気味よいのである。これで、いかにも順調に進行している気がする。これこそ、ToDo 管理アプリを使う醍醐味かも知れない。初めて味わう快感だ。

この 「次にすること」 というアプリは、数ある ToDo 管理ソフトの中では初心者向けの部類に入るのだろうと思う。もっと進んだものもいくらでもあるのかもしれない。しかし、私のような個人商店的に仕事を進める者にとっては、この程度のシンプルなアプリが一番使いやすいように思える。

それに、あまりにも進んだシステムを使うと、頭の中の 「勘」 が衰えてしまうんじゃないかという気もする。「次にすること」 というアプリは、操作が直観的なだけ、結構ユーザーの 「勘」 を稼働させる余地があるというのもいい。これ以上便利すぎるアプリは避けて、当分これで行ってみようかと思う。

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2011/02/13

「情報の密輸」 が必要になってきたみたいだ

チュニジアに続いてエジプトも民衆の圧力で独裁者が追放された。さらにアルジェリアやモロッコにも飛び火しようとしていて、アラブ世界での 「ドミノ現象」 が指摘されている。しかし問題は、アラブ世界だけではない。

今や世界最大の 「独裁国家」 である中国も、この問題には無関心ではいられないようだ。アラブでの民衆運動がインターネットを大きなコミュニケーション・ツールとして活用していると報じられる度に、中国共産党は 「だから、しっかりインターネット規制をしいておけばよかったのに」 と思っているだろう。

エジプトはよくよくどうしようもなくなった今年 1月末になって、インターネットを遮断した。しかし中国ではインターネットは遮断されてはいないものの、肝腎の情報にはアクセスできないようになっている。しっかり手を打っているわけだ。

中国としてはこんな状況になった以上、今でもやりすぎのインターネット規制をさらに厳しいものにしていく可能性がある。中国の人たちは気の毒である。せっかくインターネットというインフラを手にしながら、世界中で当たり前に流通している情報に触れられないのだから。

Twitter で、こんな tweet が流れた。(参照

すごい話聞いた。中国にイラスト無断転載やパクリされて困ってる同人サイトはソースに「六四天安門」「free tibet」て入れるとアクセスなくなるらしい。怖ぇ!

大いにあり得る話だ。パクリ防止のために中国からのアクセスを遮断したかったら、予防的にこうしたキーワードを入れておけばいいだろう。ちなみにウチのブログは、別に中国人がパクリたくなるような要素はないだろうけど、右側のサイドバーにしっかりと "Free Tibet" のバナーがあるから、多分、中国からはアクセスできないだろうと、今気付いた。

中国人にアクセスしてもらえなくても別に困らないけど、自分が中国旅行に行ったら、現地からアクセスできないだろう。困ったなあ。まあ、別に近々中国に行く予定はないからいいけど。

中国のインターネット規制プログラムの中枢をハッキングして、アクセス規制をすっかり壊してしまうやつがいたら、全世界から大拍手を送られるだろう。本当に誰かやってくれないかなあ。

いずれにしても当面は、中国にはインターネット以外の手段で情報を送り込んでいく必要があるだろう。それにしても、前世紀末までには 「情報の密輸」 なんて、あまり考えられなかったけどなあ。

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2011/02/12

不老長寿なんて求めない時代

今日は、昨日の記事の続編みたいなものである。先日、高校の同級生で関東在住の有志が集まって、小さな新年会をした。集まったのは 8名ほどで、全員同い年だから、来年は次々に還暦になる。しかしどう見ても還暦近い年には見えない。みんな元気でぴんぴんしている。まだ定年前だし。

「昔の還暦といったら、腰も曲がって、本当にじいさんばあさんに見えたけどなあ」 と、皆が言う。「自分が還暦近くなっても、昔の 50歳のおっさんよりまだ若い気がする。同じ年齢でも、昔と比べて肉体的にも精神的にも 10歳は若いね」

こう言えるほどの健康というのは、ありがたいことである。ただ、ここまではいいのだが、そこから先が問題だ。

「しかし、考えてもみろよ。平均余命からいうと、俺たちまだ少なくとも 20年は生きなきゃいけないんだぜ」
「お互いこんなに元気なんだから、80歳までに死ぬ確率って案外低そうだね」
「若死にする人って、還暦前に死んじゃう。還暦を無事に越えたら、そこから先は長いよ」
「ひぇ~! そりゃ、困るわ」

こんな具合で現代の日本人にとっては、死ぬことにではなく、生き続けることへの不安の方が大きいようなのだ。

「20年どころか、30年生きるってこともあるだろうし、下手すると 100歳越えるってことも覚悟しなきゃね。年金がちゃんともらえるかどうかもわからないのに」
「イヤだなあ、勘弁して欲しいなあ。あんまり長生きしたくないなあ」
「医学の発達って、ここまできたら余計なお世話だよね。ますます死ねなくなっちゃう」

