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2011年6月に作成された投稿

2011/06/30

帰郷の事情

昨日入手したばかりの 「被災証明書」 を使って、酒田に帰郷している。今日は都内に住む妹の家に寄ってピックアップしてから、外環道を通り、川口ジャンクションから東北道に乗った。東北道は白河より先が無料開放対象路線だというので、川口から白河までの料金は払う物だとばかり思っていたが、なんと東北道・山形道全線分が無料だった。

つまりガソリン代分だけのコストで、外環道以外の高速道を利用し放題だったというわけである。今後帰郷する機会が増えるだろうから、1年間の期間限定措置とはいえ、ありがたいことである。

実は 82歳の父が肺炎になり、容態がおもわしくなくて入院していた。今回はようやく退院できることになったので、引き取りに来たのだが、全快したというわけではなく、予断を許さない状態のようなのである。明日の朝、主治医に話を聞く予定である。

今日の夕方、病院に見舞ったら、父はあの通りのさばさばした性格だから、「もう十分生きたから、いつ死んでもいいんだが、まだ急に死ぬみたいでもないから、季節がよくなる 10月頃にしたいもんだ」 などと、清々した様子で言っていた。しかしそんなことを勝手に決められては、こちらが困るのである。

というわけで、今日のところはこれにて失礼。

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2011/06/29

震災の被災証明書をゲットした

今日、市役所に行って 「被災証明書」 というのをもらってきた。今回の大震災で被災したということを、御上に認定してもらったのである。家の改築が必要なほどの 「被災」 じゃないので、そんなもの要らないと思っていたのだが、高速道路料金を無料にしてもらえるという例の措置の恩恵を、自分も被ることにしたのである。

実は明日と明後日、帰郷することになった。帰郷にあたっては高速道路を使うので、せっかくの措置は使おうというわけだ。

27日に所用で日立市に行った。日立中央インターから一般道に降りるとき、料金所手前からやたらと渋滞している。ちょっと先まで行くと、ETC のレーンががら空きで、現金を払うレーンがものすごい混雑だ。通行料金無料の恩恵にあずかるには被災証明書を提示しなければならないので、料金所を通過するのにやたらと時間がかかるようなのだ。

私は途中から渋滞を尻目に ETC を通ってさっさと出てきた。無料措置は水戸より先から適用されるらしいので、ほとんど水戸までしか用のない私にとっては、あまり意味がないという気がした。たまに水戸よりちょっと先に行くにしても、たかだか数百円分の軽減のために、あんな大混雑に並ぶのはまっぴらだ。

しかし急に田舎に行くことになったので、それならばと押っ取り刀で役所に行ってきたのである。私もなかなか現金なものだ。

証明書をもらうにあたっては、いろいろと面倒な手続きが必要になるかもしれないと思い、一応、今回の地震でヒビが入った玄関のタタキと家の土台の写真なんかを用意していったのだが、そんなのは全然要求されなかった。

申請書には 「証明内容」 として、 「1. 断水・減水・停電・公共交通機関運休等 2,その他」 というのがあり、「該当する事項の番号を○で囲んでください」 と書いてあるので、両方にマルを付けて提出したら、窓口のお兄さんが、「1番にマルを付けたらそれでいいから、2番目のマルは消してください」 という。

役所としては、「断水・減水・停電・公共交通機関運休等」 による被害があったら、それ以外の被害は認めないみたいなのだ。なんだか理屈に合わない話だが、そんなことにこだわって追求しても時間の無駄になるだけというのは、過去の似たような経験でよくわかっているので、窓口が混雑していることもあり、「ハイハイ」 と言うことを聞いておいた。

というわけで、高速道路無料通行の恩恵にあずかりたい人がかなり多いので、実際に証明書が発行されるまでにちょっと待たされたが、手続き的にはあっけないほど簡単なことで被災証明書がゲットできた。

まあ、今回の震災で仕事がいくつかぶっ飛んでしまったせいで、当てにしていた収入が 20万円以上消えてしまった (玄関のタタキと土台のヒビを修理したら、もっと多額になるだろう) ので、まあ、私は立派な (?) 被災者の端くれではあるのだ。この措置はありがたく利用させてもらうことにしよう。

ちなみに、被災証明書を Yahoo オークションに出した不心得者がいたらしいが、料金所では運転免許証と突き合わせされるらしいから、他人の名前の証明書を入手しても使えないので、「それ、売ってちょうだい」 なんて言わないでね。

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2011/06/28

エアコンを使わない夏

やれやれ、暑い。昨日までの三日間ぐらいは、なんとなく梅雨に戻ったような天気で、うだるような暑さというわけではなかったが、今日はまた暑さがぶり返した。我が家のリビングルームの寒暖計は、日陰といえども 33度を指していた。

この暑さの中で、私は我が家の 「コックピット」 (狭いワークスペースを、近頃こう呼んでいる) に缶詰になって仕事である。明後日からちょっと田舎に帰らなければならないので、超特急で仕上げなければならない仕事が 4つほど重なっていて、PC に向かいっぱなしである。他のことなんかできそうにない状態だ。

仕事というのは、ウェブページの作成・更新と、長文の原稿書きである。前者は iPad では無理で、後者も物理的なキーボードでないとストレスが溜まるから、実質的に無理である。というわけで、せっかく心楽しい iPad を買ったのに、このところは、PC から離れられない。

iPad で Apple 的にスマートな画面に慣れてしまうと、Windows はユーザーインターフェイスがダサダサだから、なんとなく楽しさがない。いかにも無味乾燥な仕事をしているような気がしてしまう。せめて、原稿書きぐらいは、Apple の外付けキーボードを買って、iPad 上でこなしたいような気がしてきている。

さすがに夏至を過ぎたばかりだから、午後 7時になっても外はまだ明るい。明るいとはいっても、気温は下がってきていて、寒暖計は 28度を指している。おぉ、5度も下がっているではないか。

5度も気温が下がると、さすがに汗が噴き出して頭がぼうっとするような暑さではなくなっている。しかし、気温が下がれば相対的に湿度は上がるという逆説のせいだと思うのだが、不快指数はそれほど下がっていない気がする。じっとり感はかえって増していて、Tシャツがべっとりと肌に吸い付いている。

それでも今年は、意地でもエアコンのスイッチを入れていないのである。口で 「反原発」 を唱えながら、指先でエアコンのスイッチを入れまくりというのでは、自分でも気持ち悪いから、その辺の節操は守るのだ。夏は暑いものだと思えば、なんとかなるものである。

汗はかく方が体にいい。エアコンの効いた涼しいオフィスと死にそうな暑さの外を往復していると、体がおかしくなってしまうが、いっそ暑さに耐えている方が楽なような気がする。それに、体の方もだんだんと暑さに慣れてきた。

来月以後、気温が 35度以上の猛暑日になったら、さすがにエアコンの世話になるかもしれないが、それでもギリギリまで我慢してみようと思っている。

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2011/06/27

もう一歩踏み込む酔狂さ その2

ずっと花の名前に疎い人間だったのだが、近頃は 「和歌ログ」 なんてものをやっているおかげで、少しはわかるようになってきた。花の名前がわからないことには、歌を詠むにも苦労なのである。そんなわけで今や、フツーのオジサンよりは、花の名前を知っているといっていいかもしれない。とは言っても、自慢になるほど知っているわけではないのだが。

で、花の名前を知るということについて、ちょっと考えてみた。本当に疎かった頃は、とにかく、よく見かける花の名前ぐらいは知っておきたいと思っていた。そして名前を知りさえすれば、その花と少しは 「お近づき」 になれるんじゃないかと感じていた。

そして事実、名前も知らなかった頃よりも、知ってからの方がずっと、その花との関係が近く、そして深くなったような気がするのである。それは確かなことだ。

しかし、名前を知りさえすればいいというものでもないということに、最近気付いたのである。名前を知るというのは、ある意味、諸刃の剣のようなものである。単に名前を知っただけで、「それで OK」 と思ってしまうと、それはとても危険なことだ。名前を知っただけでは、「花そのもの」 を知ったことにならないのである。それは単なる入り口でしかない。

「これ、何ていう花?」
「それはね、バーベナっていうんだよ」
「あ、そうか、わかった、バーベナだね」

ということになっても、それだけでは 「バーベナ」 がわかったということにはならない。単にぱっと見と名前がリンクされたというだけのことである。それほど深い意味のあることではない。

それは、「WHO って何?」 「世界保健機関だよ」 「あ、そうか、わかった」 となっても、実はあんまりよくわかっていないんだろうなというのと同じことだ。世界保健機関というのが具体的に何をするところなのかわからなければ、クイズに正解する以上の役には立たない。クイズ的知識は、実はそれほど本質的な知識というわけじゃない。

本当に理解するには、もう一歩踏み込まなければならない。先月 23日に 「もう一歩踏み込む酔狂さ」 という記事を書いた。そして、「そのもの」 を理解するためにも、「あっ、そうか」 と思った段階からさらに、もう一歩踏み込まなければならないのだ。要するに我々は、自分で思っているほど何もわかっていないのだ。

それを思うと、古代の名前というのは、かなり踏み込んで付けられている。単に他と区別されればいいというだけのことではないようなのだ。古事記に出てくる神々の名前も、今となっては何がなんだかわからない呪文みたいなのが多いが、よく踏み込んでみると、本当に本質を言い表している名前なのだとわかる。

小林秀雄も 『本居宣長』 でそうしたことについて触れている。古事記の時代の日本語はもしかしたら、その言語構造が完成されて、風化に向かう直前の貴重な豊穣さを醸し出していたのかもしれない。

その名前を文字で書き残すというのも、昔は文字を書くという行為が今ほど日常的なことではなかったから、かなり重要でセレモニアルな意味を持っていたのだろう。だからこそ、昔の石碑に残された文字は、あんなにも装飾的なのだ。素早くメモを取れさえすればいいというのでは、あんな複雑な字体になったはずがない。

近代以前には脈々と息づいていた呪術的な意味を、ものの名前に発見することで、我々は近代を超えることができるかもしれない。

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2011/06/26

高速道、上限 1,000円の撤廃で

MSN 産経ニュースに "「千円でないと…」 高速割引制度終了から1週間 西日本の高速道路は閑散" という記事がある。いや、西日本の高速道ばかりじゃない。私は今日、水戸方面に出かけていて、夜になってjから帰宅したのだが、常磐高速も結構空いていた。なかなか現金なものである。

日曜夜の高速道路は、上り線がかなり混むことが多いのだが、今日はゆったりと走れた。やはり出控えた人が多いのだろう。

高速道を利用する機会の多い私としては、やはり何らかの負担軽減措置が欲しいところだ。とにかく、日本の高速道路料金は高すぎると思うのである。上限 1,000円は無理としても、上限 3,000円ぐらいの措置はできるんじゃなかろうか。

