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2011/06/08

性の多様性についてのエピソード

先月 12日に 「クインシー・ジョーンズのスープ」 という記事を書いたところ、知る限り 2件の反応があった。1件はリアルでの知り合い Y さん (女性) で、実際に作ってみたのだそうである。「おいしかったですよ」 と言ってもらえたのでうれしい。

もう 1件は佐倉智美さんという方からの、ちょっと意表を突いた反応である。こちらは料理のレシピに関してではなく、私の記事のちょっとした表現から、ジェンダー問題に発展させてくれた。

彼女 (といっても、トランスジェンダーの方なので、戸籍上は男性のようなのだが) は、私の記事の以下の表現に、ちょっとしたこだわりを感じられた。

妻はどこでこの料理を覚えたのかというと、高校時代に彼女の親友から教わったのだという。

私は一時期、外資系の団体に勤務して、一日中英語のプレス・リリースを日本語に翻訳するという仕事をしていたことがあるからだと思うのだが、意識的、無意識的を問わず、時々妙に英語直訳調の文章を書いてしまうことがある。

上記の文にしても、フツーの日本語なら 「高校時代に親友から教わったのだという」 となるのだろうが、ほとんど無意識に "her close friend" の直訳調になって、 「彼女の親友から」 という表現にしてしまった。

この部分を佐倉さんは、これもまた彼女ならではのしっかりと 「性の多様性」 に則った無意識によるものだと思うのだが、当初は

「妻」 の学生時代の 「彼女」 ← だからかつては女性の恋人がいた
で、その当時付き合ってた 「彼女」 のそのまた 「親友」 から料理を教わった!

というように解釈されたのだそうだ。つまり、私の妻がバイセクシャルで、高校時代に付き合っていた同性の恋人を介して、その彼女の親友から料理を教わったのだと思ったのだそうである。なるほど、確かにそう読めないこともない。

で、佐倉さんはこの解釈を、ご自身が講師を勤める市民講座や大学の授業の場での 「頭の体操」 を期したワークとして、この文章を使うことを思いつかれたのだそうだ。おもしろい。さて、講座の参加者はこの解釈を素直に認めてくれるだろうか、あるいは反発してしまうだろうか。

佐倉さんはさっそく、今月 2日に帝塚山学院のジェンダー論の授業にゲスト出講した際に、冒頭の 「頭の体操」 の一環として使ってみた。この授業は 100名ほどの受講者がおり、主担の先生によると、そのうち 1割強が特に熱心な学生であるらしい。

まず、私のブログ記事の該当部分をプロジェクターで映し出し、前列の学生に軽く音読してもらった後に 「この 『彼女』 って誰?」 と質問したところ、 まず出てきたのは、やはり 「彼女」 = 「妻」 という常識的な回答だったそうである。ふぅん、案外つまらない結果だけれど、まあ、世の中ってそんなもんなんだろう。

ところがさらに突っついてみると、「親友」 のほうを深読みして、「恋人ではない男性かも!?」 という新解釈 (?) まで出てきたというのである。さらにいきなりのことで、ブログの筆者が 「庄内拓明」 という男であるという前提が与えられていなかったので、そもそも 「私」 と妻とがレスビアン夫婦と思われる可能性もあったようである。

意外なことに、佐倉さん的解釈 (「彼女」 = 「『妻』の学生時代の恋人」 説) は、ついに出てこなかったようで、佐倉さんが最後に種明かしをされたということだ。そして授業後の感想用紙には、次のような記述がみられたそうだ。

「当たり前と思っていた読み方が絶対ではないと気付いた」
「[男女]とその恋愛に囚われない者の見方が大切と思った」

うむ、そこに気付いてくれれば、この授業の意味があったというものだろう。世の中は多様な人がいるからおもしろい。「そりゃ、おかしい」 なんていうのは、それこそおかしいのである。

ちなみに、佐倉さんのサイトの記事を読ませていただくと、なぜか自分と共通したものを感じてしまう。ジェンダー的には、私はストレートな要素が 5割以上だと思うのだが、彼女のものの見方にとても共感してしまうところがあるのである。なぜか文体までちょっと似ていて、私がこのテーマについて書いたら、こんな文章になるだろうなあと思ってしまうこともある。

佐倉さんの家系を辿ると庄内地方出身のご先祖もいらっしゃるそうで、そのせいなんだろうか。いや、そればかりでもないと思うが。

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コメント

いつも庄内さんの記事を楽しみにしています。

ちょっと的外れかもしれませんが、高校時代の英語のテストを思い出しました。

(↓日本語で書きますが全部英文でした)
「ある男の子が交通事故に遭いました。父親が付き添って病院に運びました。すると、病院でその男の子をみたドクターが驚いて言いました。"He is my son!" さて、ドクターは男の子にとって誰なのでしょう」

という問題でした。

答えは「His mother」だったのですが、ドクターといえば「男」という思い込みから、私はみごとに答えを間違えてしまいました。

え?お父さんは付き添っていったのに、どうしてもう一人、お父さんが出てくるの?と訳が分からず(笑)

英文が訳せるかどうかよりも、思い込みに囚われず柔軟に答えられるかどうかといった問題だったので、今でもよくおぼえています。

同じ文章でも、同性愛を普段意識していない人と、トランスジェンダーの方では受け取り方が違うという事、面白いですね。

投稿: Orquidea_EOJ | 2011/06/08 23:52

Orquidea_EOJ さん:

なるほど、ちょっとした頭の体操ですね。

でも、"He is my son!" というのは、"This is a pen." みたいなもので、あんまりリアルじゃないですね ^^;

付き添った父親にしたら、「そんなこと言わなくてもわかってるから、さっさと治療しろ!」と思うだろうし。

"Oh my God!" の方がずっとリアルですね。

私なら、"His real father (his mother's ex-husband) " (その子の実父で、母親の前夫) と答えたいところです。

投稿: tak | 2011/06/09 08:42

「彼女」という言葉を指示代名詞ではなく「恋人」という意味で使うのは、いつ頃からはじまったんでしょうかね。
どちらかというと、「カノジョ」とカタカナで表記したくなる私の頭は古いのかなあ。
しかも、「カレ」の場合だともっとカタカナにしたくなります。多分、多くの人が引っかかりを感じるから「彼氏」という派生形が使われるのでは?