この日集まった中では、無邪気に 「長生きしたい」 なんていう者は一人もいなかったのである。人生の区切りがついたところで、うまい具合にころりと死ぬのが一番望ましいと、みんな思っている。不老長寿が最大の幸福だなんて思われていた古き良き時代は、とっくに過ぎ去ったのだ。

還暦目前の世代がそんな風に思っているのはまだいい。問題なのは 20代や 30代の若年層の失業者たちだ。

収入も財産もなく、とくにやりたいこととてなく、かといって、飢えから逃れるために必死で働かなければならないというわけでもない。ただ無為に暮らしているだけというなら、「このまま、あと 50年も 60年も生きなきゃいけないのか」 と、絶望的な気持ちになるのも無理もない。彼らの絶望感が世の中をおかしくしている。

政治の力で彼らに希望を与えろなんてことは言わない。希望なんて他から与えられるものではなく、自分で生み出すものだ。ただ、簡単に絶望に追い込むことだけは避けられるような世の中でなければいけない。それなら、政治の力である程度のことまではできる。

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2011/02/11

「エブリデイ・サンデイ」 のニュアンス

会社を定年退職した人と久しぶりに会うと、「今はエブリデイ・サンデイだからね」 なんて決まり文句のような言い方をよくされる。そしてその言い方に二通りのニュアンスがあることに、最近気付いた。

一方は、サラリーマン時代にはやりたくても時間がなくてできなかったことを、今は心おきなくやっていられるので、楽しくてたまらないという話し方である。そうした話し方をする人は例外なく、定年過ぎても元気そうだ。

それとは逆に生気を失ったような顔で、なかば自嘲的に 「私はもう、エブリデイ・サンデイだから……」 なんてつぶやく人もいる。そうした人と別れるときに振り返って後ろ姿をみると、背中がずいぶん小さくなってしまったように感じられる。サラリーマン時代には仕事の鬼と言われたような人でも、急に老け込んでしまっていたりする。

「エブリデイ・サンデイ」 という言い方で、その人の人生観がもろに見えてしまうのだ。

会社を辞めてもやることがいくらでもある、というか、会社を辞めたからこそ、今まで我慢していた本当にやりたいことができると、楽しくてたまらない人がいる一方で、会社から離れてしまうと、何もすることがなく、家で邪魔者扱いされているだけという人も、いくらでもいるようなのである。

その中間に、「何もすることがないと、ぼける一方」 などと脅かされて、定年過ぎてあわてて第二の人生で夢中になれることを探している人もいる。それが運良く見つかった人はいいが、「今さらねえ」 なんて言って、何をやっても興味を持てないという人もいる。そうした人は、実は会社を辞める前からボケが始まっていたんじゃなかろうか。

私は、第二の人生を元気に暮らしている人の方が幸せだなど単純に言うつもりはない。現役の勤め人時代にやることはやったのだから、「後はもういいや」 と、早めに老け込んで早めにあの世に行ってしまうのを、「不幸」 の二文字で片付けるのは乱暴すぎるだろう。

長生きして延々と好きなことをするばかりが 「幸福な老後」 というわけじゃない。現役時代にやることをやったら、さっさとこの世におさらばするというのも、案外幸福なことであるかもしれない。それぞれの人生なのである。

私自身はやりたいことがいっぱいある方の人なのだが、幸か不幸かサラリーマンではないので定年がない。だから一生働き続けながら、その合間に好きなことをしこしことし続けるしかないようなのである。

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2011/02/10

「日本人より日本人らしい」 って、どういうこっちゃ

日本語が過不足なくしゃべれて、日本の伝統文化にお行儀よく馴染んでいる外国人を、「日本人より日本人らしい」 という言い方で褒める日本人がいるが、私はこの言い方にかなり抵抗がある。どうしてまあ、そんなにも無神経に相手のバックグランドを切り捨てて、一方的に日本の土俵に引っ張り込みたがるのだろうと思う。

学生時代、日本の古典文学に精通したドイツ人留学生がいて、彼はいつもこの決まり文句で褒められていた。本当にどうして同じ発想しかできないんだろうというほど、判で押したように 「日本人より日本人らしい」 と言われていたのである。

この決まり文句が発せられる最大の理由は、平均的日本人が自らの国の伝統文化から縁遠くなっているからだろう。日本人自身が理解していない日本の伝統文化を、外国人が理解しているということに対する、単純な賛辞であることは確かだ。

しかし、言う方はそうした気持ちからだったとしても、言われる方の気持ちとしては、それほど単純ではない。前述のドイツ人は、このうれしくもなんともない決まり文句じみたお世辞を言われる度に、「日本人より日本人らしい外国人」 として、少し謙遜を交えた嬉しそうな表情をしてみせなければいけないことを、少なからずうっとうしく感じていたようだ。