今回は罹災証明さえあれば東北道の通行量が無料になるという措置がとられているが、あれもまた、いい加減なところがある。一部では、ちょっと停電しただけでも証明書が取れたりするという。そんなんでは、かえって不公平になるような気がするがなあ。でも、私んちも玄関のタタキにヒビがはいってるから、罹災証明取っちゃおうかなあ。

でも、それを使おうとすると ETC 出口が使えなくて、混雑時はものすごく時間がかかるらしい。それもなんだか馬鹿馬鹿しい気がする。

いずれにしても、料金負担をもう少し軽くすれば、適度に利用者が増えて、JH の収入はそんなに減らなくて済むんじゃあるまいか。私としては、道路管理をもっと合理化すれば、料金はかなり安くできるんじゃあるまいかと見てるんだが。

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2011/06/25

『虹色の湖』 で思い出したことなど

今朝、いつものように朝食を食べながら NHK ラジオを聞いていると、『虹色の湖』 という曲が流れた。中村晃子という歌手が歌っていたものである。妻と2人で 「そう言えばそんな歌があったねえ」 と言いながら聞いたのだが、調べてみると、昭和 42年のヒット曲だったようだ。私がまだ中学生だった頃である。

「幸せが住むという / 虹色の湖」 という、妙に甘ったるくロマンチックな、当時のステロタイプそのものの歌い出しで始まる曲だ。ググって見たら YouTube に、大分お年を召してふっくらした中村晃子が、ちょっと高音域を苦しそうに歌っているビデオが見つかった (参照)。アレンジは多分当時のままだと思う。

昭和 42年といえば、グループサウンズの全盛時代である。で、思い出してみると、あの頃の曲の歌詞は、今から思えば、妙に甘ったるいロマンチックなものばっかりだった。レコード大賞を受賞したブルーコメッツの 『ブルーシャトー』 なんて、「森と泉に囲まれて……」 とくる。今どきそんな歌をオリジナルで作ったら笑われる。

テンプターズの最大ヒット曲なんて、タイトルからして 『エメラルドの伝説』 ときたもんだ。タイガースの 『花の首飾り』 なんて、大甘の極地で、白鳥の湖のお子様版焼き直しみたいなもんである。おぉ、恥ずかし。

思えばあの頃のグループサウンズに代表される若向けの歌というのは、今みたいにちょっとリアルな感覚を盛り込んで歌うなんて発想は、全然なかった。砂糖菓子みたいにロマンチックで幻想的なイメージをこねくりあげるしか方法論がなかったようなのである。

その意味では、いわゆる 「歌謡曲」 の歌詞の方がずっとリアルだった。要するに、あの頃の若い連中は歌にするための自分の言葉を、まだ獲得していなかったのだ。おとぎ話の言葉に酔うしかなかったのだ。なんて甘く悲しい時代。

あの頃、ロマンチックじゃない不良が、作詞家先生と作曲家先生の作り上げた妙にロマンチックな歌を歌って、あっという間にアイドルになってしまうという、わけのわからない現象が、無茶苦茶に盛り上がっていた。「自分で作って自分で歌う」 のが当たり前の時代からみると、隔世の感がある。

ああいう時代の手法が巧妙に姿を変えて生き残っているのが、AKB 48 とかなのかもしれないと、ちょっと思ったりする。

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2011/06/24

ユニクロとジル・サンダーのコラボ、終了だって

昨夜 8時過ぎからウチのブログへのアクセスが急増し 、いったいどうしたのかと思ってリンク元を調べると、"ユニクロ、高価格ブランド 「+J」 販売終了 今年の秋冬物最後に" という Yahoo ニュースに関連ブログ記事として、当ブログの 「ジル・サンダーとユニクロとオンワード」 (一昨年 10月 5日付) が紹介されているんだった。

まあ、ジル・サンダーとユニクロとオンワードの関連については、上記のリンク先をみてもらえばわかるのでここでは繰り返さないが、私としては、ユニクロはいいビジネスを始めたなあと思っていたのである。それなのに、こんなに早くコラボ打ち切りとは、なんだかとても残念だ。一体どんな問題があったんだろう。

私のイメージでは、ユニクロとジル・サンダーというのは、案外いいマッチングなんじゃないかと思っていた。ジル・サンダーのコンセプトは、奇をてらったデザインではなく、ベーシックで品のいい服を丁寧な作りで提供するという感じだったから、ユニクロのトレードアップ策としては 「しかるべし」 という気がしていたのである。

確かに 「+J」 の売上げが良かったという話は、全然聞かなかった。都心では好調だが、地方ではさっぱりということのようだった。しかし、このブランドは、日本中津々浦々でくまなく売っていくというようなものじゃなかったはずだ。米のメシはあくまでも本体の 「ユニクロ」 で、 「+J」はせいぜい、県庁所在地の店で売れればいいってなもんじゃなかったのか。

で、それにしても、 「+J」 のマーケティングはお下手だった。いくら何でも、都心ではもう少し目立った店作りをして、ちょっとしたイメージ商品として売ってもよかったんじゃないかと思う。少なくとも、私が普段足を運ぶエリアでは、「+J」 の洒落たショップなんて、まるっきり見あたらなかったもの。

まともなマーケティングもせずに、期待ほどのビジネスにならなかったということなのかどうか知らないが、たった 2年でコラボ打ち切りというのは、ユニクロさん、我慢が足りないんじゃないかと思ってしまうのである。もしかしたら、この会社、ハイ・ファッションのできない会社なのかもしれないなあ。

ベーシックなカジュアルウェアのビジネスは、別にファッションが好きでなくてもできるが、ハイ・ファッションとなると、やはりファッションに対する思い入れがないとできない。その辺の意識のギャップを、ユニクロとジル・サンダーの両方が感じてしまったのかもしれない。お互いに 「ちょっと違うなあ」 と。

あるいは 「カジュアルなテイストで趣味のいいハイ・ファッションを、今までよりちょっとだけ安い価格で」 という基本コンセプトについて、両者の間での詰めが不十分だったのかもしれない。どちらも、これに懲りずにまた新しい展開を考えてもらいたいと思う。

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2011/06/23

スーパークールビズなんて、チョー簡単な話

待ったなしの節電が呼びかけられて、ようやく日本でもスーツとネクタイなしのスタイルが、オンタイムでも一般的になるのかと期待しているのだが、オジサンたちはどんな格好をしていいかわからずに、まだまだ戸惑っているのだそうだ。

日経トレンディ・ネットに 「“節電ビズ”で激売れ! 『ビズポロ』 を徹底比較」 という記事がある。ちなみに 「ビズポロ」 というのは、ビジネス用のポロシャツのことであるらしい。そんな言葉、私は初めて聞いた。記事には次のように書いてある。

ユニクロが首都圏在住のビジネスマン 300人を対象に行ったアンケート調査によると、「本音はもっとカジュアル化したいが、する予定はない」と答えた人が 4割以上を占めた。その理由として 「会社から指示が出ていない」 「明確な指標がないのでどこまで可能かわからない」 「取引先の対応次第」 など会社や取引先 の動向に合わせるという声が多い。

やれやれ、この国のオジサンたちは、この期に及んでまだそんなことを言っているのである。今月 4日に 「日本の政治は真夏のスーツ姿と同じ厄介者」 という記事を書いた。日本の政治も、真夏のスーツ姿も、戦後 60数年間、ずぅっと文句を言いっぱなしのくせに、誰もそれをがらりと変えようとはしない。

私はサラリーマンをしていた 20年前頃から自主的に、今でいう 「クールビズ」 で通している。ジャケットなし、ネクタイは夏に限らずオールシーズンなし。15年ぐらい前までは、普通のボタンダウン・シャツにチノパンという姿だったが、それ以後、夏はポロシャツに鞍替えした。その方がずっと楽だからである。それで文句を言われたことは一度もない。

その間、「ビジネス用ポロシャツ」 なんていうものを意識したこともない。何しろ、私にとってポロシャツは元々 「オンタイム用」 だからだ。衿が付いているのだから、文句は言いっこなしである。ビジネスを離れたらもちろん、衿のない Tシャツである。

強いて言えば落ち着いた色の無地ということだが、オフタイムでも派手な色柄のポロシャツ (赤と白のボーダーストライプとか) を着ようとは決して思わないので、とくに 「ビズポロ」 として選んだわけでもなんでもない。

日経ビジネスに小田島隆氏が 「スーパークールビズは革命なんだな」 という記事を書いている。それが何ゆえに革命なのかは、リンク先の記事を読んでもらえばよくわかる。しかし逆に言えば、そんなことを 「革命」 と呼ばなければならないほどの、チョー封建的な社会に、我々は暮らしているのである。

本当はスーパークールビズなんて簡単だ。明日から、グレーか紺色のポロシャツと、アイボリーのチノパンというスタイルで通勤電車に乗ればいいだけの話である。ユニクロに行けば、見苦しくないポロシャツ 3着にチノパン 2着が 15,000円以下で買える。これで秋風が吹くまで、清潔にローテーションできる。

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2011/06/22

英国統一サッカー・チームという幻想

今を去ること 20年前の 1991年に、ラグビーのワールドカップがイングランドで開催された。その開催期間中、私が当時勤務していた外資系の団体で、英国から首脳を招いてアジア地域での重要会議が開催されていた。

来日した首脳は全員イングランド人で、ラグビーの結果が気になってしょうがないみたいだった。ところが何しろ、当時はインターネットも普及しておらず、英語の情報が決定的に不足していたので、試合結果を知るのもままならず、じりじりしている様子だった。

それで私は、日本の新聞やテレビで報道されるニュースを英語に翻訳して彼らに提供してあげて、大変感謝された。ただ最後にはオーストラリアが優勝してイングランドは 2位に終わり、英国人首脳はとても複雑な表情をしていた。その団体はウール関連の団体で、オーストラリアが最大のスポンサー国だったもので。

ちなみにこの大会では、ニュージーランドが 3位で、スコットランドが 4位だった。私は夕食の席で、イングランド人の首脳に非常にぶしつけな質問をした。「どうしてあなたたちは、United Great Britain Team (統一英国チーム) を作って参加しないのですか? それが実現すれば、優勝できる可能性がとても高まるのに」

この質問に、彼らは笑うばかりで答えてくれなかった。まともに答えるのもナンセンスな愚問と思っているようだった。イングランド人としては、たとえほかの 3国と統一チームを作って優勝したとしても、心から喜べるはずがないじゃないかと言いたいみたいだった。

この時私は、英国というのはイングランドとスコットランドとウェールズと北アイルランドという 4つの 「国」 が手を結んだだけの 「連合王国」 なのだと、しみじみ理解した。同じ島国でも、日本とはわけが違うのだ。

ところが今日、イギリスオリンピック委員会 (BOC) が、来年夏のロンドンオリンピックに英国統一チームを出場させると発表した。ラグビーとサッカーはちょっとわけが違うが、大ニュースには違いない。1960年のローマオリンピック以来、52年ぶりのことになるという。