おそらく、少しからかうようなニュアンスを含む「A子さんの彼氏」という用法が最初にできて、その延長線上で「B太郎にも彼女ができた」みたいな言い方が広がり、やがてもっとフラットなニュアンスで「恋人」とインターチェンジャブルな用法が定着しつつあるという状況なんじゃないですかね。私は言語感覚がその流れの最初の段階で止まっているからか、「私の彼」「ぼくの彼女」という言い方には違和感があります。

投稿: きっしー | 2011/06/09 09:33

きっしー さん:

>「彼女」という言葉を指示代名詞ではなく「恋人」という意味で使うのは、いつ頃からはじまったんでしょうかね。

私の記憶だと、1960年代初頭にはもう一般的に使われていたと思います。
もしかしたら、50年代からあったのかもしれません。

その頃に見た映画 (何の映画か記憶がなく、もしかしたらテレビドラマだったかも) で、「○○クンは、□□さんの 『カレ』 なのよ」 というセリフがあったように記憶しています。

(淡路恵子のセリフだったというのは、なぜか憶えています)

>おそらく、少しからかうようなニュアンスを含む「A子さんの彼氏」という用法が最初にできて、

私の印象では、「恋人」 というのがストレートすぎるので、婉曲的に言ったのが始まりではないかという気がしているんですが、実際のところはわかりません。

>やがてもっとフラットなニュアンスで「恋人」とインターチェンジャブルな用法が定着しつつある

むしろ、指示代名詞としての用法の方が、フツーの日本人の会話においてはレアなんではないかという気がします。

日本人が日常会話で使う 「カレ」 「カノジョ」 は、少なくとも半分以上が 「恋人」 という意味で、「カレシ」 に至っては、90%以上がそうなんじゃないかと。

そもそも出自が翻訳調日本語で、そのニュアンスの賜物として、「恋人」 という意味ができちゃったのかという気もします。

>私は言語感覚がその流れの最初の段階で止まっているからか、「私の彼」「ぼくの彼女」という言い方には違和感があります。

私もそのクチです。

「元カレ」 「元カノ」 は、文章中でちょっとふざけて使ったことがありますが、口語としては、まず恥ずかしくて言えません ^^;)

投稿: tak | 2011/06/09 16:14

どうも、「佐倉智美」本人です(^^ゞ
わざわざ記事にしていただき幸甚に存じます。
今後ともよろしくお願いいたします。

1点だけ、
>つまり、私の妻がレスビアンで、
ですが、現在は拓明さまとご結婚もされている(ことを知ったうえでの私の解釈)わけなので、この場合より正確を期するならば「バイセクシュアル」という語が該当することになりましょう。
恋愛対象として意識される相手が、結果として世間で言う男性だったり女性だったりする場合が、この「バイセクシュアル」にあたります。

まぁ実際のところ、いわゆる同性愛者とか異性愛者とかも、この「恋愛対象として意識される相手が、結果として世間で言う」同性か異性かの違いだけで、じつはみんな自分の「好みのタイプ」を好きになっているという点に、本質的な差異はないというのがワタシの持論ですが。

投稿: tomorine3908 | 2011/06/10 22:26

tomorine3908 さん:

>1点だけ、
>>つまり、私の妻がレスビアンで、
>ですが、現在は拓明さまとご結婚もされている(ことを知ったうえでの私の解釈)わけなので、この場合より正確を期するならば「バイセクシュアル」という語が該当することになりましょう。

なるほど。
その通りですね。修正いたしました。

ご指摘ありがとうございます。

>まぁ実際のところ、いわゆる同性愛者とか異性愛者とかも、この「恋愛対象として意識される相手が、結果として世間で言う」同性か異性かの違いだけで、じつはみんな自分の「好みのタイプ」を好きになっているという点に、本質的な差異はないというのがワタシの持論ですが。

「好みのタイプ」でも、同性だと恋愛の対象とすることを否定してしまうというのは、ある意味もったいないことなのかもしれませんね。

実際に恋愛関係にもっていくかどうかは別として、意識の中できちんと認めて折り合いつける方が、正直かもしれません。

投稿: tak | 2011/06/11 01:12

佐倉です
早速のご修正ありがとうございます
ウチの記事からもトラバ入れさせていただきました。

>「好みのタイプ」でも、同性だと恋愛の対象とすることを否定してしまうというのは、ある意味もったいないことなのかもしれませんね

まさにそのとおりですね。

というわけで、あとはこのそもそもの「クインシー・ジョーンズのスープ」、一度作って食べてみようと思います。
今さらですが、なんで「クインシー・ジョーンズ」なのかが、マジ謎ですネ

投稿: tomorine3908 | 2011/06/11 18:42

佐倉 様:

ありがとうございます。

うちのブログはトラックバック・スパム除けに承認公開制を取っていますが、さっさく公開させていただきました。

>今さらですが、なんで「クインシー・ジョーンズ」なのかが、マジ謎ですネ

なんとなくイメージではあるんですが、本当のところは当人に聞かないとわからないでしょうね。

いつまでも生きているわけじゃないでしょうから、聞くんなら早いうちがいいんでしょうが、どうも聞く勇気が出ません ^^;)

投稿: tak | 2011/06/11 22:32

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