もちろん彼は、日本の伝統的文化にとても関心があって、それでわざわざ日本に留学してきているくらいだから、日本が大好きだった。日本人の女の子と一緒に住んでもいたし。

しかし、あまりにも頻繁にこの決まり文句を言われると、彼の心の中には 「ドイツ人である自分のバックグランドを無視された感覚」 と同時に、もう少し複雑な感情も生じていたようだ。それは説明するのがなかなか難しいことのようだったが。

「僕はドイツ人だから、西洋の目で日本を見て、それでとても興味深く感じてしまうんだよ」 と、彼は言ったことがある。それは私にもよくわかる。私だって、自分の中の半分は、無国籍的な現代人の目で日本の伝統文化を見ておもしろがっているところがある。

そして彼は、こうも言っていた。「日本人が僕に対して 『日本人より日本人らしい』 というのは、心の中で 『ガイジンなのに』 と思ってるからだよね。日本人って、自分たちの文化が 『ガイジン』 には理解されるはずがないと思ってるんじゃないかなあ。自分たちは特別って思ってるよね」

この言い方で、彼の心の中に生じた違和感の中身がわかるだろうか。もう少し私なりの解釈で述べてみよう。

視点を逆にすれば、私がもしドイツ語を話せて、麦芽 100%以外はビールじゃないと思っていて、ソーセージが大好きで、バッハとモーツァルトとベートーベンの音楽に精通していたとしても、ドイツ人連中は私に対して 「お前は本物をよく理解しているね」 ぐらいのことは言っても、「ドイツ人よりドイツ人らしい」 なんて言わないだろう。

仮にそんなこと言われたとしても、こちらとしては 「そんなこと、あるはずねえだろ!」 と思うしかない。やっぱりどこか変なのだ。

日本人が外国人に対して 「日本人より日本人らしい」 と言って褒めるのは、先に述べたように、外国人が日本人自身でさえよく理解していない日本の 「とても特殊な」 伝統文化を理解していることを称賛し、歓迎しているからだろう。

しかしその称賛と歓迎の気持ちの一方的な投影として、ほぼ無意識的にではあるが、相手の存在そのものを、「日本人」 という土俵のなかに、無理矢理にでも取り込んでしまいたいという気持ちになっている。

相手は確かに 「ガイジン」 なんだけど、「ガイジンそのもの」 という存在のままでいてもらっては、日本人の方の居心地が悪くなる。それだからこそ 「異形の日本人」 という特別な存在として、かなり強引に相手の気持ちを無視した取り込み方をしてしまう。

そもそも 「日本の伝統文化を平均的日本人以上に理解している外国人」 というのは、「日本人らしい」 ということとは必ずしも一致しない。それに、「日本人らしい」 ということのコンセプトすら、かなり曖昧なのだから、「日本人より日本人らしい」 と、妙な褒め方をされた外国人が当惑するのも当然だ。

こんなことを論じたくなったのは、今八百長問題で揺れている大相撲の白鵬が、「日本人より日本人らしい」 なんて褒められ方をするのを、よく聞くことがあるからだ。きっと、あのやんちゃな朝青龍との対比もあって、そう言われがちなのだろうが、白鵬自身としてはちょっと複雑な気がするのではなかろうか。

彼に対してそうした言い方をするのは、彼の物腰や態度から感じられる穏やかさとか忍耐とかいった美徳が、日本にあって彼の祖国のモンゴルにはないと言っているようなものではないか。それはいくら何でも、ちょっと失礼なことにさえ感じられてしまうのだ。

さらにもっと言えば、外国人に対して 「日本人より日本人らしい」 というのは、日本人である自分自身が、日本の伝統文化から逃避していることを表している。日本の伝統文化はもはや、「フツーの日本人より日本人らしい特別な人」 しか理解できないものだとして、放棄してしまっている。自分は 「フツーの日本人」 だから、わからなくて当然というわけだ。

日本人なのだから日本の伝統文化を担うべきだとまでは言わないが、そこまで低次元なものの言い方をしなくてもいいだろうという気がする。同じ日本人としてもちょっと不愉快だ。私としては、「こいつ、別に日本人以上に日本人らしいってほどじゃねえから」 なんて言いたくなってしまうこともあるわけなのだ。

というわけで、いろいろもっともらしいことを述べた最後にぶっちゃけて言ってしまうと、「日本人より日本人らしい」 なんて言って、自分の都合だけで外国人を褒めたつもりになっている、いろいろな意味での傲慢さが、私は嫌いなのだよ。

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2011/02/09

radiko を巡る冒険

先月 11日に 「radiko というサイト」 という記事を書いた。「インターネットの radiko (ラジコ) というサイトで、IP サイマルラジオ(Internet Protocol simulcast radio) が聞けるようになった」 というお話である。

これまで私の居住するつくば地域は、ラジオの受信状態があまりよろしくないので、インターネットを通じてクリアに聞けるようになったのはありがたいと、概ね歓迎のトーンで書いている。ただ、「県域免許制度」 というシバリのために、地域的制限があることに関して、やんわりと疑問を呈しておいた。