サッカーのワールドカップでは、英国からはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの 「4カ国のナショナルチーム」 が欧州予選に参加し、イングランドが常連で本番まで勝ち残る。だが、オリンピックでは 「国」 単位の参加という規定があって、連合王国を構成する 「4カ国」 は、オリンピックの認める 「国」 ではないということのようなのだ。

このあたりがとても面倒くさい。それで、自国 (イングランド) のロンドンで開催される来年のオリンピックには、ぜひ統一英国チームで出場したいと、イングランドの連中は思ったようなのである。ところが、他の 3カ国は、そんなことはちっとも思っていないというところが、また面倒くささを増幅させている。

BOC は先走って発表してしまったが、3カ国の協会は当然ながら反発していて、統一チーム結成には、全然協力しそうにない雲行きである。FA としては、他の 3カ国の協会の協力がなくても、個々の選手を一本釣りで獲得したいぐらいに思っているのかもしれないが、そんな誘いに乗った選手は、以後怖くて地元に帰れないかもしれない。

ラグビー・ファンの紳士は、ぶしつけな質問にも笑ってはぐらかすだけだったが、サッカー・ファンの庶民たちは、かなりぶち切れてしまっているようなのである。

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2011/06/21

原発は経済問題である以上に哲学的問題である

産経新聞の 6月 20日付に寄稿された京都大学教授・佐伯啓思氏の 【日の陰りの中で】 「原発事故の意味するもの」 という記事を興味深く読んだ。「脱原発」 と 「原発推進」 の二者択一で論じられがちで、そのために膠着状態に陥っている今回の原発事故の状況について、佐伯氏は 「その決定不能な宙づり状態こそ今日のわれわれの姿」 としている。

我々が決定不能の状態に陥っている理由を佐伯氏は、これが 「価値」 にかかわる選択であり、その価値についての選択を我々が極力回避し続けてきたからではなかろうかと示唆している。これは重要な指摘だ。

そして、近代技術 (科学技術のみならず、リーマン・ショックを生み出した 「金融工学」 なども含め) は、「想定外」 を必然的に生み出すのだとも指摘している。近代技術はある想定を置かなければ成立しないものだが、ほかならぬその技術そのものが 「想定外」 の事態を生み出してしまうという逆説に、我々は直面しているのだというのである。

このブログで原発問題に触れたとき、きっしーさんがコメントで、原発問題とサブプライムローンの共通性を指摘された。この二つはどちらも、「工学的技術」 によって確実に 「管理」 できるものという一定の想定において運用されてきたのだが、ある日突然、「想定外」 の事態が現出して破綻してしまったのである。

リーマン・ショックと原発事故によって我々は、高度な技術においてはいかなる 「想定外」 が生み出されるかが不確実であると思い知らされた。しかも技術が高度化するほど想定外が起きるリスクは高まると、佐伯氏は警告している。

いや、佐伯氏の記事では直接的には言及されていないが、「想定外の事態」 というのは、決してまったく想定されていなかったというわけではない。むしろその破綻の可能性は外部から冷静に指摘され続けてきたのだが、運用にあたる当事者はその可能性を無視し、「想定外」 という範疇に置き続けてきたという経緯がある。

その理由はとても単純だ。一定以上の大きなリスクは可能性としては 0パーセントというわけでは決してないが (それは当然だ)、とりあえず想定外という範疇に位置づけておかないと、新技術が必要とするリスク対策が無限に広がって、いつまで経っても市場に適用することができないからである。

つまり、新技術導入のメリットが潜在リスクを大きく上回るものと判断され、市場への適用が急いで進められるほど、「想定外リスク」 は増大するのだ。ということは、何を想定内とし、何を想定外とするかは、立場によって違ってしまうものであるらしいのだ。本来客観的であるべき技術的な問題の客観性は、このようにして失われる。

あるシステムによって多大なる恩恵を被るセクターにおいては、想定が必然的に甘くなる。思うにこれこそが、佐伯氏の指摘する 「価値」 の問題に関連づけられるのだろう。想定範囲の大小は、運用者と受益者の価値観に大きく影響されるのだ。

しかし、我々日本人はそのことに自覚的であったろうかと、佐伯氏は問いかける。どうも自覚的であったとは思われないのである。日本人は戦後、「価値」 に関する問いかけや選択、判断を、ほとんど放棄してきたのではなかろうかと。

脱原発の主張に対し、原発推進論者は 「原発がなければ日本の国際競争力は減退し、経済的なシュリンクを呼ぶ。暮らしが貧しくなる。それでもいいのか」 と、問答無用調の迫り方をする。次にいつ発生するかわからないリスクよりも、確実に暮らしが貧しくなることへの恐怖の方が強く感じられるから、脱原発派の多くはここで腰が引ける。

原発をどうするかという問題は、「暮らしが貧しくなってもいいのか」 という表面的な詰め談判以上に、世代間倫理などの問題もからめた 「根元的価値への問いかけ」 がなければならない。

池田信夫氏は 「原発は経済問題」 と言うが、それは実に底の浅い矮小な認識と言わなければならないだろう。もちろん彼は自分の主張の正当化のために、意識的にそのように限定的な問題と規定することで、それ以上の問題の検討に広がるのを防いでいるのだろうが。

しかしもはや、原発は経済問題という以上に、哲学的な領域に到達しているのだ。

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2011/06/20

菅さんの 「一点突破」 は、これで消えた

菅首相が昨日、インターネットを利用した 「自然エネルギーに関する国民対話」 で、定期検査などで停止中の原子力発電所を再稼働させることについて、理解を求める発言をしたのだそうだ。

この人、本当にアピールが下手くそだ。脱原発の方向を定めて、シングル・イシューで一点突破するつもりなのではないかと思わせるような発言をしていたからこそ、小田島隆さんあたりも 「卓袱台返して菅笠ひとり旅」 という記事で 「面白そうだ。私は乗るつもりだ」 とまで書いておいでなのに、自らそれを裏切るようなことをあっさりと言う。

周囲に何の配慮もなく、いけしゃあしゃあと 「脱原発」 を言い出せる政治家は、与党内では菅さんぐらいのものだろう。というわけで、ちょっと前までは 「さっさと辞めてくれよ」 と思っていた人でも、脱原発で一点突破を図るつもりなら、ちょっと乗ってみてもいいと思った人もいるはずだ。

ところがこんなふうに、自分で盛り上げておいて自分で水をさすようでは、乗ってみようと思っていた人まで腰砕けになる。「自然エネルギー法案」 の推進で、菅さんと握手しまくって感激していた孫正義さんは、どんな顔をしていいかわからなくなっているだろう。

これでもう、一点突破できる要素はなくなった。さっさと辞めてもらうしかない。昨年夏の参院選直前に、わざわざ消費税率アップを言いだして墓穴を掘った人だから、しょうがないと言えばしょうがないが、どうにも味方を作れない体質のようだ。

個人的には 17日の 「マス・ヒステリーよりは、少しは冷静に始まっていること」 という記事で、「私は菅さんの思いつきよりもむしろ、民間の風向きの方に期待している」 と書いたとおり、あの人への思い入れはあまりないから、「ま、こんなもんか」 と思うばかりだが、かなり失望した人もいるだろうなあ。

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2011/06/19

「できない理由」 は、やりたくなければいくらでも見つかる

自然エネルギーによる発電を促進すべきだとの主張が力を得つつある一方で、それは無理だという指摘もかなりある。「できない理由」 というのは、やりたくなければいくらでも見つかるものだ。

まず、東北の家の屋根に太陽光発電をつけても、冬は雪が積もるので役に立たないという指摘がある。雪下ろしにも苦労するだろうというのである。これについて、東北生まれの私としては、「屋根に雪が積もって大変な地域は限られるんですよ」 と教えてあげたい。いくら東北でも、冬中屋根が雪で覆われる豪雪地帯ばかりではない。

「それでも、雪下ろしが必要なほど積もるところもあるだろう」 という指摘に対しては、太陽光パネルをつければ、雪がすべり落ちてくれるので、雪下ろしが楽になる可能性があると答えたい。

さらに豪雪地帯ほど、ちょっとした晴れ間のうちに太陽光発電をしてバッテリーに蓄電し、その電気で積もる雪を解かすことを考えたいと、私なんか思う。たとえ冬の間は家庭用の電力を補えなくても、燃料代も人件費もいらない自動雪下ろし装置として使えれば、それはそれで大きなメリットがあるはずだ。(文末参照)

それから、日本の一戸建て家屋約2600万戸のうち、1000万戸は耐震工事をしなければ太陽光パネルは載せられないという、最近急に有名になったテーゼがある。だから、太陽光発電の飛躍的な普及は無理だというのである。

それを言い立てる人は、家というのは建てたら建てっぱなしで、人間は永遠に同じ家屋に住み続けるという、それこそ 「あり得ない前提」 でものを言っているように、私には聞こえる。実際には、家屋というのは改築したり補強したり、新築したりして住み続けるものなのである。

今現在、1000万戸の家屋が太陽光パネルを載せるのが無理だとしても、その数字は時間とともに減る。太陽光パネルが載らないような家ほど、おっつけ補強、改築、新築に迫られるのだから、それは当然だ。金がない家はどうするのかという問題だが、何らかの助成を得られなければ、いずれにしても居住自体が困難になって取り壊すしかなくなるだろう。

ちょっと余計なことかもしれないが、豪雪地帯の家は雪の重みに耐えるぐらいだから、太陽光パネル程度のものは乗っかるだろう。

次に日照時間の短い盆地や山間の集落はどうするのかという問題だが、盆地と山間しかない山梨県が、実は日照時間が日本で一番長いという統計がある。まさに谷間の集落で日照時間が極端に短いならば、それはそれで、ほかにもっと向いた方策があるだろう。何がなんでも太陽光発電でなければならないという理由はない。

コストの問題に関しては、今は確かに太陽光発電のコストは高い。だが、現在のコスト要因を固定的なものとして将来まで推し量るのは、それこそナンセンスである。新技術のコストは時間とともに下がるのが当然だ。逆に、化石燃料のコストは将来的には上昇する。それは確実だ。どっちを取るかである。

【追記】

太陽光パネルを雪下ろし不要の融雪装置として使うことに関しては、コメント欄に ぐう さんから貴重な情報をいただいた。既に研究開発が進んでいるようである。

(参照) http://www.sharp.co.jp/corporate/rd/21/pdf/86-11.pdf

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2011/06/18

是々非々ということ

「是々非々」 という言葉がある。『荀子』 に出てくる言葉で、「是を是とし非を非とする、これを智といい、是を非とし非を是とする、これを愚という」 というのがオリジナル (本当のほんまもんのオリジナルは当然漢文だが) だそうだ。

菅首相の 「脱原発」 発言を、原発容認派は 「単なる思いつき」 「根拠なし」 と批判し、反原発派の中にも 「どうせすぐに辞めるあの人が言ってるんでは、意味がない」 と批判する人が多い。これって要するに、「菅さんが嫌いだから、何を言っても反対する」 というお話に聞こえる。

昨日の記事でも書いたが、同じ 「単なる思いつき」 「根拠なし」 の数値目標でも、菅さん以外の人が言えばすんなり受け入れられることがある。そもそも大企業の掲げる数値目標なんか、実現性の裏付けなんてほとんどないのが多い。「裏付けは努力して後から付ける」 というのが、日本の正しい数値目標のあり方のようなのだ。

そんなような 「日本の正しい数値目標」 の属性を伴った発言でも、菅さんが言ったことだと、とたんに批判の的になる。

一方、左巻きの反原発運動家も、菅さんのいう 「脱原発」 ではダメみたいなのだ。同じようなことでも、「誰が言うか」 で判断されてしまう。まあ、それはそれでありがちなことで、実際に同じことでも A さんが言えば通るが、B さんが言ったんでは反発されるということがある。世の中とはそうしたものである。

しかし私は、どちらかと言えば 「人」 ではなく 「内容」 で判断したいのだ。「是々非々」 である。箸にも棒にもかからない人でも、時々はまともなことをいう。

それから関連事項として、最近の 「反原発」 は必ずしも 「左翼の金科玉条」 じゃないということを言いたい。ちょっと前までは私も、「反原発」 の立場を明らかにしたら、左翼と一緒にされるから嫌だなあと思っていた。福島以後になって、それを言っても左巻きと思われなくなったので、その点に限っては少し気が楽になった。

何しろ、いわゆる 「日の丸条例」 を仕切った大阪の橋下知事が 「反原発」 とまでは行かなくても、少なくとも 「脱原発」 みたいなのである。左翼でなくても脱原発を言い出せるんだから、少しはいい時代になったのかもしれない。昔だったら 「日の丸」 と 「脱原発」 はあり得ない組み合わせだった。

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2011/06/17

マス・ヒステリーよりは、少しは冷静に始まっていること

一昨日の記事 "「自然エネルギー比率 20%」 を巡る冒険" に、先輩の alex さんからお小言をいただいてしまった。菅首相の所行はほとんど指示しないけれども、「自然エネルギー推進」 だけは 「よくぞ言ってくれた」 と思っていると書いたところ、次のようなコメントをくださったのである。

みんな、彼 「個人の」 「根拠のない」 「言いっぱなし」 「思いつき」でしょ?
もうすぐ辞めざるを得ないでしょうけれど、誰が、彼のコミットメントを実行するんでしょうか?

それで私は、「別に菅さんの言ったことでなくても、誰の思いつきだろうが、全然構わないんです。なるようになっていけば」 というようなレスをしたところ、そういうスタンスがはっきり言って 「キライ」 と突き放されてしまったのである。う~ん、悲しいなあ。

私は前述の記事で、いわゆる 「目標」 なんていうのは、誰の思いつきであろうが関係なく、 「根拠のない」 「言いっぱなし」 みたいなものなのだと書いたのである。いちいち根拠を求めてから達成目標を掲げるなんてことは、日常的にもあまりない。達成目標なんて、元々そんなものなのだ。

ところがこと原発に関して言えば、政治家でそんな 「根拠のない」 「言いっぱなし」 のできる無鉄砲で無配慮な人は、菅さんぐらいのものなのである。ほかの政治家では、そんなぶちこわしなことは言えないし、普段は無茶苦茶な数字を部下に押しつけたがる産業界の重鎮たちも、今度ばかりは 「根拠がない」 と菅さんを批判している。

だから、「誰の思いつきだろうが全然構わない」 とはいえ、やっぱりそこは、菅さんしかそんな思いつきだけの発言はできないのだ。その辺のことは、日経ビジネスオンラインに小田島隆さんが 「卓袱台返して菅笠ひとり旅」 というタイトルで書いておられる通りである。

いやはや、それにしても、私の記事のわずか 2日後に、こんなぶっちゃけたレトリックの記事が出るとは思わなかった。私も相当ぶっちゃけているつもりだが、小田島氏には完全に負けると脱帽したのである。

で、小田島氏はこの記事を次のように締めくくっている。

 ニュークリアを分解して、ニューでクリアなエネルギーを作る。たしかに、お伽話じみている。このお伽話を実現するためには、石原さんの言う、「集団ヒステリー」(←地すべり的な世論の爆発)が必要なのかもしれない。
 面白そうだ。
 私は乗るつもりだ。

なかなか潔いことである。イタリアはさすがにその 「集団ヒステリー」 で無茶苦茶な一歩を踏み出してしまった。踏み出してしまったからには、何とかしなければならない。いくら根拠のないファンタジーでも、その気でやれば少しは前進するものなのだ。

ただ我が国では、卓袱台ひっくり返して無茶苦茶を言った菅さんは総理を辞める。かなりいろいろな策略を巡らせているようだが、フツーの常識では辞めざるを得ない。小泉さんは 「郵政改革」 のワン・イシューで大変な支持を得てしまったが、菅さんの場合は 「脱原発」 のワン・イシューぐらいでは、起死回生の支持率回復なんて不可能だろう。

私は菅さんの思いつきよりもむしろ、民間の風向きの方に期待している。民間企業というのは、なかなか大したものなのである。人間の心が原発から離れて自然エネルギーを求め始めているのを敏感に察知して、いろいろな研究開発をする気になり始めている。

その方が商売になる。商売にならなかったとしても、一時的にしろ株は上がる。ならば、やっちまうのだ。

というわけで、私は菅さんの思いつきだろうが、単なる 「マス・ヒステリー」 だろうが、発端は何でもいいのだけれど、要するに民間が新しい分野の研究開発を、恐る恐るではあるが、本格化し始めているのを好感していると、そういうわけなのである。

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2011/06/16

新潟の酒は旨い

思えば、近ごろ酒を飲みながらブログの更新をすることが滅多になくなっていた。というか、ほとんど酒を飲まない人になってしまっていた。

6~7年前は、しょっちゅう酒を飲みながら更新していたように思う。酒を飲まない日なんて、ほとんどなかった。

「週に一度は休肝日を作らなきゃなあ」なんて思いながら、それは全然叶わなかったのである。せいぜい、ブログ更新ができなくなるほどには飲むまいと思う程度だった。ところが、変われば変わるものである。近ごろでは週に一度も飲まないのが当たり前になってしまった。

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しかし今夜は飲んでいる。実は新潟県十日町に出張して来ていて、宿に帰る前についふらふらとスーパーに寄ったら、「越の寒中梅」の純米吟醸というのを見つけて、これまたついふらふらと買ってしまったのだ。

飲むのはブログ更新が終わってからにしようと思っていたが、さらにまた、ついふらふらと、飲んでしまったのである。さすがに旨い。

そして滅多に酒を飲まない日々になっているので、ちょっと飲むとアルコールの廻りが速い。あっという間に酔っ払ってしまった。

そんなわけで今夜は、新潟の酒はさすがに旨いという報告をしただけの記事になってしまうのである。

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2011/06/15

「自然エネルギー比率 20%」 を巡る冒険

ちょっと旧聞なのだが、G8 で菅首相が「2020年代の早い時期に自然エネルギー比率 20% を達成する」 と発表して、産業界から猛反発を浴びた。いわく 「数値に根拠が乏しい」 「実現性が薄い」 「思いつきでしかない」 などなど。

私はほかの多くの日本人同様、菅首相には批判的だが、この 「自然エネルギー比率 20% 」 発言には、むしろ好感を抱いている。「よくぞ言ってくれた」 というぐらいのものである。もしかして、菅さんでない別の人が言ったのなら、世の中でももっと冷静に受け止められていたかもしれない。

私がこの記事で言いたいのは、「数値に根拠がない」 と批判する産業界の重鎮の多くは、自分自身の会社に戻れば、根拠もへったくれもない、一見無理っぽい数値目標を現場に押しつけて、強く達成を求めているということである。自分がやっているのと同様なことを菅首相がやると、急に 「不可能」 と文句をいうところが、なかなかおもしろい。

重厚長大系産業の第一線で働く友人・知人たちも、口を揃えて 「根拠たっぷりで楽に達成できそうな数値を目標に掲げるなんて、我々の仕事ではあり得ないね」 と言っている。「初めは無理としか思えないような数値目標を設定して、それに向かって必死に努力するからこそ、これまでもいろいろな難題を解決してきたんだよ」 と。

考えてみれば、昭和 40年代から実施された自動車の排ガス規制にしても、当初は 「そんな無茶な数値は達成できるわけがない」 とか 「そんなことにコストをかけたら、国際競争力がなくなって、自動車産業はつぶれる」 とか、さんざんな言われ方をしたものだ。ところが、実際には見事に達成されて、自動車産業の国際競争力まで高まった。

省エネ技術や低コスト化の促進にしても、「これまでだって、雑巾をギリギリまで絞りきるようなことをやってきているんだから、これ以上の技術開発は困難」 と、常に言われていながら、結果的には年々進歩してきている。要は、決まった方向に向かってちゃんと努力する体制が作れるかどうかなのだ。

ところが自然エネルギー促進に関しては、重厚長大型産業ではなかなか 「ちゃんと努力できる体制」 を作りたくないみたいなのである。それを進展させると、世の中の仕組みが 「重厚長大」 でなくなってしまうから、自らの利益にならないと直感しているようなのだ。

とはいえ、世の中の趨勢がどうやらこれまでとは別のシステムを採用する方向に、徐々にではあるが向いているようなので、産業界としてもそれに適応せざるを得ない。何だかんだと文句を言いながらも、原子力で養われたハイテク・ノウハウを別の分野に適用していくといったようなことを模索し始めている。

世の中というのはこのようにして、「なるようになっていく」 ものなのかもしれない。

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2011/06/14

トヨタ流マーケティングの転機

MSN 産経 ニュースの 「トヨタ、SNSゲームのアイデア募集 クルマ離れ阻止に活用」 というニュースが、どうもよくわからない。見出しだけではわからないから本文をみると、こんな具合だ。

トヨタ自動車の子会社 「トヨタマーケティングジャパン」 (TMJ) は 3日、若者のクルマ離れに歯止めをかけるため、会員制交流サイト SNS 向けアプリなどを使ったアイデアを一般から募集すると発表した。

車と何らかの関係性を持たせたゲームなどの企画を PC 部門・スマートフォン部門・ケータイ部門で募集し、それぞれ表彰する。

ますますわからない。新聞業界では、記者自身があまりよくわかっていないことを、プレスリリース (報道用資料) の 「てにをは」 だけ変えて、一見もっともらしそうな記事にすることを 「ヨコタテ」 なんていうことがある。プレスリリースは大抵横書きなので、それを新聞記事用に縦書きにするだけという意味だ。

ところがこの件に関しては、記者だけでなく、発表した TMJ 側としても、あまりよくわかっていないんじゃないかという気がする。なんだかよくわからないけど、とにかくこれまでのやり方じゃダメだから、目新しいことを一発かましてみれば、何か新しいことが見えてくるかもしれないという程度のプロジェクトのような気がする。