これは、関東では関東のラジオ局、関西では関西のラジオ局しか聞くことができないというシバリである。せっかくの世界的メディアであるインターネットを、わざわざ地域限定に制限するという措置だ。

これに関して、「radiko.jpの日本的構造」 という池田信夫氏のブログを読んで、もはややんわりとした疑問では到底済まされない気がしてきた。氏のブログには、以下のようにある。

ネットラジオはiTunesに登録されているだけでも世界で1000局以上あり、私はいつもアメリカのジャズ系ラジオ局を聞いている。ところが日本では一部のコミュニティFMしかなく、それもJASRACが禁止しているため音楽はほとんどかからない。ラジコも2007年に検討が始まったが、その時間の大部分はいかに地域を限定するかの問題に費やされた。

ああ、なんという馬鹿馬鹿しいことであろうか。こんなシバリにとらわれて、簡単にできるラジオのネット配信に多大なコストを掛けてがんじがらめにし、地域限定というくだらないシステムにしてしまっている。

こんなシステムだから、私は里帰りしている時にはいつも楽しみにしている関東の番組が聞けず、それから山形放送の 「ドンキーのいいのぉー庄内! という番組を関東にいては聞けないのである。

これは、地方局に番組配信するキー曲の利権を守るためとしか思われない。こんなチンケナことをしているから、ラジオは廃れるのである。一日も早く、日本中の番組を世界中で聞けるようにしてもらいたいものだ。

それから、JASRAC の著作権に関する醜いまでの既得権死守主義も、ネットの発展の阻害要因にしかなっていないから、何とかしてもらいたいものだと思う。

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2011/02/08

大相撲の八百長調査が進まないそうだ

八百長問題で相撲協会から報告を受けた文科省によると、力士らが協会の調査に甚だ非協力的だというのである。携帯電話の提出を求めても、「壊してしまった」 「機種変更した」 などと見え透いたことを言って、求めに応じない者もあるらしい。(参照

携帯電話の提出に関しては、警察権のない相撲協会の求めに応じなくても、少なくとも罪にはならない。下手すると、協会側の求めの方に法的根拠がなく、個人情報の問題に触れてしまうおそれがある。

とはいえ、この期に及んで、壊しただの機種変しただのと言ってケータイに残った情報を出したがらないのは、相当に 「アヤしい」 とみられても仕方がないだろう。とにかく、大相撲の八百長はかなり一般的に行われていたとみても間違いないと、私個人としては思っている。

調査する相撲協会の理事にしても、現役時代に一度も八百長をしたことがないなんていうのはあまりいないだろう。「八百長を憎み、クリーンな取り組みに徹した」 と言われる貴乃花だって、平成 16年に兄の若乃花との優勝決定戦でみせた、あの不器用な負け方はなんだということになる。貴乃花にしてそうなのだから、他はどうだか知れたものではない。

八百長が必要になるのは、1場所 15日間の取り組みを連続でこなすというのが、あまりにも過酷なことだからだ。あの 150キロ以上の体重の力士同士が、半月も連続で本気でぶつかり合ったら、体がもたない。どこかで手を抜かなければならない。

どこかで手を抜いてさえ、相撲取りで五体満足な者などいない。誰もがどこかに故障を抱えている。この上、すべてガチンコでやれなどと強要されたら、ほとんどの力士は商売にならなくなるだろう。

だからこそ、土俵際まで押されたり寄られたりしたら、負け越しでもかかっていない限り、案外あっさりと勝負を諦めて、自分から足を出してしまうのである。あそこで足を出さずに下手に踏ん張りすぎたら、もんどり打って土俵下に落ちることになる。それで体でもこわしたら、その先何ヶ月も棒に振ることになりかねない。

そうした致命的な事態を避けるために、互助会的な裏の運用が生じるのは、ある意味当然のことだ。1年 6場所、90日間、つまり、隔月で半月間をガチンコでやり、その間にも地方巡業と称するドサ廻りをこなし続ける現在のシステムと、自称 「国技」 の公明正大なコンセプトは、実際問題として両立しないのだ。

ということは、現状のシステムを維持し続けたいならば、公益法人としての特権は諦めるほかないではないか。逆に公益法人であり続けたいなら、もう少し場所数を抑え、地方巡業も減らして、2月 2日の 「相撲の将来 試論」 で述べたごとく、純粋スポーツとして再出発するほかない。

そうなったら興行収入は激減し、親方株をもつことによるメリットもなくなってしまうだろうが、それでもいいではないか。これまでが恵まれすぎていたのである。

相撲が純粋スポーツになってしまったら、伝統的なおもむきが失われてしまうから、一方で 「伝統芸能保存」 のための事業を開始しなければならない。そのためには、スポーツ相撲の中でとくに優秀だった者を引退後に 「横綱」 と認定し、 「型」 と 「精神」 を守るための象徴的存在として、還暦ぐらいまで面倒見るシステムをつくればいいだろう。