TMJ の社長は 「アプリの提供で直接的に車を保有する人口が増えるとは期待していないが、車業界が気づかなかった発想、車の使い方が出てくれば、開発などに役立てたい」 と言っているらしい。このあたりからして、従来のモノ作りやマーケティングにおけるトヨタ型発想の完全な行き詰まりが露呈しているとしか思われない。

トヨタに限らず日本のメーカーは大衆向けのプライス・レンジで、付加価値満載のオーバースペック商品を提供することを得意としてきた。前世紀末までは、この戦略が功を奏して 「世界に冠たる日本の工業技術」 なんて言われたが、世紀が変わる頃になってパラダイム・シフトが生じた。

それまで日本が得意としてきた 「大衆向けのオーバースペック商品」 というレンジにズレが生じてきて、どうやら日本のメーカーの商品はビミョーに 「大衆向け」 じゃなくなってしまったのだ。

じゃあ、富裕層向けの高級品なのかといえば、そういうわけでもない。どうにも中途半端なのである。ちょっと前までの日本は、この大金持ちでも貧乏でもない 「中途半端な消費者」 の層が分厚くて、日本型中途半端商品の拡大を支えていたのだが、バブル崩壊以後、ようやく日本も世界標準並に、金持ちと貧乏人のギャップが顕在化してきた。

ということは、これまで分厚かった 「中途半端な消費者」 の層がいきなり薄くなってしまって、とくにトヨタみたいな中途半端向けのマーケティングをしてきたメーカーは、どっちを向いて仕事していいのかわからなくなってしまっているのだと思う。それで、本業の大衆向けも、新たなチャレンジのセレブ向け 「レクサス」 も、両方思うに任せなくなっている。

今となって思えば、トヨタは 「レクサス」 なんて始めるよりも、車の世界のユニクロというイメージのビジネスを始めればよかったのだ。トヨタならそれができたはずなのに、つい間違えて身分不相応のことをやってしまったのである。

今回のプロジェクトで、その 「車の世界のユニクロ」 的アイデアが出ることを期待する。ただ、トヨタの人たちにそれが理解できるかなあ。「天下のトヨタが、そんなチャチなことやれるか」 なんて思ってしまったら、もう永遠に浮かばれないんじゃなかろうか。

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2011/06/13

心の痛みは体の痛み

多くの病気がストレスによって引き起こされるというのは、今では医学の常識になりつつある。昔から 「病は気から」 といわれる通りなのだが、この諺は、これまで考えられていたよりもさらに真実に近いということが、最新の研究で明らかにされたのだそうだ。

CNN の記事に "To the brain, getting burned, getting dumped feel the same" (火傷も心の悩みも、脳には同じに感じられる) というのがある。初めの方を翻訳してみよう。

fMRI を使った最新の研究により、熱いコーヒーで火傷した時に活性化する脳のネットワークは、恋人にふられた時にも同じようにスイッチが入るということがわかった。

言い換えれば、脳は肉体的苦痛と精神的苦痛をきちんと区別しないということで、離別による心の痛みなどというのは、単なる喩え以上のものなのだ。

拒絶や感情的トラウマによる感覚は、繊維筋痛などの慢性的苦痛を伴う病気を進行させることがあるというのである。この研究を主導した  Ethan Kross 博士は、「患者が心の痛みにこだわっていると、自分の慢性的病気に悪影響を与える」 と語っている。

まさに 「病は気から」 という以上のもので、「心の痛みは体の痛み」 と言ってもいいぐらいのようなのだ。周囲を見回すと、こう言っちゃなんだが、過去の問題にいつまでもうじうじとこだわるタイプの人ほど、痛みを伴う慢性病を抱えていることが多いという印象がある。逆に、そんなことにこだわるほど暇じゃないという人は、あまり病気しない。

この記事では、慢性病の進行に関連する心の痛みの代表的なものは 「拒絶」 (rejection) によって生じるものとしている。つまり、冷たい態度は相手の心だけでなく、体をも傷つけてしまうようなのだ。ということは逆に、愛はすべてを癒すということもできる。心しておく必要がある。

私がかくまで健康でいられるのは、あっけらかんと大雑把な性格の賜物であったのだと、今わかった。そしてさらに、もうちょっと愛情が深ければ、周り中の人たちにも健康を分けてあげられるかもしれない。精進するとしよう。

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2011/06/12

iPad 2 使用レポート その2

先月 30日にゲットした iPad 2 の使用レポート第一弾は、先週の日曜日に書いたが、それから 1週間を経て、第二弾を書こうと思う。

まず全体的には 「かなり満足している」 と言っておこう。私は最近 Panasonic の Let's Note をメインマシンとしても使っていて、外出時にはバッグに入れて持ち歩いていた。しかしこれはいくら軽量とはいえ、長く持ち歩くとやはり重い。なにしろ本体だけでなく AC アダプターなどをセットにすると、結局 2kg 近い重さになる。

最近は車で出かける時には PC を積み込むが、電車利用の時はほとんど iPad だけを持ち歩いている。さすがに軽い。電車に乗っている間に作業するには、PC だと座席に座っていないと無理だが、iPad は立ちながらの作業もできる。この気軽さがいい。

もちろん、iPad ではできない作業もある。ウェブ・ページを作成してそれを FTP でサーバに登録したりするのは無理だ。しかし、専門的な作業以外なら大抵 iPad でもやれる。対応できないとすれば、縦書きの文書を読んだり書いたりすることぐらいだ。その意味では、マイクロソフトよりも Apple の方がアメリカ人度が高い。(だから表記も英文字にしておく)

普段の作業でちょっとした不便を感じるのは、長文の入力だ。私はタッチタイピング (いわゆるブラインドタッチ) に慣れてしまっているので、文字入力の際には指をキーに軽く載せていることが多い。ところが画面上のソフトウェア・キーボードは、ちょっと触っただけで反応してしまうのである。結果、ミスタイプが増える。

ミスタイプを減らすためには、指を常に浮かせておかなければならない。これは慣れ親しんだ感覚とかなり違うので、ちょっとしたストレスだ。結局、ブログ記事などを書くときには PC を起動させてしまうことになる。iPad で長文をストレスなく入力するには、新たな慣れが必要だろう。

出張先に iPad だけを持って行き、ホテルに戻ってレポートなどの長文を書く必要のある時には、外付けのワイヤレス・キーボードを使うという選択肢もある。キーボードとセットで バッグに入れても、PC より薄くて軽いだろう。ソフトウェア・キーボードに徹底的に慣れるのが先か、しびれを切らしてキーボードを買うのが先か、我ながら興味深い。

私にとってはココログの記事入力が毎日欠かせないから、重要案件である。ところが、ココログ記事入力は、iPad の純正ブラウザである Safari ではフル機能を使えない。画像の添付などが今イチ不便なのである。ココログ純正の iPhone アプリである 「ココログ」 でも、フル機能は使えない。この辺り、@nifty 側での対応を求めたい。

最後になってしまったが、iPad の操作は Windows の 「オブジェクト指向」 とは対極をなす。Windows では自分の作成した文書を開くのに、直接ファイルを選んでダブルクリックしてやれば、関連づけられたアプリケーションが自動で立ち上がる。それが Word ファイルなら自動的に Word が起動し、Excel ファイルなら Excel が起動する。

ところが iPad は Windows での エクスプローラーにあたる機能がない。画像を見るには画像アプリから、ワープロで作ったファイルを開くにはワープロから入らなければならない。画像ファイルをメールに添付したければ、まず画像を開いてから 「メールで送信」 を選択するという手順になる。

これは発想の転換だ。iPad の場合は (iPhone でもそうだが) 「添付ファイル」 (メールにファイルを添付する) というよりは、画面に表示中のファイルを送るために、メールを利用するという発想なのだ。メールで送る以外に、MobileMe (今秋以後は iCloud)に保存するのも同じ手順になる。人間の感覚としては、こっちの方が自然なのかもしれない。

まあ、操作感覚が 「パソコン操作」 よりもずっと直観に近い感覚でいけるので、PC が苦手なオジサンやオバサンにもオススメできる。ペーパードライバーが車の運転をするのは大変でも、原チャリならすぐに乗れるみたいな感覚なので、使いこなすにもハードルがものすごく低いだろう。

ただし、いくら簡単に使いこなせるといっても、ケータイ・メールもできないようなオジサンやオバサンでは、やっぱり無理だと思う。逆にいえば、ケータイ・メールができる人なら、比較的簡単に iPad を使いこなせるだろうということだ。

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2011/06/11

「見れることができます」 とか 「可能できます」 とか

最近ラジオを聞いていてすごく気になるのが、「聞けることができる」 とか 「見れることができる」 とか 「書けることができる」 とか、要するに可能を二重に表現する人がかなり多いことだ。

初めは単純な言い間違いで、当人も言ってしまってから 「やば! 公共の電波を使って変な言い方しちまったけど、まあ、ここはトボけておこう」 ぐらいに思っているに違いないと推察していたが、どうやら、そうでもないようなのだ。

というのは、同じような言い間違いをする人がかなり多いし、つい勢いで言ってしまったというよりは、ゆっくり言葉を選びながらこんな言い方をしてしまっているように聞こえることが、かなり頻繁にあるのだ。

野球解説の人なんか、結構平気で 「腰の回転やタメを意識して、初めて打てることができるんです」 なんて言う。ラジオだからわからないが、かなりのドヤ顔ってやつになってしまってるんじゃないかという雰囲気なのである。当人、案外ものすごく論理的な言い方をしているつもりなのかもしれない。

いや、野球解説だけでなく、いわゆる 「なんとか評論家」 とかいう類の人たちも、かなりこの手の妙な言い回しがお好きなようなのだ。もしかしたら、この言い方を連発する人って、日本語としておかしいんだということに気付いていないのかもしれない。それを思うとちょっとコワイ。

というわけで、つい思いあまって今月 2日に、そんなような tweet をした (参照) ところ、 さんが、次のようなレスをくださった。(参照

「可能できます」 なんて表現も検索するとたくさん出てくるので、言ってる人達は違和感はないんじゃないでしょうか。

あまりのことに、にわかには信じがたかったので、試しにググって見ると、なんとこれが本当のお話で、こんなにたくさん ヒットしてしまうのである。もっとも、検索結果のトップにランクされているのは、faint memory さんという方がブログで 「可能できます」 という妙な表現に疑問を呈しておられる記事 (参照) で、次のような文例が挙げられている。

  • 運が良ければ入手可能できます
  • 発行雑誌の全文検索が可能できます
  • 地デジチューナーに接続可能できるんですか?
  • 様々な用途に利用可能できる手ごろなサイズ。etc……

faint memory さんは、"もしかして 「可能できる」 を 「できる」 の強調表現として意図して使っていたりするのでしょうか" とおっしゃっているが、本当に意図して使っているのだとしたら、読んだり聞いたりする方はちょっと悲しくなってしまうのだがなあ。

それはそれとして、もしかして、 さん は、faint memory さん と同一人物? 違っていたらごめんなさい。

【平成 23年 6月 13日 追記】

Twitter 上での f_memo さんの tweet (参照) により、めでたく同一人物と判明した。ありがとうございました。

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2011/06/10

オーストラリア人の思い込み

親愛なる先輩の alex さんが、「虐殺者としてのオーストラリア人 アボリジニ カンガルー ラクダ」 というオーストラリア批判の記事を書いておられる。捕鯨問題で、環境テログループ 「シーシェパード」 に国内の港を使わせているオーストラリアが、アボリジニを虐殺した歴史をもち、カンガルーをむごたらしく殺し、ラクダ肉を食べようというキャンペーンを張っているというのである。

詳しくはリンク先の記事を読んでいただきたいが、私も過去に仕事関係でオーストラリア人とかなり密接に付き合った経験があるので、彼らの国民性みたいなものについては、その辺の日本人よりも理解しているつもりである。

とはいえ、何事も完全に理解するのは不可能だから、かなりのバイアスがあるのは当たり前で、要するに、私なりの偏見に満ちた理解だということをお断りした上で、「オーストラリア人はめちゃくちゃ大雑把で、自分の都合以外の客観的な理屈があるとは、発想すらできないところがある」 と、極論に近い印象を語ろうと思う。

私は 1990年代前半に、ウール関連の仕事をしていた。ウールといえばオーストラリアは最大の羊毛原産国で、とくに衣料用の原毛 (主に 「メリノ種」 という羊から取れる繊細な原毛) では、今でも多分、全世界の 80%以上を供給していると思う。

で、ウールの世界には今でも 「ウールマーク」 というのがあって、信頼のおける羊毛製品であるということを保証する建前になっている。当時はこのウールマークは、一定の品質基準を満たすメーカーは無料でライセンシーになり、自社製品に付けることができた。

ところが、このマークのスポンサーであるオーストラリアの羊毛公社 (当時) は、他国で取れた羊毛を使った製品まで 「ただ乗り」 的にウールマークを付けるのはけしからんといって、新しいキャンペーンに乗り出した。ちなみに羊毛公社というのは、日本で言えば農協みたいな存在だったと思ってもらえればいい。

新規に開始したのは、もしかしたら憶えている方もおいでと思う (テレビでもずいぶん CM を流したので) が、「メリノ・キャンペーン」 というものだった。メリノ種の羊のほとんどはオーストラリアで飼育されているから、「メリノ」 を強調すれば、自分たちのウールだけが売れると、単純に考えたようなのである。

私は当時、「何と馬鹿なことを」 と思った。元々、衣料用ウールの 80%以上はオーストラリア産のメリノ・ウールなのだから、「ウール」 とさえ言っておけば、歩留まり 8割以上で自分たちのウールを宣伝できたのに、その大切な財産をドブに捨てたのだ。

それまでの 「ウール・キャンペーン」 を継続していれば、ウールの高イメージを引き継げたのに、誰も知らない 「メリノ」 なんてものに多額のコストをかけてしまったので、消費者は 「 メリノって、何? 新しい繊維? ふぅん、ウールって、時代遅れなの?」 と思うばかりで、ウールのイメージを下げ、メリノというわけのわからない言葉のみを残す結果となった。

オーストラリアの農協もその愚かしさに気付いたみたいで、今では 「メリノ」 なんて言葉で宣伝しようとは誰も思わないが、当時は本気でやっていたのだ。

さらに当時、オーストラリアの羊毛市場には 「フロア・プライス」 というものがあった。羊毛の競売市場で一定の値段が付かなかったら、バイヤーには売らず、羊毛公社がその一定の値段で買い取ってしまうというのである。つまり、「こっちの指定する以上の高いお金を出さなきゃ、君たちには羊毛を売ってあげないよ」 という制度だ。

これはオーストラリアの羊飼育農家には、一時的にはありがたい制度である。市場で羊毛価格の相場が下がっても、農協みたいなところが一定以上の価格で買い取ってくれるのである。ウハウハではないか。農家は市場の需給を無視し、どんどん羊を増やして羊毛生産を拡大する。

こんな市場原理を無視したシステムが続くわけがない。市場の羊毛相場は 90年以後下がり続け、ということは、多くの原毛がバイヤーに買い取られることなく、農協みたいなところが馬鹿みたいな値段で買い取って、倉庫にしまいこむことになった。洋服の素材はウールばかりじゃないから、ウールがなくてもアパレル業界はそれほど困らないのである。

で、オーストラリアの農協の倉庫は一杯になり、買取資金も底を突き、ついにこのフロアプライス制度は廃止された。廃止される直前まで、フロアプライスは平均 800豪セント/kg だったのだが、廃止直後の実勢価格は 400豪セント台までさがった。つまり、オーストラリアの農協は実態の倍近い値段で原毛を買って、無駄に溜め込んでいたのである。

とまあ、ビジネス上でこんな馬鹿みたいな状況を目撃し、しかもその悪影響を私自身もかぶった経験があるものだから、オーストラリア人の思い込みによる暴走には付き合いきれないという印象を、今でももっているのである。

最後にもう一度お断りしておくが、これって、私のバイアスがかなり混じっていることは避けられないので、その辺はご理解いただきたい。

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2011/06/09

CO2 を分解する装置は、どうやら無理のようなのだ

先日電車の中で高校生の男の子たちが、「そんなに CO2 が増えて困るんなら、空気中の CO2 を取り入れて酸素と炭素に分解する装置を作りゃいんじゃね?」 「それ、発明したら、ノーベル賞もらえるかもしれないな」 なんて話をしているのを聞いた。

うぅん、それができたら素晴らしいことだけど、多分、できない相談なんじゃないかなあ。私はピュア文系で理数系に関しては徹底的にどんくさいんだけど、そのくらいの理屈までならわかるぞ。

もしも、CO2 を酸素と炭素に分解する技術が確立され、それをどんどん行う装置ができたとしても、その装置を動かすためにエネルギーを使うことになり、そのエネルギーを得るために酸素を消費して CO2 を排出することになるだろう。つまり、最大限の効率をもってしても 「行ってこいでおあいこ」 だ。

いや、おあいこで済むならそれでもいいが、多分エネルギー効率の問題で、分解する CO2 よりも排出する CO2 の方がずっと大きいだろう。さらに、空気中の CO2 は増え続けているとはいっても、大気中に占める割合は、通常 0.1%にも満たず、0.04%ぐらいといわれている。

空気中にその程度しか含まれていない CO2 を選り分けて取り出し、装置にかけるまでの準備工程で、かなりのエネルギーを使ってしまうだろう。ということは、CO2 を吸収して炭素と酸素に分解する装置を動かせば動かすほど、大気中の CO2 は意に反して増え続けることになる。

CO2 を分解するためには、CO2 を排出しない太陽光や風力などの自然エネルギーの電力を使えばいいじゃないかというかもしれないが、せっかく生産された貴重な自然エネルギー電力は、そんな非効率なことよりも、生活や生産的な仕事のために使いたいではないか。そっちの方の CO2 削減効果の方がずっと高いだろう。

つまり、機械の力で大気中の CO2 を減らすことは、当面無理なのだ。

してみると、植物というのは偉いものである。以前、著名な動物学者と話をした時、「動物学者は基本的に、植物学者にコンプレックスをもっている」 と聞いた。「植物の方が圧倒的に種類が多いし、地球上で太陽光と水と空気中の二酸化炭素を使って有機物を作ることができるのは植物だけで、動物はどうひっくりかえってもできない」 というのである。

なるほど。動物はすべて、植物のおかげで生きていられるのである。地球上でこのまま森林が減り続けたら、そのうち 「近頃何だかヘンだよね。すぐに息切れしちゃうし、いくら深呼吸しても、ちっともフレッシュな感じがしないよね」 なんて言い出すようになりかねない。

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2011/06/08

性の多様性についてのエピソード

先月 12日に 「クインシー・ジョーンズのスープ」 という記事を書いたところ、知る限り 2件の反応があった。1件はリアルでの知り合い Y さん (女性) で、実際に作ってみたのだそうである。「おいしかったですよ」 と言ってもらえたのでうれしい。

もう 1件は佐倉智美さんという方からの、ちょっと意表を突いた反応である。こちらは料理のレシピに関してではなく、私の記事のちょっとした表現から、ジェンダー問題に発展させてくれた。

彼女 (といっても、トランスジェンダーの方なので、戸籍上は男性のようなのだが) は、私の記事の以下の表現に、ちょっとしたこだわりを感じられた。

妻はどこでこの料理を覚えたのかというと、高校時代に彼女の親友から教わったのだという。

私は一時期、外資系の団体に勤務して、一日中英語のプレス・リリースを日本語に翻訳するという仕事をしていたことがあるからだと思うのだが、意識的、無意識的を問わず、時々妙に英語直訳調の文章を書いてしまうことがある。

上記の文にしても、フツーの日本語なら 「高校時代に親友から教わったのだという」 となるのだろうが、ほとんど無意識に "her close friend" の直訳調になって、 「彼女の親友から」 という表現にしてしまった。

この部分を佐倉さんは、これもまた彼女ならではのしっかりと 「性の多様性」 に則った無意識によるものだと思うのだが、当初は

「妻」 の学生時代の 「彼女」 ← だからかつては女性の恋人がいた
で、その当時付き合ってた 「彼女」 のそのまた 「親友」 から料理を教わった!

というように解釈されたのだそうだ。つまり、私の妻がバイセクシャルで、高校時代に付き合っていた同性の恋人を介して、その彼女の親友から料理を教わったのだと思ったのだそうである。なるほど、確かにそう読めないこともない。

で、佐倉さんはこの解釈を、ご自身が講師を勤める市民講座や大学の授業の場での 「頭の体操」 を期したワークとして、この文章を使うことを思いつかれたのだそうだ。おもしろい。さて、講座の参加者はこの解釈を素直に認めてくれるだろうか、あるいは反発してしまうだろうか。

佐倉さんはさっそく、今月 2日に帝塚山学院のジェンダー論の授業にゲスト出講した際に、冒頭の 「頭の体操」 の一環として使ってみた。この授業は 100名ほどの受講者がおり、主担の先生によると、そのうち 1割強が特に熱心な学生であるらしい。

まず、私のブログ記事の該当部分をプロジェクターで映し出し、前列の学生に軽く音読してもらった後に 「この 『彼女』 って誰?」 と質問したところ、 まず出てきたのは、やはり 「彼女」 = 「妻」 という常識的な回答だったそうである。ふぅん、案外つまらない結果だけれど、まあ、世の中ってそんなもんなんだろう。

ところがさらに突っついてみると、「親友」 のほうを深読みして、「恋人ではない男性かも!?」 という新解釈 (?) まで出てきたというのである。さらにいきなりのことで、ブログの筆者が 「庄内拓明」 という男であるという前提が与えられていなかったので、そもそも 「私」 と妻とがレスビアン夫婦と思われる可能性もあったようである。

意外なことに、佐倉さん的解釈 (「彼女」 = 「『妻』の学生時代の恋人」 説) は、ついに出てこなかったようで、佐倉さんが最後に種明かしをされたということだ。そして授業後の感想用紙には、次のような記述がみられたそうだ。

「当たり前と思っていた読み方が絶対ではないと気付いた」
「[男女]とその恋愛に囚われない者の見方が大切と思った」

うむ、そこに気付いてくれれば、この授業の意味があったというものだろう。世の中は多様な人がいるからおもしろい。「そりゃ、おかしい」 なんていうのは、それこそおかしいのである。

ちなみに、佐倉さんのサイトの記事を読ませていただくと、なぜか自分と共通したものを感じてしまう。ジェンダー的には、私はストレートな要素が 5割以上だと思うのだが、彼女のものの見方にとても共感してしまうところがあるのである。なぜか文体までちょっと似ていて、私がこのテーマについて書いたら、こんな文章になるだろうなあと思ってしまうこともある。

佐倉さんの家系を辿ると庄内地方出身のご先祖もいらっしゃるそうで、そのせいなんだろうか。いや、そればかりでもないと思うが。

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2011/06/07

Apple すごいじゃないか!