引退後も 「横綱」 として残れるというのは、実力的にも精神的にも磨く努力をするための、ちょっとしたインセンティブになると思う。

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2011/02/07

既成政党と首長新党という構図を巡る冒険

愛知のトリプル選挙は、河村陣営の圧勝に終わり、マスコミは橋下大阪府知事が代表を勤める 「大阪維新の会」 などと重ね合わせて、「既成政党対首長新党」 というのが日本の政治の新しい構図だと言い始めている。(参照

私は 1月 27日に 「菅政権はそのうち衆院解散に追い込まれるだろうが、この状態で総選挙をしたら、民主党はボロ負け必至だ。自民党が政権に返り咲くのは、もはや織り込み済みと思っていいだろう」 と書いた (参照)。

これは直近の総選挙の話としては、多分その通りになるのだろうが、有権者としても 「民主党がヒドすぎたから、自民党に返り咲いてもらう」 という理屈を無条件で受け入れたいわけじゃない。心の底では 「民主党がダメだったからといって、またぞろ自民党でいいのか?」 と、内心ジクジたる思いを抱いている。

こうした状況で、これまでとは全く違った政党が出現して、わかりやすく斬新な主張をし、さらにその地域の首長がその方向で実績を重ねたとしたら、かなりの支持を得ることができるだろう。地域単位で圧倒的支持を得て、それらが連合的に手を結んだら、国政の場でもかなりの影響力を発揮するに違いない。

首長新党は規模が小さいので小回りが効き、既に住民の支持を得て当選した知事なり市長なりが政策を主張するので、住民に受け入れられやすいというアドバンテージがある。さらに余計なしがらみがないので、自由な政策を主張しやすい。これからこうした首長新党が伸びる余地は十分にある。

おもしろいのは、これらの首長たちはそれぞれ 「わかりやすい政策」 を唱えていることである。有権者は 「わかりやすい政策」 を求めているのだ。それは小泉さんがあれだけの支持を集めた理由とかなり共通している。有権者は政治に 「わかりやすさ」 を求めているのだ。

それが本当に素晴らしい政策であるかどうか、そして、 「本当によく理解されているのか」 という疑問はあるにせよ、とりあえず 「わかりやすく感じさせ語り口」 が必要なのである。それは、5年半前、小泉自民党が総選挙で大勝した時に書いた 「モノ、はっきり言うちゅうこってすわ」 という記事を読んで頂ければわかる。

この時の教訓を最もしっかりと生かしているのが、首長新党の代表たちだ。菅さんは全然逆行しているから、お話にならない。

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2011/02/06

父の誕生日は大雪の中

今日、2月 6日は父の満82歳の誕生日なのだが、何しろこの大雪なので送ったプレゼントが大雪でもちゃんと届くかどうか心配だった。さっき電話をして確認したところ、妹からのプレゼントと同時にちゃんと届いたそうなので安心した。

何しろ、すごい雪なのだそうである。先月末の記事 (「天気が本当に極端」) にも書いたことだが、私の田舎では通勤に車を使うことが多く、勤め人は大変らしいのだ。朝に自宅の駐車場から出る時、会社の駐車場に入る時、夕方に会社の駐車場から出る時、自宅の駐車場に入る時と、1日 4回の雪かきでへとへとになっているという。

父は仕事はとっくにリタイアしているので、その心配はないのだが、食料の買い出しが大変だと言っていた。スーパーは歩いて行ける距離にあるのだが、行きは楽でも帰りがしんどい。というのも、私の実家からスーパーは南東の方向にあるのだ。

酒田の地吹雪は、常に風速 10メートル以上という北西からの強風によって生じる。行きは追い風で、後押ししてもらっているようなもので、楽チンなのだが、帰りは向かい風だ。目を開けているのもやっとという地吹雪に真正面からさらされる。スーパーの買い物で行き倒れ (雪倒れ?) になっては、洒落にならないので、必至になって歩いているらしい。

ところで父と私の誕生日は、死んだ母になかなかちゃんと覚えてもらえなかった。父の誕生日は 2月 6日で、私は 7月 26日なのだが、私は母に子どもの頃から 「おめの誕生日いづだけ? (お前の誕生日いつだっけ?)」 と何度も聞かれた。

「自分で生んどいて、何だよ」 と思ったものだが、同様に、父の誕生日も覚えにくかったらしい。どうもこの 2 と 6 の数字の並び具合が、母にとっては印象に残りにくいらしいのだ。そういえば、母の誕生日は 10月 30日で、誰にでも覚えてもらいやすい。命日まで 5月 10日なのだから、なかなかトクな人である。