Apple が WWDC 2011 で、"Mac OS Lion" "iOS 5" "iCloud" という新しいコンセプトの発表をしたというニュースが入ってきた。それはちょっと、胸躍るものと言っていい気がする。

私は勤め人時代からこれまで 10年以上、MS-DOS から Windows 7 に至るまで、マイクロソフトの作った OS で PC を使い続けているが、心の奥でいつも 「自分は Mac ユーザーであるべきなのではなかったか?」 と思ってきた。 今となっては Mac ユーザーではないが、結構ヘビーな Apple ユーザーになってしまっているのだが。

一昨年の 8月に iPhone 3GS を買い、その年の冬には手書きの手帳を捨てた。そして昨年の 11月に iPhone をシャツのポケットに入れたまま洗濯機で洗ってお釈迦にし、iPhone 4 に買い換えた。この時、iTunes  と Moble Me の連携作業で、あっという間にカレンダーから連絡帳、音楽にいたるまで、データが復活してすぐに使い始められたことに感動した。

そして先月末に iPad 2 を買い、Windows PC を起動させている時間が従来の半分以下になった。これまでは外出時に Panasonic の Let's Note を持ち歩いていたが、今は iPad を 1枚持てばいい。なんて楽チンなんだ。PC はもう長文を書くときと、PC でなければこなせない専門的な作業に使うだけだ。

5年前の 11月に、"PC の時代は 2015年で終わり?" という記事を書いた。電車で見た「月間アスキー」 の吊り広告に、この文字が躍っていたのだ。この時は、それがどういうことなのか容易にイメージできなかったが、それは 2015年までなんか待たなくてよかった。

私は今年 1月に "「PC の時代」 の終わり" という記事を書いた。月間アスキーの予言したより 4年も前に、PC の時代は終わったようなのだ。時代の流れって、なんて速いんだ。

そして今月 1日、"「PC を諦めよう」 というのだが" という記事で、私は PC に悪戦苦闘している世のオバサンたちに、「PC なんてうっとうしいものを習得するのに余計な時間をつかうより、そんなもの、すっぱり諦めて、iPad を使いましょうよ」 と呼びかけていると書いた。

こう呼びかけるにあたって、一つ痛恨なのが 「そうは言っても、PC がまったく要らないってわけじゃないんです。最初のセットアップの時や、OS のバージョンアップ、バックアップの時だけは、PC につないであげないといけないんです」 と言わなければならないことだった。

しかし、それも必要なくなるらしい。今年秋以後にリリースされる iOS 5 は、PC につながなくても iPhone や iPad が独り立ちしていけるというのだ。そうなると、バックアップなどに Moble Me は必須になるんじゃないかと思ったが、実は iCloud という無料サービスが始まって、それもお任せになるというのである。これって、すごいことじゃなかろうか。

これからは、ちまちまとつまらない仕事をするときには Windows PC を使い、日常的には iPhone と iPad を使うというスタイルになりそうな気がする。そしてゆくゆくは PC も Mac になってしまうかもしれない。

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2011/06/06

汚泥処理が大きな問題になる

各地の下水処理場で処理した汚泥から高濃度の放射性物質が検出されて、問題になっている。普段はセメント原料などにリサイクル利用されているいるらしいが、こんなことになると引き取る業者もなく、溜まる一方だという。

先月 20日の記事で、放射性物質の溜まる 「ホットスポット」 があるという、mikio さんの情報を紹介した。それは、道路沿いの側溝の淀みに溜まった泥、窪地に吹き溜まった落ち葉、建物の軒下の雨だれが落ちる所、雨どいの水が流れ落ちる出口の直近などだそうだ。

そうしたところが放射能のホットスポットになるなら、そこからさらに下水に流れ込み、汚泥に凝縮された形で溜まるというのも当然だ。ある意味では、汚泥が放射性物質をかなり吸収してくれていると言ってもいい。そのせっかく吸収してくれた汚泥を埋め立てやリサイクルなどに使ったら、改めて世の中に放射性物質をばらまくことになる。

ここはしっかり安全な形で貯蔵しておくことが必要なのだろうが、後から後から出てきたのでは、貯蔵するスペースもなくなるだろう。元々原発というのは、廃棄物をずっと貯めつづけなければならないのである。それが今回の事故で、東日本の広い範囲で原発以外の場面で現出してしまったわけだ。

このブログにコメントを寄せてくれる常連のきっしーさんが、「原発はサブプライムローンのようなもの」 とおっしゃっているのは、こうした意味合いがある。表面的には経済的なメリットが大きいが、見えないところでひずみがたまり、ある日突然問題が弾ける。

空気中から降下する放射性物質は、事故直後の水素爆発でまき散らされたのが多いようで、今は減少傾向にあるというのがありがたいが、それでも地表での蓄積が問題だ。ある程度のところで見切りを付けて大々的に除染しなければ、学校や農業などで問題が広がるだろう。

いずれにしても、除染すればそれでおしまいというわけではなく、取り除いた土壌や汚泥の持って行き場を探すのが大問題になるだろう。うっとうしい話である。

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2011/06/05

iPad 2 使用レポート その1

iPad 2 をゲットした。先月の 30日の夕方にアキバのヨドバシカメラで予約して、ヨドバシ・ドット・コムの 「注文照会」 に注目していたら、6月 2日未明の段階で商品が確保できたことがわかった。ということは、注文してから 2日半で入手可能となったわけだ。1週間ぐらいかかると思っていたのだが、案外クイックである。

2日は一日中忙しくて、秋葉原まで行けなかったが、翌 3日は某ミーティングで都内に出たので、ついでに昼頃に秋葉原で途中下車し、受け取った。ヨドバシカメラの商品受け渡しコーナーの棚には、iPad のパッケージが結構どっさり積まれていたので、商品供給はかなり軌道に乗ってきたものと思われる。この分だと、来月頃には予約なしでも店頭で即日入手できるだろう。

昼頃に受け取って、ミーティング会場にちょっと早めに着き、ノート PC につなぐとほぼ自動的に設定が行われ、iPhone 4 との同期も問題なく終了して、30分もかからずに不自由なく使い始められる状態になった。ちなみに、私のゲットしたのは、Wifi 32GB モデル (3G回線なし) で、色はホワイトである。

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第一印象は、とてもコンパクトに感じられることだ。初代 iPad はやや大きく重く感じられたが、2代目の大きさは変わらず、ちょっと薄くなっただけなのに、印象としては数値以上に小さくなったような感じがする。

重量はたった 100g 軽くなっただけだが、やはりとても軽くなった気がする。そもそも、このくらいのサイズのデバイスで 100g 軽くするのは、技術力の賜物だと思う。そしてコンパクトな印象ではあるが、iPhone と比べれば圧倒的に画面が大きくきれいなので、視認性がいいし、目も疲れない。

起動は早い。メインスイッチを入れるとおなじみの白いリンゴのマークが出てきて、20秒ほどでロック画面になる。パスナンバーを入力すれば、即使い始められる。普段は電源オフにはしないから、画面下のホームボタンを押せば一瞬で起動する。個々のアプリの立ち上がりも一瞬で、ストレスがない。

入手してからまだ 3日目で、とことん使いこなしたわけではないが、かなり満足である。とくにありがたいのは、仕事で都内に出るときや出張のときなどに、ノート PC を持ち運ぶ必要がなくなったことだ。これだけコンパクトで薄いと、荷物が小さく軽くなってありがたい。

不満があるとすれば、iPhone 4 で作っていたユーザー辞書がインポートできないことだ。カレンダーや連絡先のアドレスブック、メール、Safari のブックマーク、メモ帳などはしっかりとインポートできたのだが、ユーザー辞書だけは無理みたいなのである。OS のアップデートで対応してもらいたいところである。

今回 3G 回線なしの Wifi モデルを購入したのは、移動中の気軽なインターネットへのアクセスは、iPhone 4 で十分だと思ったからである。Wifi 接続用には、3月に E-mobile の Pocket Wifi を購入済みなので、それを使う。これは PC 持参で移動したときにも使える。

もしあなたがスマートフォン・ユーザーでなかったら、3G 回線付きのモデルを買う方がいいだろう。その方が外出先でのインターネット接続のストレスがない。そして手持ちのガラケーは定額接続サービスを打ち切って、通話専門にすればコスト節約ができる。

ちなみに、外出先での充電は iPhone も iPad も同じケーブルを使えるので、両方のユーザーでもケーブルを 2種類持ち運ぶ必要がないのがありがたい。

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2011/06/04

日本の政治は真夏のスーツ姿と同じ厄介者

政治が悪いとおっさんは不平を言う。日本の夏にスーツとネクタイ姿は地獄だと、おっさんはちゃんとわかってる。それでも誰も大勢に逆らわないから、自分も逆らわない。だから何も変わらない。

おっさんたちは 「シンキロウの森じゃだめだ」 「何でも丸投げの小泉じゃだめだ」 「お坊ちゃんの安倍じゃだめだ」 「弱腰の福田じゃだめだ」 「漢字を読めない麻生じゃだめだ」 「鳩ポッポじゃだめだ」 「リーダーシップのない菅じゃだめだ」 と、少なくともこの 10年以上 (実際には何十年も) 文句を言い続けてきた。だが、日本の政治は何も変わらない。

「熱帯より熱い日本の夏に、どうしてスーツを着てネクタイを締めなきゃいけないんだ」 「省エネ省エネと言いながら、どうして暑苦しい格好をしなきゃいけないんだ」 とも、おっさんたちはずっと文句を言い続けてきた。