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2011/02/05

今年の寒波は、温暖化のせいらしい

気象予報士の森田正光さんのチームが運営されている 「チーム森田の "天気で斬る!"」 というブログの 1月 30日付に、興味深い記事がある。「温暖化と異常気象」 というもので、「温暖化と言われているのに、この冬の寒さは何なんだ」 という疑問への一定の解答になるかもしれない内容だ。

これは、月刊誌 『ボイス』 2月号に寄稿された元気象研究所の増田善信氏の記事に依ったものだ。この記事を私は読んでいないが、近年、異常気象 (過去30年に 1~2度の現象) の頻度が、高温や局地的豪雨を中心に増えていることに関して、これが人為的なものかどうかを論じたものらしい。

そして、平成 18年豪雪以来の規模になっている今年の寒波は、温暖化とは矛盾しているようにみえるが、実はそうとは言えないのだというのである。つまり、今年の寒波は、地球温暖化の一環として生じているとみることができるというのだ。それは、温暖化によってもたらされた偏西風の蛇行と関係があるらしい。

最近の地球温暖化によって、極地方と赤道域の温度勾配 (つまり温度の差) は小さくなってきている。この 100年の温度上昇は、極地方で 7度以上であるのに対し、赤道域では 0.2度ほどに止まっている。

極地方と赤道域の温度差が小さくなることによって、上空の偏西風が弱まり蛇行しやすくなり、その結果、ブロッキングが起こりやすくなって、各地に極端な暖波や寒波をもたらすというシナリオであると説明されている。

私はこの 「ブロッキング」 ということがわからなかったので、このブログ記事を読んでも今イチよく理解できなかったのだが、2月 2日の TBS ラジオ朝の番組に森田さんが登場して、このことをわかりやすく説明してくれていたので、納得がいった。

偏西風というのは、北極の寒気をブロックするカーテンのような役割をしているのだという。ところが、その偏西風が蛇行すると、偏西風が南に下がった地域では北極の寒気が降りてきて寒くなる。そして、偏西風が北に上がった地域では、逆に暖かくなる。

つまり、普通なら単純に南北を隔てるブロックとして機能する偏西風が、蛇行することによって、隣り合った同緯度の地域間の東西方向のブロックにもなってしまっているらしい。

今年の場合は、日本、ヨーロッパ、米国東部で偏西風が南に下がっているので、記録的な寒波になっているのだが、偏西風が北に上がっているシベリアや北太平洋では暖かくなっている。つまり、寒波に見舞われているその隣の地域では暖かくなってしまっているという。

それで、北海道に押し寄せる流氷も、今年は少なくなっているというのである。流氷の生産元の、北海道の東隣の海、北太平洋は暖かくなってしまっているので、流氷が少ないのだ。

このように天気がまだら模様になってしまっているのは、偏西風の蛇行によってもたらされる部分があり、その偏西風の蛇行は、温暖化によって生じている。つまり、今年の日本の寒波は、温暖化によってもたらされたとみることができるというのだ。

そして、春に向かって偏西風の進路も変わるので、今年の春は暖かくなるらしい。本当にもう、天気の変化が極端すぎて大変なのである。

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2011/02/04

TweetMe の不具合解消

今日はとても間口の狭いネタである。iPhone で Twitter のクライアントとして TweetMe というアプリを使っている人にしか関係のない話だ。

私は昨年に Twitter を本格的に始めて以来、主として PC で Web から入るのではなく、iPhone のTweetMe を通じて書いたり読んだりしてきた。Twitter というのは同時性ということが極めて重要な世界のように思っているので、電車に乗っているときでもひょいとアクセスして tweet を読んだりするのがいいと思っているためだ。

で、iPhone 向けにも結構いろいろの Twitter クライアントが開発されているのだが、どうもこの TweetMe が一番使いやすい気がする。音声入力という機能だけは、衆目の前で iPhone に向かってぼそぼそ呟くのに抵抗があって、使っていないのだが。

私は TweetMe の他にも TwitBird とTwit Rocker というクライアントも試しに使ってみたのだが、やはり TweetMe が使いやすい。余計な装飾性をのぞいて、きっちりと質実剛健に使いやすさを追求したアプリだという気がする。

ところがこの TweetMe、近頃不具合が目立っていた。時々異常終了するし、List 画面を表示させているときに、さらに過去の Tweet を読もうとして 「もっと読む」 というのをタップすると、過去の tweet がほんの一瞬表示されてすぐに消えてしまう。

このバグについては、TweetMe の公式 Tweet で、「次のバージョンアップで対応」 というのを読んだことがあるので、私はアップデートを心待ちにしていた。そして今週にようやくアップデートされたので大喜びでインストールしたのだが、全然直っていない。それどころか、ホーム画面ですら同じバグが現れた。

私はがっかりして、Twit Rocker への乗り換えを本気で考えたのである。しかしその前にものは試しと、一度 TweetMe を削除して再インストールしてみた。すると、あ~ら不思議、不具合は全部消えて元の使いやすさに戻っているではないか。