この点に関しては、私は20年前に自主的に通年でスーツとネクタイ姿から脱却し、夏はポロシャツにチノパン姿で通してきた。政治はなかなか変わらないが、自分が涼しい格好をするぐらいなら、すぐにでもできる。だが多くのおっさんたちは 「暑い暑い」 と文句を言いながらも、スーツとネクタイを捨てられずにいる。

思えば、日本の政治は真夏のスーツ姿と同じような厄介者である。暑苦しさとお寒い感じの両立感は、なかなかのもんだ。こんなにまで圧倒的に文句を言いながら、どうしていつまで経ってもそこから脱却できないのかと、不思議さが募るばかりだ。

都会のスーツを着ない層がちゃんと投票すれば、政治も少しは変わるのにと思う。

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2011/06/03

卒業式の 『君が代』 を起立して歌う件で

大阪で橋下府知事が 「君が代条例」 というやつを決めちゃおうとしているらしい。ふぅん、なんとも言いようのない話だなあ。

私はこれでも自分を愛国者なんじゃないかと思っている。天皇陛下を尊敬しているし、日の丸は単純明瞭で気持ちのいい国旗だと思うし、『君が代』 はとても深くてユニークな国歌だと思う。

とはいえ、卒業式で教師が国歌斉唱の時に起立しないのを 「条例に則って」 罰するというのは、なんだか気恥ずかしい気がする。国歌や国旗に関するマナーは、マナーに留めておけばいいんじゃないかなあ。起立しなかったら、思想心情的なものはあったにせよ、フツーには 「なんだかややこしい人」 と思われるだけで、それでいいと思う。

条例を作ってまで強制するのは、強制しなければ当たり前のことが行われないという事実に基づいている。ということは、かなりお恥ずかしいことを成文化してしまうことに他ならないのだと感じている。

この件で思い出すのは、中学校時代の Y という社会の教師だ。私が中学 3年の時の社会の授業が Y の担当だったのだが、この人、かなり熱烈な日教組らしくて、授業中も何かにつけて、いわゆる左翼的なことを吹き込もうとするのだった。

中学生の頃の私は政治的にはほとんど白紙みたいなものだったが、何しろ子どもの頃から決まり切ったことに反発するのが性分みたいなものだったから、この教師の言い草には特段の反感も抱かず聞いていた。

中学 3年の冬休みが開けて卒業式が近づいてきた頃、Y は、「国歌斉唱の時には、起立なんかしなくていい」 と言い始めた。「国家斉唱の時に起立しなければならないなんていう法律はない。だから、そのまま座っていればいいんだ」 というようなことを言うのである。

私は国旗や国歌に反発を感じているというわけではなかったのだが、「そうか、立たなくてもいいのか」 と、その時初めて意識したのである。みんなが当たり前みたいに何の考えもなく起立しているときに、自分だけ座っているというのは、なんだかアウトローみたいでカッコいいかもしれない。

卒業式当日になり、国家斉唱の段になって、司会の教師が 「全員起立」 と号令をかけた。私は今でもそうであるように頭の中が単純だから、「とはいえ、立たなくてもいいんだよな」 と思って、座ったままでいた。

当然 Y も立っていないんだろうと思って、起立した生徒たちの隙間から眺めた私は、自分の目を疑った。Y はいけしゃあしゃあと起立して、直立不動になっているのである。

「なんだよ、信念のないヤツだなあ! さんざん生徒を煽っておいて、自分は裏切って起立しちゃうのかよ!」

あっけにとられていると、隣の生徒が私の腕を引っ張って立たせようとする。ここで争ってもしょうがないし、あんな信念のないやつの言うことを真に受けたことになるのも嫌だから、遅ればせながら私も起立して、『君が代』 を歌った。このとき以来、私は日教組の教師の言うことをまともに信じないことに決めた。

『日の丸』 と 『君が代』 にどうしても反対なら、信念を貫き通せばいいじゃないか。そしてそれで処分されてもいいじゃないか。出世なんかできなくてもいいじゃないか。信念というのは、そういうもんだろうよ。

Y という教師は、その後しばらくしてどこだかの中学の教頭になったらしい。校長にまでなったかどうかは知らない。教頭になった Y は、きっと 国家斉唱のときにはきちんと起立するように、教師たちに求めていたことだろう。

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2011/06/02

鳩山さんがしゃしゃり出ると、いつも物事がズレる

ああ、日本の政治って、本当に変わらないのである。

今回の不信任案騒動、被災地が困ってるのに永田町がコップの中でけちな政争をして一体どうすんの? とむかついていたのだが、昨日あたりからは、ここまで来たらいっそ行くところまで行って、政界再編成まで突っ走ってくれればスッキリするからいいかと思っていた。

ところがまあ、「大山鳴動して鼠一匹」 という、いつものパターンで終わってしまったのである。今までのすったもんだは、一体何だったというのだ。

とにかく、「菅総理では被災地対策は一歩も進まない。もう、どもこもならんから、今すぐ辞めろ」 という勢いで迫っていた民主党反主流派の連中が、「一定のメドがついたら、若手に責任引き継いでもらう」 なんていう曖昧な一言で、かくまであっさりと矛を収めてしまったのには驚いた。あんたたち、一体、どういう人たちなの? てな感じである。

「あの人では被災地対策が進まない」 と言って退陣を求めたのに、「一定のメドがついたら辞める」 で納得してしまうのは、論理的には矛盾である。当人が 「辞める」 と言ったからには既にレイムダックには違いないが、菅さんの望む 「一定のメド」 とやらをさっさと付けさせるために、周りは心ならずも協力しなければいけなくなったじゃないか。こんな都合のいいレイムダック、初めて見た。

まあ、これはほとんどジョークなんだけど、 いつも最後に話した人と同意見になっちゃう鳩山さんが、いつものように丸め込まれて、「辞めるんなら、今すぐ辞めろ」 とはならずに、「あの人、自分で辞めるって言ったから、不信任案には同調しないでね」 と、さっさと呼びかけちゃったので、反主流派全体が腰砕けになったという側面はないのかね。

それで小沢さんまで欠席程度でお茶を濁さざるを得なかったとかだったりして。本当に、鳩山さんがしゃしゃり出ると、いつもいつも、いろんなことがズレまくるような気がするんだがなあ。

【追記】
後ろから 2番目のパラグラフ (棒線で消したとこ)、初めはジョークのつもりだったんだけど、その後の報道 (今頃になって鳩山さんが、総理は辞任時期についてウソを言ってると怒っているとか) を聞くにつれ、ジョークじゃ済まなかったのかと、我ながら驚いている。

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2011/06/01

「PC を諦めよう」 というのだが

いろいろなしがらみで、還暦を過ぎたおばあさんに近いおばさんたちに PC の使い方の指導をしなければならないことがある。あるいは、指導とまでいかなくても、PC の操作法を訊ねられることがあるのだけれど、こう言っちゃなんだが、訊ねられても困るというケースがほとんどだ。そもそも、一体何を聞かれているのかもわからないのである。

「○○さんからデジカメを送ってもらったんだけど、どうしたら受け取れるの?」 と、電話で聞かれたことがある。

「宅急便か何かで?」
「違うのよ、メールで送ってもらったのよ」
「メールで、デジカメを送ってもらった? あぁ、わかった。デジカメじゃなくて、デジカメで撮った写真を送ってもらったんでしょ」
「そうそう、写真を送ってもらったの。ごめんなさいね、そんな区別もつかないおばさんなもんだから、あなたも大変でしょう?」

はいはい、正直言って、いや、正直言うまでもなく大変である。本当に大変である。

「それなら簡単ですよ。メールを開けばいいんです」
「メールを開いても、肝腎の写真が見あたらないのよ」
「じゃあ、先方が添付し忘れたんでしょうから、もう一度送り直してくれるよう、頼んでみてください」
「どうしたら頼めるの?」
「もらったメールに 『写真が貼付されてないから、もう一度送ってください』 とか何とか、返信すればいいんです」
「どうすれば、返信できるの?」
「もらったメールをもう一度開いて、『返信』 ボタンを押せばいいんです」

(しばらくして)

「今、開いて見てるんだけど、どこにも 『返信』 ボタンってないのよね」
「えぇ? おかしいなあ、メーラーは何を使ってるんですか?」
「ごめんなさいね、メーラーって何?」
「普段、メールを出したり受け取ったりする時には、どんなアイコンをクリックしてるんですか?」
「えぇと、『いんたーねっと・えくすぷろーら』 っていうやつ」

ここでこちらは腰砕けになる。よ~く聞いてみると、彼女はメールを開いたのではなく、相手のブログを開いてみただけだったりするのである。

「いいですか? もらったメールを開くのと、その人のブログをのぞいて見るのとは、全然違うんです。メールを開いてみてください」
「あの人のメールは、いつも開いて見てるのよ」
「だぁからぁ、それはメールじゃなくて、ブログというものなんですぅ! いいですか? メール、ホームページとかブログとかじゃなく、あのお手紙みたいなやつ、そのお手紙みたいなメールを開いてみてください」
「あぁ、わかった、パソコンじゃなくてケータイを見ればいいのね」
「…… はい …… 多分、そういうことだと思いますよ」

ここまできて、ものすごい徒労感に襲われる。

ちょっと前までは、「私もパソコンぐらい使いたいから、教えてちょうだいね」 とオバサンたちに言われたら、「はい、いいですよ。パソコンなんて慣れれば簡単ですから、どんどん使いこなしてください」 と応えていたが、近頃はそんなことは到底言えなくなった。

「ウィンドウズ・ビスタになってから、画面が変わっちゃって全然わからなくなっちゃたのよ」 なんて言われて、何のことかとよく聞いてみると、Word 2007 になってからの UI の変化のことを言っているようなのである。この人、多分、Word 2003 を使っていた時だって、ほとんど分かっていなかったんだろう。

何度教えてあげても OS とアプリケーションの区別がつかず、ウェブページとメールがごっちゃになっていて、さらに、PC 起動時に入力するパスワードとメールを受信するときのパスワードとは別物なのだということも理解できず、ということは、わからなくなった時に質問しようにも、自分は何がわかっていないのかすらわからない。

この段階に来て、私は彼女らに、「もう、パソコンを使うなんて諦めましょ!」 と言っている。「こう言っちゃ恐縮だけど、もう、パソコン使うなんて、無理ですよ。いつまで経っても理解できないことに無駄な時間を費やすよりは、もうパソコンなんてスッパリと諦めて、iPad っていういいのがありますから、これからはそれを使ってください」

「あいぱっどって何?」 と聞かれたら、ポケットから iPhone を出してこう言う。「これのおっきなやつと思ってもらえばいいです。要するにケータイみたいなもんだから、簡単です。ケータイなら使えるでしょ」

「ケータイなら使えるかも。でも、それってドコモ?」
「いえ、ドコモじゃありません。ソフトバンク・モバイルです」
「あぁ、じゃ、ダメだ。私のケータイはドコモだから」

ああ、もう、本当に本当に疲れるのである。

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