どうやら、過去のアップデート時に不具合が生じて、まともにアップデートされないままで来ていたらしい。だから一度削除してイチからインストールしてしまえばよかったのだ。

iPhone で TweetMe の不具合に悩んでいる方がおられたら、試してみていただきたい。

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2011/02/03

相撲の将来 試論

「汝らのうち罪なき者、石もて打て」 というのは、聖書の中でもよく知られた言葉の一つである。

当時、姦淫は石打ちの刑に処せられた。姦淫の現場を押さえられた娼婦がイエスの前に連れてこられた時、人々はイエスに、「あなたなら、こういう女をどうしますか」 と迫った。指で地面に何か書いていたイエスは、人々に向かい、「あなたがたの中で罪のない者が、まず最初に石を投げるがよい」 と言った。それを聞いた人々は、次々にその場から立ち去った。

八百長問題で揺れる相撲協会だが、八百長を認めたという 3人の力士をどう処分するのか、見ものである。放駒理事長は現役時代 「まじめな魁傑」 で通っていたから、八百長なんかしなかったかもしれないが、現理事の中に八百長なんて一度もしたことがないと胸を張って言える人が何人いるだろうか。

もし、徹底的な調査をして、八百長相撲の経験者は年寄株を持つことができないという規定を作ったら、返上が相次いだ上に買い手もつかず、年寄株の相場は大暴落してしまうかもしれない。

さらに、八百長に手を染めたことのある現役力士は出場停止なんて処分にしたら、力士が足りなくなって、15日間の取り組みが維持できなくなってしまうなんて事態になりかねない。

全力のガチンコ相撲を 15日間続けるのは大変だ。だからどこかで 「阿吽の呼吸」 での互助会的意識が醸造されても不思議ではない。私はそれを責めようとは思わない。ただ 「阿吽の呼吸」 ならいいが、メールという形で残ってしまったら、それは言い逃れができないではないか。つまらないことをしたものである。

こんな証拠が残ってしまっては、公益法人認可などの問題が出てくる。政府・警察は、この際、相撲協会という組織を見放してしまおうという魂胆なんだろうか。相撲協会の中に色濃く残る 「曰く言い難い体質」 について、「このまま放っておいたら管轄官庁である文科省に傷が付く」 というわけで、こうした荒療治に出たのだろうか。

私個人としては、相撲という 「伝統芸能」 は、祭祀性の強いものだから、純粋競技という視点でものを言うべきではないと思っている。内部での星のやりとりなども、たまにはあってもいい。さらに横綱に求められるのは 「品格」 なんてものじゃなく、「神格」 であるべきだと思っている。大相撲の本来の最高位は大関であり、横綱は象徴としての特別な存在なのだ。

その意味で、私個人としては、朝青龍を横綱にすべきではなかったと思う。その昔、雷電為右衛門が実力的には飛び抜けていたのに、素行問題で大関止まりだったということがある。朝青龍も雷電のように、「スーパー大関」 でいればよかったのだ。そうすれば、「品格」 なんて生ぬるい幻想に縛られずに、のびのびと 「強さ」 だけを発揮できたのである。

しかし、今や興業システムとして横綱は必要不可欠になった。外国人だろうがなんだろうが、横綱にすえないと興業が成立しない。そんなこんなで、相撲は 「国技」 としての理念と、興業システムとしての実態が乖離しすぎてしまったのである。こうなると修復は効かない。私は大相撲がどのように衰退し、消滅するかに興味がある。

「相撲」 というものを残したいなら、部屋制度をボクシングのようなジム制度に改め、純粋競技として再出発すればいい。もちろん財団法人なんてものではなく、単なる利益団体としての 「相撲協会」 を再結成しての上の話だ。

今のような太った大男の競技ではなく、ウェイト制にして競技性を高める。そして力士もちょんまげなんてしない。あんな前時代的な格好を強制するから、日本人の若者が入ってこないのだ。行司の衣装だって作務衣かジャージでいい。

そして、相撲の中の伝統的部分は 「伝統相撲保存会」 みたいなものを作って、アトラクションとしてやればいい。横綱は強さにはこだわらず、精進潔斎してひたすら 「神格」 と 「見た目の見事さ」 を磨く。そして、「型」 と 「土俵入り」 の完成度のみを追求する。つまり、純粋に 「伝統芸能」 に徹する。

今の大相撲は 「伝統芸能」 でも 「スポーツ」 でもないところで、妙にうじゃうじゃやってきたから、こんなわけのわからないことになってしまったのである。

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2011/02/02

大相撲の八百長問題について

今日は朝から仕事で宇都宮に出かけ、夜になって帰宅してからネットでニュースをあたってみると、大相撲の 「八百長メール」 事件が大問題になっている。ちょっと怪しいメールが見つかったという段階から、10人以上の名前が挙がって事情聴取されるというレベルにまでなっている。

大相撲の八百長問題に関しては昔からいろいろなことが言われていて、週刊現代なんかが間欠泉みたいに時々キャンペーンを張り、裁判沙汰になってはいつも 「八百長なんかなかった」 という結論に落ち着いていた。しかしその 「八百長なんかなかった」 という結論をまともに信じるのは、よほどおめでたい人しかいなかったと思う。

「推定無罪」 が 「本当に潔白」 とは必ずしも一致しないという典型的な例だったのだから、相撲協会は早めにきちんとした手を打って、漸進的な改革をしておくべきだった。あぐらをかきすぎたのだ。

大相撲の八百長は、言わば 「公然の秘密」 だった。だからこそ、今回の 「八百長を伺わせるメール」 が出てしまうと、教会としては 「真偽のほどを調べてから対応」 なんて悠長なことを言っているわけにもいかず、放駒理事長は 「相撲界の根幹を揺るがす問題で、裏切り行為だ」 とコメントしている。

「何かの間違い」 とかじゃなく、「八百長の証拠に間違いない」 と、ハナから確信したコメントだ。そりゃそうだろう。関係者の間では八百長が行われているのは常識だったから、「ついにバレたか」 という意識での対応しかできない。

と、ここまで書いてはいるが、私としては、大相撲の八百長体質を斬りまくりたいわけでは決してない。八百長が行われてきたのは公然の秘密なのだから、今さらそれを暴露することについては 「なんて無粋なことを」 と思っている。

こんなことを言うと下手すると炎上しかねないが、警察としても刑事罰に該当しないのだから、穏便に済ませておけばよかったではないかと思う。こっそりと相撲協会に連絡して、内部で 「シメ」 てもらえばよかったではないか。

そして、それとは別の視点で、大相撲はそろそろ 「制度疲労」 が顕在化してしまったなと思う。日本人力士が低迷して外国人力士の天下になり、観客動員が減って、国技館の構造も 「枡席が狭すぎて見てるのが苦痛」 と大不評。茶屋制度にしても時代遅れにも程がある。

大相撲がプロレスの道を辿るなんて想像もつかなかったが、今やそんなような具合になっている。「昔は大相撲ってのが大人気で、NHK が 15日間ぶっ通しで実況中継していたもんだよ」 なんていうと、子どもが 「おじいちゃん、大相撲って何?」 と言い出すような世の中が来そうな気がする。

それにしても、昔はメールなんかなかったからバレなかったんだろうなあ。あるいは、警察としても相撲の世界の曰く言い難い部分について、荒療治しないとヤバイと判断したのかもしれないが。

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2011/02/01

ナンバーワンとかオンリーワンとかでなくても

6年前に 「一人勝ちなんかしなくても」 という記事を書いた。マーケティングでは 「一人勝ち」 することの重要さが説かれたりするが、そんなことはないというお話である。だいぶ前の記事なので、ちょっと要点を引用する。

(マーケティングなどのセミナーで) 講師がセミナー参加者に 「日本で 2番目に高い山を知っている人は挙手してみてください」 というと、大抵 1割以下の人しか知らないのである。それで、「ほらね、日本一の富士山は誰でも知ってるけど、2番目になると途端に認知度が低くなる。トップになることは、それほど重要なんです」 という話に持って行かれる。

(中略)

山として有名なのは、むしろ、全国各地で 「○○富士」 として親しまれている独立峰である。静岡県富士市のサイトには、「ふるさとの富士山大集合」 というページがあり、それによると、全国には 316 の 「富士山」 があるらしい。

北海道、東北の主なところだけでも、蝦夷富士 = 羊蹄山、津軽富士 = 岩木山、出羽富士 = 鳥海山、会津富士 = 磐梯山  などがある。

(中略)

要するに、標高でマーケティングの話をするのは、ちょっと無理があると思うのだ。標高なんか大して高くなくても、山というのは、姿形が綺麗で、地元に密着していさえすれば、かなりのブランド力をもってしまうのである。

と、こういうようなことを言ったわけなのだ。これは、「ナンバーワン」 でなくても、さらに今はやりの 「オンリーワン」 ですらなくても、ブランド力というのは持つことができるということだ。全国の 「○○富士」 が本家本元の富士山にコバンザメの如くひっついているというわけじゃなく、全体丸ごとで、「富士山」 のイメージが構築されているのである。

大きな富士山のイメージの中でトップに立つのが本家本元であったとしても、その裾野を形成する多くの 「○○富士」 の存在が無意味なわけではない。これだけの裾野があるから、頂上である本家本元がさらに大きな意味をもつことになる。

ナンバーワンでなくても、オンリーワンでなくても、二番煎じであったとしても、それぞれが連なりあって、連なりの中でさえ、それぞれがそれぞれにそれなりの意味を持つ。世の中というのはそういうものである。「みんな違って、みんないい」 なんて言われるが、違っていようが似ていようが、みんないいのである。

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